◎教皇連続講話「世界を癒やす」⑧新型コロナ危機脱出の唯一の道は「共に助け合う」こと

Pope Francis at General Audience in the Courtyard of St. Damasus in the VaticanPope Francis at General Audience in the Courtyard of St. Damasus in the Vatican  (Vatican

(2020.9.23 Vatican News)

   教皇フランシスコは23日、水曜恒例の一般謁見で、「世界を癒やす」をテーマにした講話をお続けになり、今回は、新型コロナウイルスの大感染が終息した後の世界に目を向け、「相互補完の原則を用い、社会組織を再活性化する役割を、社会のあらゆるレベルが担っています」と強調された。

*相互補完の原則を貫くことが求められている

 この講話で教皇は、引き続き、教会の教えに照らした新型コロナウイルスの影響に言及し、「私たち1人ひとりが自分の責任を担うよう求められています」とされ、「私たちは未来に目を向け、社会を構成する全員の尊厳と賜物が大切にされる社会秩序のために働かねばならない」と強調された。

 そして、「相互補完の原則」について考察され、その意味をよりよく説明するために、教皇ピオ11世が1929年の大恐慌後に「相互補完の原則には、『上から下へ』と『下から上へ』の2つの動きがある」と語られたことを想起した。

*危機脱出に必要な各人の「自主性」と「率先して行動する能力」

 そのうえで、「危機から効果的に脱出するには、一人ひとりー特に弱い人ーの『自主性』と『率先して行動する能力』を尊重し、相互補完の原則を貫く必要があります」と述べ、この原則が、「全ての人に、社会の癒しと運命のために各自の役割を果たされるようにするのです」にもかかわらず、「多くの人々が隅へ追いやられ、排除され、無視されたりするゆえに、多くの人が共通の善の再建に参加できない」と嘆かれた。

 さらに、「特定の社会集団が、経済的または社会的に窒息させられているために、貢献できていない。中には、多くの人々が自分の信仰と価値観を自由に表明できないができない社会集団があるのです」と語られ、「他の所、特に西側世界では、多くの人々が自分の倫理的または宗教的信念を抑制していますが、それは危機から抜け出すやり方ではない。少なくとも危機から立ち上がる方法ではありません」と指摘された。

*個人、家族、企業…そして教会の貢献が決定的に重要

 教皇は「国家のような社会の最高レベルが、進歩に必要な資源を提供するために介入することは正しい」とされ、「公的機関が、適切な介入を通じて助けようとしている」と指摘したが、その際、「社会の指導者たちは中産階級以下のレベルの人々を尊重し、励まさねばなりません」と注文をつけられた。

 また、「個人、家族、団体、企業、あるいは仲介機関、さらに教会による貢献が、決定的に重要」であり、「自分の属する社会を癒す過程で、私たちすべてが責任を負う必要」があるが、そうした中で、「弱者を排除するという不正が、巨大な経済的、地政学的利益が凝縮する場で、しばしば起きています」と警告。例えば、アマゾン地域では「原住民の声、文化、世界についての見方への配慮がされていません」と指摘した。

 

*巨大企業優先の財政支援は問題だ

 さらに「今日の世界で、相互補完の原則を尊重しない風潮は、ウイルスのように広がっています。国が実施する大規模な財政支援策を見ても、実際に経済を動かしている人々や企業ではなく、巨大金融機関に耳を傾ける形で行われています」と述べた。

 また、新型コロナウイルスのワクチンや治療法を手に入れようとする現在の競争にについても、「良い方法ではない」とし、パウロはコリント人への第一の手紙で「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12章 22節)と説いているのを取り上げ、「相互補完の原則を実行することによってのみ、私たちは皆、社会の癒しと運命のための自己の役割を引き受けることができるのです」と説かれた。

*「連帯」には「相互補完」が必要

 そして、それを実践することで「もっと健康的で、もっと正義にかなった未来への希望が生まれます」とされ、「より大きな未来を目指し、私たちの視野と理想を広げて、未来を共に作り上げていきましょう」と呼び掛けた。

 教皇は、危機からの脱出する方法として「連帯」を挙げた以前のご自身の講話を思い起こしつつ、「連帯」を進めるには、「相互補完」が必要、と指摘。「家族、団体、協同組合、中小企業、仲介機関などの貢献、社会参加なしに真の連帯はありません」と語られた。

