三輪先生の国際関係論 ④嘘かまことか、歴史はどうとでも書ける?

 

  クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸発見の航海に旅立ったのは1492年の事だった。その500周年の1992年アメリカ史は書き換えられた。ヨーロッパ文明中心主義の世界観に変更が迫られたのである。この機会に学生達から異議申し立てがあった。「つまりだ、歴史なんて、どうとでも書ける、ということだ」と。

  大学でアメリカ史を専攻する学生が激減した。政治学専攻に鞍替えした。理論化、数式化で科学性が際立って見えたのである。

  プリンストン大学で私が習ったインテレクチュアル・ヒストリー専攻のエリック・ゴールドマン教授は、ジョンソン大統領のホワイトハウスに日参するようになって、休講が重なり、折角集った学生達を落胆させ、結局そのゼミは解散してしまった。しかし彼はその一度か二度のセッションで、消えがたい印象を残した。「史料は行間を読め、歴史学は芸術(art)だ」といったのだった。

  その頃の仲間の呼びかけで、短いエッセーを集めた学生のための教材が編纂された。今手元に捜しても見つからないので、書名や編集者が誰だったか確かめようが無いが、とにかく「歴史」はどうとでも書けるというようなものではなく、少なくとも人文科学(humanities)としてしっかり学問(discipline)として成り立つものだと訴えたのである。

  その後もアメリカは歴史学の危機に直面し続けていたのだろう。手元にTelling the Truth about History(歴史について真実を語ろう)(1994)とかHistory in Crisis? (歴史学の危機?)(1999)とか、1990年代に出版された学術書が散見する。

  思い起こすままに、心に残った歴史学に関わる事柄を取り上げて見よう。

  それは素晴らしいと感動した歴史の叙述と言うより、読む端からこれはおかしい、何が根拠か示せと言いたくなる様なものとか、史料を使っておきながらそこに書いてない全く逆の物語を仕立ててしまっている場合さえある。

  先ず「歴史認識」から行こうか.そう「南京虐殺」からいこう。

  アイリス・チャンの『レイプ・オヴ・ナンキン』(Iris Chang, The Rape of Nanking)(1997)である。アメリカのメジャーな出版社から出版され、たちまち大ベストセラーになった。週刊誌『タイム』が絶賛していた。ワシントンの日本大使館からは大使自身による、「正史と認めるわけにはいかない」という意味の声明があったと記憶する。私も『タイム』の賞賛振りを苦々しく思ったものである。日本では当然賛否両論があって、良書を手がけている出版社から翻訳版が刷り上ってしまっていたのではなかったか。批判の声の方が声高になったためだろう、店頭に並ぶ事はなかったと記憶する。

  議論は数値に集中していた。アイリス・チャンは中国政府が主張する「30万人」説をとっていたのだ。事件が起った1937年当時、ニューヨーク・タイムズの特派員が「7万人}とし、現地に居合わせたドイツ人ビジネスマンが帰国してヒトラーに問われて答えた数が、それと同じ「7万人」であった。

  何れにしろ、この処女作で、アイリス・チャンのアメリカにおけるドキュメンタリー作家としての位置は確立した如くであった。それから数年、第二作が出版された。それは彼女の祖父の物語を中心にしていた。中国から移民としてアメリカにはいり種々の職域でアメリカの発展に貢献してきたにも拘らず、犬猫以下に扱われた男の苦労話である。

  この新著The Chinese in America (2003)はどのょうに迎えられたか。『タイム』の扱いは『レイプ・オヴ・ナンキン』の真逆であった。当時の中国についての記述が「めちゃくちゃだ」というのだ。アメリカの事情についても同様。「もっとしっかり歴史を学んでから出直せ」と厳しく批判した。この厳しい批評に耐えられなかったのでもあろうか、翌年聞こえてきたのは「彼女が自殺してしまった」というニュースであった。享年三十有六、生命を賭けるほどに、真剣勝負で臨んだのだと思えば、ひときわ哀れを催す。

  アイリス・チャンのことは、「歴史学に素人の失策」と微笑みで迎えてもいいことかもしれない。今月はひとまずこれで終わりにしよう。

  来月は、伊達や疎かにするわけにはいかないアメリカの有名校でおこった博士論文をめぐる問題をとりあげるつもりである。(2017・3・25記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 菊地功・新潟司教の日記 ⑩秋田、バンコク、そして糸魚川へ

 2017年3月18日 (土) 雪の秋田から灼熱のバンコクへ

Akita1703    3月の卒業式シーズンの締めくくりは13日(月)の秋田聖霊女子短大の卒業式。聖霊の卒業式では、以前は音楽関係の学科があったこともあり、ステージ上の真ん中には立派なオルガンが置かれており、卒業生の入退場をはじめ歌の伴奏もこのオルガンの迫力ある演奏で行われます。わたしは来賓として、学長のシスターなどと一緒にステージ上におりますので、そのオルガンの迫力ある演奏を、耳だけではなくて体でも感じることが出来ます。卒業された皆さん、おめでとうございました。(写真はまだ雪の残る聖体奉仕会の聖堂前)

 卒業式後には、午後3時から聖体奉仕会でミサ。聖体奉仕会の周囲は、まだまだ雪が大量に残り、冬です。そのままいつものように4時半頃の特急いなほに乗って、一路新潟へ。3時間半の旅路。

