☩「戦争で、子供たちから人生の希望を奪ってはならない」教皇フランシスコ、13日で在位9年

教皇フランシスコ教皇フランシスコ  (Vatican Media)

(2022.3.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日で、在位9年となられた。

 アルゼンチンのブエノスアイレス大司教、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、2013年3月13日、第266代目のローマ教皇に選出され、教皇名をフランシスコと名乗られた。

 世界の平和を強く希求される教皇は、登位から今日に至るまで、様々なアピールやメッセージ、会見や司牧訪問の機会を通し、対話の構築、兄弟愛と連帯、貧しい人々や移民また環境問題への関心、出会いの文化の推進へと人々を招きながら、人民間の平和と和解のために働きかけ、福音の希望のメッセージを伝えてこられた。

 教皇は、選出9年目の日を、ウクライナにおけるロシアの一方的な軍事侵略という歴史上の危機の中で迎えられた。刻々と変化するウクライナ情勢㋾注視しつつ、自らのアピールやバチカン外交を通しウクライナの平和のために心を砕いてきた教皇は、この日もバチカンで行われた日曜正午の祈りで、子どもたちをはじめとする市民の殺害を非難すると同時に、神の名において、攻撃を中止し、殺戮を止めるよう、苦悩と共に訴えられた。

 また、教皇はこの日のツィートで「多くの避難民の受け入れを改めて呼びかけたいと思います。これらの人々の中にキリストがおられます。大きく形成された連帯のネットワークに感謝します」と支援の輪を励まされた。前日のツィートでも「戦争は決して起こしてはなりません。特に子どもたちのことを考えてください。戦争は子どもたちから尊厳ある人生の希望を奪ってしまいます」と、戦争が子どもたちの未来にもたらす傷を憂慮し、攻撃の停止を呼びかけておられる。

2022年3月14日

☩「神の名において言うーウクライナでの大虐殺を止めよ!」13日の正午の祈りで

 

A Ukrainian woman in front of the Volnovakha hospital destroyed from the bombardmentsA Ukrainian woman in front of the Volnovakha hospital destroyed from the bombardments 

(2022.3.13  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは13日の四旬節第二主日の正午の祈りの最後に、現在も進行中のロシアのウクライナ軍事侵略とそれがもたらしている多くの犠牲者を改めて思い起こされ、戦闘の即時停止を再度、心から訴えられた。

 教皇は「今、私たちが主への執り成しを聖母マリアに願いましたが、その名前を冠したウクライナの都市、マリウポリが恐ろしい戦争で殉教者の町になっている」とされ、「子供たち、罪のない武器を持たない人々を殺戮している野蛮さ」に恐怖を表明。「ウクライナの諸都市が墓場になってしまう前に、この容認しがたい武力侵略を停止する」ことを、具体的に名をあげなかったものの、ロシアの指導者であるプーチン大統領を明らかに相手にする形で、強く訴えられた。

 さらに、「私は、心の痛みとともに、(無差別の)攻撃中止を懇願する人たちに声を合わせます」とされ、関係国の指導者たちに交渉による攻撃中止実現に全力を挙げるよう、被災者たちのために人道回廊の安全確保を図るよう求め、「 In nome di Dio, vi chiedo: fermate questo massacro!(神の名において、あなた方に求めますー大虐殺をやめなさい!)」と繰り返された。

 また、世界中で生まれているウクライナの人々と連帯する「キリストがおられる人たち」の努力に感謝しつつ、ウクライナからの避難民を積極的に受け入れるよう求められた。

 また、世界のすべての教区と宗教関係の共同体が、ウクライナに速やかに平和が戻るよう祈ることに一層、努めるよう求められ、「神は平和の神であり、戦争の神ではありません。暴力を支持する人々は彼の名前を冒涜しています」としたうえで、正午の祈りのために聖ペトロ広場に集まった人々に、苦しんでいる人々のために黙祷する中で、神が、人々の心を平和への確固たる意志に変えることを願うように促された。 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年3月13日

☩「大事な時に”眠り”から覚めるのに神の光が必要だ」四旬節第二主日の正午の祈り

Angelus in St. Peter's SquareAngelus in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

(2022.3.13  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは13日、四旬節第二主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の「イエスの変容」(9章28-36節参照)の場面を思い起こされ、この場に立ち会った弟子たちのように、私たちもまた、「他者のために祈り、奉仕しようという願望」を呼び覚ます神の光を必要としている、と語られた。

*”特別重要な時”に眠りこける弟子、私たちも…

 ルカ福音書のこの場面で、イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られ、祈っておられるうちに、顔の様子が変わり、衣は白く光り輝き、その場に現れたモーセとエリアと、ご自身の最後について話される。

 教皇は、ルカ福音書で、「その時、ペトロと仲間の弟子は、イエスのそばで眠りこけていたが、目を覚まし、イエスの栄光を目の当たりにした」と書いていることに注目。

 そして、「ゲッセマネでイエスが苦悩の中で祈られていた時もそうですが、このような特別の時に、弟子たちが眠りこけてしまう、というのは驚きです。変容の場面で、弟子たちは、イエスの変容が始まる直前に眠りに落ち、その間、イエスは祈りを捧げておられました。そしておそらく弟子たちは、眠りに落ちるまで、イエスと共に祈っていたのでしょう」とされたうえで、「私たち自身の暮らしの中でも、同じことを体験します。忙しい一日を過ごした後に祈ったり、家族と過ごしそうとしたりするときに、タイミング悪く眠りにさそわれることがある。目を覚まし続け、なすべきことをするのに苦労します」と指摘された。

*四旬節は、内なる”眠り”から私たちを目覚め絶好の機会

 そのうえで教皇は「四旬節は、私たちを内なる”眠り”から目覚めさせる絶好の機会を提供します」とされ、「だが、私たちは、それを自力ではできません、祈らなければ、いただけない恵みです。神の霊の力で、私たちは体の疲れを克服することができる。それが難しいときは、聖霊に助けを求めるべきです」、さらに「今日読まれたルカ福音書にあるように、三人の弟子たちが自分の力で目を覚まし続けることができません。そして、イエスの変容の最中に、イエスの光が彼らを覆った時に、目覚めたのです」と強調。

