♰「待降節は期待と希望の時」-待降節第一主日の正午の祈りで

Pope Francis during AngelusPope Francis during Angelus 

(2020.11.29 Vatican News staff write

 教皇フランシスコは現地時間29日午前10時から、聖ペトロ大聖堂で待降節第一主日のミサを新任の枢機卿たちを捧げた後、正午の祈りを聖ペトロ広場に集まった信徒たちを捧げ、その説教で、待降節は新たな典礼の年が始まる「期待と希望の時」と語られた。

教皇は説教でまず、待降節の意味について「教会は、イエスの生涯と救いの歴史における主要な出来事を祝うことで、時の経過を示します… そうすることで、教会は母として、私たちの生きていく道を照らし、私たちの日々の仕事の中で私たちを支え、キリストとの最後の出会いに向けて私たちを導くのです」と説かれた。

*希望への期待

そして、「一年の典礼の最初の重要な季節、『期待と希望の時としてキリストの誕生を準備』する待降節を過ごすように」と促された。そして、この日のミサの第二朗読として読まれたパウロのコリントの信徒への手紙(1.1章3~9節)に触れ、「使徒パウロは、コリントの信徒たちに、そして私たちにも、イエスとの出会いに注意を向けるように勧めています。イエスは世の終わりにおいでになり、そして毎日おいでになり、そうして、その恵みをもって、私たちは自分自身の人生と他の人たちの人生で善を成し遂げられるようにしてくださいます」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年11月29日

♰「主よ呼びながら、目覚めて、朝の訪れを待とう」-待降節第一主日のミサ説教

 

Pope Francis celebrates the Eucharist with new CardinalsPope Francis celebrates the Eucharist with new Cardinals  (Vatican Media)

(2020.11.29 バチカン放送)

 11月29日、カトリック教会の暦は、降誕祭の準備期間である「待降節」に入ると共に、新しい典礼暦年をスタートさせた。同日午前、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、前日の枢機卿会議で叙任された新枢機卿と共に、待降節第一主日のミサを捧げられた。

説教で教皇は、「そばにおられること」、「目覚めていること」を、待降節のキーワードとして挙げ、「待降節とは、私たちのもとに降りて来られた『そばにおられる神』を記念し、福音書でイエスが呼びかけておられるように、主を『目を覚まして』待つ時です」と話された。

教皇は、ミサ中の、第一朗読のイザヤの言葉「どうか天を裂いて、降ってください」(63章19節)や、答唱詩編の「私たちを救うために来てください」「万軍の神よ、立ち帰ってくださ『主イエスよ、来てください』(黙示録22章20節参照)と、生活の中で繰り返し呼ぶように」と勧められ、主を呼びながら、私たちは「目覚めていること」を学ばなければならない、と説かれた。この日の福音朗読の中でも、イエスは「目を覚ましていなさい」と4度も繰り返されている(参照:マルコ福音書13章33-35節.37節)と指摘、「人生の一つの過ちは、多くのことに気をとられ、神の訪れに気がつかないことです」と話された。

そして、「目を覚ましている必要がある」ということは、すなわち私たちは「夜の闇にいて、朝の訪れを待ちながら、気を落とさずに、希望をもって生きる必要がある」ということ、とされ、目を覚まして待つ中で、陥る危険のある「眠気」として、「生ぬるさの眠気」と「無関心の眠気」を挙げられた。「生ぬるさの眠気」とは、「神への愛を忘れ、神と向き合う努力をせず、平凡で世俗的な精神によって信仰を蝕むリスクのこと」であり、これに対して「祈り」は「闇に火を灯し、神の近くに留まること」を可能にする、と話された。

一方、「無関心の眠気」とは、「自分のことだけを考え、他者に無関心になることであり、心に闇が降りてきた状態」とされ、これに対して、「愛徳の業は、キリスト教生活に脈打つ鼓動となって、この無関心の眠気からわたしたちを解放するだろう、と語られた。

最後に教皇は、「祈ることと、愛することーこれが目を覚ましていることなのです」と強調され、「イエスよ、私たちのそばに来てください。あなたは光です。私たちを生ぬるさの眠気と、無関心の闇から目覚めさせてください」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年11月29日

♰ 「”緋色”の意味をかみしめ、脇道へそれることのないように」-教皇、叙任式で13人の 新枢機卿に”訓示”

(2020.11.29 バチカン放送)