 翌日午後には今度は成田へ移動。午後5時半前の全日空便で、バンコクへ移動。バンコク到着は現地時間夜の11時(日本の深夜1時)。バンコクへ出かけたのは、カリタスアジアの理事会である地域委員会のためです。まだまだ冬の日本から到着したバンコクは、昼間は30度を超える暑さ。この温度差は、さすがに体に堪えます。そしてこの時期の移動は、何が大変といって服装。冬の日本と常夏のタイで着るものがまったく異なるので、なるべく薄めのコートやセーターを用意してありますが、それは成田で飛行機に乗る前にすべてカバンの中に詰め込む。それではバンコクではジャケット類なしの半袖かというとそうでもなく、会議場やホテルは冷房がことのほか強いので長袖やジャケットは必需品です。半袖のシャツは、食事などで外へ出る時のみ。

Bkk170303      今回のカリタスアジアの会議の一番の目的は、この時期定例の議題で会計士による監査の報告を受けることもありますが、今回はもう一つ別な議題がありました。それが職員雇用のための面接。
カリタスアジアでは、カリタスジャパンを初めとしたアジアの23のカリタスを対象として、様々なプログラムを実施しています。それは広報だったり政策提言だったり組織育成だったり。そのようなテーマで定期的にワークショップを開催するとともに、さらにはいくつかのテーマに基づいたプログラムを実施しています。

 テーマは、例えば気候変動に対応した持続可能な農業技術の普及だったり、人身売買への対応だったりします。とはいえカリタスアジア自体には4名の事務局員以外には働き手がいないので、実際のプログラム実施にはいくつかのカリタスが合同で取り組むことになり、カリタスアジアはその調整にあたります。そういったプログラム調整を、現在は地域コーディネーター(いわゆる事務局長で専属職員)のエリアザル・ゴメス氏がすべて担当していますが、だんだん複雑化してきて一人では手に負えなくなってきました。そこで今回、そういったプログラムを担当する職員(プログラム・オフィサー)を雇用することにしたのです。

 半年ほど前に、アジアのカリタスメンバーを通じて募集をかけ、応募してきた方々の中から書類選考で4名に絞り、今回の面接となりました。インドネシアから二人、モンゴルとインドから一人ずつ。男性と女性が二人ずつ。条件は英語で仕事が出来ることと、カリタスでの経験があること、そしてもちろんプログラム調整の経験があること。4名とも素晴らしい人物で難しい選考でしたが、最終的にお一人を選ぶことが出来ました。詳細は後日、カリタスアジア事務局から発表されます。

2017年3月19日 (日) 糸魚川教会へ

      四旬節第三主日の今日、新潟教区の一番南の端に位置する糸魚川教会を司牧訪問し、ミサを捧げてきました。訪問には岡神学生も同行し、信徒の方々に、日頃の召命のためのお祈りに感謝し、さらなるお祈りをお願いしてきました。

    糸魚川は昨年のクリスマス直前、12月22日に大火が発生し、北陸新幹線の糸魚川駅から海岸よりの一帯を消失しました。教区内をはじめ全国からも教区には義援金が寄せられ、糸魚川教会を通じて糸魚川市に提供されています。(詳しくは後日、糸魚川教会から報告が公開されます)

今日のミサにItoigawa1707は信徒の方々30名ほどが参加し、現在は協力司祭で、復活祭後には主任司祭となるフランシスコ会の伊能神父さんが共同司式。信徒の中には、この地域で生活するフィリピン出身の方々も数名おられました。

ミサ後には、時間をいただき、教皇様の回勅「ラウダート・シ」について、一時間ほどお話をさせていただきました。昨年、新潟地区で信仰養成講座として話した内容と同じですが、なにぶん二回に分けて3時間近く話した内容を一時間で話すのですから、かなり簡略化しました。それでもちょっと早口で盛りだくさんで、申し訳なかったと思います。「ラウダート・シ」は単なる環境回勅ではなく、キリスト者としてどう生きるのかという課題に指針を示す書です。是非一度、目を通されることを進めます。

帰り際に、教会から出てすぐ裏手にある新幹線の高架下の在来線踏切を超えて、大火の現場を訪れました。踏切を越えるとすぐに焼け落ちた町になります。瓦礫は撤去されていましたが、再建はまだです。糸魚川市でも再建計画を定めているところで、今後どういう町作りがなされていくのか、注目していたいと思います。(写真は加賀の井酒造のあったところ。向こうの海側に、奇跡的に焼け残った家が、修復中)

(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)

 Sr石野のバチカン放送今昔 ⑨ヨハネ・パウロ二世の日本訪問

 

 

  教皇空位期間の多忙さには目を回したが、教皇ヨハネ・パウロ二世が選出されてからは同じように多忙な日々を経験するようになった。それも頻繁に。彼はよく外国旅行をなさった。そんな時は超多忙の日々を過ごした。

    前にも書いたが、バチカン放送は「教皇のラジオ」。だから放送内容の中心も教皇が占めている。教皇の外国旅行がある時は、バチカン放送は必ず何人かの特派員を、教皇が行かれる国に送る。旅先での教皇の行動やお話を、TELERXでバチカン放送に送信するためである。それらが教皇空位の時と同じように中央編集局から各セクションに配られる、各言語セクションではそれらを受けて翻訳し、放送する。

 教皇が日本に来られた時、わたしは日本語担当の特派員として送られてきた。さすが日本と思った。番組編集局長と技術部の副部長が先遣隊として来日し、KDDやNHKと交渉して準備万全だった。KDDはバチカン放送とわたしたちの仕事場にホットラインを引いてくれた。そしてNHKでは放送用のスタジオと副調整室、その他にもう一つの部屋をバチカン放送用に提供してくれた。わたしたち専用のモニターも準備してくれ、広島、長崎の放送も東京に居ながらにして、すべ見られるように便宜を図ってくれた。

 2月25日、降りしきる雪の中で教皇が、長崎の松山陸上競技場で捧げられたミサを、わたしはアメリカ人の神父さんと二人でモニターを見ながら実況放送をした。二時間降り続く雪の映像を見ながら放送を続けた後、体中が冷たく感じられた。降りしきる雪の中でミサと洗礼式に与った信徒たちに対して、教皇は「あなた方は実に、殉教者の子孫にふさわしい方々です」と、彼らの信仰をたたえた。

