☩「主は、祈りと実践を通して信仰を生きるよう私たちに求めておられる」教皇、年間第22主日に

(2024.9.1  Vatican News)

 教皇フランシスコは1日、年間第22主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書のイエスとファリサイ派、律法学者たちとの問答の箇所を取り上げ、神は私たちに、外面的な行為でなく、慈愛、愛、優しさなど内面的な態度を培うように求めておられる、と説かれた。

 教皇は、この福音書の箇所で、弟子たちに手を洗う清めの儀式を行わずに食物を食べさせた、として律法学者やパリサイ派の人々が非難し、イエスがそれにお答えになった場面について、「主は清めの重要性について語られましたが、それは外面的な儀式ではなく、何よりも内面的な性質についてでした」とされ、「貪欲、嫉妬、傲慢、欺瞞、窃盗、中傷などの邪悪な考えを心に残しながら、手を何度も洗うという行為の矛盾を、イエスは指摘しておられます」と語られた。

 さらに、 「イエスは、善良さを育むことのない”儀式主義”に注意するよう呼びかけておられます。この”儀式主義”は、自分自身や他人に対して、慈愛に反する選択や態度を無視したり、正当化したりすることさえあり、魂を傷つけ、心を閉ざすことになります」と注意された。

 そして、外見でなく、内面の清さという概念が、私たち皆にとっていかに重要であるかを強調され、「ミサに出席しながら、他人の噂話や慈愛の欠如にふけることはできません。噂話は心と魂を台無しにするので、そのような行為を許してはなりません」、さらに、「祈りの中で信心深さを示しながら、帰宅した後で家族に対して冷たく接したり、無関心であったり、あるいは、助けや寄り添いを必要としている年老いた両親を無視したりすることもあってはなりません」と強調。

 「こうした振る舞いは『二重生活』であり、許してはならない。他者に対する、善良さや慈しみ深さを欠いた”外面的な清さ”は偽物です。なぜなら、それは、神との関係を外面的なジェスチャーに限定し、内面では神の恵みの浄化作用が浸透しないままであり、思考、言葉、行為に『愛』が欠けているからです」と説かれた。

 そのうえで教皇は、「自身の生活と、教会内外の場で、一貫して同じ心をもって信仰を生きているか」に目を向けるよう勧められ、「自分が考え、言うこと、行うことには、同じ心が反映されているでしょうか?」「祈りの中で語ることを、兄弟姉妹への寄り添いと尊敬の気持ちをもって、具体的な行為にしようと努めようとしているでしょうか」と信者たちに問いかけられた。

 教皇は説教の最後に、「私たちの日々の生活の中で、心からの実践的な愛をもって、神がお喜びになる祈りを捧げることができるよう、助けてくださいますように」と聖母マリアに願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年9月1日

☩「『人間とは何か』という現代の問いに直面して、全てのキリスト教徒は、その尊厳を再確認せねばならない」

Pope Francis: Artificial intelligence and advances in science are producing an ‘anthropological revolution’ Pope Francis: Artificial intelligence and advances in science are producing an ‘anthropological revolution’  

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*  教皇のメッセージ全文・英語公式訳

MESSAGE OF THE HOLY FATHER FRANCIS TO MARK THE XVII INTER-CHRISTIAN SYMPOSIUM

To my Venerable Brother His Eminence Cardinal Kurt Koch Prefect of the Dicastery for Promoting Christian Unity

With sentiments of cordial closeness, I greet the distinguished speakers and all the participants in the 17th Inter-Christian Symposium, organized jointly by the Franciscan Institute of Spirituality of the Pontifical University Antonianum and the Department of Theology of the Orthodox Theological Faculty of the Aristotle University of Thessaloniki, which will take place from 28 to 30 August 2024 in Trani, on the theme “‘What is man?’ (Ps 8:4) in the time of anthropological mutation”. In particular, I would like to congratulate the organizers of this unique experience of practical collaboration between Catholics and Orthodox, which has become by now a beautiful tradition.

The title of the Symposium refers to the time of anthropological mutation, but what is happening in our days could be defined as a fully-fledged revolution. The changes brought about by the information technology revolution, such as, for example, the development of artificial intelligence, and the incredible developments in the sciences, are forcing today’s men and women to rethink their identity, their role in the world and in society, and their vocation to transcendence. Indeed, the specific nature of the human being in creation as a whole, his uniqueness with regard to the other animals, and even his relationship with machines, are being constantly questioned. Furthermore, the way in which today’s men and women understand the fundamental experiences of their existence, such as engendering, being born, and dying, are changing structurally. Faced with this ongoing anthropological revolution, it is not possible to react only with denial or criticism. On the contrary, there is a need for profound reflection, capable of renewing the thought and the choices to be made (cf. Video Message on the occasion of the Plenary Assembly of the Pontifical Council for Culture on the theme “Towards a necessary humanism”, 23 November 2021).

