◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑬「愛だけが人の心を惹きつけ、変える」

(2021.10.27 Vatican News By Christopher Wells)

  教皇フランシスコは、27日の水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」を題材にした講話を続けられ、「霊が結ぶ実」(5章2節)を中心に語られた。

 まず、教皇は、「パウロは、ガラテヤの信徒たち、そして私たちに、救いと信仰の中心にあるのは、主の死と復活だ、ということを教えてくれている」と語られ、それにもかかわらず、現代では、多くの人々が「『生きている真の神』ではなく『儀式と戒律』を重視し、神の愛を自身の全存在で受け入れるかわりに、宗教的保証を求めています」と警告。

 

*重要なことに回帰する

 そのうえで、聖パウロはガラテヤ人に「十字架につけられたキリストを通して私たちに命を与えてくださる神に従うように」(3章1節参照)とされ、「私たちが霊的生活の筋道が分からなくなっている」と感じたとき、聖体拝領を含め、「十字架につけられたキリストの前に身を置く」ことを勧められた。

 そして、「このようにすることは、さらなる一歩につながります。私たちが十字架につけられたキリストに出会う時、彼は私たちの心を変えます。 そして、聖霊を通して、私たちのキリスト教徒としての生活が新たにされ、私たちは『霊的な戦い』を続けることができるのです」と説かれた。

*「肉の働き」と「霊の結ぶ実」

 さらに、教皇は「ここで聖パウロは、『肉の働き』『霊の結ぶ実」の間の二分法を示しており、肉の働きは、『神の霊に反する行動』としているが、肉それ自体が悪である、と言おうとしているのではない。このような表現をもって、聖霊が私たちに命を与えてくれようとしているにもかかわらず、私たちは聖霊に対して心の扉を閉ざし、この世の者たちは老いて死んでいくことを、思い起こさせてくれます」と述べた。

 また教皇は、私たちキリスト教徒は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制忍耐、優しさ、善良さ、忠実さ、優しさ、自制心」という霊の実を結ぶことができるように、召されている、とされ、「聖パウロの手紙を読み、私たちがこのような霊の実を実を結んでいるかどうか、自分自身の行動を振り返り、確かめるように」と勧められた。

 

*私たちの共同体にとっての課題

 「聖パウロの教えは、私たちの共同体にも多くの課題をもたらします」と語られた教皇は、「イエス・キリストへの信仰の素晴らしさは、数多くの掟や多くの積み重ねで作られた道徳的ビジョンに基づいて捉えることはできない。そのようなものは、平安で喜びに満ちた証しの源である祈りによって育てられた愛の根源的な豊かさを、私たちに忘れさせてしまいます」と忠告。さらに、「聖霊の命は…心の回心をもたらす聖霊の恵みに近ずくことを妨げようとす”官僚機構”によって窒息させられることはありせん」と言明された。

*「十字架につけられたキリスト」を宣言する

 そして教皇は最後にこのように言われたー「私たちは、聖霊の愛の息吹で力づけられ、十字架上で死に復活されたキリストを宣言する、という大きな責任を持っています。人間の心を惹きつけ、変える力があるのは、この愛だけだからです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年10月27日

☩「勇敢に、心を尽くして神に向かえ」教皇、年間30主日の正午の祈り

(2021.10.24  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは24日、年間第30主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書(10章46-52節)を取り上げ、イエスに「ダビデの子のイエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ盲人のバルティマイのように、主に祈るように励まされ、「私たちが、堅固で、決然とし、勇気ある信仰をもって、その言葉をたびたび繰り返すことができるように」と願われた。

 教皇は、イエスがバルティマイの叫びに応えて彼の目が見えるようにされた場面を思い起こされ、「イエスは、彼の叫びを聴かれて、立ち止まられました。神は貧しい人たちの叫びをいつもお聴きになるからです。周りの人々がイエスに向かって叫ぶのを止めるように咎めたにもかかわらず、勇気のある信仰と希望をもって、神に呼びかける彼に、イエスは、視力を回復する奇跡をなさいました。『あなたの信仰が、あなたを救った』と」と語られた。

