・教皇、朗読奉仕者と祭壇奉仕者に女性を正式に認める自発教令発出

バチカン・聖ペトロ大聖堂での教皇ミサで 2020年11月22日バチカン・聖ペトロ大聖堂での教皇ミサで 2020年11月22日  (ANSA)

 教皇フランシスコは11日、自発教令の形をとった使徒的書簡「スピリトゥス・ドミニ」を発出、教会の朗読奉仕者と祭壇奉仕者に、男性だけでなく女性も正式に選任できるよう、教会法を改定した。

 自発教令による教会法改定の具体的内容は、203条1項にある「Lay men(男性の一般信徒)」という表記を「Lay persons(一般信徒)」に改め、「司教協議会の規定によって定める年齢と資格要件を満たす一般信徒は典礼の儀式を通して安定的に朗読と祭壇奉仕をすることが認められる」(公式英文より、「カトリック・あい」仮訳)となる。

 現在、カトリック教会では、男性だけでなく女性の信徒も、みことばと祭壇への奉仕を行うことは、各国の司教協議会が認めれば可能で、世界中に定着している。だが、女性による奉仕は、あくまで「臨時の委託」であり、正式な儀式をもって朗読奉仕者ならび祭壇奉仕者に「選任」されるのは男性に限られていた。これは、かつて、司祭に叙階されるための準備の過程に、こうした奉仕を担当する副助祭などの”下級位階”が存在していたためだ。

 これに対して、パウロ6世は1972年、これらの下級位階を廃止し、聖職位階としての性質を持たない朗読奉仕職と祭壇奉仕職を制定、一般信徒が参加する道を開いた。そして、助祭、司祭を目指す者にこの奉仕職を積極的に果たすよう求めるとともに、一般の信徒にも奉仕を「委託」できるようにしたが、正式に「選任」される奉仕者は、男性に限られていた。今回の自発教令による教会法改定で、典礼奉仕における”男女平等”が実現することになる。

 教皇は、今回の教会法改定の主旨について、自発教令に添付したルイス・ラダリア教理省長官あての書簡で、「第二バチカン公会議によって示された典礼刷新の主旨により、教会において洗礼を受けた全ての人の共同責任と、一般信徒の特定の使命を改めて認識することの必要性が、今日、かつてなく高まっています」とされ、「教会全体で、さまざまな状況において、男性と女性のために典礼奉仕の場が与えられ、促進されることが急務です… 典礼奉仕のあり方、そして何よりも、洗礼の尊厳の認識を高めることで、私たちが強固なものにせねばならないのが、男性と女性によって作られたカトリック教会なのです」と説明されている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年1月12日

・教皇、6日の「主の公現」の祭日に聖ペトロ大聖堂でミサを司式ー10日の幼児洗礼式は中止に

(2021.1.5 バチカン放送)

  教皇フランシスコは6日イタリア時間午前10時(日本時間同日午後6時)から、主の公現の祭日のミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられる。また、同日のイタリア時間正午(日本時間同日午後8時)に、教皇はバチカン宮殿の図書室で正午の祈りを唱えられ、それぞれバチカン・ニュースのインターネットサイトで中継される。

 一方、教皇は、10日の「主の洗礼」の祝日の伝統となっているバチカンのシスティナ礼拝堂での幼児の洗礼式は、新型コロナウイルス感染拡大防止への配慮から中止となった。

(編集「カトリック・あい」)

*「主の公現」とは、幼子イエスへの東方三博士の訪問や、キリストの洗礼、カナでの最初の奇跡など、キリストが公に人々の前に姿を現されたことをいう。この日は主の公現を記念し、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを祝う日で、カトリック教会の典礼歴では1月6日とされているが、日本のような非カトリック国では、週日に信徒が集まるのは難しいため、前の日曜日に「主の公現」のミサを捧げることになっている。今年は、日本では3日に祝われた。

2021年1月6日

・「神の母聖マリアの祭日」前晩の祈りと元旦のミサは国務長官らが代行ー教皇が坐骨神経痛で

(2020.12.31  カトリック・あい )

 バチカン広報局が日本時間31日深夜発表したところによると、教皇フランシスコが司式を予定していた元旦、「神の母聖マリアの祭日」のミサと前晩の祈りを、パロリン国務長官らが代行することが急遽決まった。

 ミサと前晩の祈りの司式を中止せざるを得なくなったのは、広報局の発表によると、教皇が強度の坐骨神経痛のため長時間の司式が困難になったため、という。ただし、これも恒例の

元旦正午の祈りと説教は予定通り教皇がなさる予定。

 

2020年12月31日

・クリスマスと年初の二つの祭日ミサは一人の司祭が4回まで可能-コロナ禍で異例の措置

Holy Mass celebrated with health precautionsHoly Mass celebrated with health precautions  (AFP or licensors)

(2020.12.17 Vatican News)

 新型コロナウイルス感染防止策が厳格化される中で、信徒のミサへの参加などにも支障が出ているが、バチカンの典礼秘跡省は16日、全世界の教会向けに布告を出し、クリスマスと新年の「神の母聖マリア」、「主の公現」に限って、一人の司祭が4回までミサを捧げることを認める旨、通知した。

 典礼秘跡省のウェブサイトに同日付けで掲載された布告によると、今回の措置は、世界の教会がコロナ対策で聖堂内の着席人数が制限される中で、ミサの回数を増やすことで、信徒の参加を容易にするのが目的。

 布告では「新型コロナウイルスの世界的な大感染でもたらされた状況を考慮し… 教皇フランシスコの判断を受け」て、全世界の教区司祭が、クリスマス(12月25日)、神の母聖マリアの祭日(1月1日)、および主の公現の祭日(1月6日、日本では1月3日)に限定して、裁治権をもつ司教(the Ordinary)が信徒の為に必要と判断した場合、司祭が1人で1日に4回までミサを捧げることを認める、としている。

 教会法は司祭が一日に捧げることのできるミサの回数について、司祭が不足している場合、現地の司教が、正当な理由がある場合に、司祭が1日2回、ミサを捧げることを認め、とくに司牧上の必要がある場合は、日曜日と聖なる義務の日に3回まで捧げることができる(905条)と定めている。

 典礼秘跡省では、今回の措置により、ミサの回数が増えることで、コロナ対策でミサ一回当たりの信徒の参加人数が制限される問題に対処可能になることが期待されるが、その場合も、各国、各地域で実施されているコロナ対策は厳守してミサに参加するように求めている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月18日

・ 教皇フランシスコ、17日で84歳に

 

(2020.12.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコが17日)、84歳の誕生日を迎えられた。

 教皇(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)は1936年12月17日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでお生まれになった。

 誕生日にあたり、教皇は、手紙やEメールなどを通し、たくさんの人々からお祝いの言葉を受け取られた。新型コロナウイルスの世界的大感染で、様々な活動が制限された一年だったが、教皇は世界の人々と心の交流を続けながら、再び会える日を心待ちにされている。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年12月17日

・バチカンの聖ペトロ広場でクリスマスツリーとプレゼピオ点灯・除幕式

(2020.12.11 バチカン放送)

 バチカンの聖ペトロ広場で11日夕方(日本時間12日未明)、クリスマスツリーとプレゼピオの点灯・除幕式が行われ、ツリーを贈ったスロベニア、プレゼピオを製作したイタリア中部アブルッツォ州から使節が参加。バチカン側からは、バチカン市国行政庁長官のジュゼッペ・ベルテッロ枢機卿らが出席した。

 今年のツリーは、スロベニアの南東コチェービエの森からもたらされたオウシュウトウヒ(ヨーロッパトウヒ)で、高さ28メートル、幹の太さは直径70センチ。スロベニアからのクリスマスツリーの寄贈は、1996年に続き、2度目となる。

 一方、プレゼピオは、アブルッツォ州テラモ県カステッリで製作された陶製の作品群。山深いカステッリの町は古くから焼き物の産地として知られており、1965年から1975年にかけて、地元の美術学校の生徒と教諭らによって、クリスマスをテーマに創作された54体の陶製作品から、聖家族や、天使、東方三博士、そして動物たちなど、数作品を選んだもので構成されている。

 今年は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、除幕式は規模を縮小して行われたが、関係者らの降誕祭への思いが込められた言葉や、バチカン警察の楽隊の演奏によるクリスマスの調べが、温かい雰囲気を醸し出した。除幕によってプレゼピオが公開された後、子どもたちによってツリーが点灯された。