This challenge affects all Christians, whatever Church they belong to. For this reason, it is particular interesting that Catholics and Orthodox are promoting this reflection together. In particular, in the light of the teaching of the Sacred Scripture and Christian tradition, it is necessary to reiterate that every human being is endowed with dignity by the mere fact of existing, as a spiritual entity, created by God and destined for a filial relationship with Him (cf. Eph 1:4-5), regardless of whether or not he acts in accordance with this dignity, the socio-economic situations in which he lives, or his existential conditions. The defence of this dignity against very real threats such as poverty, war, exploitation and others is a common commitment for all Churches to work on together.

I gladly accompany the work of the 17th Inter-Christian Symposium with my prayers and, through the intercession of Saint Nicholas the Pilgrim, patron saint of Trani, I invoke the Lord’s blessing on all participants, trusting that they too will have the goodness to remember me in their prayers.

From the Vatican, 17th July 2024

FRANCIS

2024年8月29日

☩「世界は、砂漠や海で命を落とす移民・難民の叫びに、耳を傾けよ」教皇、水曜恒例一般謁見で

(2024.8.28 Vatican News  Devin Watkins) 

 教皇フランシスコは28日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を中断して移民・難民問題を取り上げ、「より良い生活を求めて砂漠や海を渡って命を落とす人々に対する世界の無関心」を批判、「正義と連帯に基づく世界の統治システムの確立」を求められた。

 教皇は「『海』と『砂漠』は、移民・難民や彼らを助けようとする人々の言葉に出てきます」とされたうえで、この二つの言葉は、「移民・難民が旅の途中で越えねばならないすべての物理的な障壁と危険を表しています」と指摘。「人々と文明のコミュニケーションの場であるはずのものが、墓場になってしまった」と嘆かれた。

 そして、「人々の死のほとんどは防ぐことができたはず」とされ、「あらゆる手段を使って組織的に移民・難民を出発地へを押し戻す人々」を非難。「このようなことが意識的に、責任を持って行われる場合、それは重大な罪です。聖書が『異邦人を不当に扱ったり、抑圧したりしてはならない』と言っていることを忘れないようにすべきです」と注意された。

 続けて教皇は、「海」と「砂漠」は聖書の中で象徴的に取り上げられており、この二つは、「抑圧と奴隷状態から逃れる人々のドラマを目撃しています… 『海』と『砂漠』は、苦しみ、恐怖、絶望の場所であると同時に、解放、救済、そして神の約束の実現へと向かう通過点でもあるのです」と指摘され、「神は、彼らと共にそこにいます。神は、彼らと共に苦しみ、彼らと共に泣き、彼らと共に希望を抱いています」と強調された。

 教皇はさらに、「移民は、死をもたらす海や砂漠にいるべきではない、ということに誰もが同意できるでしょう。でも、それは、厳しい法律や国境の武力による取り締まりでは達成できない。私たちは、移民・難民のために安全でルールのある経路を拡大し、戦争、暴力、迫害、そしてさまざまな災害から逃れる人々が避難するのを容易にすることで、これを達成するのです。正義、友愛、連帯に基づく移民・難民に対する全地球的な施策をあらゆる方法で推進することで、これを達成するのです」と訴えられた。

 最後に教皇は、5大陸すべてで負傷したり見捨てられたりして絶望的な状況にある移民・難民を助け、救うことに身を捧げている”多くの善きなサマリア人”たちの働きを称賛し、特に、地中海を渡る移民・難民の救出を目指すイタリアの民間援助組織「Mediterranea Saving Humans」の活動に言及。

 「これらの活動に参加する勇敢な男性たち、女性たちは、”無関心”という有害な”使い捨て文化”に感染することを許さない人類の証しです」と讃えられ、「たとえ最前線に立つことができなくても、祈りを通じて、この『文明のための戦い』に自分なりの方法で、誰もが貢献することが可能です」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年8月28日

☩「いかなるキリスト教会も活動を止められてはならない」教皇、ウクライナ正教会のモスクワ総主教庁系の活動禁止措置に

(2024.8.25   Vatican News)

 教皇フランシスコは25日の正午の祈りの後に、改めて、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーはじめ戦争で苦しんでいる世界の人々のことを思い起こされ、「皆が平和を求めています!主が私たちすべてに平和を与えてくださるよう祈りましょう」と述べ、速やかな戦争終結のために祈るよう、すべての人に呼びかけられた。

 また、ウクライナのゼレンスキー大統領がウクライナ正教会のモスクワ総主教庁系の活動を禁止する法律に署名したことに、ロシア正教会最高位のキリル総主教が反発、非難声明を教皇フランシスコら世界の主要教会トップらに送付しているが、  教皇フランシスコは25日の正午の祈りの後、ウクライナ政府のこの決定が同国における信教の自由に与える影響について懸念を表明、「いかなるキリスト教会も直接的、間接的に活動を止められてはなりません」と訴えられた。

