☩「分裂と紛争の世界で『対話と平和』の旅となった」教皇、バーレーン訪問を振り返る

Pope Francis greets crowds at General AudiencePope Francis greets crowds at General Audience  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2022.11.9 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは9日、水曜恒例の一般謁見で6日までのバーレーン訪問を振り返られ、「分裂と紛争に苦しむ世界における対話と兄弟愛の旅」だったと語られた。

 教皇は、紛争と戦争、特にウクライナでの戦争によって引き裂かれたこの世界で「平和を生み出す成果」を得たことを感謝された。

 そして、今回の旅の主目的が「平和に奉仕する宗教指導者を集めた、対話のためのバーレーン フォーラム参加」だったとされ、「なぜ私が、イスラム教徒が過半数を占めるこの小さな国を訪問したのか、不思議に思われる方も少なくないでしょう。その疑問に、『対話』『出会い』『歩み』の3つの言葉でお答えしたいと思います」と語られた。

(2022.11.9 バチカン放送)

 教皇の講話の要旨は次のとおり。

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 バーレーン王国の訪問から戻り、この訪問を祈りによって支えてくださった皆さん、大変温かくもてなしてくださった国王をはじめ同国当局と教会そして国民の皆さん、そしてわたしの訪問がスムーズに運ぶよう多大な仕事をしてくださった関係者らに心からのお礼を申し上げたいと思います。

 なぜ教皇はイスラム教徒が大部分を占めるこの小さな国を訪れることを望んだのか、という疑問がおのずとわくでしょう。この問いに、「対話」「出会い」「歩み」という3つの言葉を通して答えたいと思います。

 「対話」:この訪問のきっかけは、東洋と西洋の人類の共存を主題とする「対話のためのバーレーン・フォーラム」にバーレーン国王から招きを受けたことでした。

 他の人々や、宗教、伝統が持つ豊かさを発見するためには、対話が必要です。様々な島からなる列島バーレーンは、生きるためには孤立ではなく、歩み寄ることが大切だと教えてくれました。対話は平和のために必要であり、対話は「平和のための酸素」です。

 およそ60年前、第2バチカン公会議は、「平和の構築には、国家的なエゴイズムや他国に対する優越などの野心を捨て、国を超え、全人類に対する深い尊重を育みつつ、精神と心を広げる必要がある」と説きました。

 バーレーンではこのような必要を感じ、全世界の宗教者や社会の責任者らが自分の共同体の枠を超えた、全体を心にかけるために、自らの境界線の外を見るを力を養うことを願いました。こうしてこそ、神の忘却や、飢餓の悲劇、自然保護、平和などの普遍的なテーマと対峙することができるのです。

 「対話のためのバーレーン・フォーラム」は、出会いの道を選択し、衝突を拒むことを奨励するものであった。私たちはこれをどれほど必要としていることか。戦争の狂気の犠牲者であるウクライナをはじめ、他の多くの紛争も、幼稚な武力の論理ではなく、対話の穏やかな力を通してこそ解決できでしょう。

 「出会い」:しかし、出会いなくして対話はありません。バーレーンでは様々な出会いがあり、そこではキリスト教とイスラム教間の出会いと関係の強化を望む声が聞かれました。

 バーレーンでは、誰かに挨拶する時、手を胸にあてる。私も同じようにすることで、出会う人に心を開こうとした。相手を受け入れることがなければ、その対話は現実ではなく、理想だけの虚しいものになるからです。

 多くの出会いの中には、愛する兄弟、アル=アズハル・モスクのグランド・イマームや、カトリック学校での若者たちとの出会いもありました。そこで生徒たちは、キリスト教徒もイスラム教徒も、一緒に勉強しています。早くから互いを知ることが大事であり、このような兄弟的出会いは、イデオロギーによる分裂を予防します。

 「イスラム長老評議会」は、数年前に生まれた国際組織ですが、イスラム共同体間の良好な関係を推進し、原理主義や暴力に反対しながら、尊重、中庸、平和を教えています。

 「歩み」:バーレーンへの旅は、単独の出来事ではなく、聖ヨハネ・パウロ二世がモロッコを訪問して以来の、ひと続きの歩みとして捉えられるべきです。教皇によるバーレーン初訪問は、キリスト教とイスラム教の歩みにおける新たな一歩を表しています。

 その歩みは互いを混同したり、信仰を薄めるためのものではありません。それは、父祖アブラハムの名において、兄弟的な絆を築くためのものです。アブラハムは唯一の天の神、平和の神の慈しみの眼差しのもとに地上を巡礼しました。それゆえ、この訪問は「地には平和、御心に適う人にあれ」をモットーとしていました。

 バーレーンにおける「対話、出会い、歩み」は、キリスト者間においても行われました。そこでは兄弟であるバルトロメオス一世総主教をはじめ、キリスト教の諸教会や様々な典礼の人々との出会いがありました。

 また、バーレーンのカトリック信者たちは、まさに「歩み」を生きていました。彼らの多くは故郷を離れ、移民となって働きながら、神の民としてのルーツ、教会という大きな家族を再発見した人々です。

 司牧者や修道者などカトリック教会関係者らとの出会いや、湾岸諸国の多くの信者たちと祝った感動的なミサの中で、私は彼らに全教会からの愛情を伝えた。そして、今日、私は、彼らの純粋で素直で美しい喜びを、皆さんに伝えたいと思います。

 兄弟愛と平和の歩みを進めるには、すべての人、一人ひとりの力が必要です。聖母がこの歩みを助けてくださいますように。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年11月9日

☩教皇、帰国途上の機中会見で、ウクライナ、女性の権利、聖職者の性的虐待、移民・難民問題などについて語る

(2022.11.6  Vatican News  From the Papal flight)

   教皇フランシスコは6日午後、バーレーンから帰途途上の機中で、同行記者団たちと会見された。その中で、教皇はロシアのウクライナ軍事侵略はじめ世界の多くの地域で続く紛争について改めて強く批判、平和回復の努力を世界の指導者たちに訴えられた。また、バーレーン訪問中にも会われたイスラム教指導者、アル=アズハルのグランド・イマームとの親交、女性の権利と平等を確保することに重要性、移民・難民問題、聖職者による未成年性的虐待問題など幅広い質問に答えられた。

 (2022.11.7 バチカン放送)

 バーレーン訪問の手応え、また社会における宗教・民族・性別などの違いを超えた共存を推進する同国の努力について問われた教皇は、すべての人に開かれた文化から受けた新鮮な印象を振り返った。

 バーレーンではすべての人に居場所がある、と話す教皇は、国王も述べていたとおり、人々はそれぞれ自由な選択ができ、たとえば女性が働きたいと思えば、働くことができ、また、その開かれた性格は、宗教に関しても言えることである、と語った。

 また、教皇は、バーレーンで働き生活する、フィリピンやインド・ケララ州出身の多くのキリスト教徒の存在に胸を打たれた、と話した。

 この訪問は「出会いの旅」であった、と教皇は述べつつ、アル=アズハル・モスクのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師をはじめイスラム教指導者らとの諸宗教対話、また正教会のエキュメニカル総主教バルトロメオス1世らキリスト教諸教会代表とのエキュメニカル対話を思い起こされた。

 教皇は、アフマド・アル・タイーブ師がイスラム教間のそれぞれの違いやアイデンティティーを尊重した一致の方向を考えているように、キリスト教間の一致や、他の宗教との対話を進めるには、自分のアイデンティティーを持っていなくてはならない、と強調。

 自身のアイデンティティーなしでは、対話は、行き先も到着点もない、実態のない困難なものとなる、と話した。

 イスラム長老評議会との会見で、イスラム関係者が被造物とその保護について言及したことに強い印象を受けた、と教皇は述べ、環境問題はイスラム教、キリスト教、そして皆が憂慮する問題になっている、と語った。

 教皇は、「(この日)バーレーンから(COP27会議が行われる)カイロへ、バチカンの国務長官とアフマド・アル・タイーブ師が兄弟のように共に同じ飛行機で向かっているが、これは非常に感慨深いこと」と述べた。

 教皇はこの記者会見で、アブダビで3年前にアル・タイーブ師と署名した共同文書「世界平和のための人類の兄弟愛」が生まれた経緯についても説明。

 同師が表敬のためバチカンを訪れた際、フォーマルな会見を行ったが、それが終わり、退出しようとする同師を見送りに出ながら、ちょうど昼どきだったので、「お昼はどこで召し上がるのですか」「一緒に昼食をいかがですか」と招き、それぞれの秘書や顧問と一緒に非常に兄弟的な雰囲気の中で食事をした。その食事が終わる頃、この出会いをもとにした文書を作らないかという話になったと、その時の様子を回顧した。

 そして同師と草案を交換しながら文書をまとめ、アブダビ訪問の際にそれを発表する運びとなったが、「これは神のおかげとしか思えない、誰もそのようなことは考えてもいなかったのだから」と教皇は語った。

 バーレーンで教皇は女性の権利と尊厳をも含めた基本的人権について話したが、近くのイランでは(スカーフの着用をめぐり)女性たちによる抗議が起きている、との記者の言及に、教皇は、「男性と女性の平等はどこにでもあるとはまだ言えない。女性であることは一つの恵みであり、男女平等が普遍的なものとなるよう闘い続けなくてはならない」と話した。

 「神は男と女を同じように作られた。女性を公的生活から消す社会は、自ら貧しくなる社会である。権利の平等はもちろん、機会の均等も必要だ。共に前進するための平等が必要であり、そうでなければその社会は疲弊する」と述べつつ、教皇は、女性たちの権利だけでなく、女性たちの社会進出のために取り組み、わたしたちが女性たちのおかげで変わることができるように、と呼びかけた。

 ロシアとウクライナ間の和平交渉に対するバチカン側の動きについての問いに、教皇は、バチカンはこの問題に継続的な関心を注ぎ、国務省および外務局長がそのために多くの働きをしていると答え、解決模索のための接触や、人質をめぐる働きかけなどに言及した。

 教皇は、先の2つの世界大戦の後、今ウクライナにおいて戦争が起き、さらにシリア、イエメン、エチオピア、ミャンマーなど、いたるところで紛争が続いていることに触れ、「100年余りの間に3つもの世界大戦」を嘆かれた。

 戦争の悲惨と無数の戦没者への思いを胸に、教皇は、「ジャーナリストの皆さん、平和主義者であってください。反戦を語り、戦争反対のために努力してください」と記者たちに願われた。

(2022.11.6 Vatican News)

 記者団との一問一答の要約は次の通り。

*バーレーン訪問の成果は

問:Fatima Al Najem Bahrain News Agency: バーレーン王国への歴史的な訪問の結果をどのように評価しますか。また、バーレーンが、社会のすべての分野、すべての宗教、性別、人種の共同生活を統合し、促進するために行っている努力をどのように評価しますか?

