◎教皇連続講話「祈りについて」㉖「祈りは戦い、だがイエスはいつも私たちと共にいてくださる」

Pope Francis holds general audience at the Vatican対面の一般謁見再開ーコロナは大丈夫? 

(2021.5.12 Vatican News Linda Bordoni)

  教皇は12日、コロナ対策としてバチカン宮殿から動画配信の形で続けて来られた水曜恒例の一般謁見をバチカンの聖ダマソの中庭で再開され、「祈りについて」講話で、「祈りが時として、いかに難しくなるのか」「多くの偉大なキリスト教徒が試練の時に障害と危機に打ち勝つのに、いかに悪戦苦闘するのか」について考察された。

 約半年ぶりに信者たちと交流される一般謁見を再開された教皇は、冒頭で「皆さん一人ひとりとおできるることを大変うれしく思います。私たちは神において皆兄弟で、こうして出会うことは互いのために祈ることを助けてくれるからです」と集いへの参加を感謝された。

 講話では、まず、「祈りとは一時的な気休めではありません… 聖書や教会史で出会ういかなる偉大な祈り手も、”楽な祈り”をしてはいません」とされ、「祈りは、確かに大きな安らぎを私たちに与えますが、それは時には、辛くて長い内面の戦いを通して得られるもの。決してたやすいことではありません… 私たちは、祈ろうと思っても、すぐに他の本質的でないことで気をひかれ、祈りを後回しにしてしまうことがある。敵はそうして私たちを陥れるのです」と語られた。

 そして、「神に結ばれた人たちは、祈りの喜びだけでなく、難しさや苦労にも触れています… ある聖人は何年にもわたって、祈りに何の味わいも、有益さも見出すことができませんでした」とし、「沈黙・祈り・集中は難しい。祈りたい人は、信仰とは簡単なものではなく、時には何の手がかりもない、完全な闇が生じることも忘れてはなりません」と忠告された。

 また教皇は、祈りの敵になるものとして、「祈りによって本当に神にたどり着けるのか」「なぜ神は沈黙しているのか」という疑いや、神の捉えがたさを前にしての「祈りは単なる心理的操作に過ぎない」「何かには役立つだろうが、本当に必要ではない」という思い、さらには「信じること」なしに「実践」だけをする態度、などを挙げられた。

 さらに、「祈りの最悪の敵は、私たち自身の中にあります」とされて、祈りの戦いとは、「すさみからくる失望、『たくさんの財産』を持っているためにその全てを主に差し出すことのできない悲しみ、『自分の望みどおりに願いが聞き入られない』という落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感、などとの戦い」と、「カトリック教会のカテキズム」( 2728項)を引用して語られた。

 続いて教皇は「私たちの心が誘惑に揺らぐ時、それを乗り越えるにはどうしたらよいでしょう」と信徒たちに問いかけられた。

 そして、そのために、「霊性の歴史の中で多くの師たちが与える助言に耳を傾けること」を勧められ、具体例として、聖イグナチオ・デ・ロヨラの著書「霊操」は「私たちの生き方を整えることを教え、キリスト教的召命とは、悪魔の旗の下ではなく、イエス・キリストの旗の下にとどまって戦う決意であり、困難の中にあっても、善を行う努力をすることだ、と教えてくれます」と有用性を解かれた。

 また、「修道生活の父」と呼ばれる聖アントニオ修道院長(251年‐356年)の祈りの戦いについて、教皇は、アレキサンドリア司教の聖アタナシオが著書「聖アントニオ伝」で記したエピソードを紹介された。聖アントニオは35歳頃に、人生で最も深刻な霊的危機の一つを体験した。彼は危機に動揺しながらも、それに耐え抜き、平安を取り戻した時、主に向かって「主よ、どこにいらしたのですか。なぜ私の苦しみを終わらせるために、すぐに来てくださらなかったのですか」と詰問した。すると、イエスは答えられた。「アントニオ、私はそこにいたのだ。しかし、おまえが戦うのを見届けるために待っていたのだ」(聖アントニオ伝、10)。

 さらに、教皇は祈りの戦いにまつわる話として、ご自身がアルゼンチンの教区で働いておられた時の体験を回想された。

 毎日曜のミサに出たことのない労働者の男性の娘さんが危篤になった。それで、彼は70キロ離れた、アルゼンチンの守護、ルハンの聖母の巡礼聖堂に出掛けた。だが、聖堂に着いた時には、すでに午後10時になっており、門が閉じられていた。それでも、彼は門の柵を握りしめ、夜明けまで祈り続け、朝の6時に門が開くと、聖堂の中に入って聖母像に挨拶して帰宅した。そして家に着くと、娘さんはすっかり回復していた。

