☩「キリストの十字架上の死は、誰もが苦しみや闇や孤独の中で神と出会えるため」ースロバキアで 「十字架称賛の祝日」のミサ

(2021.9.14 バチカン放送)

 東欧2か国歴訪中の教皇フランシスコは14日、スロバキア東部、プレショフ市内のスポーツ施設で、十字架称賛の祝日のミサを捧げられた。

 プレショフには、ギリシャ(ビザンチン)典礼カトリック教会のエパルキア(教区)が置かれており、ミサはビザンチン典礼の伝統豊かに厳かに行われた。ミサでははじめに十字架の崇敬が行われた。

 説教で教皇は、十字架にキリストの愛を「見つめ」、それを「証しする」者となるように、と勧められ、聖パウロのコリントの信徒への手紙を引用する形で「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます …  神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1・1章23-24節)と語られた。

 そして、「聖パウロはこのように宣言する一方で、十字架が、人の知恵には『つまずかせるもの』『愚かなもの』(同1章23節参照)であることを隠しません。十字架は死の道具だが、命はそこからやって来る。十字架は誰も見たくないものであるにもかかわらず、私たちに神の愛の素晴らしさを啓示するものなのです」と指摘。

 十字架の下に居て、亡くなられたイエスを見た福音記者ヨハネは、その出来事を伝えながら「それを目撃した者が証ししている」(ヨハネ福音書19章35節)と記しているが、教皇は「聖ヨハネのように、十字架を『見つめ』『証しする』ことの大切さ」を強調された。

 さらに、「十字架を『見つめること』。それでは、聖ヨハネは十字架の下で何を見つめたのでしょうか? 世の目にとって、十字架は『敗北』ですが、聖ヨハネは十字架の中に神の御業を見つめ、十字架上のキリストに神の栄光を認めまたし。彼は、人間のために進んで自らを与えられる神を、そこに見たのです」とされた。

 そして、「神が、十字架に掛けられて死ぬことはあり得ない、ふさわしくない、と思われます… それでも、神が、あえて人間の惨めさの極みに入ることを選ばれたのは、地上で絶望した人誰もが、その苦しみや闇や孤独の中で、神と出会うことができるように、と望まれたからなのです」とされ、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 (マタイ福音書27章46節; 詩編 22章1節)というイエスの叫びは、「私たちの苦しみを引き受けられることで、救いの叫びとなりました」と語られた。

 また教皇は「十字架に神の栄光を見つめることを学ぶためには、どうしたらいいのでしょうか?」と問いかけられ、「ある聖人たちは、十字架を『一冊の本』にたとえています。『本』に何が書かれているか知るには、開いて、読まなくてはならない。十字架も、買って来て、家に掛けたり、身に着けたりするだけでは駄目。十字架の前に立ち止まり、見つめ、心を開き、私たちの愛のために傷つかれた神に心動かされねばなりません」と説かれた。

 そして、「十字架を観想することは、次の一歩をもたらします。それは『証しする』ことです。イエスを深く見つめるなら、イエスの御顔は私たちの顔に反映され、イエスの考えは私たちのものとなり、イエスの愛は私たちをとらえ、私たちを変容させるようになる」と話された。

 最後に教皇は、「スロバキアの歴史の中で、困難を極めた時代にもキリストの愛を証しし、信仰を表した殉教者たち」を思い起こされ、「今日、社会の状況は変わっても、十字架は、明確な信仰の証しを私たちに求めているのです」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年9月15日