☩「弱い人々の隣に身を置き、誰も排除しない世界を作ろう」教皇、「世界難民・移民の日」に

(2021.9.26 バチカン広報)

 教皇フランシスコは26日の正午の祈りで、この日が、カトリック教会の「世界難民・移民の日」に当たることを念頭に、次のように語られた。

 私たちは、移民、難民、避難民、人身売買の犠牲者、そして見捨てられた人々など、最も脆弱な人々の隣に身を置き、偏見や恐れを抱くことなく、共に歩む必要があります。私たちは、誰も排除しない、いっそう包摂的な世界を構築するよう求められています。

 私はこの日を祝っている世界のさまざまな地域のすべての人々と共ににいます。私は、移民と難民を支持するイタリアの司教会議が主導権を発揮するために、ロレートに集まった信徒の方々に挨拶を送ります。私はここの広場に旗を掲げて参加されたさまざまな民族コミュニティに挨拶し、感謝します。イタリアのカリタスの「APRI」プロジェクトの代表者に挨拶します。ローマ司教区の移民局とセントロアスタッリも同様です。寛大なご尽力に感謝します!

 そして、広場を出る前に、チェルニー枢機卿がいるその記念碑に近づき、移民のいるボートに近づき、それらの人々の視線にとどまり、すべての移民が今日持っている希望をその視線で把握することをお勧めします。再び生き始めるために。そこに行って、その記念碑を見てください。私たちは彼らの希望への扉を閉ざしません。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月26日

☩「キリスト教徒の交わりの場は、分け隔てなく、受け入れることで作られる」年間第26主日正午の祈り

File photo of Pope Francis at the AngelusFile photo of Pope Francis at the Angelus  (Vatican Media)

 

*教会においても”閉鎖””偏見”に注意を

 そのうえで、教皇は、現代の教会においても、これと同じような閉鎖的姿勢、偏見に陥らないように警戒するよう、促された。

 「悪魔は、他者をより分け、排除するために疑惑を引き起こそうとする”分割者”です。彼は狡猾に人々を誘惑し、弟子たちと同じように、悪魔を追い出した人たちさえも排除するところまで行かせようとするのです」と語られた教皇は、教会にも、「謙虚で開かれた共同体」ではなく、「自分自身を他者よりも大切に考え、他者を追い払うという罠に陥る可能性がある、と警告。「皆と共に歩く代わりに、他者を判定し除外するための”信徒免許”を持ち歩く」ことを嘆かれた。

 

*イエスは、私たちが何を切り落とすのを願っておられるか

 さらに、教皇は信徒たちに、”巣ごもり”のメンタリティ、”判定”と”仕分け”への誘惑に打ち勝つために、神の恵みを求めるように勧められた。そして、”巣ごもり”の姿勢は、「キリスト教共同体を”交わり”ではなく”分離”の場に変えてしまうことになりかねません。聖霊は”閉鎖”を望まない。誰に対してもオープンで、喜んで受け入れる場を望んでおられるのです」と説かれた。

 また、今日の福音で、イエスは「すべての人を裁いてはならない。自分自身に気をつけなさい」と勧めておられる、とされ、「イエスはこの箇所で、罪を絶つという呼びかけの本質を説明するために、体の部分を切り落とすという印象的な例え(42‐48節)を語られます。イエスの要求は、たしかに、過激で厳しいですが、私たち自身のために、よき医者のように話されている。つまずかせるもの全てを切り捨てることは、私たちがより良く成長し、愛の実を結ぶことができるようにするためなのです」と強調。

 最後に、教皇は私たちの生活をより良くするための招きで、説教を締めくくられた。「最後に質問です。私の心の中で福音に反するものは何ですか?イエスは私の何を切り取るように願っておられますか?」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年9月26日

☩「必要なのは『過去の修復』ではなく、未来を共に見つめ、信仰を再構築することだ」欧州司教協議会理事会創立50周年ミサで

教皇フランシスコ、ヨーロッパ司教協議会理事会総会の開会ミサで 2021年9月23日 バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコ、ヨーロッパ司教協議会理事会総会の開会ミサで 2021年9月23日 バチカン・聖ペトロ大聖堂  (Vatican Media)

(2021.9.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは23日夕、創立50周年を迎えた欧州司教協議会理事会の総会の開会ミサを、バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられ、各国の司教協議会から代表の司教たちが参加した。

 ミサの説教で教皇は、欧州の司牧者のすべき行為として、「心に留める」「再構築する」「見る」という3つの動詞を示された。

 教皇はまず、このミサの第一朗読のハガイ書の箇所ー「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ… 今。お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」ーを引用。

 「バビロン捕囚から帰還した人々が自分たちの住居のことで心配し、神殿の再建を考えなかったように、今日の欧州のキリスト者たちが、『自分の家や教会や、伝統の与える安心感、ある種の合意における満足感など、心地よいシステム』に留まろうとする誘惑にかられる中で、『神殿』の周りから人はいなくなり、イエスは忘れられかねない状態にあります」と警告された。

 「食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく[…]」とハガイ書にあるが、「主が、預言者ハガイを通して『心に留めるように』と、ユダヤの人々に呼びかけるように、『今日の教会に何が欠けているのか』を考えねばなりません」とされたうえで、「私たちの不満の原因は『慈愛の欠如』にあります… 愛だけが心を満足させることができるのです」と強調。

 「教会内の地位や議論、計画にとらわれている間に、私たちは、慈愛の業を深めることや、無償性への情熱といった、『福音』の真のプログラムを見失ってしまいます… 問題や閉鎖から抜け出す道は『無償で与える道』です」と説かれた。

 また、ハガイ書では、「主は、神殿を建てよーご自身の家を再建するように、と、預言者ハガイを通して言われた」とあり、民は神殿を建て直した。教皇は、「欧州という『共通の家』を建て直すには、創建の父たちの先見的な、未来を見つめた視点に立ち帰ることが必要です」されるとともに、「神の家である教会を、より美しく受容的にするために必要なことは、過去を修復することでなく、未来を共に見つめ、福音の告知・寄り添い・証しという基礎の上に教会を再建していくことなのです」と訴えられた。

 そして、「イスラエルの人々が自らの手で神殿を再建したように、欧州でも多くの聖人たちが、自分の小ささを自覚しつつ、神に信頼し、恵みを受け入れ、自分の生活を変えることから始めて、困難な時代の中に信仰を再構築していきました」と振り返られ、「今の欧州では、多くの人が『信仰は、すでに見たもの、過去のもの』と考えていますが、それは彼らが、自分の人生の中で働く『イエスの存在』を見ることができなかった、あるいは、私たちが『自分の生き方を通して、イエスを十分に証しできなかった』からなのです」と自省を込めて話された。

 最後に教皇は、「慈しみ深い、驚くほどの神の愛こそ、福音の永遠の新しさ。言葉だけではなく、生き方を通し、祈りや清貧さや創造性をもって、疲労した欧州を助けて行きましょう」と司教たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月25日

☩「過去への郷愁の行き過ぎは、教会を逆行させる」教皇、スロバキアのイエズス会士との面談で(Crux)

(2021.9.21 Crux Senior Correspondent  Elise Ann Allen

 

