☩「あなたを侮辱する者のために祈りなさい」教皇、年間第7主日・正午の祈りで

(2022.2.20  Vatican News staff reporter)

 教皇フランシスコは20日、年間第7主日の正午の祈りの説教で、イエスを模範にし、自分に誤った振る舞いをする人に、怒りや暴力でなく、親切で応えるように、と諭された。

 この日のミサで読まれた福音書の箇所(ルカ6章27-28節)を題材にされた教皇は、ここでイエスが弟子たちに示された人生の基本的な指針について注目された。そして、「この箇所で、主は、私たちにとっての”リトマス試験”となる『最も困難な状況』について言及されている、と指摘。そして、(注:私たちも含めた)弟子たちは「衝動や嫌悪に屈せず、先に、もっと先に進むように、求められているのです」と語られた。

 続いて、福音書で、イエスが「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい」と言われたことに言及。「ほかの頬をも向けなさい」という言葉に私たちが不当だと感じるであろうことに触れられた。

 教皇は「イエスが大祭司の前で不当な裁判にかけられている時に、大祭司のそばにいた下役から平手で打たれた時(ヨハネ福音書18章22節)、イエスは、『何か悪いことを私が言ったか。私が正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか』(同23節)と下役に説明を求めています」とされた。

 そのうえで、「『ほかの頬をも向ける』は、『黙って苦しみを受け、不正に屈する』ことを意味しません。イエスは自分を平手で打った下役に、「なぜ私を打つのか」と尋ねることで、不正な行為を非難されますが、怒りでも暴力でもなく、優しさをもってそうされるのです」と説かれた。

 

*善によって悪に打ち勝つ

 さらに教皇は、「イエスの忍耐強く、謙虚な振る舞いは、ご自身が受けられた平手打ちよりも強い対応です。『ほかの頬を向ける』のは、『敗者が引き下がる』のではありません。『内面に強い力を持つ、善によって悪に打ち勝つ』振る舞いです… イエスがなさった、『すべての復讐を拒む振る舞い』と同じ対応を、私たちの心の中に引き起こすのは、私たちに無償で与えられた、私たちにとって不相応な愛なのです」と強調された。

 そして、「自分がキリスト教徒であることを誇りにしている人たちが、他の人たちを敵と見なし、互いに戦おうと考えているのは、何と悲しいことでしょう」と嘆かれ、「誤った振る舞いをしている人たちのために祈り、私たちの心の中で働いてくださるように聖霊に願う」よう信徒たちに勧められ、「裁判を受けておられる間、耐え、謙虚に振る舞われたイエスに倣いましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2022年2月20日

☩「人類の戦争への執着は悲劇、恥ずべきことだ」ー東方教会省関係者たちとの会見で

教皇フランシスコと東方教会省関係者との出会い 2022年2月18日 バチカン宮殿教皇フランシスコと東方教会省関係者との出会い 2022年2月18日 バチカン宮殿  (Vatican Media)

 教皇はあいさつで、東方教会省の創設者である教皇ベネディクト15世(在位:1914-1922)の帰天から今年で100年を迎えることに言及。

 同教皇の回勅「デイ・プロヴィデンティス」を引用する形で、「イエス・キリストの教会は、ラテンでも、ギリシャでも、スラブでもなく、カトリックです。教会の子らの間にはいかなる分け隔てもなく、ラテン、ギリシャ、スラブ、そしてその他の国々の教会は、同じ重要性を持っています」と語られた。

 そして、「教皇ベネディクト15世が戦争を『無用の惨劇』と呼び、その野蛮さを非難されたにもかかわらず、第一次世界大戦に参戦する国々の責任者たちに聞き入られることはなかった。同じように、聖ヨハネ・パウロ2世がイラク戦争回避を訴えられましたが、当事者たちは顧みませんでした」と指摘。

 今も、シリア、イラク、エチオピアなど、各地で紛争が続き、「現在も、東欧にまで紛争の嵐が吹き、貧しい人々、無実の人々の心の叫びは置き去りにされています」と批判。「人類が戦争に執着していることは悲劇であり、恥ずべきことです。私たちは、このような振る舞いゆえに、神に赦しを祈らなければならなりません」と強く説かれた。

 教皇はさらに、様々な紛争や危機のために、多くのキリスト教徒が信仰の歴史ある土地を離れることを余儀なくされている現実にも触れられ、「祖国から各地に離散させられている人々の司牧に配慮し、様々な教会の伝統の豊さを尊重しつつ、調和ある一致を目指して欲しい」と総会参加者たちに求められた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月19日

☩「神に、司教に、同僚の司祭たちに、そして人々に親密であれ」教皇、司祭職に関する神学シンポジウムで

Pope Francis blesses participants of the Symposium on the PriesthoodPope Francis blesses participants of the Symposium on the Priesthood  (Vatican Media)

 さらに、「司祭職への召命を含むあらゆる召命には、神が私たちをどこに導いていくかを識別する洞察力への信頼がすることが求められます。そこで、多くの疑問と誘惑に直面している、今日の私たち司祭の生活にとって決定的なもの、司祭としての私たちを支える姿勢に焦点を当てたいと思います」と語られ、「司祭の生活の四本の柱」として、親密さの四つの形ー神との親密さ、司教との親密さ、同僚司祭との親密さ、そして”神の民”との親密さーを挙げられた。

 

*神との親密さ

 そして、教皇は、司祭たちには、何よりも、「神との親密さ」が求められている、とされた。

 それは「司祭としての使命を果たすために必要なすべての力を引き出すのを助けてくれるからです」とされ、「イエスに近づくことで、司祭たちは彼と共に、喜びと悲しみを経験します。それは、自分自身の力ではなく、イエスの力に頼っているからです。こうした親密さは、祈りと神について黙想することによって養われねばなりません。同時に、そうすることで、司祭たちを自分が担当する人々に近づけ、そのことが司祭たちを神に近づけるのです」と説かれた。

*司教との親密さ

 続いて、二つ目の柱である「司教との親密さ」について、「自分の上司である司教に近づくことは、耳を傾けることー他者への従順さの中で、他者との関係の中で、神の意志を確かめることーを意味します」とされた。そして、司教たちを「一致した教会を作り上げ、保つ絆」とし、彼らのために祈るよう促され、「私たちがこの絆を保つことができれば、私たちは道に沿ってしっかりと前に進みます」と言明。