答:教皇フランシスコ:  バーレーン訪問の主な目的は、イスラム教指導者たちとの宗教間対話とギリシャ正教のバーソロミュー・コンスタチノープル総主教とのキリスト教一のための対話でした。

 イスラム教の長老評議会では旧知のグランド・イマームと顔を合わせました。彼の話を私は注意深く聞かせてもらいましたが、イスラム教内部での対話について、違いを消し去るのではなく、お互いを理解し、協力すること、敵対しないことを強調されたのに感銘を受けました。私たちキリスト教徒は、正統派やルター派に反対するカトリック教徒など、宗教戦争につながったという歴史を持っていますから。私たちは宗教を信じる者として、友人として、兄弟姉妹として共に歩み、善を行う必要があります。彼の被造物と被造物の保存についての発言にも感銘を受けました。これは、イスラム教徒、キリスト教徒など、すべての人に共通の関心事です。現在、バチカン国務長官とアル・アズハルのグランド・イマームは、兄弟として一緒に同じ飛行機でバーレーンからカイロに移動しています。これはかなり感動的です。

 バーソロミュー総主教はキリスト教一致の分野での権威であり、彼の存在はとても良い結果をもたらしています。

 バーレーンには、誰にでも受け入れられる場所があります。また、国王が私に完全な開放性。宗教的分野の開放性が自分の国にはあると言われました。実際、フィリピン人やケララ州から来たインド人など、大勢のキリスト教徒がこの国に住み、働いていることに感銘を受けました。

 

*レバノン訪問の可能性は

 

問:Imad Atrach: 教皇様、3 年前の人類の友愛に関する文書への署名以来、バグダッドへの訪問、そして最近のカザフスタンへの訪問に至るまで、目に見える成果を生んでいるとお思いですか?バチカンでの会議で最高潮に達すると期待できますか? そして、私たちレバノン人は、あなたの訪問を本当に緊急に必要としています。現在、私たちには大統領さえいない状況です。

 

答:教皇フランシスコ:  私は最近、アブダビ文書のアイデアがどのように生まれたか、私が共に作成した最初の文書について、多くのことを考えてきました。彼が表敬訪問のためにバチカンを訪れ、議定書について会議が行われた後、私たちは一緒に昼食をとることにしました。私たちはパンを取り、それを裂き、お互いに与え合いました。兄弟愛に満ちた、とても素敵なランチでした。そして食事の終わりに、誰が思いついたのかわかりませんが、この会議を文書にしようということになりました。双方の秘書役が作業に取り掛かり、最終的にアブダビ会議を利用してそれを文書を公開しました。それは神から来たものでした。そうでなければ理解できません。それは友好的なランチで実現したのです。

 アブダビ文書は私が出した回勅「兄弟の皆さん」の基礎になりました。主からの特別な祝福なくしては、そのような道を考えることはできなかった、と私は信じています私たちは、その後、友達になり、今では会うたびに話します。

 レバノンに関しては…  私にとって悲しいことです。レバノンは国ではありませんが、私たち全員にとって非常に大きな意味を持っています。そしてレバノンは今苦しんでいます。私は祈り、レバノンの政治家たちに訴えます。「私利私欲を脇に置き、最初に神、次に国、次に利益だということに同意してください」と。「レバノンを救え」とは言いたくありません。”救世主”ではないからです。しかし、レバノンを支援してください。レバノンがその偉大さを取り戻すことができるように助けてください。手段があります…レバノンの寛大さがあります。レバノンには何人の政治難民がいるのでしょう! 彼らは苦しんでいます。この機会にレバノンのために祈りをお願いします。祈りは友情でもあります。あなたはジャーナリストです。レバノンを見据え、現状を伝えてください。

 

 

*世界ではまだ女性差別が存在する、男女平等へ戦い続けねばならない

問:Carol Glatz, CNS:今回のバーレーン訪問中に、女性の権利、女性の尊厳、社会的および公共の領域に女性の居場所を持つ権利などの基本的権利についてお話しになりました。また、より公正な世界に向かって前進するために、若い人たちに勇気を持って声を上げるよう勧められました。イランでは、自由を求める一部の女性と多くの若者によって抗議行動が引き起こされています。基本的権利を要求する人々の努力を支持されますか?

答:教皇フランシスコ:  私たちはお互いに真実を語らねばなりません。女性の権利のための闘争は進行中です。女性が男性と平等な場所もあれば、そうでない場所もあるからです。権利は基本的なものです。しかし、どうして今日の世界で、若い女子の陰門封鎖の悲劇を止めることができないのでしょうか?この慣行がいまだに存在するという事実、人類はこの犯罪、犯罪行為を止めることができないという事実!私が聞いた 2 つのコメントによると、女性は「使い捨て」の素材であるか(それは悪いことです)、または「保護された種」だというのです。男性と女性の間の平等はまだ普遍的に見られるわけではなく、女性が二級市民以下である場合があります。男女平等のために、私たちは戦い続けねばなりません。

 神は人間を男女平等に創造されました。そして、聖パウロは、男性は女性を自分の肉として世話するべきだ、と言いました。これは、当時としては画期的なことでした。すべての女性の権利は、この平等から生まれます。女性に居場所を与えられない社会は前に進みません。世界には経済のビジョンを変え、それを前進させることができる女性経済学者がいます。彼女たちは、男性とは別の賜物を持っている。物事を別の方法で実行する方法を知っています。女性は男性より劣っているのではなく、相互補完なのです。

 一国の政府のトップを務める、数人の子供の母親と会ったことがあります。彼女は、その国の困難な状況を解決するのに非常に成功していました。私は彼女に「教えてください。どうやってこのような困難な状況を解決したのですか」と尋ねました。彼女は黙ってこのように手を動かし、それから私に言いました。「[これが] [私たち] 母親のやり方です」と。 女性には、男性のやり方ではなく、問題を解決する独自の方法があります。女性が持つ洞察力で共通の利益のために働きます。

*バチカンでは女性を要職に就けるたびに状況は良くなっている

 バチカンでは、女性がバチカンで仕事をするたびに状況が良くなっています。バチカン市国の次長は女性です。物事は最善の方向に変わっています。バチカンの財務評議会にはこれまで枢機卿が6人、信徒が6人で全員が男性でした。私は一般信徒6人を男性1人と女性5人に変えました。女性は正しい道を見つけ、前進する方法を知っている。これは革命です。そして今、私はマリアンナ・マツカート(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)教授を教皇庁生命科学アカデミーのメンバーに入れました。アメリカ出身の偉大なエコノミストです。

 私たちは女性たちを必要としており、公の場から女性を排除する社会は、社会そのものを貧しくします。権利の平等、機会の平等が無ければ、私たちは貧しくなります。

 

*ウクライナ和平への努力は具体的になされているのか?

問:Antonio Pelayo, Vida Nueva: バーレーン訪問中に、ウクライナ問題への言及は「苦しむウクライナ」と「和平交渉」だけでした。交渉実現にバチカンはどのように取り組んでいるのでしょうか。進展は?プーチン大統領と最近話されましたが、会談を近い将来なさるおつもりですか?