  *「旧ラテン・ミサ典礼への執着は、過去への逆行」

  *「決定し前進する時は、忍耐、祈り、そして思いやりが必要」

(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン、南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年9月24日

☩「東欧二か国訪問は『祈り、希望、ルーツへの巡礼の旅』だった」水曜一般謁見で

(2021.9.22 Vatican News By Devin Watkins)

 教皇フランシスコは22日、水曜恒例の一般謁見での講話で先週の東欧二か国訪問を振り返られ、「祈りと希望、ルーツへの巡礼の旅」とされた。

 9月12日から15日に行われた教皇の二か国訪問について、教皇はまず、「共に」と言う言葉で特徴づけられる旅だった、とされ、「それは、教会が「二つの肺」ーラテン典礼とギリシャ典礼ーで呼吸していること、ユダヤ人の共同体、他宗派のキリスト教徒、そして、それ以外の宗教の信者たちと共に歩んでいること、を示していたからです」と語られた。そうしたことから、「今回の訪問は、祈りの巡礼、信仰のルーツへの巡礼、希望の巡礼、と言えます」と説明された。

*聖体と聖母への奉献に心打たれた

 また、今回の訪問ではまず、ハンガリーの首都ブダペストを訪れたが、そこで印象深かったのは「普遍的な教会が、主のいけにえの周りに集ったのを目の当たりにしたこと」とされ、「主日に、神の聖なる民は聖体の神秘の前に集い、聖体によって絶えず力を得、力を取り戻します。集まった信徒たちは、祭壇の上に立てられ十字架ー聖体によって示されたのと同じ方向、すなわち、謙虚で無私の愛、すべての人に対する寛大で敬意のある愛、世俗から浄化され、本質につながる信仰の道、を示す十字架ーに抱擁されました 」と語られた。

 教皇は、「私の祈りの巡礼は、悲しみの聖母の記念のミサで締めくくられ、崇敬と民の信仰で構成された旅となりました。なぜなら、これが、神の民が求められているもの、何よりも、崇敬し、祈り、旅をし、彷徨い、悔い改め、そして、その中に、主が私たちに与えてくださる平和と喜びを感じるもの、だからです」と説かれた。

 

*9世紀まで遡る信仰のルーツに触れる

 続けて教皇は、今回の訪問は、ご自分を「(注:教会の信仰の)ルーツに連れて行く巡礼」だった、とされ、「ハンガリーとスロバキアの司教たちとの出会いにより、9世紀にまで遡るこの地域でのキリスト教の信仰と生活のルーツに触れることができました」、そして、述べられた。

 「いくつかの機会に、私は、このようなルーツが常に生きており、いて、聖霊の働きが、生き生きとしたリンパ液のようにみなぎり、それ自体で保持されるに違いない、ということを主張しました。それは、博物館の展示物のようにではなく、イデオロギー化されたものでもなく、閉じられた自己を固めてしまうための、地位と権力への関心から生み出されたものでもない、と」

*若者たちの目に希望を見た喜び

 さらに、今回の訪問は「希望の巡礼」でもあった、とされ、「子を持つ多くの若いカップルも多く参加したコシツェでの若者たちとの出会いで、彼らの目に希望を見たことが、喜びでした」と語られ、また、「隣人を黙って世話し、心に掛けている多くの人々にも希望を見ました」として、ブラチスラバのホームレスたちを世​​話するMissionary Sisters of Charity のシスターたちにも言及された。

 教皇は最後に、スロバキアとハンガリーの司教と政府、自治体の関係者、そしてご訪問の間の様々な行事に参加した多くの信徒たちに心からの感謝を捧げ、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月22日

☩「シノダリティ(共働性)は教会の本質を表している」教皇、ローマの信徒たちに

Pope Francis meets with the faithful of the Diocese of RomePope Francis meets with the faithful of the Diocese of Rome  (Vatican Media)TOWARDS THE SYNOD

*シノドスの旅の第一段階は

 シノドス・プロセスの最初の段階(2021年10月から2022年4月)は、個々の教区の教会に関するものだが、 「それが、私があなたの司教(ローマ司教)としてここにいる理由。ローマ司教区がこの旅に、確信を持って関わることが極めて重要だからです」とされ、「シノダリティ(共働性)は教会の本質、形、様式、使命を表現している。実際、『シノドス』という言葉には、私たちが理解すべきすべてのものが含まれているーそれは『共に歩く』ということです」と説かれた。

*使徒言行録

 教皇は新約聖書の使徒言行録を、「教会論の最初で最も重要なマニュアル」であり、それは、「エルサレムに始まり、長い旅の後にローマで終わる『道』について語っているからです」。そして、「この『道』は、神の言葉とその言葉に注意と信仰を向ける人々が共に歩むありさまを語っており、誰もが、その主人公なのです。時には、私たちが道を離れたり、方向を変えたり、あるいは、私たちが進むのを押しとどめ、共に動き、歩むのを妨げるような強い思いに打ち勝たねばならない必要があるかも知れません。それでも、誰も『余分な者』とは見なされないのです」と強調された。

 また教皇は、成長するキリスト教徒たちを組織化する中で、特に、貧しい人々の必要なものを提供することで生じる問題がある、とも指摘。問題を解決する方法として、使徒言行録から引用する形で、「弟子たちを集めて、食事や身の回りの世話に奉仕する『ディアコニア』に専念する男性を7人任命することを決めました」と語られた。

*教区の段階で

 話題をシノドス・プロセスに戻された教皇は、「この旅は、洗礼を受けた人々すべての声に耳を傾ける作業が必要なので、教区の段階が非常に重要になる」とされ、「そこには、指導者たちと家来、教える者と教えられる者、という教会のイメージを覆すために抵抗せねばならないことが沢山ある」とされ、「共に歩むことで、その道が”垂直”ではなく”水平”であることが分かります」と、シノドスの旅の意義を示された。

*sensus fidei

sensus fidei(ラテン語で「信仰の感覚」=「司教から最後の信者まで、信仰と道徳の問題で普遍的な同意を表す時の、民全体の信仰についての超自然的な認識」を意味するとされる)は、イエス・キリストの予言的権能についての尊厳をすべての人に与える」とされ、「それは、現在における福音の道が何かを識別するためのものです」とされ、「sensus fideiの行使は、これやあれのテーマ、教義の一側面、あるいは規範に関して私たちが持っているかも知れない意見の伝達と比較に矮小化されてはなりません」と強調された。

*すべての人のために

 続けて「私たちは、神の約束の受け手である『一つの偉大な人々』の一部であることを感じる必要があります。すべての人々のために神が準備された宴に誰もが参加する未来が開かれている」と説かれ、「 『神の民となること』さえ、排他的な特権だ、という考えにとらわれたままの”厳格”で敵対的な解釈学が存在する可能性があることを指摘したい。預言者がその意味を修正された『選び』は、それがどのように正しく理解されるべきかを示しています。『神の民』となることは特権ではなく、誰かがすべての人のために受け取る贈り物、私たちが他の人のために受け取った贈り物、責任なのです」と強く語られた。