*神の慈悲を訴える

 そして、バルティマイが、イエスをメシアとして認識し、自信を持って、心から、イエスを名で呼び、慈悲を求めたことに注意を向けられ、 「彼は、すべてを行うことができる方から、すべてを求めますー神の思いやり、憐れみ、そして優しさくださるように、と訴えます」とし、「彼は、わずかな本質的な言葉を使って、視力回復の奇跡を求めるだけでなく、身体的な傷、屈辱、壊れた夢、過ちによって引き起こされた人生の苦しみに打ちひしがれた心を癒やしてくださるように、『神の愛』に信頼してその身をゆだねたのです」と説かれた。

 また、教皇はご自身が母国のアルゼンチンで、ある父親が9歳の娘さんが重い病気にかかって入院した時のことを思い起こされた。病院の医師から「お嬢さんは、明日の朝まで生きていられないでしょう」と告げられた父親は、救いを求めて、バスで70 km離れた聖母マリア聖堂まで行ったが、深夜で、扉が閉まっており、中に入れなかった。彼は聖堂の外に立ち、夜が明けるまで神に、娘を救ってくださるように祈り続けた。朝になって、病院に戻ると、娘は奇跡的に回復していた。

 「なぜ回復したのか、説明できない、と医師は言いました。私たちも、すべてを与えることがおできになる神にすべてのことを願うために、この父親のような勇気と信仰を持つべきです」と訴えられた。

 

*「ダビデの子イエス、私を憐れんでください!」

 さらに教皇は、「ダビデの子イエスさま、私を憐れんでください!…今日、この祈りを私たち自身のものにしましょう。繰り返しましょう」と語られる一方で、「私たちも(バルティマイやこの父親のように)、勇気をもって、執拗に祈り、近くにおられる主を感じ、呼びかけることができるでしょうか」「私たちは主の前で、心を正直に開くでしょうか、それとも気後れして、あるいは十分に信頼せず、距離を置くでしょうか」と会衆に問いかけられた。

 そして、「信仰が生きたものであるなら、祈りは心からのものとなります」とされ、「私たちは、すべてのことを私たちのためになさることのできるイエスからすべてのことをいただけるように願う必要があります。イエスは、私たちの心に恵みと喜びを注ぐのを待っていることができないのです」と強調。

 最後に、「バルティマイの強固で、執拗で、勇気のある信仰が、私たちも同じことができるように気づかせてくれるように。そして、神がすべての祈りに注意深く耳を傾けてくださることを確信し、心を尽くして神に立ち帰るよう、聖母マリアが私たちを導いてくださいますように」と祈られ、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年10月24日

◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑫ 「自由は神の愛に生まれ、無償の愛の中で育つ」

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

*他者のための自由

 さらに教皇は、「聖パウロにとって、愛は『自分が好きなようにすること』を意味しません。単に自分自身を喜ばせるために行動するなら、私たちは虚しさに気づきます。自由は豊かで、偽りがない、他者のために使われる場合にのみ、実際の日々の生活に関わります」とし、「聖パウロは『すべてのものは合法である』と認めていますが、『すべてのものが、有用、あるいは啓発的であるとか限らない』とも語っています。『自己奉仕の自由』という考えに対して、聖パウロが『愛の求め』を置きます。愛に導かれる自由は、私たち自身と他者を自由にする唯一のものです」と語られた。

 

*共通善

また、「私の自由はあなたの自由が始まるところで終わる」という現代的な考えに対して、聖パウロはキリスト教の自由、つまりイエスによって与えられた自由を考えている。それは、自己を他者と分けず、共同体社会を構成する一部であり、そうした社会的側面はキリスト教徒にとって基本的なもの。それが、私益ではなく公益に目を向けることを可能にします」とされ、このような自由についての理解は、「新型コロナウイルスの世界的大感染が『お互いをどれだけ必要としているか』を私たちに痛感させた今、特に重要です」と説かれた。

 

*無償の愛の中で自由は成長する

 そして教皇は、「そのような理解だけでは十分ではありません。私たちは日々、具体的にそれを選ぶ必要があります」として、こう締めくくられた。「他者は、私の自由を妨げない、自由を完全に実現するのを可能にするのだ、と口にし、信じましょう。なぜなら、私たちの自由は神の愛から生まれ、無償の愛の中で成長するからです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年10月20日

☩「暴力は暴力を生むことを忘れるな」-世界で相次ぐ襲撃・テロに

2021.10.17 Angelus

(2021.10.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日の正午の祈りで、このところ各地で続く襲撃やテロのニュースに触れ、非暴力を訴えられた。特に先日ノルウェー、アフガニスタン、英国で起きた事件を挙げ、多くの死者と負傷者を心に留めつつ、犠牲者の遺族たちに精神的な寄り添いを表明された。