答:教皇フランシスコ:  ウクライナ問題について、バチカンは常に注意を払っており、国務長官はよく対応し、外務局長のギャラガー大司教もよく働いてくれています。

 ロシアの軍事侵攻が始まった翌日、私はバチカン駐在のロシア大使館に出向き、大使と話をしました。「必要があればモスクワに行ってプーチン大統領と話をする用意がある」と彼に伝えました。彼から連絡を受けたラブロフ外相は、とても丁寧な返事をくれましたー「ありがとう」。でも、モスクワ訪問は今のところ必要ではない、と。それ以来、私はゼレンスキー大統領と電話で2回話しました。その後、ロシア大使とさらに数回。解決策を模索する作業が続いています。

 ウクライナの人々はロシア軍の残酷な行為に苦しめられていますが、おそらくロシアの人々の行為ではない。傭兵、冒険するために戦争に行く兵士によるものでしょう。 私はロシアの人々、ロシアのヒューマニズムに対して敬意を持っているので、そう考えたい。今日に至るまで私たちキリスト教徒に刺激を与え、キリスト教について考えるように促してきたドストエフスキーのことを考えてみてください。

 私はロシアの人々にも、ウクライナの人々にも大きな愛情を持っています。 11 歳の時のことです。近所の教会の司祭がウクライナ語によるミサを捧げ方を教えてくれました。ですから、私はウクライナの典礼に大きな愛情を持っています。私はロシア人、ウクライナ人という大好きな二人の真ん中にいるのです。バチカンは非公式の会議を何度も開き、良い結果をもたらしています。

 それにしても嘆かわしいのは、この100年余りの間に、3回の世界大戦が起きていることです。 1914年から1918年の第一次大戦、1939年から1945年の第二次大戦、そして、今、ウクライナなど世界中で起きている戦争。今日、最大の”災難”は武器産業です。1年間武器を作らなければ、世界の飢餓を終わらせることができる、と言う人がいます。イエメンでも、エチオピアでも、ミャンマーでも、武器と闘いのある所で、多くの人が飢え苦しんでいます。欧州の人々は、ロシアとウクライナの戦争の影響を強く受けています。

 2019年6月に 連合軍のノルマンディー上陸作戦75周年の記念式典が行われた時のことを思い出します。式典には、非常に多くの国の代表が出席しました。上陸作戦の成功は、ナチズムの崩壊の始まりとなりましたが、ノルマンディーの海岸には、何人の若者たち(の遺体)が残されたでしょう。3万人ともいわれます。出席者の誰がその若者たちのことを考えたでしょうか。戦争はこれらすべての悲劇の種をまきます。だからこそ、ジャーナリストであるあなたは、平和主義者として、戦争に反対してください。兄弟としてお願いします。

 

 

*司祭の性的虐待で信徒は”破壊”される、たとえ一件でも重大

 

問:Hugues Lefevre I.Media: フランスでは、つい先日、1990 年代に性的虐待を犯し、現在は引退している司教の 2021 年の有罪判決を、教会が秘密にしていたことが明らかになり、多くの信者が、あなたがバーレーンでの聖職者との集いで言われた「キリスト教徒である喜び」を失いました。  今日、多くのカトリック教徒は、教会の”秘密の文化”を改め、透明にすべきか、知りたいと思っています。

答:教皇フランシスコ:   性的虐待の問題は、教会だけでなくあらゆる場所で常に存在しています。非常に深刻な問題ですが、これまで常に隠ぺいする習慣がありました。自身もスキャンダルで辞任したバーナード・ロー枢機卿がボストン大司教を務めている時に聖職者の性的虐待スキャンダルが初めて表面化しました。私たちカトリック教会は、家庭や社会の中で起きている性的虐待のスキャンダルの中では”少数派”だ、と言う人もいますが、たとえそれが、一件だとしても、重大です。信徒を育てる使命を持つ司祭の行為は、信徒を破壊するからです。司祭にとって性的虐待は、司祭として、社会人として、そのあるべき姿に反する悲劇であり、隠してはなりません。

 ボストンでのスキャンダル発覚以来、私たちは聖職者による性的虐待について、調べ、告発を進める中で、すべてを透明にしようとしています。ボストンでの発覚以前に、教会は、発覚前に人々が入れ替わった(つまり、司祭を他地域に移動させた) ことがあった。今、別の司教の問題が私のところに報告されていますが、「私たちは知らなかった」とか「それは当時の文化であり、今でも隠す文化が続いています」と言うのは容易なことではありません。

 私は、バチカンに未成年者保護委員会を設け、さらにそれを強化しています。(聖職者による性的虐待をなくし、被害者の権利確保、ケアのために)私たちはできる限りの努力をしていますが、教会の中に、事の重大性をはっきり認識せず、認識を共有していない人々がいることも、私は知っています。誰もが勇気を持っているわけではありません。「妥協したい」という誘惑に駆られることもありますが、教会の意志はすべてを明らかにすることにあるのです。

 私はここ数ヶ月で、隠蔽され、教会によって適切に判断されなかった性的虐待の事例について、2 件の苦情を受け取りました。これもまた、古い判断、適切に行われていない[適切に与えられていない]ことの修正が求められる事例です。私たちはできることをします。

 

*アフリカからの移民・難民は欧州連合加盟国全体で責任を持つべきだ

 

問:Vania De Luca Rai-Tg3:  移民・難民問題ですが、イタリアでは新政権が中道右派による「港湾閉鎖」政策をとるのではないか、と言われています。女性が首相の政権がイタリアで初めて誕生しましたが、どのような印象、どのような評価をお持ちですか?

答:教皇フランシスコ:  移民・難民は進んで受け入れられ、共に歩み、促進され、現地社会の一員とされねばなりません。これらの 4 つのステップを踏むことができなければ、移住者との関係はうまくいきません。

 現在は、地中海に最も近いキプロス、ギリシャ、イタリア、スペインの 4 つの国が移民・難民を受け入れていますが、欧州連合の加盟国は受け入れ可能な移民・難民の数について合意する必要があります。海を渡ってくる移民・難民の安全を確保する必要もあります。移民政策は、すべての国の間で合意されねばなりません。欧州連合は協力と支援の政策を採用する必要があります。キプロス、ギリシャ、イタリア、スペインの沿岸に到着するすべての移民に対する責任を放棄することはできません。

 イタリアのこれまでの政権の方針はある時点まで、移民・難民の命を救うことでした。新政権も同じ方針だと思います。ただ、欧州連合加盟国の合意なしには何もできません。責任は欧州全体にあります。

 関連してアフリカに関する欧州の責任です。ドイツのメルケル前首相は、移民・難民の問題はアフリカ自身で解決されねばならない、と言いましたが、「アフリカは搾取されなければならない」という発想では、人々がこの地域から脱出しようとするのは当然です。欧州は、アフリカの開発計画を立てねばなりません。アフリカのいくつかの国では、いまだに植民地勢力に依存していると考える人がいる。アフリカの人々が受けている搾取はひどいものです。

 イタリアの新政権について。政府はすべての人のためのものであり、イタリアを前進させるために最善を尽くすことを常に願っています。そして、政府与党に反対している他のすべての人たちが批判的な感覚で協力することを願っています。21 世紀になって今までに、イタリアでは政権交代が20 回もあったというのは望ましいことなのでしょうか。

 

*毎年30万人が去るドイツのカトリック教会に処方箋は

 

問:Ludwig Ring-EifelCentrum informationis Catholicum:  バーレーンで見たものとドイツの状況をどのように関連付けることができるでしょうか。 バーレーンでは、小さな教会、小さな群れ、貧しい教会、多くの制限などがありますが、希望に満ちた活気のある教会が成長しています。対して、ドイツには大きな教会があり、素晴らしい伝統があり、資産もあり、神学的、財政的、その他すべてを備えているにもかかわらず、毎年30万人の信者を失い、深刻な危機に瀕しています。 ”偉大なドイツ”がバーレーンから学ぶべきことは?

 

教皇:ドイツには長い宗教の歴史があります。ドイツには大きな素晴らしい福音派教会があります。私は別のものを望みませんが、福音主義者と友愛関係をもつカトリック教徒を希望します。時々、私たちは、神の聖なる信徒たちの宗教的感覚を見失い、倫理的な議論、偶発的な事柄についての議論、神学的な結果をもたらす議論に陥ります。神の民は何を考えていますか?何を感じていますか?彼らのところに行って、彼らが感じるもの、祖父母に見られる率直な宗教性を探してください。信仰のルーツを見つけてください。信仰は、イエス・キリストとの出会いから始まります。イエス・キリストとの出会いがなければ、キリスト教を装った倫理になってしまうでしょう。

(Working transcription and English translation prepared by the Dicastery for Communication)

2022年11月7日

☩「 愛しながら、神に会いに行く」死者の日・過去一年に亡くなった枢機卿・司教を追悼

教皇フランシスコ、この一年に亡くなった枢機卿・司教のための追悼ミサで 2022年11月2日 バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコ、この一年に亡くなった枢機卿・司教のための追悼ミサで 2022年11月2日 バチカン・聖ペトロ大聖堂  (ANSA)

(2022.11.2 バチカン放送)

 「死者の日」を記念する2日、教皇フランシスコは聖ペトロ大聖堂で、この1年間に亡くなった枢機卿・司教のためにミサを捧げられた。

 教会の典礼暦は、「諸聖人」の祭日の翌日2日、帰天したすべてのキリスト者を記念する。教皇はこのミサを通して、昨年10月末から今日までに帰天した9人の枢機卿、148人の司教を思い起こされた。

 説教で、「私たちは皆、『さあ、私の父に祝福された人たち』(マタイ福音書25章34節)と、いつかイエスに呼ばれる日を希望のうちに待ちながら生きています」、さらに「私たちはこの世の”待合室”にいて、天国に入り、主が催される『すべての民のための祝宴』(参照 イザヤ書25章6節)にあずかる日を待っている状態にあります」と語られた。

 そして、「天を待ち望む希望を育む一方で、私たちの望みが地上の過ぎ去るものだけにとらわれていないか」自省するように、そして「天国を待ちながら、どのような態度で生きるべきか、その答えをマタイ福音書の25章から学ぶように、と勧められた。

 マタイ25章のイエスが語る最後の審判の場面で、より分けられた正しい人々が驚いて「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て、食べ物を差し上げ…たでしょうか」( 37節参照)と言い、一方で、正しくない人たちが驚いて「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て…お仕えしなかったでしょうか」(44節参照)言う、いずれにも共通する「主よ、いつ私たちは」に、教皇は注意を向けられた。

 そして、「『いつ私たちは』の問いかけに対する答えはただ一つです。『いつ』とはまさに今、この時であり、自分の行いの責任は私たちの手の中に、私たちの慈しみの業の中にあるのです」と語られた。

