(2021.9.19 Vatican News By Christopher Wels)
教皇フランシスコは19日、年間第25主日の正午の祈りの説教で、「仕える」をテーマに取り上げられ、「私たちが他者に”仕える”とき、神は私たちを抱擁してくださいます」、そして、 「私たちの『偉大さと成功』は、『社会的地位、肩書き、富ではなく、仕えること』によって、『自分が持っているものではなく、他者に与えるもの』によって、測られるのです」と語られた。
教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所に注目され、「イエスは、『自分たちの誰がいちばん偉いか』と言い合っていた弟子たちに対し、厳しい口調で、『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりさい』と言われます(9章33‐35節)。これは、今の私たちにとっても、有効な言葉です」と始められた。
そして、「『仕える』という考え方は、少しばかり使い古されたように思われるかも知れません。しかし、それは、福音において正確で具体的な意味を持っている。つまり、『仕えるためではなく、仕えるために、この世に来られた、イエスのように振る舞う』ことを意味するのです」と説かれた。
*イエスの「仕える道」を歩む
続けて教皇は「私たちがイエスに従うことを望むなら、ご自身の歩まれた『仕える道』に従わねばなりません。私たちの主への忠誠は、仕えることへの意欲にかかっています。私たちが仕えれば仕えるほど、神の臨在に気づきます。他の人に仕えるときに、神の愛を発見し、受け入れます」と強調された。
その意味を弟子たちに分からせるために、イエスは、小さな子どもを彼らの真ん中に立たせ、「私の名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのだ」と説かれる(同36‐37節)。
教皇は「イエスは、この子どもを『無実』ではなく『小ささ』の象徴として扱っています。私たちが求められている仕える相手は、『小さな者たち』『助けを求めている者たち』、そして『見返りに何も与えることができない者たち』なのです。社会の中で最も困窮し、最も疎外されている人々を進んで受け入れるとき、イエスがそこにおられ、私たちはイエスを進んで受け入れるです」と語られた。
*イエスの呼び掛けに応える
最後に教皇は、このような福音の教えを受けて、私たちの助けを必要としている人々に本当に関心をもつのか、、それとも、イエスから注意を受ける前の弟子たちのように、自分自身の個人的満足を求めるのか、自問するように勧められたー「私は『小さな人』に、私に借りを返す手立てのない人に、自分の時間を捧げるだろうか?」と。
そして、「主の謙遜な僕」である聖母マリアに助けを求める祈りで講話を締めくくられたー「仕えることが、自分自身を小さくすることではなく、成長するのを助けることを、私たちが理解するのを助けてください」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)