 ヨハネ・パウロ二世は2005年4月2日、84歳の生涯を閉じられ、2014年4月27日、故ヨハネ23世とともにに列聖された。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2017年3月25日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風通信 ⑨ 独り言…T神父の四旬節の黙想会…

 

 T神父の四旬節の黙想会で。

   エマオの弟子たちが、イエスさまのことばを聞き、イエスさまと共に歩き、「心が燃えた」(ルカ14・13-35参照)…「わたしたちも、燃やしていただきたいですね~。どうでしょう、イエスさまがわたしたちの傍らを歩きながら、わたしたちのいのち、わたしたちの人生をすべて解き明かしてくれたら…燃えますよね~。いや~、こうして燃やしていただかなければ、やってられないですよ、キリストに従う生活なんて、この世の中で」。

   T神父は続ける。「この弟子たち、どんなに嬉しかったでしょうね~。どうですか?失望のどん底にいたのに、イエスさまに心を燃やしていただいて、まったく別の人になった。もう、もたもたせずに、すぐにエルサレムに、たぶん走って、引き返した。嬉しくて、嬉しくて、しょうがなかったのでしょうね~」。

   そして、バシッと決める。「みなさん、わたしたちは、こんなに、こんなに嬉しい出来事を、今、準備しているんですよ。イエスさまの復活は、こんなにも素晴らしいことだから、その喜びを準備するために、40日間もかけるんです。わたしたち、燃えていますか?」。

   う~ん、心に響きました。心が冷めているとき、信じたくてもなんだかボ~っとしているとき、イエスさま自身に、わたしの心を「燃やしていただきたい」!四旬節って、「泣き笑い」の時なのかも。わたしの罪深さに泣きながら、こんなわたしのために、神さまがご自分の一番大切なもの、独り子を世に遣わしてくださって、その独り子イエスさまは、こんなわたしのために、すべてを喜んで献げ尽くしてくださったことを、わたしをご自分の永遠のいのちに引き寄せるために、十字架の死まで、すべてを投げ出してくださったことを、深く、深く喜ぶ。そんな時なのかもしれない。

 神さまの正義は、いつくしみ。神さまの掟は、愛のため。

 だから、今日も歩きます。前に、もうちょっと前に。イエスさま、わたしと共に歩いてください。マリアさま、ヨセフさま、わたしを見守り、助けてください。アーメン!

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年3月25日 | カテゴリー :

 Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑥ マニラの月曜日

 マニラは、曜日に彩られた町だ。

 日本を含むアジア太平洋地域の保健衛生を所管する世界保健機関(WHO)西太平洋事務局の訪問や、現地で寄生虫被害の調査研究を行っている専門家らと懇談する目的で、フィリピンの首都マニラを訪れた。

 東南アジア諸国はこれまでにも、タイやマレーシア、シンガポール、ベトナムを訪れる機会に恵まれた。ただ、フィリピンの印象はそれらの国とは大きく異なるものだった。

 首都圏の大動脈であるエドサ通りの渋滞はつとに有名だが、混雑は金曜日の夜にピークに達するという。マニラのオフィス街では週休2日が普通で、金曜日の夜は翌日の通勤を気にせずに過ごせるため、多くの若者たちが深夜2時過ぎまで連れ立って遊ぶ姿が見られると聞いた。

 続く土曜日は、家族の時間としてとらえられている。1週間分の買い出しに出る家族が多く、やはり市街地や郊外のショッピングセンターを中心に大勢の人たちであふれている。休日出勤をするフィリピン人も少なくないといい、幹線道路の混雑も続く。

 それが一転、日曜日のマニラは驚くほどの静けさに包まれる。

 ご案内の通り、フィリピンは東南アジア諸国連合(ASEAN)唯一のキリスト教国で、国民の83%がカトリックだ。日曜日の午前中は教会の礼拝に参加するのが当たり前であり、夕方まで多くの人々が集う。フィリピンで最も重要な教会とされ、アジア最大級のパイプオルガンがあるマニラ大聖堂も、世界遺産に登録されたフィリピン最古の石造教会であるサン・オウガスチン教会も、午後は荘厳な雰囲気の中で結婚式が執り行われていた。

 そしてまた月曜日からは、渋滞と人いきれの1週間が始まる。あまたのマイカー、ジープを乗合バスに改造したジプニー、高架鉄道(RTL)、オートバイにサイドカー付いたトライシクル。早朝から勤務先へ急ぐ人たちで、町は再び熱気に包まれる。

 ところが、だ。雑踏の中に取り残された人々がいる。

 曜日の変化に取り残されてしまったように、道ばたにたたずむ家族の姿……。とりわけ小さな子どもたちの多くは靴も履かず、汚れた衣服を身につけたまま、力なくその場に身を置いている。まだスクール・ホリデーの開始には間があり、沿道は制服に身を包んで通学する生徒や学生が行き交う。同級生たちと学校への道を急ぐ彼らのかたわらで、月曜の朝になっても動かない道ばたの子どもたち――。日本はもとより、他のASEAN諸国でもほとんど眼にしなくなった光景だ。

 「昨年の経済成長は6・4%で、『ASEANの病人』と呼ばれた時代は完全に終わった」「大学や専門学校などの高等教育機関は1600校以上で、日本よりも多い」「世界経済フォーラムが発表する男女平等ランキングでは世界の上位、アジアでは首位を占める」

 好調な経済発展が喧伝されるフィリピンだが、変わらないのは、「富裕層の上位20%が全所得に占める割合は50%を超え、貧富の差が極めて大きい」という厳しい現実だ。海洋の安全と安定を目指した安全保障上の提携ももちろん重要だが、日本にはもっとできることが多いのではないだろうか。