 「私たちも、神の光を必要としています。それは私たちに別の方法で物事を見るようにさせます。私たちを引き付け、私たちを目覚めさせ、祈り、自分自身の内面を見、他の人に時間を捧げたい、という私たちの欲求と強さを、再燃させるのです」と語られた。

*主は私たちの日々の暮らしに予期しない光を与える

 説教の最後に教皇は、「四旬節の間、私たちは常に神の光の中に身を置き、私たちを驚かせ、私たちの心を目覚めさせる機会を、主に差し上げるように努めましょう。導きと刺戟を得るために福音書を読むことによって、あるいは十字架につけられたイエスを黙想し、神の限りない愛の素晴らしさを体験することでによって」と信徒たちを促された。

 そして、「神は、私たちの気力を失わせることが決してありません。神は、私たちの日々の暮らしを変容させ、日々の暮らしに新しい意味を与え、新しい、予期しないような光を与える力を持っておられます」と強調され、私たちの心を目覚めさせ、神がくださるこの恵みの時を喜びをもって迎え入れるのを助けてくださるように、聖母マリアに祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

 

 

2022年3月13日

☩「本質を識別する力を」教皇がイグナチオ、フランシスコ・ザビエル列聖400年記念ミサ

聖イグナチオ・デ・ロヨラと聖フランシスコ・ザビエルの列聖400年記念ミサ 2022年3月12日 ローマ・ジェズ教会聖イグナチオ・デ・ロヨラと聖フランシスコ・ザビエルの列聖400年記念ミサ 2022年3月12日 ローマ・ジェズ教会  (Vatican Media)

 教皇フランシスコが12日、ローマのジェズ教会で、聖イグナチオ・デ・ロヨラと聖フランシスコ・ザビエルの列聖400年記念ミサを共同司式された。

 聖イグナチオは,、教皇も会員であるイエズス会の創立者で初代総長、聖フランシスコ・ザビエルも創立メンバーで、日本にキリスト教を伝えた「東洋の使徒」。1622年3月12日に、アヴィラのテレジア、フィリッポ・ネリ、そしてイシドロ農夫と共に列聖されている。

 12日のミサは、イエズス会の現総長、アルトゥーロ・ソーサ神父を主司式者とし、教皇フランシスコおよびイエズス会の司祭たちの共同司式によって行われた。

 ミサ中の説教で教皇は、四旬節第二主日の福音朗読、ルカ福音書の「主の変容」のエピソード(9章28b-36節)を取り上げられ、「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」(28節参照)というエピソードの冒頭部分と、「すると、雲の中から、『これは私の子、私の選んだ者。これに聞け』と言う声がした。この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた」(35−36節)という後半の部分に注目。

 そして、イエスの「連れていく」「登る」「祈る」「イエスだけがいる」の4つの動きに注意を向けられた教皇は、まず、「イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて」という言葉の中に、「イエス自らに愛され、選ばれ、召し出される恵み」を観想。

 次に、イエスの「山に登る」という行為を取り上げて、「イエスの道とは、登り坂の道です。イエスに従うためには、平地の生ぬるさや下り坂の安易さを捨て、習慣から抜け出し、外に向かうことが求められます」と説かれた。

 また、「祈る」イエスの姿から、「変容は祈りから生まれます」とされ、「祈り」の中に、「現実を変容させる力」、「絶え間なく取り次ぎを願う、という生きたミッション」を読み取られた。

 最後に教皇は、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という神の声が聞こえた時、「そこにはイエスだけがおられた」と書かれていることに注目し、「心を神に向け、この世の過ぎ去るものではなく、神によるもの、本質的で過ぎ去らないものを識別すること」の大切さを強調され、「イエズス会の父、聖イグナチオの『識別』という霊的遺産を、今日の教会と世界のために受け継いでいきましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2022年3月13日

☩「戦争は最大の悪だ!」-2023世界青年の日大会に向けたメッセージで

ウクライナ首都キエフ北西イルピンで避難する家族 2022年3月7日ウクライナ首都キエフ北西イルピンで避難する家族 2022年3月7日  (AFP or licensors)

 メッセージは、教皇が「世界青年の日リスボン大会基金」会長のアメリコ・マヌエル・アグイアル・リスボン補佐司教と3日にお会いになった際、司教が録画した。

 その中で、教皇は今、世界が直面している重大な問題を取り上げ、新型コロナウイルスの世界的大感染とそれが世界各地でもたらしている経済危機から回復を模索している中で、ロシアによるウクライナ軍事侵略ていることを「起きうる限りの最大の悪」と強く批判された。

 そして、「このようないくつもの危機の中で2023年の大会を準備せねばなりませんが、大会が若く、生き生きとした、創造的なものとなることを願っています」と述べられた。

 さらに、「『一人ひとりが個性を持った存在であり、コピーではない』とイタリアの若き福者、カルロ・アクティス(1991-2006)が語ったように、この大会が他の大会のコピーではない、固有のもの、創造性あるものとなるよう皆で力を合わせていきましょう」と激励された。

2022年3月8日

☩教皇が訴え「ウクライナで血と涙の川が流されている。速やかな平和実現と”人権回廊”の確保を」

(2022.3.6 Vatican News)

 教皇フランシスコは6日、四旬節第一主日の正午の祈りで、ウクライナの平和と被災者の保護を求めるアピールを発表された。

 その中で、教皇は、ロシアの軍事侵略に晒されているウクライナに速やかな平和が実現するよう心から訴えるとともに、被災者が安全に危険地域から脱出できる”人権回廊”を確保するよう、被災者、とくに母親と子供たちが必要な介護と支援をうけられるよう、関係国、機関に強く求められた。

 アピールの全文英語訳は以下の通り。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 ウクライナで血と涙の川が流されています。単なる軍事作戦ではなく、死、破壊、そして悲惨をまき散らす戦争です。それから逃れようとする人々、母親と子供たちが日を追って増え、犠牲者の数が増え続けています。苦難の最中にあるこの国に対する人道支援の必要性は、日を追うごとに、急激に高まっています。

 私は、爆弾と恐怖に押しつぶされている兄弟姉妹に対して強力な支援を提供するために人道的回廊がしっかりと確保され、(ロシア軍に)包囲された地域に確実に援助が届くようにすることを、心から訴えます。

 避難してくる人たちを受け入れているすべての人に感謝します。そして、軍事攻撃をやめ、(和平への)交渉が進められ、常識が通用するようになることを懇願します。国際法は再び尊重されるように!