 教皇は、この問題について、「私はウクライナとロシアでの戦闘を悲しみとともに見守っています。そして、ウクライナで最近採択された法律について考えるとき、祈る人々の自由を心配しています。なぜなら、真に祈る人々は、常にすべての人のために祈るからです」と語られた。

 そして、「人は、祈ったからといって悪事を働くわけではありません。もし誰かが自分の国民に対して悪事を働いた場合、その人は罪を負うことになりますが、祈ったからといって悪事を働いたとは言えない。ですから、祈りたい人は、彼らが自分たちの教会と考えるところで祈ることを許されるようにしてください。どうか、どのキリスト教会も直接的、間接的にも廃止されないようにしてください。教会に触れてはなりません!」と、関係者たちに求められた。

・・・・・

 ウクライナ正教会には、歴史的にロシア正教会の影響が強いモスクワ総主教庁系と、ロシアからの独立を志向する独立系が併存している。2022年2月にロシアがウクライナ侵略を始めた後、モスクワ総主教庁系正教会はロシア正教会からの独立を宣言したが、ロシア正教のキリル総主教はロシアのプーチン大統領との関係が深く、侵略を支持する立場で知られ、関係継続が指摘されていた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年8月26日

☩「エムポックス予防と感染者治療に全力を」教皇が訴え

コンゴ民主共和国・ゴマのキャンプでエムポックスの予防活動を行う赤十字の職員コンゴ民主共和国・ゴマのキャンプでエムポックスの予防活動を行う赤十字の職員  (ANSA)

(2024.8.25 バチカン放送)

 教皇フランシスコは25日の正午の祈りで、ウイルス性感染症エムポックス(サル痘)に感染した人々に連帯を表明されるとともに、「すべての患者がふさわしい治療を受けることができるように」と願われた。

 エムポックスは、現在、アフリカとくにコンゴ民主共和国で感染が急激に広がっており、アフリカ全体で今年になってすでに1万5000人以上が感染、500人以上の死者が出ていると言われ、欧州やアジアにも広がりつつある。

 WHO(世界保健機関)は14日に「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言したが、ワクチンの供給は十分でなく、感染拡大を食い止めるに至っていない。

 教皇は、こうした感染拡大の現状に触れつつ、「感染したすべての人々、特にこの感染症に苦しむコンゴ民主共和国の人々のために祈られた。そして、多くの感染者が出ている国々の教会に、ご自身の寄り添いを伝えるとともに、すべての患者がふさわしい治療を受けられるよう、医療技術や処方などの支援を強化するよう、世界各国の政府や医療関係企業に訴えられた。

(編集・加筆「カトリック・あい」)

2024年8月26日

☩「人生を豊かにするために、主を求め、主に留まろう」教皇、年間第21主日の正午の祈り

(2024.8.25   Vatican News)

  教皇フランシスコは25日、年間第21主日の正午の祈りに先立つ説教で、イエスの最初の弟子たちのように、永遠の喜びをもたらす人生の豊かさを得るために、主を求め、常に主に留まるように、と信者たちを励まされた。

 説教で教皇はまず、この日のミサで読まれた福音で、使徒聖ペトロがイエスに「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです」(ヨハネ福音書6章68節)と答え、イエスへの信仰と信頼を確認したことを思い起され、「ペトロは、この素晴らしい告白で、弟子たちが主から離れず、主と共にいたいと願っていることを示しています…弟子たちは、主の説教を聞き、主の奇跡を目撃し、公私ともに主の生活に加わり続けたのです」と説かれた。

 また教皇は、「弟子たちが、主の語られていることや、なさっていることを常に理解しているわけではないため、主に従うのは容易ではなかった… イエスのすべての人に対する愛の根本的な性質、イエスの慈悲の究極の要求、そして制度化された宗教や伝統の規範を超越した主のなさり方を受け入れることは、苦労の連続でした」とされたうえで、「ペテロと弟子たちは、主においてのみ、『命、喜び、彼らを活気づける愛への渇望、への答え』を見出だし、罪や死の限界を超えて、彼らが求める人生の豊かさ体験したのです」と強調。

 さらに、「『主に従う』という課題は、私たち一人ひとり(のに人生)にも関わっています… 私たちも主のやり方を理解し、主の基準と模範を自分のものにしよう、と努力しているからです。その際のカギとなるのは、『常に主の近くにいること』『主の福音に従うこと』『秘跡によって主の恵みを受けること』『祈りの中で主と共にいること』『謙遜と慈愛の模範に従うこと』。そうすることでイエスを友とすることの素晴らしさを経験すればするほど、私たちは、イエスだけが『永遠の命の言葉』を持っておられることに気づくのです」と説かれた。

 教皇は信者たちに、「イエスが、私たちの生活にどれほど存在しておられるか、そして、私たちがイエスの言葉にどれほど心を動かされているか」を振り返るよう勧められ、最後に、「神の言葉であるイエスを肉体に受け入れたマリアが、私たちもイエスに耳を傾け、決してイエスから離れないよう、助けてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2024年8月25日