 ツリーとプレゼピオは、来年1月10日の「主の洗礼」の祝日まで広場を彩る。

(編集「カトリック・あい」)

2020年12月12日

再改・教皇、今年12月8日まで一年を「聖ヨセフの特別年」に+「聖ヨセフへの祈り」+全免償の条件

Saint Joseph with the Christ ChildSaint Joseph with the Christ Child 

(2020.12.8 Vatican News)

  教皇フランシスコは8日、使徒的書簡「Patris corde (With a Father’s Heart=父の心をもって)」で、同日から2021年12月8日までを、聖ヨゼフを「カトリック教会の保護者」と定めて150周年を記念することを宣言。これを受けてバチカン内赦院の教令で、この期間を「聖ヨセフの特別年」とすることが布告された。

 また、この特別年にあたって、内赦院は、以下の要領で、世界の信徒に特別免償を与えることを決め、各国の司教団に伝えている。

・・・・・・・・

教皇フランシスコの意向に沿って公布した教令をもって、内赦院が聖ヨセフ年の間に慈しみをもって与える免償の恵みは、望まれる目的を十全に果たすために大いに有益。
通常の条件(赦しの秘跡、聖体拝領、教皇の意向による祈り)のもと、あらゆる罪から離れようとする心をもって、内赦院が指示する機会と方法で聖ヨセフ年に参加する信者に、全免償が与えられる。

a 真の信仰者である聖ヨセフは、御父との親子の関係を再発見し、祈りに対する忠実さを新たにし、神のみ旨に耳を傾けて深い識別をもってこたえるよう、私たちを招く。全免償は、主の祈りを30分以上黙想する人、または、聖ヨセフについての観想を含む一日以上の黙想会に参加する人に与えられる。

b 福音書は、聖ヨセフに「正しい人」という称号を与えている(マタイ1・19参照)。聖ヨセフ、すなわち「心と魂の奥底にある内奥の秘密」1の守護者、神の神秘の受託者、かくして内的法廷の理想の保護者は、私たちが義務を果たしていくうえで、沈黙、賢明、誠実の価値を再発見するよう促している。ヨセフにより模範的に実践された正義の徳とは、神の律法である慈しみの律法に完全に従うことだ。「真の正義を全うするのは、ほかでもなく神の慈しみだからです」2。したがって、聖ヨセフの模範に倣って、肉体的、霊的な慈しみの業を行う人も、全免償の恵みを得ることができる。

c ヨセフの召命の主要な面は、ナザレの聖家族の守護者、聖母マリアの夫、イエスの養父となることだった。聖家族にあった親しい交わり、愛、祈りの雰囲気を再び作り出す励ましをキリスト者の全家庭が受けるよう、家庭で、また婚約者同士がロザリオの祈りを行うなら、全免償が与えられる。

d 1955年5月1日、神のしもべピオ十二世は、「すべての人が労働の尊厳を認識すること、そして権利と義務の公平な配分に基づく社会生活と法律を促進することを意図して」3、労働者聖ヨセフの祝日を制定した。したがって、日々、自分の働きを聖ヨセフの保護に委ねる人、また、失業者が仕事を得、すべての人の仕事がより尊厳あるものとなるよう祈り、ナザレの労働者の執り成しを求める信者は、全免償を得ることができる。

e 聖家族のエジプト避難は、「人が危険のうちにある時、苦しんでいる時、逃れている時、拒絶され見捨てられている時、神がそこにいてくださることを示す」4。全免償は、内外から迫害を受けている教会のため、そしてあらゆる形態での迫害に苦しむすべてのキリスト者の救いのために、聖ヨセフの連願を(ラテン教会の伝統で)、あるいは聖ヨセフへのアカティストスの全部または一部を(ビザンティン教会の伝統で)、あるいは他の典礼伝承に固有の聖ヨセフへの祈りをささげる信者に与えられる。

正式に認可された聖ヨセフへの祈りをささげる、あるいは信心業を行う信者に、全免償を与える。たとえば「聖ヨセフへの祈り(Ad te, beate Ioseph)」を、とくに3月19日と5月1日のヨセフの記念日、イエスとマリアとヨセフの聖家族の祝日、聖ヨセフの主日(ビザンティン教会の伝統の)、毎月19日と毎水曜日、ラテン教会の伝統でこの聖人を記念する日にささげる場合。
現在の公衆衛生上の緊急事態ものとで、全免償の恵みは特に高齢者、病者、瀕死の人、規定により在宅を余儀なくされているすべての人に与えられる。また、どのような罪からも離れようとする心をもち、できるだけ早く通常の3条件を満たすことを望み、自宅か、事情により留め置かれている場所で、病者の慰め手、安らかな死の守護者、聖ヨセフへの信心の祈りを唱え、神に自らの人生の苦痛や困難を信頼してささげる人にも、与えらる。
鍵の権能によっていただく神の恵みにあずかることが司牧的に促進されるよう、内赦院は、しかるべき権限を有するすべての司祭が、積極的に惜しみなく、赦しの秘跡を授け、また、頻繁に病人へ聖体を授けるよう、強く願う。

(2020.12.8 バチカン放送)

 150年前の1870年12月8日、福者教皇ピオ9世は教令「クエマドモドゥム・デウス」を通し、聖ヨセフを「カトリック教会の保護者」として宣言された。この宣言から150周年を迎えた今年の12月8日、教皇フランシスコは、聖ヨセフをめぐる考察を記した、使徒的書簡「Patris corde」を発表。

 同書簡と共に発布された内赦院の教令をもって、この日(2020年12月8日)から来年の同日(2021年12月8日)までの一年間を、「聖ヨセフの特別年」として祝うことが布告された。

 教皇は、使徒的書簡の中で、イエスの養父、聖ヨセフの優しさ、従順、受容の心、創造性をもった勇気、労働者としての姿、目立たない生き方に触れ、現在の新型コロナウイルスの世界的感染拡大による危機は、「競争から離れ、日常の中で忍耐を示し、希望を与え、共同責任を育む普通の人々の重要性を認識させました」としたうえで、「聖ヨセフの日常的で、目立たない、隠れた存在に注目するように」と世界のカトリック信徒たちに呼びかけられた。

 さらに、救いの歴史における聖ヨセフの比類なき重要な役割を強調され、「イエスの養父としての生活を通し、メシアに奉仕する愛において完全に自己を捧げた聖ヨセフの生き方」に注目された。「イエスは、ヨセフの中に受容的な神の優しさを見、また、そこに、神への従順、贖いの偉大な神秘のために協力し、御父のみ旨を行うことを学んだのです」と指摘。

 同時に、マリアの清らかな配偶者、誠実な大工ヨセフが私たちに教える「仕事で得たパンを食べることへの尊厳と喜び」に触れられ、「労働の価値・重要性・必要性を再発見するように」と促されると同時に、「若者をはじめとするあらゆる人、すべての家族に仕事が欠けることがないように」と願われた。

 教皇はこの書簡の中で、ご自身も、毎日、聖母マリアの配偶者、聖ヨセフへの祈りを捧げていることを明かし、聖ヨセフへの崇敬と信頼を表されている。

 (編集「カトリック・あい」)

 教皇は書簡の最後に、聖ヨセフへ次のような祈りを捧げ、世界の信徒たち皆が共に祈るように勧めておられる。

【教皇フランシスコの聖ヨセフへの祈り】

 

  あがない主の保護者、

  おとめマリアの夫よ、

  神はあなたにご自分の御子を託し、

  マリアはあなたに信頼を置き、

  キリストはあなたと共に、人となりました。

    祝されたヨセフよ、

  わたしたちにも、父であることを示し、

  人生の歩みを導いてください。

  わたしたちに、恵み、いつくしみ、勇気を与え、

  あらゆる悪から守ってください。 アーメン。

   (Sr.ルカ岡立子・私訳)

/////////////////////////////////////

 日本のカトリック中央協議会が2021年2月18日になって発表した教皇使徒的書簡の日本語訳全文は以下の通り

教皇フランシスコ 使徒的書簡 「父の心でー聖ヨセフを普遍教会の保護者とする宣言150周年を記念して」

父の心で―。ヨセフはこのようにイエスを愛しました。四福音書すべてでイエスは、「この人はヨセフの子ではないか」1と呼ばれています。

この人物の姿を描いた二人の福音記者、マタイとルカが記すところはわずかですが、彼がどのような父親であったのか、またみ摂理が彼に託した使命について理解するには十分です。