 あす火曜日もあさって水曜日も、おそらくは変わらない生活を送るだろう裸足の子どもたち。彼らを前にして、そんなことを考えた。

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=が4刷出来! アマゾンへのリンクはhttps://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22 )

*「サイレント・ブレス」とは、静けさに満ちた日常の中で、おだやかな終末期を迎えることをイメージする言葉です。医師として多くの方の死を見届けてきた私は、患者や家族に寄り添う医療とは何か、自分が受けたい医療とはどんなものかを考え続けてきました。このコラムでは、終末期医療の現場で考えたこと、感じたことを読者の皆さんにお伝えします*

2017年3月25日 | カテゴリー :

 漆原JLMM事務局長・共に生きるヒント ⑤住民のチカラで                   

   カンボジアの首都プノンペン郊外のステンミエンチャイ地区には街中のゴミが集められ、捨てられてできた巨大なゴミ山がありました。そのゴミの中から有価物を収拾し現金化して生活している人々の集落があり、私たちJLMMもその村人たちと20年ほど関わりを続けています。

   集落には簡素な掘っ立て小屋のような家屋がひしめき合っています。電気・水道・ガスもなく、カンボジアの平均的な水準からみても衛生的にかなり劣悪な環境です。特に雨期になると足元が泥とゴミでぬかるんでいて、歩いて通るのも一苦労です。

    この集落の突き当りに、これまた簡素なトイレがあるのですが、それはここの住民にとって自慢のトイレです。

もともとこの集落にはトイレというものは存在しませんでした。どこか近くの野原のような空き地で用を足すのが一般的な生活です。そのような環境の中で、集落に共同のトイレがあり、利用されているということは大変珍しく、また嬉しい光景です。

   トイレの設置と利用は、トイレがない地域の住民にとってはとても難しいことなのです。東ティモールのケースですが、10年ほど前に村落をまわり、トイレの設置や利用状況について調査したことがあります。そこで見て驚いたのは、国連機関や大手のNGOが設置したトイレのほとんど、おそらく7割以上が全く使用されていなかったことでした。トイレを見せてもらうと、鳥小屋になっていたり、農機具の倉庫となっていたり、ゴミ捨て場として使われていました。誰かがカギをかけて自由に使えなくなっているトイレもありました。

   要するに、「トイレが必要だ」と思っているのは支援する団体側のみであり、住民はその必要性を全く感じていないということなのです。理屈では理解できるし、タダで作ってもらえるなら作っても良いよ、という程度のモチベーションなので、使わないし、故障しても誰も修理しようとは思いません。東ティモールでは、その後6カ月間毎日スタッフが村に通い、トイレの必要性を住民が実感するのを促し、住民自身の手によってトイレを設置するのをサポートするというプロジェクト(CLTS=「コミュニティ主導による全村的衛生普及活動」)を始め、いまも住民たちはトイレを大切に使用しています。

    カンボジア・ステンミエンチャイの集落のこのトイレも、住民同士で話し合い、お金を出し合って共同で管理しています。住民自身が、自分たちの生活のため、つまり病気を予防し衛生的な環境の中で健康で安全な生活をおくるために、自分たちで決め、自分たちのチカラで暮らしをより良く変えていくということが大切なのだと思います。私たちはそのためのお手伝いができればと思います。

(2017年3月25日)

 ***JLMMについて***

 JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(JANIC)正会員で、主にアジア・太平洋地域にレイミッショナリー(信徒宣教者)を派遣しています。派遣されるレイミッショナリーは、派遣地において関わる人々とともに喜びや悲しみを分かち合い、地域の人々に向けたこどもの教育、衛生教育、栄養改善、女性の自立支援などの活動を実施しています。1982年の設立以降、アジア・太平洋、アフリカ諸国16か国に100名以上のレイミッショナリーを派遣されました。現在はカンボジアと東ティモールに3名を派遣しています。

 JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、活動報告会やカンボジアハンディクラフト販売にご協力いただけるグループや教会を募集しております。事務局(jlmm@jade.dti.ne.jp)までお問い合わせください。

「導かれて-司祭叙階25年に感謝」ヨセフ・ディン神父

  召命のきっかけは

 3月8日、司祭叙階25周年を迎えました。司祭の道を考えるきっかけは、生まれ故郷のベトナムの小教区で司牧実習をしていた神学生が、教会学校で子供の僕と遊んでくれたことでした。

 教会の広い前庭でサッカーを楽しんだ後、侍者(祭壇奉仕)や祈り方を指導していただいたおかげで、神学生の道に魅力を感じ、小神学校に入りました。まだ、司祭になろう、という気持ちはなく、「あの神学生のようになりたい」という素朴な気持ちでした。

  難民として日本に

 1975年、ベトナム戦争終結で南北ベトナムが一つの共産主義国となり、教会の施設(学校や病院など)が閉鎖されたり、国有化されたりしました。僕が入っていた小神学校も閉鎖され、家に帰らねばならなくなりました。

 司祭への道に再度、挑戦したい、という強い思いから、小さなボートで国を脱出したのは、1981年㋄29日の真夜中のことです。海の上で3日たち、水も食べ物も無くなった時、日本に向かっていた液化天然ガス(LNG)のタンカーに助けられ、日本に上陸しました。

  粕谷神父との出会い

 日本では、徳島県の造船所で2年ほど働いた後、日本に定住するために品川の国際救援センターに受け入れてもらい、日本語を「あいうえお」から習い始めました。そこで粕谷甲一神父さまとの出会いがあったのです。粕谷神父さまは、毎日曜日にミサを捧げにセンターに来られ、侍者や聖歌の伴奏などのお手伝いを通して、お話しする機会ができました。そして、ちょうど3か月の日本語コースを終えた時、「東京教区の神学生になりたくないか」と声をかけてくださり、数か月後、白柳誠一大司教さまと養成担当司祭の面接を受けるために、関口の司教館に連れて行ってくださったのです。