 また、(現地からの)報道を続けるために命を危険にさらしているジャーナリストたちに感謝します。ありがとう、兄弟姉妹!人々の悲劇を現実のものとして知り、戦争の残酷さを理解することを可能にする活動に携わっている兄弟姉妹、ありがとう。

 ウクライナのために、共に祈りましょう。私たちの前にはウクライナの旗があります。兄弟姉妹として、ウクライナの女王、聖母マリアに共に祈りましょう。アヴェマリア…

 教皇庁は、この(ウクライナの)平和のためにあらゆる奉仕をする用意があります。このほど、2人の枢機卿が現地の方々に奉仕し、支援するためにウクライナに赴きました。教皇慈善活動室のコンラート・クライェフスキ枢機卿と人間開発省の暫定長官マイケル・チェルニー枢機卿です。2人の枢機卿は、(苦しんでいるウクライナの人たちに)寄り添い、「戦争は狂気だ!お願いだから、止めてくれ!この残酷さを見てくれ!」と叫ぶ、教皇だけでなく、すべてのキリスト教徒を象徴する存在です。

2022年3月6日

☩「神の御言葉で、悪の誘惑に対抗しよう」教皇、四旬節第一主日の正午の祈り

(2022.3.6  Vatican News staff reporter)

   教皇フランシスコは6日、四旬節第一主日の正午の祈りの説教で、世界の信徒たちに「私たちの人生の旅について来る」誘惑に注意を怠らないように警告され、「悪と合意しない」イエスに目を向けるように勧められた。

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所ーイエスが霊によって荒れ野に道日から、40日の間、悪魔から試みを受けられたーを取り上げ、「”荒れ野”は、真の自由を選択することを学ぶための、悪の誘惑に対する闘いを象徴しています」とされ、さらに、イエスが、どのようなメシアであろうとするのかを、ことをはっきりと断言されるのは、「まさに、この『霊的な戦い』を通してなのです」と説かれた。

*誘惑との戦い さらに教皇は、イエスが荒れ野で、悪魔の誘惑と戦われる場面に注意を向けられ、「悪魔がどのようにして、イエスを誘惑するのか。『あなたが神の子なら、その力を使ってください!あなたがそれで何を得られるのか考えてください』と言って誘うのです」とし、「これは『心の奴隷』、つまり、すべての価値を、物、権力、名声を手に入れることに矮小化しようとする試みです」と語られた。

*イエスは神の言葉で対抗された

 このような悪魔の挑戦に対して、「イエスは勝利の法則ーつまり、神の御言葉で対抗されます。『自分に都合よく神を利用してはならない』『特権を得るために自分の地位を利用してはならない』と」と説かれ、さらに、「幸福と自由の意味は、『所有する』ことではなく、『共有する』ことにあります。他者を利用するのではなく、他者を愛すること。権力に執着せず、奉仕の喜びの中にあることです」と強調された。

*「人生の旅について来る誘惑」に警戒せよ

 教皇はまた、「人生の旅について来る誘惑」につい信徒たちに注意を与えられた。「私たちは警戒しなければなりません。でも、恐れることはない。それはすべての人が経験することです」としつつ、「それでも、しばしば、”善”を装って近づいて来るので、注意が必要です。狡猾な悪魔は常に私たちを欺瞞します。神聖な、明らかに宗教的な動機で偽装する方法さえ熟知しているのです」とされ、「イエスは悪魔と言葉を交わされたことはありません。私たちも、言葉を交わさないように」と注意された。

 さらに、「私たちが悪魔のお世辞に乗せれるなら、私たちは”善意”で偽装することで、自分の虚偽を正当化することになります… 私たちを誘惑しようとする悪魔と言葉を交わしてはなりません。『それは深刻ではなく、誰もがそうしているのだから』と自分を納得させるような『良心の眠り』に陥ってはなりません」とも警告された。

イエスに目を向ける

 説教の最後に教皇は、「妥協を求めず、悪との合意をしないイエス」に目を向けるように、信徒たちに勧められた。「イエスは、悪魔よりも強い神の言葉で悪魔に対抗し、誘惑に打ち勝たれます」。

 そして、「この四旬節が、私たちにとって、(試練を受ける)荒れ野で過ごす時ともなりますように」と願われるとともに、 「沈黙と祈りに、少しばかり時間をかけましょう。それは私たちに良いことです。沈黙と祈りの中で、私たちは立ち止まり、心の中で動いているものー内なる真理を見て、…祈りの中で、神の御言葉の前に身を置き、私たちを奴隷にしようとする悪と正面切って戦い、心の自由のために戦いましょう」と勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年3月6日

☩「爆撃に苦しむ人々に寄り添おう」ー教皇、一般謁見でウクライナの避難民へのポーランドの支援に感謝

Refugees from Ukraine arrive in PolandRefugees from Ukraine arrive in Poland  (ANSA)

(2022.3.2 Vatican News  Linda Bordoni)

     2日の灰の水曜日は教皇フランシスコが提唱された「ウクライナの平和のための祈りと断食の日」となったが、教皇は同日の水曜恒例の一般謁見で、謁見に参加したポーランドの信徒たちに、戦火を逃れ、国外に脱出を余儀なくされているウクライナの人々を進んで受け入れているポーランドの人々に感謝を伝えるように求められた。そして、今もロシア軍の武力攻撃で被害を受けているウクライナの人々に寄り添うよう、世界の全ての信徒たちに願われた。

 教皇はまず、パウロ6世ホールでの一般謁見に参加したポーランドの信徒たちに向かって、「あなたがたポーランドの人々は、ウクライナ支援に最初に手を挙げ、戦火から逃れてくるウクライナの人々に、国境を、心を、そして家の扉を開きました」と感謝。

 「ポーランドの人々は、大きな悲劇の中にあるウクライナの人々が尊厳を持って生きるために必要な、すべてのものを惜しみなく提供しています」と讃え、祝福された。

 教皇はまた、謁見に参加したウクライナ人の修道士を指して、「ポーランド語で朗読をしてくれたフランシスコ会の修道士は、ウクライナの人です。彼の両親は今、首都キエフの近郊で、爆撃から身を守るため地下の避難所におり、彼は私たちと一緒にここにいて、彼の義務を果たし続けているのです」と紹介された。そして「私たちは、彼の両親のように苦しんでいる人々を心に留めています」と語られた。

