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☩「キリスト教徒の交わりの場は、分け隔てなく、受け入れることで作られる」年間第26主日正午の祈り

*教会においても”閉鎖””偏見”に注意を
そのうえで、教皇は、現代の教会においても、これと同じような閉鎖的姿勢、偏見に陥らないように警戒するよう、促された。
「悪魔は、他者をより分け、排除するために疑惑を引き起こそうとする”分割者”です。彼は狡猾に人々を誘惑し、弟子たちと同じように、悪魔を追い出した人たちさえも排除するところまで行かせようとするのです」と語られた教皇は、教会にも、「謙虚で開かれた共同体」ではなく、「自分自身を他者よりも大切に考え、他者を追い払うという罠に陥る可能性がある、と警告。「皆と共に歩く代わりに、他者を判定し除外するための”信徒免許”を持ち歩く」ことを嘆かれた。
*イエスは、私たちが何を切り落とすのを願っておられるか
さらに、教皇は信徒たちに、”巣ごもり”のメンタリティ、”判定”と”仕分け”への誘惑に打ち勝つために、神の恵みを求めるように勧められた。そして、”巣ごもり”の姿勢は、「キリスト教共同体を”交わり”ではなく”分離”の場に変えてしまうことになりかねません。聖霊は”閉鎖”を望まない。誰に対してもオープンで、喜んで受け入れる場を望んでおられるのです」と説かれた。
また、今日の福音で、イエスは「すべての人を裁いてはならない。自分自身に気をつけなさい」と勧めておられる、とされ、「イエスはこの箇所で、罪を絶つという呼びかけの本質を説明するために、体の部分を切り落とすという印象的な例え(42‐48節)を語られます。イエスの要求は、たしかに、過激で厳しいですが、私たち自身のために、よき医者のように話されている。つまずかせるもの全てを切り捨てることは、私たちがより良く成長し、愛の実を結ぶことができるようにするためなのです」と強調。
最後に、教皇は私たちの生活をより良くするための招きで、説教を締めくくられた。「最後に質問です。私の心の中で福音に反するものは何ですか?イエスは私の何を切り取るように願っておられますか?」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「必要なのは『過去の修復』ではなく、未来を共に見つめ、信仰を再構築することだ」欧州司教協議会理事会創立50周年ミサで

(2021.9.24 バチカン放送)
教皇フランシスコは23日夕、創立50周年を迎えた欧州司教協議会理事会の総会の開会ミサを、バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられ、各国の司教協議会から代表の司教たちが参加した。
ミサの説教で教皇は、欧州の司牧者のすべき行為として、「心に留める」「再構築する」「見る」という3つの動詞を示された。
教皇はまず、このミサの第一朗読のハガイ書の箇所ー「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ… 今。お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」ーを引用。
「バビロン捕囚から帰還した人々が自分たちの住居のことで心配し、神殿の再建を考えなかったように、今日の欧州のキリスト者たちが、『自分の家や教会や、伝統の与える安心感、ある種の合意における満足感など、心地よいシステム』に留まろうとする誘惑にかられる中で、『神殿』の周りから人はいなくなり、イエスは忘れられかねない状態にあります」と警告された。
「食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく[…]」とハガイ書にあるが、「主が、預言者ハガイを通して『心に留めるように』と、ユダヤの人々に呼びかけるように、『今日の教会に何が欠けているのか』を考えねばなりません」とされたうえで、「私たちの不満の原因は『慈愛の欠如』にあります… 愛だけが心を満足させることができるのです」と強調。
「教会内の地位や議論、計画にとらわれている間に、私たちは、慈愛の業を深めることや、無償性への情熱といった、『福音』の真のプログラムを見失ってしまいます… 問題や閉鎖から抜け出す道は『無償で与える道』です」と説かれた。
また、ハガイ書では、「主は、神殿を建てよーご自身の家を再建するように、と、預言者ハガイを通して言われた」とあり、民は神殿を建て直した。教皇は、「欧州という『共通の家』を建て直すには、創建の父たちの先見的な、未来を見つめた視点に立ち帰ることが必要です」されるとともに、「神の家である教会を、より美しく受容的にするために必要なことは、過去を修復することでなく、未来を共に見つめ、福音の告知・寄り添い・証しという基礎の上に教会を再建していくことなのです」と訴えられた。
そして、「イスラエルの人々が自らの手で神殿を再建したように、欧州でも多くの聖人たちが、自分の小ささを自覚しつつ、神に信頼し、恵みを受け入れ、自分の生活を変えることから始めて、困難な時代の中に信仰を再構築していきました」と振り返られ、「今の欧州では、多くの人が『信仰は、すでに見たもの、過去のもの』と考えていますが、それは彼らが、自分の人生の中で働く『イエスの存在』を見ることができなかった、あるいは、私たちが『自分の生き方を通して、イエスを十分に証しできなかった』からなのです」と自省を込めて話された。
最後に教皇は、「慈しみ深い、驚くほどの神の愛こそ、福音の永遠の新しさ。言葉だけではなく、生き方を通し、祈りや清貧さや創造性をもって、疲労した欧州を助けて行きましょう」と司教たちに呼びかけられた。
(編集「カトリック・あい」)
☩「過去への郷愁の行き過ぎは、教会を逆行させる」教皇、スロバキアのイエズス会士との面談で(Crux)
(2021.9.21 Crux Senior Correspondent Elise Ann Allen

ローマ発―教皇フランシスコは先週スロバキアを訪問された際、同国のイエズス会士たちと面談されたが、その中で、教皇は、「事実を知らずに侮辱する人たちに、私は時として我慢できなくなることがあります」と述べ、十分な事前取材もなく、一方的にご自分を批判するメディア関係者を暗に批判された。
また、「自分の教会共同体のことよりも、旧ラテン・ミサ典礼に愛着を抱く司祭たち」のような「過去に過度の郷愁をもつ教会の構成員たち」を「教会の逆行」の表われとして批判された。
*手術後も「まだ生きています」