  白柳大司教のはからいで

 面接の時は、まだ日本語が十分でなく、お2人の質問が全部は聞き取れず、自分の考えも表現しきれませんでした。それでも、気持ちは伝わったので、受け入れていただけたのだと思います。

 東京教区には外国人の司祭がいましたが、教区として外国人神学生を受け入れたのは初めてで、だいぶ戸惑っておられたようです。東京神学院でも、初の外国人神学生の受け入れとなり、日本語で授業を受けられなかった僕のために日本語学校を探したり、神学院での生活に早く慣れるように色々気を配ったりしていただきました。

 今振り返ってみれば、「感謝でいっぱい」の一言に尽きます。

 もし粕谷神父さまに出会わなかったら、もし白柳大司教さまがおられなかったら、僕は東京教区の神学生になり、東京教区の司祭になることができなかったかも知れません。お2人とも留学され、外国での生活を経験されていたこともあり、お1人は僕に司祭にならないか、と声をかけ、もうお1人は僕が司祭になることを受け入れてくださったのだ、と思います。神は、お2人を通して、僕を助け、導いてくださったので、今、小金井教会で皆さんのために働き、皆さんと共に叙階25周年のお恵みをいただくことができました。ほんとうに感謝しております。

(よせふ・でぃん=カトリック小金井教会主任司祭)

2017年3月21日

 清水弘神父のひとこと「ハーモニー」           

 

  もう一度生まれるなら・・・。女子であれば幼稚園の先生になりたい。男子なら、神父でよい。どちらであっても音楽を学んで表現できるようになりたい。

    大学院の時、創設された奨学金が当たったので、すぐにフルートを買った。音楽院を見つけてレッスンを受けることにした。そこで先生に、「僕でも先生みたいなプロになれますか?」と聞いた。先生は即座に答えた、「そういうことは考えない方がいいでしょう」。司祭の道が決まった瞬間であった。

 実は音楽についてはずぶの素人であるが、最近は音楽への感性が高まっているのを感じる。ハーモニーというものに目覚めたからであろう。スーザン・ボイルとエレーヌ・ペイジ、サラ・ブライトマンとアンドレア・ボチェリ、古くなったがABBAもよい。

    内田光子さんや辻井君もよく聴く。あの人たちの醸し出すハーモニーが素晴らしいのである。辻井君はその典型である。彼は見えないゆえに聴きながら演奏する。力いっぱい自分の表現をするが、必ず聴きながら行う。ここに感動を呼ぶ要素がある。

    数人の室内楽でも、何十人というオーケストラでも、合唱団でも、みんな精一杯に自分のパートを表現する。自分を表現しながら他のパートを聴いているのである。それでないと美しいハーモニーは生まれない。一人ひとりが自分を精いっぱいに表現すること。一人ひとりが周囲を全身で聴きあうこと。その中に和が生まれ、生きようとする気力がみなぎる。一人の教え子は大学を中退して音楽の道に進んだ。研修に出た米国から書いてきた手紙には次のようなことばがあった。

  「音楽を通して自分が求めているものは、ある素晴らしく充実した時間、瞬間なのだろうと思います。それを通して、はじめて自分が生きることができるような気がします」

    若い音楽家たちとの演奏活動を通して、彼は生きることの意味を実感していると言える。みんなが自分を表現して、しかも他人を聴き合う。この極意は社会生活にも教会生活にも通じていて、教会がそういう充実の輪を推し進めることができれば素晴らしい。

      自分を力いっぱい表現すること。周囲を全力で聴き合うこと。そんな願いを胸に島根県に赴きます。宇部・小野田の皆さん、3年間の友情を有難うございました。それぞれの場所で〝賛美歌″を歌い続けましょう。

(しみず・ひろし・イエズス会司祭  )(カトリック広島教区・宇部ブロック報2017年3月号より転載)

Sr阿部のバンコク通信 ⑦タイの「子供天国」、日本では・・

   日本には以前、『子供天国』という言葉がありましたが、久しく聞いていません。明るく賑やかで、いのちの躍動を感じた子どもの頃を思い出します。タイに来てうれしい気持ちになったことの一つに、社会のただ中に子供達が喜々としていて、大事にされていることでした。家庭、社会、街のどこでも、子供は花形、特に小さい子供は注目の的です。

    雑踏の中で子供に微笑みかけ、心を配る大人たち。電車やバスの中では誰もが障害者、妊婦、老人には勿論ですが、子供にも席を譲るのです。内心、「小さい子供にならともかく・・」と思うこともありましたが、それほど子供が中心の社会で、雑踏で押し潰されたり、邪魔扱いになることはまず無い。ぐずついた子供を抱え、母親が気まずい肩身の狭い思いも無用です。

   子供連れの日本人のお母さんも、バンコクでは、「どこでも本当に可愛がってくれますね、うれしいです」と、子供を暖かく見守る微笑ましいタイ社会の良さを実感しています。安心して妊娠、子育出来る環境にほっとする日本人、私も、何よりのことと喜んでいます。

   小さき者に心を配り、いたわる社会は、神様の思いを反映しているな、と感じます。見えない世界をとらえる感性が豊かで、人間同士の心の通い合いも素直だな、と思います。小さな子がうるさいから、と言って追い払おうとする弟子たちを諌めたイエスさまのお姿が、マルコ福音書にありますが、この点ではイエスさまに喜ばれるタイ社会の今です。

