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☩9月25日「世界難民移住移動者の日」に向けてー「より良い未来は”異国の子ら”と築かれねばならない」

(2022.5.12 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコが12日、 9月25日の「世界難民移住移動者の日」に向けたメッセージを発表。 「より良い生活を求めて家を出た人々の助けを受けて、私たちの未来を築くこと」の必要を説かれ、「難民、移民の人たちと共に未来を築くということは、彼ら一人ひとりが未来構築の過程にどれほど多く貢献できるかを認め、評価することを意味します」と述べられた。
「世界難民移住移動者の日」は1970年に当時の教皇パウロ6世が、バチカンに移住・移動者司牧評議会を設置したのを受け、毎年9月第四日曜日を「世界の各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」としたもの。
教皇はメッセージで、真の天の故郷に向けた人類の「旅」について考察され、「神の王国は、イエス・キリストによる救いを受け入れた人々の中にすでに存在しています」とされたうえで、「私たちが神の王国の実現へ旅するとき、一人ひとりが回心に努め、私たちの世界を変革し、これまで以上に神の計画と調和したものとなるようにせねばなりません」と説かれた。
*『人類と共に神が住まう場所』への道は遠い
そして、人類の歴史において悲劇が続いていることを嘆かれ、「それは、私たちが『人類と共に神が住まわれる場所』への道をまだ歩んでいないことを、思い起こさせます」と述べられたうえで、「近年の数々の苦難で学んだことを踏まえ、『誰もが平和と尊厳の中で生きることができる世界」という神の計画に一致する未来を築く約束を新たにすることが求められています」と強調。「『王国の義』を求め、キリストの救いの『愛の福音』を受け入れることで、その旅を進めることができるのです」と語られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「老年の意味と価値について」⑨神にいただいた時を恵みで満たす”情熱的な高齢者”になろう

教皇フランシスコは11日の水曜恒例一般謁見で、「老年の意味と価値について」の講話をお続けになり、今回は旧約聖書続編の「ユディト記」をもとに、「ユディト、感嘆すべき若き日、寛大な晩年」をテーマにお話しになった。
講話の要旨は次のとおり。
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今日は旧約聖書のヒロインの一人、ユディトについて話したいと思います。若く徳の高いイスラエル人の寡婦、ユディトは、自分が住んでいたベトリアの町がアッシリア軍に包囲され、崩壊の危機に遭った時、その信仰と美しさ、賢さによって、アッシリア軍を打ち破るのに大きく貢献し、町を救いました。
ユディトは勝利を神に感謝する為、エルサレムに上った後、ベトリアに戻り、そこで百五歳まで立派な人生を送りました。それは彼女にとって、いわゆる”引退生活”でした。100歳以上まで生きる、という長寿の恵みを得ました。
今も、たくさんの人々が引退後も長い年月を過ごしていますが、この自由に使える時間をどのように解釈し、どのように活かすべきでしょうか。ユディトは若くして夫を失い、子はありませんでしたが、主から託された使命を最後まで果たした、という自覚のもとに、晩年を、充実した平安な時として生きることができました。それは彼女にとって、物質的な財産だけでなく、賢明さ、優しさといった財産を、一族や共同体に遺すべき時でもあったのです。
ユディトは晩年に「侍女を自由の身に」(16章23節)しました。これは自分に仕えてくれた人に対する、配慮ある人間的な眼差しのしるし、です。私たちは歳をとると視力は衰えますが、心の眼差しは、若い時よりも深くなります。以前は見過ごしていた物事が、見えるようになります。
主は、若い人や強い人にだけ才能を託されるのではありません。それぞれに応じて、皆に与えられているのです。私たちの共同体は、多くの年配者の才能とカリスマを享受すべきです。年配者は、引退生活を送っても、活かすべき豊かさそのものなのです。
また、豊かさを生かすために、年配者自身に求められるのは、創造的な新しい視点と寛大な奉仕の心です。現役時代の能力は、「教え、助言し、築き、世話し、耳を傾けること」を通して、他者に与えるための財産となります。そして、その能力は可能であれば、習得の機会を持たない人々や、孤独に陥っている人々のために用いられるべきでしょう。
ユディトは侍女を自由の身にし、皆に配慮を尽くし ました。ユディトは、若い時、その勇気のために共同体の尊敬を得ました。晩年には、その優しさによって共同体を自由と愛情で満たしました。ユディトは、憂鬱にむなしく時を過ごす”引退生活者”ではありませんでした。神が与えてくださった時を恵みで満たす、”情熱的な高齢者”だったのです。
(編集「カトリック・あい」)
☩「人は年老いても、なお実を結ぶ」7月24日「高齢者のための祈願日」を前に
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(2022.5.10 バチカン放送)
7月24日はカトリック教会の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」だが、教皇フランシスコがその日を前にしたメッセージを発表された。を
メッセージで教皇はまず、「年老いてもなお実を結ぶ」(詩編92章15節)という今年の祈願日のテーマについて、「高齢になった人生を諦め、未来の希望を感じない一部のお年寄りたち」への、「年齢にしばられた見方する傾向のある世界」への、福音と告げるもの、とされた。