教皇は、今回の東欧二か国訪問の初日、12日にハンガリーのブタペストでの会見の冒頭で、7月の大腸手術後の健康状態についての質問に、冗談を交え、「死んでほしい、と思う人もいますが、まだ生きています」と答えられた。イエズス会士たちとの面談では、「私の病状が公式発表よりも深刻だと考えている(高位) 聖職者たちの間で、会合さえ行われていたことを知っています。 彼らはコンクラーベ(教皇選挙) の準備をしていたのです」 と語ったうえで、「急ぐな! 私は大丈夫です。神に感謝」と付け加えられた。
*「私を悪く決めつけるテレビ放送網があり、司祭もいる」
また面談で、あるイエズス会士が「教皇についての評価が分かれているようです。『異端だ』と思う人もいれば、『理想的だ』とする人もいます。ご自分を疑いの目で見る人たちに、どのように対処されているのですか」 と尋ねたのに対しては、教皇は自分を「悪く言い続けることに躊躇しないある大手カトリックテレビ・ネットワーク」を挙げ、「私は罪人なので、 個人的には攻撃や侮辱に値します。でも、教会はそれに値しない。それらは悪魔の仕業です。そのように、彼らの何人かに、私は言いました」と語られた。
教皇が名指しされたテレビ局が具体的にどこかをおっしゃることはなかったが、教皇自身と彼の決定に批判的な評論を一貫して放送してい るアメリカの保守派のカトリック系テレビEWTN(Eternal Word Television Network)を指している、と見る関係者が多いようだ。
さらに教皇は、「私にについて意地悪な発言をする司祭も多い。まともな対話をせずに、決めつけるような言い方を聞くと、このような人々に時々我慢できなくなることもあります」とされ、「しかし、それに対して、私は何もできません。だが、私は、彼らの考えや幻想の世界に引き込まれることなく、進みます。だから説教をすることを好むのです」と説明された。
*「旧ラテン・ミサ典礼への執着は、過去への逆行」
また、「聖性のようなテーマについて、もっと話されだらどうですか」 と諭す人もいるが、 「私はいつも社会問題について語り、”共産主義者”だ、と言われています。しかし、聖性に関する使徒的勧告『ガウデーテ・エト・ エクスルターテ(Gaudete et Exsultate)』も、私が書いたものです」と述べられた。
教皇は7月に、旧ラテン・ミサ典礼に対する制限を強化する自発教令を出されたが、これによって、教会が「ベネディクト16世とヨハネ・ パウロ2世の真の意図に立ち返るのに役立つことを期待している」と語られた。そして、 今回の決定は、 世界中の司教たちとの協議を経て行われたものであることを強調し、「司祭に叙階されて1ヵ月後に、 司教のところに行って、旧ラテン・ミサ典礼によるミサを捧げたい、と言ってくる若い人たちがいますが、それは教会が過去に逆行していることを示す現象です」と批判された。
また、ある枢機卿との話した際に、枢機卿が叙階したばかりの、司祭の何人かが「(旧ラテン・ミサ典礼による)ミサを司式するためにラテン語を学ばせてください」と許可を求めに来た、と聞いたことを思い起こされた。
「その枢機卿は、こう答えたそうですー『教区には多くのヒスパニック系の人たちがいます。彼らに説教ができるようにスペイン語を学びなさい。スペイン語をマスターしたら、私のところに来なさい。教区にはベトナム人が何人いるか教えてあげるから、 ベトナム語を学んでもらいましょう。ベトナム語をマスターしたら、ラテン語を学ぶことを許可しましょう』と」。 教皇は、「この枢機卿は、このような司祭たちを”地上”に戻らせたのです」 と語られた。
*「決定し前進する時は、忍耐、祈り、そして思いやりが必要」
さらに、教皇は、「自分が下す決定は、”革命”を起こしたいからするのではなく、 私自身がしなければならないと思うから、するのです。それには多くの忍耐と祈り、そして多くの思いやりが求められます」 と述べた。
また、教皇に近い年齢のあるイエズス会士が、「 教会の中には、『過去に戻りたい』と思っている人や、『 以前のやり方に安心感』を求める人がたくさんいるようですが」 と聞いたのに対しては、「確かにたくさんいます。今日の教会は『後ろ向きのイデオロギー』に悩まされている。それは、『心を植民地化』するイデオロギーです。『 イデオロギー的植民地化』の一形態なのです」とされる一方で、「これはそれほど普遍的な問題ではありません。むしろ、特定の国の教会に特有の問題と言えます」と話されたが、具体的にどの国を指しているのか明らかにされなかった。
さらに「過去に目を向けることは、安心感を得たいがための手段ですが、(注:そのような後ろ向きの姿勢で)『私たちの顔を見て真実を語ってくれる神の民』の前で司式することは 、私たちを怯えさせます。司牧的な行いの中で、前に進むことを恐れさせます」 と警告された。
*再婚した夫婦への対応、LGBT、そして「ジェンダー・イデオロギーによる植民地化」
教皇はまた、家庭をテーマにした2014年、2015年の二度にわたるシノドス(世界代表司教会議)での議論に関して、「『離婚して再婚した夫婦が、地獄に落とされているわけではな い』ということを理解してもらうために、 多くの努力が必要でした」と振り返られた。
さらにLGBT(性的少数者)のコミュニティに言及した教皇は、「 性的多様性を持つ人々に同行することも、私たちは恐れています。パウロ6世教皇が語られた『岐路』や『道』を恐れています。この瞬間こそ悪、すなわち『頑迷』と『聖職者主義』に道を求めることなのです」と語られた 。
このスロバキアのイエズス会士たちとの面談ではこの他、ユダヤ教とキリスト教の対話、移民や難民に対する恐れ、 そして教皇が言われる「イデオロギーによる植民地化」圧力など、幅広いテーマで意見交換が行われ、イデオロギーに関しては特にジェンダー(社会的・文化的につくられる性別)イデオロギーが話題になった。
イタリアでは、 憲法における性的指向に基づく差別を受ける人に対する保護を拡大し、 学校の教科へのジェンダー理論の取り入れを目的とし た法案「ddl Zan」が議論されている。同法案に対しては今夏、バチカンが「憲法で保障されている信教の自由を侵害する」として法案に反対する「口上書」(正式な外交文書) を提出という異例の態度表明をして、 世界的に注目されている。
これに関連して教皇は、「イデオロギーは具体的な形をとらないため、常に悪しき魅力を持っています。私たちは今、”イデオロギーの文明”の中に生きています。それは根源から暴かねばならない」と述べ、 ジェンダーのイデオロギーを特に「危険です」と指摘された。なぜなら、人の具体的な生活に関して抽象的な主義主張であり、人が男性か女性かを抽象的に自由に決められるかのように見えるから」であり、「 抽象的だということは、私にとって常に問題なのです」とされた。