 教皇フランシスコは28日(日本時間29日)、バチカンで公開枢機卿会議(コンチストーロ)を開き、新しい枢機卿の叙任式を行われた。

 教皇フランシスコにとって7回目にあたる公開枢機卿会議は、新型コロナウイルスの世界的大感染の中で開かれたため、一般参加者の人数を限定し、枢機卿団の中にも、自国に留まりインターネット中継を介して参加した方が少なくなかった。新たに叙任された13人の枢機卿のうち、フィリピンのホセ・アドヴィンクラ枢機卿、ブルネイのコルネリウス・シム枢機卿は、儀式にへの出席断念を余儀なくされ、日を改めて、教皇の代理使節により、枢機卿の象徴である緋色のベレッタ(帽子)と、指輪が届けられることになった。

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 聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」で行われた儀式では、感染拡大防止に配慮しながらも、伝統にのっとり、教皇から新枢機卿へ、ベレッタと、指輪、任命状が手渡された。帽子と指輪の授与後、教皇と新枢機卿、また新枢機卿と枢機卿団メンバーとの抱擁は行われなかったものの、任命による責務の重さを感じさせると同時に、温かい祝福の雰囲気に包まれた儀式となり、新枢機卿を代表し、マリオ・グレック枢機卿が、教皇に挨拶を述べた。

 教皇は、新枢機卿に向けた言葉で、式中朗読されたマルコ福音書(10章32-45節)を取り上げ、エルサレムに向かう道を先頭に立って進み、ご自分の死と復活を三度予告するイエスに対し、驚き怖れる弟子たちや世俗的な出世を願うヤコブとヨハネとの、その深い対比を観想するよう促された。

 「神の僕としての道をまっすぐ進まれるイエス」と、「イエスの使命を理解できず、世俗的な思いから、いわば脇道にそれる弟子たち」。教皇は「イエスを愛し、イエスに従うことを望む者として、私たちも神の御子の受難と死と復活の道を、脇にそれないように、自戒しながら進まねばなりません」と新枢機卿たちに説かれた。

 そして「足と体はイエスに従っていても、心が離れていると、それが私たちを脇道へとそらすことになります」とされ、「たとえば枢機卿の衣の緋色は、『殉教の血の色』ですが、油断すると、その色は『世俗的な成功の象徴』になりかねない」と警告。

 「回心とは、まさに『脇道から神の道へと戻ること』なのです」と強調し、新枢機卿たちにその使命への自覚を促された。

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 今回の公開枢機卿会議で任命された13人を加え、現時点での枢機卿の総数は229名、そのうち、コンクラーベの選挙権を持つ80歳未満の枢機は128名、選挙権を持たない80歳以上の枢機卿は101名となった。

 枢機卿団メンバーの新しい出身国として、ブルネイとルワンダが加わり、昨年、前枢機卿を亡くしたマルタに再び枢機卿が生まれた。これによって、枢機卿団メンバーは、世界90ヵ国を代表することになる。

 この日、叙任された新枢機卿は、次のとおり(儀式における叙任順・敬称略・括弧内は出身国と年齢)。

[80歳未満の有権枢機卿]

マリオ・グレック / シノドス事務局・事務局長(マルタ、63)

マルチェッロ・セメラーロ /  列聖省長官(イタリア、72)

アントワーヌ・カンバンダ / ルワンダ・キガリ大司教(ルワンダ、62)

ウィルトン・グレゴリー / 米国・ワシントン大司教(米国、72)

ホセ・アドヴィンクラ / フィリピン・カピス大司教(フィリピン、68)

セレスティーノ・アオス・ブラコ / チリ・サンチアゴ大司教、カプチン・フランシスコ修道会(スペイン、75)

コルネリウス・シム / ブルネイおよびクアラルンプール代牧(ブルネイ、75)

アウグスト・パオロ・ロユーデチェ / 伊・シエナ‐コッレ・ヴァル・デルサ‐モンタルチーノ大司教(イタリア、56)

マウロ・ガンベッティ / コンヴェンツァル・聖フランシスコ修道会、アッシジ・聖フランシスコ修道院院長(イタリア、55)

[80歳以上の枢機卿]

フェリペ・アリスメンディ・エスキヴェル / メキシコ、サンクリストバル・デ・ラス・カサス名誉司教(メキシコ、80)

シルヴァーノ・マリア・トマーシ / 教皇大使(イタリア、80)