 最後に教皇は「シノドスの旅では、『耳を傾けること』は、sensus fideiを考慮に入れる必要がありますが、私たちが期待しないところに具現化されたすべての”直感”を見逃すことのないように。”市民権のない直感”もあるかも知れませんが、それも有効です」とされたうえで、「私がここに来たのは、このシノドス・プロセスを皆さんが真剣に受け止め、聖霊が皆さんを必要としていること伝えるため。自分自身に耳を澄ませることで主の言葉を聴くように、誰一人も置き去りにしないようにしてください。これは、個々の参加しておられる方だけでなく、(注:時間と空間を超えた)教会全体にも当てはまります。仕組みを刷新すること、指示を与えること、黙想し話し合うことだけで、強められはしない。人々が共に歩むことを強く望んでいることに気づいて欲しい。さまざまな人々すべて、状態のすべてを内包するローマの一つの民は、その複雑さの中の大きな豊かさをもっているのです!」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年9月20日

☩「私たちの『成功』は、仕えること、与えるもの、で測られる」年間第25主日の正午の祈りで

Pope Francis greets the faithful from the window of the Apostolic PalacePope Francis greets the faithful from the windowたt of the Apostolic Palace  (Vatican Media)

 教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所に注目され、「イエスは、『自分たちの誰がいちばん偉いか』と言い合っていた弟子たちに対し、厳しい口調で、『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりさい』と言われます(9章33‐35節)。これは、今の私たちにとっても、有効な言葉です」と始められた。

 そして、「『仕える』という考え方は、少しばかり使い古されたように思われるかも知れません。しかし、それは、福音において正確で具体的な意味を持っている。つまり、『仕えるためではなく、仕えるために、この世に来られた、イエスのように振る舞う』ことを意味するのです」と説かれた。

*イエスの「仕える道」を歩む

 続けて教皇は「私たちがイエスに従うことを望むなら、ご自身の歩まれた『仕える道』に従わねばなりません。私たちの主への忠誠は、仕えることへの意欲にかかっています。私たちが仕えれば仕えるほど、神の臨在に気づきます。他の人に仕えるときに、神の愛を発見し、受け入れます」と強調された。

 その意味を弟子たちに分からせるために、イエスは、小さな子どもを彼らの真ん中に立たせ、「私の名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのだ」と説かれる(同36‐37節)。

 教皇は「イエスは、この子どもを『無実』ではなく『小ささ』の象徴として扱っています。私たちが求められている仕える相手は、『小さな者たち』『助けを求めている者たち』、そして『見返りに何も与えることができない者たち』なのです。社会の中で最も困窮し、最も疎外されている人々を進んで受け入れるとき、イエスがそこにおられ、私たちはイエスを進んで受け入れるです」と語られた。

*イエスの呼び掛けに応える

 最後に教皇は、このような福音の教えを受けて、私たちの助けを必要としている人々に本当に関心をもつのか、​、それとも、イエスから注意を受ける前の弟子たちのように、自分自身の個人的満足を求めるのか、自問するように勧められたー「私は『小さな人』に、私に借りを返す手立てのない人に、自分の時間を捧げるだろうか?」と。

 そして、「主の謙遜な僕」である聖母マリアに助けを求める祈りで講話を締めくくられたー「仕えることが、自分自身を小さくすることではなく、成長するのを助けることを、私たちが理解するのを助けてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年9月19日

☩「教会の評判を気にすることで、性的虐待被害者の幸せを妨げてはならない」中東欧の会議にメッセージ

Pope Francis

(2021.9.18 By Vatican News staff reporter)

 中東欧のカトリック教会の代表たちによる「聖職者の性的虐待から未成年者や弱い立場にある大人たちを守る会議」が19日から4日間の予定で、ポーランドの首都ワルシャワで開催されるが、教皇フランシスコは18日、会議にビデオメッセージを送られ、性的虐待問題への対応について、今回の会議などを通じて行われる関係者の努力が、カトリック教会と信徒たちの心に真の、信頼に足る変化をもたらすよう、強く期待された。

 会議は、バチカンの未成年者保護のための委員会とポーランド司教協議会の共催で、「神の子供たちを守る私たちの共通の使命」をテーマにし、この地域の20か国の司教、修道会代表、専門家が参加する。

*真の、信頼に足る変化が必要

 ビデオメッセージの冒頭、教皇は、教会関係者たちによる未成年に対する性的虐待が引き起こした危機に対して、これまで教会が行ってきた対応を振り返り、教会が直面しているこの深刻な危機の適切に対応する方法について議論を深めようとしていることに強い関心を表明。

 まず、教皇が2019年2月に招集した世界司教協議会会長会議でのご自身の講話で、「教会組織への評判に対する誤った懸念を抱くことで、虐待被害者の幸せの回復が妨げられることのないように」と注意を与えられたことを思い起こされた。そして、教会の評判を真っ先に考えるのではなく、 「こうした邪悪な慣行に真摯に向き合い、被害者たちに心からの赦しを求めることによってのみ、教会は、助けを求める人たちが安心して迎えてもらえる場、としての信頼を取り戻すことができるのです 」と強調。

 さらに、「私たちの悲しみの表現は、さらなる性的虐待の発生を防ぎ、他者に信頼してもらえる、真の、信頼に足る変化をもたらす具体的な改革の歩みに変えて行かねばなりません」とされ、「被害者たちの叫びに耳を傾け、お互いに、そして、より広い意味で社会との間で、議論に専心してください。中東欧だけでなく、キリスト教徒の心の将来につながるものとなるように。これは私たちの責任です。このような困難な時代に、責任を感じて努力しているのは、あなた方だけではありません」と参加者たちを激励された。

 

*私たちの過ちを認める

 また、教皇は、「私たちの過ちや失敗と向き合うことで、自分たちが脆弱で壊れやすい存在だと感じる可能性が確かにあります。しかし、過ちや失敗を認めることは、『素晴らしい恵み』であり、『愛と相互奉仕の新しい地平』を開く自我の解放の時、と見なされるべきです。 自分の過ちを認めた時、私たちをそこに導かれたのは主ご自身。ですから、私たちに恐れることは何もありません」と語られた。

 最後に、教皇は、会議参加者たちに「性的虐待の被害者に仕える、主の謙遜な道具」となるよう促され、「自分たちを共通の未来の仲間であり主人公であると考え、お互いから学び、教会が共に未来の課題に向き合うことができるよう、より信仰深く強靭な存在となってください」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年9月19日

☩「『統治は奉仕』を忘れた時、”闇”を経験する」国際的信徒組織の管理者たちに

(2021.9.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコは16日、バチカンのシノドス・ホールで開かれたカトリック信徒による国際的な団体・組織・運動・共同体の管理・調整者の会合に、挨拶を送られた。

 教皇は参加者たちに、「信徒による組織の宣教的な力、その預言的な存在は、未来に希望を与える」と感謝された後、今年6月に教皇庁信徒・家庭・いのち省から発表された「信徒による国際組織をめぐる教令」を取り上げ、その意図を説明された。

 教令は、国際的な信徒団体・組織の責任者らの任期と信任の回数、および責任者らを選ぶ方法やそれを選ぶ人々に関する規則を定めている。「信徒団体の管理・責任を負う者は奉仕のために召されています」とされた教皇は、「権力欲や不誠実さに陥らないように、人々が期待するキリスト教的証しの挑戦からはずれ自分たちだけの世界に閉じこもることがないように」と注意された。