 アフガニスタンでは、10月8日、北部クンドゥズのシーア派モスクでの自爆テロで70人以上死亡、140人以上が負傷。さらに15日に、南部カンダハルで同じくシーア派モスクを標的に自爆テロがあり、41人が死亡、およそ70人が負傷した。

 欧州でも、13日にノルウェー南東部コンベスブルグで、男が弓矢で人々を襲い、5人が死亡。15日には、英イングランド東部エセックスで、有権者との対話集会に参加していたデビッド・エイメス下院議員が男に刺殺された。

 教皇は、これらのニュースを前に、暴力の道は放棄されねばならない、とされ、「暴力の道は『敗者の道』、暴力はすべての人にとって敗北です」と強調。さらに、「暴力は暴力を生むことを忘れてはなりません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年10月18日

☩「イエスは私たちに『立ち上がる』ではなく、『沈められる』ことを求めておられる」年間第29主日正午の祈り

 教皇フランシスコは17日の年間第29主日正午の祈りの説教で、聖霊に私たちの洗礼の恵みーイエスに、その生き方に浸された恵みーを新にしてくださるように祈るように会衆に促された。

 教皇は説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書(10章35~45節)を取り上げられ、冒頭の、弟子のゼベタイの子、ヤコブとヨハネがイエスに、「栄光」をお受けになる時に左右に座らせてほしい、と頼む場面に注目された。

 「2人の求めに対して、イエスは基本的な教えで応えられますー真の『栄光』は、『人々の上に君臨する』ことではなく(42,43節参照)、ご自身が間もなくエルサレムでお受けるになるのと同じ『 baptism(洗礼)を経験する』ことだ(38節参照)と」。 そして、「baptismがimmersion(沈められる)をことを意味するように、イエスは十字架につけられて、ご自身を死に『沈められ』、私たちをお救いになるためにご自分の命を捧げられる(注:弟子たちにも、その覚悟が無ければならない)と言われたのです。イエスの栄光、神の栄光は、仕える愛、であり、支配を求める権力ではありません(43~45節」と説かれた。

 また、教皇は、この箇所で二つの考え方が出てきているー弟子たちは「立ち上がる」ことを願うが、イエスは私たちに「沈められる」ことを望んでおられる、と指摘。

 「弟子たちの願いは、世俗的な誘惑に惹かれる心理状況を反映しており、すべてを所有し、体験するために、立ち上がり、野望を膨らませ、成功の梯子を上ろうとするもの。このような世俗的な名声の追求は、霊的な問題、善意は後ろに隠れ、最終的な欲望は全て自分自身と自己肯定についてのものになる可能性があります」と注意された。

 そして、「これが、私たちが常に自分の真意を識別しなければならない理由、何をする場合でも、私たちの心の底にある動機について自問せねばならない理由なのですー私たちは他の人たちに仕えようとしているのか、それとも、本当は、自分を認めてもらい、称賛され、好意をもたれようとしているのか?」とされ、「イエスは私たちに『立ち上がれ』と呼びかける代わりに『他の人たちに仕えなさい』と、『人々の上に君臨するために立ち上がりなさい』ではなく、『他の人たちの命の中に沈められなさい』と言われたのです」と強調。

 また、「沈められる」について、教皇は「イエスは、私たちが出会うすべての人の生活に、ご自分に倣って『思いやりをもって、沈められる」ように、求めたおられます」とし、 「自分たちの傷ついた人生の奥深くに沈められた十字架上の主を見上げ、私たちは神のなさり方を知ります。神は愛であり、愛は謙虚、高ぶることはありません。空から落ちてきて命をもたらす雨のようなのものです」と語られた。

 さらに教皇はこう問いかけられたー「私たちは、どのようにしたら、『立ち上がる』から『自分自身を沈める』へ、あるいは『威信』を誇る態度から『奉仕』の態度へ変わることができるのでしょうか」。そして、「自らを捧げることは重要ですが、すでに私たちが受けた『イエスに沈められた、洗礼』の力を活用する必要があります。洗礼の恵みは、自分自身の利益ではなく、イエスに付き従い、他の人たちに奉仕するように私たちを導く助けとなるのです」と説かれた。

