☩「あなたがたは私の証人となる」-23日「世界宣教の日」教皇メッセージ

「世界宣教の日」教皇メッセージ 「あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1章8節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 使徒言行録に書かれているとおり、次の言葉は復活したイエスが天に上げられる直前に弟子たちと交わした最後の対話です。「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒言行録1章8節)。

 これは2022年「世界宣教の日」のテーマでもあり、教会はその本性上、宣教的であるという事実を、今年もまた生きるために役立つものです。今年は、教会の生活と宣教にとって重要な日を記念する年です。「布教聖省」(現「福音宣教省」)創設400周年、「信仰弘布会」創設200周年、そして後者が「児童福祉会」と「使徒聖ペトロ会」と共に教皇庁に属するものとして認定されて100年に当たります。

 弟子の生活と宣教の三つの基盤を要約した、次の三つのキーワードについて考えてみましょう。「あなたがたは私の証人となる」、「地の果てに至るまで」、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」です。

 

1.「あなたがたは私の証人となる」ーキリストを証ししなさい、という全キリスト者への呼びかけ

 これは、世界への宣教を見据えてイエスが弟子たちに伝えた教えの中心点、核心です。すべての弟子は、授かる聖霊の恵みによってイエスの証人となります。恵みによって、そのような者とされるのです。どこへ行こうとも、どこにあってもです。キリストが、最初に遣わされた者、すなわち御父の宣教者で(ヨハネ20・21参照)、その「忠実な証人」(黙示録1・5[フランシスコ会訳]参照)であられるのと同じく、キリスト者は皆、キリストの宣教者、証人となるように召されています。だからキリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストを証しし、世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは、「福音を説く」ということなのです。

 全体をよく読むと、キリストから弟子たちにゆだねられた「あなたがたは私の証人となる」という使命の、恒久的ないくつかの側面が明らかになります。複数形であることは、弟子たちへの宣教の呼びかけの共同体的・教会的な性格を強調しています。洗礼を受けた人は皆、教会の中で、また教会に遣わされ、宣教へと招かれています。

 したがって宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく共同で行うものです。ですから特別な状況下で単独で福音宣教を行う人であっても、つねにその人を派遣した教会との交わりの中でそれを行うのであり、またそうでなければなりません。わたしの愛読書、聖パウロ六世教皇の使徒的勧告『福音宣教』で説かれているとおりです。

 「福音化とは誰にとっても、決して『個人的な孤立した行為』ではなく、どこまでも教会の行為である、ということです。遠く離れた辺ぴな所で、独り福音を説き、小さな共同体を集め、秘跡を授けている無名の説教者、カテキスタ、牧者も、まさに教会の活動をしているのです。その行為は、組織的なつながりによって、さらに神の恩恵による目に見えない深いきずなによって、確かに全教会の福音化の活動に密接につながっています」(60)。

 事実、主イエスが弟子たちを二人一組で宣教に送り出したのは偶然ではありません。キリスト者がキリストを証しすることには、何よりも共同体的な性格があります。だからこそ宣教を行うには、小さなものであったとしても、共同体の存在が不可欠なのです。

 第二に弟子たちは、私生活を宣教の観点をもって過ごすよう求められています。イエスによって彼らが世界に遣わされたのは、使命を果たすためだけでなく、何よりも、ゆだねられた使命を生きるためです。証言するためだけでなく、何よりもイエスの証人となるためです。

 使徒パウロがとても感動的な言葉で語っているとおりです。「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(コリントの信徒への手紙2・4章10節)。

 宣教の本質はキリストを証しすること、すなわち、御父と人類への愛ゆえの、その生涯、受難と死と復活を証しすることです。使徒たちが、彼らと同じく主の復活を証言する者の中にユダの代わりを求めた(使徒言行録1章22節参照)のは偶然ではありません。キリストこそ、復活されたキリストこそ、私たちが証しすべきかた、その命にあずかるべきかたです。

 キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。そうではなくこの人たちは、最初の使徒たちのように、言葉と行いによって、キリストを示し、喜びと率直さをもって、その福音をすべての人に告げる、という、崇高な栄誉にあずかっているのです。

 したがって究極的には、真の証人とは「殉教者」で、キリストが私たちにご自身を与えてくださったことに応えて、キリストのために命をささげる人のことです。「福音宣教の第一の動機、それは、私たちが受けているイエスからの愛であり、イエスをますます愛するように、と私たちを促す、救いの体験です」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』264項)。

 つまりキリスト者の証しに関して、聖パウロ六世の見解は、今もなお妥当なのです。「私たちの時代の人間は、教師よりも証しする人に、喜んで聞きます。それどころか、もし、教師にその耳を向けるとしたら、彼らが証しをする人だからなのです」(『福音宣教』41項)。