 教皇は「彼の必死の思いが、祈りを通して、聖母の恵みを受け、聞き届けられたのです。聖母が聞き入れらたのです。私はその証人ー祈りは奇跡を起こします、なぜなら、祈りは、父として私たちをみる神の優しさに、直接届くからです」と説かれ、「私たちは、必要な時に恵みを求めますが、戦わずに、それを得ようとします… だが、祈りは戦い。主は私たちといつも共にいてくださいます」とされた。

 そして、最後に次のように締めくくられた。

 「イエスは私たちといつも共にいてくださいます。盲目になる時、私たちはイエスの存在を見ることができないが、見える時がきます… 私たちの人生の終わりに、これまでを振り返り、このように語ることができるでしょうー『私は、自分が一人だと思っていた。だが、そうではない。イエスが共におられる』と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年5月12日

☩教皇「聖なる地が暴力的対立でなく、出会いと祈り、平和の場となるように」

(2021.5.11 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは9日の正午の祈りで、エルサレム、アフガニスタン、コロンビアの情勢に触れ、これらの地に平和を希求された。

 エルサレムのイスラム教とユダヤ教双方の聖地「神殿の丘」などでパレスチナ人とイスラエル警察の衝突が続き、多くの負傷者が出ている情勢を深く憂慮した教皇は、「この聖なる地が、暴力的な対立の場ではなく、出会いと、祈り、平和の場となる」ように強く願われた。そして、「この聖なる都の他宗教的・多文化的なアイデンティティーが尊重され、兄弟愛が争いに勝る」ように、可能な解決策を共に追求する努力を訴えられた。

 イスラエルの現地メディアなどの報道によると、エルサレムのイスラム教とユダヤ教双方の聖地「神殿の丘」など複数の箇所で、パレスチナ人とイスラエル警察の衝突が続き、パレスチナ赤新月社(赤十字に相当)ではパレスチナ人の負傷者だけで10日現在は331人に上っている。さらに、10日夕にはパレスチナ自治区ガザからイスラエルに向けて約40発のロケット弾が発射され、一部はエルサレム郊外に着弾。ガザに近いイスラエル南部では、イスラエル人1人が軽傷を負った。ガザを実効支配するハマスが発射を認める声明を出した。イスラエル軍は報復としてガザを空爆。子ども9人を含む⒛人の死者が出ている。

 また、教皇は、アフガニスタンの首都カブールで8日発生した爆破テロで犠牲になった多くの女子生徒たちを悼まれ、その一人ひとりと遺族のために祈るよう、信徒たちに呼びかけ、アフガニスタンの平和を神に祈られた。

 コロンビアで、反政府デモ隊と治安部隊が衝突し、死傷者が出ている事にも触れ、正午に祈りに集った多くのコロンビア人たちと共に、同国の平和を祈られた。

2021年5月11日

☩「愛は他者に奉仕すること、支配することではない」復活節第六主日の正午の祈りで

(2021.5.9 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは9日、復活節第六主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(15章9‐17節)を考察。

 イエスが弟子たちに話された「私の愛にとどまりなさい」(15章9節)について、「この言葉は、他者に対する自己犠牲の奉仕を、最もよく表しています」と語られた。 そして、弟子たちだけでなく、私たちも、「ご自分の愛が私たちの中にあり、私たちの喜びがみたされる」ように、ご自分の愛の中にとどまるように招いておられる、と強調された。

*父の愛を知る

 また教皇は、この愛は「愛である父なる神を源泉とし、川のように、御子イエスを通して私たちに流れてきます… イエスが私たちにくださる愛は、父がご自分に注がれる愛と同じ、純粋で、無条件で、進んで与えられる愛です」とされ、 「この愛を私たちにくださることで、イエスは私たちを友のように扱い、私たちに父を知らせます。そして私たちを、この世に対するご自分の使命に世界の生活のための彼の同じ使命に関わるようになさいます」と説かれた。そして「イエスの戒めを守ることで、私たちは、イエスの愛に留まるのです」と付け加えられた。

*互いを愛する

 ヨハネの福音書のこの箇所で、イエスは弟子に対する戒めを次の言葉で要約されたー「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。