ただし、教皇は、同性愛や同性婚の人たちの問題を、ジェンダー・イデオロギーと区別し、「同性愛のカップルがいたら司牧的な導きをし、キリストとの出会いの中で前進するようにできます」とも語られ、「私が『イデオロギー』について語るとき、『人々の具体的な生活や現実の状況』ではなく、『何でも可能な抽象的な概念』を意味するものとして語っているのです」と念を押された。
(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン、南條俊二)
・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。
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☩「東欧二か国訪問は『祈り、希望、ルーツへの巡礼の旅』だった」水曜一般謁見で
(2021.9.22 Vatican News By Devin Watkins)
教皇フランシスコは22日、水曜恒例の一般謁見での講話で先週の東欧二か国訪問を振り返られ、「祈りと希望、ルーツへの巡礼の旅」とされた。
9月12日から15日に行われた教皇の二か国訪問について、教皇はまず、「共に」と言う言葉で特徴づけられる旅だった、とされ、「それは、教会が「二つの肺」ーラテン典礼とギリシャ典礼ーで呼吸していること、ユダヤ人の共同体、他宗派のキリスト教徒、そして、それ以外の宗教の信者たちと共に歩んでいること、を示していたからです」と語られた。そうしたことから、「今回の訪問は、祈りの巡礼、信仰のルーツへの巡礼、希望の巡礼、と言えます」と説明された。
*聖体と聖母への奉献に心打たれた
また、今回の訪問ではまず、ハンガリーの首都ブダペストを訪れたが、そこで印象深かったのは「普遍的な教会が、主のいけにえの周りに集ったのを目の当たりにしたこと」とされ、「主日に、神の聖なる民は聖体の神秘の前に集い、聖体によって絶えず力を得、力を取り戻します。集まった信徒たちは、祭壇の上に立てられ十字架ー聖体によって示されたのと同じ方向、すなわち、謙虚で無私の愛、すべての人に対する寛大で敬意のある愛、世俗から浄化され、本質につながる信仰の道、を示す十字架ーに抱擁されました 」と語られた。
教皇は、「私の祈りの巡礼は、悲しみの聖母の記念のミサで締めくくられ、崇敬と民の信仰で構成された旅となりました。なぜなら、これが、神の民が求められているもの、何よりも、崇敬し、祈り、旅をし、彷徨い、悔い改め、そして、その中に、主が私たちに与えてくださる平和と喜びを感じるもの、だからです」と説かれた。
*9世紀まで遡る信仰のルーツに触れる
☩「シノダリティ(共働性)は教会の本質を表している」教皇、ローマの信徒たちに

*シノドスの旅の第一段階は
シノドス・プロセスの最初の段階(2021年10月から2022年4月)は、個々の教区の教会に関するものだが、 「それが、私があなたの司教(ローマ司教)としてここにいる理由。ローマ司教区がこの旅に、確信を持って関わることが極めて重要だからです」とされ、「シノダリティ(共働性)は教会の本質、形、様式、使命を表現している。実際、『シノドス』という言葉には、私たちが理解すべきすべてのものが含まれているーそれは『共に歩く』ということです」と説かれた。
*使徒言行録
教皇は新約聖書の使徒言行録を、「教会論の最初で最も重要なマニュアル」であり、それは、「エルサレムに始まり、長い旅の後にローマで終わる『道』について語っているからです」。そして、「この『道』は、神の言葉とその言葉に注意と信仰を向ける人々が共に歩むありさまを語っており、誰もが、その主人公なのです。時には、私たちが道を離れたり、方向を変えたり、あるいは、私たちが進むのを押しとどめ、共に動き、歩むのを妨げるような強い思いに打ち勝たねばならない必要があるかも知れません。それでも、誰も『余分な者』とは見なされないのです」と強調された。
また教皇は、成長するキリスト教徒たちを組織化する中で、特に、貧しい人々の必要なものを提供することで生じる問題がある、とも指摘。問題を解決する方法として、使徒言行録から引用する形で、「弟子たちを集めて、食事や身の回りの世話に奉仕する『ディアコニア』に専念する男性を7人任命することを決めました」と語られた。
*教区の段階で
話題をシノドス・プロセスに戻された教皇は、「この旅は、洗礼を受けた人々すべての声に耳を傾ける作業が必要なので、教区の段階が非常に重要になる」とされ、「そこには、指導者たちと家来、教える者と教えられる者、という教会のイメージを覆すために抵抗せねばならないことが沢山ある」とされ、「共に歩むことで、その道が”垂直”ではなく”水平”であることが分かります」と、シノドスの旅の意義を示された。
*sensus fidei
「sensus fidei(ラテン語で「信仰の感覚」=「司教から最後の信者まで、信仰と道徳の問題で普遍的な同意を表す時の、民全体の信仰についての超自然的な認識」を意味するとされる)は、イエス・キリストの予言的権能についての尊厳をすべての人に与える」とされ、「それは、現在における福音の道が何かを識別するためのものです」とされ、「sensus fideiの行使は、これやあれのテーマ、教義の一側面、あるいは規範に関して私たちが持っているかも知れない意見の伝達と比較に矮小化されてはなりません」と強調された。
*すべての人のために
続けて「私たちは、神の約束の受け手である『一つの偉大な人々』の一部であることを感じる必要があります。すべての人々のために神が準備された宴に誰もが参加する未来が開かれている」と説かれ、「 『神の民となること』さえ、排他的な特権だ、という考えにとらわれたままの”厳格”で敵対的な解釈学が存在する可能性があることを指摘したい。預言者がその意味を修正された『選び』は、それがどのように正しく理解されるべきかを示しています。『神の民』となることは特権ではなく、誰かがすべての人のために受け取る贈り物、私たちが他の人のために受け取った贈り物、責任なのです」と強く語られた。
