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Sr 阿部のバンコク通信 ⑫タイの女子刑務所に定期訪問、受刑者の受洗も
タイ国には147 の刑務所があり、現在約320,000人が刑に服しています。 その内、麻薬に関わる罪過で逮捕さらた受刑者が85パーセント、 男性がその約3分の2 を占めています。友人司祭と信徒が刑務所を訪問していると知り、 私も数年前から参加しています。
刑務所では、ミサ、許しの秘跡、要理、聖書( レクツィオディヴィーナ)、体験の分かち合い等を行います。 現在はナコンラチャシーマ県の女子刑務所の1ヶ所に絞って月1度 参加。一昨年の復活祭には16人が受洗。 クリスマスや復活祭にはプレゼント、会食のために、 ご馳走を作って大鍋を持ち込むこともあります。 事前に申請し許可を受け、透明な袋に入れ、 全てが厳重な検査を受けての持ち込みです。 身分証明書を責任者のカテキスタを通し事前に提示し、 当日は3度の関所なるものを通過し、携帯、財布、 バッグ等は全てコインロッカーに置いて所内に入ります。
訪問先の女子刑務所は、タイ国のほぼ中央に位置し、バンコクから北へ220km。 車で3時間、面会時間に間に合うように早朝出発します。 10数年前から刑務所の訪問宣教をしているカテキスタが、 参加できる司祭と交渉し当日の準備。面会の日、 刑務所前で顔を合わせ、 パパ様のお勧めを胸に私の1日を捧げます。 この日を楽しみに待っている所内の友の顔が浮かんで来ます。 毎月、感謝のミサを共にするのが楽しみです。
「私が牢獄にいた時、あなたは訪ねてくれた」と言われたイエスの言葉に従って・・。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
[ワールドビュー]日系人救った神父の「作戦」(読売新聞)
(2017年7月30日 読売新聞 ロサンゼルス支局長 田原 徳容)
米中西部ネブラスカ州のオマハ周辺で6月、日系人を巡る小さなニュースが話題となった。郊外の林で見つかった複数の空き家が、第2次世界大戦中に強制収容所から助け出された日系人家族の住居と判明したのだ。救出に取り組んだのは、一帯に全米最大の児童福祉の町「ボーイズタウン」を築いた故E・J・フラナガン神父。なぜ、そんなことができたのか。その理由を知りたくて、ボーイズタウンを訪ねた。
投資家ウォーレン・バフェット氏が生まれ、今も暮らすオマハは、全米屈指の肉質の「オマハ・ビーフ」でも有名な、のどかな町だ。ボーイズタウンはその西の郊外に位置し、1917年に神父が設立した孤児支援施設を軸に整備され、36年に行政的に独立。全米の子供の駆け込み寺のような存在として知られる。
「神父が日系人を連れてきたのは、子供のためだ」――歴史家で、町の重職も務めるトーマス・リンチさん(57)が言った。大戦中、子供の世話をする職員が戦地に赴き、人手が不足した。神父は強制収容された日系人に目を付け、政府の許可を得て収容所で求人募集を行い、関心を持った人を雇ったという。
差別を憎み、政府に抗議する熱い逸話を想像していたので拍子抜けした。リンチさんが見透かしたように言った。「神父は政府への協力を示す形で、合理的に救出作戦を展開したということですよ」
アイルランド移民で差別の苦労を知る神父は、日系人の強制収容に強く反発した。だが、表立って日系人の味方をすれば、非国民扱いされる。そこで、「町が日系人を『収容』する」ことを考えた。
米政府は、戦時下で特定地域の住民排除の権限を軍に与える大統領令を運用し、西海岸の日系人を強制収容した。神父は日系人を監視したい政府の意図を理解し、「特定地域外」のボーイズタウンで日系人の衣食住を管理すると約束した。神父が監視役というわけだ。
日系人は求人募集に殺到しなかったのだろうか。リンチさんは答えた。「大工や運転手など特定技能を有する者と家族に限った。神父は政府を刺激せず、少しずつ助けようとしたのです」