 教皇は、「『キリストのように愛する』とは、『自分たち自身にとどまることなく、困窮している人々に心を開く』こと。『キリストとして愛する』とは、イエスが弟子たちの足を洗われた時のように、『兄弟姉妹に仕える』ことを意味します」と指摘。 「それは、私たちがいつもそうする用意をしていることを意味します。そして、『言葉』ではなく、『行い』で愛することを意味するのです」 と強調された。

*暴力や支配ではなく、奉仕で

 さらに教皇は、「私たちがキリストのように愛するために、お金、成功、権力への愛のような、世俗的な愛を脇に置くことが求められます。このような愛は、私たちを、主の愛から遠ざけ、利己的で自己陶酔的で尊大にし、真の愛の退化、他人への虐待、愛する人を苦しめることにつながります」 とされ、多くの女性が苦しめられている「暴力的な不健全な愛」は「愛ではありません」と指摘された。

 主が私たちを愛しておられるように愛する、ということは、「私たちのそばにいる人たちを正しく評価し、自由を尊重し、そのままの姿で愛することを意味します…  それはまた、他の人たちを支配するという野心を克服し、自分自身を彼らに奉げることを意味するのです」とかさねて強調された。

*喜びを証しする人に

 最後に、教皇は、私たちの喜びが満たされるように、イエスの愛にとどまることを、信徒たちに改めてお勧めになった。

 「神に愛されていることを知る喜びは、私たちが自信を持って人生の試練に立ち向かうことを可能にし、危機を乗り越えることができるようにします。 私たちの真の証しは、この喜びを生きることにあります。喜びは真のキリスト教徒の特徴的なしるしだからです」 と語られた教皇は、次の祈りで、締めくくられた。

 「聖母マリアが、私たちがイエスの愛にとどまり、すべての人への愛で成長し、復活され主の喜びを証しするのを助けてくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年5月9日

☩9月の世界難民・移民の日へー「より幅広い『私たち』に向かって一致した努力を」

教皇フランシスコと移民たちとの出会い 2017年10月1日 イタリア・ボローニャ訪問で教皇フランシスコと移民たちとの出会い 2017年10月1日 イタリア・ボローニャ訪問で 

 教皇フランシスコが6日、9月26日に予定するカトリック教会の「第107回世界移民・難民の日」に向け、メッセージを発表された。

 メッセージで教皇は、回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」で訴えられた「新型コロナウイルスの世界的大感染終息後の世界が、消費主義や利己主義に再び陥ることなく、正義と、平和、受容性に満ちたものとなるように」との思いを改めて示された。

 そして、「救いの歴史は最初から最後まで『私たち』を見つめ、その中心には『すべての人を一つにしてください』と祈り、死に、復活された『キリストの神秘』がありますが、今日、神が望まれたその『私たち』は壊され、傷つけられ、歪められてしまった」と指摘。

 この傾向は、特に現在のコロナ危機の中で、これまでよりも顕著になっており、閉じた国家主義や極端な個人主義が「私たち」を分裂させたことに対し、代償を払うのは「私たち以外の人、つまり外国人、移民、疎外された人々」だが、「実際には、私たちは同じ船に乗っており、皆が他人同士ではなく、ただ一つの『私たち」となるように求められているのです」と訴えられた。

 さらに、「いかなる時代においても、生きているべき『カトリック教会の普遍性』」を強調され、「外国人、移民、難民が提供する多様性との出会いと異文化対話の中で、私たちは教会として成長し、相互に豊かになる機会を与えられています」と語られた。

 「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章7-8節)という、イエス・キリストが弟子たちに託した使命に従い、「私たち一人ひとりが自分の置かれた共同体から出発し、より共にある教会を目指し取り組むように」と世界の信徒たちに呼びかけられた。

 メッセージの最後に、教皇は「教会と共同体の『私たち』の中に迎え入れた難民に対する行為を祝福してください… 私たちの地球が、すべての兄弟姉妹の共通の家となるように」と神に祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月6日

◎教皇連続講話「祈りについて」㉕観想的祈りは愛の道の案内役」

(2021.5.5 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは5日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」の講話を続けられ、「観想的な祈りが、私たちにとって、愛の道に沿ってイエスに従う助けとなる」ことを強調された。(2021.5.5 バチカン放送)以下、翻訳中)