 教皇は最後に、「この福音は、『どのようにして、私たちは天に入る日を待って生きるべきか』を説明しています。それは『愛しながら、神に会いに行くこと』です。なぜなら、神は愛だからです」とされ、「神は、この世の貧しい人や傷ついた人の間で、私たちを待っておられるのです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2022年11月3日

☩「聖人たちのように、平和を造る者となれ」諸聖人の祝日の正午の祈りで

(2022.11.1 Vatican News  Sophie Peeters)

 教皇フランシスコは1日、諸聖人の祝日の正午の祈りの説教で、「聖人たちの人生は、私たちが平和を生み出す者として生き、慈悲、愛、正義の働きを通じて大胆に平和への道を築くよう促しています」と語られた。

 教皇は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「イエスの山上の説教での至福の教え」(5章1‐12節)を取り上げ、「この教えは、聖人たちの『身分証明書』の役割を果たしています」とされた。そして、「すべての聖人の人生は、”完璧”で”厳格”な生き方をした、という”お決まり”のものではなく、徹底して”反体制文化的”で”革命的”な生き方をした、という別の側面を示しています」と指摘された。

 

*「平和を造る人々は幸いである」

 さらに教皇は、イエスの至福の教えのうちの「平和を造る人々は幸いである」(5章9節)を例に挙げ、「イエスがもたらした『平和』の形は、私たちが想像したり、定義しようとするものとは大きく異なることが多い。私たちにとっての『平和』は、静穏、混乱や問題のないところに何もせずにいること、を意味することが多いようです」と述べられた。

 そして、イエスは私たちに求められているのはそうではなく、「正義と憐れみの業を通して平和を造るように、平和を造る者として行動するように、と求めておられるのです」と指摘。「聖書が『平和の種まき』について語っているのは、それが生命の土、心の種から芽を出すからです。私たちが今日、祝っている輝かしい証人が示しているように、その芽は正義と慈悲の働きを通して、日々静かに成長しています…」と語られた。

 続けて教皇は「イエスの生涯と聖徒たちの生涯は、成長して実を結ぶためには『平和の種がまず、死ななければならない』ことを示しています… 平和は、誰かを征服したり打ち負かしたりすることによって達成されるのではない。決して暴力によらず、武装することでもない」と強調された。

 

*心の武装を解く

 さらに教皇は「平和を造る人になるために、何をせねばならないのでしょう?」と問いかけられ、「私たちは皆、鋭い言葉を発したり、攻撃的な考えを持ったりする潜在的な傾向がありますが、平和を造る者になるための最初のステップは、イエスに心を開くことで武装を解くこと、十字架の前に立ち、告白して、イエスから”赦しと平和”を受けることです。これが私たちの出発点。平和を造る人ー聖人であることは、私たちの能力ではなく、神の賜物であり、恵みだからです」と説かれた。

 

*平和を造る者への永遠の報酬

 また教皇は「私たちは、日々の生活の中で平和をもたらすことを望んでいますか?それとも日々の行動を通じて痛み、ゴシップ、論争をもたらすことを求めていますか?」と問いかけられた。

 そして「平和を造ることは、社会の片隅にいる人々を気遣い、不正と戦い、他者を赦すこと、です… 平和への道を開く人は、イエスが言われるように、最終的に天国で報われ、『神の子』と呼ばれる。今日の世界では”場違い”に見えるかもしれませんが、天の国の平和を造る人は、神に最も近いのです」と強調。

 最後に「すべての人を愛し、誰も傷つけない者が勝ちます。詩篇にあるように、『平和な人には未来がある』のです」と語られ、「全ての聖人の女王である聖母マリアに取次ぎを願いましょう。私たちが日々の生活の中で、平和を造る者となるのを助けてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年11月2日

☩「緊急に必要な兄弟愛と平和の有益な機会となるように」 教皇、3日からのバーレーン訪問を前に

2022年11月1日「諸聖人」の祭日のお告げの祈り 教皇のバーレーン訪問を前に「よい旅を」と書かれた横断幕 バチカン・聖ペトロ広場2022年11月1日「諸聖人」の祭日のお告げの祈り 教皇のバーレーン訪問を前に「よい旅を」と書かれた横断幕 バチカン・聖ペトロ広場  (ANSA)

(2022.11.1 バチカン放送)

 教皇フランシスコは1日、「諸聖人」の祭日のお告げの祈りで、二日後から始まるバーレーン訪問を前に、同国民に挨拶をおくられた。

 教皇は11月3日から11月6日まで、4日間の日程でバーレーン王国を訪問される。

 お告げの祈りで教皇は「明後日、バーレーン王国への訪問に出発し、日曜日まで同国に滞在します」とされ、同国の国王をはじめ、キリスト教共同体とすべての国民、また教皇の訪問を準備する人々に感謝の言葉を述べられた。

 そして、「対話のしるし」としてのこの訪問で、人類の共存のために不可欠な東洋と西洋の出会いをテーマとする「対話のためのバーレーン・フォーラム」に参加するほか、イスラム教や他の諸宗教の代表との出会いを持つ予定であることを述べられ、「神の名において、これら一つひとつの出会いや行事が、私たちが今、緊急かつ特別に必要としている兄弟愛と平和の追求を支える有益な機会となるよう、祈りと共にこの訪問を見守ってほしい」とすべての人々に願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月2日

☩「私たちも、教会も、『人を思いやるイエスの眼差し』を持っているか」年間第31主日の正午の祈り

(2022.10.30 Vatican News  Devin Watkins )

 教皇フランシスコは30日、年間第31主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の「徴税人ザアカイ」の箇所(19章1-10節)を取り上げ、イエスのザアカイとの場面を振り返られて、「主は、私たちの尊厳を回復したい、という強い希望をもって、打ちひしがれた人類に、いつも眼差しを注いでくださる」と語られた。

 「徴税人ザアカイ」の場面では、イエスがザアカイに「あなたの家に泊まることにしている」とおっしゃった話が語られている。

 教皇は、この徴税人が木に登ってイエスを見下ろした時に、イエスと共有する「眼差し」に注目された。エリコの町の徴税人の頭だったザアカイは、「イエスが誰か」を見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られてみることができず、木に登らねばならなかった。

 

*やり直す機会はいつも与えられている

 教皇はまず、ザアカイが「イスラエルを支配しているローマ帝国のために働く徴税人で、他の人から金をゆすり取るために地位を利用したため誰からも嫌われ、罪人の烙印を押されていた」ことに注目。そして彼は、これまで見たこともないイエスを、木に登ってまで見ようとした。

 「ザアカイのこの振る舞いは、『人生においてすべてが失われることは決してないのだ』ということを教えてくれます。私たちは、『もう一度始めたい、やり直したい、回心したい』と切望する場を、いつでも見つけることができるのです」と教皇は語られた。

*神は私たちを導くために謙虚になられる

 教皇が次に注目されたのは、「迷える人々を探し求めるために御父から遣わされたイエスの眼差し」だ。

 ルカの福音書には、イエスは、ザアカイが登った木のそばに来ると、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしている」と言われた、と書かれている。

 教皇は、「この言葉は、ザアカイを下から『見上げる』という、イエスの素晴らしい姿に続いています」とされ、「これが救いの歴史です。私たちを下から見上げ、言葉をかけられるどころか、私たちの足を洗い、私たちの尊厳を回復するところまで身を低くされたのです」と説かれた。

 さらに「このエピソードは、救いの歴史のすべてを要約しています。悲惨の中にある人類は、贖罪を求めますが、神はまず、憐れみをもって、被造物を救おうとされます」と付け加えられた。

 

* イエスは愛をもって私たちを見つめておられる

 続いて教皇は、この福音が私たちにとって何を意味するのかに注意を向けられ、「神は、私たちの過ちを含めて過去にこだわることは決してなく、むしろ、『私たちが何になれるかを、限りない自信を持って』見ておられます」と指摘。

 そして、「私たちが人生の試練に立ち向かえないときでさえ、イエスはいつも愛をもって私たちを見つめておられ、私たちが喜んで受け入れるなら、私たちの家にイエスご自身を招いてくださいます」と強調された。

 そのうえで、教皇は「私たちもまた、自分自身をどのように見ているか、他の人々が『数々の過ちの積もった塵』から立ち直ろうと奮闘しているのをどのように見つめているか、を考えるよう求められているのです」と語られ、次のように締めくくられた。

 「私たちキリスト教徒は、思いやりをもって、迷える人々を探し求め、下から抱きしめられるキリストの眼差しを持たなければなりません。これは教会の視線であり、常にそうでなければなりません」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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(2022.10.30 バチカン放送)

教皇、韓国・ソウルの転倒事故の犠牲者を悼む

 教皇フランシスコは、30日の正午の祈りの集いで、韓国・ソウルの繁華街で発生した転倒事故に言及、犠牲者の冥福を祈られた。突然の事故で亡くなった若者たちをはじめとするすべての人々を心に留め、これらの犠牲者を復活の主に託して祈られた。

 29日夜、ソウルの梨泰院(イテウォン)の路地で起きた、密集の中の転倒や圧迫による犠牲者はこれまでに154人、負傷者は133人確認されている。

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ソマリアで爆破テロ:教皇、暴力的な人々の回心祈る

 教皇フランシスコは30日の正午の祈りの集いで、ソマリアの首都で起きた爆破テロの犠牲者のために祈られた。

  「キリストの悪と死に対する勝利を記念しつつ、モガディシオのテロ攻撃の犠牲者のために祈りたいと思います。このテロでは多くの子どもたちを含む100人以上が亡くなりました」と述べた教皇は、「神が暴力的な人々の心を回心させてくださいますように」と祈られた。