わたしたちはこのかたが、貧しい大工であり(マタイ13・55参照)、マリアのいいなずけであったこと(マタイ1・18、ルカ1・27参照)、「正しい人」(マタイ1・19)で、律法で(ルカ2・22、27、39参照)、また四つの夢で(マタイ1・20、2・13、19、22参照)示された神のみ旨を行おうといつも心掛けていたことを知っています。ナザレからベツレヘムへの長くつらい旅を経て、救い主が馬屋で生まれるのを彼は目にしました。ほかに「彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカ2・7)です。イスラエルの民と異邦人とをそれぞれ代表する、羊飼いたち(ルカ2・8―20参照)と占星術の学者たち(マタイ2・1―12参照)が拝みに来たのを、彼は目撃しました。
彼には勇気があり、イエスの養父を引き受けて、天使に示された名をつけました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1・21)。よく知られているように、古代の人々の間では、人や物に名をつけることには、それらを自分に帰属するものとする、という意味がありました。創世記の物語でアダムが行ったのと同様です(2・19―20参照)。
誕生から四十日後に神殿で、ヨセフは母親とともにその子を神にささげ、イエスとマリアについてのシメオンの預言を聞いて驚きました(ルカ2・22―35参照)。ヘロデからイエスを守るために、寄留者としてエジプトで暮らしました(マタイ2・13―18参照)。祖国に戻ると、小さな無名の村で目立たぬように暮らしました。ガリラヤ地方のナザレという村で、そこは、「預言者の出ない」、また「何かよいものが出るだろうか」といわれており(ヨハネ7・52、1・46参照)、生まれ故郷のベツレヘムからも、神殿のあったエルサレムからも遠く離れていました。エルサレム巡礼の際、十二歳のイエスがいなくなると、心配してマリアとともに捜し、律法の学者たちと語り合っているのを神殿の中に見つけました(ルカ2・41―50参照)。
神の母聖マリアに次いで、その夫ヨセフほど、教皇の教導職において重要な意味をもつ聖人はいません。わたしの前任者たちは、救いの歴史におけるその中心的な役割をいっそう明らかにしようと、福音書が伝える数少ない情報に含まれるメッセージを考究してきました。福者ピオ九世は聖ヨセフを「普遍教会の保護者」2と宣言し、尊者ピオ十二世は「労働者の保護者」3、聖ヨハネ・パウロ二世は「救い主の守護者」4と称しました。一般には「よい臨終の擁護者」5として、執り成しが請われています。
ですので、福者ピオ九世が1870年12月8日にこのかたを「普遍教会の保護者」と宣言してから百五十年を迎えるにあたり、イエスがいわれるように、「心にあふれていることを口にし」(マタイ12・34参照)たいと思います。わたしたちそれぞれの人間的境遇にきわめて近い、この偉大な人物についてのわたしなりの考察を、皆さんと分かち合うためです。ここ数か月にわたるパンデミックの間に、その思いが強くなりました。「わたしたちの生活(は)市井の人々―忘れられがちな人々―によって織りなされ、支えられてい(ます)……。そうした人々は、新聞や雑誌の見出しになったり、最新のランウェイに登場することはなくとも、まぎれもなく、この時代の決定的な出来事を今まさに書きつけているのです。

医師、看護師、スーパーマーケットの従業員、清掃員、介護従事者、配達員、治安当局、ボランティア、司祭、修道者、そして他の多くの、自分の力だけで自分を救うことはできないと分かっている人々です。……どれほど多くの人が、毎日辛抱し、希望を奮い立たせ、パニックではなく共同責任の種を蒔くよう心掛けていることでしょう。どれほど多くの父親、母親、祖父、祖母、教師らが、習慣を変え、前向きになり、祈りを重ねるといった、何気ない日常の姿を通して、危機に向き合ってそれを乗り切る方法を子どもたちに示していることでしょう。どれほど多くの人が祈り、犠牲をささげ、すべての人のために執り成していることでしょう」6

襲いかかる危機のただ中で、わたしたちはそれを実感したのです。だれもが聖ヨセフ―目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人―に、困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです。聖ヨセフは、一見すると地味な、あるいは「二番手」にいる人だれもに、救いの歴史の中で、比類なき主役になる資質があることを思い出させてくれます。その人たち皆に、感謝と報恩のことばを送ります。

1 愛される父

聖ヨセフの偉大さは、彼がマリアの夫であり、イエスの父であるという事実にあります。そうして、聖ヨハネ・クリゾストモが明言したように、「彼は、受肉による救いの営み全体への奉仕に参画した」7のです。
聖パウロ六世が述べたのは、ヨセフの父性が具体的に表されたのは、「自身の人生を、受肉の神秘とそれに結びついたあがないの使命への奉仕、犠牲として、ささげたときです。聖家族に対し彼が有していた法的権限を行使することで、自分自身、自分の人生、自分の仕事を与え尽くしたときです。家族を愛するという自身の人間的召命を、その身と心とあらゆる能力を尽くした超人的ささげものへと、家族に迎えたメシアへの奉仕の愛へと、変えたとき」8です。
救いの歴史におけるその役割ゆえ、聖ヨセフは、キリスト者にずっと愛されてきた父です。それは、世界中の数多くの教会が彼にささげられている事実、多くの修道会、信心会、教会グループがその霊性に導かれ、その名を冠している事実、何世紀にもわたり、さまざまな作品がこのかたへの崇敬をもって作られてきた事実からも明らかです。多くの聖人が彼の熱烈な崇敬者となってきました。なかでもアヴィラの聖テレジアは、このかたを弁護者、執り成し手とし、深く信頼して、請い求めた恵みをすべて受けました。そうして自らの経験に励まされて、ほかの人たちに、このかたを崇敬するよう強く勧めたのです9
どの祈祷書を開いても、聖ヨセフへの祈りがあります。毎週水曜日、とくに、伝統的にこのかたにささげられる三月中は、このかたへの特別な祈りがささげられています10
聖ヨセフに対する大衆の信頼は、「ヨセフのもとへ行け(Ite ad Ioseph)」ということばに要約されています。それは、エジプトでの飢饉の時代、人々がファラオにパンを求めた際の彼の答えです。「ヨセフのもとに行って、ヨセフのいうとおりにせよ」(創世記41・55)。それは、ヤコブの息子、嫉妬した兄弟たちに売り飛ばされた者(創世記37・11―28参照)、そして――聖書の記述によれば――後にエジプトの王に次ぐ者となった(創世記41・41―44参照)、ヨセフのことです。
イエスは、ダビデの子孫として(マタイ1・16、20参照)、預言者ナタンがダビデにした約束(サムエル下7章参照)のとおりに、そこにルーツをもって生まれることになっていました。聖ヨセフは、ナザレのマリアの夫として、旧約聖書と新約聖書をつなぐ蝶番なのです。