 教皇は講話でまず、「人間の観想的な側面は、生活に風味を付ける『塩』のようなもの、とされ、「日の出や、春を迎えた木々の芽吹き、鳥のさえずり、また音楽など芸術の中での観想を通して、人は日常を深く味わうことができるのです」と語られた。

 そして、今は故人となられたカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿が司教としてミラノに派遣されて最初に発表した司牧書簡のテーマが、「生活の観想的側面」だったことを思い起こされ、「人工的で機能中心の大都市に住む人々は、観想する能力を失ってしまう恐れがあります」とし、枢機卿の書簡もそれを念頭に置いたものだった、と暗に指摘された。

  続いて、観想的な祈りは「方法」であると同時に「あり方」でもあり、「観想的であることは、目よりも、心によるもの。そうした祈りは、信仰と愛の行為、神と私たちの間に息づくものとして、重要な役を果たします」とされ、また、「祈りは心を清め、まなざしを澄んだものにし、現実を、別の見方から捉えることを可能にする」と語られ、観想的な祈りによる心の変容を、アルスの聖なる主任司祭、ヨハネ・マリア・ヴィアンネ神父の証しを通して示した「カトリック教会のカテキズム」の一節を引用された。

 「念祷(観想的な祈り)とは、イエスへと注ぐ信仰のまなざしです。聖なる主任司祭がいたころ、聖櫃の前で祈っていたアルスの農夫は、『私はあのかたを見つめ、あのかたは私を見つめておられます』と話していました。…イエスのまなざしの光は私たちの心の目を照らし、あらゆることをご自分の真理とすべての人に対するご自分の憐みとに照らして眺めるように、と教えてくれます」(2715項)。

 教皇は「『私はあのかたを見つめ、あのかたは私を見つめておられます』ーこれこそが、愛に満ちた観想的祈り、多くの言葉を必要としない、最も親密な祈りの姿であり、必要なのはだ一つのまなざし、『私たちの命は大きな誠実な愛に包まれている』という、ただ一つの確信です」と強調された。

  そして、「イエスは、こうしたまなざしの師でした… イエスはその生涯で、神との親密な交わりの時間、空間、沈黙を欠かしたことがなく、天の御父とのその交わりはイエスにとって避けがたい試練をも超えさせるものでした」とされた。

 その一例として、福音書の「イエスの変容」を挙げられた。この箇所では、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られた時、「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」(マルコ福音書9章2-3節)と記述されている。教皇は、「このエピソードは、イエスの周囲に拒否や無理解が広がる中で、ご自身の受難と死と復活をはっきりと予告され始めた頃のこと… 無理解の闇の中で輝いた神々しい光、それは御子を満たし変容させる『御父の愛の光』でした」と説かれた。

 また、教皇は、「観想」を「行動」の対極に置こうとする”古色蒼然とした誘惑”に陥らないように警告され、「過去の霊能力師の中には祈りについてそうした二元論的な理解をする人もいました。しかし、イエス・キリストにおいても、福音においても、『観想』と『行動』の間に対立はありません。福音における唯一つの崇高な呼びかけは、愛の道に沿ってイエスに従うように、との呼びかけです。それがすべてのことの頂点であり、そうした意味で、慈善と感想は同義、同じことを表現しているのです」と強調された。

 講話の最後に教皇は、教会が生んだ偉大な神秘思想家で観想的祈りの達人、十字架の聖ヨハネの教えを思い起こされ、次のように締めくくられた。

 「純粋な愛の小さな行為は、他のあらゆる業を合わせたものよりも教会の役に立つ… 自我の思い込みではなく、祈りから生まれたもの、謙遜で純化されたものは、たとえそれが隠された、目立たない愛の行為であったとしても、キリスト教徒ができる素晴らしい偉業になるのです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)

2021年5月5日

☩環境悪化の中で「共通善の追求に一層の努力を」と教皇が激励ー「世界報道自由デー」に

File photo of dummies with press jacketsFile photo of dummies with press jackets  (AFP or licensors)

世界の自由で人々の役に立つ報道を巡る環境は、現在も続く新型コロナウイルスるの世界的大感染の中で、一段と悪化している。世界のジャーナリストが参加する「国境なき記者団(RSF)」が先日発表した年次報告書によると、世界のいつくかの国で新型コロナウイルスの大感染に乗じて制定された法律が、報道の自由をさらに抑圧する方向で働いている。