そして、現代の「切り捨ての文化」により高齢者など弱い人々を遠ざける傾向が強まっているが、「聖書が教えるように、長生きは一つの祝福であり、命を豊かに与える神の愛の生きたしるしです」と言明。「高齢者を守る家、祖父母を敬う家庭を、神が祝してくださるように」と願われた。
ただ、「高齢は、理解の難しい人生の季節であり、生涯の長い歩みの後で、あたかも突然、現れるもののようでもあります」とされ、「高度に発達した社会は、高齢期のために多くを投資し、支援の計画を提供するが、老齢の意義を理解することは助けてくれません。老いを隠し、若さを装う努力はしても、老齢そのものの実りについては諦めているのです」と指摘しつつ、「高齢者たちは、自分を『無用な存在』と考えがちですが、人生のすべての季節においでになる神は、多くの問題を抱える高齢者にも命を与え続け、お見捨てになることはありません」と勇気づけられた。
また、教皇は、高齢者たちに「自分を注意深く見つめ、内的生活を育み、霊的な観点からも活発な高齢期を送ることを学びましょう… 神との関係、そして家族をはじめ、人々との関係を築き、そこに愛情と配慮をもたらすように」と勧められた。
さらに、「今日、世界は新型コロナウイルス感染の嵐に続いて、平和と発展を脅かす戦争を体験しています… この時代にあって、高齢者たちは世界を守るように召されているのです」とされ、「具体的な支援や祈りを通して、ウクライナや、アフガニスタン、南スーダンなどの子どもたち、まだ見たことのない、たくさんの”孫”たちを心に留めましょう…。そして、このような働きを通して、今日の世界で『優しさの革命』の担い手となるように」と促された。
(編集「カトリック・あい」)
☩深刻な社会経済危機のスリランカへ「政治指導者は国民の声に耳を傾けよ」
(2022.5.11 バチカン放送)
教皇フランシスコは11日の水曜恒例の一般謁見で、経済危機による抗議デモが激化するスリランカ国民に対して、アピールを出された。
スリランカでは深刻な経済危機から、政府に対する抗議デモが続いている。非常事態宣言が出される中で、デモ参加者と政府支持者の間の衝突が激化し、多くの死傷者が出。9日には、マヒンダ・ラジャパクサ首相が辞任した。
教皇はこのような事態に対して、スリランカ国民、特に「社会・経済上の課題や困難を前に自分たちの叫びを上げた若者たち」に特別な思いを向けられるとともに、スリランカの宗教指導者たちと心を合わせ、あらゆる立場の人々に、暴力に陥ることなく、平和的態度を保つよう呼びかけられた。
また、同国の指導者たちに対し、人権と社会的自由を尊重しながら、国民の切望に耳を傾けるように、と願われた。
(編集「カトリック・あい」)
☩「聞き、付き従おう。主、私たちの良き牧者に」復活節第4主日正午の祈りで
(2022.5.8 Vatican News Thaddeus Jones)
教皇フランシスコは8日、復活節第4主日の正午の祈り(”レジナチェリの祈り”)に先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音書の箇所(ヨハネ10章27-30節)を取り上げ、イエスが、主と私たち1人ひとりの間にある愛の絆について教えておられるように、「イエスが私たち以上に私たちをよく知っておられることを認識し、私たちの良き牧者としてイエスに付き従うよう呼びかけておられる時、その主の声を聞く必要があります」と説かれた。
*この日の福音のキーワードは「聞く」「知る」「従う」
教皇はまず、この日のミサでの朗読箇所で「羊と共にいる羊飼いの優しく素敵なイメージ」としての主についてどのように語っているのか注意を向けられ、「主の羊は、彼の声を『聞き』、彼を『知り』、そして彼に『従い』ます。この3つの動詞(聞く、知る、従う)は、この朗読箇所が伝えようとする重要なメッセージ。主の導きが、私たちを主と交わるよう呼びかけてくださる恵みが、どのようにもたらされるかを示すのが、羊は羊飼いの声を『聞き分ける』です」と指摘。
そして、「主の招きを受け、主と交わりを持つためには、「その呼びかけを聞く用意をし、心を開く必要があります。今日の世界では、仕事や、家族のこと、個人的な問題で余裕をなくしていることがよくありますが、好奇心を持ち、主と兄弟姉妹との交わりを持てるように開かれた心をもって、私たちは聴くー親の言葉を聞く子供のように、主なる父の言葉を聞く―ことが求められます」とされ、「そうすれば、素晴らしい体験が待っています。主ご自身が私たちに耳を傾けてくださるのです。私たちが、主に祈るとき、主の悩みを打ち明けるとき、主に呼び掛けるとき、主は耳を傾けてくださいます」と強調された。
イエスの言葉に耳を傾けることで、私たちは「イエスが私たちを知っておられる」ことに気が付く。教皇は、「この箇所で使われている『知る』は、『愛する』を意味します。主は私たちと私たちの内なる存在のすべてをご存じです。イエスは、私たちに友情、信頼、愛、親密さを求めておられ、『私たちは、いつも主に愛されている。決して一人ぼっちにはならない』という素晴らしい現実を理解し、受け入れるのを助けてくださいます」と説かれた。
さらに、「善き羊飼いを共にいることは、詩編が次のように語る体験を生きるようにしますー『たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられる』(23章4節)と」と語られた。
そして教皇は「主は、私たちが苦しみ、困難、危機に遭うとき、私たちを支えてくださいます。特に、そのようなときに、『私たちは主に知られ、愛されている』と気付くことがあります」とされたうえで、「私たちが日々の暮らしの中に主を受け入れているか」「私たちが、すべての試練と苦難を主と共にしているか」を自分に問うように勧められた。