*危機に対処する人々を讃えるーだが「拍手」で終わりにしてはならない

 また、新型コロナウイルスの大感染で都市封鎖がされる中で、医師、看護師の努力に拍手喝采する人々の自発的な動きが、勇気と希望のしるしとして始まったことに言及され、「この拍手喝采を社会を構成する団体のすべてのメンバーに広げましょう。たとえそれが小さなものであっても、貴重な貢献に感謝しましょう」と呼び掛け、教皇自身も、危機の中で、自分たちのすべてを捧げてくれた何百万人ものボランティアに特別な感謝の言葉を、あらためて述べられた。さらに、「高齢者、子供、障害者を、働く人、奉仕に身を捧げる全ての人を讃えましょう。でも、拍手するだけで終わりにしないでください」と注文を付けられた。

 

*希望を持って、危機の先にある将来に備えよう

 最後に教皇は、希望を持って、危機の先にある将来に備えるように、と次のように講話を締めくくられた。

 「希望は危機を顧みません。大きな夢を描き、希望から​​生まれる正義と社会の愛の理想を追求するのに努めましょう。不正で不健全な過去を作り直そうとせず、​​互いの豊かさが小さな集団の持つ素晴らしさと豊かさ花開き、多く持っている人々が、少ししか持っていない人々に奉仕し、提供する世界となるように」

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年9月23日

♰「教皇、神はすべての人に、いつも呼び掛けておられる」25主日正午の祈りで

(2020.9.20 Vatican News)

    教皇フランシスコは20日、年間第25主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「ぶどう園の労働者」のたとえ話(20章1~16節)について考察され、この箇所でぶどう園の主人の2つの行為ー「呼びかけ」と「報い方」に注意を向けられた。

 イエスはこのたとえ話の中で、夜明けとともに町に出かけ、自分のぶどう園で働くように「呼び掛ける」主人について語っている。

 教皇は、「その主人は… すべての人に呼び掛ける、いつも呼び掛ける神を表しています」とされ、これが今も神がなさるやり方であり、私たちもそれに倣い、人をどこにいても探し求めるように促されている、と指摘。「これは、辺境に置かれた人々ーキリストととの出会いでもたらされる力と光をまだ経験していないか、失ってしまった人々ーに希望をもたらすように努めるように、私たちに求めておられていることを意味します」と説かれた。

 さらに、教皇は、「教会は、いつも神のようでなければならず、いつも外に出て行かねばなりません。そして、外に出て行かないなら、教会は健康を害してしまいます」と警告し、「教会にとって、福音を告げるために、危険を冒してでも、外に出ることは、自分の中に籠って、健康を害するよりも、良いことなのです… 神はいつも外に出て行きます。神は愛する父、そして教会は、いつも同じことするー外に出る必要があるのです」と強調された。

 ぶどう園の主人のもうひとつの行為も、神の行為ー「報い方」-を示している。主人が管理人を通して労働者に賃金を支払う時、働いた時間に関係なく、全員に同じ賃金を払った。このことから、「イエスが、仕事と賃金についてだけではなく、神の王国と天の父の優しさについて語っていることが分かります」とされ、さらに、「神は、私たちが働いた時間と成果には注目されず、私たちが神への奉仕にどれほど用意があるかをお考えになります… こうした神のなさり方は、『正義』以上のもの、正義を超え、主の恩寵で明らかにされるものです」と語られた。

 そして、自分の功績に頼る人は、先に来ても「後に」なり、父の慈悲に謙虚に身を委ねる人は、後に来ても「先に」なる(マタイ福音書20章16節)、と説かれた。

 最後に教皇は次のように締めくくられた。「この世界である神の場、教会である神のぶどう園で、ご自分のために働くように、との神の呼びかけを受けることの喜びと驚きを、私たちが日々、感じるように、聖母マリアが助けてくださいますように… 私たちが唯一の報酬として神の愛、私たちにとってのすべてであるイエスの友情を、手にすることができますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年9月20日

◎教皇連続講話「世界を癒やす」⑦「観想」と「いたわり」が人と自然の関係を正す道

教皇フランシスコによる一般謁見 2020年9月16日教皇フランシスコによる一般謁見(2020年9月16日 、バチカン宮殿の聖ダマソの中庭で=Vatican Media)

 教皇フランシスコは16日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で「世界を癒やす」をテーマにした講話を続けられ、この日は、私たちの「共通の家」である地球を保護し、自然を観想することの大切さに、ついて話された。(観想=特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察すること)