  今回の年次報告の「世界報道自由度の国別ランキング」では、世界180か国のうち自由度が最も低い国の一つが中国で、3年連続で180か国中第177位。「中国共産党(CCP)は、ネット検閲、監視、政治的宣伝活動を前例のない規模に拡大・強化している」とし、「中国政府は新型コロナウイルスの大感染に乗じて、オンライン情報の検閲をさらに強化した」と指摘している。

 また報告によると、以前から「世界で最も多くのジャーナリストを投獄している国」とされる中国では、報道の自由を支持する人々120人以上が拘束されており、コロナ関連の報道を理由に少なくとも7人のジャーナリストが逮捕・勾留されたまま。さらに450人を超えるソーシャルメディア・ユーザーが「コロナに関する”虚言”を流した」として一時的に拘留された。

 そして、「アジア太平洋地域ではいわゆる『検閲ウイルス』が中国外の地域を蝕んでおり、特に中国政府が国家安全法(香港国家安全維持法)を施行した香港(80位)ではジャーナリズムが深刻に脅かされている」とし、中国共産党による香港の「情報の全体主義的管理」は「重大な懸念」と警告している。

 国別の報道自由度ランキングで、中国よりもさらに低く評価されたのはトルクメニスタン、北朝鮮、エリトリア。特に北朝鮮については、「隣国の中国から教えてもらうまでもなく検閲に長けており、情報と国民を独裁統治するその体制の下で、自由度はおおむね最下位を続けている」とし、「海外に拠点を置く報道機関のウェブサイトを見ただけで、国民は強制収容所に送られる可能性がある」としている。

 またミャンマーに関しては、2月1日に発生した軍事クーデターで、報道の自由は10年前に後退したとし、ジャーナリストたちは「再び体系的な一斉検挙や検閲の恐怖に直面している。警察の目を欺きながら真実を正確かつ自由に報道するために、多くの記者は秘密裏に活動することを余儀なくされると考えられる」と指摘している。

 

2021年5月4日

☩「真の信徒の生きざまが、キリストを証しする」復活節第五主日に

Pope Francis during the Regina Coeli in St. Peter's SquarePope Francis during the Regina Coeli in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

(2021.5.2 Vatican News  Linda Bordoni)

   教皇フランシスコは2日、復活節第五主日の正午に祈りの説教で、「キリストを証しするために、私たちは日々の行いの中で、主において互いに結び合い、主にとどまる必要がある」と訴えられた。

*ぶどうの木が実をつけるためには…

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネによる福音書(15章1-8節)を取り上げ、「イエスは自分自身を真のぶどうの木にたとえ、私たちを、ご自身と繋がらずには生きることができない枝として語っておられます。そしてまた、イエスは私たちを必要としています… 枝は自分だけでは生きていけない。存在の源である,ぶどうの幹に完全に依存しているのです」と強調された。

 この朗読の箇所で、イエスは弟子たちに「あなた方は、私(あるいは木)に繋がっている」と7回も繰り返されているが、これは、イエスが「この世を去って父に行かれる前に、ご自身といつまでも繋がっていられるのだと強調され、弟子たちを安心させたかったのです」と指摘。

 この「繋がる」は、受け身的、あるいは主の懐でまどろむようなものではなく、生身でつながることを意味する、とされ、「イエスが示される『繋がる』は積極的、相互的な意味を持っています」と語られた。そして、枝はつるがなければ育たず、実をつけることもできないように、つるも、実は幹には育たないために、枝を必要とする、つまり、「互いを必要としている。実を付けるために、(幹と枝はつるで)互いに繋がっていなければならないのです」と説かれた。

*私たちはイエスを必要とし、イエスも私たちを必要としておられる

 そして、まず第一に、私たちは主イエスを必要としており、「主の戒めを守る前に、至福の教えの前に、慈悲の業の前に、主に繋がり、主に留まる必要がある。イエスに留まらなければ、私たちは良いキリスト教徒にはなれません。私たちは、イエスと共に働くことで、すべてを行なえる」が、一方で、イエスもまた、私たちを必要としておられる、とされた。

「互いを必要としている」とは、大胆な考えのように思われるかも知れないが、では、「イエスは、どのような意味で私たちを必要とされているのでしょうか」と、教皇は信徒たちに問いかけられ、こう答えられた。