ラニエーロ・カンタラメッサ / 教皇付説教師、カプチン・フランシスコ修道会(イタリア、86)

エンリコ・フェローチ / ローマ教区サンタ・マリア・デヴィーノ・アモーレ主任司祭(イタリア、80)

(編集「カトリック・あい」=見出しも)

2020年11月29日

♰「カトリック教会の社会教説は私たちを『希望の仲介者』にする」第10回年次大会に

カトリック社会教説2009.6.29 カリタス・イン・ヴェリタテ 真理に根ざした愛          ※  ベネディクト十六世

Pope: Church’s social doctrine makes us agents of hope

教皇フランシスコは、教会の社会教義の第10回年次祭の参加者へのメッセージの中で、記憶、洗礼、希望を結びつけることの重要性を強調しています。

 また、キリスト教徒にとっての「明日」は「贖われた人生、つまり三位一体の愛との出会いの贈り物の喜びになります… この意味で、キリスト教徒であるということは、創造的で人類と世界の最終的な運命への展望をもち、過去への郷愁ー「真正の精神的病理学」ーの誘惑に屈することがない人です」と説かれた。

*過去にしがみつかない

 さらに教皇は、キリスト教徒の原動力は「郷愁をもって過去にしがみつくことではなく、『慈愛の人生』を生き、天の父の永遠の記憶にアクセスすること」と強調。ロシアの思想家イワノビッチ・イワノフの言葉を引用して、「なぜなら、『神が記憶しているものだけが、本当に存在するから』なのです」とされた。そして、「愛と経験に本質的に関連する記憶は、社会的、政治的、教会的領域において、『創造性を妨げ、私たちを堅固でイデオロギー的な人々にする郷愁』ではなく、人間の最も深い次元の1つとなる、と語られた。

*洗礼、人生、そして記憶

 「キリスト教徒として、私たちは皆、洗礼において生み出されました」とされた教皇は、「私たちは、神と、他の人と、そして被造物との交わりである人生を贈り物として受け取りました。私たちの人生は『キリストの人生そのもの』であり、私たちの中で彼の人生そのものを証ししない限り、この世界を信じる者として生きることはできません」と言明。

 そして、「三位一体の愛の生活に接ぎ木されて、私たちは、『神の記憶』を記憶できるようになります。そうして、愛であるものだけが、忘却に陥りません。それは、父と子と聖霊の愛の中に生きる理由を見つけるからです」と語られ、「このように見ると、私たちの人生全体が、何らかの形で『キリストの死と復活の典礼、真理の想起、永遠の記憶』であらねばなりません」と説かれた。

*信じる者として生きる

 また教皇は、「未来の記憶を生きることは、教会を『神の地上の王国の始まり、種となる」ようにすることを約束すること」とされ、「これは、社会に没頭する信徒として生きると同時に、『洗礼で受けた神の命を証しし、父と子と聖霊と共になる未来の命を、今も思い起こせるようにすること』を意味します… そうすることで、福音の宣言を単なる社会学的な地平、経済理論、または政治的派閥に還元する、というユートピア的誘惑を克服できるのです」と語られた。

 最後に教皇は「私たちは、人々の心を捉え、イエスの福音に目を向けるようにするために、自分の内にある神の力と創造性をもって、世界と関わる必要があります。そうして、私たちは新しい包括的な経済と、愛することができる政治の形態を促進する”種の計画”を助けることができます」と述べ、大会参加者たちに、故アドリアーノ・ヴィンチェンツィがこのテーマについての知識をもとに示した道を堅持し、”橋”の建設者になるように、促された。

結論として、教皇は教会の社会教義の祭典で社会のさまざまな関係者に演説し、ドン・がそのトピックについての知識を通して彼らのためにたどった道にとどまるように彼らに促しました-教皇が導く道彼らは橋の建設者になります。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年11月27日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑧愛は、信じる人たちの生活の神秘的な根幹

Pope Francis gives the blessing at the end of the General AudiencePope Francis gives the blessing at the end of the General Audience  (Vatican Media)

(2020.11.25 バチカン放送)

  教皇フランシスコは25日、水曜恒例の一般謁見で、「祈りについて」の講話をビデオ中継で続けられた。

 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2章42節)。教皇はこの使徒言行録の記述に、教会生活の4つの本質ー「使徒の教えに耳を傾けること」「相互の交わりを大切にすること」「パンを裂くこと」「祈ること」が示されている、と指摘。