 アフリカ東部ソマリアの首都モガディシオで、10月29日、2回の爆発が起きた。この爆発により少なくとも100人が死亡、300人以上が負傷した。ソマリア当局はこの事件をイスラム過激派組織アル・シャバーブによるテロであると見ている。現場は、モガディシオ中心部の教育省前で、路上に置かれた車2台が相次ぎ爆発した。2017年10月にも同じ場所で大規模な爆破テロが発生し、500人以上が犠牲となっている。

2022年10月30日

◎教皇連続講話「識別について」⑦神の声に耳を傾けるなら、”霊的荒廃” は私たちを強くする

Pope Francis holds his General Audience at the VaticanPope Francis holds his General Audience at the Vatican 
(2022.10.26 Vatican News  Benedict Mayaki, SJ)

  教皇フランシスコは26日、水曜恒例の一般謁見で「識別について」の連続講話をお続けになり、「『霊的荒廃さと悲しみ』は、好ましくない経験とされているが、寛容さと自覚をもって乗り越える方法を私たちが知っていれば、それによって重要なことを学び、霊的に強められる」と説かれた。

 この日の講話で教皇はまず、「識別は、本来、論理的な手法ではなく、行動に基礎をおいており、行動には情緒的なものが含まれていることを認めねばなりません。それは、神が心に語りかけるからです」と語られ、情緒的な表われ方と、識別の対象として「霊的荒廃」を取り上げられた。

*「精神的な荒廃…悔恨」

 そして、ロヨラの聖イグナチオの霊操を思い起され、「霊的荒廃」を「魂の闇、魂の乱れ、低俗で世俗的なものへの指向、さまざまな落ち着きのない興奮や誘惑、自信の欠如、自分が怠惰で、熱意に欠け、惨めで、愛もない、希望もない、自分を創造した方である主から見捨てられたように感じる状態」と定義された。

 そのうえで、「私たち全員が、何らかの形でそのような霊的荒廃を経験したことがあります。問題は、それをどのように解釈するか、ということです。なぜかと言うと、霊的荒廃には重要な意味があり、虚しさから自分を解放しようとあせると、その意味を失う危険があるからです」と説かれた。

 さらに「私たちは皆、いつも楽しく、陽気で、充実した人生を望んでいますが、これはいつも、そうできるとは限らないし、私たちにとって良いことでもありません。悪徳に向かっていた人生の変更は、悲しみの状態、自分がしたことへの悔恨から始めることができるからです」と語られた。

 「”悔恨(remorse)”という言葉は、語源的に『平和を許さないものにかみつく良心』を意味します」とされ、アレッサンドロ・マンゾーニ(1785年 – 1873年=イタリアの詩人、作家。啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアの孫)は、著書「The Betrothed(婚約者」に出てくる、フェデリコ・ボロメオ枢機卿と、恐ろしい夜の後、驚くような言葉で話した枢機卿に破滅させられたとする無名の人の会話の中で、「悔恨は、人生を変えるチャンスだ」と語っている、と述べられた。

 

*「悲しみ」を”読む”ことを学ぶ

 続いて、教皇、「悲しみ」を”読む”ことを学ぶ重要性を指摘され、次のように語られた。

 「聖トマス・アクイナスは『神学大全』で、『悲しみ』を『魂の痛み』と定義しています。私たちの体の神経のように、『悲しみ』は、起こりうる危険や、無視された親切な行いに、私たちの注意を向けさせるため、私たちの健康にとって欠かせません。私たちを自分自身や他の人に害を及ぼすことから守ってくれる。私たちが『悲しみ』を感じていなければ、感じる場合よりも、はるかに深刻で危険なことになるでしょう」。

 だが、「『悲しみ』は、善行を熱望する人にとって『誘惑が挫こうとする障害』であり、障害を退けるために、示唆されていることとまったく逆のやり方をし、自分が始めたことを続ける決意をせねばなりません」とも語られ、「善への道は狭く、険しく、闘いと自己征服が必要だ」という福音書に書かれた注意を思い起こされた。

 そして、「神に仕えたい」望む人々に、『精神的荒廃』に惑わされないように強く勧められ、「残念なことに、一部の人々は精神的荒廃に駆り立てられ、案内人の助けがないと、祈りや自分が選んだ人生を放棄してしまいます… 精神的荒廃に陥った時、変更しないのが賢明です。私たちの選択の良し悪しが明らかになるのは、その時の気分ではなく、その後の時です」と忠告された。

*試練は重要な時

 次に教皇は、断固たる決意で誘惑を退けられたイエスの例を挙げ、「 試練は、イエスを四方八方から襲いましたが、父の御心を行うことを決意されたイエスの歩みを妨げることはできませんでした」と語られた。

 そして「霊的生活において、試練は、重要な時です。『主に仕えるようと思うなら、自ら試練に備えよ」(旧約聖書・シラ書2章1節)だからです。同じように、教師は、学生たちが与えられた課題の本質を理解しているかを確かめるためにテストをし、パスした学生だけを受け入れます… そして、孤独と精神的荒廃を、寛容さと自覚をもって越える方法を知っていれば、私たちは人間的、精神的な面で強くなることができます。私たちの手が届かない試練はありません」と言明され、次のように講話を締めくくられた。

 「聖パウロは『神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず… 耐えられるよう…備えてくださる』(コリントの信徒への手紙1・10章13節)と語っています。主は、決して私たちを見捨てられず、そばにいてくださるので、私たちはすべての誘惑に打ち勝つことができる。 今日克服できなくても、もう一度立ち上がり、歩き、明日、克服できます。ですから、死んだままー悲しみ、霊的荒廃に打ち負かされたままになっては、なりません。前進してください。 主が、常に旅である霊的生活の道を勇気をもって進むのを祝福してくださいますように。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年10月26日

☩「核の脅しに屈するな、平和の叫びを天に上げよう」教皇、諸宗教指導者との祈りの集いで

 教皇フランシスコは25日午後、ローマ市内コロッセオで行われた平和祈祷集会に出席。諸宗教指導者らと共に平和への祈りを捧げられた。

 この祈祷集会は、カトリック系団体、聖エジディオ共同体が主催するもので今年で第36回目で、「平和の叫び」をテーマに、23日から開幕した今年の集会には、諸宗教を代表する人々はもとより、フランスのマクロン大統領をはじめとする各国の政治家、学者、国際組織関係者などが参加した。

 教皇フランシスコは、集会最終日、25日、コロッセオで行われた閉会行事に出席。キリスト教の諸教会のリーダーや、世界の諸宗教指導者らと共に、今日最も必要とされる平和を強く祈願された。

 教皇は「今年の集いで、私たちの祈りは『叫び』となった。なぜなら、今日、平和は侵害され、傷つき、蹂躙されています。そして、これはヨーロッパで、前世紀に二つの世界大戦の悲劇を経験したその大陸で今まさに起きているのです」と話され、「残念ながら、大戦後も戦争はその流血と破壊をやめることはなかった。しかし、私たちが今体験している状況は特別に深刻です。それゆえ、私たちは神に祈りを上げた。神は子らの苦しみの叫びに耳を傾ける方です」と説かれた。

 そして、「今夕、沈黙の祈りの中に私たちは平和の叫びを聞きました。それは世界の様々な地域で暴力によって侮蔑された平和の叫び、子どもやお年寄りさえ容赦しない戦争の残忍が奪った平和の叫びです」とされた。

 また、教皇は「あらゆる戦争は、戦争以前よりも悲惨な世界を残す。戦争は政治と人類の敗北である。それは恥ずべき降伏、悪の力を前に屈することです」と述べつつ、過去の悲劇の教訓から学ぶ必要を強調。「それにもかかわらず、今、私たちは、聞くことを恐れてきた『核兵器の使用』という言葉を聞くようになった。広島と長崎の後も、核兵器は製造され、実験され、公然とした脅しとなっています」と核の脅威に言及された。

 一方で、教皇は、「諸宗教間の友愛は大きな進歩を見せ、私たちはいっそうの兄弟愛を感じています」と述べ、「宗教は戦争に利用されてはなりません。平和だけが聖であり、テロや暴力のために神の名が用いられることがあってはならないのです」と昨年の集いのアピールを改めて繰り返された。

 最後に教皇は「戦争を前にあきらめてはなりません。和解の種を育て、平和の叫びを天に上げましょう」と呼びかけられ、聖ヨハネ23世の言葉、「地上のすべての人が、兄弟として結ばれ、人の最も熱望する平和が、すべての人のうちに花開き、いつまでも支配しますように」(「地上の平和」91)で祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月26日

☩「ウクライナと全世界に平和があるように」-25日のコロッセオでの全宗教者祈祷集会に霊的参加を呼びかけ

Pilgrims in St. Peter's Square at the AngelusPilgrims in St. Peter’s Square at the Angelus  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは23日、年間第30主日の正午の祈りに続いて、この日が「世界宣教の日」であることを指摘され、祈りと具体的な連帯をもって宣教師を支援するよう信徒たちに促された。

 また、25日にローマのコロッセオで予定される全宗教者による平和のための祈りに、世界の各宗教の代表者と共に、教皇ご自身も参加されることを明らかにされ、この機会に改めてウクライナと世界の平和を祈るように、正午の祈りの参加者、そして世界の人々に、次のように呼びかけられた。

 「この偉大な神への祈りの集いへの霊的参加をお勧めします。祈りは平和の力です。 祈りましょう、苦しみの中にあるウクライナのために祈り続けましょう」。

*世界宣教の日ー「あなたは私の証人になります」

 また教皇は、23日が「世界宣教の日」であり、今年のテーマは「あなたは私の証人になります」であることを確認され、「福音の証しと宣教を通して、教会の普遍的な使命に参加したい、という強い希望を、洗礼を受けたすべての人に、再び目覚めさせる重要な機会になります」と強調。