最後に教皇は「シノドスの旅では、『耳を傾けること』は、sensus fideiを考慮に入れる必要がありますが、私たちが期待しないところに具現化されたすべての”直感”を見逃すことのないように。”市民権のない直感”もあるかも知れませんが、それも有効です」とされたうえで、「私がここに来たのは、このシノドス・プロセスを皆さんが真剣に受け止め、聖霊が皆さんを必要としていること伝えるため。自分自身に耳を澄ませることで主の言葉を聴くように、誰一人も置き去りにしないようにしてください。これは、個々の参加しておられる方だけでなく、(注:時間と空間を超えた)教会全体にも当てはまります。仕組みを刷新すること、指示を与えること、黙想し話し合うことだけで、強められはしない。人々が共に歩むことを強く望んでいることに気づいて欲しい。さまざまな人々すべて、状態のすべてを内包するローマの一つの民は、その複雑さの中の大きな豊かさをもっているのです!」と訴えられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「私たちの『成功』は、仕えること、与えるもの、で測られる」年間第25主日の正午の祈りで

(2021.9.19 Vatican News By Christopher Wels)
教皇フランシスコは19日、年間第25主日の正午の祈りの説教で、「仕える」をテーマに取り上げられ、「私たちが他者に”仕える”とき、神は私たちを抱擁してくださいます」、そして、 「私たちの『偉大さと成功』は、『社会的地位、肩書き、富ではなく、仕えること』によって、『自分が持っているものではなく、他者に与えるもの』によって、測られるのです」と語られた。
教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所に注目され、「イエスは、『自分たちの誰がいちばん偉いか』と言い合っていた弟子たちに対し、厳しい口調で、『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりさい』と言われます(9章33‐35節)。これは、今の私たちにとっても、有効な言葉です」と始められた。
そして、「『仕える』という考え方は、少しばかり使い古されたように思われるかも知れません。しかし、それは、福音において正確で具体的な意味を持っている。つまり、『仕えるためではなく、仕えるために、この世に来られた、イエスのように振る舞う』ことを意味するのです」と説かれた。
*イエスの「仕える道」を歩む
続けて教皇は「私たちがイエスに従うことを望むなら、ご自身の歩まれた『仕える道』に従わねばなりません。私たちの主への忠誠は、仕えることへの意欲にかかっています。私たちが仕えれば仕えるほど、神の臨在に気づきます。他の人に仕えるときに、神の愛を発見し、受け入れます」と強調された。
その意味を弟子たちに分からせるために、イエスは、小さな子どもを彼らの真ん中に立たせ、「私の名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのだ」と説かれる(同36‐37節)。
教皇は「イエスは、この子どもを『無実』ではなく『小ささ』の象徴として扱っています。私たちが求められている仕える相手は、『小さな者たち』『助けを求めている者たち』、そして『見返りに何も与えることができない者たち』なのです。社会の中で最も困窮し、最も疎外されている人々を進んで受け入れるとき、イエスがそこにおられ、私たちはイエスを進んで受け入れるです」と語られた。
*イエスの呼び掛けに応える
最後に教皇は、このような福音の教えを受けて、私たちの助けを必要としている人々に本当に関心をもつのか、、それとも、イエスから注意を受ける前の弟子たちのように、自分自身の個人的満足を求めるのか、自問するように勧められたー「私は『小さな人』に、私に借りを返す手立てのない人に、自分の時間を捧げるだろうか?」と。
そして、「主の謙遜な僕」である聖母マリアに助けを求める祈りで講話を締めくくられたー「仕えることが、自分自身を小さくすることではなく、成長するのを助けることを、私たちが理解するのを助けてください」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「教会の評判を気にすることで、性的虐待被害者の幸せを妨げてはならない」中東欧の会議にメッセージ

(2021.9.18 By Vatican News staff reporter)
中東欧のカトリック教会の代表たちによる「聖職者の性的虐待から未成年者や弱い立場にある大人たちを守る会議」が19日から4日間の予定で、ポーランドの首都ワルシャワで開催されるが、教皇フランシスコは18日、会議にビデオメッセージを送られ、性的虐待問題への対応について、今回の会議などを通じて行われる関係者の努力が、カトリック教会と信徒たちの心に真の、信頼に足る変化をもたらすよう、強く期待された。
会議は、バチカンの未成年者保護のための委員会とポーランド司教協議会の共催で、「神の子供たちを守る私たちの共通の使命」をテーマにし、この地域の20か国の司教、修道会代表、専門家が参加する。
*真の、信頼に足る変化が必要
ビデオメッセージの冒頭、教皇は、教会関係者たちによる未成年に対する性的虐待が引き起こした危機に対して、これまで教会が行ってきた対応を振り返り、教会が直面しているこの深刻な危機の適切に対応する方法について議論を深めようとしていることに強い関心を表明。
まず、教皇が2019年2月に招集した世界司教協議会会長会議でのご自身の講話で、「教会組織への評判に対する誤った懸念を抱くことで、虐待被害者の幸せの回復が妨げられることのないように」と注意を与えられたことを思い起こされた。そして、教会の評判を真っ先に考えるのではなく、 「こうした邪悪な慣行に真摯に向き合い、被害者たちに心からの赦しを求めることによってのみ、教会は、助けを求める人たちが安心して迎えてもらえる場、としての信頼を取り戻すことができるのです 」と強調。
さらに、「私たちの悲しみの表現は、さらなる性的虐待の発生を防ぎ、他者に信頼してもらえる、真の、信頼に足る変化をもたらす具体的な改革の歩みに変えて行かねばなりません」とされ、「被害者たちの叫びに耳を傾け、お互いに、そして、より広い意味で社会との間で、議論に専心してください。中東欧だけでなく、キリスト教徒の心の将来につながるものとなるように。これは私たちの責任です。このような困難な時代に、責任を感じて努力しているのは、あなた方だけではありません」と参加者たちを激励された。
*私たちの過ちを認める
また、教皇は、「私たちの過ちや失敗と向き合うことで、自分たちが脆弱で壊れやすい存在だと感じる可能性が確かにあります。しかし、過ちや失敗を認めることは、『素晴らしい恵み』であり、『愛と相互奉仕の新しい地平』を開く自我の解放の時、と見なされるべきです。 自分の過ちを認めた時、私たちをそこに導かれたのは主ご自身。ですから、私たちに恐れることは何もありません」と語られた。