 さらに教皇は、謁見に参加した英語を話すグループへの挨拶の中で、改めてロシアのウクライナ軍事侵略に触れ、「ウクライナの平和のための祈りと断食の日」から四旬節の旅を始めることの意味を強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

A child fleeing war in Ukraine at a temporary camp in Przemsl, Poland
A child fleeing war in Ukraine at a temporary camp in Przemsl, Poland
2022年3月2日

◎教皇連続講話「老年の意味と価値について」②「豊かな人生のために世代間連携が不可欠」

(2022.3.2 Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコは2日の水曜一般謁見で、先週始められた「老年の意味と価値について」をテーマにした連続講話をお続けになり、今回は、「象徴と機会としての長寿」について考察された。

 バチカン放送まとめによる講話の要旨は次のとおり。

**********

 聖書に見られる始祖たちの系図で、私たちは彼らの非常な長寿に驚かされます。その中には数世紀にわたる長寿も記されています。父祖たちの、子をもうけた後に続く長い人生は、彼らとその子孫たちが世紀を超え、共に生きていく姿を意味しています。

 このような世紀を刻みつつ流れる時間は、長寿と子孫との関係に象徴的な意味を与えています。それは、「人間の命の継承は、ゆっくりとした長いプロセスを必要とする」と言っているかのようです。そして、その長いプロセスの間に、様々な経験を読み解き、人生の神秘に照らし合わせるためには、異なる世代の間の支え合いを欠かすことが出来ません。

 私たちの人生のあらゆる段階を、あまりにも早く駆け抜けようとすることは、個々の経験を表面的で「味わいのない」ものにしてしまいます。人生のそれぞれの段階には、適度な「熟成」が必要です。長く生きることは、こうした人生のステップを、急がずに味わうことを可能にしてくれます。

 歳を取ると、「ゆっくりしたリズムで生きる」ことを余儀なくされますが、それは「無気力」とは異なります。そして、このゆっくりしたリズムは、「スピードに対する強迫観念」から解放された「人生の意味」に目を開かせるのです。ゆっくりしたリズムで生きる高齢者との触れ合いを失うことは、そうした人生の意味に触れる可能性を閉ざしてしまいます。

 このような視点から、7月の最後の日曜日に「祖父母と高齢者のための世界祈願日」が設けられています。子どもたちと高齢者、若者と高齢者という世代間の絆は、全ての人の人間性を豊かなものにしてくれるでしょう。木が根から力を汲み取るように、若者が祖父母という根とのつながりを持ち、世代間の対話を持つことは重要です。

 今日、人の寿命は、これまでになく長くなっっています。それは、様々な世代間の絆を育てる機会を与えてくれるのです。人生の意味は、誕生から死に至るまでのすべてにあります。すべての世代と対話し、愛情ある関係を育てることで、人は豊かに成熟するのです。私たちがすべての世代との調和、対話のシンフォニーを見出せるよう、神が助けて下さいますように。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年3月2日

☩「私たちは自分の欠点を見過ごし、悪口をばらまいていないか」年間第8主日の正午の祈りで

教皇フランシスコ 2022年2月27日のお告げの祈り  (Vatican Media)

(2022.2.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは27日、年間第8主日の正午の祈りで、この日の福音書の朗読箇所(ルカ6章9-45節)を取り上げ、説教をなさった。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

**********

 今日の福音で、イエスは私たちの眼差しと話し方について考えるよう勧めておられます。

 まず、私たちの「眼差し」について考えましょう。主は、自分の目にある梁(はり)を見ないで、兄弟に向かって「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」(ルカ福音書6章42節参照)と言う危険に、私たちを気づかせます。

 つまり、他者の欠点は、たとえおが屑のような小さなことでも、とても気になるが、自分の欠点は見過ごし、問題にしない、ということです。

 実際、イエスの言うように、私たちはいつでも何かを他者のせいにして、自分を正当化しようとします。社会、教会、世界でうまくいかないことがあると、それを嘆くだけで、具体的に取り組むこともなければ、自分を変えるための努力もしません。

 イエスは、私たちの目が見えない状態にある、と指摘され、「盲人に盲人の手引きができようか」と問いかけておられます(6章39節参照)。

 イエスは、まず自分の惨めさを認めるために、私たちの内面を見つめるように、と勧めておられます。自分の欠点が見えないために、他人の欠点を大げさにしてしまう。自分の過ちや欠点を認めるとき、慈しみの扉が、私たちのために開くのです。

 神はいつでも、人とその人の過ちとを区別されます。神は人を信頼され、いつも赦す準備ができておられます。神は、私たちにも、人の中に悪を探さず、善を見出すように、と招いておられます。

 眼差しに続いて、イエスは、私たちの「話し方」についても考えるよう促されます。イエスは「心から溢れ出ることを、口は語る」(6章45節参照)と言われます。私たちが使う言葉は、自分がどのような人間であるのかを、物語りますが、時として、私たちは自分が話す言葉に注意を払いません。

 私たちは言葉を通して、偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。特にデジタル化した現代の世界では、言葉は早く伝わる一方で、怒りや攻撃性、偽の情報も早く伝わるようになりました。かつての国連事務総長、ダグ・ハマーショルド氏は「言葉の悪用は、人間を軽視することと同じだ」と語りました。

 私たちが日頃使っている言葉について問い直してみましょう。その言葉が、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものか、それとも、自分をひけらかすためのものか。柔和さをもって話しているか。それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのか。

 神がその謙虚さを顧みられた乙女マリアが、私たちの眼差しと話し方が清められるよう、助けてくださいますように。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2022年2月28日

☩「彼らは自分が人間であることを忘れている」ロシアのウクライナ侵略に対して-年間第8主日の正午の祈りで

*戦争をする者は『悪魔的でひねくれた武器の論理』に依存

 さらに、教皇は「戦争をする者は、自分が人間であることを忘れてしまう。『人々』から始めようとしない。人々の現実の人生を見ることをせず、自己の党派の利益と権力を第一にしています。彼らは、神の意志から最も遠い『悪魔的でひねくれた武器の論理』に依存しており、平和を望んでいる一般の人々から、かけ離れている」と厳しく非難。