   子供や、老人、病人、障害者を足手まといにしない社会には、神も仏も生き生きして、人もホッとする環境が生まれるのだと、改めて考えさせられる日々です。

 

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2017年2月28日 | カテゴリー :

菊地功・新潟司教の日記 ⑨東日本大震災復興支援の会議@仙台教区本部

2017年2月17日 (金) 菊地功

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 今日は一日、仙台のカテドラルである元寺小路教会で、東日本大震災の復興支援に関わる二つの会議です。午前中には、仙台教区内各地に開設されているベース関係者の会議。

 宮古、大槌、釜石、大船渡、米川、石巻、南相馬、もみの木(いわき)にボランティアベースが開設されており、その代表が情報交換のために定期的に開いている会議です。今日は13名の方が参加。それに加えて、全国からの支援に関わっている関係者として、長崎、大阪、東京の教会管区から関係者。もちろん仙台教区のサポートセンターやカリタスジャパンからも関係者が参加しています。

 私はカリタスジャパンの責任者としてではなく、司教団の東日本大震災復興支援活動(いわゆるオールジャパン体制)の責任者として参加していますが、それ以外にも、仙台の平賀司教、高松の諏訪司教、東京の幸田司教の4司教も参加しています。

20170217_0924282 日本のカトリック司教団は、先の司教総会で、現在のような全国の教会からの復興支援活動を、2021年の3月まで継続することを決めていますが、各地のベースでは、それぞれの地域の事情などに応じて、今後、その活動内容が変化してくることが避けられないと思います。NPO法人として活動を拡大するところもあれば、縮小していくところもあるでしょう。

 拡大するにしろ縮小するにしろ、それぞれは地元の方々との関わりの中で、たとえば地元の方に引き継いでいったり、地元の方の協力を得ながら拡大していくなど、地元に根ざした地域との関わりを深めた活動に変化していかなくてはなりません。その中で、教会との関わりをどうしていくのかも、考慮するべき課題かと思います。なんといってもカリタスの活動は、教会の愛の奉仕として、教会の重要な本質的要素の一つであることを忘れるわけにはいきませんから。

(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)

漆原JLMM事務局長の共に生きるヒント ④「本音を伝えあうこと」

 

 東日本大震災からもうすぐ6年。

 発生が2011年の3月11日、被災地では16日に「仙台教区サポートセンター」の設立が決定し、私もJLMMのスタッフとともに19日に仙台に入り、センターの立ち上げやニーズの調査をお手伝いさせていただきました。その時からほぼ毎月仙台に通い、その後活動の中心が福島に移ってからも月2回ぐらいは東北の被災地での活動を続けさせていただいています。

 一昨日は仙台を訪ね、サポートセンターの6年前の設立時のスタッフが集合し、発災直後から支援活動を開始するまでの様々な動きを振り返りました。その中から教訓を引き出し、今後起こりうる災害時に支援活動を立ち上げる際に活かすためです。

 思い起こせばセンター立ち上げの時期は電話は鳴りっぱなし、昼夜問わず全国から駆けつけてくるボランティア希望者の対応に追われ、私たちスタッフも10日間全く風呂にも入れない状況でした。

 街にガソリン、食料、物資が不足し、インフラも壊滅的な状況下にありながら、みんなで精いっぱい力を合わせて支援活動に取り組んだことがあらためて思い起こされました。その一方で、スタッフの中にも6年経った今だから話せる、聞けるといったこともありました。確かに、目まぐるしく変化する日々の状況や緊急事態の中での特殊な精神状態の中では気づかない、意識できない、表現できない感情や思いというものがあったはずです。

 被災者、避難者の方々とお話をしていても、震災以降もう4、5年以上のお付き合いをさせていただいている方々からも今になってようやくうかがうことのできるお話というものがあります。人間関係がつくれた後だからうかがえるということもありますし、その方の心の痛みや苦しさが意識化され言葉になり、表現されるまでに長い時間が必要なこともあるのだと思います。

 私自身にも今、支援する側の人間としての反省が心の中で沸き起こってきました。6年前、被災地支援の拠点づくりのために、被災地各地の教会の建物を拝借して事務所にしたり支援物資を保管したりボランティアの宿泊スペースにさせてもらったのですが、その時の地元の教会の人たちの気持ちはどうだったのだろうか。かなり我慢をさせてしまったはずだ、という思い。サポートセンターが設置された元寺小路教会の建物の中を「安全靴でガチャガチャと音を立てながら走り回っていた自分が、地元の教会の方にとってはご迷惑だったかも知れず、申し訳なかった」と、元寺小路教会の信徒の方に、今回初めてお伝えすることができました。

 今までうっすらと、しかし消えることのなかった思いを、6年経ってやっとお話できました。

 そして、被災地で支援を受け入れる側の方々が、実際には当時どのような思いでおられたのかを伺い、多くの方々から提案を聞かせていただきました。これも6年経った今だから聞ける話かもしれません。同時に、被災された方々が自分たちの気持ち、不満、苦情や要望を伝えられるような環境やムードを、私たちがつくり、促していたか。そもそも支援する者が、積極的にお聞きする姿勢や態度でいたのかを振り返り、反省したいと思いました。

 これからも、支援する側、される側という関係を超えられない場面でこそ、対等な関係を目指していきたいと思います。(2017年2月26日)

(漆原比呂志=うるしばら・ひろし=日本カトリック信徒宣教者会(JLMM)事務局長)

***JLMMについて***

 JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(JANIC)正会員で、主にアジア・太平洋地域にレイミッショナリー(信徒宣教者)を派遣しています。派遣されるレイミッショナリーは、派遣地において関わる人々とともに喜びや悲しみを分かち合い、地域の人々に向けたこどもの教育、衛生教育、栄養改善、女性の自立支援などの活動を実施しています。1982年の設立以降、アジア・太平洋、アフリカ諸国16か国に100名以上のレイミッショナリーを派遣されました。現在はカンボジアと東ティモールに3名を派遣しています。

 JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、活動報告会やカンボジアハンディクラフト販売にご協力いただけるグループや教会を募集しております。事務局(jlmm@jade.dti.ne.jp)までお問い合わせください。

Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑤ 「終活の第一歩」

  「終活」が一大ブームになっている。「人生の最期に向けて準備を進める」ことを意味するこの言葉は、2010年ごろに登場し、東日本大震災が起きた2011年から広く使われるようになった。

   ブームを支えているのは、「終活セミナー」「終活イベント」などと名づけられた各種の催しだ。葬儀関係会社や旅行会社などが主催するそうしたイベントをのぞいてみると、活況ぶりに驚かされる。

    約250社・団体が参加した関係企業の大型展示会では、さまざまな純金仏具の展示コーナーをはじめ、スライドショー付きの遺影撮影サービスを紹介したブース、海洋散骨や気球葬、宇宙葬などという新しい葬儀スタイルを紹介した展示が人気を集めていた。会場には「これが骨壺?」と思わせるようなデザインの棺桶や骨壺や墓石がズラリ。別のイベントでは、棺桶の「寝心地」を味わえる入棺体験コーナーや遺影の撮影体験コーナーに、来場者の長い列ができていた。

    終活イベントの会場を歩いてみて、「葬儀のスタイル」や「埋葬のされ方」などについては、実にさまざまな提案がなされていることを実感した。ただ、どうしても気になる点が残る。それは、死に至る「最期の医療」をめぐる情報の提供や議論の場が非常に少ない――という点だ。

    こうした思いは、さまざまな形で普及している終活のための冊子「エンディング・ノート」を手にした際にも抱いてしまう。

    エンディング・ノートで多くのページが割かれているのは、友人や親族へのメッセージや人生の思い出などを記入する欄だ。葬儀や墓に関するリクエスト、供養の希望を書き込むページも豊富に用意されている。しかし、医療に直接関係する項目は、シンプルなものが多い。「延命治療はしてほしいですか?」の問いについて、「はい」と「いいえ」の二者択一でマルをつける項目が設けられているほかは、「そのほか医療に関するご要望はありますか?」などと、ごく簡単な記述を求めるタイプが幅をきかせている。重要な議論に手をつけぬまま、周辺を一生懸命に飾っている印象だ。

    胃瘻をするのか、点滴をするのか、人工呼吸は行うのか……。ひとくちに延命治療と言っても、最期の医療をめぐる議論は、さまざまなケースを具体的に想定しながら進めなければならない。そもそも、どこからが延命治療なのか。高齢になっても外科手術を受けるのか、抗がん剤治療をするのか? 医療現場でも意見は大きく異なる。

    読売新聞の2013年世論調査で、終末期医療について「家族と話をしたことがある」と答えた人は31%に過ぎない。70歳以上の回答者でも38%だった。患者本人の意思が明確に示されていないと、終末期医療の現場では混乱が生じかねない。遠い親戚が突然病床に顔を見せ、治療方針に異を唱えるケースも目立っている

    葬儀やお墓、遺影のことを決める前に、「どんな治療を・どの程度・いつまで受けたいか?」という点もしっかり考える。少なくとも家族とで話をしておく。はやりの終活をスタートする際に、避けては通れない問題だ。

*「サイレント・ブレス」とは、静けさに満ちた日常の中で、おだやかな終末期を迎えることをイメージする言葉です。医師として多くの方の死を見届けてきた私は、患者や家族に寄り添う医療とは何か、自分が受けたい医療とはどんなものかを考え続けてきました。このコラムでは、終末期医療の現場で考えたこと、感じたことを読者の皆さんにお伝えします*

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=が4刷出来! アマゾンへのリンクはhttps://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22 )

2017年2月25日 | カテゴリー :

森司教のことば ⑧日本社会の隠れた悲惨さ

 日本を訪れる宣教師や修道者たちは,異口同音に、日本は、他の宣教地と比較して、素晴らしい国だ、と賛美する。表面的にみれば、その通りかもしれない。

 経済的には豊か、食べ物は豊富、そして生活は便利で快適である。人々の資質も、温厚で、礼儀正しく、勤勉である。また幼い頃から集団生活に馴らされて育ってきているため、我慢強く、自分の権利・主義主張をあまり表に表さない。デモなどは極めて稀である。また子供たちは、18歳まで法律で守られており、義務教育は徹底し,大半が高等学校や大学に進む。貧困のため幼い頃から働かざるをえない発展途上国の子どもたちと比べれば,遥かに幸せである。さらにまた乳幼児の死亡は少なく、平均寿命は世界一である。それは、経済の向上、治安の安定、医療技術の発展、生活環境の整備、社会福祉の浸透等々によってもたらされたものである。

 こんな日本社会を見て、宣教師たちが日本社会を肯定的に評価するのは、当然である。しかし、日本社会は、その内に深い闇を抱えてしまっているのである。それは、外部の者にはなかなか分かるものではない。

 その一つの証しが、鬱に覆われる人と自殺者の数である。

 鬱に覆われる人は、6人に一人とも言われてしまっている。また自らいのちを絶ってしまう人は、一時期より減少はしたが、自殺率(人口10万単位)の国際比較をみると、旧ソ連邦の国々を除くと、日本は、あいかわらず、先進国の中では上位にある。