 このことは「教会はキリストと固く結びついてこそ、存在の意味があることを、私たちに思い起こさせます」とされ、師イエスの言葉と行いを証しする説教と要理教育、利己主義や排他主義を防ぐ兄弟的交わり、私たちの間におけるイエスの現存を秘跡として実現するパンを裂く行為、そして、イエスを通し、聖霊において、御父との対話の場をもたらす祈りを、「教会生活の柱」として示された。

 そして、「使徒言行録を読むと、祈りのために集うことが、福音宣教の大きな原動力となっていたことが分かります… そこで、人々はイエスの生きた現存を体験し、聖霊の力に触れることができたのです」と語られた。

 さらに、「初期のキリスト教共同体のメンバーは、今日も同じですが、イエスとの出会いの物語はイエスの昇天で終わったわけではなく、彼らの人生においてずっと続いていることを感じていました… 主が言われたこと、行われたことを語り継ぎ、イエスとの交わりに入るために祈ることで、その体験は生きたものとなり、祈りは光と温かさを広げ、聖霊の恵みは彼らの中に熱意を生み出していったのです」と話された。

 「祈る教会にキリストのことを思い出させてくださる聖霊が、教会をすべての真理に導き、教会活動や秘跡、また宣教活動の中で働いておられるキリストのはかり知れない神秘を表す、新たな祈りを生み出させてくださいます」と、「カトリック教会のカテキズム」(2625)にあるように、「教会における聖霊の働きは、イエスを思い出させることにあります」と強調。

 「こうして初期の教会活動は、キリストの記念、集まり、祈りの時間といったリズムに刻まれ、そこで聖霊は、『イエスの愛のために海を渡り、危険や人々の侮辱に遭うことを受け入れ、旅に出る宣教者』に力を授けていたのです」と語られた。

 また、「神は愛を与え、愛を求められるーこの神秘に、信者の全生活は根差しています」とされ、「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです」というガラテヤの信徒への手紙2章20節を引用された。

 最後の教皇は、「祈りに時間を捧げることを恐れないすべてのキリスト者は、聖パウロのこの言葉のすべての真理を、礼拝の沈黙を通して味わうことができるでしょう」と締めくくられた。

 

2020年11月25日

♰「『何が自分のためになるのか』で日々の選択をしよう」ー王であるキリストの主日、若者たちに

 教皇フランシスコは22日、典礼年間の最後の主日「王であるキリスト」をバチカン・聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」でミサを捧げられた。ミサには、「世界青年の日」(WYD)世界大会の前回2019年の開催国パナマと、次回2023年開催国ポルトガルの若者たちの代表が参加した。

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 ミサ中の説教で、教皇は福音朗読箇所、マタイ福音書25章31-46節を取り上げ、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人、すなわち、飢えた人、のどが渇いた人、異邦人、困窮した人、病気の人、牢にいる人のためにしたことは、私にしてくれたことなのである」というイエスの言葉を、私たちへの愛として十字架上でご自身を与える前に、「イエスが私たちに望まれた最後の願い」として示された。

 そして、「『人生は自分にさえよければいい』という考えがはびこる今日の世界で、『私はここにいる』『私はここで待っている』と、イエスは貧しい人々の間で私たちを呼び、今、人生の夢を実現しようとしている若い皆さんにも、そう呼びかけているのです」と説かれた。

 「大きな夢をあきらめないように」と若者たちに呼びかけ、「私たちは、休暇や週末を夢見るためではなく、神の夢をこの世に実現するために造られています… 中でも、慈しみの業は、人生で最も美しい業です」と強調。「大きな夢を実現するためには、大きな選択が必要。福音書にもあるように、最後の審判で、主は私たちの選択に応じて裁かれます」とされ、「善いことも、悪いことも、選択するのは私たちですが、私たちが神を選択するなら、日々愛され、私たちが愛することを選択するなら、幸福になることができるでしょう」と語られた。

 さらに、「自分自身の内面を注意深く観察するとき、私たちの心にはしばしば、『自分は何がしたいのか』と『何が自分のためになるのか』という、二つの異なる問いが浮かびます… 日常的な選択の中で、聖霊が私たちの心に勧めるのは、後者の問いです」と指摘された。