◎教皇連続講話「聖霊について」⑥「愛、喜び、寛容、誠実…を育てる努力をすれば、周りの人は『イエスの霊の香り』を感じるようになる」

 教皇フランシスコは21日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を続けられ、今回は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられた際、聖霊が降ったことをテーマとして取り上げられた。

 教皇は「イエスの受洗は、啓示と人類の救いの歴史において、極めて重要な瞬間を象徴するもの」と語られ、それによって「主は、父の愛する子であることを明らかにされ、公の宣教活動の初めに、聖霊によって油を注がれたからです」と強調された。

 そして「救世主、司祭、預言者、王として、イエスは、その神秘的な集まりである教会のメンバーである私たちに、聖霊を授けられるのです」と語られ、洗礼において、「私たち一人一人は、『キリストの命に与るしるし』として、また『キリストの救いの存在の香りを世界に広める使命を与えられた者』として、聖香油を注がれるのです」と強調。

 講話の最後に、「私たちが日々この聖香油を忠実に育み、出会うすべての人に『キリストのかぐわしい香り』」を広めるように、と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(2024.8.21 バチカン放送)

教皇の連続講話の要旨は次のとおり。

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今日は、ヨルダン川での洗礼においてイエスに降り、教会であるイエスの体を通して広められる聖霊について考えてみましょう。マルコ福音書には、イエスの洗礼の場面がこのように描かれています―「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(1章9-11節)。

この瞬間、父と子と聖霊の三位がヨルダン川のほとりで一堂に会されました。御父は声をお聞かせになり、聖霊は鳩のようにイエスに降りられ、そしてイエスは御父からご自身の「愛する子」として宣言されたのです。これは啓示と救いの歴史にとって極めて重要な瞬間でした。

イエスの洗礼について、すべての福音記者が語っていますが、その出来事の重要さはどこにあるのでしょうか。答えは、このすぐ後、ナザレの会堂でイエスが語られた言葉の中に見つけることができます。イエスはヨルダン川での出来事に明らかに触れながら、次のように語られました―「主の霊が私に臨んだ… 主が私に油を注がれたからである」(ルカ福音書4章18節)。

ヨルダン川で、神なる御父は、イエスに聖霊を注がれ塗油され、イエスを王、預言者、祭司として聖別されました。旧約聖書では、王や、預言者、祭司は、香り高い油を注がれています。キリストの場合、物質的な油の代わりに、霊的な油、すなわち聖霊を注がれました。象徴の代わりに、本物を注がれたのです。

イエスは受肉の瞬間から聖霊に満たされていましたが、それは譲渡できない「個人的な恵み」でした。しかし、今や、使命のために聖霊の恵みに満たされたイエスは、ご自身の体である教会の頭(かしら)として、教会に聖霊の賜物をめぐらせます。それゆえに、教会は新しい「王の、預言的、祭司的な民」なのです。ヘブライ語の「メシア」、古代ギリシャ語の「キリスト」は、共に、油を注がれた者を意味します。教父たちは、「キリスト者」を「キリストに倣う者として、油を注がれた者」と説明しました。

聖書の詩編に、大祭司アロンの頭に注がれ、衣の襟にまで垂れる、かぐわしい油について歌っている箇所があります(133章2節参照)。兄弟が共に座っている喜びを表すために用いられたこの詩的なイメージは、キリストと教会において霊的かつ神秘的な現実となりました。私たちの頭であるキリストは大祭司、聖霊はかぐわしい油、教会はその油が広がるキリストの体です。

聖パウロは、コリントの信徒への手紙で「私たちは神に捧げられるキリストのかぐわしい香りだからです」(2・2章15節)と書いています。残念ながら、キリスト者はしばしば、『キリストのかぐわしい香り』でなく、『自分自身の罪の悪臭』を、まき散らしています。そうすることで、一人ひとりが自分の置かれた環境で、この世におけるキリストのかぐわしい香りとなる、という崇高な召命を実現する努力をそらすことになってはなりません。

キリストの香りは、「霊の結ぶ実」から発します。「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。これらの実を育てるように努力するなら、私たちが気付かないうちに、誰かが私たちの周りにキリストの霊の香りを感じるようになるでしょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」に改めました。またバチカン放送に聖書の引用箇所に誤りがあったので修正してあります)

 

2024年8月22日

☩「ウクライナ、ミャンマー… 速やかな平和の回復を改めて祈る」水曜恒例の一般謁見で

Mourners hold a vigil for victims of an attack on an IDP camp in Goma, DRCMourners hold a vigil for victims of an attack on an IDP camp in Goma, DRC  (ANSA

(2024.8.21 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

2024年8月22日

☩「イエスの『天から降った生けるパン』を喜んで受け入れよう」教皇、年間第20主日に

(2024.8.18 Vatican News   Thaddeus Jones)

