☩5月8日・世界召命祈願の日「私たちは皆、人類家族の実現に召されている」

(2022.5.7 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは8日の世界召命祈願の日にあたって、メッセージを発表された。バチカン広報発表の公式英語訳全文を以下に試訳する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR THE 2022 WORLD DAY OF PRAYER FOR VOCATIONS Called to Build the Human Family

 2022年世界召命祈願の日へ教皇フランシスコのメッセージ「人類家族の実現に召されている」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 戦争と抑圧の冷たい風が吹いている今、そして私たちが二極化の兆候に頻繁に出会う今、私たちはシノドスの道の歩みを始めました。私たちは共に旅をし、耳を傾け、参加し、分かち合う心を育てることを急がねばならない、と痛感しています。善意のすべての男女と共に、私たちは人類家族を育て上げ、その傷を癒し、より良い未来へと導く手助けをすることを希望しています。この第59回世界召命祈願の日にあたって、私はあなたがたと共に、共働する教会ー神とこの世界の声に耳を傾ける教会ーの文脈で、「召命」のもつ幅広い意味について深く考えたいと思います。

*教会の使命の共に主役になるよう召されている

 Synodality(共働すること)ー共に旅することーは、教会における召命の基本です。この見方を背景に置くことによってのみ、さまざまな召命、神からの賜物である資質、聖職を識別し、重んじることができるのです。

 私たちは知っていますー福音を宣教し、外に出て行き、時代の変遷の中で福音の種を蒔くために、教会がある、ということを。そしてこの使命は、司牧的活動のすべての分野が協力すること、そしてさらに重要なのは、主のすべての弟子が関わりをもつときだけ、果たすことができるということです。

 「洗礼を受けたことで、神の民のすべての成員が宣教する弟子となりました(マタイ福音書28章19節参照)。教会の中の役割がどんなものであっても、また信仰の素養に差があっても、洗礼を受けた1人ひとりが福音宣教者なのです」使徒的勧告(Evangelii Gaudium=福音の喜び=120項)。

 私たちは、司祭と一般信徒を区別し、前者を主役、後者を実行者と見なす(誤った)考えに陥らないように注意し、一つの神の民である一般信徒、司牧者としてキリスト教徒の使命を共に担わねばなりません。教会は全体として、宣教する共同体なのです。

 

*互いと創造物の守り手となるよう召されている

 「召命」という言葉は、単に、特別な奉献の人生を通して主に従う人々を指すものとして、限定的に理解されるべきではありません。私たち皆が、「ばらばらになった人類をもう一度ひとつにし、神と和解させる」というキリストの使命を共に担うよう召されています。男女それぞれが、キリストに出会い、キリスト教の信仰を受け入れる前においてさえも、私たち1人ひとりが神に望まれ、愛されている存在である、という根本的な召し出しを、命という賜物と共に受けているのです。

 私たち一人一人が、神の心の中で、独特で特別な場所を占めています。私たちは、人生のあらゆる時に、男女すべての心に存在するこの神聖な輝きを育て、愛と相互受容に触発された人類の成長に貢献することを、求められています。お互いの守り手であり、調和と共有の絆を強め、創造物の傷を癒し、その美しさが損なわれないようにすることを、求められています。

 ひと言で言えば、私たちは、多様性の中で様々な要素を調和させ、創造物の”素晴らしい共通の家”でひとつの家族になるように、求められている、ということです。そして、広い意味で、個々人だけでなく、人々の集まり、共同体社会、そしてさまざまな種類のグループにも「召命」があるのです。

 

*神のまなざしを喜びをもって受け入れるよう召されている

 この偉大な共通の召命の中で、神は、私たち一人一人に特定の召し出しをなさいます。愛をもって私たちの生きざまに触れ、私たちの究極の目標、死の限界を超えたその達成へと導かれます。それが、私たちの生きざまを見ることを望まれ、そして今もなお見ておられる神のなさり方なのです。

 ミケランジェロは、「すべての石の塊には彫像が内包されている、それを見いだすのが彫刻家の仕事だ」と言っています。そのように芸術家について言えるのだとすれば、神にはもっと、当てはまるのではないでしょうか!

 神は、ナザレに住む若い女性に、「神の母」を見いだされました。漁師のシモンに、ご自分の教会を建てる基盤となるペトロを見いだされました。徴税人のレビに、使徒であり宣教者であるマタイを見いだされ、キリスト教徒を迫害していたサウルに、異邦人の使徒となるパウロを見いだされました。神の愛情深いまなざしは、いつも常に私たちに出会い、私たちに触れ、私たちを解放し、私たちを変容させ、私たちを新しい人に変えるのです。

 それが、すべての「召命」で起こることです。私たちは、私たちを召される神のまなざしに出会うのです。召命は、神聖視された、少数の人のためにあらかじめ定められた特別な経験ではありません。 「隣にいる聖人の聖さ」(Gaudete et Exsultate 6-9項参照)があるように、神のまなざしと召命は、すべての人に向けられており、すべての人に召命があります。