2 いつくしむ心の父

ヨセフは、イエスが日々、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2・52)様子を見守っていました。主がイスラエルになさったように、ヨセフはイエスに接します。「腕を支えて、歩くことを教えた。子を持ち上げて頬を寄せる父のようで、身をかがめて食べさせた」(ホセア11・3―4参照)。
イエスは、神のいつくしみをヨセフの中に見ました。「父がその子をあわれむように、主は主をおそれる人をあわれんでくださる」(詩編103・13)。
ヨセフはきっと、詩編で祈る会堂で、イスラエルの神はあわれみの神11、すべての人に優しく、「造られたすべてのものをあわれんでくださいます」(詩編145・9)と響くのを聞いていたことでしょう。
救いの歴史は、わたしたちの弱さを通して、「希望するすべもなかったときに、……信じ」(ローマ4・18)ることで成就します。あまりにしばしばわたしたちは、神はわたしたちの長所、優れているところだけを当てにしていると考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、わたしたちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ、実現されるのです。だから、聖パウロが次のようにいったのです。「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」といわれました」(二コリント12・7―9)。
もしこれが、救いの営みの概要であるならば、自分の弱さを、深い優しさをもって受け入れることを学ぶべきです12
悪霊は否定的評価をもってわたしたち自身の弱さを見せつけますが、他方聖霊は、優しさをもってそれを明るみに引き出してくれます。優しさは、わたしたちの弱い部分に触れるための最高の方法です。他人を指さしたり裁いたりするのは、大抵は自分自身の弱さ、もろさを受け入れられないことの表れです。告発する者(黙示録12・10参照)のわざからわたしたちを救い出してくれるのは、優しさだけなのです。だから、真実と優しさを体験することで、神のあわれみと出会うこと、とくに、ゆるしの秘跡においてそうすることが大切なのです。矛盾するようですが、悪霊もまたわたしたちに真実を語ることができます。ですが、悪霊がそうするのは、わたしたちを非難するためです。しかしながらわたしたちは、神からもたらされる真理はわたしたちを非難するのではなく、かえってわたしたちを迎え入れ、抱きしめ、支え、ゆるすためのものと知っています。真理はいつも、たとえ話のあわれみ深い御父のように、わたしたちに現れます(ルカ15・11―32参照)。御父はわたしたちに会いに来られ、わたしたちの尊厳を取り戻し、再び自分の足で立たせ、わたしたちのために祝宴を開きます。というのも、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(同24節)からです。
ヨセフの苦悩を通しても、神のみ旨、その歴史、計画が示されます。ヨセフは、神への信仰をもつということは、わたしたちの恐れ、もろさ、弱さを通しても神は働かれると信じることをも含むのだと教えてくれます。また、人生の嵐の中にあっても、わたしたちの舟の舵を神にゆだねることを恐れてはならないと教えます。時にわたしたちは、すべてをコントロールしようとします。ですが、主はつねに、より広い視野をもっておられるのです。

3 従順な心の父

マリアにその救いの計画を明かされたときと同様に、神はヨセフにもご自分の計画を明らかになさいました。そしてそれを、夢を通してなさいました。聖書では、どの古代民族の間でもそうだったように、夢は神がご自分のみ旨を表すための一つの手段と考えられていました13
ヨセフは、マリアの理解しがたい懐胎を前に非常に苦しみますが、「彼女を公に非難する」14ことを望まず、「ひそかに縁を切ろうと」(マタイ1・19)決心します。最初の夢では、天使がその深刻なジレンマの解決を助けてくれました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1・20―21)。彼の反応は即座でした。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり」(マタイ1・24)にしました。従順さをもって、自らの困難を乗り越え、マリアを救ったのです。
二番目の夢で、天使はヨセフに命じます。「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(マタイ2・13)。ヨセフは、遭遇しうる困難について問うことなく、ためらわずに従いました。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(マタイ2・14―15)。
エジプトでヨセフは、天使が約束した帰国の知らせを、信頼と忍耐をもって待っていました。神の使いが、三番目の夢で、幼子を殺そうとした者は死んだと伝えてから、起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に戻るよう命じると(マタイ2・19―20参照)、再びためらうことなく従います。「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た」(マタイ2・21)。
しかしその帰路、「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」(マタイ2・22―23)のです。
一方、福音記者ルカは、ヨセフはナザレからベツレヘムまで、長く困難な旅をしたと伝えています。皇帝アウグストゥスによる住民登録の勅令に従い、出生地で登録するためでした。そしてまさにこうした状況の中で、イエスは生まれ(ルカ2・1―7参照)、他のすべての幼子と同様に、帝国の住民として登録されました。
聖ルカは、イエスの両親が律法の規定をすべて守っていたと伝えることにとりわけ配慮しています。イエスの割礼の式、出産後のマリアの清めの式、初子を神に奉献する式です(ルカ2・21―24参照)15
ヨセフは、人生のあらゆる場面で、自分の「はい(fiat)」を声に出せました。受胎告知の際のマリアや、ゲツセマネでのイエスと同様です。
ヨセフは一家の長として、イエスに、神のおきてに従って(出エジプト20・12参照)、両親に従順であるよう教えました(ルカ2・51参照)。
ナザレに身をひそめる間、ヨセフの教えに従って、イエスは御父のみ心を行うことを学びました。み心が、イエスの日々の糧となりました(ヨハネ4・34参照)。ゲツセマネで味わった人生でもっともつらいときにも、イエスは自分の思いではなく、御父のみ心を行うことを選び16、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2・8)でした。ですから、ヘブライ人への手紙の著者は、イエスは「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(5・8)と結んでいます。
こうした出来事すべてを経て、ヨセフは「父としての権威を行使することによって、直接イエスとその使命に奉仕するように神から召されました。このようにして、彼は時が満ちるに及んで、偉大な救いの神秘に力を貸し、実際に「救いの奉仕者」となりました」17

4 受け入れる心の父

ヨセフはマリアを、何ら前提条件なく受け入れます。天使のことばを信頼しているのです。「彼の心は高潔であったので、律法で学んだことを愛に従わせました。そして今日、女性に対する精神的暴力、ことばによる暴力、身体的暴力の問題が自明である世界にあって、ヨセフは敬意を忘れない、細やかな男性の像となります。すべてのことが知らされているわけではないにもかかわらず、マリアの名誉と尊厳と人生のために心を決めるのです。そして、どう行動するのが最善かを迷う中、神はその判断を照らし、選びを助けてくださいました」18
人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。わたしたちの最初の反応は、大抵は失望や反発です。ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。過去に対するわだかまりを解かなければ、わたしたちは次の一歩を踏み出すことすらできないでしょう。期待とその結果としての失望に、とらわれたままになるからです。
ヨセフの霊的生活は、明らかにする道ではなく、受け入れる道を示しています。こうした受け入れる心、わだかまりの解消によってようやく、よりすばらしい人生、より深い意味も明察しうるのです。ヨブの燃えることばがこだまするかのようです。わが身に起きたあらゆる不幸に抗えばいいとの妻の促しに、彼はこたえました。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2・10)。
ヨセフは、受け身に甘んじる人ではありません。勇敢で強い主人公です。受け入れる心は、聖霊からもたらされる剛毅のたまものを、人生の中に顕現させる一つの道です。主のみが、人生をありのままに受け入れる力、つまり人生においてつじつまが合わない部分、想定外の部分、そして失望した部分のためにも場を空ける力を与えることがおできになります。
わたしたちの間にイエスが来られることは、御父からの贈り物です。一人ひとりが自分の過去と、たとえそれをすべて理解できなくとも、しっかりと和解できるようになるためです。
この聖人に「ダビデの子ヨセフ、恐れるな」(マタイ1・20)といったように、神はわたしたちにも「恐れるな」と繰り返しているように思います。怒りや失望は脇に置き、この世に甘んじることなく、希望に満ちた不屈の精神で、自分で選んだわけではなくともそこにあるものに、場を空けなければなりません。このように人生を受け入れることで、隠された意味に出会います。わたしたちそれぞれの人生は、福音が語ることに従って生きる勇気を見いだすならば、奇跡のように再び動き始めるのです。今、何もかもが間違った方向に進んでいるようでも、また、いくつかの問題が取り返しのつかないことになっていても、問題ではありません。神は岩間にも花を咲かせることがおできになります。たとえ、何かしら良心のとがめがあったとしても、主は、「わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じ」(一ヨハネ3・20)です。
存在するものいっさいを拒絶しない――このキリスト教のリアリズムにあらためて立ち帰ります。現実は、その神秘的な不可逆性と複雑性において、そこにある光も影も含め、存在の意味を支えます。だから使徒パウロは断言します。「神を愛する者たち……には、万事が益となるようにともに働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8・28)。これに聖アウグスティヌスは、「悪といわれているものも(etiam illud quod malum dicitur)」19と付け加えます。こうした全般的観点から見れば、信仰は、うれしい出来事や悲しい出来事の一つ一つに意味を与えるものなのです。
ですから、信じるとは慰めとなる安易な解を得ることといった考えは、わたしたちからすればとんでもないのです。キリストが教えてくださった信仰は、そうしたものではなく、聖ヨセフに見られるものです。ヨセフは、近道を探すのではなく、自分の身に起きている出来事を「目を凝らして」直視し、自分のこととして責任を負うかたです。
ヨセフの受け入れる心は、排除することなく、その人そのままに、弱い人を優先して、他者を受け入れるようわたしたちを招きます。神は弱い人を選ばれ(一コリント1・27参照)、「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げ」(詩編68・6)、寄留者を愛するよう命じているからです20。イエスはヨセフの姿勢を、放蕩息子とあわれみ深い父のたとえ(ルカ15・11―32参照)のモデルにしたのではないか、そんな想像をしてみたいのです。