*良き羊飼いに従おう
説教の最後に、教皇は動詞「従う」を取り上げ、「主に付き従う人々は、主が進まれるのと同じ道、同じ方向を進みます。そして、良き羊飼いがされるように、迷える人々、思いやりと愛を求めている人々を探し求めます」と語られ、さらに「主に付き従う人々は、見失った人々を探しに出かけ(ルカ福音書15章4節参照)、遠く離れた人々に関心を持ち、苦しむ人々に心を留め、涙を流す人々と共に泣くことを知っています。隣人に手を差し伸べ、彼を、彼女を自分の肩に載せます」とされた。
そして、私たちは「イエスだけに、私たちを愛してもらおうとするのか」「主に倣うために次のステップを踏み、主が私たちになさったように、私たちの兄弟姉妹に手を差し伸べるのか」を自問する必要があります」と言われ、聖母マリアが、私たちがキリストの声を聞き、常によく知り、奉仕の道を歩むその方に付き従うのを助けてくださるように、と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用は、「聖書協会・共同訳」を使用)
☩5月8日・世界召命祈願の日「私たちは皆、人類家族の実現に召されている」
(2022.5.7 カトリック・あい)
教皇フランシスコは8日の世界召命祈願の日にあたって、メッセージを発表された。バチカン広報発表の公式英語訳全文を以下に試訳する。
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MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR THE 2022 WORLD DAY OF PRAYER FOR VOCATIONS Called to Build the Human Family
2022年世界召命祈願の日へ教皇フランシスコのメッセージ「人類家族の実現に召されている」
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
戦争と抑圧の冷たい風が吹いている今、そして私たちが二極化の兆候に頻繁に出会う今、私たちはシノドスの道の歩みを始めました。私たちは共に旅をし、耳を傾け、参加し、分かち合う心を育てることを急がねばならない、と痛感しています。善意のすべての男女と共に、私たちは人類家族を育て上げ、その傷を癒し、より良い未来へと導く手助けをすることを希望しています。この第59回世界召命祈願の日にあたって、私はあなたがたと共に、共働する教会ー神とこの世界の声に耳を傾ける教会ーの文脈で、「召命」のもつ幅広い意味について深く考えたいと思います。
*教会の使命の共に主役になるよう召されている
Synodality(共働すること)ー共に旅することーは、教会における召命の基本です。この見方を背景に置くことによってのみ、さまざまな召命、神からの賜物である資質、聖職を識別し、重んじることができるのです。
私たちは知っていますー福音を宣教し、外に出て行き、時代の変遷の中で福音の種を蒔くために、教会がある、ということを。そしてこの使命は、司牧的活動のすべての分野が協力すること、そしてさらに重要なのは、主のすべての弟子が関わりをもつときだけ、果たすことができるということです。
「洗礼を受けたことで、神の民のすべての成員が宣教する弟子となりました(マタイ福音書28章19節参照)。教会の中の役割がどんなものであっても、また信仰の素養に差があっても、洗礼を受けた1人ひとりが福音宣教者なのです」使徒的勧告(Evangelii Gaudium=福音の喜び=120項)。
私たちは、司祭と一般信徒を区別し、前者を主役、後者を実行者と見なす(誤った)考えに陥らないように注意し、一つの神の民である一般信徒、司牧者としてキリスト教徒の使命を共に担わねばなりません。教会は全体として、宣教する共同体なのです。
*互いと創造物の守り手となるよう召されている
「召命」という言葉は、単に、特別な奉献の人生を通して主に従う人々を指すものとして、限定的に理解されるべきではありません。私たち皆が、「ばらばらになった人類をもう一度ひとつにし、神と和解させる」というキリストの使命を共に担うよう召されています。男女それぞれが、キリストに出会い、キリスト教の信仰を受け入れる前においてさえも、私たち1人ひとりが神に望まれ、愛されている存在である、という根本的な召し出しを、命という賜物と共に受けているのです。
私たち一人一人が、神の心の中で、独特で特別な場所を占めています。私たちは、人生のあらゆる時に、男女すべての心に存在するこの神聖な輝きを育て、愛と相互受容に触発された人類の成長に貢献することを、求められています。お互いの守り手であり、調和と共有の絆を強め、創造物の傷を癒し、その美しさが損なわれないようにすることを、求められています。
ひと言で言えば、私たちは、多様性の中で様々な要素を調和させ、創造物の”素晴らしい共通の家”でひとつの家族になるように、求められている、ということです。そして、広い意味で、個々人だけでなく、人々の集まり、共同体社会、そしてさまざまな種類のグループにも「召命」があるのです。
*神のまなざしを喜びをもって受け入れるよう召されている
この偉大な共通の召命の中で、神は、私たち一人一人に特定の召し出しをなさいます。愛をもって私たちの生きざまに触れ、私たちの究極の目標、死の限界を超えたその達成へと導かれます。それが、私たちの生きざまを見ることを望まれ、そして今もなお見ておられる神のなさり方なのです。
ミケランジェロは、「すべての石の塊には彫像が内包されている、それを見いだすのが彫刻家の仕事だ」と言っています。そのように芸術家について言えるのだとすれば、神にはもっと、当てはまるのではないでしょうか!