*同僚の司祭たちとの親密さ

 三つ目の柱は、「同僚の司祭たちとの親密さ」だ。教皇は「兄弟同士の親密さは、交わりを基礎にします。この司祭の『友愛』には、『自分一人ではなく、他者と共に聖性を追求することを、意図的に選択する』ことが含まれます。それは、他者に対して心を開き、率直であることともに、謙虚であることをも意味します」とされる一方で、「他者と友愛を生きることの難しさ」を認めつつ、相互愛に基づいた友愛を高く評価した。

 これに関連して、教皇は、司祭の独身制の価値について言及され、「ラテン教会が保持している贈り物」とされつつ、「それは健全な関わり合いに根ざしたものでなければなりません」と語られた。

 

*人々との親密さ

 四つ目の柱、「人々との親密さ」ー司祭と神の聖なる民との関係ーについて、教皇は、「『人々との親密さ』は司祭にとって『義務』ではなく、『恵み』です。それゆえ、どの司祭にとっても相応しい場は、人々の中にあり、他者との親密な関係の中にあります」と語られた。

 ただし、「これが意味するのは、人々の”現実の生活”に関わる、ということで、人々の困難や悲惨さから自分の身を守ることではありません」と強調。「善き羊飼い」であるイエスのなさり方ー親密で、思いやり深く、優しい振る舞いーに倣うよう、司祭たちに求められた。

 また教皇は、多くの人々が、皆とつながっていながら「孤独」を感じる現代にあって、帰属意識を育むように司祭たちに促された。そして、羊飼いの祈りが育てられ、神の民の心の中で肉となるがゆえに、(司祭の)人々との親密さと神との親密さには結びつきがある、と改めて指摘された。

*重荷ではない、賜物だ

 講演の最後に教皇は、参加した司教たち、司祭たちに対して、「この四つの親密さを、自分はどのように実践しているのか」自問するように呼びかけられた。そして、次のように締めくくられた。

 「司祭の心は、親密さについて知っています。なぜなら、親密さのうち最重要なのは、主との関係だからです… 主が求められる親密さの形は、重荷を加えることではありません。私たちの召命を生き生きと実りあるものに保つために、与えてくださる賜物です。召命を果たそうとする熱意を高く評価し、再び燃え立たせる道を指し示す道標です。司祭の親密さは、思いやりと優しい愛をもって常に私たちのそばにおられる神ご自身の振る舞いの中にある親密さなのです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月18日

◎教皇連続講話「聖ヨセフに学ぶ」最終回「『教会の守護者』であることの意味は」

Pope Francis at the General Audience

(2022.2.16 Vatican News  Francesca Merlo )

   教皇フランシスコは16日、水曜恒例の一般謁見の中で「聖ヨセフに学ぶ」をテーマとする講話をお続けになり、ヨセフを「他者を思いやる人」として語られた。

 教皇はこの日の講話でまず、「私が続けているこの講話は、福者ピオ9世が聖ヨセフをカトリック教会の守護者としてから150年を記念する2020年に、私が出した使徒的書簡『Patris corde (With a Father’s Heart=父の心をもって)』を補完するもの」と前置き。

 そのうえで、「では、聖ヨセフが『教会の守護者』とは何を意味するのでしょうか」と、会衆に問いかけられ、「それについては、福音書が私たちに最も正しい解釈を提供してくれます」説かれ、次のように語られた。

 「ヨセフが中心的役割を果たすどの物語も… 福音書は、ヨセフは御子イエスとその母を連れ、神が命じられたことをしている、と書いている。二人を守るためにせねばならないことを、常にしているのです」。

 

 *バチカン放送による講話の要旨以下の通り(編集「カトリック・あい」)

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 この回で、聖ヨセフをめぐる一連の講話を終了したいと思います。これまでの一連の講話は、福者ピオ9世による聖ヨセフの「カトリック教会の保護者」宣言から150年を機会に記した使徒的書簡「Patris corde」を補うものでしたが、この「カトリック教会の守護者」というタイトルはどのような意味を持つのでしょうか。

 この問いにおいても、私たちにより正しい理解の鍵を与えてくれるのは福音書です。福音書は、ヨセフが中心的役割を果たしたすべての出来事の終わりに、彼が「幼子とその母」を預かり、神が命ずるとおりにしたことを記している(参照 マタイ1,24; 2,14.21)。これは、ヨセフがイエスとマリアを守る使命を負っていたことを強調するものです。実際、イエスとマリアは私たちの信仰の最も大切な宝である(使徒的書簡「Patris corde」5項5)。

 神の救いのご計画において、御子と御母を引き離すことはできません。マリアは信仰の巡礼を歩み、御子との一致を十字架に至るまで忠実に守り続けました。

 イエスと、マリア、ヨセフは、ある意味で、教会の始原の核です。か弱い姿でこの世においでになった神の御子は、保護と世話を必要としていた。神はヨセフを信頼された。ヨセフはマリアの夫としてマリアを愛し尊重し、常にマリアと幼子のために配慮しました。

 この意味で、聖ヨセフこそ教会の保護者と言わざるを得ません。なぜなら教会は歴史におけるキリストの神秘体の延長であり、同時に教会の母性においてマリアの母性が暗示されているからです。ヨセフが教会を守り続けることで、御子とその母を守り続けるように、私たちも教会を愛し続けながら、御子と御母を愛し続けます。

 この幼子は、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25,40)とやがて言うお方です。それゆえに、すべての飢え、渇いた人、寄留者、衣服のない人、病者、牢にいる人は、ヨセフが世話をする「幼子」にほかなりません。

 こうしたことから、聖ヨセフは、すべての貧しい人、亡命者、苦しむ人、また臨終の床にある人の保護者と呼ばれるのです。私たちも「幼子とその母」という大切なものを「守る」ことを通し、秘跡と神の民を愛し、貧しい人や私たちの小教区を愛することをヨセフから学ばましょう。

 今、教会は批判される時代にあります。その批判の中で、「言動の不一致」や「罪」が強調されています。教会の言動不一致や罪とは、実は私たちの「言動不一致」であり、「罪」なのです。

 教会とは「神の慈しみと出会う罪人たちの群れ」です。私たちは心から教会を愛しているでしょうか。自問しましょう。「愛だけが完全に真理を語る」こと、「悪いことは、悪い」と言うこと、「善を認める」ことを可能にしてくれる、教会の中にある聖性は、まさにイエスとマリアから来るものです。