 そして、「すべての紛争において、一般人は、自分の肌で戦争の愚行にお金を払わされる、本当の犠牲者です」とされ、特に高齢者、現時点で避難を求めている人々、子供と一緒に逃げる母親の置かれている境遇に思いをはせられた。そのうえで、「このような人々のために、人道的回廊を開くことが急務となっています」と訴えられた。

*世界の他の地域での紛争の犠牲者たちも忘れないで

 教皇はまた、イエメン、シリア、エチオピアで続いている紛争に言及し、「世界の他の地域での戦争を忘れないように」と求められ、「繰り返します。武器が沈黙するように!神は、暴力を使う者ではなく、平和を作る人と共におられます!イタリア憲法が述べているように、平和を愛する人々は、他の人々の自由への攻撃の手段として、そして国際紛争を解決する手段として、戦争を拒否します」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月27日

・教皇 、ウクライナのゼレンスキー大統領に電話、大統領は精神的支えに感謝

ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領   (ANSA)

(2022.2.26 バチカン放送)

 ロシアがウクライナに本格侵攻を続け、首都キエフが官ランクの危機を迎える中で、教皇フランシスコは26日、ウクライナのゼレンスキー大統領に電話され、ウクライナにおける戦争に深い悲しみをお伝えになった。

 ゼレンスキー大統領は、教皇の平和への祈りに感謝し、ウクライナ国民は教皇の「精神的支え」を感じている、と述べた。

 駐バチカン・ウクライナ大使館はツィートで、教皇がこの電話を通し、「ウクライナで起きている悲劇的な出来事のために、深い悲しみ」を表明されたことを伝えた。ゼレンスキー大統領も、自身のツィートで、「教皇がウクライナの平和と停戦のために祈ってくれたことに感謝した。ウクライナ国民は教皇の精神的支えを感じている」と述べた。

 教皇も26日のツイートで、「イエスは、暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることを教えました。平和の元后が、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように」と改めて、聖母マリアに祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 *「ウクライナの人々のために、私ができることはすべてする」ー教皇、ウクライナ正教会の指導者に電話

(2022.2.26 Vatican News)

 また、教皇は26日、ウクライナ正教会のリーダーであるスヴャストラフ・シェフチュク総主教にも電話され、現地の状況についての情報提供を求めるとともに、ウクライナの人々を助けるために、ご自分ができるすべてのことをする用意があることを伝えられた。また教皇は、ウクライナ正教会が、キエフの大聖堂の地下質を住民の避難場所として提供するなど、国民の側に立っていることに感謝され、総主教のために祈り、苦しみの中にあるウクライナの人々を祝福された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月27日

☩教皇フランシスコの四旬節へのメッセージ「たゆまず善を行い、倦むことなく励め」

2022年度四旬節:教皇メッセージ発表2022年度四旬節:教皇メッセージ発表 

 今年のテーマは、「たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。それゆえ、今、機会のある度に、すべての人に対して…善を行いましょう」(ガラテヤの信徒への手紙6章9-10節)。

 教皇は、この聖パウロの勧めを心に留めながら四旬節を歩むよう、次のような主旨のメッセージをおくっておられた。

**********

 1.種まきと刈り取り

一番の農夫は、寛大さをもって人類に善の種をまき続ける神ご自身です。四旬節の間、私たちは神の御言葉を受け入れながら、神の恵みに答えるよう招かれています。神の御言葉に熱心に耳を傾けることは、それに従った行いを通して、人生を実り多いものとします。さらに素晴らしいことは、私たちも善を行いつつ、その種をまくことで、「神の協力者」となることです。

では、種をまくことで、何を刈り入れるのでしょう。善の種は、まず自分自身や日々の人間関係の中に実ります。実によって木を見分けるように(マタイ福音書,7章16.20節参照)、善い業で満ちた生活は輝き、世にキリストの香りをもたらします。

他者の善のために種をまくことは、神の寛大さに参与することになります。それは、神の慈愛あふれる計画の中に自ら入ることを通して、狭い利害の視点から解放され、無償性のうちに行動することを可能とするのです。

そして、私たちの生活と行いの実りは、「永遠の命に至る実」(ヨハネ福音書4章36節)、「天に積む富」( ルカ福音書12章33節、18章22節)となるでしょう。

 2.「たゆまず善を行おう」

  四旬節は、私たちの信仰と希望を、改めて主の上に置くよう招いています。復活した主イエス・キリストを見つめてこそ、私たちは「たゆまず善を行いましょう」(ガラテヤの信徒への手紙6章9節)という使徒パウロの招きを受け入れることができるのです。

 たゆまず祈りましょう。イエスは「絶えず祈るべきであり、落胆してはならない」(ルカ福音書18章1節)ことを教えられます。祈る必要があるのは、私たちが神を必要としているからです。四旬節は、神における信仰の慰めを体験する機会です。神における信仰なくして、私たちに心の平安はありません。

 生活の中の悪を、たゆまず根こそぎにしよう。四旬節が呼びかける断食は、罪と闘うために私たちの心を強めてくれます。

 赦しの秘跡を通して、たゆまず赦しを願いましょう。神は疲れを知らず赦してくださる方であることを忘れてはなりません。

 私たちを、利己主義とあらゆる悪へと押しやる欲望と、たゆまず闘いましょう。特に人間関係を貧しくする”デジタルメディア”に依存しないように注意しましょう。

 隣人に対し、慈愛の業を通して、たゆまず善を行いましょう。四旬節の間、喜びをもって施しをし、助けを必要とする人に寄り添い、耳を傾けましょう。

 3.「倦むことなく励んでいれば、時が来て、実を刈り取る」

 毎年、四旬節は、善とは、愛や正義や連帯と同様に、「一度獲得すれば永遠」というものではなく、「毎日、獲得すべきもの」であることを思い起こさせます。少しずつ、たゆまず善を行うための「農夫の忍耐」(ヤコブの手紙5章7節参照)を神に願いましょう。

 この回心の時に、神の恵みと教会の交わりの中に支えを見出し、たゆまず善を行いましょう。「断食」は地を耕し、「祈り」は潤いを与え、「慈愛」は肥沃にます。「倦むことなく励んでいれば、時が来て、実を刈り取る」ことを信仰のうちに確信し、忍耐の恵みと共に、わたしたちと人々の救いのために「約束されたもの」を受けよう(参照 ヘブライ10,36)。

*教皇メッセ―ジの公式英語訳全文以下の通り。

MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR LENT 2022

“Let us not grow tired of doing good, for in due time we shall reap our harvest,if we do not give up. So then, while we have the opportunity,let us do good to all” (Gal 6:9-10)

Dear Brothers and Sisters,

Lent is a favourable time for personal and community renewal, as it leads us to the paschal mystery of the death and resurrection of Jesus Christ. For our Lenten journey in 2022, we will do well to reflect on Saint Paul’s exhortation to the Galatians: “Let us not grow tired of doing good, for in due time we shall reap our harvest, if we do not give up. So then, while we have the opportunity (kairós), let us do good to all” (Gal 6:9-10).