   教皇フランシスコは18日、年間第20主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書(6章51‐58節)と取り上げ、イエスがご自分は「天から下って来た生きたパン」であると語った箇所を振り返り、この言葉は、私たちの心の飢えを満たす天のパンとして、イエスがご自分を全面的に私たちに与えてくださったことを意味する、とされ、「驚きと感謝の気持ち」を改めて持つことを信者たちに促された。

  ヨハネ福音書のこの箇所では、イエスが”パンの奇跡”をなさった後で、群衆に「私は、天から降って来た生けるパンである」と語られた場面が描かれ、その言葉を聞いた彼らが、それが何を意味するのか、どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか、と議論し合ったことが記されている。

 説教で教皇は、「この群衆の疑問は、今日も私たち自身に問いかけることができますが、その際、驚きと感謝の気持ちを持って、そうすべきです」とされ、「彼らのように疑いの心をもって、ではなく、驚きをもって心を開くことが必要なのです」と指摘。

 そして、「イエスがご自分を『天からのパン』と言われたのは、それが私たちの期待をすべて超える賜物であり、イエスの肉体と血は救い主の人間性を示し、イエスの命そのものが私たち自身の栄養としてくださったものだからです」と強調され、「イエスが、私たちの救いと永遠の精神的栄養のために、その肉体と血のすべてを捧げてくださっていることを感謝することで、私たちはそれに応えます… イエスが、私たちのために、私たちと共におられるところで、私たちはイエスを認識するのです」と説かれた。

 また教皇は、「真の人であるキリスト」は、私たちが生きるために食べる必要があることを知っておられるが、「胃袋を満たす食べ物だけでは十分ではありません。イエスはさらに大きな贈り物を用意しておられます。それは、イエス自身が真の食べ物、真の飲み物となることであり、これに対して私たちは『主イエス、ありがとう!』としか言えません」と語られ、「父なる神からの『天のパン』は、肉体となったイエスであり、私たちの心の飢え、つまり希望、真実、救いへの渇望を満たしてくれます。この飢えは、主のみが満たせるのです」と強調された。。

 そのうえで教皇は、「イエスは私たちを救い、永遠に私たちの命を養われます。その主のおかげで、私たちは神と交わり、生きることができる… この『生きた真のパン』は、単に私たちの人生のすべての問題を解決するだけでなく、貧しい人々から日々の糧を奪うことの多い私たちの世界に計り知れない希望を与えてくださいます」と語られた。

 さらに教皇は、「私たちが自分自身だけでなく他の人々のためにも救いを渇望しているかどうか」自問するよう信者たちに勧められ、「聖体拝領のとき、私たちのために死んで復活され、その『慈悲の奇跡』を捧げてくださった主の御体に、私たちは畏敬の念を抱いているでしょうか」と問いかけられた。

 そして最後に、「パンのしるしの中にある天の賜物を私たちが迎え入れられるように」と聖母マリアに助けを願う祈りを捧げられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年8月18日

☩「死刑は正義をもたらさない、社会にとって”毒”だ」教皇、新刊本「死刑囚のキリスト教徒」の序文で

(2024.8.18 Vatican News )

 教皇フランシスコは、デール・レシネラ氏の新著「死刑囚のキリスト教徒:死刑囚への私の献身」に序文を寄せられた。レシネラ氏は72歳の元ウォール街の弁護士で、妻スーザンとともに、1998年以来、フロリダの複数の刑務所で一般信徒のカウンセラー( lay chaplain)として信徒牧師として死刑囚の精神面でのケアをしてきた。この本は、バチカン出版局(LEV)から8月27日に出版される予定。教皇による序文は以下の通り。

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 福音とは、人生を変える生きた人との出会いです。イエスは、私たちの計画、私たちの願望、私たちの見方を一変させる力をお持ちです。イエスを知ることは、私たちの存在を意味のあるものにすることです。なぜなら、主は私たちに決して色あせることのない喜びを与えてくれるから。それはまさに神の喜びなのです。

 デール・レシネラ氏とは謁見中に知り合い、長きにわたりロッセルバトーレ・ロマーノ紙に書かれた記事や、この感動的な本を通じて彼のことをより深く知るようになりましたが、彼の語る物語は私が言ったことを裏付けています。そして、将来に別の目標を持っていた人が、キリスト教徒として、夫として、そして父親として、死刑判決を受けた人々のカウンセラーになったのかを理解できるのです。

 彼の(死刑囚カウンセラーとしての)仕事は極めて困難で、危険で、骨の折れる仕事です。それは、あらゆる側面で悪に関わっているからです。被害者に対して犯された取り返しのつかない悪、死刑判決を受けた人が確実に死ぬ運命にあることを知りながら経験している悪、死刑制度を通じて社会に植え付けられた悪。私が繰り返し強調してきたように、死刑は罪のない人々を襲う暴力に対する解決策には決してなりません。死刑は正義をもたらすどころか、復讐心を煽り、市民社会の組織にとって危険な毒となります。