 そして「『統治とは奉仕』という原則を忘れた時、闇を経験することになります」と警告され、「捜査や調査で醜悪な罪が明るみに出され、困難に陥った修道会や団体」があったことを思い起こされた。さらに、「あらゆる悪用の根源は、権力の悪用にあります。組織の病いは、創立者のカリスマが弱まった時にも起きることがある」と指摘され、組織内に生まれる不平等の原因の例として、「責任者たちが、選挙の票と引き換えに何かの約束をしたり、自分だけが創立者のカリスマの真理を保持していると思い込むこと」などを挙げられた。

 教皇は、「組織の健全な運営のために、責任職にある人々や選挙に伴い構成された管理メンバーの交替は、有益で必要なことです」と強調。創立者について、「歴史的存在で堅固な伝統に結びつく創立者」と「健在あるいは近年の創立者」を区別しつつ、「それぞれの立場から創立者のカリスマを再確認し、古い創立者である場合、会則など変更が必要なものは検討し、組織がまだ創立期にある場合は、そのカリスマを吟味し続けることが大切です」と指摘された。

 最後に、「組織が自分たちの中に閉じこもり、安心し、いかなる挑戦も変化も必要ない、と思いこむことがないように」と注意され、「常に歩み、常に識別する姿勢」の重要さを強調された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月18日

☩教皇、帰国途上の機内会見で、妊娠中絶の法制化、ワクチン接種、欧州連合問題、同性婚、聖体拝領問題などについて語る

Pope Francis during the press conference on the return flight from SlovakiaPope Francis during the press conference on the return flight from Slovakia  (Vatican Media)

 (2021.9.16 バチカン放送)

 ハンガリー訪問について、教皇は、ハンガリーの人々の持つ多くの価値の中でも、特にエキュメニズムの持つ深い意味に感銘を受けた、と語られた。

 ハンガリーの首相を主体とした会談では、環境問題が話題に上がり、首相から、どのように河川をきれいにするかの説明を受けたが、ハンガリーの人々の環境問題に対する意識の高さに脱帽する、と述べられた。このほか、国民の平均年齢など、人口統計上の傾向をめぐり、若い人たちの結婚を助ける政策を大統領が説明した、と話した。移民問題はテーマに上らなかったという。

 欧州のキリスト教の印象をめぐり、教皇は、欧州連合は何かをするための集まりではなく、その基礎にはこの構想を夢見た人々の精神がある、と述べ、欧州連合が単なる管理機関になってしまう危険を指摘しつつ、ヨーロッパの根源にある精神性を追求し、それを伝える必要を説いた。

 スロバキアでは新型コロナウイルスのワクチンがキリスト教信者を分裂させているが、ワクチン接種を受けることは愛の行為である、と以前から語られている教皇は、この状況をどう見るか、という問いに対し、教皇は、はしかやポリオなど、ワクチンの恩恵を受けてきた人類の歴史に触れ、ワクチンをめぐる過激な世論は、おそらく不安から来ており、その不安は新型コロナウイルスの大感染だけから来るのではない、と語られ。

  聖体拝領と堕胎をめぐる問題について、米国では人工妊娠中絶の合法化を支持する政治家の聖体拝領を拒むべきか否か、という論争があり、ある司教たちはそうあるべきと言い、ある司教らはご聖体を(政争の)武器のように使うべきでない、と言い、司教の間でも意見が割れているが、教皇は「ここ数年間に公的に誰かに聖体を拒んだことがあるか」との米国記者の問いに、教皇は「誰かに聖体を授けることを拒んだことはこれまで一回もないが、こうした状態にある人が(聖体を拝領に)来たかは知らない」と答えられた。

 人工妊娠中絶について、教皇は「堕胎は単なる問題を超えて、殺人」である、と強調。胎児は一人の命ある人間であり、人間の命は尊重されなければならない、この原則は明確なもの、と話された。

 同性愛者の結婚を認めるかどうか、についてどう考えるか、という問いには、「結婚は一つの秘跡であり、教会は主が制定した秘跡を変える力を持たない」と答えられ、「異なる性的指向を持つ多くの人々の状況を助けようとする法律がある」ことに言及しながら、「国々がこれらの人々を市民的に支援することは重要」とされた。そして、「私たちは兄弟姉妹であるこれらの人々に寄り添い、教会は彼らを助けるが、結婚の秘跡は別の問題」と語られた。

(編集「カトリック・あい」)

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(2021.9.15 Vatican News)

 記者会見での一問一答は次の通り

*欧州連合の理想を忘れず、”イデオロギー的植民地化”に利用されぬように

問:Istávan Károly Kuzmányi(MagyarKurír=ハンガリーのカトリック・メディア)

 ブダペストを訪れていただきありがとうございます。ブダペストで教皇は、「100万人のハンガリー人が祈っているなら、私は未来を恐れません…」と語ったミンツェンティ枢機卿(1892年3月29日 – 1975年5月6日第二次世界大戦後の1945年10月から約28年間、エステルゴム大司教=ハンガリーの首都大司教=を務めた)の言葉を引用されました。なぜ教皇として、今回の東欧2か国訪問の最初に国際聖体大会に参加されたのですか?あなたは欧州のキリスト教をどのように見、私たちハンガリー人はどうすればいいとお考えですか?

答:教皇フランシスコ

 国際聖体大会への参加について、当初はよく理解されていませんでした。「あなたは国際聖体大会の式典のためだけに来て、私たちハンガリー人を訪ねないのですか」と。中には悪く考える人もいましたが、私は、その人たちにこう説明しました。「そうではありません。以前から考えていたのですースロバキアを始め他の国を訪問するということでしたが、あなたの国の大統領にお会いすると約束しました。彼に合うのは三回目でしたが、来年かその後にまた来れるか考えます、と約束しました。それは、ハンガリーの人たちには非常に多くの価値観があるからです。たとえば、あなた方は、とても奥深いエキュメニズムの感覚をもっておられます。そのことに私は感銘を受けています。

 欧州についてですが、私がいつも申し上げているのは、「欧州は、欧州連合の生みの親たちの夢を再認識しなければならない」ということ。欧州連合は事を成すための集まりではありません。欧州連合の背景には、シューマン、アデナウアー、デ・ガスペリなど偉大な人々の精神があります。ただの”管理事務所”であってはなりません。欧州のルーツを求めて、神秘主義に向かって、着実に前進する必要があります。欧州のすべての国が前進せねばならない、と思います。欧州連合を”イデオロギー的植民地化”に利用しようという考えが存在するのは確かです。おそらく欧州外の日との考えでしょうが、良くないことです。欧州連合は自立した存在でなければならず、偉大な生みの親たちの刺激を受けて、すべての国が独立している必要があります。これが私の考えです。

 

*新型コロナワクチン接種ー感染し治療を受けた反対派枢機卿もいる

 

問:Bohumil Petrik (Dennik Standard)=スロバキアのメディア)

 新型コロナ・ワクチンのVワクチン接種を巡ってキリスト教徒が割れています。スロバキアでもです。教皇は、「ワクチン接種を受けるのは、愛の行為です」と言われています。それでは、接種を受けない人がいたら、どうおっしゃいますか?接種を受けない人は、差別されているように感じています。教区によって、この問題への対応が違っています。今回のあなたのスロバキア訪問に当たっても、当初、接種を受けた人だけが、行事に参加できる、とされていて、後になって、接種していなくでも、検査で陰性なら参加してもいい、と改められました。この問題についてどのようにお考えですか?

