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読者の声」への34件のフィードバック

  1.  シノドス関連など日本のカトリック教会のために必要な情報が提供されて有り難く思っております。

     さて、トップページの、2024年最初の「教皇の意向: 多様性という賜物のために」に記載されている、「カトリック教会には多様な儀式(典礼様式)の伝統があることを、聖霊の導きによって気づくことができますように」を、どれだけの日本のカトリック信徒が理解できるのでしょうか?
     「カトリック教会」というのはすなわちラテン典礼カトリック教会だという誤解の中にある人がほとんどではないでしょうか?
     ウクライナには、ラテン典礼カトリック教会よりも、ビザンティン典礼様式の「ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会」のほうが圧倒的に多数であることを、どれだけの人が理解できているのでしょうか?
     実は日本のカトリック教会は、カトリック教会の真の姿を、実はまだ知らないのではないでしょうか?

  2. コラムにて「信仰は隣人愛と分離できない」との一文で思い出した実体験を分かち合わせていただきます。
    待降節主日の非常に寒い朝、教会塀のそばで一人の男性ホームレスが生ごみ袋から残飯を手づかみで口に運んでおりました。友人と相談し熱いお茶を届ける準備をすると、その場におられた他の信徒らから「関わらないで」とお願いされたのです。もうすぐミサだから、今ホームレス男性が教会に来ると対応できないという理由でした。
    その数週間後の夜半ミサ直前、今度は身なりの良い盲目の老男性が「初めて教会に来た」と言って聖堂受付に来られました。ある信徒はミサの説明をし、ある信徒は寄り添い、手を取って席に誘導し、対応した信徒だけでなく男性の来訪を知った皆が自然と思いやりや気配り、喜びにおいて「一致」したような感覚を体験しました。この日の夜半ミサの荘厳さと温かさの実感を、私は生涯忘れることはないでしょう。
    コラムで紹介された昔話の「善良な人、欲深い人」にふれた時、自分はここまで欲深くないぞ、これは他人事だ、という思いになっている自分に気がついたのですが、その両方を併せ持っているというのが私達一人一人とその集まりである共同体の現実ではないでしょうか。ご紹介させて頂いた二つの体験談のどちらの時も司祭の意向を伺う時間は全く無く、その場の信徒らの意志が現実となりました。ホームレスの男性に対しては、一人の信徒の独断によって熱いお茶と食べ物が手渡されました。その信徒は「何十年も毎週必ずミサに与っていようとも、主の教えを実践出来なければキリストを信じる者として非常に生ぬるいのではないか」という強い思いがあったのです。
    確かに、もし実践出来なければ神からの教えであっても意味をなしません。現代世界は戦争や気候危機など多くの問題を抱え、さらに教会共同体の様々な問題も意識されており、個人では何もできないという無力感に襲われがちです。ですが、霊性の表現に向かう一人一人の動き、それがどうして小さなものでありえましょうか。教皇フランシスコも「キリスト教徒の生活は、霊的な闘いを恵みの瞬間に変える機会に満ちている」と私達を鼓舞されました。自分の置かれた所で花開いて香り満ちてゆく道。皆でそのような道を選びとっていけますように。

    •  読ませて頂きました。
      男性ホームレスの件、もしもその時のミサの福音で、「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、……」(マタイ25.31-)が朗読されていたら皮肉ですね。その男性ホームレスの方が洗礼を受けた方ではないという思い込みは私たちの中にありがちです。
       私たちは、一人の人間のいのちのなかで、神がおられる、ということを本気で信じているのでしょうか、それとも「単なるたとえ」として受けいれているのでしょうか。その違いによって、「神を礼拝する」行動に違いが出てくるのは必然なのだろうと思います。

  3. ふくにゃんさん
    読ませて頂きました。ミサ前なので「関わらないで」の言葉は衝撃でした。とは言え、御言葉を聴いている者であっても悲しいかなそれが現実かとも感じています。マタイ25.31〜46を読みました。キリスト者とはどのように生きるのか、そして神はわたし達に何を望んでおられるのか! イエスの生き方に倣いなさいと問われているのではないでしょうか。
     生ゴミを口にしていたホームレスさんに、イエスを重ねて見ることのできるキリスト者に、私たちはならなければとの強い思いがあります。
     ミサの意味をキリスト者は、特に深く考えなければなりませんよね。

  4. ふくにゃんさん
    読ませて頂きました。ミサ前なので「関わらないで」の言葉は衝撃でした。とは言え、御言葉を聴いている者であっても悲しいかなそれが現実かとも感じています。マタイ25.31〜46を読みました。キリスト者とはどのように生きるのか、そして神はわたし達に何を望んでおられるのか! イエスの生き方に倣いなさいと問われているのではないでしょうか。
     生ゴミを口にしていたホームレスさんに、イエスを重ねて見ることのできるキリスト者に、私たちはならなければとの強い思いがあります。
     ミサの意味をキリスト者は、特に深く考えなければなりませんよね。

  5. 日高千夏代さま
    コメントをありがとうございました。マタイ25章31節~46節も改めて読みました。
    あの時の「関わらないで」には、ミサに支障がないようにしなければならないというご心配があっての言葉だと思います。お茶を届けた信徒は、生ごみを口にする程の状況の男性を見なかった事にしてミサに参加する事など出来なかったのだと思います。優先するべきは何かを即座に判断しなければならず意見が分かれましたが、低くされている方に寄り添うという事について共同体が考える機会になったのは間違いありません。私達の教会は、思いがけずイエスの訪問を受けたのかもしれませんね。

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