 最後に教皇は、「イエスを見つめ、イエスに従って愛の道を歩くために、自分たちに善となることを選ぶ勇気を願いましょう」と若者たちを励まされた。

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 *全世界の教区の「世界青年の日」を「受難の主日」から「王であるキリストの主日」に移行決定

 ミサの終わりに、WYD世界大会のシンボルである十字架と、聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ」の複製が、パナマの青年たちの使節からポルトガルの青年たちへと引き継がれた。

 教皇は、WYD世界大会の十字架の引継ぎの式にあたり、両国の若者に歓迎の言葉をおくられた。同時に、教皇はこの機会に、これまで教区レベルの「世界青年の日」が聖週間の初日である「受難の主日(枝の主日)」に記念されていたことに対し、来年からこの日を「王であるキリスト」の主日に記念する旨を発表された。

 これについて、教皇は次のように話された。

 「次回の世界青年の日・世界大会の準備に取り組みながら、地方教会レベルでの同記念日も、さらに推進したいと思います。世界青年の日が創設されてから35年が経ちました。様々な人の意見や、『信徒・家庭・いのちの省』や青少年司牧の専門家の見解を聞いた後、来年から、教区レベルの世界青年の日を、受難の主日から、王であるキリストの主日に移動することを決めました。WYDの創始者であり、保護者である、聖ヨハネ・パウロ2世がいつも強調されたように、中心には、人間の贖い主、イエス・キリストの神秘が残ります。親愛なる若者の皆さん、キリストが生き、統治する、皆さんの命をもって、叫んでください。皆さんが黙っても、石が叫び出すでしょう」

 

2020年11月23日

♰「私たちは謙虚な奉仕の扉を通って神の国に入る」ー王たるキリストの主日正午の祈りで

Pope Francis at AngelusPope Francis at Angelus  (Vatican Media)

(2020.11.22 Vatican News staff writer

 教皇フランシスコは22日、王たるキリストの主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書のキリストの謎を解き明かすたとえ話を考察された。

 初めに教皇は、「神はアルファでありオメガであり、歴史の始まりと終わりです」と述べ、今日の「王たるキリストの主日」の典礼は「オメガ」、つまり最終目標、とされ、「歴史の意味は、その頂点を私たちの目の前に置くことによって理解されます。目標は終わりでもあります」と語られた。

 マタイ福音書(25章31-46節)では、イエスがご自身の地上での人生の終わりに、私たちが受ける普遍的な裁きについて、たとえ話を使って教えておられる。

 教皇は、「ご自身の死と復活において、イエスは歴史の主として、宇宙の王、すべての裁判官として現れます。しかし、キリスト教のパラドックスは、裁判官が、王族の恐ろしい罠にはまり込むことのない、『柔和さと憐れみに満ちた羊飼い』であるということです」と語られた。

 そして、最後の審判についてのこのたとえ話で、イエスは羊飼いのイメージを使っておられる、と指摘。「イスラエルの邪悪な牧者に対して神の民を支持する神の介入について語った、この日のミサの第一朗読にあるエゼキエルの預言を思い起こさせます」とされ、「牧者は残酷な搾取者であり、群れよりも自分たちを養うことを好みました。だが、神ご自身が介入され、群れを個人的に世話し、不正や虐待から守ることを約束されます」と強調。

 そして、「神がご自分の民のためになさったこの約束は、イエス・キリストによって完全に成就されたのです… イエスは、ご自身のことを『私は良い羊飼いだ』(ヨハネ福音書10章11節、14節)と言っておられます」と説かれた。

 また教皇は「今日の福音書の箇所で、イエスは自分自身を、王の羊飼いだけでなく、失われた羊-つまり最も小さい者であり兄弟姉妹の中でもっと必要とされている者として見ておられます… さらに、イエスは、判断の基準をこのように示されます-与え、あるいは否定した具体的な愛に基づいて人々を判断する、それはご自身が裁判官であり、人それぞれの中に(イエスが)いるからだ、と」。

 また「この最も小さい者の1人にしなかったのは、すなわち、私にしてくらなかったのである」という今日読まれたマタイ福音書のイエスの言葉を取り上げ、「愛で、私たちは判断されます。感情ではなく、働きで、共感で、そして親切な助けで、判断されます」とされ、世界の終わりに、「主は群れを検査し、羊飼いの観点からだけでなく、彼が彼自身を特定した羊の観点からも検査するでしょう… 私たちに尋ねるでしょう。『あなたは、私と同じ、羊飼いのように振る舞いましたか?』と」と言われた。