 教皇はまず、新型コロナウイルスの大感染から脱するには、「自分たちだけではなく、互いのケアが必要であり、特に最も弱い立場に置かれた人、病者、高齢者などを支えることが大切」とされ、「世話をし、いたわることは人間の黄金律であるが、私たちはそのいたわりを、大地やすべての生物にも向けなければなりません」と説かれた。

 そして、「すべての命は相互のつながりを持ち、私たちの健康は、神が創造され、私たちに神が世話を託された生態系の健康に依存しています… そこから搾取し、自然を破壊することは、重い罪です」と強調。私たちの「共通の家」を搾取しないための最良の対抗策は「観想すること」とされ、「美しいものを前に立ち止まり、それを尊重することを学ぶことができないなら、すべてのものが無分別な利用や搾取の対象物となってもおかしくありません」と話された。

 さらに、私たちの共通の家ー被造物は、単なる「資源」ではなく、「その一つひとつが独自の価値を持ち、それぞれのあり方を通して、神の無限の叡智と愛を反映しているのです… その価値と神の光を見出すには、沈黙し、耳を傾け、観想することが必要なのです」と説かれた。

 このような観想なしには、私たちは「人間を他のすべての被造物の支配者とみなす、均衡を欠いた高慢な人間中心主義」に陥り、「自ら神の座を占めようとし、調和を破壊してしまいます」と警告された。

 教皇は、「『命を守る』という召命を忘れる時、私たちは略奪者になってしまいます… 私たちは生き、発展するために大地を耕しますが、それは搾取を意味しません。常に私たちの使命である『世話』を伴うものでなければなりません」と強調された。

 また、「私たちが熟慮する時、他者や自然の中に、その有用性よりも、もっと大きな何かを見出し、神がそれぞれに与えたかけがえのない価値を発見することができます」と改めて観想することの重要さを指摘され、「私たちを思いやりの行為に導く観想は、『自然を外から眺める』のではなく、『自然の中から、自分を自然の一部と認識する』ことで得られるもの。その視点は私たちを単なる自然の傍観者ではなく、それを守る者とします」と話された。

 そして、「観想することを知る人は、環境破壊や健康の害になる原因を変えようと働き、生産と消費の新しい習慣を育て、『共通の家と人間を尊重した新しい経済成長モデルに貢献するよう努力する人」とされ、人と自然との関係を正し、再びバランスを取り戻すための道として「観想」と「いたわり」の二つの態度を示された。

(編集「カトリック・あい」)

2020年9月17日

♰「赦しと慈しみが、苦難、戦争…を避ける助けとなる」第24主日の正午の祈りで

Pope Francis at Angelus on SundayPope Francis at Angelus on Sunday  (Vatican Media)

(2020.9.13 Vatican News)

 教皇フランシスコは13日、年間第24主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書18章21節に始まる「仲間を赦さない家来」のたとえ話を取り上げ、「私たち自身が赦しと愛を実践しなければ、自分が赦されることも、愛されることもない」と語られた。

 教皇は、このたとえ話で、イエスが、慈しみに溢れた神の振る舞いに倣うように、と私たちキリスト教徒に促しておられ、「赦しと慈しみ」が「私たちの生き方」になれば、「世界は多くの苦しみ、多くの傷、そして戦争から免れることが可能になります」と説かれた。 

 マタイ福音書の「仲間を赦さない家来」のたとえ話では、多額の借金をしている家来が、主君に返済の時間をくれるように懇願すると、主君は憐れに思って、借金を帳消しにする。だが、この家来は、わずかな金額を貸している仲間を見つけると、返済を強要し、時間をくれるように懇願するのも聞かず、牢に入れてしまう。それを知った主君は、家来を拷問係に引き渡してしまう。

 教皇は、この主君が家来に最初に示したように「赦しと憐れみが、私たちのライフスタイルだったなら、どれだけの苦しみ、どれだけの傷、どれだけの戦争を避けることができるでしょうか」とされたうえで、 「神の振る舞いは慈しみと正義に満ちていますが、人間の態度は正義に限られています… しかし、人生で起きる問題のすべてが、正義によって解決できるわけではありません。ですから、イエスは私たちに、勇気を持って『赦しの力』を受け入れるように、強く勧めておられるのです」と強調された。