 「私は、宣教師が世界中で福音宣教と人類を高める働きを続けられるように、祈りと具体的な連帯をもって宣教師を支援することをすべての人に勧めます」と述べられた。今年の「世界宣教の日」のメッセージの中で、教皇は「私は福音宣教を全うする教会と、キリスト教共同体における宣教活動の新しい時代を夢見続けています」と語られている。

*キリストの勇気ある証人となる

 短い説教の最後に、教皇は、前日の22日に、1936年にスペインで殉教したビセンテ・ニカシオ・レヌンシオ・トリビオと11人の仲間がマドリードで列福されたことを思い起され、「血を流すことさえいとわなかった彼らキリストの証人の模範は、私たちに意思と貫く力と勇気を与えてくれます。彼らの執り成しが、今日、世界に福音の種をまくために奮闘する人々を支えますように」と祈られ、正午の祈りに参加したすべての人に、新しい福者たち拍手を送るように勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年10月24日

☩「謙虚になりなさい、そうすれば神は私たちを高めてくださる」年間第30主日の正午の祈りで

(2022.10.23 Vatican News  Thaddeus Jones )

     教皇フランシスコは23日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(18章9~14節)を取り上げ、私たち自身の弱さを知り、認識することの重要性、神が憐みを求める声に応え、私たちを癒し、自分を取り戻し、高く上げてくださるように、謙虚な心を育むことの必要性を強調された。

 この福音書の箇所で、徴税人が神の前で自分の罪深さを認め、貧しさの中で、何も飾らずに自分自身をさらけ出す(「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』=ルカ福音書18章13節)。

 

*主に出会うために立ち上がれ

 教皇は「この徴税人の動作の初めにある『立ち上がる』は聖書の中にしばしば描かれています。主に出会うために、です。アブラハムは犠牲を捧げるために山に登る、モーセは十戒を受けるためにシナイ山に登る、そしてイエスは変容するために山に登られます」と語られ、「『立ち上がる』は、怠惰な生活に決別し、私たちの心を主に向けるために必要な行為を言い表しているのです。”自我の台地”から神に向かって登るために、自分が暮らしている谷で捧げものを集め、主に届けるために、です」と述べられた。

 

*高く登るために、下に降りよ

 さらに教皇は、「主に出会うために、自分を超えて立ち上がるには、私たちは下に降りる必要があります」とされた。そして、「これは、自分自身の弱さ、罪、そして負わされる傷を知り、認めるために、誠実で謙虚な心を育むために、正直に鏡を見つめに自分自身の中に降りていくことを意味します。そうすることで、私たちを癒し、生気を取り戻し、立ち上がるようにしてくださる神の慈悲を、謙虚に呼び起こすことができる… 私たちが謙虚に下に降りれば降りるほど、神は私たちを引き上げてくださるのです」と説かれた。

 

*おごり高ぶるな

 一方、福音書のイエスのたとえ話に登場するファリサイ派の人は、徴税人とは対照的に、自分自身とその宗教的行為を誇ることで傲慢な心をあからさまにし、他の人を軽蔑し、無視する。このような自我の崇拝によって、自分が正しいと思い込み、他者を裁くようにし、神に対して自身を閉ざしている。

 教皇は「自分の生活を振り返ってみましょう。このファリサイ派の人のような振る舞いをしていないか、自分が正しいと思い込み、他者を裁くようなことをしていないか、そして、自己愛と自己顕示欲の罠にはまっていないか」と、問いかけられ、「『私』が多すぎるところには、『神』が少なすぎることを忘れないように」と忠告された。

 そして最後に次のように締めくくられた。「至聖なるマリアの取次ぎを願いましょう。主の謙虚な僕、権力ある者をその座から引き下ろし、低い者を高く上げられる主が、完成を強く望まれる生きた姿」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年10月23日

☩「あなたがたは私の証人となる」-23日「世界宣教の日」教皇メッセージ

「世界宣教の日」教皇メッセージ 「あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1章8節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 使徒言行録に書かれているとおり、次の言葉は復活したイエスが天に上げられる直前に弟子たちと交わした最後の対話です。「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒言行録1章8節)。

 これは2022年「世界宣教の日」のテーマでもあり、教会はその本性上、宣教的であるという事実を、今年もまた生きるために役立つものです。今年は、教会の生活と宣教にとって重要な日を記念する年です。「布教聖省」(現「福音宣教省」)創設400周年、「信仰弘布会」創設200周年、そして後者が「児童福祉会」と「使徒聖ペトロ会」と共に教皇庁に属するものとして認定されて100年に当たります。

 弟子の生活と宣教の三つの基盤を要約した、次の三つのキーワードについて考えてみましょう。「あなたがたは私の証人となる」、「地の果てに至るまで」、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」です。

 

1.「あなたがたは私の証人となる」ーキリストを証ししなさい、という全キリスト者への呼びかけ

 これは、世界への宣教を見据えてイエスが弟子たちに伝えた教えの中心点、核心です。すべての弟子は、授かる聖霊の恵みによってイエスの証人となります。恵みによって、そのような者とされるのです。どこへ行こうとも、どこにあってもです。キリストが、最初に遣わされた者、すなわち御父の宣教者で(ヨハネ20・21参照)、その「忠実な証人」(黙示録1・5[フランシスコ会訳]参照)であられるのと同じく、キリスト者は皆、キリストの宣教者、証人となるように召されています。だからキリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストを証しし、世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは、「福音を説く」ということなのです。

 全体をよく読むと、キリストから弟子たちにゆだねられた「あなたがたは私の証人となる」という使命の、恒久的ないくつかの側面が明らかになります。複数形であることは、弟子たちへの宣教の呼びかけの共同体的・教会的な性格を強調しています。洗礼を受けた人は皆、教会の中で、また教会に遣わされ、宣教へと招かれています。

 したがって宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく共同で行うものです。ですから特別な状況下で単独で福音宣教を行う人であっても、つねにその人を派遣した教会との交わりの中でそれを行うのであり、またそうでなければなりません。わたしの愛読書、聖パウロ六世教皇の使徒的勧告『福音宣教』で説かれているとおりです。

 「福音化とは誰にとっても、決して『個人的な孤立した行為』ではなく、どこまでも教会の行為である、ということです。遠く離れた辺ぴな所で、独り福音を説き、小さな共同体を集め、秘跡を授けている無名の説教者、カテキスタ、牧者も、まさに教会の活動をしているのです。その行為は、組織的なつながりによって、さらに神の恩恵による目に見えない深いきずなによって、確かに全教会の福音化の活動に密接につながっています」(60)。

 事実、主イエスが弟子たちを二人一組で宣教に送り出したのは偶然ではありません。キリスト者がキリストを証しすることには、何よりも共同体的な性格があります。だからこそ宣教を行うには、小さなものであったとしても、共同体の存在が不可欠なのです。

 第二に弟子たちは、私生活を宣教の観点をもって過ごすよう求められています。イエスによって彼らが世界に遣わされたのは、使命を果たすためだけでなく、何よりも、ゆだねられた使命を生きるためです。証言するためだけでなく、何よりもイエスの証人となるためです。

 使徒パウロがとても感動的な言葉で語っているとおりです。「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(コリントの信徒への手紙2・4章10節)。

 宣教の本質はキリストを証しすること、すなわち、御父と人類への愛ゆえの、その生涯、受難と死と復活を証しすることです。使徒たちが、彼らと同じく主の復活を証言する者の中にユダの代わりを求めた(使徒言行録1章22節参照)のは偶然ではありません。キリストこそ、復活されたキリストこそ、私たちが証しすべきかた、その命にあずかるべきかたです。

 キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。そうではなくこの人たちは、最初の使徒たちのように、言葉と行いによって、キリストを示し、喜びと率直さをもって、その福音をすべての人に告げる、という、崇高な栄誉にあずかっているのです。

 したがって究極的には、真の証人とは「殉教者」で、キリストが私たちにご自身を与えてくださったことに応えて、キリストのために命をささげる人のことです。「福音宣教の第一の動機、それは、私たちが受けているイエスからの愛であり、イエスをますます愛するように、と私たちを促す、救いの体験です」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』264項)。

 つまりキリスト者の証しに関して、聖パウロ六世の見解は、今もなお妥当なのです。「私たちの時代の人間は、教師よりも証しする人に、喜んで聞きます。それどころか、もし、教師にその耳を向けるとしたら、彼らが証しをする人だからなのです」(『福音宣教』41項)。

 ですから、キリスト者の福音的生活という証しが、信仰を伝えることの基本なのです。と同時に、キリストの人物とメッセージを告げる務めも、やはり欠かせません。まさしく、パウロ六世はこう続けています。「使信が言葉によって宣言されることは、つねに非常に必要です。……言葉は、その卓越性とさらには影響力によって多能であり、とりわけ、それが神の力を伴う時は、ことにそうです。ですから、『信仰は、聞くことにより……始まる』(ローマの信徒への手紙10章17節)といった聖パウロの原理は、私たちの時代に、なお生きており、聞かれたことばが、まさに信じることへと導くのです」(『福音宣教』42項)。

 それゆえ、福音宣教においては、キリスト者の生き方の見本とキリストの告知は一体です。一方が他方に役立ちます。宣教者となるため、すべての共同体はこの二つの肺で呼吸しなければなりません。キリストを伝えるこの欠けるところのない、一貫した、喜びのある証しは、三千年期においても、必ずや教会の成長につながる魅力となるでしょう。ですから、すべての人に勧告いたします。勇気、率直さ、つまり初代教会のキリスト者が有していた大胆さ(パーレシア)を取り戻し、生活のあらゆる局面で、言葉と行動をもってキリストを証ししてください。