答:教皇フランシスコ

 これは重要な問題です。ちょっと変でもありますね?なぜかと言えば、人類はこれまでワクチンとは友好な関係の歴史をたどってきたからです。私が子供だった頃、はしかやポリオが流行し…子供たちは皆、ワクチン接種を受けました。誰も「いやです」とは言いませんでした。(注:新型コロナ・ワクチンの接種を巡って問題が起きているのは)おそらく、接種による副反応と不確かだ、というのが理由になっているのでしょうー新型コロナ感染に関して、様々なワクチンがあること、ワクチンの中に感染防止に役立たず、蒸留水とあまり変わりがないものがある、という評判などです。

 それが、人々を怖がらせています。そして、ワクチンに含まれるウイルスが危険だ、という人もおり、多くの議論が起きて、人々の間に分裂をもたらしています。枢機卿団の中にも“反ワクチン派”がいますが、そのうちの一人が、可哀そうなことに新型コロナに感染して、治療を受けました。人生は皮肉なものです。私は良く説明できないのですが、ある人は、十分な検査を受けず、怖がっているのは、ワクチンの余って来るところが違うからだ、と言いますが、この問題については、明確にし、誠実に語ることが必要です。ちなみに、バチカンでは、どのように助けたらいいか検討中の少数の人を除いて、全員がワクチン接種を受けています。

*”人口の冬”が心配、若者、子供たちは未来の希望

問:Daniel Verdú Palay (El Pais=スペインのメディア)

 教皇は12日に、ハンガリーのオルバン首相(移民反対の強硬派)とお会いになりました。教皇は、移民問題や欧州問題、ナショナリズムの問題などで、彼と意見を異にしている、と言われていますが、会談はどのようなものだったのでしょうか?。教皇の側から、最近のアフガニスタン危機で最重要問題に再浮上している移民問題に触れられましたか?また、首相が施行した同性愛に関する法律についてどうお考えですか?また、首相に、「キリスト教のハンガリーを死なせないように」と求められた、と聞いていますが?最近の教皇の言動から、時としてキリスト教的な価値を殺してしまう政策が存在しているように思われるのですが?

答:教皇フランシスコ

 私は首相とお会いしました。首相がおいでになったからです。彼は礼儀正しく、親切でした。お会いしたのは三度目で、大統領や副首相と一緒に来られましたが、話されたのは首相でした。 話された最初のトピックはーそれが会談の大半を占めましたがー環境問題でした。私は、あなた方ハンガリー人の環境に対する良心に脱帽しています。首相は、どのようにして河川を浄化しているか説明されました。私の知らなかったことです。

 それから、私から、ハンガリーの平均年齢について聞きました。なぜなら、私は”人口の冬”を心配しているからです。イタリアの平均年齢は確か47歳前後で、スペインはもう少し若かったかもしれませんが、多くの村で住む人はいなくなり、いてもわずかなお年寄りです。これは深刻な問題です。どのようにしたら解決できるでしょう?首相は私に説明しましたー私の国の法律は若い人たちが結婚し、子供をもつことを支援しています、と。これは興味があります。法律…フランスでも似たような、もっと進んだものがあるようです。だから、フランスではスペインやイタリアのような悲劇が起きていない… このことについて、法律の内容などについて、技術的な説明が、ハンガリー側からありました。

 そのほかのテーマとしては… 移民問題は話題になりませんでした。話題は環境問題に戻り、それと、私が尋ねた意味での「家庭の問題」。何と多くの若い人々、子供たちがいることか。スロバキアでも、私は、とても多くの子供たち、若い夫婦がいることに驚きましたー未来は明るいのです。

 それと直面する課題としては「雇用」です。 でも「外国に出る」ことを彼らは考えません。仕事が見つからないなら、外国に仕事口を見つけに行くことになるのですが。首相は、会談の間中、話しました。他の閣僚はいくつかの関係するデータを見せてくれました。会談は35分ないし40分ほどだったでしょうか、良い雰囲気で行われました。

 

問:Gerard O’Connell (America Magazine=イエズス会発行のメディア):

 まず、手術が素晴らしい効果をもたらしたことを私たちは皆、喜んでいます、あなたは若返りました!

答:教皇フランシスコ

 私に「誰かが手術を受けたいと言っています」と言う人がいました。それが誰か知りません… でも、(注:私の受けた手術は)は美容のためのものではありませんでしたよ!

問:O’Connell

 あなたは「私たちは皆、罪人であり、ご聖体は完璧な人への”報酬”ではなく、弱い人のための”薬””食べ物”だ、とよくおっしゃいます。ご存知のように、米国では、特に先の大統領選やその他の選挙の後、いや2004年以降、妊娠中絶を支持する法律と女性の選択権を支持する政治家にご聖体を授けることに、司教の間で議論がありました。そして、(注:カトリック教徒である)バイデン大統領や政権幹部のご聖体を授けたくない司教たちもいます。それに反対する司教もいれば、「聖体を武器として使う必要はない」と言う司教もいます。このような事態についてどう思われますか?司教たちに、どう助言されますか?また、教皇ご自身は、司教として、過去に、このような人にご聖体を授けるのを公に拒否したことがありましたか?

答:教皇フランシスコ

 

*聖体拝領は完璧な人への報償ではない

 

 いいえ、私は誰に対しても、ご聖体を授けるのを拒否したことはありません。そのような方が来られたか分かりませんが、お断りしたことは一度もない。誰に対してもです。司祭としてそうするのです。絶対に拒否はあり得ません。あなたが言われるような方が前に来て、それに気づいたこともない。本当です。

 少しばかり、興味深い経験がありました。ある老人ホームにミサを捧げに出掛け、そこの居間にいた時のことです。私が「ご聖体をいただきたい方は、手を挙げてください」と言うと、全員が拝領を希望されました。そして、あるご婦人にご聖体を授けた時、彼女は私の手に取って、「ありがとう、神父さま。ありがとう。私はユダヤ人です」と語りかけたので、「大丈夫、私があなたにお授けした方も、ユダヤ人ですよ」と答えました。彼女はまず、ご聖体を拝領し、その後で、そのように言ったのです。

 聖体拝領は完璧な人に与えられる報償ではありません。そうでしょう?この問題に関連して、ポール・ロワイヤル修道院(パリシトー会女子修道院1634年に、ジャンセニズムの創始者、ヤンセニウス司教の盟友であるジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌが修道院の霊的指導者となった時から、付属の神学校のほとんどがジャンセニスムの神学校となった)、アンジェリック・アルノー(19世紀のフランスの小説家で男女同権主義者)、ジャンセニズム(信仰上人間の自由意志よりも神の恩恵を重視するアウグスティヌス思想を実践しようとして、17、18世紀にフランスを中心に展開された宗教運動。当時のカトリック教会から異端とされた)のことを考えてみましょうー完璧なものがご聖体を受けることができる、(と主張しました)。

 ご聖体は賜物、贈り物です。教会と教会共同体におけるイエスの現存です。これが神学です。そうすると、お話ししたご婦人のように教会共同体に所属していない方はご聖体を受けることができないことになりますが、主は、私が知らないうちに彼女に報いることをお望みになったのですー共同体から出されたー破門された人たちがいます。厳しい言い方ですが、彼らは共同体に属していない、それは、洗礼を受けていないか、何らかの理由でバプテスマを受けていない、あるいは共同体から何らかの理由で離れてしまったから。