 また教皇は、慈しみ深い愛の必要性は、「罪を犯した人を何回赦すべきか」と尋ねたペテロにイエスが示された答えでもある、とされ、 「聖書の象徴的な言葉の中で、これは私たちが、常に赦すように、と求められていることを意味するのです」と語られた。そして、この慈悲深い愛を「あらゆる人間関係ー夫婦の間、親子の間、私たちが属する共同体、さらに社会、政治の場面での人間関係ーに適用していく必要がある」と説かれた。

 さらに、教皇は事前に用意した原稿から離れて、この日のミサの第一朗読、旧約聖書のシラ書27章6節「自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ」の箇所を取り上げ、「過去に被った侮辱に対する恨み、憎しみは、ハエのように私たちを悩ませ続けることがありえます… シラ書で語られているように、自分の最期の日について考えることは、恨み、憎しみの無限のサイクルを終わらせるのに役立つのです」と言われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=引用した聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)

 

2020年9月13日

◎教皇講話「世界を癒やす」⑥「際限ない愛で新型コロナに立ち向かおう」

2020.09.09 Udienza GeneralePope Francis greets the faithful at the beginning of Wednesday’s General Audience. Beginning last week, the General Audiences have been held in the San Damaso courtyard at the Vatican.  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは9日、水曜日恒例の一般謁見の「世界を癒やす」をテーマにしたカテキーシスで、「共通善」に関心を向けられた。

*「共通善」を共に追求する

  教皇はまず、「皆が共通善を共に追求すれば、新型コロナウイルス感染による危機から、もっとよく立ち直ることが可能になります」とされたうえで、今、利己的な目的のために危機を利用しようとする人々による「歪んだ関心が生まれてきている」ことを嘆かれた。

 そして「新型コロナ危機とその結果生じている社会・経済的な危機へのキリスト教徒の対応は、愛-特に私たちへの神の愛ーに基づくものです」と語られ、「(注:神が私たちを愛してくださったから)今度は、私たちがすべての人をー友人や家族だけでなく、敵でさえもー愛するように、求められています… それが難しいことは分かっていますですが、学べる、改善できる業なのです」と強調された。

   ・共通善とは、この場合、「世界の人々皆が、主が望まれるように、平和で安全に自由に生きることのできる、皆にとって善いもの」と解釈できる(「カトリック・あい」)

*「愛の文明」を築く

 続けて教皇は、愛は、私たちが個人的関係を作るのを助けてくれるだけでなく、(注:聖人となったパウロ六世とヨハネ・パウロ2世の両教皇が愛された表現を使って)「社会的、文化的、経済的、そして様々な関係を活発にし、『愛の文明』を構築できるようにします」と語られた。

 


また教皇は、「現在の起きている危機は、人それぞれの善が全体として社会の共通善と結びついており、その逆も真であることを、私たちに教えている」と述べ、「障壁、境界、あるいは文化的・政治的な区別を認識しないウイルスは、障壁、境界あるいは区別のない愛に、必ず、直面する」とし、危機の解決策が身勝手さや自己中心主義に汚染されるなら、「新型コロナ危機から脱出できたとしても、新型コロナが明確にした人間的、社会危機から脱出できないのは確実… (そうならないように)すべての人、特にキリスト教徒は、共通善を促進するために働く義務があります」と説かれた。

 

 

*倫理に根ざし、愛で育てられる政治

 教皇はさらに、政治にはしばしば芳しくない評判が立つが、それには理由がない訳ではない、とされ、それでも、「政治が、人間と共通善を果たすべき主たる義務とするなら、良い政治は実現可能… すべての人、特に社会的および政治的な約束と義務を持つ人々が、「倫理的原則に基づく」振る舞いをするようにし、「社会的、政治的な愛」をもって、それを伸長するように求められている、と強調。「キリスト教徒、一般の信徒は、ある特定のやり方で、その模範を示すように求められており、慈しみの徳のおかげで、固有の社会的な側面を育て、それを行うことができるのです」と語られた。

 

*私たちは社会的な愛を高めるように求められている

 最後に教皇は、「私たち社会的な愛を、一人ひとりの参加で高めるべき時は、今です」と言明。「各々が自分の役割を、例外なしに果たす必要があります… そうして、私たちの振る舞いを通して、最も慎み深い者でさえも、自分が抱いている神の姿がいくらか見えるようになるでしょう。神は三位一体、神は愛だからです」と言われ、「共通善のために」皆が力を合わせれば、神の助けをもって「私たちは、世界を癒やすことができるのです」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年9月9日