2.「地の果てに至るまで」——世界の福音化という使命の恒久性

 復活した主は、弟子たちに、ご自分の証人となるよう促すことで、彼らが遣わされる場所を告げておられます。それは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(使徒言行録1章8節参照)です。ここで、弟子たちの宣教の普遍性が明確になります。ユダヤ教の伝統で世界の中心とされたエルサレムから、ほぼ同心円状に、ユダヤとサマリアへ、そして「地の果て」までへの「遠心」する地理的移動が浮き彫りになります。

 彼らは改宗させるためにではなく、福音を宣べ伝えるために遣わされるのです。キリスト者は改宗を迫りません。使徒言行録は、神の摂理に導かれ、具体的な生活を通して「主キリストを証しする」という自身の召命を果たすために「出掛けていく」教会の、すばらしい姿を伝える、そんな宣教活動について語っています。事実、初代教会の信者たちは、エルサレムで迫害されたためユダヤとサマリアに散って行き、至るところでキリストを告げ知らせました(使徒言行録8章1節、4節参照)。

 同じことが、現代でも起きています。宗教的迫害、戦争や暴力といった事態によって、多くのキリスト者が自国から他の国へと逃れることを余儀なくされています。苦しみにとどまるのではなく、自分たちを受け入れた国でキリストと神の愛とを証しする、そうした兄弟姉妹に、私たちは感謝します。

 聖パウロ六世は、「移民を受け入れている国における移民たちの負う責任」(『福音宣教』21項)を重視し、彼らにそれを促したのです。まさに私たちは、多国籍の信者の存在が、いかに小教区を表情豊かにし、より普遍的に、よりカトリックにしているか、さらに実感しているところです。したがって、移住者の司牧は、なおざりにはできない一つの宣教活動であり、地元の信者が自分の受け取ったキリスト教信仰の喜びを、再発見する助けにもなります。

 「地の果てに至るまで」という指示は、あらゆる時代のイエスの弟子たちに問うはずで、イエスを証しするために慣れ親しんだ場所の先へと行くように、彼らの背を押すに違いありません。近代化による恩恵をすべてもってしても、キリストの証人である宣教者が、その愛の福音を届けられずにいる地がまだあります。そうではあっても、キリストの弟子たちが宣教するうえで、その関心の外にある人間の現実などありません。

 キリストの教会は、かつても今も、これからも、地理的・社会的・実存的に新たな地平へと、そして「境界線の外」にある場所や人間の境遇へと、キリストとその愛をあらゆる民族、文化、社会的境遇の人すべてに証しするため、つねに「出掛けていく」のです。この意味で宣教は、第二バチカン公会議が教えたように、「諸民族のもとへの派遣(missio ad gentes)」でもあります。教会は、キリストの愛をすべての人に告げるために、つねに自らの枠を越え、さらに遠くへと行かなければならないからです。これについて私は、多くの宣教者を思い起こし、感謝したいと思います。「さらに先へ」行き、出会った多くの兄弟姉妹のもとでキリストの愛を受肉させることに生涯を尽くしたかたがたです。

3.「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」——聖霊によって強められ、導かれるに任せる

 復活したキリストは、弟子たちにご自分の証人となる使命を告げる際、その大きな責任を果たすための恵みを約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、……私の証人となる」(使徒言行録1章8節)。事実、使徒言行録によれば、死んで復活したキリストについての、ケリュグマとしての告知による初めての証しーエルサレムの住人に対する聖ペトロの、いわば宣教説教ーがなされたのは、まさにイエスの弟子たちに聖霊が降った直後でした。こうして、それまで弱気で、怖がりで、内向きだったイエスの弟子たちによる、世界の福音化の時代が始まります。聖霊は彼らを強め、すべての人の前でキリストを証しする勇気と知恵をお与えになりました。

 「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない」(コリントの信徒への手紙1・12章3節b)ように、聖霊の霊感と助けなしには、どんなキリスト者も、主キリストの完全で真正な証しはできません。だからキリストの宣教者である弟子は皆、聖霊の働きがもっとも重要であることを理解し、聖霊とともに日常を生き、聖霊の力と霊感をつねに受けるよう求められているのです。そしてまた、疲れたり、やる気がなかったり、途方に暮れていたりするときにこそ、祈りの中で聖霊に助けを求めることを忘れないようにしましょう。

 繰り返しますが、聖霊は宣教生活において決定的な役割を担っておられます。キリストの命を他者と分かち合う、新たな力と喜びの、尽きることのない神聖な泉である聖霊に、慰め強められるよう自らをゆだねましょう。「聖霊の喜びを受けることは恵みです。そしてそれは、福音をのべ伝え、主への信仰を告白するために私たちがもちうる唯一の力です」(教皇フランシスコ「教皇庁宣教事業あてメッセージ(2020年5月21日)」)。聖霊は宣教の真の主人公です。聖霊が、的確な言葉を、ふさわしいときに、ふさわしい方法で与えてくださるのです。

 この2022年の宣教の記念も、聖霊の働きに照らして読み解きたいと思います。1622年の布教聖省の設立は、新たな地域での宣教命令を推進したいとの願いからのものでした。なんと摂理的なひらめきでしょう。本省は、教会の福音宣教を真の意味でその名のとおりのものとする、つまり世俗的な権力の干渉から独立したものにし、今日の活気ある地方教会を築くために、きわめて重要であることが分かります。過去400年と同様、本省が、聖霊の光と力によって、教会の宣教活動の取りまとめ役となり、計画準備し、促進に努めるその務めを今後も継続し、それに邁進していくことを願います。

 普遍教会を導いておられるのと同じ聖霊が、市井の人々も、特別な使命へと駆り立てておられます。フランス人の若い女性ポーリン・ジャリコが、ちょうど200年前に信仰弘布会を設立したのはその一例です。節目となる今年、彼女の列福が執り行われます。不安定な状況に身を置きつつも、彼女は神の導きを受け入れて、信者が「地の果てに至るまで」の宣教に積極的に参加できるように、宣教師を祈りと献金で支えるネットワークを立ち上げました。このすばらしいアイデアから、私たちが毎年祝う世界宣教の日が誕生し、すべての共同体のこの日の献金は、教皇が宣教活動を支援するための世界連帯基金へと送られます。

 これに関連して、「子どもたちが子どもたちに宣教する、子どもたちが子どもたちのために祈る、子どもたちが世界中の子どもたちを助ける」という標語のもと、子どもたちどうしの宣教を推進する児童福祉会を始めたフランス人のシャルル・ドゥ・フォルビン=ジャンソン司教のこと、そして、宣教地の神学生と司祭を支援する使徒聖ペトロ会を始めたジャンヌ・ビガー氏のことも思い起こします。この三つの宣教事業が「教皇庁」傘下のものとして認められたのは、ちょうど100年前です。

 さらに、生誕150年を迎える福者パオロ・マンナが現在の宣教師連合を、司祭、修道者、そして神の民すべてを対象とした宣教促進と啓発のために設立したのもまた、聖霊によるひらめきと導きによるものでした。パウロ六世自身、後者の団体の会員で、これに教皇認可を与えたのも彼でした。わたしがこれら四つの教皇庁宣教事業を取り上げたのは、その優れた歴史的功績のためであり、また、この特別な年に、普遍教会と地方教会での福音宣教を支援する活動に対し、これら事業体とともに喜んでくださるよう皆さんを招くためです。これら事業は神の民に宣教の精神をかき立てる確かな道具であることについての、地方教会の理解を願います。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。私は、すべてにおいて宣教者である教会を、そしてキリスト教共同体における宣教活動の新たな時代の訪れを夢見続けています。ですから、旅を続ける神の民に対するモーセの願いをわたしも繰り返します。「主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(民数記11・29)。そうです。教会のわたしたち皆が、洗礼によってすでにそうである者、主の預言者、証人、宣教者でありますように。聖霊の力によって、地の果てに至るまで。宣教者の元后、聖マリア、私たちのためにお祈りください。

 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2022年1月6日、主の公現の祭日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月23日

☩教皇、ロシア軍の住民生活インフラ破壊を断罪するEUとともに、ウクライナのために祈る

Firefighters work to put out a fire in a thermal power plant damaged by a Russian missile strike in ZhytomyrFirefighters work to put out a fire in a thermal power plant damaged by a Russian missile strike in Zhytomyr 

(2022.10.19 Vatican News  Benedict Mayaki, SJ)

   ロシアによるここ数日のウクライナの住民生活に直結するインフラへの集中攻撃を、欧州員会が「戦争犯罪」として断罪したが、 教皇フランシスコは19日の水曜恒例一般謁見で、このような「受難」のウクライナのための祈りを新たにされた。

 「私たちは、受難のウクライナに思いを向けます」と述べた教皇は全世界の人々に対し、「現地で起きている恐るべきこと、拷問、死、破壊」の速やかな停止を祈るよう呼びかけられた。

*ロシアの攻撃でウクライナ全土の発言所の三分の一が破壊

 ウクライナからの最新の報告によると、ここ数日のロシアのドローンなどによる攻撃によって、キーウの主力発電所を始め、ウクライナ全土の発電所の約30%が破壊され、1000 を超える市町村で停電が起きている。ドニプロ、ムイコラーイウ、ジトーミルなどの都市では、集合住宅などが標的にされ、多数の死者が出ている。