 極東の諺にはこうありますー「賢人は、卵を見てワシを知り、種を見て大木を垣間見、罪人を見て聖人を垣間見る」。これが、神が私たちを見るなさり方です。私たち一人一人に、時には自分自身が気付いていない特定の可能性を見いだされ、その人生を通して、私たちがこの可能性を他の人や社会に役立てられるように、絶えず努力されます。私たちを殻から出し、私たちが求められている「傑作」となるように「手」を使われる、神という彫刻家によって、『召命』は生まれるのです。

 私たちを自己陶酔から解放する神の言葉は、私たちを浄化し、啓発し、再創造することと可能にします。ですから、神が私たちに委ねられた召命に対して、これまで以上に心を開くために、その言葉に耳を傾けましょう!そして、信仰において、兄弟姉妹にも耳を傾けることを学びましょう。彼らの示唆と模範は、これまでにない新しい道を示される神の計画を、私たちに明らかにする役に立つでしょう。

 

*神のまなざしに応えるよう召されている

 神の愛情深く、創造的なまなざしは、イエスにおいて極めて独特ななさり方で私たちに注がれます。宣教者マルコは、イエスが金持ちの青年と話した時に「彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ福音書10章21節)と書いています。愛に満ちたイエスのまなざしは、私たち1人ひとりに注がれます。

 兄弟姉妹の皆さん、このようなやり方で互いを見ることを学びましょう。そのやり方とは、私たちが生き、出会うすべての人ーそれが誰であろうとーが、喜んで迎えられていると感じ、愛を込めて見つめ、潜在的な力を発揮するように招かれる方がおられることを知るようにすることです。

 このようなまなざしを進んで受け入れるなら、私たちの人生は変わります。すべてが、私たちと主の間だけでなく、私たちと他の人たちとの対話になります。対話を深く、経験することによって、私たちはこれまで以上に自分らしくなります。キリストの恵みと憐れみの道具となる「司祭職へ召命」において、神の賛美者、新しい人の預言者となる「修道者への召命」において、互いに贈り物となり、人生の与え手、教え役となる「結婚への召命」において、神の目を通して他者と世界を見るように、善なるものに仕えるように、そして働きと言葉によって愛をひろげるようにと、私たちに呼びかける、すべての教会の召命と奉仕において。

 ここで、ホセ・グレゴリオ・エルナンデス・シスネロス博士( 1864 – 1919) の人生について触れておきたいと思います。ベネズエラ人の彼は、カラカスで医師として働いているときに、フランシスコ会の信徒会員になることを希望しました。さらに、司祭修道士になることを考えましたが、健康上の理由で希望がかなえられませんでした。そのようなことから、彼は自分の召命が医療の専門家として生きることであり、何よりも貧しい人々に奉仕することにある、と理解するようになりました。「スペイン風邪」の世界的な大流行が起きた時、自分に与えられた召命をいかんなく発揮しましたが、ある日、年配の患者のために薬局で薬を購入し、そこから出た時に自動車事故に遭い、命を落としました。主の呼びかけに応えることの模範的な証人である彼は、1年前に列福されています。

 

*友愛に溢れた世界を築くため召されている

 キリスト教徒として、私たちは一人ひとり別々に召命を受けるだけではありません。一緒に召されることもあります。私たちはモザイクのタイルのようなものです。それぞれが、それ自体、素晴らしいのですが、皆が組み合わされたとき、一服の絵が出来上がります。私たち一人一人は、神の心と宇宙の大空の中で星のように輝いていますが、同時に、私たちが住んでいる周りから始めて、人の歩みを導き、照らすことができる星座を作るように召されています。

 これが教会の神秘ですー相違を賛美すること、人類がそうなるように召されているすべてのしるしと道具。だからこそ、教会は、よりいっそう、 synodal(共働する)存在にならねばならないのです。共に歩み、調和のとれた多様性で一致し、誰もが積極的に参加でき、誰もが貢献できる場所となるように。

 私たちが「召命」について話すとき、それは生き方を選ぶことー特定の聖職に人生を捧げること、あるいは信仰あつい家庭、運動、あるいは教会共同体の神から与えられた賜物に心惹かれることことーだけではありません。それは、神の夢ーイエスが「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)と御父に祈られ、育まれた友愛の偉大な夢ーを実現することです。

 教会における、そしてより広い意味で社会における召命は、共通の目的に貢献します。その目的とは、聖霊によってもたらされる多様な賜物の調和を、男女皆で賛美することです。司祭、男女修道者、一般信徒の皆さん、「愛において一致した一つの偉大な人類家族は、空想の産物ではない」という真理を証しするために、共に旅と続け、働きましょう。

 兄弟姉妹の皆さん、歴史の劇的な出来事の中で、神の民が、この呼びかけにいっそう力強く応えることがきるように、祈りましょう。私たち皆が自分に相応しい場所を見つけ、この偉大な神の計画の次元のために最善を尽くすことができるように、聖霊の光を願いましょう!

 ローマ、ラテラノの聖ヨハネ教会にて。 2022年5月8日、復活節第4主日に  フランシスコ

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2022年5月7日