♰「”うわさ話”は、新型コロナよりも悪質な感染症」-23主日の正午の祈り

Pope Francis waves to the faithful at the Sunday AngelusPope Francis waves to the faithful at the Sunday Angelus  (Vatican Media)

*第二の方法:第三者の助けを求める

 相手が諭しを聞き入れない場合は、他の姉妹や兄弟たちの助けを求めるように、とイエスは言われる。

 教皇は、この第二段階は、「誰かを非難するために、2人または3人の証人の存在が必要、としたモーセの律法とは違います… 複数の証人を呼ぶのは、相手を非難し、裁くためではなく、助けるためなのです」と注意された。

 

*第三の方法:教会に申し出る

 複数の証人を同席させても、相手が罪を犯したことを認めないなら、教会共同体にこの問題を持ち込む。

 「それは、他の兄弟姉妹に影響を与える可能性がある。相手を立ち直らせるために、もっと大きな愛が必要とされます」と教皇は語られた。

*そして最後の方法は

 だが、教会の言うことも聞き入れないなら、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエスは言われる。

 教皇は、「この言い方は、相手を軽蔑しているように受け取られる可能性があります。しかし、実際には、このような思い切った言い方は、その兄弟姉妹を神の手に委ねるように、私たちを促している。天の父だけが、全ての兄弟姉妹の愛を合わせたよりも大きな愛を、その人に示すことができるからです」と説かれた。

 さらに「(注:この箇所ではイエスが異邦人や徴税人たちを悪く言っているように、見えるが)実際には、イエスは異邦人と徴税人を進んで受け入れ、当時の”伝統主義者”たちの反発を買っています」と指摘された。

 

*悪意あるうわさ話は共同体を傷つける

 続いて教皇は、私たちが、罪を犯した兄弟姉妹に愛を持って正すことをせず、(注:その人を非難するような)うわさ話をする道を選んだ時、何が起きるか、に言及した。

 「兄弟や姉妹が失敗したり、間違いを犯したりしたのを知った時、私たちがまず、するのは、そのことを他の人に話すこと。悪意のあるうわさ話をすることです… うわさ話は共同体の正常な動きを止め、傷つけます。”偉大なうわさ話の語り手”は悪魔だからです」とされたうえで、教皇は「うわさ話をしないように頑張りましょう。うわさ話は、新型コロナウイルスよりも悪質な感染症です」と強調された。

 

*兄弟姉妹愛のある諭しの健全な慣行を

 最後に教皇は、聖母マリアが、兄弟姉妹愛を持って諭そうとする私たちを助けてくださるように、と次のように祈られた。「健全な慣行によって、私たちの共同体に、新たな兄弟姉妹愛的な関係が、互いの赦し合いと、何よりも神の慈しみの無敵の力を基礎に、築かれますように」。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年9月6日

◎教皇連続講話「世界を癒やす」⑤”新型コロナ大感染”後の社会再建に必要なのは「連帯」

(2020.9.2 Vatican News  Devin Watkins)

教皇フランシスコは2日、聖ペトロ広場に集まった人々に直接対面する形での、水曜恒例の一般謁見を再開。「世界を癒やす」をテーマにした連続講話を続け、新型コロナウイルスの世界的大感染が終息した後の世界の中で、大感染が起こした社会的な様々な病弊を癒すためには、本物の連帯を信仰の徳を結合させる必要がある、と強調された。

講話の中で、教皇は、まず、コロナ禍でこれまで“screen-to-screen”を余儀なくされていた水曜恒例の一般謁見を、信徒たちとの”face-to-face”に戻すことについて、喜びを表されたうえで、新型コロナの大感染は私たちが、良くも悪くも、いかに互いに依存する関係にあるか、ということを再認識させた、と指摘。それゆえ、「連帯」が、「以前よりももっと良くなる形で、この危機から立ち直るための鍵になる」と説かれた。

そして、「すべての人は、神に共通の期限を持っており、”共通の家”-神が私たちを置かれた園である星ーに共に住み、キリストにおいて共通の目的地を持っています… しかし、このことをすべて忘れた時、私たちの『互いに依存する関係』は、他の人への『(注:一方的な)依存の関係』となり、不平等と差別を加速させ、社会組織を弱体化させ、環境を劣化させてしまいます」と警告。