5 創造的な勇気をもつ父

あらゆる真の内的治癒の第一段階が、自分の過去を受け入れること、すなわち、人生で自分が選択していないことに対しても自身の中に場を設けることであるならば、別の重要な性質をも加えて備える必要があります。創造的な勇気です。困難にぶつかったときにこそ、それはわき出ます。事実、問題に直面すれば、歩みを止めて退却することもできるし、なんとか頭をひねることもできます。時に困難こそが、自分がもっているとは思いもしなかった才を、各人から引き出してくれるのです。
「幼少期を記す福音箇所」を読んでいると、神はなぜ、直接かつ明白に介入しなかったのかと思うことが多々あります。まさしく神は、出来事と人を通して働かれます。ヨセフは神によって、あがないの歴史の初期の面倒を見るよう託された人物でした。彼は真の「奇跡」であって、それを通して神は御子とその母を救われるのです。天はこの人の創造的な勇気に信頼して介入しました。ベツレヘムに着いて、マリアが出産できる場所を見つけられなかったとき、馬屋に入り、この世に来られる神の子を迎えるために、できるかぎり居心地のよいよう、その場を整えた人です(ルカ2・6―7参照)。幼子を殺そうとするヘロデの差し迫った危険に直面すると、ヨセフは、その子を守るよう夢で再び警告され、真夜中にエジプトへの逃亡を支度しました(マタイ2・13―14参照)。
こうした物語を表面的に読めば、世界は力ある権力者によって翻弄されているとの印象をどうしても受けてしまいますが、しかし福音の「よい知らせ」は、この世の支配者の傲慢や暴力があろうとも、神は救いのためのご自分の計画を実行する方法をつねに見いだしておられる、それを示すことにあります。わたしたちの人生も、強権をもつ者の手中にあるかに見えたりもしますが、み摂理への信頼をいつも第一とし、困難をチャンスに変えることのできたナザレの大工のように創造的な勇気をもてるならば、神は大切なものを必ず救ってくださると、福音は教えています。
神が助けてくださらないかに見えることもありますが、見捨てているのではなく、わたしたちを、わたしたちが計画し考案し発見するはずのものを、信頼してくださっているのです。
まさに同じ創造的な勇気を示すのが、中風を患っている人をイエスに会わせようとして、屋根からつり降ろした友人たちです(ルカ5・17―26参照)。困難があっても、この友人たちの大胆さと根気強さは揺るぎませんでした。彼らは、イエスがこの病気の人をいやしてくれるとの確信をもっていました。「群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」といわれた」(19―20節)。イエスは、病気の友人をご自分のもとに連れてこようとした人たちの、創造的な信仰を理解しておられました。
福音書からは、マリアとヨセフと御子がエジプトにとどまっていたころの情報は得られません。ですが、食べていき、住まいを見つけ、仕事をしなければならなかったことは確かです。この点について、福音書の沈黙を埋めるのに、多くの想像力は必要としないでしょう。聖家族は、もろもろの具体的な問題に向き合わざるをえませんでした。あらゆる家庭と同様であり、今日もなお災難や飢餓によっていのちが脅かされている、兄弟姉妹である多くの移住者とも同様です。この意味で聖ヨセフは、紛争、憎悪、迫害、貧困によって故郷を離れなければならないすべての人にとって、まさに特別な保護聖人だとわたしは思うのです21
ヨセフがメインキャストである各物語の末尾に、福音書は、彼が起きて、御子とその母を連れ、神から命じられたことをしたと告げています(マタイ1・24、2・14、21参照)。事実、イエスとその母マリアは、わたしたちの信仰のもっとも大切な宝です。
救いの計画において御子を、「信仰の旅路を進み、十字架に至るまで子との一致を忠実に保」22たれたかたである聖母から、引き離すことはできません。
わたしたちはつねに自問しなければなりません。不可思議なかたちで、わたしたちの責任に、ケアに、保護にゆだねられているイエスとマリアを、全力で守っているだろうかと。全能なるかたの御子は、大いなる弱さを身に受け、この世に来られます。守られ、保護され、世話を受け、育ててもらうために、このかたにはヨセフが必要です。マリアがそうしたように、神はヨセフを信頼なさいます。マリアはヨセフに、彼女のいのちを救おうとする姿だけでなく、ご自分と御子とにつねに心を砕く姿を見ておられます。その意味で、聖ヨセフが教会の保護者でないはずがありません。なぜなら教会は、キリストのからだの、歴史における継承であり、それと同時に、教会の母性には、マリアの母性が現れているからです23。ヨセフは教会を守り続けることで、御子とその母を守り続けており、わたしたちもまた、教会を愛することで、御子とその母を愛し続けるのです。
この御子は後にこう語ります。「はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。ですから、助けを必要とする人、貧しい人、苦しむ人、死に瀕する人、外国人、囚人、病者、その一人ひとりが、ヨセフが保護し続けている「御子」なのです。だから聖ヨセフは、困窮する人、助けを必要とする人、亡命した人、苦しむ人、貧しい人、死に瀕する人の保護者として請われているのです。だからこそ教会は、いちばんの弱者を愛さずにはいられないのです。イエスがその人たちを優先なさり、彼らにご自分を重ねておられるからです。ヨセフから、そのケアと責任感を学ばなければなりません。つまり、御子とその母を愛すること、秘跡と慈善を愛すること、教会と貧しい人を愛することです。こうした一つ一つの現実の中に、つねに御子とその母がおられるのです。

6 労働者である父

聖ヨセフを特徴づける、そしてレオ十三世による最初の社会回勅『レールム・ノヴァルム』以降に際立った一面は、労働とのかかわりです。聖ヨセフは、家族の生活の安定のために真面目に働いた大工でした。イエスは彼から、自分の労働の実りであるパンを食することの価値、尊厳、喜びを学びました。
現代において、労働が再び喫緊の社会問題となっています。数十年にわたってある程度豊かな生活を享受してきた国々においてさえ、失業率が時に目を見張る水準に達することがあります。新たな意識をもって、尊厳を与える労働の意義と、この聖人がその模範的な保護者であることを理解しなければなりません。
労働は、救いのわざそのものへの参与、神の国の到来を早める機会となります。それは、自身の潜在能力と資質を伸ばし、それを社会と共同体への奉仕に生かせるようにするものです。労働は、自己だけでなく、何より、社会の根本の核である家庭を実現させる機会となります。失業中の家庭は、困難、緊張、挫折に陥りやすく、あきらめや絶望ゆえの破壊の誘惑にさらされやすくなります。すべての人一人ひとりが尊厳ある生活を送れるようにと尽力することなしに人間の尊厳について語ることなど、どうしてできるでしょうか。
どんな仕事であれ、働く人は、神ご自身に協力し、ささやかながらも、わたしたちを取り囲む世界の創造者となるのです。経済的、社会的、文化的、霊的な現代の危機は、だれも排除されない新たな「常態」を生み出すために、労働の意義、重要性、必要性を再発見するようにとの、すべての人に対する呼びかけなのかもしれません。聖ヨセフの労働から気づかされるのは、人となられた神ご自身が、労働を軽視してはおられなかったということです。非常に多くの兄弟姉妹に及んでおり、新型コロナ・ウイルス感染症のパンデミックによって現在増加している失業の問題は、わたしたちが優先順位を見直すための呼びかけとなるべきです。労働者聖ヨセフに祈り求めましょう。どんな若者も、だれ一人、どの家族にも、職がない者などいない、そういえる道をわたしたちが見いだせますように。