最後に、教皇は、会議参加者たちに「性的虐待の被害者に仕える、主の謙遜な道具」となるよう促され、「自分たちを共通の未来の仲間であり主人公であると考え、お互いから学び、教会が共に未来の課題に向き合うことができるよう、より信仰深く強靭な存在となってください」と訴えられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「『統治は奉仕』を忘れた時、”闇”を経験する」国際的信徒組織の管理者たちに
(2021.9.16 バチカン放送)
教皇フランシスコは16日、バチカンのシノドス・ホールで開かれたカトリック信徒による国際的な団体・組織・運動・共同体の管理・調整者の会合に、挨拶を送られた。
教皇は参加者たちに、「信徒による組織の宣教的な力、その預言的な存在は、未来に希望を与える」と感謝された後、今年6月に教皇庁信徒・家庭・いのち省から発表された「信徒による国際組織をめぐる教令」を取り上げ、その意図を説明された。
教令は、国際的な信徒団体・組織の責任者らの任期と信任の回数、および責任者らを選ぶ方法やそれを選ぶ人々に関する規則を定めている。「信徒団体の管理・責任を負う者は奉仕のために召されています」とされた教皇は、「権力欲や不誠実さに陥らないように、人々が期待するキリスト教的証しの挑戦からはずれ自分たちだけの世界に閉じこもることがないように」と注意された。
そして「『統治とは奉仕』という原則を忘れた時、闇を経験することになります」と警告され、「捜査や調査で醜悪な罪が明るみに出され、困難に陥った修道会や団体」があったことを思い起こされた。さらに、「あらゆる悪用の根源は、権力の悪用にあります。組織の病いは、創立者のカリスマが弱まった時にも起きることがある」と指摘され、組織内に生まれる不平等の原因の例として、「責任者たちが、選挙の票と引き換えに何かの約束をしたり、自分だけが創立者のカリスマの真理を保持していると思い込むこと」などを挙げられた。
教皇は、「組織の健全な運営のために、責任職にある人々や選挙に伴い構成された管理メンバーの交替は、有益で必要なことです」と強調。創立者について、「歴史的存在で堅固な伝統に結びつく創立者」と「健在あるいは近年の創立者」を区別しつつ、「それぞれの立場から創立者のカリスマを再確認し、古い創立者である場合、会則など変更が必要なものは検討し、組織がまだ創立期にある場合は、そのカリスマを吟味し続けることが大切です」と指摘された。
最後に、「組織が自分たちの中に閉じこもり、安心し、いかなる挑戦も変化も必要ない、と思いこむことがないように」と注意され、「常に歩み、常に識別する姿勢」の重要さを強調された。
(編集「カトリック・あい」)
☩教皇、帰国途上の機内会見で、妊娠中絶の法制化、ワクチン接種、欧州連合問題、同性婚、聖体拝領問題などについて語る

(2021.9.16 バチカン放送)
ハンガリー訪問について、教皇は、ハンガリーの人々の持つ多くの価値の中でも、特にエキュメニズムの持つ深い意味に感銘を受けた、と語られた。
ハンガリーの首相を主体とした会談では、環境問題が話題に上がり、首相から、どのように河川をきれいにするかの説明を受けたが、ハンガリーの人々の環境問題に対する意識の高さに脱帽する、と述べられた。このほか、国民の平均年齢など、人口統計上の傾向をめぐり、若い人たちの結婚を助ける政策を大統領が説明した、と話した。移民問題はテーマに上らなかったという。
欧州のキリスト教の印象をめぐり、教皇は、欧州連合は何かをするための集まりではなく、その基礎にはこの構想を夢見た人々の精神がある、と述べ、欧州連合が単なる管理機関になってしまう危険を指摘しつつ、ヨーロッパの根源にある精神性を追求し、それを伝える必要を説いた。
スロバキアでは新型コロナウイルスのワクチンがキリスト教信者を分裂させているが、ワクチン接種を受けることは愛の行為である、と以前から語られている教皇は、この状況をどう見るか、という問いに対し、教皇は、はしかやポリオなど、ワクチンの恩恵を受けてきた人類の歴史に触れ、ワクチンをめぐる過激な世論は、おそらく不安から来ており、その不安は新型コロナウイルスの大感染だけから来るのではない、と語られ。
聖体拝領と堕胎をめぐる問題について、米国では人工妊娠中絶の合法化を支持する政治家の聖体拝領を拒むべきか否か、という論争があり、ある司教たちはそうあるべきと言い、ある司教らはご聖体を(政争の)武器のように使うべきでない、と言い、司教の間でも意見が割れているが、教皇は「ここ数年間に公的に誰かに聖体を拒んだことがあるか」との米国記者の問いに、教皇は「誰かに聖体を授けることを拒んだことはこれまで一回もないが、こうした状態にある人が(聖体を拝領に)来たかは知らない」と答えられた。
人工妊娠中絶について、教皇は「堕胎は単なる問題を超えて、殺人」である、と強調。胎児は一人の命ある人間であり、人間の命は尊重されなければならない、この原則は明確なもの、と話された。
同性愛者の結婚を認めるかどうか、についてどう考えるか、という問いには、「結婚は一つの秘跡であり、教会は主が制定した秘跡を変える力を持たない」と答えられ、「異なる性的指向を持つ多くの人々の状況を助けようとする法律がある」ことに言及しながら、「国々がこれらの人々を市民的に支援することは重要」とされた。そして、「私たちは兄弟姉妹であるこれらの人々に寄り添い、教会は彼らを助けるが、結婚の秘跡は別の問題」と語られた。
(編集「カトリック・あい」)
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(2021.9.15 Vatican News)
記者会見での一問一答は次の通り
*欧州連合の理想を忘れず、”イデオロギー的植民地化”に利用されぬように
問:Istávan Károly Kuzmányi(MagyarKurír=ハンガリーのカトリック・メディア)
ブダペストを訪れていただきありがとうございます。ブダペストで教皇は、「100万人のハンガリー人が祈っているなら、私は未来を恐れません…」と語ったミンツェンティ枢機卿(1892年3月29日 – 1975年5月6日、第二次世界大戦後の1945年10月から約28年間、エステルゴム大司教=ハンガリーの首都大司教=を務めた)の言葉を引用されました。なぜ教皇として、今回の東欧2か国訪問の最初に国際聖体大会に参加されたのですか?あなたは欧州のキリスト教をどのように見、私たちハンガリー人はどうすればいいとお考えですか?