神は、ナザレに住む若い女性に、「神の母」を見いだされました。漁師のシモンに、ご自分の教会を建てる基盤となるペトロを見いだされました。徴税人のレビに、使徒であり宣教者であるマタイを見いだされ、キリスト教徒を迫害していたサウルに、異邦人の使徒となるパウロを見いだされました。神の愛情深いまなざしは、いつも常に私たちに出会い、私たちに触れ、私たちを解放し、私たちを変容させ、私たちを新しい人に変えるのです。
それが、すべての「召命」で起こることです。私たちは、私たちを召される神のまなざしに出会うのです。召命は、神聖視された、少数の人のためにあらかじめ定められた特別な経験ではありません。 「隣にいる聖人の聖さ」(Gaudete et Exsultate 6-9項参照)があるように、神のまなざしと召命は、すべての人に向けられており、すべての人に召命があります。
極東の諺にはこうありますー「賢人は、卵を見てワシを知り、種を見て大木を垣間見、罪人を見て聖人を垣間見る」。これが、神が私たちを見るなさり方です。私たち一人一人に、時には自分自身が気付いていない特定の可能性を見いだされ、その人生を通して、私たちがこの可能性を他の人や社会に役立てられるように、絶えず努力されます。私たちを殻から出し、私たちが求められている「傑作」となるように「手」を使われる、神という彫刻家によって、『召命』は生まれるのです。
私たちを自己陶酔から解放する神の言葉は、私たちを浄化し、啓発し、再創造することと可能にします。ですから、神が私たちに委ねられた召命に対して、これまで以上に心を開くために、その言葉に耳を傾けましょう!そして、信仰において、兄弟姉妹にも耳を傾けることを学びましょう。彼らの示唆と模範は、これまでにない新しい道を示される神の計画を、私たちに明らかにする役に立つでしょう。
*神のまなざしに応えるよう召されている
神の愛情深く、創造的なまなざしは、イエスにおいて極めて独特ななさり方で私たちに注がれます。宣教者マルコは、イエスが金持ちの青年と話した時に「彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ福音書10章21節)と書いています。愛に満ちたイエスのまなざしは、私たち1人ひとりに注がれます。
兄弟姉妹の皆さん、このようなやり方で互いを見ることを学びましょう。そのやり方とは、私たちが生き、出会うすべての人ーそれが誰であろうとーが、喜んで迎えられていると感じ、愛を込めて見つめ、潜在的な力を発揮するように招かれる方がおられることを知るようにすることです。
このようなまなざしを進んで受け入れるなら、私たちの人生は変わります。すべてが、私たちと主の間だけでなく、私たちと他の人たちとの対話になります。対話を深く、経験することによって、私たちはこれまで以上に自分らしくなります。キリストの恵みと憐れみの道具となる「司祭職へ召命」において、神の賛美者、新しい人の預言者となる「修道者への召命」において、互いに贈り物となり、人生の与え手、教え役となる「結婚への召命」において、神の目を通して他者と世界を見るように、善なるものに仕えるように、そして働きと言葉によって愛をひろげるようにと、私たちに呼びかける、すべての教会の召命と奉仕において。
ここで、ホセ・グレゴリオ・エルナンデス・シスネロス博士( 1864 – 1919) の人生について触れておきたいと思います。ベネズエラ人の彼は、カラカスで医師として働いているときに、フランシスコ会の信徒会員になることを希望しました。さらに、司祭修道士になることを考えましたが、健康上の理由で希望がかなえられませんでした。そのようなことから、彼は自分の召命が医療の専門家として生きることであり、何よりも貧しい人々に奉仕することにある、と理解するようになりました。「スペイン風邪」の世界的な大流行が起きた時、自分に与えられた召命をいかんなく発揮しましたが、ある日、年配の患者のために薬局で薬を購入し、そこから出た時に自動車事故に遭い、命を落としました。主の呼びかけに応えることの模範的な証人である彼は、1年前に列福されています。
*友愛に溢れた世界を築くため召されている
キリスト教徒として、私たちは一人ひとり別々に召命を受けるだけではありません。一緒に召されることもあります。私たちはモザイクのタイルのようなものです。それぞれが、それ自体、素晴らしいのですが、皆が組み合わされたとき、一服の絵が出来上がります。私たち一人一人は、神の心と宇宙の大空の中で星のように輝いていますが、同時に、私たちが住んでいる周りから始めて、人の歩みを導き、照らすことができる星座を作るように召されています。
これが教会の神秘ですー相違を賛美すること、人類がそうなるように召されているすべてのしるしと道具。だからこそ、教会は、よりいっそう、 synodal(共働する)存在にならねばならないのです。共に歩み、調和のとれた多様性で一致し、誰もが積極的に参加でき、誰もが貢献できる場所となるように。
私たちが「召命」について話すとき、それは生き方を選ぶことー特定の聖職に人生を捧げること、あるいは信仰あつい家庭、運動、あるいは教会共同体の神から与えられた賜物に心惹かれることことーだけではありません。それは、神の夢ーイエスが「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)と御父に祈られ、育まれた友愛の偉大な夢ーを実現することです。
教会における、そしてより広い意味で社会における召命は、共通の目的に貢献します。その目的とは、聖霊によってもたらされる多様な賜物の調和を、男女皆で賛美することです。司祭、男女修道者、一般信徒の皆さん、「愛において一致した一つの偉大な人類家族は、空想の産物ではない」という真理を証しするために、共に旅と続け、働きましょう。
兄弟姉妹の皆さん、歴史の劇的な出来事の中で、神の民が、この呼びかけにいっそう力強く応えることがきるように、祈りましょう。私たち皆が自分に相応しい場所を見つけ、この偉大な神の計画の次元のために最善を尽くすことができるように、聖霊の光を願いましょう!