 ですから、キリスト者の福音的生活という証しが、信仰を伝えることの基本なのです。と同時に、キリストの人物とメッセージを告げる務めも、やはり欠かせません。まさしく、パウロ六世はこう続けています。「使信が言葉によって宣言されることは、つねに非常に必要です。……言葉は、その卓越性とさらには影響力によって多能であり、とりわけ、それが神の力を伴う時は、ことにそうです。ですから、『信仰は、聞くことにより……始まる』(ローマの信徒への手紙10章17節)といった聖パウロの原理は、私たちの時代に、なお生きており、聞かれたことばが、まさに信じることへと導くのです」(『福音宣教』42項)。

 それゆえ、福音宣教においては、キリスト者の生き方の見本とキリストの告知は一体です。一方が他方に役立ちます。宣教者となるため、すべての共同体はこの二つの肺で呼吸しなければなりません。キリストを伝えるこの欠けるところのない、一貫した、喜びのある証しは、三千年期においても、必ずや教会の成長につながる魅力となるでしょう。ですから、すべての人に勧告いたします。勇気、率直さ、つまり初代教会のキリスト者が有していた大胆さ(パーレシア)を取り戻し、生活のあらゆる局面で、言葉と行動をもってキリストを証ししてください。

2.「地の果てに至るまで」——世界の福音化という使命の恒久性

 復活した主は、弟子たちに、ご自分の証人となるよう促すことで、彼らが遣わされる場所を告げておられます。それは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(使徒言行録1章8節参照)です。ここで、弟子たちの宣教の普遍性が明確になります。ユダヤ教の伝統で世界の中心とされたエルサレムから、ほぼ同心円状に、ユダヤとサマリアへ、そして「地の果て」までへの「遠心」する地理的移動が浮き彫りになります。

 彼らは改宗させるためにではなく、福音を宣べ伝えるために遣わされるのです。キリスト者は改宗を迫りません。使徒言行録は、神の摂理に導かれ、具体的な生活を通して「主キリストを証しする」という自身の召命を果たすために「出掛けていく」教会の、すばらしい姿を伝える、そんな宣教活動について語っています。事実、初代教会の信者たちは、エルサレムで迫害されたためユダヤとサマリアに散って行き、至るところでキリストを告げ知らせました(使徒言行録8章1節、4節参照)。

 同じことが、現代でも起きています。宗教的迫害、戦争や暴力といった事態によって、多くのキリスト者が自国から他の国へと逃れることを余儀なくされています。苦しみにとどまるのではなく、自分たちを受け入れた国でキリストと神の愛とを証しする、そうした兄弟姉妹に、私たちは感謝します。

 聖パウロ六世は、「移民を受け入れている国における移民たちの負う責任」(『福音宣教』21項)を重視し、彼らにそれを促したのです。まさに私たちは、多国籍の信者の存在が、いかに小教区を表情豊かにし、より普遍的に、よりカトリックにしているか、さらに実感しているところです。したがって、移住者の司牧は、なおざりにはできない一つの宣教活動であり、地元の信者が自分の受け取ったキリスト教信仰の喜びを、再発見する助けにもなります。

 「地の果てに至るまで」という指示は、あらゆる時代のイエスの弟子たちに問うはずで、イエスを証しするために慣れ親しんだ場所の先へと行くように、彼らの背を押すに違いありません。近代化による恩恵をすべてもってしても、キリストの証人である宣教者が、その愛の福音を届けられずにいる地がまだあります。そうではあっても、キリストの弟子たちが宣教するうえで、その関心の外にある人間の現実などありません。

 キリストの教会は、かつても今も、これからも、地理的・社会的・実存的に新たな地平へと、そして「境界線の外」にある場所や人間の境遇へと、キリストとその愛をあらゆる民族、文化、社会的境遇の人すべてに証しするため、つねに「出掛けていく」のです。この意味で宣教は、第二バチカン公会議が教えたように、「諸民族のもとへの派遣(missio ad gentes)」でもあります。教会は、キリストの愛をすべての人に告げるために、つねに自らの枠を越え、さらに遠くへと行かなければならないからです。これについて私は、多くの宣教者を思い起こし、感謝したいと思います。「さらに先へ」行き、出会った多くの兄弟姉妹のもとでキリストの愛を受肉させることに生涯を尽くしたかたがたです。