*欧州委員会はロシアの攻撃を「戦争犯罪」と断罪

 このようなロシアのウクライナの市民生活インフラを狙った攻撃に対して、欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は、欧州議会での演説で「今回のロシアによるウクライナ攻撃は、すでに残虐な攻撃を繰り返しているロシアの行為が新たな段階にきていることを示している。これは、明確に国際法上の戦争犯罪です」と断罪。「厳冬期を前にした一般の人々の生活を電気、暖房から遮断する、という明確な目的を持った攻撃は、まぎれもない『恐怖の行為』に他なりません」と激しく非難した。

*国連のウクライナ独立委員会がロシアに説明責任求める報告書

 一方、国連人権理事会が設置した「ウクライナに関する独立調査委員会」は11日に国連総会に提出した報告書で、「一連の戦争犯罪、人権侵害、国際人道法が、ウクライナにおいて行われた、と結論付ける根拠がある 」と述べ、同時に発表した声明で、「これらの違反がウクライナの民間人に与える影響は計り知れず、(ロシア側に)説明責任があることは否定できない」と強調した。

 同委員会は、今年 2 月下旬から 3 月にかけての期間にロシア軍の攻撃を受けたキーウ、チェルニーヒウ、ハルキウ、スームィの実情に基づいて調査を実施。27 の市町村と地区を訪問し、191 人の被害者、目撃者から聞き取り調査を行った。

 国連総会に提出した報告書は、ロシア軍による攻撃を受けた人口密集地域で、爆発物が無差別に使用されたことが明確になった、とし、人口密度の高い地域内あるいはその近くからの攻撃により、一般市民や家屋、施設なども大きな被害を被ったことを実例で示している。そうした行為にとどまらず、これら4地域の調査に限っても、ロシア兵による住民の処刑、監禁、拷問、虐待、強姦を含む性的暴力が頻繁にされていた、と指摘。

 聞き取り調査に応じた被害者や犠牲者の家族たち、特に愛する人を失った家族は、こうした残虐行為に対して、「正義が行われ、説明責任が果たされることを強く望んでいる」と言明。「(ロシア軍による残虐行為に対する措置の)有効性を改善し、被害者と目撃者が危害を加えられないようにし、国際的な、そして国レベルの説明責任が果たされるよう取り組みを強化する」よう、国連に勧告している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年10月19日

◎教皇連続講話「識別について」 ⑥「キリストを発見するために『自分の人生の物語』を読み直そう」

Pope Francis holds his weekly General AudiencePope Francis holds his weekly General Audience 

(2022.10.19 Vatican News  Devin Watkins)

   教皇フランシスコは19日、水曜恒例の一般謁見で「識別について」の連続講話をお続けになった。

 そして、「イエスの隠された足跡を発見するために、私たちの人生の物語をよく読み直すように。そうすることで、彼の足跡の重要なニュアンスや細部を把握でき、これまで隠れていたことを明らかにすることができるようになります」と信徒たちを促された。

教皇はこの日の講話で、「私たちの人生の物語によって、神の隠された行動をどのように明らかにできるか」に注意を向けられ、「私たちの人生は、私たちに与えられた最も貴重な『本』なのですが、残念ながら多くの人が読んでいない。死ぬ前に読むのでは、遅すぎます」と語られた。

*真実は内に宿る

 教皇は、「5 世紀の聖人、アウグスティヌスが、”自分の内”に神を発見する前、何年も”自分の外”に神を求めていたことに、どのように気付いたか」を語っている名著「告白」の言葉ー「自分自身に戻りなさい。 真実は内なる自己に宿る」を思い起こされた。

 そして、「私たちはしばしば自責の念に駆られ、神が私たちの中で働いているのを見ることができなくなります… 自分の過去を読み直すことで、”有毒な”習慣を脇に置き、毎日の出来事のより深い意味を見つけるのを学ぶことができる」とされ、さらに、「私たちは他のことに気づき、人生をより豊かにし、複雑さをより尊重し、私たちの生活の中で神が働かれる慎重ななさり方を理解することにも成功できるのです」と強調された。

 

*良さの隠された沈黙を明らかにする

 続けて、教皇フランシスコは「今の時点ではほとんど重要でないように見える出来事さえ、さらに熟考することで、より深い何かを私たちに明らかにできる… これらの出来事は、私たちの日常生活に”主が蒔かれた貴重な隠された真珠”にたとえられます」と語られた。

 そして、「善は隠され、沈黙しています。ゆっくりと”掘削”を続ける必要がある。神のなさり方は慎重であり、強制されません。それは、私たちが呼吸する”空気”のようなものです。目にすることはありませんが、私たちが生きることを可能にする。そして、それが欠けているときだけ、私たちは、そのことに気づきます」とされ、「人生の物語を読み返せば読むほど、私たちの認識は洗練され、私たちの生活における神の行動を発見しやすくなるのです」と付け加えられた。

*心と心の対話

 講話の最後に、教皇は、「自分の人生の物語を語る相手を見つけるように」と、信徒たちに促された。

 「聖徒たちの人生は、神の友との関わり方に精通するための別の道を提供します」、そして「識別とは、私たちが人生の中で経験する慰めと荒廃を、物語として読むことです… 神について私たちに語りかけるのは心であり、私たちはその言葉を理解することを学ばなければなりません」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年10月19日

☩「食料は神の恵み、私たちはその管理者にすぎない」ー 世界食料フォーラムへ

イエメンでの食料支援イエメンでの食料支援  (ANSA)

(2022.10.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日、ローマで始まった国連食糧農業機関(FAO)主催の第2回世界食料フォーラムにメッセージを寄せられた。

 メッセージで教皇は、参加者たちらと世界の飢餓と貧困の撲滅に日ごろ努力するすべての人々に挨拶をおくられ、まず、「食料は人間の生活に不可欠なものであり、その侵すべからず尊厳に寄与するもの」とされたうえで、「食料をあたりまえの物品のように扱うべきではありません」と訴えられた。

 そして、食料を大切にし、それに人間生活上での重要な地位を与えることは、「食料生産や農産物の流通技術に関心を持つだけでなく、食料は神の恵みであり、私たちはその管理者にすぎないという自覚を持つことによってのみ可能になります」と指摘。

 さらに、「食料問題における関心の中心は人間であるべきであり、特に生きるための食料にもこと欠く人々の必要をはじめ、人間の統合性と現実的な必要を意識したものでなければなりません」と強調された。

 まら、「世界の複雑に絡まった危機の中で、キリストのメッセージは、単に食べるものを与えるのではなく、他者への奉仕の中で、私たちも与えられることの大切さを説いています」と語られ、「人と人との兄弟愛と連帯を、改めて信じる必要があります」と述べられた。

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 第2回世界食料フォーラムは、世界の若者、政治家、科学者、エコノミスト、企業家らの参加のもと、FAOのローマ本部でのイベントとオンラインでのパネル討議や講演などを交え、17日から21日まで開かれる。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月18日

☩「祈りは、信仰のための薬、心を取り戻す気付け薬」教皇、年間第29主日の正午の祈り

*人生で優先すべきこと

 教皇は、「自分の人生、心にあるもの、優先順位をどこに置いているかを、振り返ってみるのがいい。私たちは知らず知らずのうちに、二次的なことに重荷を負い、忙殺され、その間に神のことを忘れてしまっているのではないでしょうか?」と問いかけられ、「今日、イエスは、熱意の賭けた信仰に再び火を点ける治療薬を、私たちにくださいます。それは何でしょうか?祈り。そうです、祈りは信仰の薬であり、心を取り戻す気付け薬なのです」と語られた。

 

*いつも祈るように

 さらに、「私たちの信仰を生き生きと健康に保つために、常に祈る必要があります… 定期的に祈ることは、私たちの心を良好な状態に保つための鍵です。観葉植物が絶えず水を必要とするのと同じように、私たちの心にも祈りが必要です。また、水をやりすぎたり、干上がりそうになるまでずっと、水をやらなかったりしてはなりません」と注意された。

 また、「私たちは、日々の水を必要としていますー祈りの、神が私たちの時間に入ることができるように捧げられた時の、神が日々、愛、平和、喜び、強さ、希望を私たちに注ぎ、信仰を養ってださるように私たちの心を開く一定の瞬間の水を」と述べられた。

 

*祈れ、そして心を失うな

 たしかに、現代社会の騒々しい動きの中にあって、多くの人が「どうすれば、祈りの時間を見つけられるだろう」と自問するかもしれない。

 そこで、教皇は、年配者が実践している賢い霊的習慣に倣うことを提案された。それは、覚えやすく、主のそばにとどまり、心に安らぎを見いだすために、どこにいても一日を通して来る返すことのできる、簡単で短いいくつかの祈りをすること、とされ、次のように、具体的に例を示された。

 「朝起きたら、すぐにこのように祈りますー『主よ、感謝します。今日という日をあなたに差し上げます』と。そして、活動を始める前に、『聖霊、来てください』と繰り返します。次の行動に移る間に、『イエス、私はあなたを信頼し、あなたを愛しています』と祈ります」。

 

*祈りを通して主にメッセージを送り、福音書から応えを受ける

 説教の最後に、教皇は、このような主に対するメッセージとしての短い祈りを、私たちが愛する人々に毎日していることになぞらえて、私たちの心を主に結び続けるもの、と指摘されるとともに、「私たちはまた、『主の応えを読み取る』ことを忘れないようにする必要があります。それは、私たちがいつも手元に置き、私たちに向けられた『命の言葉』を受け取るために、日々開くべき福音の中にあります」と強調された。

 そして次のように締めくくられた。「忠実な聞き手である聖母マリアが、私たちに、気を落とすことなく、常に祈る術を教えてくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年10月16日