答:教皇フランシスコ
国際聖体大会への参加について、当初はよく理解されていませんでした。「あなたは国際聖体大会の式典のためだけに来て、私たちハンガリー人を訪ねないのですか」と。中には悪く考える人もいましたが、私は、その人たちにこう説明しました。「そうではありません。以前から考えていたのですースロバキアを始め他の国を訪問するということでしたが、あなたの国の大統領にお会いすると約束しました。彼に合うのは三回目でしたが、来年かその後にまた来れるか考えます、と約束しました。それは、ハンガリーの人たちには非常に多くの価値観があるからです。たとえば、あなた方は、とても奥深いエキュメニズムの感覚をもっておられます。そのことに私は感銘を受けています。
欧州についてですが、私がいつも申し上げているのは、「欧州は、欧州連合の生みの親たちの夢を再認識しなければならない」ということ。欧州連合は事を成すための集まりではありません。欧州連合の背景には、シューマン、アデナウアー、デ・ガスペリなど偉大な人々の精神があります。ただの”管理事務所”であってはなりません。欧州のルーツを求めて、神秘主義に向かって、着実に前進する必要があります。欧州のすべての国が前進せねばならない、と思います。欧州連合を”イデオロギー的植民地化”に利用しようという考えが存在するのは確かです。おそらく欧州外の日との考えでしょうが、良くないことです。欧州連合は自立した存在でなければならず、偉大な生みの親たちの刺激を受けて、すべての国が独立している必要があります。これが私の考えです。
*新型コロナワクチン接種ー感染し治療を受けた反対派枢機卿もいる
問:Bohumil Petrik (Dennik Standard)=スロバキアのメディア)
新型コロナ・ワクチンのVワクチン接種を巡ってキリスト教徒が割れています。スロバキアでもです。教皇は、「ワクチン接種を受けるのは、愛の行為です」と言われています。それでは、接種を受けない人がいたら、どうおっしゃいますか?接種を受けない人は、差別されているように感じています。教区によって、この問題への対応が違っています。今回のあなたのスロバキア訪問に当たっても、当初、接種を受けた人だけが、行事に参加できる、とされていて、後になって、接種していなくでも、検査で陰性なら参加してもいい、と改められました。この問題についてどのようにお考えですか?
答:教皇フランシスコ
これは重要な問題です。ちょっと変でもありますね?なぜかと言えば、人類はこれまでワクチンとは友好な関係の歴史をたどってきたからです。私が子供だった頃、はしかやポリオが流行し…子供たちは皆、ワクチン接種を受けました。誰も「いやです」とは言いませんでした。(注:新型コロナ・ワクチンの接種を巡って問題が起きているのは)おそらく、接種による副反応と不確かだ、というのが理由になっているのでしょうー新型コロナ感染に関して、様々なワクチンがあること、ワクチンの中に感染防止に役立たず、蒸留水とあまり変わりがないものがある、という評判などです。
それが、人々を怖がらせています。そして、ワクチンに含まれるウイルスが危険だ、という人もおり、多くの議論が起きて、人々の間に分裂をもたらしています。枢機卿団の中にも“反ワクチン派”がいますが、そのうちの一人が、可哀そうなことに新型コロナに感染して、治療を受けました。人生は皮肉なものです。私は良く説明できないのですが、ある人は、十分な検査を受けず、怖がっているのは、ワクチンの余って来るところが違うからだ、と言いますが、この問題については、明確にし、誠実に語ることが必要です。ちなみに、バチカンでは、どのように助けたらいいか検討中の少数の人を除いて、全員がワクチン接種を受けています。
*”人口の冬”が心配、若者、子供たちは未来の希望
問:Daniel Verdú Palay (El Pais=スペインのメディア)
教皇は12日に、ハンガリーのオルバン首相(移民反対の強硬派)とお会いになりました。教皇は、移民問題や欧州問題、ナショナリズムの問題などで、彼と意見を異にしている、と言われていますが、会談はどのようなものだったのでしょうか?。教皇の側から、最近のアフガニスタン危機で最重要問題に再浮上している移民問題に触れられましたか?また、首相が施行した同性愛に関する法律についてどうお考えですか?また、首相に、「キリスト教のハンガリーを死なせないように」と求められた、と聞いていますが?最近の教皇の言動から、時としてキリスト教的な価値を殺してしまう政策が存在しているように思われるのですが?