 国家は、もはや生きる価値がなく処分されるべき人間であるかのように、囚人たちを処刑するために物的、人的を投入するのではなく、彼らが心から生き方を変える機会を与えることに重点を置くべきです。フョードル・ドストエフスキーは小説『白痴』の中で、死刑判決を受けた男性について語り、死刑の論理的かつ道徳的不可能性について、次のように簡潔にまとめています。

 「それは人間の魂を侵害するものであり、それ以上のものではない!『汝殺すなかれ』と書いてあるのに、彼が人を殺したために、他の人が彼を殺すのだ。いや、それは存在すべきではないものだ」。

 (2025年の)聖年においては、「カトリック教会のカテキズム」が述べているように、「人間の不可侵性と尊厳に対する攻撃であるため、容認できない」 ( 2267項)死刑制度の廃止を、すべての信者が共同で呼びかけることを約束すべきです。

 この著作は、著者の妻スーザンの多大な貢献を忘れずに、自身が生活し働いている米国の教会と社会にとって、大きな贈り物です。特に死刑囚が収容されている刑務所のような非人道的な場所での一般信徒のカウンセラーとしての彼の献身は、神の無限の慈悲に対する生きた情熱的証言です。慈しみの特別聖年が教えてくれたように、私たちは、「自分の罪、過ち、または行動が私たちを永久に主から遠ざける可能性がある」と決して考えてはいけません。主の心は、すでに私たちのために十字架につけられています。そして神は、私たちを許すことしかできません。

 確かに、この無限の神の慈悲は、イエスの時代に神の子が罪人や売春婦と食事をしたときに多くの人々を驚かせたように、スキャンダラスなものにもなり得ます。デール兄弟はまた、死刑囚に対する精神的な献身のために批判、抗議、拒絶に直面しています。しかし、イエスが死刑を宣告された泥棒を抱きしめたというのは本当ではないでしょうか。

 デイル・ラシネラは、刑務所、特に彼が「死の家」と呼ぶ刑務所の敷居をまたぐたびに、神の愛は無限で計り知れないものであることを真に理解し、その人生で証言してきました。そして、私たちの最も凶悪な罪でさえ、神の目に私たちのアイデンティティを傷つけることはありません。私たちは神の子供であり、神に愛され、神に気遣われ、神に大切にされているのです。

 したがって、私はデイル・ラシネラに心からの感謝を捧げたいと思います。なぜなら、死刑囚のカウンセラーとしての彼の仕事は、イエスの福音の最も深い現実、つまり神の慈悲、過ちを犯した人々を含むすべての人に対する神の無条件で揺るぎない愛に執着し、情熱的に固執しているからです。そして、十字架上のキリストのような愛情深い視線から、彼らが人生、そして死に新たな意味を見いだすように。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

*「カトリック・あい」注

 教皇フランシスコが2018年に改定される前の「カトリック教会のカテキズム」2267項の冒頭には「教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元が責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑を科すことも排除されていません」と、厳しい条件を付けて死刑を容認することが明記されていた。またヨハネ・パウロ二世は1995年の回勅「命の福音」で、「絶対的に必要な場合を除いて」死刑を科すべきでない、という表現をしている。

 それを、一挙に死刑の無条件全面廃止を全世界に求める内容に改めた理由を、改定2267項では、「今日、人間の尊厳は重大な罪を犯した後にも失われない、という意識が、ますます高まっています。また、刑法上の処罰の意味について、国家側の新しい理解も広まってきました。さらには、市民を守るという義務を保証すると同時に、犯罪人から自ら罪を償う可能性を完全に取り上げない、より効果的な拘置の制度が整備されてきました」と説明している。

 だが、果たして、その説明のように、現実の世界の国々で「より効果的な拘置の制度が整備され」、殺人者を更生する、あるいは殺人を未然に防ぐ体制が本当に整えられた、と言えるのだろうか。現に、日本などでは、「どうせ殺しても、未成年なら死刑になることはないし、すぐに社会に出られる」、あるいは、「最近の裁判では、一人殺して死刑になることはなくなっている」との認識が、殺人に対する抑制力がきかない一因になっている、との見方があるし、残虐な殺人を犯したが、少年法の適用を受けて数年で社会に戻り、凶悪犯罪を重ねる例もある。死刑が廃止された国や州では、裁判以前に警察が凶悪犯を容易に射殺するケースもある。

 こうした背景に、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃のように、国家による非力な他国民の大量虐殺が頻発するという現実がある。こうした現状に対する真剣な対処が進められないままで、一方的に、世界一律に国家による殺人者の死刑の無条件廃止を叫ぶことには、異論もある。教皇フランシスコは以前には、こうした異論を一部聞き入れる発言もあったが、今は死刑全面廃止論者になったようにも思われる。

 

2024年8月18日

☩「ガザが深刻な人道危機に陥っている、一刻も早く停戦を」教皇、聖母被昇天の祝日に再度訴え

(2024.8.15  Vatican News)