「イエスは私たちの証しを必要とされているのです… イエスが父のところに昇られて以後、言葉と行いで福音を宣べ伝え続けるのは、弟子たちの仕事、そして私たちの仕事になった。私たちは、主の愛を証しすることで、それを続けねばなりませんー『生むべき実は、愛』なのです」。さらに、キリストと繋がり続けることによってのみ、「私たちは、聖霊の賜物を受け、私たちの隣人と社会に、教会に善をなすことができるのです… 真のキリスト教的生活はキリストを証しすることです」と説かれた。

 

*私たちの生活の実りは祈りにかかっている

最後に教皇は、イエスの言葉ー「あなたがたが私に繋がっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」【ヨハネ福音書15章7節)を引用され、「私たちの人生が実り豊かなものになるかどうかは、祈りにかかっている」とされ、次のように結ばれた。

「私たちは主に願えます。私たちが、イエスのように考え、イエスのように行動し、イエスの目で世界を見、物事を見るように、そして、イエスがなさったように、最も貧しい人たち、最も苦しんでいる人たちを始めとする私たちの兄弟姉妹を愛し、イエスの心をもって愛し、善と慈愛、平和の果実を世界にもたらすように、と」>

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)

 

2021年5月2日

☩教皇「ミャンマーの平和回復へ聖母マリアの取り次ぎを願う祈りを」

A demonstration against the military coup in Myanmar's Shan StateA demonstration against the military coup in Myanmar’s Shan State ope Francis asks for prayers for peace in Myanmar

(2021.5.2 Vatican News  Linda Bordoni)

   聖母月に入って最初の日曜の2日、教皇フランシスコは正午の祈りで、毎日のロザリオの祈りの中で軍事紛争に苦しむミャンマーの人々のために、早期の平和回復へ聖母マリアに取り次ぎを願うよう、世界の信徒たちにお求めになった。

 ミャンマーでは、2月1日の軍事クーデター以後、民主政治回復、平和回復を求める市民たちへの軍の治安部隊による武力弾圧で、800人近くが殺され、数千人が逮捕、拘禁されている。

 こうした事態に対して教皇は、「この国の困難と危機の時に、私たち1人ひとりが聖母マリアに顔を向けます。そして、聖母マリアに主への取り次ぎをお願いしましょう。ミャンマーの平和回復に責任を持つすべての人々に、話し合い、和解し、そして平和の道を歩むことができるよう努めることを」。

 教皇はこの国の指導者たちに、対話に参加するよう繰り返し呼びかけ、和解を祈ってきたが、いまだに平和への展望は見えないことに、深く心を痛められ、世界の信徒、そしてすべての一人、祈りに参加するよう求めておられる。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年5月2日

◎教皇連続講話「祈りについて」㉔「黙想はイエスと出会い、自分を発見する祈りの重要な形の一つ」

(2021.4.28 Vatican News  Fr. Benedict Mayaki, SJ)教皇フランシスコは28日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」をテーマにした講話を続けられ、meditation(黙想)の重要性を強調、「黙想は、私たちがイエスと出会い、自分自身を発見するのを助ける祈りの仕方の一つ」と説明された。

(2021.4.28 バチカン放送)

    教皇は、キリスト者にとって「黙想」とは一つの総括の探求であり、神の啓示の広大なページを前に、それを完全に要約しながら、自分たちのものとすることである、とされ、「キリスト者は神の御言葉に耳を傾けた後で、それを自分の中に閉じ込めておくことはありません。なぜなら、その御言葉は、『もう一冊の書』、『生活の書』と出会わなければならないからです」と語られた。

 黙想の実践がここ数年、世界の人々の関心を集め、キリスト者に留まらず、生活に宗教的視点を持たない人々の間でも広がっている現象に注目された教皇は、「私たちは皆、黙想し、考え、自分自身を再発見する必要を感じていますが、特に目まぐるしく動く西洋的世界で、黙想は日常のストレスと虚無の広がりを食い止める”堤防”の役割を果たしています」と説かれた。

 キリスト教的世界においては、黙想とは一つの動かしがたい意味を持っており、「キリスト者の祈りが通る偉大な扉、そして黙想がたどっていく道、それはイエス・キリストです」と強調された。

 そして、キリスト者の祈りは、「私自身の追求」よりも、主との出会いに向かうものであり、「祈りの体験が、私たちの心に平和を与え、自分を取り戻させ、取るべき道を照らすなら、それは、『イエスとの出会いそのもの』である祈りの『恵みの副産物』と言えるでしょう」と話された。