 そして、これは、「今日の福音が判断の基準として私たちの心に示していることですー『私が困ったいた時、あなたは私の世話をするために少しばかり時間を使うことができましたか?私の恵みで、私が助けを必要としていることに気付くために、少し表に出ることができましたか?私の傷、孤独、不快感の前にあなたの心は鈍りましたか?」

 「これは、私たちを救うために自分を子羊にした宇宙の王キリストが、私たちを調べ、判断する基準になります」として、こう締めくくられた。「聖母マリアに、奉仕することによって治めることをて、教えてくださるように祈りましょうー「謙虚で心の広い奉仕の扉を今もなお通り、神の王国に入ることを、あなたから学ばせてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年11月22日

♰「危機の世界経済に新たな潮流を作り出す力となれ」ー世界青年経済人バーチャル会議「Economy of Francesco」に

 

(2020.11.21 バチカン放送)

  新しい経済の形を話し合う世界の青年たちのバーチャル会議「Economy of Francesco(フランシスコの経済)」が19日から21日にかけて、イタリア・アッシジを主会場に115か国の代表が参加して開かれたが、教皇フランシスコは最終日の21日、ビデオを通しメッセージを送られた。

 この会議は、より正しく包括的な経済のあり方を考えることを目的に、教皇フランシスコが昨年、若い経済学者や起業家らに参加を呼びかけたのを受けて開かれた。新型コロナ大感染で当初予定より半年以上遅れての開催となったことから、結果として、教皇の新回勅を受けた形となった。

 教皇はメッセージで、「聖フランシスコの生き方と精神からインスピレーションを得たこのイベントが、終点ではなく、私たちが引き受けるように求められている召命、文化、神との契約の一つのプロセスの始まりとなる」よう願われた。

 そして、「『フランシスコよ、行って、崩れかけた私の家を直しなさい』。若きフランシスコを動かしたこの神の言葉は、私たち一人ひとりへの特別な呼びかけでもあります… 貧しく、社会の片隅に追いやられた人々と共に、『地球の資源を搾取する現在の世界構造が、もはや様々な点から、持続不可能になっている』という事実を受け止め、責任をもって対応する新しい経済の潮流が緊急に必要とされています」と訴えられた。

 また教皇は「現在の世界の深刻な状況は、新型コロナの感染が引き起こした危機によって、いっそう際立つものとなっています… 社会のすべての人に、責任ある自覚が求められる中、若い人々が担う役割がこの上なく重要。それは、今日の私たち大人の言動の影響を将来に直接受けるのは、まさにあなた方、未来の世代だからです」と指摘。

 今は、「人間や社会、環境の犠牲を無視し、目先の利益だけに集中した経済モデル」に押しつぶされ、「貧富の差を前に沈黙し、その場しのぎの解決や慈善事業的モデル」に頼っている時ではない、「貧しい人たちの声を聴き、その尊厳を保証する、単なる救済主義以上の回心と変化が、私たちの政治と社会に必要なのです」と強調された。

 さらに、「今日、私たちは互いを兄弟と認め、他者のために『善きサマリア人』となるための大きなチャンスを前にしています」とされ、「現在の新型コロナ感染危機の後に懸念される最悪の反作用は、『消費熱』のいっそうの高まりや、『新しい形の利己的保身主義』… 今こそ、良いものを育て、機会を活かし、皆の力を合わせ、共通善のために取り組んでいかねばなりません」と若い人々を励まされた。

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 この会議は当初、教皇の現地訪問も含め、アッシジでの様々な交流行事と共に、今年3月に開催を予定していたが、新型コロナウイルスの世界的な大感染の影響で延期。その後、プログラムの変更を経て、インターネットを通じたビデオ・ミーティングの形で行われた。

 参加者らはビデオを通し、今日の世界の問題を見つめつつ、貧しい人々をはじめ、社会のすべての人々に配慮した経済のあり方、その実現のプロセスを求め、発表、討論、黙想などを行った。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年11月22日

♰「今こそ、”社会的友愛”実践の時」- 教皇、南米の新型コロナ・セミナーへメッセージ

 

ボランティアから食事を受け取る人々 パラグアイ・ルケで 2020年5月ボランティアから食事を受け取る人々 パラグアイ・ルケで 2020年5月  (AFP or licensors)

(2020.11.19 バチカン放送)