*妊娠中絶は殺人、”殺し屋”を雇うのは正しくない

 もう一つのご質問。妊娠中絶の問題です。これは殺人です。妊娠中絶は… はっきりしていますー中絶をした人は誰でも、人を殺すのです。医学部の学生用の発生学(の発生を研究する学問)に関する本を手に取ってください。そこには、受胎して3週目から、多くの場合、妊婦が妊娠したと気付く前に、すべての臓器がすでに出来ており、DNAさえも伝えられている…と書いてあります。それは人ではありませんか?人の生命なのです。この人の命には敬意が払わられねばなりません。この原則は非常にはっきりしています。

 それが分からない方には、質問を二つします。第一に、問題を解決するために人間の命を奪うのは正しいことですか?科学的に、それは人間の命なのです。

 二つ目の質問です。問題を解決するために”殺し屋”を雇うのは正しいことですか?私はこれをジョルディ・エヴォル(スペインのジャーナリスト、脚本家)に対して公けに語り、COPE(英国の本部を置く国際出版倫理委員会)に伝えました。何度でも言いたかった… .そしてそれで十分です。変な質問をしないでください。科学的に、それは人間の命なのです。医学書はこれを説明しているのです。

 改めてお尋ねします。問題を解決するために人の命を捨てるのは正しいことですか?正しくない、と確信するから、教会はこの問題に非常に熱心に取り組んでいるのです。教会がこれ(妊娠中絶)を認めたら、日々の殺人を認めることになります。ある国の指導者は、私に、「人口減少は、彼ら(妊娠中絶者)によって始まった、(人口構成に)年齢差が生じている」と言いました。なぜなら、その国には、何年間かで600万人の妊娠中絶がされたほど強力な中絶法があったからです。その国の社会に大きな沈下が起きました。

*聖体拝領問題ー司教たちは「司牧者」でなく「政治的」に対応してきた

 ここで、教会共同体に属さない人、教会共同体の外にいるために聖体拝領ができない人の問題に戻りましょう。これは罰ではありません。外にいるのです。ご聖体を受けることは、あなた自身を共同体に結びつけます。でも、問題は神学的な問題ではありません。司牧上の問題です。私たち司教が、この原則を司牧上、どのように扱うかです。

 そして、教会の歴史を見ると、司教たちが「司牧者」としてではなく、問題に取り組むたびに、「政治的問題」として「政治的」に振るまっていたことが分かります。

 聖バーソロミューの夜(注:聖バーソロミューの虐殺とも呼ばれる。 1572年8月 23日から24日にかけて,サン=バルテルミの祝日にフランスのパリで起きたカトリックによるユグノー (プロテスタント) の人々の組織的大虐殺事件)について考えてみてくださいー「異端者たち、そうです。それは深刻な異端です… 彼らの喉をすべて切りましょう…」。いいえ、それは政治的な問題です。

 ジャンヌ・ダルクについて考えてみましょう。魔女狩りについて考えてみましょう。カンポ・デ・フィオリやサヴォナローラ(注:ジローラモ・サヴォナローラ  1452年9月21日 – 1498年5月23日。 イタリア・フェラーラ生まれのドミニコ会修道士。当時のフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民の支持を得たが、教皇の意向による裁判で有罪とされ絞首刑の後、火刑に処せられた)など、すべての人々について考えてみましょう。

 教会が非司牧的な方法で原則を擁護するとき、政治的な行動になります。そして、いつも繰り返されて来ました。歴史を見てください。司牧者は何をすべきでしょう?「司牧者」であることです。司牧者であり、断罪して回ってはなりません… 彼は破門された人たちの司牧者でもあるのですか?そうです。彼は司牧者であり、破門された人と共にある司牧者、神のなさり方に倣う司牧者であらねばなりません。神のなさり方は、親しさ、思いやり、そして優しさです。

 聖書全体がそのように語っています。申命記で、主はイスラエルの人々に、こう語りかけておられます。「言ってみよ。どの民に、私があなた方に親しく接するような神々がいるのか」と。親しさ、思いやりーエゼキエル書で、ホセア書で示されているように、主は私たちに思いやりを持っておられます。優しさは最初からありました。福音書やイエスのことを少し見るだけで十分です。

 神のなさり方に倣う方法を知らない司牧者は、足を滑され、司牧的でないことを沢山します。あなたは米国のことを話されましたが、私には米国のことを詳しく知らないので、具体的なことは申し上げたくありません。原則を申し上げましょう。

 あなたは私にこう尋ねるかも知れませんー「でも、あなたが人に親しく、優しく、そして思いやりがあるなら、その人にご聖体を授けるのですか?」と。これは仮定の質問です。司牧者でありまさい。司牧者は自分がいつも何をすべきか知っています。でも、教会の司牧から出てしまうと、たちまち”政治家”になってします。

 これは、すべての非難に見られることです。カトリック教会が行うすべての非司牧的な非難に… 諸原則を守り、司牧者はうまく立ち振る舞うべきだ、と私は思います。諸原則は神学から取られています。司牧的な教会運営は神学であり、このやり方であなたが立ち振る舞うように導かれる聖霊です。

 神はー私はあえてここまで申し上げます。あなたが「ご聖体を授けることができますか、できませんか」と尋ねるとしたら、これは、神学者が言う「決疑論」(注:カトリック倫理神学の用語。宗教または道徳の規範を個々具体的な行為や良心の問題にあてはめる方法のこと=「岩波キリスト教辞典」)です。あなたは覚えておられますか? 私が出した使徒的勧告「Amoris laetitia (家族における愛の喜び)」が巻き起こした”嵐”のことをー離婚した夫婦に寄り添うことに言及した章について、です。異端だ、異端だ!神のおかげで、偉大な神学者であるシェーンボルン枢機卿がおられました。彼は問題を明確にしてくれました。しかし、この方な非難はいつもあります。破門はたくさんです。これ以上、破門をしないようにしましょう。貧しい人たち、彼らは神の子供であり、私たちの牧歌的な寄り添いを求め、必要としています。司牧者は、御霊の言葉に従って、物事を解決するのです。

 

*反ユダヤ主義の”流行”は醜いこと

問:Stefano Maria Paci (Sky Tg 24=イタリアのテレビ局):

 13歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられたユダヤ人作家のエディス・ブラック女史から昨日夕方、メールがありました。彼女は、私が今回の東欧二か国歴訪に同行することを知っていたのです。教皇は、彼女に会うためにローマの中心にある自宅においでになったことがあります。メールは「あなたの姉妹、エディス」と署名のある長文で、教皇が今回の東欧二か国訪問中に繰り返し、反ユダヤ主義を批判されたことに、感謝し、「親愛なる教皇フランシスコ、今も根絶されていない反ユダヤ主義についてのあなたの言葉は、訪問国だけでなく、欧州全体で、これまで以上に重みをもっています」と書いていました。

答:教皇フランシスコ:

 ご指摘の通りです。反ユダヤ主義は流行になっており、復活しています。それは醜い、醜い、醜いことです…。

*同性婚を法的に認める傾向についてー結婚の秘跡はあくまで男女カップルに

問:同上

 家族についての質問です。教皇は、この問題についてハンガリーの政治指導者たちと話されました。そして、昨日のスロバキアでの若者たちとの集いのあいさつでも、取り上げられました。欧州議会が加盟国に同性婚と親子関係を認めるよう求める決議した、昨日伝えられました。これについてどう思いますか?