 人生や共同体の試練の時、聖ヨセフの取次ぎを祈りましょう。私たちの過ちがつまずきとなる場所で、真理を行い、赦しを乞い、謙虚に再出発する勇気を聖ヨセフに祈りましょう。迫害が福音の告知を妨げる場所で、福音の愛のために横暴と苦しみに耐える力を聖ヨセフに願いましょう。物資や人材が不足し、貧困が広がる場所で、特に私たちが、貧しく疎外された人々に奉仕するよう召されている時、御摂理があるように、と聖ヨセフに祈りましょう。

 一体、どれほどの聖人たちが聖ヨセフに祈ってきたことでしょう。教会の歴史の中で、いかに多くの人たちが、聖ヨセフの中に保護者であり父である姿を見出したことでしょう。

 これらの人々に倣い、私たちも聖ヨセフに祈り、特に苦しみと試練の中にある教会を託しましょう。以下は、使徒的書簡「Patris corde」の末尾に記した祈りです。

 贖い主の保護者、
おとめマリアの浄配よ。
神はあなたに御子を託され、
マリアはあなたを信頼し、
キリストはあなたと共に大きくなりました。
幸いなるヨセフよ、
私たちにも父としての姿を示し、
人生の歩みを導いてください。
私たちに恵みと慈しみと勇気を得させ、
あらゆる悪からお守りください。
アーメン。

2022年2月16日

☩「イエスの弟子たちは”貧しい”がゆえに幸せ」ー年間第六主日の正午の祈り

(2022.2.13 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは13日、年間第六主日の正午の祈りでの説教で、この日のミサで読まれた福音の箇所(ルカ6章20-23節)を取り上げ、ここでイエスが語られている”至福の教え”にキリスト教徒の真髄が要約されており、「イエスの弟子たちは、恵みを授かった、それは彼らが貧しいからです」と説かれた。

 説教で教皇はまず、この”至福の教え”を説かれた時、イエスは大勢の群衆に囲まれていたが、「弟子たちを見て」話されたことに注目され、「この教えが、彼らが”弟子であること”を定義するものだったので、そのようにされたのです」と指摘。

 「この教えは、一見しておかしな内容のようで、弟子でない人にはほとんど理解できない。しかし、私たちも、イエスの弟子としてどのようにあるべきか自問すれば、答えはまさに”至福の教え”にあることが分かります」と説かれた。

*貧しく、祝福され、謙虚

 続いて、この教えの内容に入り、最初の言葉、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」に注目され、「イエスは人々について、二つのことを言われますー『祝福されていて、貧しいこと』、そして『貧しいために、祝福されていること』です」とされたうえで、「ここで『貧しい』が意味するのは、お金やその他の物を持っていないことではなく、私たちの暮らし、被造物、兄弟姉妹など、神が日々くださる賜物に、私たちの喜びを見い出すこと」と語られた。

 そして、「このような『貧しさ』は、私たちが持っているものを『神の論理に従って、無償で』と他の人々と分かち合うように、私たちに促しています… 弟子たる者は、謙虚で、偏見や柔軟性の欠如からはほど遠く、開かれているのです」と説かれた。

 

*至福のパラドックス

 教皇は、先週の主日のミサで読まれた福音書の箇所ー不漁で一夜を過ごした聖ペテロがイエスの言葉に信頼して網を下ろし、舟いっぱいの魚が獲れた奇跡ーを思い起こされ、「ペトロは、すべてを捨てて、従順であることを示し、イエスの弟子になりました。しかし、自分の考えや自分の生活への保障に執着する人は、イエスに心から従うのが難しいと感じる… 一部の人々は、イエスに耳を傾けるかもしれませんが、結局は”至福の教え”を受け入れられず、不満と悲しみで終わります」と述べられた。

*頑なさの鎖を解き放つ

 また教皇は”至福の教え”は、「貧しい人々、多くのものが欠乏している人々、そしてそのことを自覚している人々は、祝福されている、つまり幸せだ、と宣言します」とされ、「弟子たちは、自分自身に疑問を投げかける方法、日々、謙虚に神を求める方法を知っています。そうすることで、弟子たちは現実を掘り下げ、その豊かさと複雑さを把握することができる」と指摘。

 「キリストの弟子たちは、挑戦を受け入れ、神の論理に入るために、骨の折れる旅を進んでします… 主は、私たちを自己中心の奴隷の状態から解放することで、私たちがかけていた鍵を壊し、私たちの頑なさを解き、真の幸せへ私たちの心を開いてくださいます」と説かれた。

 

*キリストの弟子の喜び

 説教の最後に、教皇は信徒たちに、「私は、弟子としてすべきことを喜びを持ってしようとしているか、それとも、自分の硬直的な考え方を持ち続けるのを望んでいるのかーを自問するように」と促され、さらに、「私たちは、”至福の教え”のパラドックスに心を開きますか、それとも自分自身の考えの中にとどまるのでしょうか」と問いかけられた。

 そして、「喜びが、イエスの弟子の真のしるし」であることを改めて思い起こし、次の祈りで説教を締めくくられた。

 「主の最初の弟子である聖母マリアが、開かれた、喜びにあふれた弟子たちとして私たちが生きるのを、助けてくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月13日

☩「あらゆる努力を政治指導者たちに求める」教皇、改めて”ウクライナ”の平和解決を訴え

Russian troops carry out military drills in BelarusRussian troops carry out military drills in Belarus  (AFP or licensors)

(2022.2.13 Vatican News  By Devin Watkins)

  ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の危険が高まる中で、教皇フランシスコは13日、年間第六主日正午の祈りの中で、欧米はじめ世界の指導者たちに対して、平和的解決への努力を改めて訴えられた。

 教皇は、現在のウクライナを巡る緊張の高まりを「非常に心配している」とされ、危機回避に聖母マリアの執り成しを願うとともに、平和実現のためのあらゆる努力を重ねるよう、政治指導者たちに強く求められた。

 そして、ウクライナとその周りの地域に平和がもたらせるように、黙祷するように、正午の祈りに参加した信徒たちに勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月13日

☩「『無関心の文化』が医療格差を生んでいる」ー教皇、「世界病者の日」にメッセージ

教皇フランシスコ ローマの小児科専門病院訪問で 2013年12月教皇フランシスコ ローマの小児科専門病院訪問で 2013年12月 

 カトリック教会は毎年、ルルドの聖母の日の2月11日に「世界病者の日」を記念しており、今回で30回目となる。教皇フランシスコは、前日10日に教皇庁人間開発省主催で開かれたインターネット会議にメッセージを送られ、教会、そして社会の中で、苦しむ人の傍に愛をもって寄り添うすべての人々に感謝を述べられた。