 教皇フランシスコは15日の聖母被昇天の祝日の正午の祈りに続いて、世界中の紛争と戦争で苦しんでいる人々、ウクライナ、中東、パレスチナ、イスラエル、スーダン、ミャンマーの人々を思い起こされ、「今日、天国の栄光の中で私たちを見つめておられる平和の女王マリアが、すべて人々が慰めと平穏と調和の未来を得られるよう助けてくださいますように」と祈られた。

 教皇は、特に、人道危機が壊滅的なレベルに達しているガザの苦しむ人々のために祈られ、「あらゆる地区での停戦、人質の解放、そして疲弊した住民への援助」が速やかに実現するよう、当事者たちに訴え、「これ以上の悲劇を止めるために、交渉の道を追求するようあらゆる努力をする」よう求められた。そして「戦争は常に敗北を意味する」と改めて強調された。

 この日、エルサレムのカトリック管理者のフランシスコ・パットン神父が、オリーブ山でミサを捧げ、紛争の速やかな終結を祈り、聖母マリアに、平和と人類の最終的な和解への熱烈な願いを託した。またラテン典礼エルサレム総大司教ピエールバッティスタ・ピッツァバッラ枢機卿は、この日にドーハで行われているガザ停戦交渉も念頭に、和解と平和のために熱心に祈るよう信者たちに呼びかけた。

 ガザ地区保健省は15日、イスラエル軍のガザ地区攻撃により、昨年10月7日のイスラエルへのハマスによる攻撃で1200人が死亡、251人が人質に取られて以来、4万人以上のパレスチナ人が死亡、9万2400人以上が負傷したと発表した。現地で活動する国際援助機関は、最大2万1000人の子供が行方不明になっており、瓦礫の下に閉じ込められたり、墓石のない墓に埋葬されている可能性があると推定している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年8月15日

☩「聖母マリアは私たちを永遠の命に導いてくださる」教皇、聖母被昇天の祝日・正午の祈りで

Pope Francis leads Angelus prayer at the VaticanPope Francis leads Angelus prayer at the Vatican  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇フランシスコは、聖母被昇天の祝日の15日、正午の祈りに先立つ説教で、聖母は決して”動かない蝋人形”ではなく、常に私たちの勤勉な仲間であり、主と共に天国への私たちの歩みを喜びをもって先導くださる存在と認識せねばならない、と語られた。

 「私たちの母であるマリアは、私たちを喜びをもって御子のもとへ導いてくださる…」。教皇はこの説教で、このことを再確認された。

 教皇はこの日のミサで読まれた福音書で、マリアと従妹のエリザベトとの対話の場面を思い起こされ、信者たちに、「生涯を通じて、マリアの絶え間ない寄り添いを感じるように」と促された。

 そして、「私たちは、マリアを”動かない蝋人形”として想像すべきではありません」とされたうえで、「マリアの中に、私たちは、すり減ったサンダルを履き、ひどく疲れた姉妹を見ることができます。そして、彼女は、天国の栄光の中で旅を終えるのです」と指摘。

 「このように、聖母マリアは、天国への道で私たちの先を行く存在であり、私たちの人生もまた、主との最終的な出会いに向かう​​旅であることを、私たち全員に思い起させてくださるのです」と強調された。

 最後に教皇は、すべての信者に、いつも私たちの側にいて、主との出会いへ導いてくださるよう、マリアに祈るよう勧めて、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年8月15日

☩「人間関係が希薄な現代社会に、人々を愛をもって見守る教育者が求められている」‐4修道会の総会参加者たちに

教皇フランシスコ、4つの修道会の関係者と 2024年8月12日 バチカン宮殿教皇フランシスコ、4つの修道会の関係者と 2024年8月12日 バチカン宮殿  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2024.8.12  バチカン放送)

 教皇フランシスコが12日、バチカン宮殿で、総会開催中の聖シストのドミニコ宣教女会、聖心会、聖マリアの神殿奉献修道女会、召命修道会の関係者との集いを持たれ、修道会がそれぞれの存在と使徒職を考える上で役立つように、「識別」「育成」「愛(カリタス)」の3つの視点から助言された。

 講話の中で、教皇はまず、「識別」を取り上げ、「人生の大きな選択から日常の小さな選択まで、識別は人生の一部ですが、神の御旨を具体化するために、神に、自分自身に、そして他者に耳を傾け、祈り、忍耐強く待つことは大変な仕事です」とされた。

 同時に、識別によって、「素晴らしい決意、正しい決心をすることは、喜びの、大きな幸福な体験となります。今日の世界は、特に召命のような、人生を決定づける決断をすることの味わいと素晴らしさを再発見する必要があります」と強調。それゆえ、「右へ左へ少し足を向けるだけで、一つの道に本当に踏み込もうとせず、永遠に分岐路の前に立っているのが、本当の自由ではないことを理解できるよう、両親は若者たちを助けなければなりません」と語られた。

