☩「謙虚になりなさい、そうすれば神は私たちを高めてくださる」年間第30主日の正午の祈りで

(2022.10.23 Vatican News  Thaddeus Jones )

     教皇フランシスコは23日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(18章9~14節)を取り上げ、私たち自身の弱さを知り、認識することの重要性、神が憐みを求める声に応え、私たちを癒し、自分を取り戻し、高く上げてくださるように、謙虚な心を育むことの必要性を強調された。

 この福音書の箇所で、徴税人が神の前で自分の罪深さを認め、貧しさの中で、何も飾らずに自分自身をさらけ出す(「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』=ルカ福音書18章13節)。

 

*主に出会うために立ち上がれ

 教皇は「この徴税人の動作の初めにある『立ち上がる』は聖書の中にしばしば描かれています。主に出会うために、です。アブラハムは犠牲を捧げるために山に登る、モーセは十戒を受けるためにシナイ山に登る、そしてイエスは変容するために山に登られます」と語られ、「『立ち上がる』は、怠惰な生活に決別し、私たちの心を主に向けるために必要な行為を言い表しているのです。”自我の台地”から神に向かって登るために、自分が暮らしている谷で捧げものを集め、主に届けるために、です」と述べられた。

 

*高く登るために、下に降りよ

 さらに教皇は、「主に出会うために、自分を超えて立ち上がるには、私たちは下に降りる必要があります」とされた。そして、「これは、自分自身の弱さ、罪、そして負わされる傷を知り、認めるために、誠実で謙虚な心を育むために、正直に鏡を見つめに自分自身の中に降りていくことを意味します。そうすることで、私たちを癒し、生気を取り戻し、立ち上がるようにしてくださる神の慈悲を、謙虚に呼び起こすことができる… 私たちが謙虚に下に降りれば降りるほど、神は私たちを引き上げてくださるのです」と説かれた。

 

*おごり高ぶるな

 一方、福音書のイエスのたとえ話に登場するファリサイ派の人は、徴税人とは対照的に、自分自身とその宗教的行為を誇ることで傲慢な心をあからさまにし、他の人を軽蔑し、無視する。このような自我の崇拝によって、自分が正しいと思い込み、他者を裁くようにし、神に対して自身を閉ざしている。

 教皇は「自分の生活を振り返ってみましょう。このファリサイ派の人のような振る舞いをしていないか、自分が正しいと思い込み、他者を裁くようなことをしていないか、そして、自己愛と自己顕示欲の罠にはまっていないか」と、問いかけられ、「『私』が多すぎるところには、『神』が少なすぎることを忘れないように」と忠告された。

 そして最後に次のように締めくくられた。「至聖なるマリアの取次ぎを願いましょう。主の謙虚な僕、権力ある者をその座から引き下ろし、低い者を高く上げられる主が、完成を強く望まれる生きた姿」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年10月23日