 教皇フランシスコは19日、「ラテンアメリカの新型コロナウイルス感染の現状と未来に向けた行動を考えるセミナー」にメッセージをおくられた。セミナーは、教皇庁ラテンアメリカ委員会、教皇庁立社会科学アカデミー、ラテンアメリカ司教協議会が共同企画した。

 ビデオ・メッセージで、教皇は、ラテンアメリカの新型コロナの感染状況とその影響を分析し、可能な連帯行動を考える同セミナーが、「兄弟愛の体験と社会的友愛の構築とともに、すべての人に尊厳ある生活を保証するための社会構造に刺激をもたらすことができるように」と希望された。

 教皇は「新型コロナウイルスの感染拡大は、以前からラテンアメリカ全土を苦しませていた社会・経済上の不平等をより浮き彫りにしています」とされ、感染の影響は、特に貧しい人たちに最大の打撃を与えることになった、と指摘された。

 そして、社会的距離を置くことや、手洗い、消毒の励行など、感染防止対策を皆がとるためには、それにふさわしい住環境や、水、衛生用品等、最低限のものが保証されることが不可欠であり、適切な医療サービスを受けるためには安定した仕事に就いていることも必要、とし、新型コロナの感染による危機は、「単なる感染対策上の問題だけでなく、人々が必ずしも、日常生活をおくる上での基本的な条件を満たすことができていない、という、社会的な問題をあぶり出しています」と語られた。

 「今こそ、私たちの共通の帰属を自覚する時… 自分たちを癒す最良の方法は、隣人を世話し、守ることだ、ということを、新型コロナ感染が教えています」とされ、コロナ感染と同時並行的に蔓延しているたくさんの社会的な病いについて指摘したうえで、特に、その指標となる「家(屋根・techo)、土地(tierra)、仕事(trabajo)の3つのTの欠如に対し、強力かつ迅速な対応が要求されています」と強調された。

 また、ラテンアメリカの人々に対して、「希望を失ってはなりません… 正義としての連帯の歩みは、愛と寄り添いの最良の表現です。多くの人たちが犠牲を払い、努力することで証ししているように、この危機からより良い形で脱することは可能です」と励まされた。

 教皇は、先に出された新回勅『Fratelli tutti(All Brothers)』から引用する形で、「すべての人を兄弟姉妹と認めること、また、すべての人を受容する社会的友愛を追求することは、単なる理想ではありません。その実践を保証するために、効果的なプロセスを見出す決断と能力が必要です」と訴え、「福音の光に励まされ、すべての善意の人々と共に外に出て、善きサマリア人のように、助けを求める人々に寄り添い、最も弱い人々を抱擁して欲しい」と希望された。

 最後に、教皇は「一致は、対立に勝ることを、改めて思い起こしましょう」と呼びかけ、ラテンアメリカの人々を、聖母の保護のマントの下に託された。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年11月20日

◎教皇講話「祈りについて」⑦ 聖母マリアは祈る女性、私たちの模範」

(2020.11.18  バチカン放送)教皇フランシスコによる、2020年11月18日の一般謁見

教皇フランシスコは18日、水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からビデオを通して行われ、「祈りについて」の講話を続けられた。今回のテーマは「マリア」。

講話の内容は次のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

祈りをめぐるカテケーシスの歩みを続けながら、今日は祈る人としての、おとめマリアを考察しましょう。

聖母は祈っていました。誰からも知られず、ダビデ家のヨセフのいいなずけにすぎない若い女性マリアは、すでに祈っていました。ナザレのおとめ、マリアが、沈黙のうちに祈り、神と対話している様子を想像することができるでしょう。

やがて神はこのマリアにご自身からの使命を託すことになるのです。マリアはその存在の最初から、恵みに満ち、あらゆる罪から守られていました。しかし、自身の驚くべき特別な召命や、歩むことになる嵐の海のような人生については、まだ何も知りませんでした。

ただ一つ確かなことは、マリアが、歴史家に記されることのない、謙遜な心を持った無数の人々の群れに連っていたことでしょう。そして、神は、御子のこの世への訪れを、マリアと共に準備されたのでした。

マリアは、独自に自らの人生を方向づけることはしません。神にその歩みの手を取られ、御旨のままに導かれることを待ちます。マリアは従順です。その快く自分を差し出す態度をもって、この世において神と共に起きた様々な出来事を受け入れたのです。教会のカテキズムは、御父の慈しみ深いご計画と、イエスの全人生における、マリアの常なる、配慮にあふれた存在を思い出させています(参照:「カトリック教会のカテキズム」2617-2618項)。