 教皇は、「病気の経験は、私たちに自分の脆さを感じさせるとともに、他者の助けが必要なことを認識させ、人生の意味を異なる角度から考えさせますが、その答えはすぐには見つからないこともあります」とされたうえで、「聖ヨハネ・パウロ2世が自身の個人的な経験から、苦しみのキリスト教的な意味を追求する道に人々を招いたこと」を思い起こされ、「その道は、自分の苦しみに押し潰されることなく、自分をより大きな愛へと開くものとなります」と語られた。

 そして、「人がキリストの苦しみを分かち合う者となるとすれば、それはキリストがご自身の苦しみを人に開かれ、その贖いの苦しみにおいて、すべての人の苦しみを分かち合われたからです。人間は信仰を通して、キリストの贖いの苦しみを発見しつつ、同時に、信仰を通して、新しい内容と意味で豊かにされた自分の苦しみを再発見するのです」という聖ヨハネ・パウロ2世の言葉(1984年 使徒的書簡「サルヴィフィチ・ドローリス − 苦しみのキリスト教的意味 −」)を引用された。

 また教皇は、「一人ひとりの病人の尊厳と脆さを決して忘れないように。体、精神、愛情、自由、意志、霊的生活といった幅広い観点からのケアに配慮するように」と願われ、「体は救われても、人間性を失うようなことがあってはなりません… 病人に尽くした聖人たちは、師イエスの教えに常に従い、体と魂の傷を癒やし、肉体的・霊的な回復の両方のために祈り行動したのです」と説かれた。

 さらに、「現代世界で広がっている”個人主義”と”他者に対する無関心”が、消費主義的な幸福を追い求める社会と行き過ぎた自由経済の中で拡大され、結果として、医療分野での不平等、ー高度医療を受けられる人々と、基本医療を受けることさえ難しい人々との格差ーが生じています」と指摘。「この”社会的ウイルス”に打ち勝つ薬は、『皆が唯一の父なる神の子たちとして平等な存在だ』という認識に基づく、”兄弟愛の文化”にほかならなりません」と強調された。

 メッセージの終わりに教皇は、日々病いにある人々に寄り添うすべての人々、家族と友人、医師、看護師、薬剤師、医療技術者・従事者、また司祭や修道者、ボランティアらに心からの感謝を述べられ、「教会は、『人類の善きサマリア人』であるイエスに従い、常に苦しむ人々のために奉仕し、特に病者のために尽くしてきました… 最も貧しい病人たちのために献身する宣教師たちや、医療事業を始めた数多くの聖人たちを思いつつ、これからも人間の統合的な癒やしのための召命と使命のカリスマを新たに、苦しむ人々に寄り添い続けてください」と励まされた。

 そして、教皇は世界中の病いにある人々、特に孤独な人々、十分な医療を受けられずにいる人々を聖母の保護に託して祈り、すべての人に祝福をおくられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年2月11日

☩「戦争は”狂気”。対話による危機克服を」教皇、ウクライナ和平を改めて訴え

Troops in UkraineTroops in Ukraine 

    ロシアが軍事攻勢を高め、ウクライナ情勢が緊張を続けているが、教皇フランシスコは9日の水曜恒例一般謁見で、「戦争は”狂気”です」とされ、ウクライナを巡る軍事紛争を回避、危機を克服するために、欧米諸国とロシアなど関係国の対話の努力を重ねて訴えられた。

 教皇は、その中で、まず、世界の指導者たちはウクライナ危機回避に全力を尽くすように願って提唱された1月26日の「平和のための祈りの日」に参加した世界のすべての人々、教会共同体に感謝を述べられた。

 そのうえで、「私たちは、(ウクライナを巡る)の緊張と戦争への脅威が、真剣な対話を通じて克服されること、そしてノルマンディー形式の話し合いもこの目的に貢献する可能性についても、平和の神に懇願し続けます。 忘れないでください。戦争は狂気です」と訴えられた。

(以下、翻訳中)

Diplomatic efforts

Tensions between Russia and Ukraine have been ongoing for years.

Most recently, Russia began moving troops and military equipment near its border with Ukraine late last year, raising concerns of a potential invasion.

In the latest developments, diplomatic efforts have been gathering pace in a bid to defuse the situation.

Following talks with President Vladimir Putin, French President Emmanuel Macron said on Tuesday he believed steps can be taken to de-escalate the crisis and called on all sides to stay calm.

Both Putin and Ukrainian President Volodymyr Zelenskiy had told him they were committed to the principles of a 2014 peace agreement, he said, adding that this deal, known as the Minsk accords, offered a path to resolving their ongoing disputes.

Meeting German Chancellor Olaf Scholz later in Berlin, both Macron and the chancellor said, “Our common goal is to prevent a war in Europe.”

Macron and Scholz also met in Berlin with Polish President Andrzej Duda. The French presidency said after the talks the three leaders expressed their joint support for Ukrainian sovereignty.

Threatened Sanctions

The United States and European Union have threatened Russia with sanctions if it attacks Ukraine. However, Moscow has largely dismissed new sanctions as an empty threat.

U.S. President Joe Biden warned on Monday that if Russia invaded Ukraine, “there will be no longer Nord Stream 2,” referring to a newly built, as yet unopened gas pipeline to Germany.

2022年2月10日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑪「復活の信仰は、恐れず死と向き合うのを助けてくれる」

Pope Francis at the General Audience Pope Francis at the General Audience   (Vatican Media)

(2022.2.9 Vatican News By Benedict Mayaki, SJ)

   教皇フランシスコは9日の水曜恒例の一般謁見で、「聖ヨセフについて」の講話をお続けになり、今回は、「良き死の守護聖人」である聖ヨセフをテーマに取り上げ、「キリスト教の信仰は、死への恐れを煽りません… キリスト教徒に、復活への信仰をもって、私たちが死と向き合い、それに立ち向かうのを助けてくれます」と語られた。

 講話で教皇は、「良き死の守護聖人」としての聖ヨセフに常に備わっていた特別の献身ー彼が聖母とイエスの助けを得て亡くなった、との考えから生まれた献身ーを考察。

*聖ヨセフを通して、マリア、イエスへ

 教皇は、1世紀前の教皇ベネディクト15世が「ヨセフを通して私たちは直接マリアに行き、マリアを通してすべての神聖さの起源であるイエスに行く」と書かれたことに言及され、「ベネディクト15世は、聖ヨセフにならって深い信仰を実践するように、信徒たちに強く勧められ、聖ヨセフが『死にゆく人たちの最も力のある守護者』と考えられたがゆえに、死にゆく者のために聖ヨセフに嘆願する目的で設立された多くの信心会ー『 Good Death』『Transit of Saint Joseph』そして『for the Dying”』というような名を冠した会ーを奨励することに関心を持たれたのです」と指摘。