ローマ、ラテラノの聖ヨハネ教会にて。 2022年5月8日、復活節第4主日に フランシスコ
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「(”ウクライナ戦争”で生じている)キリスト者間の分裂に見て見ぬふりをするな」

(2022.5.6 バチカン放送)
教皇フランシスコが6日、教皇庁キリスト教一致推進評議会の総会参加者たちとお会いになった。
あいさつの中で教皇は、新型コロナウイルスの大感染が世界中に悲劇的な影響を及ぼし、キリスト教一致のための活動も大きく制限されているが、「この危機はキリスト者たちの絆を強め、互いの弱さを分かち合い、共に神により頼むことで、一つの家族としての自覚を新たにする機会にもなりました」と語られた。
そのうえで、コロナ禍がまだ去らない中で、「今、全世界は別の悲劇に直面しています」とされ、ウクライナで進行中のロシアによる軍事侵攻に注意を向けられた。
教皇は「残忍で無分別なこの戦争は、『様々な民族と国々の社会的友情を基礎とする兄弟愛に満ちた世界共同体』の発展のために、キリスト教徒たちに何ができるのかを、それぞれの信者と教会の良心に問いかけています」と強調。
として、「この非人間的な戦争を目の当たりにしている私たちは、キリスト者の一致への熱意を新たにせねばなりません」と訴えられるとともに、「キリスト者同士の分裂が起きていることに慣れ、あるいは諦め、見て見ぬふりをすることは、”争いの土壌となる腐敗した心”の放置につながります」と警告された。
⇒教皇のこの言葉は、教皇はじめカトリック教会やギリシャ正教、ウクライナ正教の指導者たちが、ロシア正教の指導者、キリル総大主教に対して、プーチン大統領にウクライナ攻撃の停止を働きかけるよう重ねて求めているにもかかわらず、総大主教はこれを拒否するばかりか、ミサの説教などで繰り返し攻撃の正当性を主張、大きな亀裂を生んでいる現状を、念頭に置いたものだ(「カトリック・あい」)
さらに教皇は、「キリスト者たちがイエスにおいて和解し、その愛のメッセージに強められてこそ、『平和の福音の告知』は、信頼できるものとなるのです」と説かれ、諸キリスト教会が2025年に『第一ニケア(ニカイア)公会議開催1700周年』を共に記念することは、「キリスト者の一致に向けての歩みに貴重な貢献をもたらすでしょう」と期待を表明された。
(編集「カトリック・あい」)
◎教皇連続講話「老年の意味と価値について」⑧「信仰の恵みを次の世代に伝えるために、最後まで実践が必要」

*グノーシス主義の誘惑
教皇また、今日でも若者を誘惑し続けている異端思想、グノーシス主義(1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った。『グノーシス』は、古代ギリシア語で『認識・知識』を意味し、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める。物質と霊の二元論に特徴がある)に言及された。
「グノーシス主義は、信仰を霊性、あるいは知性の力だけのものと考え、日々の生活の現実との関係を持たない… 確かに、これは非常に人を惹きつける思想です。『信仰は、食事規定や社会的慣行などに帰着できない』という明白な解釈をするからですが、グノーシス主義は、キリスト教の信仰を刹那的な信念にしてしまうか、あるいは真の証しを無いものにしてしまいます」と警告。「私たちのキリスト教の信仰は、常に、神の子の顕現を経験せねばなりません」と説かれた。
*年配者の使命は、信仰の誉れと取り戻すこと
最後に教皇は、「現代社会は、信仰の実践を過小評価しています、『信仰は、年寄りがやっているものだ』というような”文化的”なあてこすりする」が、「年配者には、『信仰の名誉を取り戻す』という重要な使命があります。なぜなら、信仰は『弱さ』ではなく、『強さ』のしるしだからです」と強調され、次のように締めくくられた。
「信仰は尊敬と名誉に値するものです。私たちの人生を変え、考え方を清め、神を崇敬し、隣人を愛することを教えてくれます。信仰はすべての人にとって恵みなのです!」
☩「核兵器の保有も使用も、あってはならないこと」教皇、岸田首相と会談

(2022.5.4 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコが4日、欧州歴訪中の岸田首相と会談され、「核兵器の保持も使用もあってはならないこと」と述べ、核兵器に反対するこれまでの意向を確認された。
バチカン広報局のブルーニ局長によると、会談は約25分間にわたって行われ、岸田首相の故郷でもある広島に落とされた原爆、そしてその保持と使用を中心に話し合われた。
*教皇、広島訪問を振り返り、核廃絶の必要性確認
教皇は2019年11月に日本を訪問され、翌年に被爆75周年を迎える広島にお出でになり、広島平和資料記念館で祈られ、被爆者と会われている。首相との会談で、このことを思い出されてこう語られた。
「平和が栄えるためには、世界のすべての人々が戦いの武器、特に最も強力で破壊的な武器、つまり都市全体、国全体の自由を奪い、破壊し得る核兵器を手放すべきことが、これまでになくはっきりしています」。
日本を訪れられた時、教皇は「核兵器を持つことも、(注*使用するために)配備することも、反道徳的です」と語られていたが、岸田首相との会談でも、核兵器の廃絶を改めて主張、昨年発効した国連の核兵器禁止条約への支持を確認された。
*日本・バチカン国交樹立 80 周年、二国間協力とカトリック教会の貢献
またバチカン広報局の発表では、教皇と岸田首相の会談では、双方から日本・バチカン国交樹立から今年で 80 周年を迎え、両国間の協力に満足が表明され、日本社会の多くの分野でカトリック教会が貢献していることについても、高く評価された。
さらに、ロシアによる軍事侵攻で大きな犠牲が出ているウクライナの状況についても、意見が交わされ、対話と平和実現が緊急に求められていることを確認。関連して恒久的な平和のために「核の無い世界」が必要であることが強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「モスクワ訪問、プーチン大統領との会談実現へ働きかけを続けている」教皇、伊日刊紙とのインタビューで