 教皇は、黙想の仕方について、「その方法は霊性の師の数ほど多様です。…しかし、方法というものは手引きにすぎません。大事なことは、イエス・キリストという祈りの唯一の道を、聖霊に導かれてたどることです」という「カトリック教会のカテキズム」の教え( 2707項)を引用され、「人間の頭だけで祈ることはできず、感情だけで祈ることもできません。『祈るための器官は心である』という昔の人の言葉のように、人間全体がその中心から出発して、神との関係に入ります。祈りの方法は『道』であり、目的ではない。キリスト者にとって、あらゆる祈りの方法は、信仰の本質である『キリストに従う』という態度に属するものなのです」と説かれた。

 また教皇は、「黙想をするときには、思考、想像、感情、および望みを働かせます。そうしたあらゆる機能を働かせることが、信仰の確信を深め、回心を促し、キリストに従う意志を強めるために必要です。キリスト教的祈りは、何よりも『キリストの諸神秘』の黙想に専念するもの」というカテキズムの言葉( 2708項)を引用された。

 さらに、祈りの恵みは、「キリストが遠い存在ではなく、常に私たちと関わっておられること」を理解できることであり、祈りの恵みによって、「イエスの地上における生涯のあらゆる出来事が、今、私たちの目の前で起きている出来事となり、聖霊のお陰で私たちはヨルダン川の洗礼や、カナの婚礼、多くの人の癒しを、祈りにおいて体験することができるのです」と強調。

 最後に教皇は、「福音書の中に私たちが入ることのできない場所はありません… キリスト者にとって、黙想とは、イエスと出会う方法であり、その出会いを通してこそ、私たちは自分自身を、改めて見出すことができるのです」と語られた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年4月28日

☩「イエスは羊飼い、私たち1人ひとりを守り、愛してくださる」復活節第4主日正午の祈りで

Pope during his Regina Coeli prayerPope during his Regina Coeli prayer 

(2021.4.25 Vatican News staff write)

   教皇フランシスコは復活節第4主日の25日、正午の祈りの説教で、バチカンのサンピエトロ広場に集まった信徒たちに、この日のミサで読まれたヨハネ福音書(10章11-18節)を取り上げ、「イエスー良き羊飼いーは、私たち1人ひとりを守り、知り、愛してくださいます」と強調された。

*イエスは守ってくださる

 そして、「”雇われ人”はイエスとは違う。金のためだけに働き、”羊”の世話をしない。狼がやって来ると、羊を捨てて逃げます。だが、本当の羊飼いであるイエスは、私たちを守り、特に秘跡で体験するイエスの言葉と存在の光を通して、多くの危険と困難から救ってくださるのです」と説かれた。

*イエスは知っておられる

 また教皇は、「イエスはご自分の羊を知っておられ、羊はイエスを知っている」とされ、イエスにとって「私たちは”大衆”や”群衆”ではなく、”かけがえのない一人ひとり”」、私たち一人ひとりは「キリストによって創られ、罪をあがなわれた」存在であり、「イエスは私たちを、〝ほかならぬ者”として知っておられ、イエスにおいて、預言者たちが”神の民の羊飼い”として提示した条件が完全に満たされたのです。イエスは、ご自分の羊を気遣い、羊たちを集め、傷に包帯をまき、病気を癒します」と語られた。

*イエスは愛しておられる

 さらに続けて、「イエスは、他の何よりもご自分の羊を愛しておられる。それが、イエスが羊たちのために命をお捧げになる理由です。イエスの羊に対する愛ーつまり私たち一人一人への愛のために、十字架に掛けられ、亡くなります。その愛は、人を分けることをしない。すべての人を包む愛です」とし、 「イエスは、すべての人が父の愛を受け、命を得ることができるように望んでおられるのです」と強調された。

*キリストの普遍的な使命

 最後に教皇は、「教会は、このキリストの普遍的な使命を遂行するように求められている」とされたうえで、 「私たちの共同体に参加する人々以外にも、特定の時に限って参加する、あるいは、まったく参加しない人々がたくさんいますが、そうした人たちが、『父なる主が、善き羊飼いのキリストに委ねる神の子供でない』ということではありません」と念を押された。そして、改めて、こう強調されたー「兄弟姉妹の皆さん。イエスは、羊一匹一匹を守り、知り、愛しておられるのです」。

 最後に、教皇はもう一度強調しました。兄弟姉妹であるイエスは、それぞれの羊を守り、知り、愛しています。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年4月25日