1. Sowing and reaping

In these words, the Apostle evokes the image of sowing and reaping, so dear to Jesus (cf. Mt 13). Saint Paul speaks to us of a kairós: an opportune time for sowing goodness in view of a future harvest. What is this “opportune time” for us? Lent is certainly such an opportune time, but so is our entire existence, of which Lent is in some way an image. [1] All too often in our lives, greed, pride and the desire to possess, accumulate and consume have the upper hand, as we see from the story of the foolish man in the Gospel parable, who thought his life was safe and secure because of the abundant grain and goods he had stored in his barns (cf. Lk 12:16-21). Lent invites us to conversion, to a change in mindset, so that life’s truth and beauty may be found not so much in possessing as in giving, not so much in accumulating as in sowing and sharing goodness.

The first to sow is God himself, who with great generosity “continues to sow abundant seeds of goodness in our human family” (Fratelli Tutti, 54). During Lent we are called to respond to God’s gift by accepting his word, which is “living and active” (Heb 4:12). Regular listening to the word of God makes us open and docile to his working (cf. Jas 1:21) and bears fruit in our lives. This brings us great joy, yet even more, it summons us to become God’s co-workers (cf. 1 Cor 3:9). By making good use of the present time (cf. Eph 5:16), we too can sow seeds of goodness. This call to sow goodness should not be seen as a burden but a grace, whereby the Creator wishes us to be actively united with his own bountiful goodness.

What about the harvest? Do we not sow seeds in order to reap a harvest? Of course! Saint Paul points to the close relationship between sowing and reaping when he says: “Anyone who sows sparsely will reap sparsely as well, and anyone who sows generously will reap generously as well” (2 Cor 9:6). But what kind of harvest are we talking about? A first fruit of the goodness we sow appears in ourselves and our daily lives, even in our little acts of kindness. In God, no act of love, no matter how small, and no “generous effort” will ever be lost (cf. Evangelii Gaudium, 279). Just as we recognize a tree by its fruits (cf. Mt 7:16, 20), so a life full of good deeds radiates light (cf. Mt 5:14-16) and carries the fragrance of Christ to the world (cf. 2 Cor 2:15). Serving God in freedom from sin brings forth fruits of sanctification for the salvation of all (cf. Rom 6:22).

In truth, we see only a small portion of the fruits of what we sow, since, according to the Gospel proverb, “one sows, while another reaps” (Jn 4:37). When we sow for the benefit of others, we share in God’s own benevolent love: “it is truly noble to place our hope in the hidden power of the seeds of goodness we sow, and thus to initiate processes whose fruits will be reaped by others” (Fratelli Tutti, 196). Sowing goodness for the benefit of others frees us from narrow self-interest, infuses our actions with gratuitousness, and makes us part of the magnificent horizon of God’s benevolent plan.

The word of God broadens and elevates our vision: it tells us that the real harvest is eschatological, the harvest of the last, undying day. The mature fruit of our lives and actions is “fruit for eternal life” (Jn 4:36), our “treasure in heaven” (Lk 12:33; 18:22). Jesus himself uses the image of the seed that dies in the ground in order to bear fruit as a symbol of the mystery of his death and resurrection (cf. Jn 12:24); while Saint Paul uses the same image to speak of the resurrection of our bodies: “What is sown is perishable, but what is raised is imperishable; what is sown is contemptible but what is raised is glorious; what is sown is weak, but what is raised is powerful; what is sown is a natural body, and what is raised is a spiritual body” (1 Cor 15:42-44). The hope of resurrection is the great light that the risen Christ brings to the world, for “if our hope in Christ has been for this life only, we are of all people the most pitiable. In fact, however, Christ has been raised from the dead, as the first-fruits of all who have fallen asleep” (1 Cor 15:19-20). Those who are intimately united to him in love “by dying a death like his” (Rom 6:5) will also be united to his resurrection for eternal life (cf. Jn 5:29). “Then the upright will shine like the sun in the kingdom of their Father” (Mt 13:43).

2. “Let us not grow tired of doing good”

Christ’s resurrection enlivens earthly hopes with the “great hope” of eternal life, planting the seed of salvation in our present time (cf. BENEDICT XVI, Spe Salvi, 3; 7). Bitter disappointment at shattered dreams, deep concern for the challenges ahead and discouragement at the poverty of our resources, can make us tempted to seek refuge in self-centredness and indifference to the suffering of others. Indeed, even our best resources have their limitations: “Youths grow tired and weary, the young stumble and fall” (Is 40:30). Yet God “gives strength to the weary, he strengthens the powerless… Those who hope in the Lord will regain their strength, they will soar on wings like eagles; though they run they will not grow weary, though they walk they will never tire» (Is 40:29, 31). The Lenten season calls us to place our faith and hope in the Lord (cf. 1 Pet 1:21), since only if we fix our gaze on the risen Christ (cf. Heb 12:2) will we be able to respond to the Apostle’s appeal, “Let us never grow tired of doing good” (Gal 6:9).

Let us not grow tired of praying. Jesus taught us to “pray always without becoming weary” ( Lk 18:1). We need to pray because we need God. Thinking that we need nothing other than ourselves is a dangerous illusion. If the pandemic has heightened the awareness of our own personal and social fragility, may this Lent allow us to experience the consolation provided by faith in God, without whom we cannot stand firm (cf. Is 7:9). No one attains salvation alone, since we are all in the same boat, amid the storms of history; [2] and certainly no one reaches salvation without God, for only the paschal mystery of Jesus Christ triumphs over the dark waters of death. Faith does not spare us life’s burdens and tribulations, but it does allow us to face them in union with God in Christ, with the great hope that does not disappoint, whose pledge is the love that God has poured into our hearts through the Holy Spirit (cf. Rom 5:1-5).