7 影に見る父

ポーランド人の作家ヤン・ドブラチンスキーは、その著書『父の影』24で、聖ヨセフの生涯を小説にしました。影を示唆するイメージをもって、ヨセフの姿を描き出しています。イエスにとってヨセフは、天の御父の地上における影です。イエスを守り、保護し、その歩みを見守るため、イエスのそばを離れることはありません。モーセがイスラエルに思い出させたことを考えてみましょう。「荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」(申命記1・31)。同じようにヨセフは、生涯を通して、父として振る舞いました25
人は初めから父なのではなく、父になるのです。そして、子どもが生まれたから父になるのではなく、責任をもってその子を世話することで父となるのです。その意味で、だれかの人生に対する責任を引き受けることはつねに、その人に対し父として振る舞うこととなるのです。
現代の社会では、子どもたちには父親が不在であるように思われます。今日の教会にも父親(訳注:「神父」とも訳しうる)が必要です。聖パウロのコリントの教会への忠告は、いつの時代にも当てはまるものです。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」(一コリント4・15)。そしてどの司祭、どの司教も、この使徒のようにいえるべきです。「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」(同)と。さらに使徒は、ガラテヤの人々にはこう語ります。「わたしの子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4・19)。
父であるとは、子を人生経験へと、現実へと導くことです。自分のもとに留め置いたり、束縛したり、支配するためではなく、その子が選び取り、自由になり、外へと出て行けるようにするのです。おそらくこの理由から、伝統的にヨセフは、父という称号とともに、「浄配」という称号も得ているのです。これは単なる情緒的なしるしではなく、支配とは逆のものを表す姿勢の総合です。純潔とは、人生のあらゆる領域にある所有欲からの解放です。愛は、純潔であってこそ真の愛なのです。支配を欲する愛は結局、必ずや危険で、束縛的で、息苦しく、不幸なものとなります。まさに神は、純潔の愛で人間を愛し、過ちを犯したり神に逆らったりしようとも、その人を自由にしておかれます。愛の論理は、つねに自由の論理です。そしてヨセフは、尋常ではない自由なかたちで、愛することができたのです。このかたは、決して中心にはなりませんでした。マリアとイエスを自らの人生の中心に据えるために、いかに自らを脇に置くかを理解していました。
ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。世が必要とするのは父であり、主は拒みます。つまり、自分の空白を埋めるために他者の所有物を利用しようとする者を拒み、権威と横暴を、奉仕と隷属を、対峙と抑圧を、慈善と過保護主義を、力と破壊を混同する者を拒みます。真の召命はどれも、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます。司祭職や奉献生活においても、こうした種類の成熟が求められています。召命は、それが結婚生活であれ、独身生活であれ、貞潔生活であれ、犠牲の論理だけにとどまり、自己贈与という成熟にまで至らないならば、愛の美と喜びのしるしとなる代わりに、不幸、悲しみ、わだかまりの表れになるおそれがあります。
わが子の人生を自分のものにしたいという誘惑を退けた父性は、つねに新しい空間に開かれています。どの子も、必ず不可解なものを有しています。それはまだ現れていないもので、子の自由を尊重する父親の支えでようやく明らかになるものです。父親が、自分の教育の務めは果たした、父たるものを十全に生ききった、ようやくそう自覚するのは、自分が「用済み」になったとき、子どもがなんとか自立して一人で人生を歩んでいるのを見たとき、ヨセフの立場にわが身を重ねるときです。ヨセフはつねに、御子は自分のものではなく、世話するためにゆだねられただけだと理解していました。結局のところそれは、イエスが次のようにいって伝えようとしたことなのです。「地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23・9)。
自分が父性を行使する立場にあるときは、それが所有権の行使ではなく、より優れた父性を呼び起こす「しるし」であることを決して忘れてはなりません。ある意味で、わたしたちは皆、ヨセフの立場にあります。唯一の天の御父、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)かたの影です。そして、御子を見守る影です。

***

「起きて、子どもとその母親を連れて(いきなさい)」(マタイ2・13)、神は聖ヨセフにそういいました。
この使徒的書簡の目的は、この偉大な聖人への愛を深め、その執り成しを祈り、その徳と果断さに倣うよう促すことです。
実際、聖人たちの特別の使命は、すばらしい奇跡や恵みを譲与してくださることだけでなく、わたしたちを神の前へ執り成してくださることです。アブラハム26やモーセ27のように、「ただおひとり……の仲介者」(一テモテ2・5)であるイエス、「このかたはつねに生きていて、人々のために執り成しておられるので」(ヘブライ7・25。ローマ8・34参照)、御父の前におられるわたしたちの「弁護者」(一ヨハネ2・1)である、そのかたのようにです。
聖人たちは、すべての信者が、「充実したキリスト教的生活と申し分のない愛の実践」28ができるよう手を貸します。彼らの生涯は、福音を生きることは可能だという目に見える証拠なのです。
イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)といわれました。他方、聖人たちは倣うべき生活の模範です。聖パウロははっきりと勧めました。「わたしに倣う者になりなさい」(一コリント4・16)29。聖ヨセフは、雄弁な沈黙の中でそれを語ったのです。
多くの聖人聖女の模範を前に、聖アウグスティヌスは自問しました。「あなたにはこれらの男の人たちがなし、女の人たちがなしえたことが、できないのですか」と。そうして、決定的な回心へと至り、叫び声を上げました。「あなたを愛するのがあまりにも遅すぎました。なんと古くて、なんと新しい美よ」30
あとは、聖ヨセフに恵みの中の恵みを祈るのみです。それはわたしたちの回心です。
聖ヨセフに、祈りをささげましょう。

あがない主の保護者、
おとめマリアの夫よ。
神はあなたに御子をゆだね、
マリアはあなたを信頼し
キリストはあなたによって養われ、大人になりました。

聖ヨセフよ、
父親としての姿をわたしたちにも示し、
日々の歩みを導いてください。
恵みといつくしみと勇気が与えられ、
すべての悪から守られるようお祈りください。 アーメン。

教皇在位第8年、2020年12月8日 無原罪の聖マリアの祭日 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて フランシスコ

2020年12月8日

・無原罪の聖マリアの祭日ー教皇、早朝のスペイン広場で献花と祈り

教皇フランシスコ、無原罪の聖マリアのモニュメント前で 2020年12月8日 ローマ教皇フランシスコ、無原罪の聖マリアのモニュメント前で 2020年12月8日 ローマ 

 8日、無原罪の聖マリアの祭日の早朝、教皇フランシスコは、ローマ市内のスペイン広場に赴かれ、聖母に捧げられたモニュメントに献花し、祈りを捧げられた。

 無原罪の聖マリアの祭日に、教皇がスペイン広場に隣接するミニャネッリ広場の無原罪の聖母のモニュメント前で祈りの時を持つことは、毎年の伝統となっているが、通常、夕方に市民と共に行われる教皇の聖母へのオマージュは、今年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、多くの人が集まることを避けて、早朝に私的な形で行われた。

 この朝、ローマは強い雨と風に見舞われた。夜明け前の静かな広場に到着された教皇は、傘を差し、高いコリント柱上の聖母のブロンズ像を見上げ、沈黙のうちに祈られた。

 このモニュメントは、1854年12月8日に教皇ピオ9世によって無原罪の御宿りの教義が制定されてから3年後の1857年の同日に除幕されたもので、以来、無原罪の聖マリアの祭日には市民からの献花が行われる。教皇も毎年のように花籠を捧げられた。

 スペイン広場を後にした教皇は、続いて、聖マリア大聖堂(サンタ・マリア・マッジョーレ)に向かわれた。教皇は、古い聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ」の前で祈られた後、同聖堂の「プレゼピオの礼拝堂」でミサを捧げられた。聖母への一連の崇敬を示された後、教皇はバチカンに戻られた。

2020年12月8日

改・教皇、来年3月にイラク訪問へ-バチカン発表

イラク北部・モスル旧市街の教会イラク北部・モスル旧市街の教会 

 バチカン広報局が7日、教皇フランシスコが来年3月にイラクを訪問されることになった、と発表した。

 教皇は今年1月、バチカンを訪れたイラクのバルハム・サリフ大統領と会見した際、同国のキリスト教徒の安全を保障し、戦乱で荒れた地に、彼らが未来への希望が持てるようにすることを求めていた。。

 イラク政府と同国のカトリック教会の招きに応えて行われるもので、教皇フランシスコにとっては、2019年11月の訪日以来、1年4か月ぶりの海外訪問となる。

 マッテオ・ブルーニ広報局長によると、教皇は、来年3月5日から8日にかけてイラクを訪問。首都バグダッドをはじめ、同国南東部、アブラハムゆかりの地でユーフラテス下流のウル平野、そして、北部のアルビル、ニネヴェ平野のモスル、カラコシュに赴かれる。

 訪問の詳細な日程は後日発表されるが、新型コロナの大感染の年明けの状況次第で、変更される可能性もある。

(編集「カトリック・あい」)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(Cruxの関連記事)

現状のままでは、イラクのキリスト教徒の激減は避けられないーカトリック系団体が報告書

(2020.7.8 Crux  SENIOR CORRESPONDENT Elise Ann Allen

New report warns of ‘bleak’ outlook for Iraqi Christians

In this April 16, 2017, photo Christian militiamen stand guard during Easter mass in Qaraqosh, outside Mosul, Iraq. (Credit: Maya Alleruzzo/AP.)