 さらに、「連帯」という言葉は、少々陳腐で誤解されているだが、この言葉は、「散発的に寛容な行為をする」ということ以上の意味を持っている、と指摘。「連帯」は「共同体の観点から考え、少数の人々による物の収奪ではなく、すべての人の命を優先する考え方をもたらす」とされ、そして、それ以上に、「連帯」は「正義なのです」と強調。健全で実り多い相互依存は「神が創造された人類と自然に強い根を持つ必要があります。それぞれの顔を持った人々とこの地に敬意を払うものでなければなりません」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年9月2日

♰ 「思い出し」「立ち帰り」「休息し」「修復し」「喜ぶ」ー 9月1日「環境保護のための世界祈願日」の教皇メッセージ

9月1日「環境保護のための世界祈願日」9月1日「環境保護のための世界祈願日」 

(2020.9.2 バチカン放送)

 9月1日、世界のキリスト教諸教会が参加する6回目の「環境保護のための世界祈願日」を迎え、教皇フランシスコがメッセージを出された。

 「環境保護のための世界祈願日」は、環境問題に対する関心と考察を深め、祈ることを目的とし、また、この日から10 月 4 日まで、被造物を保護するための祈りと行動の 月間、「被造物の季節(Season of Creation)」が、キリスト教諸教会と共に行われる。特に「アースデイ(地球の日)」の誕生より50周年を迎えた今年は、この期間を「地球のジュビリー(祝年)」として記念する。

 教皇は、2020年度「環境保護のための世界祈願日」のメッセージで、「地球のジュビリー」をキリスト教諸教会と共に祝うことに喜びを表すと共に、この「ジュビリー」において、私たちは何をすべきなのかを説いておられる。

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 メッセージの冒頭で、教皇は「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それがヨベルの年である」という旧約聖書「レビ記」(25章10節)の言葉を引用し、聖書における「ヨベルの年(ジュビリー)」とは、「思い出し」、「立ち帰り」、「休息し」、「修復し」、「喜ぶ」べき、聖なる時です、とされた。

 ジュビリーは「思い出す時」、とされる教皇は、「私たちはまず、被造物の最終目的は「神の『永遠の安息日』に入ること」であることを思い起こさねばなりません」とされ、同時に、ジュビリーは、「愛の共同体として生きるという、被造物の本来の召命を心に留める恵みの時」であり、「創造主なる神、兄弟姉妹たち、そして私たちの”共通の家”に暮らす全被造物との関係性を改めて思い起こすように」と促された。

 また、ジュビリーは「立ち帰る時」でもあり、「この機会に、私たちは、断ち切られ、傷つけられた創造主、他の人々、全被造物の絆を取り戻さねばなりません」と訴え、「神に立ち返り、貧しく弱い人々をはじめとする他者を、再び思いやり、危機を告げる大地の叫びに耳を傾け、自然の秩序の中に戻る努力」を求めた。

 そして「神は、大地と人々を休ませるために、安息日を設けられましたが、今日の私たちの生活スタイルは、地球をその限界まで追いやり、絶え間ない生産と消費のサイクルは、環境を消耗させています」と警告。このジュビリーを「休息の時」とし、いつもの仕事の手を休め、習慣的な消費を減少させることで、大地を生まれ変わらせる必要がある、と説かれた。。

 さらに、「現在の新型コロナウイルスの世界的大感染は、ある意味で、私たちにより簡素で持続可能な生活様式を再発見させる契機となりました… 今こそ、無駄や破壊につながる活動をやめ、価値や絆や計画を育む時です」と訴えられた。

 このため、教皇は、ジュビリーは被造物の本来の調和を取り戻し、傷ついた人間関係を癒すための「修復の時」でもある、とされ、「一人ひとりに自由と財産を返し、他者の負債を免除しながら、平等な社会関係を再び築いていく」ことの必要性を強調。環境上の修復として、大地を癒し、気候のバランスを再び安定させ、生物多様性を守るよう、努力することを求められた。

 メッセージの最後で教皇は、ジュビリーは「喜びの時」とされ、大地と貧しい人々の叫びが高まる中、共通の家を再興し、最も弱い立場の人々を守るために一致するよう励ます聖霊の働きを示しながら、特にこの「被造物の季節」が真にエキュメニカルな取り組みとなったことに、大きな喜びを表された。