 最後に教皇は、「私たちの受けた洗礼ーイエスに、イエスの生き方に、奉仕に沈められたー恵みを新にしてくれるように、聖霊に願いましょう」、そして、主と互いへの奉仕に「完全に沈められる」ように、私たちを助けてくださる謙遜で愛情深いマリアの模範に倣うことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年10月17日

☩「いつも”羊の群れ”のそばにいるように」教皇、17日のミサで司教2人を叙階

(2021.10.17 Vatican News By Lydia O’Kane)

   教皇フランシスコは17日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた年間第29主日のミサの中で、司教2人を叙階され、彼らに「あなた方の人生は奉仕と他者に触れる人生となる」と諭された。

 

*使徒の聖職を永続するための聖霊の賜物

 ミサ中の説教で、教皇は、2人の司教叙階にあたって、教会で遂行するように求められる役割について考察され、聖ペトロ大聖堂を背景にして、すべての人に福音を宣べ伝え、救いに導くために、イエスによって世界中に派遣された12使徒からインスピレーションを受けられて語られた。

 「この使徒の聖職を世代から世代へと永続させるために、十二使徒は協力者を共に集め、キリストから受けた聖霊の賜物を、按手を通して,彼らに渡し、階位を授けました。このように、教会の生きた伝統の中で、司教たちの途切れることのない継承を通して、この生きた聖職、主要な聖職が保たれ、救い主の働きは今日まで続き、発展しているのです」。

*司教に選ばれたのは、仕えるため

 教皇は、このミサの中で司教に叙階されたグイード・マリーニ、アンドレ・ガブリエル・フェラダ・モレイラの二人を喜びと感謝の気持ちをもって歓迎され、「あなたがたは、奉仕の人生のために選ばれたのです」と語られた。

 そして、「あらゆる機会に、御言葉を宣言するように、学び続け、”羊の群れ”のそばに居るように」と助言され、さらに「あなたがは、教会における信仰、奉仕、慈善の管理人になる。そしてそのために、神に近づき、神の思いやりと優しさを映す者となることが求められます」と付け加えられた。

*祈りの中で神に近づく

 また教皇は、司教の第一の任務は「祈りの中で神に近づく」ことー「機械的に祈る」のではなく「心を込めて祈る」こと。そして第二に、「他の司教たちの近くにいて、兄弟たちの悪口を決して言わない」こと、第三に、「司祭たちがあなたの最も近い隣人であることを忘れないこと」とされ、「彼らが、あなたに父親のように頼りにできるようにする必要があります」と語られた。

 説教の最後に、教皇は、司教たちが自分の”羊の群れ”の側にいることの重要性を改めて強調され、司教たち自身も”羊の群れ”から引き抜かれたことを思い起こさせた。そして、2人の新しい司教が(神と人に)身近に接する道を歩む中で、主に倣って成長するように祈られた。「主はいつもそばにおられ、いつも私たちに近づこうとされているからです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年10月17日

・「地球と人類の健康のために食料システム全体の再編が必要」教皇、世界食糧デーに

BANGLADESH-ECONOMY-AGRICULTUREBANGLADESH-ECONOMY-AGRICULTURE  (AFP or licensors)

(2021.10.15 バチカン放送)

 16日の国連の「世界食料デー」にあたって、教皇フランシスコが国連食糧農業機関(FAO)の屈冬玉(チュー・ドンユィ)事務局長あてにメッセージ送られ、「『世界食料デー』は『飢餓を完全に撲滅する』という高い目標に私たちを向き合わせるもの」とされた。

 そして、「未来は私たちが創る。より良い食料生産と栄養改善が、素晴らしい生活と環境につながる」という今年のこの日のテーマは、「環境に最大限の配慮をし、適正価格を保証し、食料がすべての人に届くようにする」ために共同行動が必要であることを世界の人々に訴えるもの、と指摘。「私たち一人ひとりが、人と地球のためになる食料システム変革へ役割を担い、それぞれが自己の文化と経験、能力をもって自然保護に協力するように求められています」と訴えられた。

 さらに、「必要な栄養をとることができない人々が多くいる一方で、誤った食生活や習慣で肥満になる人が多く存在する」という世界の”逆説的な現状”に触れながら、「地球と人類の健康のために、あらゆるレベルで食料システム全体の再編が必要です」とも語られた。

 また教皇は、特に「農地」「海洋」「食卓」「無駄の軽減」の4分野で、生産者の努力を促し、消費者に倫理的で持続可能な選択を求め、若者が世界の飢餓問題への関心を高めるような対応を強く希望された。