 

*私たちの死との関係は『現在』にある

 続けて、「私たちの死との関係は、『過去』ではなく、常に『現在』にあるものですが、人々の中には、多分、この言葉とテーマは『過去の遺産』であると考える人もいます」とされた教皇は、さらに「いわゆる”心地よい文化”は死の現実を視界から外そうとしますが、新型コロナウイルスの世界的大感染は、『愛する人々がそばにいてくれることもなく多くの人が命を落としていく』という、死を受け入れがたいものとする、衝撃的な仕方で死の現実を人々に見つめさせています」と語られた。

 そして、「私たちはあらゆる方法で、『自分が有限の存在だ』という考えを追い払おうと試み、『自分たちは死の力を取り除き、恐怖を払拭することができる』と信じるように自分自身を欺こうとしますが、 キリスト教の信仰は、死への恐れを取り除くのではなく、私たちが死に立ち向かうのを助けるものなのです」と説かれた。

 

*復活への信仰を通して死に向き合う

 また、「死の神秘を照らす真の光は、キリストの復活から来るのですから、私たちが恐れに圧倒されずに死の深淵に立ち向かえるのは、復活への信仰を通してのみです… キリストの奥義によって悟りを開き、死について考えることは、新鮮な目をもって人生のすべてを見るのに役立ちます」とされ、「霊柩車の後ろに引っ越しトラックが付いてくることは決してありません。いつの時か死ぬのであれば、ものをため込むのは無意味です。ため込む必要があるのは、愛徳の業、分かち合う能力です。助けが必要な人々に無関心であり続けることではありません」と強調。

 さらに、「死は泥棒のようにやって来る、と福音は告げています。それは、私たちが考えねばならない出来事であり、それがやって来る前に、私たちは選択をせねばなりません… 兄弟姉妹や友人と喧嘩することに意味があるでしょうか。他人に腹を立てる意味があるでしょうか。死を前に、多くの問題は大したものではなくなります。和解し、恨みや後悔なしに死を迎えるのは、よいことです」と付け加えられた。

 

*キリスト教徒が考えるべき「死の質」

 教皇はキリスト教徒が「死の質」に関連して考えるべきこととして二つの示された。一つは、私たちの死は避けられない、それゆえ、病人を治すために人間的に可能な措置を尽くしたうえで死が避けられないなら、過度な延命措置は倫理的なものではなくなる、ということ(「カトリック教会のカテキズム」2278項参照)。

 もう一つは、いわゆる「緩和ケア」を通じて医学が提供するすべての支援に感謝する必要があるが、これを「容認しがたい安楽死につながる措置」と混同しないように注意せねばなりません」と指摘。さらに、「私たちは、死に向かう人々に寄り添わねばなりませんが、意図的に死に至らせたり、自殺幇助を助長したりしてはならない」と強調され、「すべての人、特に弱者、高齢者、病人の世話と治療を受ける権利を優先すべきです」と述べられた。

 とくに、高齢者について、「経済的な理由などで、”計画的”に死を早めることは、人道的でも、キリスト教的でもありません」と言明。「人類の宝のようにいたわれねばならない。私たちより先に道を切り開き、多くの素晴らしいもの、記憶、知恵を残してくれる方々です。高齢者に愛情をもって接することは、子どもたちに優しく接することと同じ希望を抱かされるもの。人の命の始まりと終わりは、常に神秘であり、尊重され、寄り添われ、ケアされ、愛されるべきものです」と訴えられた。

 そして、「生きることー死ぬことではないーは権利であり、歓迎されねばならない。管理されてはなりません… この倫理原則はキリスト教徒や信者だけでなく、すべての人に適用されます」と強調された。

*死の神秘を生きる助けを聖ヨセフに祈ろう

 講話の最後に教皇は、「私たちが死の神秘を可能な限り好ましい形で生きることが出来るよう、聖ヨセフが助けてくださるように」と懇願され、「それは、キリスト教徒にとって、良い死は、私たちの人生の最後の瞬間にさえも、そばに来てくださる神の憐れみを経験することだからです」と説かれた。そして、臨終の床にある人たち、喪に服している家族たちのために、「アヴェ・マリア」の祈りを唱えるように、一般謁見の参加者たちに勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年2月9日

☩「あらゆる搾取の現実を見つめ、全力を持って対抗しよう」ー人身取引反対の祈りの日に

2月8日に記念された「人身取引反対のための祈りと考察の日」のポスター(イタリア語版)2月8日に記念された「人身取引反対のための祈りと考察の日」のポスター

 この祈りと考察の日を機会に、「強制結婚や、家庭内あるいは労働上の隷属を含む、あらゆる形の搾取を受けている女性と少女たちの状態を心に留め、無数の女性たちが毎年人身取引の犠牲になっている現実を見つめるように」と世界の信徒たちに促された。

 また教皇は「すべての女性、少女たちが受けた苦しみは、キリストの体、人類、私たち自身に刻まれた深い傷です」と強調。「人権が、多様性とすべての人間の尊厳の尊重のうちに、特に基本的権利を侵害された人々へのいたわりを重視するものとして宣言されるよう、闘わねばなりません」と訴えられた。

 教皇は、聖ジュゼッピーナ・バキータの生涯は、「神が一人ひとりに与える癒しによって、私たちが変えられてこそ、人生の変容が可能になる」ということを教えている、と指摘。

 そして、「神の慈しみと愛による癒しは、私たちを深く変え、それによって私たちも兄弟姉妹を受け入れることができるようになる」とされ、「人身取引反対のための祈りと考察の日」を通して、「癒しの経済」を育て、「人身取引のあらゆる搾取に全力をもって対抗しましょう」と世界の人々に呼びかけられた。

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 聖ジュゼッピーナ・バキータ(1868-1947)は、スーダンに生まれ、幼少時に誘拐されて奴隷として売られ、耐えがたい苦難を体験した。16歳の時、イタリア領事の家に引き取られ、やがて領事の友人一家に託されて、イタリアに渡った。ベネチアでカノッサ修道女会と出会い、洗礼を受け、やがて同会の修道女として愛徳にあふれる奉献生活をおくった。2000年10月1日に列聖

(編集「カトリック・あい」)

 

 

2022年2月9日

☩ 「戦争は、すべてを破壊に導く、神の創造の業への反逆」(VN)

Pope Francis appears on the television show "Che tempo che fa," broadcast on Italian network Rai 3.Pope Francis appears on the television show “Che tempo che fa,” broadcast on Italian network Rai 3. 