 次に「育成」について、教皇は「修道生活そのものが、その人の全人生におよぶ聖性における成長の道のりであり、その過程で、主は。ご自身がお選びになった人々の心を、絶えず形作られます」とされ、「自分自身を『常に育成過程にある者』と謙虚に認めることのできる人だけが、他者のためのよい『育成者』となることができるのです」と指摘。情報が次から次へと押し寄せる一方で、人間関係が希薄な現代の社会・文化の中で、「今こそ、託された人々の歩みを、愛をもって見守ることのできる教育者が求められています。その意味で、皆さんの修道会の使命は預言的なものです」と説かれた。

 「愛(カリタス)」について教皇は、「今日ここに集まられた4つの修道会はすべて、誰かの助けがなければ自分の未来のために教育を受けることもできない困窮した若者たちを支え、教えることから生まれました… 修道会の創立者たち、聖マグダレナ・ソフィア・バラ、聖ジュスティーノ・マリア・ルッソリッロ、尊者マリア・アントニア・ラリア、マードレ・カテリーナ・モリナーリは皆、自分の使命のための神のしるしを、そうした若者たちの中に見ていたのです」と指摘された。

 最後に教皇は、特に「総会」という共同体的識別の日々において、「貧しい人々の顔を常に目の前に見つめ、彼らの眼差しの下で、教会の中に各会が誕生するきっかけとなった無償・無私の愛の衝動が、常に生き生きと脈打つようにすることを、心にとめてください」と、各修道会の関係者たちに願われた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2024年8月14日

☩「先入観にとらわれず、主の言葉に心を開こう」-年間第19主日の正午の祈りで

教皇フランシスコ 2024年8月11日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2024年8月11日のお告げの祈り  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2024.8.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11日、年間第19主日の正午の祈りに先立って、この日のミサで読まれた福音(ヨハネ福音書6章41~51節)、イエスが「私は天から降ってきた」と言われたのに対して、人々が「これはヨセフの息子のイエスではないか」とつぶやき合う場面を取り上げて説教をなさった。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 今日の典礼の福音は、「私は天から降ってきた」とイエスがはっきりとおっしゃったことへの、ユダヤ人たちの反応を語っています。

 彼らは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき合いました。

 彼らの言葉に、よく耳を傾けてみましょう。彼らは、「イエスが天から降って来られるはずがない」と確信していました。なぜなら、イエスは大工の息子であり、彼の母や兄弟たちも、他の多くの人のように、普通の人として知られていたからです。どうして神がこれほど普通の形で現れることができるだろうか…。彼らは、自分たちの信仰の中に、イエスの質素な生い立ちをめぐる先入観にとらわれてしまった。それゆえに、イエスから何も学ぶことができなかったのです。彼らは、凝り固まった考えを持ち、「自分たちの安定」という”埃をかぶった棚”に置けないもの、保存できないものを、心に受け入れる余裕がありませんでした。

 彼らは掟を守り、喜捨をし、断食や祈りの時間を尊重する人たちでした。キリストは、すでに多くの奇跡を行なっていた(ヨハネ福音書2章1-11節、4章43-54節、5章1-9節、 6章1-25節参照)のに、どうして、ご自分がメシアであることを、彼らに認めさせることができなかったでしょう。それは、彼らの宗教的実践は、主の言葉に耳を傾けはしたものの、自分が考えていることを確認することにあったからです。

 そのことは、彼らがイエスに説明さえ求めないことで分かります。彼らは、イエスの言葉を聞いてつぶやき始め、それは、自分たちの確信を互いに確認し合い、誰も侵入できない砦に閉じこもるかのようでした。それで、彼らは信じることができなかったのです。

 彼らのこうした態度に注意を向けましょう。それは、しばしば同じことが私たちの信仰生活や祈りの中で起きかねないからです。たとえば、主の言葉に耳を傾け、主の真意を受け取ろうとする代わりに、自分の考えや確信、判断を確認するだけのことがあります。このような神との向き合い方では、神と本当に出会うことができず、善のもとに成長し、御旨を果たし、閉じた困難な状態を克服し、その光と恵みの賜物に自分を開くことができません。真の信仰と祈りは、精神と心を開くものであり、閉じるものではありません。

 自分に問いかけてみましょう。「信仰生活で、私は本当に自分を沈黙させ、神の言葉に耳を傾けることができるだろうか?」「自分の決まり切った考えを超え、神の助けをもって恐れに打ち勝ち、み言葉を受け入れることができるだろうか?」。

 マリアよ、信仰のもとに主の声に耳を傾け、勇気をもってその御旨を果たせるように、私たちをお助けください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年8月12日

☩「広島、長崎の原爆犠牲者、そしてウクライナ、パレスチナ、ミャンマーなどすべての戦争犠牲のために祈ろう」

Pope Francis prayed at the Peace Memorial Park in Hiroshima on November 24, 2019Pope Francis prayed at the Peace Memorial Park in Hiroshima on November 24, 2019  (AFP or licensors)

(編集「カトリック・あい」)

2024年8月11日