 「自分の生活と簡単な行動から始めることが、『飢餓撲滅』という大きな目標への貢献につながり、私たちの「共通の家」を認識し、守ることが、地球環境保護への第一歩となります」とされた教皇は「この問題に取り組むためには、市場の冷酷な論理を超え、連帯の論理を強化することが大切」と指摘。FAOをはじめ、すべての人の基本的権利のために努力する人々に対するバチカンとカトリック教会の協力を約束しつつ、希望と調和の種を蒔く人たちのために祈られた。

2021年10月16日

◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑪「キリスト教的自由は人々と諸文化を歓迎する」

(2021.10.13 Vatican News By Christopher Wells)

  教皇フランシスコは13日、水曜恒例の一般謁見で聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」を題材とした講話を続けられ、「主の恵みと愛によって自由にされたキリスト教の信仰は、すべての人々と文化を歓迎し、人々と諸文化をより大きな自由に開かせる」と強調された。

 講話で教皇はまず、「キリスト教の自由は、文化や私たちが受けた伝統と対立せず、むしろ、新たな自由、解放された斬新さ、福音の自由を文化や伝統に注ぎ込む役割を果たすものです」とされ、「聖パウロがガラテヤの信徒への手紙に書いているように『キリスト・イエスにあっては…愛によって働く信仰こそが大事(5章6節)なのです。イエスの十字架上の死と復活によって罪と死の奴隷の状態から解放されたキリスト教徒は、すべての人々と文化を進んで受け入れ、人々と文化を さらなる大きな自由に引き合わせます」と語られた。

 その一方で教皇は、「すべての人が福音的な自由の「斬新さ」を受け入れた訳ではありませんでした。パウロを批判する人々は、『彼の狭隘な宗教的伝統から受けた要求を最小限に抑えた』と揶揄しました。これに対して、パウロは”parrhesia(ギリシア語・危険を冒しても真理を語る義務)”をもって応えました。『今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません』(ガラテヤの信徒への手紙1章10節)と」。

 

*すべての文化に開かれている

 聖パウロの考えの「霊に触発された深さ」の中で信仰を進んで受け入れることは、「文化や伝統の本質ではなく、福音の新しさと純粋さの妨げとなりうるものを、捨てることを含みます」とされた教皇は、「真のキリスト教の自由は、神の子たちの完全な尊厳を獲得することを可能にし、すべての文化の善で真実であるものに開かれながら、私たち自身の文化的遺産に繋がり続けることを可能にします」と語られた。

 そのうえで、「あなたがたは自由へと召されたのです」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)という自由への呼びかけの中に、「私たちは、福音のinculturation(受肉=キリストの教えが非キリスト教文化に対して適応し、展開していく上で、非キリスト教文化から影響を受けること)が持つ本当の意味を発見しますーキリストの良き知らせを、諸文化の中に存在する善と真理に敬意を払いつつ、告知することができるのです」と強調。

*諸文化に敬意を払う

 また教皇は、キリスト教会が、福音宣教の歴史の中で、(注:宣教対象とする国や地域、民族に)単一の文化的モデルを押し付けようとする「沢山の過ち」ー文化的な伝統とともにすべての人が持つ様々な表現の豊かさを、福音宣教に生かす可能性を封じる過ちーをいくつも犯した、と指摘された。

 さらに、聖パウロの自由についての理想は「すべての人がもつ文化的な源泉」を大切にする義務を明らかにしており、それが、すべての時代の、すべての人々と文化に心を開くことにつながる。なぜなら、キリストは、すべての人の為に、お生まれになり、亡くなられ、そして復活されるからだ、としている、とも語られた。

 

*文化は変わる、信仰について新たな語り方を考えよう

 最後に教皇は、文化は本質的に、絶えず変化していくものであり、「私たちは信仰について語る新たな方法を見つけていかねばならず、それを怠れば、新しい世代の人たちから理解されなくなるリスクを冒すことになります」とされ、自由を所与のものだと主張するのではなく、「常に動き続け、その充実に向けて」自由から挑戦を受けるように、信徒たちに勧められた。「これは、巡礼者ー絶え間なく移動を続ける徒歩の旅人、奴隷状態から解放され、自由を満喫するために歩む人ーに課せられた条件です」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年10月13日

◎教皇連続講話[ガラテヤの信徒への手紙]⑩「真の自由はキリストの十字架からもたらされる」 

(2021.10.6 Vatican News By Robin Gomes)