(2022.2.6 Vatican News Salvatore Cernuzio)

「戦争は自己矛盾です」ー教皇フランシスコは5日夜の、イタリアのテレビ司会者ファビオ・ファジオの番組Che tempo chefaにご自宅の聖マリアの館から参加され、戦争、移民・難民、被造物である地球の環境保護、親と子の関係、悪と苦しみ、祈り、教会の未来、友人の必要性など、さまざまな問題について質問に答えられた。

*移民・難民の悲劇は”無関心の文化”のしるし

    特に欧州では中東やアフリカから紛争や飢餓を逃れてくる移民・難民が大きな問題であり続けており、最近でも、ギリシャとトルコの国境で12人の難民が凍え死ぬという悲劇があった。

   教皇は、「この問題は”無関心の文化”のしるしであり、優先順位の問題でもありますー戦争が第一、そこに暮らしている人々はその次になっている」とされた。

   そして、イエメンを例に挙げ、「イエメンの人々はどれくらい戦争に苦しんでいるでしょうか。そして私たちは、イエメンの子供たちについてどれくらい話題にしてきたでしょうか。何年もの間、問題の解決策はありませんでした。子供、移民・難民、貧しい人々、飢えている人々を助けようとする人々はいますが、優先されているのが戦争、武器輸出・売買です。武器を買わなければ、その分のお金で、1年間、無料で全世界のこうした人々に食糧と教育を与えることができる、ということを考えてください」と訴えられた。

   さらに、教皇は、海岸で亡くなっていたシリア人の少年、アラン・クルディと、「私たちがその名を知らない、寒さの中で毎日、命を落としている数多くの子供たち」を思い浮かべ、「それでも、戦争は依然として高い優先順位に置かれています。私たちは目の当たりにしているのは、今日、最も重要なのは戦争ーイデオロギーの戦い、権力の戦い、商いの戦い、そして極めて多くの兵器工場ーであり、そのために経済が動員されている、という現実です」と指摘された。

*戦争は「破壊のメカニズム」を働かせること

   関連して、ロシア軍による侵攻の危機が強まっているウクライナ問題について聞かれた教皇は、この恐ろしい現実の起源を、旧約聖書『創世記』第4章に登場するカインとアベルの物語、同じく11章に描かれたバベルの塔の物語に辿られた。

   そして、「カインとアベルの兄弟の戦いは、神が男女を創造した直後に起きました。バベルの塔(神の意向に逆らい、実現不可能な天にも届く塔を作ろうとして、破壊されてしまった)もそうですが、そこには、神の創造の業への”反逆”があるように思います。それが戦争が常に『破壊』である理由です。土地を耕し、子供を育て、家族を養い、社会を発展させるー戦争をすることはそれを破壊することです。破壊のメカニズムです」と強く批判された。

*被造物へのいたわり

 教皇は、このことは「地球の破壊」にも当てはまる、とされ、被造物をいたわることの必要性を改めて強調された。そして、アマゾンにおける自然破壊、森林破壊、酸素の減少、気候変動の問題を列挙され、「生物多様性の死」のリスク、「母なる地球を殺す」リスクを指摘された。リスクに対応する具体的な例として、イタリア海のアドリア海沿岸のサンベネデット・デル・トロントの漁師たちの活動を紹介し、「彼らは、海からすべての廃棄物を取り除くために行動を起こし、1年間で約300万トンのプラスチックを回収しました。私たちは母なる地球の世話をしなければならないのです」と訴えられた。

 

*人に対するいたわり

 また、こうしたいたわりの心、振る舞いは、それは社会的観点からも欠けているようだ、とし、「私たちが日々経験しているのは、『いじめ』に見られるような、『社会的攻撃性』の問題です。インターネットなどで人々が密接に結びついているにもかかわらず、信じられないほどの孤独感にさいなまれる若者がいます」と指摘。

 「そうした若者の親たちとも話したことがありますが、親と子の関係は一言で言えば『親密さ』です。若い夫婦と話す時、私はいつも『あなたたちは、自分の子供たちと遊んでいますか』と聞きます。ある夫婦は確かに、子供たちと一緒に生活していますが、父親は『私が仕事に出る時、子供たちはまだ眠っており、夜、帰宅した時には、もう眠っています』と言うことでした」と語られ、「それは子供たちが、親から離される残酷な社会です」とされた。

 さらに、親たちが子供たちと遊び、子供たちや、彼らの話すこと、憶測におびえたりしないこと、思春期の年長の子供たちの側にして、失敗した時に、父親、母親として声をかけることの重要性も指摘された。

*世界と教会の未来

 世界と教会の未来について聞かれた教皇は、まず世界の未来について、「経済と選択の中心に人間がいる。それが、回勅『Fratelli tutti(兄弟の皆さん)』で予見した世界の未来。その実現が、私と同じ理想を持つ世界の多くの指導者たちと共有している優先事項です」とされたうえで、「だが、理想とされる諸事項は、政治的、社会的な調整で、国際政治の場でも激しく衝突し、善意が働くのを止めてしまいます。社会や人々、そして、責任ある役割の人々に圧力をかける“影”です。ですから、(注:好ましい未来の実現に向けて前に進むために数多くの交渉が必要なのです」と強調された。

 教会の将来について、教皇フランシスコは、1975年に教皇パウロ6世が使徒的勧告『Evangelii Nuntiandi(福音宣教)』を出され、この世界を福音の精神によって「福音化する」ことを訴えられたことを思い起こされ、「この使徒的勧告は2,013年に私が出した使徒的勧告『福音の喜び』(Evangelii Gaudium)の着想の源ー”旅する教会”です」とされた。

 そのうえで、「現代の教会が抱える最大の悪、最も大きなものは、”霊的な世俗化”です。これが、教会の逸脱である聖職者主義をもたらしています」とし、「あらゆる種類の硬直化の下には常に腐敗があります」として、硬直化した聖職者主義を強く批判。今の教会にある醜さの中に、福音に取って代わる「硬直的な、イデオロギー的に硬直した姿勢がある」とも指摘された。