(編集「カトリック・あい」)

2020年9月2日

♰「すべてのキリスト教徒はイエスに倣い、神と隣人に奉仕するように呼ばれている」教皇、第22主日正午の祈りで

Pope Francis speaks during Angelus from the window at St Peter’s Square, at the Vatican  (Vatican Media)

(2020.830 Vatican News)

   教皇フランシスコは30日、年間第22主日の正午の祈りでの説教で、この日のミサで読まれた福音(マタイ16章21~27節)を取り上げられ、「十字架を負う」(24節参照)という言葉は、「私たちの命を神と隣人への奉仕に費やすことでイエスに倣う」ことを意味する、と説かれた。

Pope Francis speaks during Angelus from the window at St Peter's Square, at the Vatican

 この福音書の箇所では、イエスはご自身の受難、死、そして復活の神秘について、弟子たちに教えておられる。だが、「弟子たちはまだ、それを理解できません。なぜなら、彼らの信仰は未熟で、この世の理解の仕方にとらわれ過ぎているからです」とされた。

 そして、「ペトロと他の弟子たちにとって、そして私たちにとって、十字架は”つまずきの石”と見なされるのに対して、イエスは、その”つまずきの石”は十字架を免れようとするもの、つまり、父のご意思に沿おうとしないことを意味する、と考えておられるのです。それで、イエスは、ペトロを『サタン、引き下がれ』と強く叱責されたのです」と語られた。

 *イエスの真の弟子になる

 続いて、イエスは、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(24節)と弟子たちに言われるが、教皇は、この場面でイエスは「真の弟子のとるべき道ー二つの対応-を示されます。まず、自分自身を捨てることーこれは実際に回心することを意味します。そして、自分の十字架を負うことー日々の苦しみを辛抱強く耐えるだけでなく、信仰と責任を持って、悪との戦いを伴う労苦と痛みを担うことを意味するのです」と説かれた。

*この世の救いに参加する

 そして、この二つの対応のうち、後者について教皇は「『十字架を負う』という骨の折れる仕事によって、この世の救いに、イエスと共に参加するようになる… 十字架は、『兄弟姉妹、特に最も小さな人々、最も弱い人々への愛の奉仕を通して、キリストと結びつきたい』という私たちの熱望のしるしです」と言われ、さらに、「十字架は、神の愛とイエスの犠牲の聖なるしるし。迷信のお守りや飾りのネックレスにするべきものではありません」と指摘された。

 また、「私たちが十字架を見る時、このような事実を思い起こす必要があります。それは、イエスが、命を捧げ、罪の赦しのために血を流されることで、ご自分の使命を果たされたのだ、ということ。イエスの弟子になるために、私たちは、イエスに倣い、神と隣人への愛のために、自分の命を惜しみなく費やさねばなりません」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=引用された聖書の日本語訳は、「聖書協会 共同訳」による)

 

 

2020年8月30日

◎教皇連続講話「世界を癒す」④大感染の試練の中で「社会的不平等」と「分かち合い」の意味を考える

Pope Francis during his weekly General AudiencePope Francis during his weekly General Audience  (ANSA

*為政者の権利と義務

 また教皇は、私たち持ち物が「共同体に価値をもたらす」ことを確実にするために、為政者たちは、「共通善に従って財産に対する権利の合法的行使を統制」する権利と義務を負っていることを強調。

 さらに、財産とお金は「使命を果たすことを可能にする手段」だが、「私たちは、その目的を『個人または集団』に簡単に変えてしてしまう、それによって、本質的な人間の価値観が損なわれる。神の似姿で創造され、自分が社会的存在であり、創造、協力、そして愛するという大きな能力を与えられていることを、私たちは忘れてしまうのです」と警告された。

 「私たちの視線をイエスに据え、イエスの愛が弟子たちの共同体を通して働いてくださる、という確信を持って、私たちは皆、それぞれにより良い何かを生み出すことを願って、共に行動しなければなりません。神に根ざしたキリスト教徒の希望は、神に対する強い思いです。それは、キリストの弟子としての私たちの使命を共に分かち合い、強めようとする意志を支えてくれます」。

 そして、講話の終わりに教皇は、「創造者が私たちにくださったものを世話し、誰も欠けないように共有する」なら、「私たちは、もっと健康で平等な世界を再生する希望を、強く持つことができるでしょう」と語られた。