 

答:教皇フランシスコ

 私はこれについて、はっきり申し上げています。そうでしょう?結婚は秘跡です。秘跡は主が定められ、教会には変える力がありません。性的指向が異なる多くの人たちの置かれた状況を改めようとする法律があり、これが重要なことですが、そうした人たちが助けを受けることができる、と言うことですが、義務を課さなくとも、それは自然なことですー教会に入らないように。

 彼ら同性愛カップルが、生活を共にしたい、と希望するなら、国は彼らを支援し、相続、医療などを保障することが可能ですが… フランスには、同性愛者だけでなく、交際を希望するすべての人たちのための法律があります。秘跡としての結婚についての判断ははっきりしています。フランスの民法では…たとえば、医療保健サービスを受け、彼女たちの間で相続できる法律によって、一緒になることを希望する3人の未亡人がいるとすると、そうします。

 詳細は知りませんが、同性愛カップルとは関係がありません。同性愛者のカップルがその法律を使うおうと思えば使えますが、秘跡としての結婚は男性と女性の間でなされるものです。私が良く申し上げているように、混乱が生じます。すべての人は平等であり、敬意を払わねばなりません。主は善い方で、すべての人を救うことでしょうーこれを大声で言わないでください(笑)。主はすべての人が救われることを望んでおられますが、教会に真理を否定させないでください。同性愛志向の多くの人たちが、司祭助言を求め、赦しの秘跡を受けようとすれば、教会は彼らの生活が前を向いて進むのを助けます。ただし、結婚の秘跡は別のものです。

 (会見の最後に、教皇は次のように語られた。)

 皆さんに感謝します!あなた方の一人について何か素晴らしいことを知りたいですか?休暇を取る前にこれを fioretto(小さな花)として残します。このジャーナリストは24時間仕事をすることができますが、いつも他の人を先にし、自分はその後を進みます。いつも他の人に話しをさせ、自分は黙っている、と言われています。ジャーナリストについてこのように言うことは、どれほど素晴らしいか。そしてこれはマヌエル・ベルトラン(スペインハエン出身の自転車競技選手?ドーピング検査で繰り返し陽性となり、出場禁止処分などを受けている)が、私たちのエバ・フェルナンデス(スペインのジャズシンガー)について語っていることです。ありがとうございました!

(翻訳・編集「カトリック・あい」)南條俊二)

2021年9月16日

☩「マリアの歩みに倣うように」教皇、東欧二か国訪問の最後のミサで「悲しみの聖母」を記念して

 教皇フランシスコは15日午後、スロバキアの首都ブラチスラバ郊外のサスティンの巡礼聖堂に面した広場で、今回の東欧二か国訪問、スロバキア訪問の最後のミサを「悲しみの聖母」の記念として捧げられ、全国から集まった6万人を超える司教、司祭、一般信徒にスロバキアの人々に、聖母マリアの歩み、預言的で、慈しみに満ちた方に倣うように促された。

(2021.9.15 バチカン放送)

 スロバキアでは9月15日に、国民の祝日として「聖母の七つの御悲しみ(悲しみの聖母)」の日を記念する。教皇は、同日午前、スロバキア訪問の最後の公式行事として、西部サスティンの「聖母の七つの御悲しみ巡礼聖堂」に面した広場でミサを捧げられた。

 サスティンに到着した教皇は、「悲しみの聖母」像の前で司教団と共に祈った後、ミサのために聖堂前の広場に集った6万人の信者たちに、特別車「パパモービル」の上から祝福をおくられた。ミサには、90人の司教、500人の司祭が参加した。

 ミサの説教で教皇は、スロバキアの信者たちに信仰の模範として聖母マリアを示され、聖母の信仰に「歩み」「預言」「憐み」の3つの特徴を指摘された。

 「マリアの信仰は『歩む信仰』。その全生涯は、御子イエスの一番弟子として、イエスの後を十字架の下まで歩んでいくものでした」と話された。また、「マリアの信仰は預言的でもありました」とされ、「ナザレのおとめは、世の論理をくつがえし、謙遜な者たちを高く上げ、高慢な者たちを引き下ろす、歴史の中で働く慈しみ深い神の御業の預言だったのです」と説かれた。

 さらに、教皇は、「マリアは憐みのシンボル」とされ、「自らを『主のはしため(注:「聖書協会・共同訳」では「主の仕え女」)』と呼んだマリアは、御子の救いの使命を分かち合い、カルワリオの耐え難い苦しみを経験しながらも、苦しみから逃げることなく、御子において神が苦しみを変容し、死に勝利することを信じて、御子の十字架の下に留まりました」と話された。

 教皇は説教の最後に、「スロバキアの人々の信仰が、常に歩み、預言的な息吹を帯び、憐みに満ちたものとなるように」とその恵みを聖母に祈られた。

こうして、4日間にわたるスロバキア訪問を終えられた教皇は、ブカレストの空港から、帰途に就かれた。

 (編集「カトリック・あい」)

2021年9月15日

☩「”仮の状態”を好む文化に対抗し、自分のすべてをもって愛することは真の革命」ースロバキアの若者たちに

(2021.9.14 バチカン放送)

 スロバキア訪問中の教皇フランシスコは14日、東部コシツエの競技場で、全国から集まった2万5千人以上の若者たちとの集いに出られ、歌や演奏、歓呼の声で迎えられた。

 集いでは、第二次世界大戦中、貞潔を守るためにソビエト兵に抵抗し、殺された福者アンナ・コレサロヴァ(おとめ殉教者、1928-1944)が思い起こされた。福者アンナは、2018年9月にこの競技場で列福式が行われている。

 また、代表の若者たちがそれぞれの信仰体験を語り、教皇の助言を求めたが、ある若い夫婦は、「2人が出会った頃、福者アンナ・コレサロヴァの墓に一緒に巡礼に行った」というエピソードを語り、「福者アンナのおかげで、貞潔の価値を再発見し、婚約中もその価値を守りました」としたうえで、「今日の若者たちが貞潔な愛の価値を信じるにはどうしたらいいのでしょうか」と教皇に尋ねた。

 これに対して、教皇は、「愛は人生で最も大きな夢であり、素晴らしいものですが、決して容易ではない。見かけにとらわれない、新しい眼差しが必要です」とされ、「愛を、ありきたりのものにしてはいけません… なぜなら、愛は、情熱や感情だけではなく、忠実、恵み、責任でもあるからです」と説かれた。

 また教皇は、「一時の”仮の状態”を好む今日の文化に対抗して、一生を賭けて自分のすべてをもって愛することは、真の革命ともいえること」と語り、「イエスの十字架に、無限の愛と、最後まで自分の命を与え抜く勇気を見つめるように」と勧められるとともに、福者アンナを、「私たちに、高きを目指すよう呼びかける愛の英雄」として示された。