*戦場が武器をテストする場になっている
教皇はまた、「NATO(北大西洋条約機構)がロシアの”扉”の前で吠えたてた」ことが(ロシアの)怒りが煽った可能性があり、それが、ロシアを「悪い形で反応させ、紛争を解き放ってしまった」との見方を示した。
さらに、「ウクライナ軍に(注:NATO加盟国が)武器を供給するのが正しいかどうかという問いには、どのように答えたらいいのか分かりません。無理です。でも、はっきり言えるのは、その戦場で武器がテストされているということです」と述べた。
そして、「ロシア軍は、自分たちの戦車が(ウクライナ軍を粉砕するのに)あまり役に立たないことを認識し、他の兵器の使用を考えています。戦争が続く理由ーそれは、自分たちが開発した武器をテストするためです。このような商売を止めさせようと戦っている人はほんのわずかしかいませんが、もっと努力すべきです」と指摘。数年前にイタリア最大の港、ジェノバの港湾当局が、イエメンに武器を運ぼうとする輸送船団を止めた実例を紹介された。
*「私はまず、モスクワを訪問する必要がある」
教皇が今、戦闘を止めるための訪問先として希望しておられるのは、キーウではなく、モスクワだ。
教皇は、戦闘継続阻止のためのこれまでの具体的な努力の経験から、「当面、キーウには行かない。まず、モスクワに行く必要があります。まず、プーチンに会わねばなりません。私は司祭でもある。私に出来ることをします。プーチンが扉を開けてくれさせすれば…」と、プーチン大統領がご自分を迎え入れることに強い期待を示された。
*ロシア正教の総主教は”プーチンの祭壇の侍者”にはなれない
さらに教皇は、モスクワでロシア正教会のキリル総主教と直接会い、和平実現に力を合わせることを強く希望された。教皇は3月15日にズームで総主教と40分間にわたって話し合ったものの、総主教はウクライナ侵攻の正当性を主張するのみで終わっているが、教皇はこう語った。
「彼がそのように主張した時、私は彼に言いましたー『そのような主張は全く理解できない。兄弟よ。私たちは国家に所属する聖職者ではありません。私たちには、政治の言葉は使えない。使えるのはイエスの言葉です。私たちは同じ神の聖なる民の牧者ではありませんか。だからこそ、私たちは平和の道を模索し、戦火を止めねばならないのです。あなたは”プーチンの祭壇の侍者”になることはできない』と」。
「私は6月14日にエルサレムで彼との会談を予定していました。直接顔を合わせての二度目会談、戦争とは何の関係もない会談になるはずでした。だが、今も、彼は私に同意しています-『’待ちましょう。それが不確かであっても』」。
*分散化した”第三次世界大戦”、すべてに国家間の利害が絡む
また、教皇は、ウクライナから世界中で起きている戦争ー分散化した“第三次世界大戦”ーにおける人々の生きる権利について語られた。
「シリア、イエメン、イラク、アフリカの各地などで、次々と戦争が起きています。そのすべてに国際的な利害が絡んでいる。自由主義国が自由主義国に戦争を起こすことは考えられない。ウクライナで戦争を起こしたのは、自由主義の国ではないように思われます。ウクライナの人々を『ドンバスで”反応”した』と非難する声がありますが、それは10年前のこと。昔のことです。当然ながら、ウクライナの人々は誇り高い人々です」
*平和実現への出来る限りの努力を続ける
教皇フランシスコは、復活祭にロシアの軍事侵攻開始から三度目のキーウ訪問をしたクラジェフスキー枢機卿との会話について語られた。
「私は、キーウを訪問中の枢機卿に電話した際、彼はこう言いました。『私たちが完全に理解できないとしても、彼らは正しいのです。彼らは沈黙しています。敏感になっています。第二次世界大戦でとても多くの代償を払い、敗北し、隷属させられた、と感じています。あまりにも多くの人が命を落としました。彼らは殉教の民です。そして、今、沿ドニエストル・モルドバ共和国(注:モルドバ東部を流れるドニエストル川とウクライナ国境との間の細長い土地にあり、国連加盟国が承認していない分離国家)で起こりそうなことについて慎重に見守っています』と」。
教皇は、5月9日(第二次世界大戦のロシア戦勝記念日)に、ウクライナにおけるすべての戦いが終わりを迎える可能性に期待し続けており、4月21日にバチカンでハンガリーのオルバーン首相との会見で「ロシア人には計画がある」ことを知らされた、としたうえで、次のように語られた。
「(ロシア軍が)ここ数日、攻勢を強めているのも、そのような文脈から理解することもできるでしょう。現在、ロシア軍はドンバスだけでなく、クリミア、オデーサなど、ウクライナから黒海の諸港を奪い取っています。私は現状を悲観的見てはいますが、戦争を止めるために出来る限りの努力をせねばならないのです」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「人類の傷を勇気をもって伝える人々に感謝」ー5月3日・世界報道自由デーに
(2022.5.1 バチカン放送)
5月3日は国連の「世界報道自由デー」。教皇フランシスコはこの日を前にした1日の正午の祈りで、報道の自由のために命をかけて奉仕するジャーナリストたちを称えられた。
教皇は、昨年47人のジャーナリストが殺害され、350人以上が獄中にある状況を示され、「人類の傷を勇気をもって伝える」これらの報道関係者に、心からの感謝を述べられた。
現在も続いているロシアのウクライナ軍事侵攻でも、取材に当たっているジャーナリストの中に多くの死傷者が出ている。
(編集「カトリック・あい」)
☩「苦しみに暮れるウクライナの 人々のために、日々の祈りを」教皇が改めて訴え

(2022.5.1 Vatican News Thaddeus Jones)
教皇フランシスコは1日、復活節第三主日の正午の祈りの中で、現在のロシア軍の攻撃が止まらないウクライナ、とくに「残虐な爆撃を受け、破壊された、聖母マリアの町」マリウポリに注意を向けられた。
そして、ウクライナで苦しみのどん底にあるすべての人々、特に子たちや年配の人たちを思い起こされ、特に5月は聖母マリアに捧げられた月でることから、ウクライナに一刻も早く平和が取り戻されるように、ロザリオの祈りを日々、唱えることを世界の信徒たちに呼びかけられた。
*人々の苦痛に涙ーマリウポリに「人道回路」の確保を