Let us not grow tired of uprooting evil from our lives. May the corporal fasting to which Lent calls us fortify our spirit for the battle against sin. Let us not grow tired of asking for forgiveness in the Sacrament of Penance and Reconciliation, knowing that God never tires of forgiving. [3] Let us not grow tired of fighting against concupiscence, that weakness which induces to selfishness and all evil, and finds in the course of history a variety of ways to lure men and women into sin (cf. Fratelli Tutti, 166). One of these is addiction to the digital media, which impoverishes human relationships. Lent is a propitious time to resist these temptations and to cultivate instead a more integral form of human communication ( ibid., 43) made up of “authentic encounters” ( ibid., 50), face-to-face and in person.

Let us not grow tired of doing good in active charity towards our neighbours. During this Lent, may we practise almsgiving by giving joyfully (cf. 2 Cor 9:7). God who “supplies seed to the sower and bread for food” (2 Cor 9:10) enables each of us not only to have food to eat, but also to be generous in doing good to others. While it is true that we have our entire life to sow goodness, let us take special advantage of this Lenten season to care for those close to us and to reach out to our brothers and sisters who lie wounded along the path of life (cf. Lk 10:25-37). Lent is a favourable time to seek out – and not to avoid – those in need; to reach out – and not to ignore – those who need a sympathetic ear and a good word; to visit – and not to abandon – those who are lonely. Let us put into practice our call to do good to all, and take time to love the poor and needy, those abandoned and rejected, those discriminated against and marginalized (cf. Fratelli Tutti, 193).

3. “If we do not give up, we shall reap our harvest in due time”

Each year during Lent we are reminded that “goodness, together with love, justice and solidarity, are not achieved once and for all; they have to be realized each day” (ibid., 11). Let us ask God to give us the patient perseverance of the farmer (cf. Jas 5:7), and to persevere in doing good, one step at a time. If we fall, let us stretch out our hand to the Father, who always lifts us up. If we are lost, if we are misled by the enticements of the evil one, let us not hesitate to return to God, who “is generous in forgiving” (Is 55:7). In this season of conversion, sustained by God’s grace and by the communion of the Church, let us not grow tired of doing good. The soil is prepared by fasting, watered by prayer and enriched by charity. Let us believe firmly that “if we do not give up, we shall reap our harvest in due time” and that, with the gift of perseverance, we shall obtain what was promised (cf. Heb 10:36), for our salvation and the salvation of others (cf. 1 Tim 4:16). By cultivating fraternal love towards everyone, we are united to Christ, who gave his life for our sake (cf. 2 Cor 5:14-15), and we are granted a foretaste of the joy of the kingdom of heaven, when God will be “all in all” (1 Cor 15:28).

May the Virgin Mary, who bore the Saviour in her womb and “pondered all these things in her heart” (Lk 2:19), obtain for us the gift of patience. May she accompany us with her maternal presence, so that this season of conversion may bring forth fruits of eternal salvation.

 

Rome, Saint John Lateran, 11 November, 2021, Memorial of Saint Martin, Bishop.

 

FRANCIS

 


[1] Cf. SAINTAUGUSTINE, Serm. 243, 9,8; 270, 3; En. in Ps. 110, 1.

[2] Cf. Extraordinary Moment of Prayer presided over by Pope Francis (27 March 2020).

[3] Cf. Angelus, 17 March 2013.

In prayer for the end of the war in UkraineIn prayer for the end of the war in Ukraine 

War in Ukraine: Pope Francis goes to Russian embassy to express concern

Pope Francis spent more than a half-hour at the Russian embassy on the Via della Conciliazione in Rome on Friday morning. A day earlier, Cardinal Pietro Parolin appealed for greater space for negotiations.

Pope Francis wished to express his concern about the war in Ukraine when he went to the headquarters of the Russian Embassy to the Holy See – headed by Ambassador Alexander Avdeev — around midday Friday morning. He arrived in a white car and remained in the building on Via della Conciliazione for over half an hour, as confirmed by the director of the Vatican Press Office, Matteo Bruni.

The appeal at the General Audience

Pope Francis is closely following the evolution of the situation in the eastern European country, which has been under attack since the night of 24 February, where numerous people have already been killed and injured. Already at the General Audience on Wednesday, before the Russian invasion began, the Pope had expressed the “great sorrow in his heart” over the worsening situation in the country.

The Pope appealed ” to those with political responsibility to examine their consciences seriously before God, who is the God of peace and not of war.” And he called on believers and non-believers alike to unite in a joint supplication for peace next 2 March, Ash Wednesday, by praying and fasting. “Jesus taught us that the diabolical senselessness of violence is answered with God’s weapons, with prayer and fasting,” the Pontiff said. “I invite everyone to make next 2 March, Ash Wednesday, a Day of Fasting for Peace. I encourage believers in a special way to dedicate themselves intensely to prayer and fasting on that day. May the Queen of Peace preserve the world from the madness of war.”

Cardinal Parolin’s statement

Yesterday, however, “in the darkest hour” for Ukraine, the Cardinal Secretary of State, Pietro Parolin, released a statement following the start of Russian “military operations” in Ukrainian territory. Recalling the Pope’s urgent appeal, the cardinal noted that “the tragic scenarios that everyone feared are unfortunately becoming reality,” but insisted, “there is still time for goodwill, there is still room for negotiation, there is still a place for the exercise of a wisdom that can prevent the predominance of partisan interests, safeguard the legitimate aspirations of everyone, and spare the world from the folly and horrors of war.”

Cardinal Parolin concluded his statement, saying, “As believers, we do not lose hope for a glimmer of conscience on the part of those who hold in their hands the fortunes of the world. And we continue to pray and fast — as we shall do this coming Ash Wednesday — for peace in Ukraine and in the entire world.”