 教皇フランシスコは6日の水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をテーマにした講話を続けられ、キリスト者の自由についての概念と、キリストが十字架上で示された愛の至高の業において、その自由が達成されことについて、考察された。

(以下、バチカン放送)

 「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした」(ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節)。「 この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました」( 5章1節)。

 教皇は、「聖パウロはこのように語ることで、キリスト者は洗礼によって受け取った自由に固くとどまり、『奴隷の軛(くびき)』に二度とつながれることがないように呼びかけているのです」と話された。

 この自由の大切さを認識するパウロは、「偽兄弟たち」(2章4節)が「私たちがキリスト・イエスにあって持っている自由を狙い、私たちを奴隷にしようとして忍び込んでくる」(同)のを警戒していた、と述べられた。

 教皇は「キリストにおける自由を妨げるような説教は、決して福音とは言えない。私たちを自由にするキリストの名において、誰に対しても奴隷の状態を強いることはできません」と強調。

 「『私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする』(ヨハネ福音書8章31~32節)とイエスが言われるように、私たちを自由にする真理の源イエスにとどまるよう、パウロは促しているのです」と語られた。

 さらに、「キリスト者の自由は、『主イエスの恵み』と『キリストが啓示し、キリストご自身である真理』の二つの柱を基礎に成り立っている」とされた。

 そして、「主の恵み」について、「ガラテヤの信徒たちや私たちが洗礼を通して受け取った自由は、イエスの死と復活の、いわば実りであり、イエスからのみ、聖霊による新しい命の実がもたらされるのです」と説かれた。

 また、「罪への隷属からの真の自由は、キリストの十字架から湧き出る。十字架というキリストがすべての自由をはぎ取られた場所、すなわちキリストの死が、人間の真の自由の源となったことは、神の愛の驚くべき神秘です」。「私はキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤの信徒への手紙2章19節)と大胆に宣べたパウロは、この神の愛の神秘を身をもって体験した人であり、「十字架におけるキリストとのこの究極の一致を通してこそ、『自由』という最も大きな恵みを得ることができると知っていたのです」と語られた。

 キリスト者の自由のもう一つの柱である「真理」について、教皇は、「キリスト教信仰の真理は抽象的な論理ではなく、生活の中でじかに触れる生けるキリストの現実そのものであることを忘れてはなりません」と注意されたうえで、「真理は人を自由にし、その生き方を変容し、善へと向かわせる。真に自由であるためには、自分を知るだけでなく、自分の中でその真理を具体化する必要があり、そうしてこそ、キリストの恵みに自分を開くことができるのです」と訴えられた。

 最後に、「真理は私たちを揺さぶり、私たちは自己の内面を深く問いただし続ける必要があります」と強調。「真理と自由の歩みは一生続き、その道は決して容易ではありませんが、十字架から来る愛に導かれ、支えられつつ、喜びと幸いにつながるこの道を歩んでいきましょう」と信徒たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用しています)

 

2021年10月6日

☩教皇、ミャンマーの人々のために速やかな平和回復の実現を祈る

Rohingya refugees who crossed the border from Myanmar into Bangladesh walk as they try to reach refugee camps in Palang KhaliRohingya refugees who crossed the border from Myanmar into Bangladesh walk as they try to reach refugee camps in Palang Khali 

(2021.10.3 Vatican News Francesca Merlo)

   教皇フランシスコは3日の年間第27主日正午の祈りの中で、国軍クーデター以降、苦しみのどん底にあるミャンマーの人々が速やかに平和を取り戻すことができるように祈られた。

 教皇は、多大な苦しみを受けている人々の住む「愛する国土」に神が「平和の贈り物」とくださるよう懇願するとともに、「そこに住む人たちの手は、もはや痛みと死の涙をぬぐうことはできない状態にまでなっている。それでも、困難を克服し、平和の到来のために協力するため共に働くことは可能です」と励まし、祈られた。

 民主選挙で選ばれた政権は2月に国軍のクーデターによって転覆させられ、国軍は武力で政権を奪取した。以来、国軍に反発し、民主政治を取り戻そうとする人たちや、反国軍武装勢力などに対する国軍の武力による弾圧は激しさを増し、多くの死者を出す一方で、国内外の難民も増加を続けている。

 国際的な批判の声も高まっているが、当事者による対話による事態収拾の目途は立っていない。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年10月3日