☩「イエスの弟子たちは”貧しい”がゆえに幸せ」ー年間第六主日の正午の祈り

(2022.2.13 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは13日、年間第六主日の正午の祈りでの説教で、この日のミサで読まれた福音の箇所(ルカ6章20-23節)を取り上げ、ここでイエスが語られている”至福の教え”にキリスト教徒の真髄が要約されており、「イエスの弟子たちは、恵みを授かった、それは彼らが貧しいからです」と説かれた。

 説教で教皇はまず、この”至福の教え”を説かれた時、イエスは大勢の群衆に囲まれていたが、「弟子たちを見て」話されたことに注目され、「この教えが、彼らが”弟子であること”を定義するものだったので、そのようにされたのです」と指摘。

 「この教えは、一見しておかしな内容のようで、弟子でない人にはほとんど理解できない。しかし、私たちも、イエスの弟子としてどのようにあるべきか自問すれば、答えはまさに”至福の教え”にあることが分かります」と説かれた。

*貧しく、祝福され、謙虚

 続いて、この教えの内容に入り、最初の言葉、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」に注目され、「イエスは人々について、二つのことを言われますー『祝福されていて、貧しいこと』、そして『貧しいために、祝福されていること』です」とされたうえで、「ここで『貧しい』が意味するのは、お金やその他の物を持っていないことではなく、私たちの暮らし、被造物、兄弟姉妹など、神が日々くださる賜物に、私たちの喜びを見い出すこと」と語られた。

 そして、「このような『貧しさ』は、私たちが持っているものを『神の論理に従って、無償で』と他の人々と分かち合うように、私たちに促しています… 弟子たる者は、謙虚で、偏見や柔軟性の欠如からはほど遠く、開かれているのです」と説かれた。

 

*至福のパラドックス

 教皇は、先週の主日のミサで読まれた福音書の箇所ー不漁で一夜を過ごした聖ペテロがイエスの言葉に信頼して網を下ろし、舟いっぱいの魚が獲れた奇跡ーを思い起こされ、「ペトロは、すべてを捨てて、従順であることを示し、イエスの弟子になりました。しかし、自分の考えや自分の生活への保障に執着する人は、イエスに心から従うのが難しいと感じる… 一部の人々は、イエスに耳を傾けるかもしれませんが、結局は”至福の教え”を受け入れられず、不満と悲しみで終わります」と述べられた。

*頑なさの鎖を解き放つ

 また教皇は”至福の教え”は、「貧しい人々、多くのものが欠乏している人々、そしてそのことを自覚している人々は、祝福されている、つまり幸せだ、と宣言します」とされ、「弟子たちは、自分自身に疑問を投げかける方法、日々、謙虚に神を求める方法を知っています。そうすることで、弟子たちは現実を掘り下げ、その豊かさと複雑さを把握することができる」と指摘。

 「キリストの弟子たちは、挑戦を受け入れ、神の論理に入るために、骨の折れる旅を進んでします… 主は、私たちを自己中心の奴隷の状態から解放することで、私たちがかけていた鍵を壊し、私たちの頑なさを解き、真の幸せへ私たちの心を開いてくださいます」と説かれた。

 

*キリストの弟子の喜び

 説教の最後に、教皇は信徒たちに、「私は、弟子としてすべきことを喜びを持ってしようとしているか、それとも、自分の硬直的な考え方を持ち続けるのを望んでいるのかーを自問するように」と促され、さらに、「私たちは、”至福の教え”のパラドックスに心を開きますか、それとも自分自身の考えの中にとどまるのでしょうか」と問いかけられた。

 そして、「喜びが、イエスの弟子の真のしるし」であることを改めて思い起こし、次の祈りで説教を締めくくられた。

 「主の最初の弟子である聖母マリアが、開かれた、喜びにあふれた弟子たちとして私たちが生きるのを、助けてくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年2月13日