教皇は、特に悲惨な状態にあるマリウポリで、最後の戦場になっている製鉄所に残されている人々が安心して避難できる「人道回廊」の確保を、改めて、ロシア、ウクライナなどの当事者たちに求められた。
そして「私は、ウクライナの人々、特に最も脆弱な年配者や子供たちが受けている耐え難い苦しみを思い、涙を流します。子供たちが強制的に連れ出され、(注:ロシアに)送り出されたという恐ろしい報告さえも聞いています」とされた教皇は、憔悴した人々のことを深く思いやり、「おぞましい人間性の退行」を目の当たりにする中で、私たちが本当に平和を希求しているのか、疑問を表明された。
*暴力の論理、スパイラルに屈してはならない
さらに、「現在の軍事的なそして言葉による攻撃のエスカレーションを回避しようとする意志が、本当にあるのでしょうか」「”武器を沈黙させる”ために、あらゆる努力がされているのでしょうか」と関係国、機関の指導者たちに問いかけられた。
そのうえで、「私たちが、暴力の論理と武力紛争のスパイラルに屈さないように」と訴え、「対話と平和の道を歩みましょう!祈りましょう」と全世界の人々に呼びかけられた。
☩「私たちが善を行なう”衝動”を取り戻せますように」復活節第三主日・正午の祈り
*主に会うためペトロがしたように、私たちも飛び込もう!
(イエスが言われる通りに弟子たちがもう一度、網を打って、あふれるほどの魚が捕れた時、弟子の1人、ヨハネがペトロに「主だ」と叫んだ。ペトロは、裸だったので上着をまとって、湖の飛び込む。)
教皇は、「ペトロには、我を忘れるほどの驚きが必要でした」とされ、ペトロが湖に飛び込んだのは、「その驚きがもたらした”愛の表現”。創造的で無償で与えられた熱意をかき立てる愛です。ペトロは、岸辺におられる主に会うために、そうしたのです。新たに見出した熱情の反映です」と指摘。
「私たちもまた、何かを失うことを恐れず、慎重になり過ぎたり、他の人が始めるのを待ったりせず、ペトロのように、善なるものに飛び込み、”新たな熱情と意欲の波”に乗るように求められているのです。私たちは、心の衝動を抑えて安全な場所に戻ることをせず、他の人に自分自身の思いを打ち明け、寛大になることが求められています」と強調されたうえで、「飛び込になさい、飛び込みなさい!」と信徒たちの呼びかけられた。
*主は今も、私たちに「私を愛しているか」と問いかけられるのは…
(弟子たちが捕って来た魚で朝の食事を終えると、イエスは「あなたは私を愛しているか」と3度、ペトロに問いかけられた。)。
教皇は「主は、今も私たちに、同じ問いかけをなさいます、それは、信仰は愛が問題だからですー”飛び込む”勇気をもって、新たな歩みを始めるために、私たちが神と兄弟姉妹に仕えることを妨げようとする私たちの過去と決別するために、恐れを克服する愛です」とされた。
そして、説教の最後に、ペトロがこの出来事の後で、二度と漁師に戻らず、神と隣人に自分の人生を捧げ、「まさに、殉教して埋葬されたこの(注:聖ペトロ聖堂の)場所で、命を捧げた」ことを思い起こされ、私たちが善を行なう衝動を取り戻すことができるように、聖母マリアに執り成しを願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「いかなる形の虐待も容認できない、各国の司教協議会に『被害者の癒しと正義を行なうセンター』設置を」バチカン未成年者保護委員会に

教皇フランシスコは29日、「未成年者保護のための教皇庁委員会」のメンバーとお会いになった。
会見は、同委員会の定例総会最終日の集いの場で行われたもので、教皇は「どのような形の虐待も、容認できません。特に子どもたちに対する性的虐待は、成長期の人生を傷つけるため、いっそう重大です」と強調された。
そして、「虐待の被害者は、しばしば、生と死の間に閉じ込められたかのように感じており、その苦しみは、取り去ることのできないものです」と言明。
さらに「虐待被害者の証言は、キリストの体、すなわち教会に開いた傷口です」と語られ、「この傷の存在を知らせるために、また苦しむ人々を探し、これらの人々の中に苦しむキリストを見出すために、勇気をもって働いてください」と委員会のメンバーたちを励まされた。
また教皇は、「司教、修道会の長上、司祭、助祭、奉献生活者、カテキスタ、信者、教会を構成するすべての人が、それぞれの立場から、虐待の防止と、正義、癒しのために責任を負わねばなりません」と、司教など高位聖職者を始めとする全教会員に、その責任を果たすよう強く求められた。
教皇は、最近発表されたバチカン改革の使徒憲章「プレディカテ・エヴァンジェリウム」によって、今後、未成年者保護委員会が教皇庁の機関の一部として正式に教理の部署の中に設立される一方、「委員会の管理者とメンバーは、教皇から任命された会長を通して、教皇との直接的な関係を確保することができようになります」と、その独立性を強調された。
そして、委員会のさらなる使命として、「虐待被害者の保護とケアが、教会生活のあらゆる分野において規則となるよう取り組むこと」を指示されるとともに、「虐待被害者の心身の健康と司牧のための援助と対応が、委員会の緊急の課題となっています」とされた。
教皇は、「委員会が発足当初から虐待被害者たちとの出会いと傾聴の場を設けてきたことが、苦しみを体験した人々に対する私の司牧上の使命において大きな助けとなってくれました」と評価。
そのうえで、委員会の「極めて重要な仕事」として、「世界各国の司教協議会に、『虐待を経験した人とその家族を受容し、彼らの訴えを丁寧に聴き、癒しと正義の実現に歩みを共にするためにふさわしいセンター』が設置されるよう、各国協議会との対話を通じた見守りと支援」を求められた。
(2022.5.1 カトリック・あい)
以下は、バチカン広報局発表の、「未成年者保護のための教皇庁委員会」総会における教皇の説話全文の「カトリック・あい」の日本語試訳
ADDRESS OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS TO THE MEMBERS OF THE PONTIFICAL COMMISSION FOR THE PROTECTION OF MINORS
Friday, 29 April 2022
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは!