 また司牧上の問題では、「ペラギウス主義とグノーシス主義の古い考え方、2つだけについて述べたい」とされた。そして、「ペラギウス主義は、自分の力で前に進めると信じる考もの」だが、「実際は、教会は、神の力、神の憐れみ、聖霊の力で前進できるのです」と語られ、「グノーシス主義は一種の神秘主義、神のいない、空の霊性」と表現され、「キリストの肉がなければ、理解はなく、救いもありません。私たちは、もう一度、『みことばが肉となった』という信仰の原点に戻らなねばなりません。教会の未来は、この十字架の驚くべき真実、みことばが肉となったことに、あるのです」と説かれた。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*以上の他の教皇の発言以下の通り

(2022.2.7 バチカン放送)

*見て見ないふり、メディアの責任

 学校や大学に行き、仕事に就ける社会がある一方で、子どもたちが亡くなり、移民が溺死し、不正が横行する社会がある、と世界の分裂を見つめた教皇は、こうした現実を前にして最も良くない誘惑は「目を逸らすこと、見ないふりをすること」と指摘。メディアはそれを伝えはするが、距離を置く態度をとり、悲劇を嘆いても、また何事もなかったかのように戻ってしまう、と述べられた。

*コロナ禍での医療関係者の努力を讃える

 教皇は、苦しむ人々を見るだけでは足りない、その苦しみに「耳を傾け、触れる」ことが必要と強調。こうした中、新型コロナ大感染の中で人々の苦しみに触れ、病者のかたわらに残ることを選んだ医療関係者たちを称えられた。

 教皇はアマゾンの森林破壊や各地の環境危機をめぐり、「母なる大地」を守る必要を改めて繰り返し、自然をいたわることを教育で学ばなければならない、と話した。

 

*「いじめ」は、家庭や地域社会での陰口から

 また、いじめの現象に見られるように、社会が攻撃的になっていることに対し、教皇は、その破壊的攻撃性はごく小さなことから始まっている、と述べ、その原因の一つとして、家庭や生活圏における言葉や陰口の影響を挙げられた。そして、互いを破壊し合わないためには、陰口を拒否し、言いたいことは言葉を呑むか、直接、「その人の顔を見つめて話す勇気」が必要、と述べた。

*自由、罪と赦し

 自由と罪の赦しというテーマをめぐり、教皇は、「自由は神の賜物であるが、それによって人間は悪を行う可能性もある」「神は私たちを自由な状態に置かれ、私たちは選択の責任を負っているが、時には誤った選択をすることもある」と説明。では神の慈しみと人々の赦しに値しない人間はいるか、という問いに、教皇は「赦される可能性を持つことは、人間の一つの権利です」と説かれた。

 もし赦しを乞うならば、私たちは皆、赦される権利を持っており、それは神の本質から生まれる権利である、と教皇は述べ、社会に対し償うべき負い目のある者は、その責任を果たした上で、赦しを願うことができる、と話された。

 教皇はこの対談で祈りの大切さを説くと共に、ご自分のためにも人々の祈りを願われた。

 

 

2022年2月7日

☩「イエスと共に人生の”海”に出て、“漁”をしよう」ー年間第5主日の正午の祈りで

File Photo: Pope during his Sunday Angelus File Photo: Pope during his Sunday Angelus   (ANSA)

 

*空っぽの舟ー私たちの無力の象徴

 続いて教皇は、一晩中、漁をしたものの、一匹もつれず、空っぽのまま戻って来た、シモンの空っぽの舟は「私たちの無力の象徴であり、イエスが御言葉を宣べ伝える”説教壇”です」とされ、「イエスが好まれるのは、私たちの隙間にお入りになり、その空間を埋めること。私たちの貧しさを”利用”して主の豊かさを、私たちの悲惨さ”利用”して、慈しみを表明されるのです」と強調。

 さらに、「神は、”クルーズ船”にお乗りになることを望んでおられません。私たちが、歓迎するなら、貧弱で粗雑な舟で十分なのです」とされ、問題は「私たちが自分の生活の中で持っている”小さなもの”を、神が利用できるか、どうか、ということ」と説かれた。

 そして、「自分は罪人だから価値が無いのだ」と思うのは言い訳だ、とされ、「神は、親密さの神です。私たちに完璧であることを求めておられません。歓迎しておられるのです。私たちにこう言われますー「そのままの姿で生きなさい」と。

 ルカ福音書の箇所に戻られた教皇は、「主はシモン・ペトロに、ご自分を彼の舟に乗せて、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになります。漁に適した時間ではありませんでしたが、ペトロはイエスを信頼し、頼みを受け入れます」とされた。

*失望に屈してはならない

 さらに、「ペトロは、自分のもっている漁師の経験・知識ではなく、イエスの新しさを信頼したのです。それは、私たちにとっても同じです。私たちが、主を自分の舟に迎え入れれば、舟を海に漕ぎ出せます。イエスと共に、恐れることなく、人生の”海”を進むことができます」と説かれた。

 説教の最後に、教皇は、「私たちが”海”で何も獲れなくても、失望したり、諦めたりしないように。私たちには、私生活だけでなく、教会生活や社会生活で、素晴らしい、勇敢な行為が可能です」と信徒たちを励まされ、「さあ、イエスの頼みを受け入れましょう。悲観論や不信感を不入り払い、イエスと一緒に”海”に出ましょう!」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月6日

☩「無関心を捨て、友愛の道を共に歩もう」ー教皇が 国連「人類友愛国際デーにメッセージ

(2022.2.4 バチカン放送)

 今年で二回目となる国連の「人類友愛国際デー」の4日、教皇フランシスコが、ドバイ国際博覧会会場で開かれた記念の会議にビデオ・メッセージを寄せられた。

 メッセージの冒頭で、3年前、アブダビで「世界平和のための人類の友愛」と題する文書に共に署名したアル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師、このテーマに取り組むアブダビのムハンマド・ビン・ザーイド皇太子、国連関係者はじめ人類の友愛を推進するすべての人々に挨拶をおくられた。

 そして「友愛は、苦しむ人や恵まれない人が疎外されたり、忘れられることなく、唯一の人類家族の一員として受け入れられ支えられるために、人民間の基礎にあるべき本質的で普遍的な価値の一つ」とされ、「私たちは兄弟です」と強調。「友愛の思いを互いに分かち合うことにおいて、皆が、持続可能な発展・寛容・一体性・相互理解・連帯を励ます平和の文化の推進者にならねばなりません」と語られた。

 教皇は、今年の「人類友愛国際デー」のテーマである「同じ空の下に」に触れつつ、「どこでどのように生活しているか、肌の色、宗教、社会的階層、性別や年齢、健康や経済状態にかかわらず、私たちは皆、同じ空の下で生きています」とし、「新型コロナの世界的大感染が明らかにしたように、私たちは一人だけで救われることはできないのです」と訴えられた。