 ローマ–米国に本拠を置くカトリックの援助団体Aid to the Church in Need(ACN)が7月7日に発表した報告書「ISIS後の生活:イラクのキリスト教への新たな挑戦」によると、イラクのキリスト教徒は、治安、汚職、ISISの復活の可能性に対する恐れが高まるにつれて、極端に原書する可能性が出ている。

 報告書が示した予測では、現在の状況が続くと、2024年には、ISISの攻撃が始まる前のキリスト教徒人口のわずか20パーセントの2万3千人に減少、同報告書の各国のキリスト教徒の状況に関する分類で「脆弱」から「絶滅の危機」に”格下げ”になる恐れがある。

 現地のキリスト教徒に対する聞き取り調査では、最も心配なこととして「治安の欠如」を挙げ、回答者の約9割が、自分たちの生活している地域の治安が「非常に」、ないしは「著しく」損なわれている、と答えた。

 また不安を感じている理由として約7割が、「民兵からの暴力」と「ISISの復活の可能性」と答えている。ISISは2014年に同国のニネベ高原地帯を占拠し、約12万人のキリスト教徒が虐殺を逃れるため、故郷を捨て、さらに難民として国外に脱出することを余儀なくされた。

 こうした状況に対して、ACNの幹部は「国際社会は、イラクにおけるキリスト教徒の存在を脅かしている問題に対して、迅速かつ断固たる行動をとらなければなりません。世界の指導者たちが協力して、イラクでキリスト教徒の数が激減するのを防ぐことがこれまで以上に重要です」と訴えた。

 

2020年12月8日

・教皇、金融監督機関の抜本強化を承認ーバチカン改革の一環

St. Peter's Basilica and Square.St. Peter’s Basilica and Square. 

(2020.12.5 Vatican News)

 教皇フランシスコは5日、バチカンの金融情報局(FIA)に関する新しい法令を承認し、同日付けでその名称を「監督・金融情報局(ASIF)」に改め、財政金融に対する監督指導体制を強化するとともに、教皇文書の形で告知、徹底を図った。

 教皇は、現在、バチカンの公正で透明、効率的な運営を図るための抜本改革を進めているが、今回の決定は、その柱の一つである財政金融分野での透明性の向上、統制強化が狙い。

・・・・・・・・・・・

 *日本の教会では、司教協議会の会長を務める高見大司教が教区長を務める長崎教区で、不明朗な資金運用で2億円余という、教区の財政規模からみて巨額の損失を出しているにもかかわらず、責任者は「辞任は責任をとることにならない」と一部の政治家や企業経営者が辞任を拒む際に使う台詞を発し、抜本的な再発防止策や、刑事告訴などを含む損失回復措置についても検討が長引き、はっきりしないままだ。教皇の思い切った措置を見習うべきではなかろうか。(「カトリック・あい」)

・・・・・・・・・・・・

 ASIFの局長となるカルメロ・バルバガッロ氏は、今回の改変について「名称変更は、実際の業務内容の強化に合わせたもの。単なる名称の変更ではない」と強調。

 ASIFは、バチカン内部で行われてきた不明朗な資金の”洗浄”や、先に更迭されたベッチウ前列聖省長官が絡む資金運用疑惑など問題が絶えない中で、これまでのFIAが担当していた単なる情報収集・管理だけでなく、バチカン銀行( IOR=Institute for Works of Religion)を含む金融関係機関に対する監督権限を持つことになった。

 バチカンの報道局によると、今回の主要な変更には、首脳陣の監督に関する権限強化と責任の明確化、規制と法務に関わる新部門の設置がある。バルバガッロ局長は「金融監督機関の国際基準に沿った形で、規制・監督を含むすべての法的問題処理のための部門も新設し、規則を策定する部署と実施する部署を分離した」と説明、新機関の活動は「監督」「規制・法務」「財政・金融情報」の3部門となる。

 また、幹部や職員の採用に当たって、バチカンの他の部署と同様に、特別な利害関係や”縁故”採用など不祥事を生む原因を排除するため、独立した評価機関であるCIVAを通すことを明確にした。バルバガッロ局長は「職員などの新規採用に当たって、幅広い選択と厳格なチェックを確実にし、恣意的な選択のリスクを回避するのが、狙い。重要な特権の行使における独立性を担保するものだ」と説明している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月6日

・バチカンが、キリスト教一致推進のための司教向け指導書を発表

 

(2020.12.4 Vatican News Christopher Wells)

  バチカンのキリスト教一致推進評議会(議長・クルト・コッホ枢機卿)が4日、世界の司教たちがそのキリスト教一致への責任を果たすよう奨励し、支援するための指針を発表した。

Cardinal Koch introduces “The Bishop and Christian Unity: an Ecumenical Vademecum”

 「The Bishop and Christian Unity: an Ecumenical Vademecum」というタイトルのハンドブックは、2016年にキリスト教一致推進評議会の議員から要請されていたもの。教会一致推進に関する聖ヨハネパウロ2世の回勅(「Ut unum sint(キリスト者の一致)25周年、そして、聖ヨハネ23世による同評議会設立60周年を記念して発行された。

 今年の初め、教皇フランシスコは、「Ut unum sint」の記念日に関するコッホ議長への書簡で、「教会一致への働きは、『目に見える源であり、一致の基盤』であるすべての司教の使命の本質的な側面です」と語っていた。

 新指導書は、「Ut unumsint」で聖ヨハネ・パウロ二世が示した教え、第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」、同評議会が作成した2つの文書、「エキュメニズムの原則と規範適用のための指導書=1993」「司牧活動に従事する人々の育成におけるエキュメニカルな側面」を基礎にし、二部構成となっている。

 第一部では、カトリック教会の教区レベル、国レベルの教会一致運動、一致の形成のための組織や人員配置のあり方、マス・メディアの活用について言及。

 第二部では、「カトリック教会が他のキリスト教共同体と協力する次の4つの方法について述べている。

1.「霊的なエキュメニズム」ー第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」が「エキュメニカル運動の魂」と表現するもの。

2.「慈しみの対話」ー私たちの共通の洗礼によって、他のキリスト教徒との日々のつながりと協力における「出会いの文化」の促進。

3.「真理の対話」ーカトリック教徒が他のキリスト教徒と、とくに神学的対話を通して、神の真理の探求をともに担う。

4.そして、おもに司牧に関して、他のキリスト教徒と共に交流し、協力する機会を含めた「命の対話」ー世界に向けたキリストの教えの証し、そして文化。

 会見で、コッホ議長は、今回の指導書は教会一致運動の原則を示すだけでなく、「実践上の事項」、つまり、世界の司教たちが、それぞれの担当教区、地域で実践することのできる活動の具体的内容を具体的に示すことを狙いとしている、と説明。キリスト教の一致は旅であり、「私たちが、キリストと共にその旅を行なえば、キリストご自身が一致をもたらしてくださる」という教皇フランシスコの言葉を引用して、新指導書の説明を締めくくった。 

 指導書の全文はバチカンのキリスト教一致推進評議会のウエブサイトhttp://www.christianunity.va/content/unitacristiani/en/news/2020/2020-12-04-vademecum-online.htmlに。.