総会の締めくくりとして、皆さまをお迎えできることをうれしく思います。オマリー枢機卿の紹介の言葉に感謝します。また、ご自分の活動と信徒の方々への奉仕の両方で、子供たちを保護する仕事に尽力してくださった皆さんに感謝します。今日、あなたがたの努力のおかげで、未成年者や弱者にとって、教会は以前より安全な場所になりました。また、オマリー枢機卿があらゆる障害にもかかわらず、委員会の目標を追求してきた粘り強さに感謝したいと思います。ありがとうございました!
*子供たちの尊厳を脅かす状況は今も続いている
あなたがたに託された活動は注意深く実行されなければならないものです。教会が未成年者にとって安全な場所であり、癒しの場所であるだけでなく、世界中で彼らの権利を守り育てられるように、完全に信頼できる場であることが証明できるように、委員会には絶え間ない注意が必要です。
残念なことに、子供たちの尊厳が脅かされる状況は今も存在し続けており、これはすべての信徒、すべての善意の人々にとっての懸念の源であり続けているに違いありません。
*癒しの道は長く、難しい
時には、虐待の現実と、それが「小さな子供たち」の生活に与える壊滅的で永続的な影響が、愛と理解をもって対応しようとする人々の努力よりも、勝っているように思われます。癒しへの道は長くて難しいものです。それには確固たる希望、十字架に進まれ、さらには十字架を越えて進まれたキリストへの希望が必要です。
よみがえられたイエスは、栄光に満ちた体に十字架につけられた傷を残しておられ、これからもずっとそうであり続けられます。その傷は、神が私たちに苦しみを渡すのではなく、苦しみを通り抜け、神の愛の力によって変えることで、私たちを救ってくださるのだということを教えてくれます。聖霊の癒しの力は私たちを失望させません。神の新しい命の約束は失敗することがありません。私たちは復活したイエスを信じる必要があり、復活された体の傷の中で私たちの命は休息します。
*息子を虐待された父親からの手紙ー苦しみは取り去ることのできない現実
いかなる形態の虐待も容認できません。特に子どもたちに対する性的虐待は、開花し始めたばかりの人生に対する犯罪として、。最も深刻です。虐待された人は、人生を謳歌する代わりに、時には永久に重い傷を負い続けます。
最近、息子さんを虐待された父親から手紙をもらいました。息子さんは、虐待を受けた結果、何年もの間、自分の部屋から出ることさえできなかった。彼と彼の家族が受けた虐待の影響は深刻でした。虐待された人々は、いわば「生と死の間に閉じ込められている」と感じることがあります。それ自体が苦痛であり、私たちが取り去ることのできない現実です。
*傷の苦しむ人たちを捜し出し、認知し、癒すことは、司教、司祭、修道者、そして信徒全員の責任
虐待被害者の証言は、教会であるキリストの体に開いた傷を表しています。これらの傷を明るみに出し、傷に苦しむ人々を探し出し、彼らが私たちの苦しんでいる救い主の証人であることを認めるために、熱心にそして勇気を持って働くことを、あなたにお願いします。なぜなら、教会は、自身を苦しむ僕としてキリストに従うほどに、復活された主を知っているからです。
これは私たち全員ー司教、修道会の責任者、司祭、助祭、修道者、カテキスタ、そして一般信徒ーが、歩まねばならない道です。教会の構成員全員が、それぞが置かれた場に合う形で、虐待が起きるのを防ぎ、正義が行われ、被害者を癒すために働く責任を負うように求められています。
*バチカン改革で委員会を「教理のための部署」に正式に位置づけ
委員会の皆さんの今後について、ひと言申し上げます。使徒憲章PraedicateEvangeliumで、私はローマ教皇庁の一部として、「未成年者保護のための教皇庁委員会」を、(注:現在の教理省を再編して誕生する)「教理のための部署」の中に正式に位置づけることにしました(同憲章78項参照)。
この措置が、あなたがたの思想と行動の自由を危険にさらす可能性がある、あるいは、あなたがたが扱う問題から重要性を奪う可能性がある、と懸念される方がおられるかも知れませんが、そのようなことは、私の意図でも、私の期待でもありません。そして、このようなことが起こらないように注意することをお勧めします。
未成年者保護委員会は、聖職者のメンバーの性的虐待を扱う「教理のための部署」に置かれますが、私はあなた方の主体性を明確にしました、あなた方は委員会の代表を通して、引き続き私と直接関係を持つことになります。代表は、教皇によって任命されます。
*バチカンの他の関係部署と協力し未成年と脆弱な成人を守り、癒す最良の方法を考えて