 この数字を2003年以降のイラクの民間人の犠牲者の数と比較してみれば、日本の悲惨さがさらにはっきりと見えてくる。

 民間調査団IBC〈Iraq Body Count〉によると、イラク攻撃が始まった2003年から2010年までの7年間の民間人の犠牲者つまり死者の数は10万人近くになるという。ところが、その7年の間では、日本では30万近くの人々が自ら命を絶ってしまっているということになるのである。つまり、混乱するイラクを悲惨な社会というならば,日本は、それ以上に悲惨な国ということになるのではなかろうか。

 日本社会をそのような状態に追いやってしまった元凶は、経済的な発展と利益を最優先にしてしまう価値観とその論理にある。それをそのまま受入れて走り出し,国全体が、その論理にそって社会全体を組織化し、〈日本株式会社〉と揶揄されるほどに、一つにまとめてしまったことにあるのである。それが、人の心を蝕み、日本社会に大きな歪みをもたらしたのである。

 家庭も学校も地域社会も、本来は、人間一人ひとりを支え助ける役割を負っているものである。ところが、それが、利益と効率を目指す競争の論理に蝕まれて、本来の機能を果たせなくなってしまったのである。

 そのため、家族の絆は希薄になり、地域社会での人と人とのつながりも弱まり、弱者は、軽視されたり無視されたりして片隅に追いやられるようになってしまったのである。すべての自殺者の背後に見えてくるものは、人間としての尊厳を無視された絶望と支えを見失った人間の孤独である。

 今の日本社会が必要としている福音は、「天の父は、一人でも滅びることは望まれない」という人間の尊さを訴える愛の福音と柔和なキリストとの出会いである。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年2月24日 | カテゴリー :

Sr石野のバチカン放送今昔 ⑧「微笑みの教皇」と「空飛ぶ教皇」

  昔、教皇は一般謁見にお出ましになる時、8 人の男性が担ぐ神輿画像検索結果に乗って、高いところから会衆に祝福を与えながら、謁見場に出てこられる習慣があった。

 謙遜で慎み深いヨハネ・パウロ一世は、教皇即位の簡素化を望み、戴冠式を取りやめて、ミサ中に牧者の権能の象徴であるパリウムを受けることだけにとどめられた。「微笑みの教皇」と呼ばれた教皇は、謁見の時神輿に乗ることを望まれなかった。ニコニコなさりながら、人々の間を歩いて謁見に臨まれた。すると、世界中から抗議の手紙がバチカンに殺到した。

 「教皇を一目見たい」、「せっかく遠路はるばるバチカンに来ているのだから、教皇のあの笑顔が見たい」「高いところならよく見える、どうか神輿に乗ってお出ましいただきたい」。そんな声を聞かれた教皇は、「人びとを喜ばせるためなら」と、信徒たちの熱い望みに応えるため、私意に反して神輿に乗ることを受けられた。

  人々は熱狂的に歓迎した。揺れる神輿の上で右手を挙げて熱狂的な会衆を祝福しながらその間をゆっくり進まれる教皇の謙虚なお姿は輝いてさえ見えた。

  ヨハネ・パウロ二世の時も、同じ「お歩きになると見えない」という声が繰り返された。しかしヨハネ・パウロ二世は「みんなが私を見たいけれど見えない?それでは見えるように私が工夫しましょう」と言って、そうした声に屈しなかった。そして元気よく歩いて謁見会場に出てこられた。

  おそらくその頃から、やがて「空飛ぶ教皇」と命名されるほど、世界各地に平和のメッセージを携えて旅をし、世界に平和を訴え、信者たちの信仰を固めることを、考えていらしたのかもしれない。実に26年間の教皇在任期間中に129か国を訪問されたのだった。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2017年2月20日 | カテゴリー :

Sr岡のマリアの風通信 ⑧独り言…帰省…

     修道誓願宣立25周年…で、ふるさと、茨城県日立市に帰省しました。

    一人暮らしの母は、ほんとうに「おかげさま」で、それなりに元気にしています。かえって、わたしのためにあれこれ気を遣って、まめまめしく動いてくれました。「してもらうことに甘える」のも、「大切な愛のわざ」と、半分、言い訳で、母が「これ、してあげようか?」と言ったことにはすべて、「わぁ、ありがとう。お願い!」と甘えていました。

    今、日立教会では、わたしがイギリスで洗礼を受けて帰ってきたときに主任司祭だったK神父さまが、巡り巡って、また司牧をしておられます。K神父さまは、当時、日本語のミサの受け答えを知らなかったわたしに、とても丁寧に、謙虚に、そして時間をかけて穏やかに接してくださいました。

    その後、数週間で、わたしは長崎に行き、結局帰って来なかった(シスターになったので)のですが、K神父さまに、言葉だけでなく、心から心へ、教えていただいたことは、わたしの信仰の歩みの中で大きなものであり続けています。

    今回、たまたま25周年で帰省し、日立教会にはK神父さま。これも何かの縁。神父さまや、信徒の皆さま、特に「お母さんたち」と語り合い、共に過ごす時間を、感謝していただきました。帰省中は、わたしの誕生日も重なり、母はもちろん、妹、姪から、また本部修道院のシスターたちからの祈りのメッセージが届き、神に感謝!K神父さまは、「シスターの誕生日祝いに」と、お茶を立ててくださいました。

    日立の海は、どこまでも青く、岩にあたって砕ける白波がほんとうに美しく、たくましい。日立教会は、この小さな「田舎の町」の小さな群れ。しかし、神は救いの歴史の中で、いつも、「小さな群れ」、主に信頼する「残りの者たち」を通して、偉大なわざを行ってきました。

    貧しい、小さな「わたし」が、主の変わらぬ「やり方」に信頼し、主のわざに心を開いていくなら、どんな闇の中でも、わたしの中で、主の光が輝くのでしょう。十字架のかたわらにたたずむ、主の母マリアの心が、主の住まいであり続けたように。アーメン!

 (岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年2月20日 | カテゴリー :