3.「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」——聖霊によって強められ、導かれるに任せる

 復活したキリストは、弟子たちにご自分の証人となる使命を告げる際、その大きな責任を果たすための恵みを約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、……私の証人となる」(使徒言行録1章8節)。事実、使徒言行録によれば、死んで復活したキリストについての、ケリュグマとしての告知による初めての証しーエルサレムの住人に対する聖ペトロの、いわば宣教説教ーがなされたのは、まさにイエスの弟子たちに聖霊が降った直後でした。こうして、それまで弱気で、怖がりで、内向きだったイエスの弟子たちによる、世界の福音化の時代が始まります。聖霊は彼らを強め、すべての人の前でキリストを証しする勇気と知恵をお与えになりました。

 「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない」(コリントの信徒への手紙1・12章3節b)ように、聖霊の霊感と助けなしには、どんなキリスト者も、主キリストの完全で真正な証しはできません。だからキリストの宣教者である弟子は皆、聖霊の働きがもっとも重要であることを理解し、聖霊とともに日常を生き、聖霊の力と霊感をつねに受けるよう求められているのです。そしてまた、疲れたり、やる気がなかったり、途方に暮れていたりするときにこそ、祈りの中で聖霊に助けを求めることを忘れないようにしましょう。

 繰り返しますが、聖霊は宣教生活において決定的な役割を担っておられます。キリストの命を他者と分かち合う、新たな力と喜びの、尽きることのない神聖な泉である聖霊に、慰め強められるよう自らをゆだねましょう。「聖霊の喜びを受けることは恵みです。そしてそれは、福音をのべ伝え、主への信仰を告白するために私たちがもちうる唯一の力です」(教皇フランシスコ「教皇庁宣教事業あてメッセージ(2020年5月21日)」)。聖霊は宣教の真の主人公です。聖霊が、的確な言葉を、ふさわしいときに、ふさわしい方法で与えてくださるのです。

 この2022年の宣教の記念も、聖霊の働きに照らして読み解きたいと思います。1622年の布教聖省の設立は、新たな地域での宣教命令を推進したいとの願いからのものでした。なんと摂理的なひらめきでしょう。本省は、教会の福音宣教を真の意味でその名のとおりのものとする、つまり世俗的な権力の干渉から独立したものにし、今日の活気ある地方教会を築くために、きわめて重要であることが分かります。過去400年と同様、本省が、聖霊の光と力によって、教会の宣教活動の取りまとめ役となり、計画準備し、促進に努めるその務めを今後も継続し、それに邁進していくことを願います。

 普遍教会を導いておられるのと同じ聖霊が、市井の人々も、特別な使命へと駆り立てておられます。フランス人の若い女性ポーリン・ジャリコが、ちょうど200年前に信仰弘布会を設立したのはその一例です。節目となる今年、彼女の列福が執り行われます。不安定な状況に身を置きつつも、彼女は神の導きを受け入れて、信者が「地の果てに至るまで」の宣教に積極的に参加できるように、宣教師を祈りと献金で支えるネットワークを立ち上げました。このすばらしいアイデアから、私たちが毎年祝う世界宣教の日が誕生し、すべての共同体のこの日の献金は、教皇が宣教活動を支援するための世界連帯基金へと送られます。

 これに関連して、「子どもたちが子どもたちに宣教する、子どもたちが子どもたちのために祈る、子どもたちが世界中の子どもたちを助ける」という標語のもと、子どもたちどうしの宣教を推進する児童福祉会を始めたフランス人のシャルル・ドゥ・フォルビン=ジャンソン司教のこと、そして、宣教地の神学生と司祭を支援する使徒聖ペトロ会を始めたジャンヌ・ビガー氏のことも思い起こします。この三つの宣教事業が「教皇庁」傘下のものとして認められたのは、ちょうど100年前です。

 さらに、生誕150年を迎える福者パオロ・マンナが現在の宣教師連合を、司祭、修道者、そして神の民すべてを対象とした宣教促進と啓発のために設立したのもまた、聖霊によるひらめきと導きによるものでした。パウロ六世自身、後者の団体の会員で、これに教皇認可を与えたのも彼でした。わたしがこれら四つの教皇庁宣教事業を取り上げたのは、その優れた歴史的功績のためであり、また、この特別な年に、普遍教会と地方教会での福音宣教を支援する活動に対し、これら事業体とともに喜んでくださるよう皆さんを招くためです。これら事業は神の民に宣教の精神をかき立てる確かな道具であることについての、地方教会の理解を願います。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。私は、すべてにおいて宣教者である教会を、そしてキリスト教共同体における宣教活動の新たな時代の訪れを夢見続けています。ですから、旅を続ける神の民に対するモーセの願いをわたしも繰り返します。「主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(民数記11・29)。そうです。教会のわたしたち皆が、洗礼によってすでにそうである者、主の預言者、証人、宣教者でありますように。聖霊の力によって、地の果てに至るまで。宣教者の元后、聖マリア、私たちのためにお祈りください。

 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2022年1月6日、主の公現の祭日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」)

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2022年10月23日