2022年2月26日

☩「ウクライナに平和をー3月2日を祈りと断食の日に」教皇、世界の信徒たちに呼びかけ

ウクライナへ侵攻するロシア軍の戦車(2月24日、「アルジャジーラ」より)

 教皇フランシスコは23日、水曜恒例一般謁見の中で、3月2日の「灰の水曜日」を、ロシアの軍事攻勢で風雲急を告げているウクライナに平和がもたらされるための「平和のための断食の日」とすることを、世界の信徒たちに呼びかけられた。

 ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ東部二州の新ロシア派支配地域を「人民共和国」と一方的に認知したうえ、24日には「ウクライナを無力化する」と宣言、ロシア軍が国境を突破し、ミサイルや戦車などによる空港や軍事施設への攻撃を開始、早くも民間人を含む多数の死者を出している。

 教皇は、ウクライナに差し迫っている戦争の脅威が「私の心に大きな痛みを引き起こしています」と語られ、ウクライナの平和を心から訴えられた。

 そして、「ここ数週間の関係国の外交努力にもかかわらず、ますます憂慮すべきシナリオの可能性が高まっています。このことに、ウクライナの人々だけでなく、世界中の多くの人々が苦痛と苦痛を感じています。またしても、平和が、特定の利益によって脅かされます」と強調。

 「戦争の神ではなく、平和の神、私たちを敵同士ではなく兄弟にしたいと願う、すべての人の父である神の前で、真剣に良心の糾明をし、それに従って行動せねばなりません」とこの危機の打開に政治的責任を持っている人々に訴えられた。

 さらに教皇は、ロシアをはじめこの問題に関係するすべての当事者が「国民にさらなる苦痛を与え、国家間の共存を不安定にし、国際法への信頼を損なうような行動を控えること」を祈られた。

 そのうえで、教皇は、世界の信徒たちに向けて、3月2日の「灰の水曜日」を「平和のための断食の日」とすることを提唱。「私は世界の信徒の皆さんに、この日に、祈りと断食に努めてくださるようにお願いします」と求められ、「平和の女王、聖母マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくれますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月23日

◎教皇・新連続講話「老年の意味と価値について」①「世代間連携の必要性を再確認しよう」

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

 

*人生のすべての段階の人々の一致

 そして、教皇は「移民・難民問題と並んで、高齢者の問題、今、人類家族が直面している最も緊急の問題の1つです… (高齢者の増加は)単なる『量的変化』の問題ではなく、『人生のさまざまな段階にある人々の一致が危機に瀕している』ことを意味するのです」と指摘。「ですから、人生全体として理解し、正当に評価することの重要性、そして人生のさまざまな段階にある人々の間の友情と協力の必要性か。それとも、または分離と廃棄か。どちらが優先されるのでしょう」と問いかけられた。。

 さらに、「今日の社会では、子供、若者、大人、そして同居している高齢者の割合が変化している。高齢者が大勢になり、人間世界の大きな部分を占め、子供たちは少ししか授からなくなっています」とされ、「この不均衡は多くの問題を生んでいます。今日の支配的文化が唯一のモデルとしているのは、常に若いままでいる独立独行の個人です。 人間の理想を具現化するのにふさわしい唯一の年齢としての若さへの称賛は、虚弱で、衰亡し、障害としての老年への蔑視と相まって、20世紀の全体主義の支配的なイメージとなってきました。そのことを忘れてはなりません」と警告された。

 

*人生と共同体社会の感覚

 85歳の教皇は、「現代の人々が長寿になってきているという事実は、個人、家族、社会の歴史に構造的な影響を及ぼしている。しかし、私たちは人生の精神的な質と共同体の感覚がこれに対応しているかどうか、自問する必要があります」と指摘。

 そのうえで、「高齢者は『長生きしていること』を謝罪する必要があるでしょうか。それとも『すべての人の人生の意味に貢献した』ことを光栄に思うべきでしょうか?」と問われた教皇は、「残念ながら、いわゆる”進化した文化”では、人生の意味とはほとんど関係がないようです。老後の人生には特別な内容がないものと見なされ、高齢であること自体が生きる意味もないためです。そのうえ、人々は年を取ることを奨励されておらず、高齢者の存在を認識するための教育が共同体社会において不足しています」とされ、さらに、「老年は共同体社会の決定的な部分であり、傷害の期間の3分の1にまで及びますが、時として、高齢者のケアプランはあっても、存在することについてのプロジェクトはない。これは人々の思考能力、想像力、創造性の欠如を示しています」と批判された。

 

*失われた世代間連携を取り戻せ

 また教皇は「若者は美しいですが、『永遠の若者』は非常に危険な幻想です」と警告。 「年をとることは、若いことと同じくらい重要であり、美しいことだ、ということを覚えておく必要があります。すべての年齢の人生を人間らしい水準に戻す『世代間の連携』は、私たちの『失われた贈り物』です。もう一度見つけなければなりません」と訴えられた。

 

*世代間連携についての神の言葉に倣って

 世代間連携について、教皇は「神の言葉は多くのことを語っています」とされ、「若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2章17節参照)と預言者ヨエルを通して言われた神の言葉に注目され、「年配者が霊に抵抗して、過去に彼らの夢を埋めてしまえば、若者はもはや夢を見ることができなくなります。未来を開くためにせねばならないことを考えてください。高齢者が若者に自分たちの夢を伝える時、若者は自分たちがせねばならないことをはっきりと認識します。高齢者の夢がなければ、若者は現在を運び、未来を支えるのに苦労するでしょう」と説かれた。

 そして、 「祖父母が憂鬱に陥れば、若者はスマートフォンに、さらに目を向けることになる。彼らの人生はあっという間に死んでしまいます。この意味で、若者の幻滅は、おそらくシンガ徒コロナウイルスの大感染がもたらした最も深刻な影響です。高齢者は、すでに生きた『命の資源』を持っており、若者たちはそれに頼ることができます。高齢者たちは、若者たちが視力を失うのを黙って見ているでしょうか。それとも自分たちの夢を温めることで、若者たちと共に歩もうとするのでしょうか?」と問いかけられた。

 最後に教皇は、「老後の別れを伴う長い旅の知恵は、人生の意味を捧げ物として生きることです。老後の人生が人にふさわしい尊厳を取り戻さなければ、すべての人の愛を奪う落胆で自分自身を締めくくる運命にあるのです」と警告されたうえで、「老後に関するこれからの私の講話で、すべての方々に、高齢者が人生の他の段階にある人々にもたらす贈り物に、自分の思いや愛情を投資するよう、促すことにしたいと思います」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月23日