 

2020年12月5日

・28日に新枢機卿13人の叙任式、29日の待降節入り教皇ミサは新枢機卿と

 

枢機卿の象徴である緋色のベレッタ枢機卿の象徴である緋色のベレッタ  (Vatican Media)

(2020.11.28 バチカン放送)

 教皇フランシスコが28日午後4時(日本時間29日午前零時)から枢機卿会議を開き、この中で13人の新しい枢機卿の叙任式を行われる。29日の待降節第一主日には、新枢機卿たちと主日のミサを捧げられる。

 教皇は先月25日の日曜正午の祈りの集いで、枢機卿会議の開催と、新たに枢機卿に任命する13名(教皇選挙の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿9名、選挙権を持たない80歳以上の枢機卿4名)の名前を発表された。

 今回の枢機卿会議は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、伝統を尊重しつつ、儀式の規模や方法に若干の変更を加えて開かれる。教皇儀典室によると、新枢機卿の叙任の儀式は、聖ペトロ大聖堂の中央祭壇ではなく、「ペトロの司教座の祭壇」で、参列者の人数を制限して行われる。

 翌日、29日午前10時(日本時間・同日午後6時)、教皇は、待降節入りと共に、典礼暦の新たな一年を開始するミサを、新枢機卿たちと司教座祭壇で司式される。

 感染症拡大防止を考慮し、今回の枢機卿会議では、新枢機卿らへの関係者らによる表敬訪問は行われない。また、フィリピンとブルネイの2人の新枢機卿はバチカンでの叙任式に出席できないが、他の枢機卿と同じく叙任され、後日、教皇の代理使節によって、枢機卿の象徴である緋色のベレッタ(帽子)と、指輪が届けられる予定。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年11月28日

・世界青年の日の十字架、2023年「王であるキリスト」の日に開く予定のポルトガルへ

ワールドユースデー大会の十字架 2019年1月 パナマ大会で  (ANSA)

 典礼暦で「王であるキリスト」を祝う、11月22日(日)、教皇フランシスコはバチカンでミサを司式。ミサの終わりに、「世界青年の日(WYD)」世界大会のシンボルである十字架が、パナマの若者たちからポルトガルの若者たちへと託された。

 ミサの終わりにWYD世界大会のシンボルである十字架が、前回2019年の開催国パナマの若者たちから、次回2023年の開催国ポルトガルの若者たちへと引き継がれた。

 もう一つの大会シンボル、聖母子を描いたイコン「サルス・ポプリ・ロマーニ」の複製画(「サルス・ポプリ・ロマーニ」は、”ローマ人の救い”の意で、オリジナル画は、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にある)も、ポルトガルの若者たちに託された。

 ワールドユースデーの十字架は、教区レベルの「世界青年の日」が記念された今年4月5日、バチカンでの「受難の主日」のミサにおいて、パナマの若者たちから、ポルトガルの若者たちへと引き継ぎのセレモニーが行われる予定だったが、この時点でのパンデミック対策によって中止となり、11月22日の「王であるキリスト」の祭日に延期されていた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年11月27日

・11月15日「世界貧しい人々の日」ー助けを必要としている人たちと連帯を

 

World Day of the Poor encourages closeness to those in needWorld Day of the Poor encourages closeness to those in need 

(2020.11.12 Vatican News staff writer)

   15日の「世界貧困者の日」を前に、バチカン新福音化推進評議会議長のサルバトーレ・フィジケッラ大司教が12日記者会見し、慈善と連帯の精神で「広げられた手」で貧しい人々を世話することの重要性を強調した。年間第33日の主日となる15日は、教皇フランシスコが聖ペトロ大聖堂でこの日のためにミサを捧げ、全世界にインターネットで動画中継される。

 「世界貧困者の日」は、教皇フランシスコが2016年11月20日に出された使徒的書簡「 Misericordia et Misera(あわれみあるかたと、あわれな女)」の中で、慈しみの特別聖年の閉幕を記念して制定され、今年6月に、教皇は「貧しい人々に手を差し伸べる」というテーマに向けたメッセージを出されている。

 フィジケラ議長は会見で「差し延べた手はしるし」という教皇の考えに言及。これは、親密さ、連帯、愛を意味し、特に新型コロナウイルスが猛威を振るう今の時期に、「教皇フランシスコは、とりわけ医師、管理者、薬剤師、ボランティア、司祭の『差し延べた手』が感染で苦しんでいる人々への支援と慰めを提供することで、コロナに立ち向かっている、と強調されています。私たちが世界に対して共通の責任を持っている、という確信を取り戻す良い機会です」と強調した。

 さらに、教皇のメッセージからは、困難な状況に置かれた人々を助けるために打ち出されている具体策の数々を改めて理解し、それに参加するヒントがえられる、とし、コロナ感染拡大に対処するために人の移動など様々な規制が強められる中で、具体策への参加には困難な面があるものの、15日の世界貧困者の日は、世界の教会が、社会から疎外された人々との友愛を表現する必要のあることを改めて確認する日であり、参加の手段は数多くあるとし、新福音化推進評議会もウエブサイトにその一助となるページhttp://www.pcpne.va/content/pcpne/en/attivita/gmdp/2020/sussidio.htmlを開設している、と説明。

 「キリストの弟子の一人として生きる喜びにのみ触発され、静かにそして控えめに助けを申し出る人々の笑顔によって豊かになることができるのは『差し伸べる手』の精神。第4回となる世界貧困者の日を迎える精神でもあります」と世界の信徒たちの理解を求めた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年11月13日

・「普遍的な愛を学ぶために」福音宣教省長官、新回勅『Fratelli tutti』を強く推奨

Pope Francis with Cardinal Tagle, President of Caritas InternationalisPope Francis with Cardinal Tagle, President of Caritas Internationalis  (AFP or licensors)

   カトリックの国際福祉活動団体、 カリタス・インターナショナルの会長でバチカンの福音宣教省長官のアントニオ・タグレ枢機卿は12日、同団体主催のインターネット・シンポジウムで講演し、「具体的、普遍的、偏見のない愛を学ぶために、教皇の出されたこの新回勅を読むように」と強く勧めた。

 シンポジウムは「新回勅『Fratelli tutti(All Brothers)』はカリタスの活動にとって何を意味するか」をテーマに、「カリタス」すなわち「愛」の文脈で、新回勅を学び、世界中での社会活動に役立てる方法を探るために開かれた。

 タグレ枢機卿は講演で、まず、回勅全体を読むように、参加者全員に推奨。その理由として「教皇フランシスコは、この回勅で、従来からお話になっている考えのいくつかを、現在の閉鎖的な世界への対応する形で、新たに示されているからです」と説明。

 「教皇は、いつも、教会の豊かな聖書の伝統と教会の教えー教義的、道徳的、社会教説ーをもとに語られています」と述べ、「このような教皇の、さらにお広げになった省察に、皆で参加しましょう」と訴えた。

 続いて、枢機卿は、現在の世界が苦しんでいる「愛の欠如の、極めて嘆かわしい状況」に言及し、「自分の中に閉じこもる多くの兆候が世界に存在している」のを、私たちは目にすることができる、とし、このような閉じた世界で、私たち皆が苦しんでいるが、その中で最も苦しんでいるのが貧しい人々だ、と指摘。そして、「彼らは、たやすく忘れられ、無視され、捨て去られてしまう存在。私たちは、閉じた世界のもたらす結果によって、動かされてしまいます」と警告した。

 そのうえで、枢機卿は新回勅で教皇が提起されている二つの重要な点について語った。

 一つ目は「普遍的な愛」で、回勅では、「慈愛のイメージが普遍的な愛のイメージとして示されています。それが神の愛の形です。神はすべての人を愛しておられるーイエスが示す愛です」とし、 「イエスはすべての人、特に、『社会から愛されていない』とご覧になった人たちを愛していました。見捨てられた人たち。そこから、『見知らぬ人に対する普遍的な愛』を私たちに示した『善きサマリア人のたとえ話』を見出します」と語った。

 二つ目の重要なポイントは、「出会いの文化」に関するものだ。普遍的な愛は「容易にスローガンになってしまう可能性がある」が、普遍性は、出会いと具体性を伴う場合にのみ実現できる、と枢機卿は指摘。 「教皇フランシスコは、対話をするとき、それが否定されないように自分の立場についても知っていなければならない、と言われます。そしてあなたの宗教的立場が確保され、そしてあなたは宗教間対話に開かれます」と述べ、「同様に、すべての国はその政治システムと政策に権利がありますが、国の政治は国際政治のレベルでの慈善につながる必要があります」と指摘した。

 そして、「望まれるのは、出会いの文化、異なる文化の出会いを通して、私たちが、政治を行い、経済に対処するために、もっと良い方法を見つけること… 文化を通して友情を固め、紛争を解決するより良い方法を見つけることです。これらすべてが共通善につながるはずです。善のすべてーそれが、最終的には一人ひとりも利益をもたらします」と強調した。

 講演の最後に、枢機卿は、カリタスの活動が新回勅から学ぶことができるいくつかの教訓を指摘。その中に、「心、手、頭、領地、文化を閉じる兆候に敏感」になることで、教皇と共になることも含め、「このような兆候は非常に捉えにくいものですが、教皇は新回勅で『目を見開き、世界に開こうとする働きへの脅威に敏感であり、識別を怠らないように』と求めたおられます」と締めくくった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年11月13日