大天使ガブリエルがナザレのおとめに神のお告げをもたらした時、マリアは祈っていました。マリアの「はい」は、小さくも、無限に広がる返事でした。その時、全被造物は喜びに躍りました。その「はい」は、救いの歴史において、神のみ旨に対する、他のたくさんの「はい」、他の多くの信頼ある従順、献身の姿勢に先立つものでした。

神に自分自身を開く態度において、マリアのように祈ることに勝る方法はありません。「主よ、御旨のままに、いつでも、お望みのように」。どれだけ多くの信者たちがこのような祈りを生きていることでしょうか。彼らは、その一日が問題だらけであっても、怒ることなく、現実を見つめ、あらゆる状況を神に捧げる謙遜な愛において、自分が神の恵みの道具となることを知っています。

祈りは不安を静めることができます。私たちはいつも不安で、望むことを、頼む前から、すぐに欲しがります。しかし、祈りはそうした不安を和らげ、御旨に自分を捧げる態度へと変容させます。おとめマリアは、天使のお告げの直後、自分の「はい」が生むであろう、つらい試練を予知しながらも、怖れをはねのけることができました。祈りのうちに、与えられた毎日とは、すなわち神の恵みである、と理解するなら、私たちは心を開き、すべてを受け入れることができます。

そして、「主よ、御旨のままに。ただ、私の歩みの一歩一歩に、あなたがそばにおいでくださるよう、約束してください」と、祈ることを学ぶのです。重要なのは、私たちの歩みに主が寄り添い、私たちを独りにせず、誘惑から守り、試練の時に見捨てないでください、と願うことです。「主の祈り」の終わりにあるとおりです。これは、イエスご自身が、私たちに求めるように、と教えられた恵みです。

マリアは祈りのうちに、イエスの全生涯に、その死から復活に至るまで、付き添いました。そして、さらに、黎明期の教会の歩みにも寄り添いました(参照:使徒言行録1章14節)。マリアは、十字架のつまずきを体験した弟子たちと共に祈ります。恐怖に負け、後悔に泣いたペトロと共に祈ります。マリアは、弟子たちと、御子がご自身の共同体を築くようにと召された人々の間におられます。彼らと共に祈り、彼らのために祈ります。

そして、マリアの祈りは、再び、訪れる未来に先立つものとなります。すなわち、マリアは、聖霊の御業によって、神の母となったように、聖霊の働きによって、教会の母となったのです。カテキズムはこのように説明します。「謙虚なはしためマリアの信仰のうちに、神のたまものは、神が時の始めから待っておられた歓迎をお受けになります」(「カトリック教会のカテキズム」2617項)。

おとめマリアにおいて、女性としての自然な直感は、祈りを通し、神との唯一の一致によって高められました。福音書を読んでいると、マリアの存在が消えたかのように思われる時があっても、再び重大な場面になると、その姿がまた現れることに気づきます。マリアは神の声に向けて開かれた方です。神はマリアの心、歩みを、マリアの存在が必要な場所へと導かれます。マリアは、母として、弟子として、静かに存在し、祈ります。

「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らせていた」(ルカ福音書2章19節)。福音記者ルカは、このようにイエスの幼少期の主の御母の姿を描いています。マリアの周りに起きたすべてのことは、深い心情の反映と共に終わります。喜びにあふれた日々や、最も暗い日々、神の贖いがどのような道をたどるのか、マリア自身も理解に苦しむ時がありました。マリアはこれらすべてを心に納めました。それが祈りの「ふるい」にかけられ、祈りによって変容されるようにと。

東方三博士の贈り物や、エジプトへの逃避、そして恐るべき受難の金曜日に至るまで、聖母はすべてを心に納め、それらを神との対話に差し出しました。マリアの心を比類なき輝きを持つ真珠にたとえた人がいます。その真珠は、祈りのうちに、神の御旨を辛抱強く受け入れ、イエスの神秘を介することで、形成され、磨かれました。私たちも、神の御言葉に開いた心、静かな心、従順な心、御言葉を受け取りながら教会の善の種を育てる心を持った、御母に少しでも似る者となれるなら、どんなに素晴らしいでしょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年11月18日