答:教皇フランシスコ
私は首相とお会いしました。首相がおいでになったからです。彼は礼儀正しく、親切でした。お会いしたのは三度目で、大統領や副首相と一緒に来られましたが、話されたのは首相でした。 話された最初のトピックはーそれが会談の大半を占めましたがー環境問題でした。私は、あなた方ハンガリー人の環境に対する良心に脱帽しています。首相は、どのようにして河川を浄化しているか説明されました。私の知らなかったことです。
それから、私から、ハンガリーの平均年齢について聞きました。なぜなら、私は”人口の冬”を心配しているからです。イタリアの平均年齢は確か47歳前後で、スペインはもう少し若かったかもしれませんが、多くの村で住む人はいなくなり、いてもわずかなお年寄りです。これは深刻な問題です。どのようにしたら解決できるでしょう?首相は私に説明しましたー私の国の法律は若い人たちが結婚し、子供をもつことを支援しています、と。これは興味があります。法律…フランスでも似たような、もっと進んだものがあるようです。だから、フランスではスペインやイタリアのような悲劇が起きていない… このことについて、法律の内容などについて、技術的な説明が、ハンガリー側からありました。
そのほかのテーマとしては… 移民問題は話題になりませんでした。話題は環境問題に戻り、それと、私が尋ねた意味での「家庭の問題」。何と多くの若い人々、子供たちがいることか。スロバキアでも、私は、とても多くの子供たち、若い夫婦がいることに驚きましたー未来は明るいのです。
それと直面する課題としては「雇用」です。 でも「外国に出る」ことを彼らは考えません。仕事が見つからないなら、外国に仕事口を見つけに行くことになるのですが。首相は、会談の間中、話しました。他の閣僚はいくつかの関係するデータを見せてくれました。会談は35分ないし40分ほどだったでしょうか、良い雰囲気で行われました。
問:Gerard O’Connell (America Magazine=イエズス会発行のメディア):
まず、手術が素晴らしい効果をもたらしたことを私たちは皆、喜んでいます、あなたは若返りました!
答:教皇フランシスコ
私に「誰かが手術を受けたいと言っています」と言う人がいました。それが誰か知りません… でも、(注:私の受けた手術は)は美容のためのものではありませんでしたよ!
問:O’Connell
あなたは「私たちは皆、罪人であり、ご聖体は完璧な人への”報酬”ではなく、弱い人のための”薬””食べ物”だ、とよくおっしゃいます。ご存知のように、米国では、特に先の大統領選やその他の選挙の後、いや2004年以降、妊娠中絶を支持する法律と女性の選択権を支持する政治家にご聖体を授けることに、司教の間で議論がありました。そして、(注:カトリック教徒である)バイデン大統領や政権幹部のご聖体を授けたくない司教たちもいます。それに反対する司教もいれば、「聖体を武器として使う必要はない」と言う司教もいます。このような事態についてどう思われますか?司教たちに、どう助言されますか?また、教皇ご自身は、司教として、過去に、このような人にご聖体を授けるのを公に拒否したことがありましたか?
答:教皇フランシスコ
*聖体拝領は完璧な人への報償ではない
いいえ、私は誰に対しても、ご聖体を授けるのを拒否したことはありません。そのような方が来られたか分かりませんが、お断りしたことは一度もない。誰に対してもです。司祭としてそうするのです。絶対に拒否はあり得ません。あなたが言われるような方が前に来て、それに気づいたこともない。本当です。
少しばかり、興味深い経験がありました。ある老人ホームにミサを捧げに出掛け、そこの居間にいた時のことです。私が「ご聖体をいただきたい方は、手を挙げてください」と言うと、全員が拝領を希望されました。そして、あるご婦人にご聖体を授けた時、彼女は私の手に取って、「ありがとう、神父さま。ありがとう。私はユダヤ人です」と語りかけたので、「大丈夫、私があなたにお授けした方も、ユダヤ人ですよ」と答えました。彼女はまず、ご聖体を拝領し、その後で、そのように言ったのです。
聖体拝領は完璧な人に与えられる報償ではありません。そうでしょう?この問題に関連して、ポール・ロワイヤル修道院(パリのシトー会女子修道院。1634年に、ジャンセニズムの創始者、ヤンセニウス司教の盟友であるジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌが修道院の霊的指導者となった時から、付属の神学校のほとんどがジャンセニスムの神学校となった)、アンジェリック・アルノー(19世紀のフランスの小説家で男女同権主義者)、ジャンセニズム(信仰上人間の自由意志よりも神の恩恵を重視するアウグスティヌスの思想を実践しようとして、17、18世紀にフランスを中心に展開された宗教運動。当時のカトリック教会から異端とされた)のことを考えてみましょうー完璧なものがご聖体を受けることができる、(と主張しました)。
ご聖体は賜物、贈り物です。教会と教会共同体におけるイエスの現存です。これが神学です。そうすると、お話ししたご婦人のように教会共同体に所属していない方はご聖体を受けることができないことになりますが、主は、私が知らないうちに彼女に報いることをお望みになったのですー共同体から出されたー破門された人たちがいます。厳しい言い方ですが、彼らは共同体に属していない、それは、洗礼を受けていないか、何らかの理由でバプテスマを受けていない、あるいは共同体から何らかの理由で離れてしまったから。
*妊娠中絶は殺人、”殺し屋”を雇うのは正しくない
もう一つのご質問。妊娠中絶の問題です。これは殺人です。妊娠中絶は… はっきりしていますー中絶をした人は誰でも、人を殺すのです。医学部の学生用の発生学(胚の発生を研究する学問)に関する本を手に取ってください。そこには、受胎して3週目から、多くの場合、妊婦が妊娠したと気付く前に、すべての臓器がすでに出来ており、DNAさえも伝えられている…と書いてあります。それは人ではありませんか?人の生命なのです。この人の命には敬意が払わられねばなりません。この原則は非常にはっきりしています。
それが分からない方には、質問を二つします。第一に、問題を解決するために人間の命を奪うのは正しいことですか?科学的に、それは人間の命なのです。
二つ目の質問です。問題を解決するために”殺し屋”を雇うのは正しいことですか?私はこれをジョルディ・エヴォル(スペインのジャーナリスト、脚本家)に対して公けに語り、COPE(英国の本部を置く国際出版倫理委員会)に伝えました。何度でも言いたかった… .そしてそれで十分です。変な質問をしないでください。科学的に、それは人間の命なのです。医学書はこれを説明しているのです。
