◎教皇連続講話「識別について」⑦神の声に耳を傾けるなら、”霊的荒廃” は私たちを強くする

Pope Francis holds his General Audience at the VaticanPope Francis holds his General Audience at the Vatican 
(2022.10.26 Vatican News  Benedict Mayaki, SJ)

  教皇フランシスコは26日、水曜恒例の一般謁見で「識別について」の連続講話をお続けになり、「『霊的荒廃さと悲しみ』は、好ましくない経験とされているが、寛容さと自覚をもって乗り越える方法を私たちが知っていれば、それによって重要なことを学び、霊的に強められる」と説かれた。

 この日の講話で教皇はまず、「識別は、本来、論理的な手法ではなく、行動に基礎をおいており、行動には情緒的なものが含まれていることを認めねばなりません。それは、神が心に語りかけるからです」と語られ、情緒的な表われ方と、識別の対象として「霊的荒廃」を取り上げられた。

*「精神的な荒廃…悔恨」

 そして、ロヨラの聖イグナチオの霊操を思い起され、「霊的荒廃」を「魂の闇、魂の乱れ、低俗で世俗的なものへの指向、さまざまな落ち着きのない興奮や誘惑、自信の欠如、自分が怠惰で、熱意に欠け、惨めで、愛もない、希望もない、自分を創造した方である主から見捨てられたように感じる状態」と定義された。

 そのうえで、「私たち全員が、何らかの形でそのような霊的荒廃を経験したことがあります。問題は、それをどのように解釈するか、ということです。なぜかと言うと、霊的荒廃には重要な意味があり、虚しさから自分を解放しようとあせると、その意味を失う危険があるからです」と説かれた。

 さらに「私たちは皆、いつも楽しく、陽気で、充実した人生を望んでいますが、これはいつも、そうできるとは限らないし、私たちにとって良いことでもありません。悪徳に向かっていた人生の変更は、悲しみの状態、自分がしたことへの悔恨から始めることができるからです」と語られた。

 「”悔恨(remorse)”という言葉は、語源的に『平和を許さないものにかみつく良心』を意味します」とされ、アレッサンドロ・マンゾーニ(1785年 – 1873年=イタリアの詩人、作家。啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアの孫)は、著書「The Betrothed(婚約者」に出てくる、フェデリコ・ボロメオ枢機卿と、恐ろしい夜の後、驚くような言葉で話した枢機卿に破滅させられたとする無名の人の会話の中で、「悔恨は、人生を変えるチャンスだ」と語っている、と述べられた。

 

*「悲しみ」を”読む”ことを学ぶ

 続いて、教皇、「悲しみ」を”読む”ことを学ぶ重要性を指摘され、次のように語られた。

 「聖トマス・アクイナスは『神学大全』で、『悲しみ』を『魂の痛み』と定義しています。私たちの体の神経のように、『悲しみ』は、起こりうる危険や、無視された親切な行いに、私たちの注意を向けさせるため、私たちの健康にとって欠かせません。私たちを自分自身や他の人に害を及ぼすことから守ってくれる。私たちが『悲しみ』を感じていなければ、感じる場合よりも、はるかに深刻で危険なことになるでしょう」。

 だが、「『悲しみ』は、善行を熱望する人にとって『誘惑が挫こうとする障害』であり、障害を退けるために、示唆されていることとまったく逆のやり方をし、自分が始めたことを続ける決意をせねばなりません」とも語られ、「善への道は狭く、険しく、闘いと自己征服が必要だ」という福音書に書かれた注意を思い起こされた。

 そして、「神に仕えたい」望む人々に、『精神的荒廃』に惑わされないように強く勧められ、「残念なことに、一部の人々は精神的荒廃に駆り立てられ、案内人の助けがないと、祈りや自分が選んだ人生を放棄してしまいます… 精神的荒廃に陥った時、変更しないのが賢明です。私たちの選択の良し悪しが明らかになるのは、その時の気分ではなく、その後の時です」と忠告された。

*試練は重要な時

 次に教皇は、断固たる決意で誘惑を退けられたイエスの例を挙げ、「 試練は、イエスを四方八方から襲いましたが、父の御心を行うことを決意されたイエスの歩みを妨げることはできませんでした」と語られた。

 そして「霊的生活において、試練は、重要な時です。『主に仕えるようと思うなら、自ら試練に備えよ」(旧約聖書・シラ書2章1節)だからです。同じように、教師は、学生たちが与えられた課題の本質を理解しているかを確かめるためにテストをし、パスした学生だけを受け入れます… そして、孤独と精神的荒廃を、寛容さと自覚をもって越える方法を知っていれば、私たちは人間的、精神的な面で強くなることができます。私たちの手が届かない試練はありません」と言明され、次のように講話を締めくくられた。

 「聖パウロは『神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず… 耐えられるよう…備えてくださる』(コリントの信徒への手紙1・10章13節)と語っています。主は、決して私たちを見捨てられず、そばにいてくださるので、私たちはすべての誘惑に打ち勝つことができる。 今日克服できなくても、もう一度立ち上がり、歩き、明日、克服できます。ですから、死んだままー悲しみ、霊的荒廃に打ち負かされたままになっては、なりません。前進してください。 主が、常に旅である霊的生活の道を勇気をもって進むのを祝福してくださいますように。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年10月26日