 ある若い女性は、「告解の体験を通して人生が変わりました」とし、「その時、イエスが十字架に掛けられたのは、自分のためだ、と言うことが分かりました」と振り返った。そして、「どうしたら、若者たちが、神の慈しみに顔を向けることができるでしょうか」と質問。

 これに対して、教皇は、若者たちに「皆さんが告解に行く時に、何を考えていますか」と問いかけた。

 そして、「きっと皆さんは告白すべき罪のことを考えているでしょう。だが、赦しの秘跡の中心にあるのは罪でしょうか。中心にあるのは、罪ですか、それともすべての罪を赦される御父ですか」と尋ねつつ、「懲らしめを受ける者のように告解に行くのではなく、御父の抱擁を受けるために、駆け寄る子のように行くべきです」と説かれ、「神は、私たちをあらゆる状況から引き上げ、私たちのすべて罪を赦してくださいます」と、若者たちを勇気づけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月15日

☩「キリストの十字架上の死は、誰もが苦しみや闇や孤独の中で神と出会えるため」ースロバキアで 「十字架称賛の祝日」のミサ

(2021.9.14 バチカン放送)

 東欧2か国歴訪中の教皇フランシスコは14日、スロバキア東部、プレショフ市内のスポーツ施設で、十字架称賛の祝日のミサを捧げられた。

 プレショフには、ギリシャ(ビザンチン)典礼カトリック教会のエパルキア(教区)が置かれており、ミサはビザンチン典礼の伝統豊かに厳かに行われた。ミサでははじめに十字架の崇敬が行われた。

 説教で教皇は、十字架にキリストの愛を「見つめ」、それを「証しする」者となるように、と勧められ、聖パウロのコリントの信徒への手紙を引用する形で「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます …  神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1・1章23-24節)と語られた。

 そして、「聖パウロはこのように宣言する一方で、十字架が、人の知恵には『つまずかせるもの』『愚かなもの』(同1章23節参照)であることを隠しません。十字架は死の道具だが、命はそこからやって来る。十字架は誰も見たくないものであるにもかかわらず、私たちに神の愛の素晴らしさを啓示するものなのです」と指摘。

 十字架の下に居て、亡くなられたイエスを見た福音記者ヨハネは、その出来事を伝えながら「それを目撃した者が証ししている」(ヨハネ福音書19章35節)と記しているが、教皇は「聖ヨハネのように、十字架を『見つめ』『証しする』ことの大切さ」を強調された。

 さらに、「十字架を『見つめること』。それでは、聖ヨハネは十字架の下で何を見つめたのでしょうか? 世の目にとって、十字架は『敗北』ですが、聖ヨハネは十字架の中に神の御業を見つめ、十字架上のキリストに神の栄光を認めまたし。彼は、人間のために進んで自らを与えられる神を、そこに見たのです」とされた。

 そして、「神が、十字架に掛けられて死ぬことはあり得ない、ふさわしくない、と思われます… それでも、神が、あえて人間の惨めさの極みに入ることを選ばれたのは、地上で絶望した人誰もが、その苦しみや闇や孤独の中で、神と出会うことができるように、と望まれたからなのです」とされ、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 (マタイ福音書27章46節; 詩編 22章1節)というイエスの叫びは、「私たちの苦しみを引き受けられることで、救いの叫びとなりました」と語られた。

 また教皇は「十字架に神の栄光を見つめることを学ぶためには、どうしたらいいのでしょうか?」と問いかけられ、「ある聖人たちは、十字架を『一冊の本』にたとえています。『本』に何が書かれているか知るには、開いて、読まなくてはならない。十字架も、買って来て、家に掛けたり、身に着けたりするだけでは駄目。十字架の前に立ち止まり、見つめ、心を開き、私たちの愛のために傷つかれた神に心動かされねばなりません」と説かれた。

 そして、「十字架を観想することは、次の一歩をもたらします。それは『証しする』ことです。イエスを深く見つめるなら、イエスの御顔は私たちの顔に反映され、イエスの考えは私たちのものとなり、イエスの愛は私たちをとらえ、私たちを変容させるようになる」と話された。

 最後に教皇は、「スロバキアの歴史の中で、困難を極めた時代にもキリストの愛を証しし、信仰を表した殉教者たち」を思い起こされ、「今日、社会の状況は変わっても、十字架は、明確な信仰の証しを私たちに求めているのです」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月15日

☩「人への冒涜は神の御名に対する冒涜だ」-ブラチスラバのホロコースト追悼碑の前で

(2021.9.13 バチカン放送)

 スロバキアを訪問中の教皇フランシスコは13日午後、首都ブラチスラバ市内のホロコースト犠牲者追悼モニュメントの前で、ユダヤ人共同体との出会いを持たれた。

 モニュメントは、ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺)の犠牲となったスロバキア出身の10万5000人以上のユダヤ人たちを記憶にとどめるために、かつてのシナゴーグ(1969年、共産政権によって取り壊された)があった場所に建立された。ブラチスラバは世紀にわたりユダヤ人の生活の重要な中心地だったが、1940年の時点で同市に住んでいた約1万5000人のユダヤ人のうち、大虐殺を生き延びた人々はわずか約3500人だった。

 13日の集いでは、ホロコーストの一人の生存者が、家族と共に体験した恐ろしい悲劇を振り返ると同時に、当時、いかなる政治家でさえも政権に表立った批判ができなかった中で、教皇庁の外交官が反ユダヤ政策を止めようと尽力していたことを証言。また、聖ウルスラ修道会の修道女は、迫害のさなか、同修道会がユダヤ人の子どもたちをかくまい、国外に逃がしていたことが、生存者たちの証言によって明らかにされた、と語った。

 教皇は、「歴史と記憶の場所、苦しみの場所に触れるとともに、心に触れられるために、巡礼者として訪れました」とされ、「神の似姿に造られた人間の尊厳を冒涜することは、神の御名に対する冒涜です。すべての暴力とあらゆる形の反ユダヤ主義を非難し、人間において神が冒涜されることがないよう、一致して取り組みましょう」とと呼びかけられた。

 集いの終わりに、ユダヤ教の祈りが唱えられる中、ホロコーストの犠牲者を思い起こすために、ろうそくに火が灯された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月14日

☩「教会は高い所から世界を見下ろす砦ではない」スロバキアの聖職者たちに

(2021.9.13 バチカン放送)

 スロバキアを訪問中の教皇フランシスコは13日午前、首都ブラチスラバのカテドラルで、司教、司祭、修道者たちスロバキアのカトリック教会関係者たちと集いを持たれた。

 同国のカトリック信者は約339万人で、全人口のおよそ73.7%を占め、12の教区がある。

 教皇は参加者への言葉で、ブラチスラバの美しい城に触れつつ、「教会は高い所から世界を見下ろす砦のようなものであってはなりません」と説かれ、「教会は福音の喜びを通して人々をキリストへと惹きつけることを願う共同体。世俗的な偉大さへの誘惑に陥ることがないように」と注意された。

 そして、世界や生活から距離を置くことなく、その中に住む教会、分かち合い、共に歩み、人々の問いや希望に耳を傾ける教会の姿を示された教皇は、「教会の中心は、教会ではありません」と言明され、スロバキアの教会が「自由を証しし、創造性をもって、対話のうちに歩む」ことを希望された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月14日