改めてお尋ねします。問題を解決するために人の命を捨てるのは正しいことですか?正しくない、と確信するから、教会はこの問題に非常に熱心に取り組んでいるのです。教会がこれ(妊娠中絶)を認めたら、日々の殺人を認めることになります。ある国の指導者は、私に、「人口減少は、彼ら(妊娠中絶者)によって始まった、(人口構成に)年齢差が生じている」と言いました。なぜなら、その国には、何年間かで600万人の妊娠中絶がされたほど強力な中絶法があったからです。その国の社会に大きな沈下が起きました。
*聖体拝領問題ー司教たちは「司牧者」でなく「政治的」に対応してきた
ここで、教会共同体に属さない人、教会共同体の外にいるために聖体拝領ができない人の問題に戻りましょう。これは罰ではありません。外にいるのです。ご聖体を受けることは、あなた自身を共同体に結びつけます。でも、問題は神学的な問題ではありません。司牧上の問題です。私たち司教が、この原則を司牧上、どのように扱うかです。
そして、教会の歴史を見ると、司教たちが「司牧者」としてではなく、問題に取り組むたびに、「政治的問題」として「政治的」に振るまっていたことが分かります。
聖バーソロミューの夜(注:聖バーソロミューの虐殺とも呼ばれる。 1572年8月 23日から24日にかけて,サン=バルテルミの祝日にフランスのパリで起きたカトリックによるユグノー (プロテスタント) の人々の組織的大虐殺事件)について考えてみてくださいー「異端者たち、そうです。それは深刻な異端です… 彼らの喉をすべて切りましょう…」。いいえ、それは政治的な問題です。
ジャンヌ・ダルクについて考えてみましょう。魔女狩りについて考えてみましょう。カンポ・デ・フィオリやサヴォナローラ(注:ジローラモ・サヴォナローラ 1452年9月21日 – 1498年5月23日。 イタリア・フェラーラ生まれのドミニコ会修道士。当時のフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民の支持を得たが、教皇の意向による裁判で有罪とされ絞首刑の後、火刑に処せられた)など、すべての人々について考えてみましょう。
教会が非司牧的な方法で原則を擁護するとき、政治的な行動になります。そして、いつも繰り返されて来ました。歴史を見てください。司牧者は何をすべきでしょう?「司牧者」であることです。司牧者であり、断罪して回ってはなりません… 彼は破門された人たちの司牧者でもあるのですか?そうです。彼は司牧者であり、破門された人と共にある司牧者、神のなさり方に倣う司牧者であらねばなりません。神のなさり方は、親しさ、思いやり、そして優しさです。
聖書全体がそのように語っています。申命記で、主はイスラエルの人々に、こう語りかけておられます。「言ってみよ。どの民に、私があなた方に親しく接するような神々がいるのか」と。親しさ、思いやりーエゼキエル書で、ホセア書で示されているように、主は私たちに思いやりを持っておられます。優しさは最初からありました。福音書やイエスのことを少し見るだけで十分です。
神のなさり方に倣う方法を知らない司牧者は、足を滑され、司牧的でないことを沢山します。あなたは米国のことを話されましたが、私には米国のことを詳しく知らないので、具体的なことは申し上げたくありません。原則を申し上げましょう。
あなたは私にこう尋ねるかも知れませんー「でも、あなたが人に親しく、優しく、そして思いやりがあるなら、その人にご聖体を授けるのですか?」と。これは仮定の質問です。司牧者でありまさい。司牧者は自分がいつも何をすべきか知っています。でも、教会の司牧から出てしまうと、たちまち”政治家”になってします。
これは、すべての非難に見られることです。カトリック教会が行うすべての非司牧的な非難に… 諸原則を守り、司牧者はうまく立ち振る舞うべきだ、と私は思います。諸原則は神学から取られています。司牧的な教会運営は神学であり、このやり方であなたが立ち振る舞うように導かれる聖霊です。
神はー私はあえてここまで申し上げます。あなたが「ご聖体を授けることができますか、できませんか」と尋ねるとしたら、これは、神学者が言う「決疑論」(注:カトリック倫理神学の用語。宗教または道徳の規範を個々具体的な行為や良心の問題にあてはめる方法のこと=「岩波キリスト教辞典」)です。あなたは覚えておられますか? 私が出した使徒的勧告「Amoris laetitia (家族における愛の喜び)」が巻き起こした”嵐”のことをー離婚した夫婦に寄り添うことに言及した章について、です。異端だ、異端だ!神のおかげで、偉大な神学者であるシェーンボルン枢機卿がおられました。彼は問題を明確にしてくれました。しかし、この方な非難はいつもあります。破門はたくさんです。これ以上、破門をしないようにしましょう。貧しい人たち、彼らは神の子供であり、私たちの牧歌的な寄り添いを求め、必要としています。司牧者は、御霊の言葉に従って、物事を解決するのです。
*反ユダヤ主義の”流行”は醜いこと
問:Stefano Maria Paci (Sky Tg 24=イタリアのテレビ局):
13歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられたユダヤ人作家のエディス・ブラック女史から昨日夕方、メールがありました。彼女は、私が今回の東欧二か国歴訪に同行することを知っていたのです。教皇は、彼女に会うためにローマの中心にある自宅においでになったことがあります。メールは「あなたの姉妹、エディス」と署名のある長文で、教皇が今回の東欧二か国訪問中に繰り返し、反ユダヤ主義を批判されたことに、感謝し、「親愛なる教皇フランシスコ、今も根絶されていない反ユダヤ主義についてのあなたの言葉は、訪問国だけでなく、欧州全体で、これまで以上に重みをもっています」と書いていました。
答:教皇フランシスコ:
ご指摘の通りです。反ユダヤ主義は流行になっており、復活しています。それは醜い、醜い、醜いことです…。
*同性婚を法的に認める傾向についてー結婚の秘跡はあくまで男女カップルに
問:同上
家族についての質問です。教皇は、この問題についてハンガリーの政治指導者たちと話されました。そして、昨日のスロバキアでの若者たちとの集いのあいさつでも、取り上げられました。欧州議会が加盟国に同性婚と親子関係を認めるよう求める決議した、昨日伝えられました。これについてどう思いますか?