 さらに、「神の名のもとに同じ空の下で暮らす私たちは、神に創られたものとして、互いを兄弟姉妹と認めると同時に、人々の眼差しと祈りを天に向けるのを助ける役割を負っています…天に眼差しを上げましょう。なぜなら、誠実な心で神を礼拝する人は、隣人をも愛するからです」と説かれた。

 そして、「今日こそ、信仰を持つ人、すべての善意の人が共に歩み、私たちの多様性の中の一致を讃え、『友愛の時代が来た』ことを社会に告げるために、互いに助け合う時」とされたうえで、「今は無関心の時代ではありません。友愛がなければ、すべては崩れます」と強調。

 「友愛の道は長く険しいが、それは人類を救う”錨(いかり)”なのです… 「多くの不穏なしるしと、闇の時代、紛争の論理に対し、互いの個性を尊重した、受け入れの態度、共通の歩みを促す友愛のしるしをもって対抗しましょう」とアピールされた。

 最後に教皇は、「調和と平和のうちに生きることは可能だ」との確信をもって働く人々、友愛の歩みに加わる人々、平和のために、また貧しい人、弱い立場の人の求めに応える努力をしているすべての人々に感謝を表され、多様性の調和と互いの個性の尊重のうちに、平和と正義を作り出す者となるために、「皆が兄弟として、共に並んで歩むことができるように」と願われ、「この友愛の道を進みましょう」と会議の出席者、そして世界の全ての人々に呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月5日

☩「多くの兄弟姉妹の苦しみに目をそらすな」教皇、ミャンマーの和平実現改めて呼びかけ

(2022.2.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見で、国軍によるクーデターから1年を経てなお多くの国民が悲嘆の底にあるミャンマー情勢を注視、紛争当事者や世界の指導者たちに対して、和平実現への努力を改めて求めた。

 「この一年間、ミャンマーで繰り返される流血の暴力を、苦しみをもって見守ってきました」と述べた教皇は、同国の司教たちと心を合わせ、「当事者間の和解のために働きかけて欲しい」と訴えられ、「多くの兄弟姉妹の苦しみに、目をそらしてはなりません」とされたうえで、「苦しみを生きる人々のために慰めを祈り、平和のために皆が努力するよう神に願いましょう」と世界の信徒たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月2日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑩「使徒信条の『聖徒の交わり…を信じます』を考える」

Pope Francis at the weekly General AudiencePope Francis at the weekly General Audience  (Vatican Media)

 

  教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見の講話で、「聖徒の交わり」について考察され、「教会のすべてのメンバーは、キリストにおいて互いに密接につながっている」と語られた。

そして、最初に、「私たちは、使徒信条で、『聖徒の交わり… を信じます』と言います。『聖徒の交わり』とは何でしょう。私は子供のころ、『ああ、聖人たちは聖体拝領をする、と言うことです』とよく答えていました。私たちは、自分が言っていることが分からない…。では、『聖徒の交わり』とは何でしょう?」と問いかけられた。

「それは、『聖体を拝領している聖人たち』の意味ではありません。意味は他にあります… その意味は、『神の愛の表現』です。聖徒への信心の形の中には、キリスト教よりも『異教』の考え方に由来しているように見えるものがあります」と指摘。

そして、「キリスト教の信仰が、『異教』と違うのは、人物や偶像ではなく、神のみに信頼を置くところです」とされたうえで、「聖徒の執り成し、あるいはそれ以上に聖母マリアの執り成しに全てを委ねる時でさえも、私たちの信頼は、キリストに対してのみ、価値があるのです」と強調され、さらに、「聖人たちが奇跡を起こすのではない。彼らは、神の恵みが働く器に過ぎません… 聖人たちは私たちのために祈る仲介者であり、主は聖人たちを通して、私たちに恵みを与えてくださるのです」と付け加えられた。

*教会は「救済された罪人たちの共同体」 また教皇*は、「カトリック教会のカテキズムによれば、『教会とは、すべての聖徒たちの集まりに他ならない』(946項)のであり、教会が『救われた罪人の共同体』であることを意味します」と語られた。

 さらに、「私たちの神聖さは、『悲惨さの中で私たちを愛し、助け出すことで、私たちを聖別するキリスト』に現れた、『神の愛』の結晶。聖パウロが指摘しているように、私たちは『キリストの体であり、一人ひとりはその部分です。1つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ』(コリントの信徒への手紙1・12章26‐27節)のです」と説かれ、「聖徒の交わりは、地上と天国の信徒の共同体をまとめています」と付け加えられた。

*聖人たちへの信心とは、神とと共にある兄弟姉妹に語りかけること

 続いて教皇は、聖人たちへの信心を取り上げ、「人生を通して私たちを助けることのできる信仰の中で、私たちの先祖との友情を築くことができます」とされ、「私たちが信心と呼んでいるものは、私たちを結びつける絆で愛を表現する方法です…そして、特に私たちが困難に遭い、助けが必要な時、いつでも友達に頼ることができるのを、私たちは皆、知っています」と語られた。

 「教会は、共同体を導いてもらうために聖徒、とくに神がご自分の一人息子を託された聖母マリアと聖ヨセフに、目を向けてきました。守護の聖人である男女の聖人が、私たちがいただいているその名ゆえに、私たちが所属する教会ゆえに、私たちが生きている場ゆえに… 私たちにそばにいてくれるのを感じるのは、『聖徒の交わり』のおかげです」とされ、これが、「私たちの人生の決定的な瞬間に彼らに目を向けるよう、私たちを強く促す信頼なのです」。

 さらに「聖人たちへの信心は、魔術や迷信ではなく、神と共にあり、正しく聖なる生活を送っている兄弟姉妹にひたすら語りかけること」と述べられた。

*聖ヨセフへの祈り

 講話の最後に、教皇は、これまで40年以上にわたって毎日唱えてこられた聖ヨセフへの祈りを、信徒たちとともに唱えられた。

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栄光輝く総大司教聖ヨセフ 不可能を可能とする力を持つ方

私が苦悩と困難に出会う時、助けに来てください

深刻で厄介な状況にある私を あなたの保護のもとにおいてください

あなたに託し 幸せな結果がもたらせるように

私の愛する父、私の信頼はすべて あなたにあります

あなたに求める助けが 無駄にならないようにしてください

あなたは イエスとマリアと共に すべてをおできになります

あなたの徳が その力と同じように 偉大であることをお示しください  アーメン

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月2日