 そして最後に「子供たちについて」考えるよう信徒たちに促され、「多くの子供たちが現在の不当な社会の仕組みのためにに苦しんでいます。命を落とし、食べる物がなく、教育を受ける機会も与えられていません。コロナの危機の後で、私たちは、もっと良くならねばなりません」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 なお、バチカン放送日本語課による講話の発表全文日本語訳は以下の通り。(原文の英語版[pandemic]は普通名詞ですが、この場合の適切な日本語として「カトリック・あい」が使用している「新型コロナウイルスの大感染」に改めました。)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

新型コロナウイルスの世界的大感染とその社会的影響を前にして、多くの人が希望を失いそうになっています。不確実で苦悩に満ちたこの時、キリストから来る希望の賜物を受け入れるよう、すべての人に呼びかけたく思います。キリストこそが、この感染症や、死、不正義によって荒れた波を航海し、これらに打ち勝つことを助けてくださるのです。

今回のウイルスの大感染は、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました。ある人々は家から仕事ができる一方で、他の多くの人にはそれができません。ある子どもたちは、困難にも関わらず、学校教育を受け続けることができますが、他の非常に多くの子どもたちにとっては、その教育はいきなり中断されました。一部の力のある国々は、この危機のために予算を増やせますが、他の国々にとって、それは未来を抵当に入れることを意味します。

この不平等の症状は、社会における一つの病、不健全な経済から来るウィルスともいえるものを示しています。私たちは、単純に言うべきでしょう、すなわち経済が病んでいると。それは、人間の基本的価値を考慮しない不平等な経済発展がもたらすものです。今日の世界では、少数の非常に富んだ人々が、残りの人類全体よりも多くを所有しています。もう一度言いましょう。これは考えるべきことです。ほんの一握りの人々が、残りの人類全体よりも多くを持っています。これは純粋な統計です。その不平等は天に向かって声を上げています。

同時に、この経済モデルは、「共通の家」である地球を苦しめる被害には無関心です。共通の家を大切にしようとしません。私たちの素晴らしい地球は、多くの限界に達しつつあります。生物の多様性の減退や、気候変動から、海面の上昇、熱帯雨林の破壊に至る、その影響は深刻で後戻りできないものです。社会的不平等と環境破壊は進行を共にし、同じ根源を持っています(参照:回勅 ラウダート・シ101)。それは、兄弟姉妹たちと、自然、神ご自身に対する所有と支配を望む罪です。しかし、これは創造をめぐる神のご計画とは異なるものです。

「初めに、神は地とその産物とを人類の共同の管理にゆだね、それを世話するように図られました」(参照:「カトリック教会のカテキズム」2402)。神は私たちにご自分の御名において地を支配し(参照:創世記1章28節)、一つの園、皆の園として、耕し、守るようにと命じられました(参照:同2章15節)。「『耕す』とは、育てる、働く、『守る』とは、保護する、保存することを意味します」(「ラウダート・シ」67)。

しかし、これを、地を自分の好き勝手にしてよい、というように解釈してはいけません。そうではなく、私たちと自然の間には、「責任ある相互関係」が存在します(「ラウダート・シ」67)。私たちは自然から受け取り、そして、今度は私たちから自然に返します。「すべての共同体は、生きていくために必要な、地の恵みを受け取ることができます。しかし、同時にそれを守る義務があります」(同)。

実際、地は私たちに先立ち(同上)、神から「全人類のために」(「カトリック教会のカテキズム」2402)与えられました。したがって、その実りを、一部の人だけでなく、すべての人に届くようにすることは、私たちの義務です。これは私たちと地上の財との関係について鍵となる要素です。

それは、第二バチカン公会議の教父たちがこのように思い出させているとおりです。「人はこの豊かさを用いながら、合法的に所有する外部の物を、彼だけでなく、他の人たちもそれを享受できるように、自分の所有としてだけでなく、共有の物とみなさなければなりません」(「現代世界憲章」69)。実際、「ある財産を所有するということは、その所有者が神の摂理の管理人にされるということであり、当人はその実を結ばせ、手にした利益を他の人々と分かち合うべきなのです」(参照:「カトリック教会のカテキズム」2404)。

私たちは、財の所有者ではなく、管理者です。「でも、財産は私のものです」。そうです、あなたのものです。しかし、それは管理するためのものであり、利己主義的にあなたが独占するためのものではありません。

2020年8月26日