ボーイズタウンに来た日系人は200人超。一部は大戦終結後、定住した。大工だった故マイケル・オオシマ氏の娘、テリー・バーデットさん(66)は、父がこの地に来たいきさつを初めて知り、「神父に感謝します」と泣いた。
神父の死から約70年。日系人を強制収容に追いやった大統領令の再来とされるトランプ大統領の大統領令が、イスラム教徒への差別を助長しかねない状況に対し、大統領令の是非を審査する司法に合理的な判断を求めるなどして、様々な人たちが彼らを支えている。
ボーイズタウンは今年、創設100年を迎えた。「私が居ようが居まいが、仕事は続くのです」とは、神父の遺した言葉だ。神父の意志は、町で育った子供たちを中心に、この国で脈々と引き継がれているにちがいない。
森司教のことば ⑬現代のカトリック教会における 「シノドス」の意義
教皇フランシスコは、二つの使徒的な勧告『福音の喜び』『愛のよろこび』と発表した。いずれも、多くの人々から共感を持って受け止められている.その二つとも、シノドス(世界代表司教会議)での司教たちの議論と提言を踏まえて、教皇がまとめたものである。
したがって、その中に込められた教皇のメッセージを正確に理解するためには、2回のシノドスではどのような議論がなされたのか、またそれが使徒的勧告にどのように反映されたのか、確認してみることが大事であるのは無論であるが、シノドスは、第二バチカン公会議前には、開催されたことのないものなので、そもそも、シノドスそのものが、現代のカトリック教会にとって、どのような役割を果たしているのか、確かめてみることは、現代教会がどのような歩みをしようとしているのか知るための参考になる。
☆
そもそもシノドスとは、ギリシャ語の「ともに歩む」という意味の言葉である。その歴史は新しく、1965年、第二バチカン公会議後、公会議の意向にそってパウロ六世によって設置されたものである。
それは、それまでのカトリック教会が、教皇とその下で働くバチカンを中心とした諸官庁の指導に縛られすぎて柔軟性を失い、絶えず変化してやまない世界の実態についていけなくなり、人々からも社会の営みからも遊離してしまったという反省から生まれたものである。
それ以前のカトリック教会が、どんなにバチカンの指導と方針に縛られてしまっていたか、そして硬直してしまっていたかは、ミサ等の典礼などの公式の儀式ではラテン語の使用が義務づけられていて、それぞれの地域の言語の使用が許されなかったり、検邪聖省などが設けられ、伝統的な教義に背くことのないように信者たちの言動が厳しく監視されたりしていたことなどからも明らかである。
カトリック教会全体を、教皇をピラミッドの頂点とした中央集権的な強固な体制に導いたのは、ピオ9世(在位1846〜1878年)である。それ以降、歴代教皇は、絶対的な権威をもった存在としてカトリック教会の頂点に座し、一般の信徒は無論のこと、教皇から直接任命されて世界各地で働く司教たちさえも、気軽に相談することも出来ない遠い存在になってしまっていたのである。
それでも教皇とバチカンが全世界のカトリック教会に対する責任を果たせたのは、世界各国に遣わされていた大使や各地で活動する宣教師・修道者たちから寄せられる情報のお陰であった。
今日とは異なって、20世紀の前半までのバチカンの情報収集能力は高く、世界のどこの国よりも抜きんでていたことは事実である。そうした情報によってバチカンは、世界各地の状況を知り、全世界のカトリック教会に対して指導力を発揮することが出来ていたのである。
しかし、そうした情報に基づいて作成される指導書簡や教書は、第二次世界大戦後、世界が複雑で多様になって行くにしたがって、それまでのような指導力を発揮することが出来なくなっていった。いくつかの理由からである。
まずその一つは、教皇やバチカンの指導者たちが、バチカンの外の社会の中に身を置いて苦労した経験が乏しく、そこで起こる出来事の背景や問題点についての十分な認識がないままに、世界に向けた指導書簡や教書を纏めていたことにある。
権威が無条件に敬われていた時代では、バチカンからの指導は素直に受け取られていたかもしれないが、20世紀半ばの学生運動などにみられるように、すべての権威の真偽が問われる時代になって、人々の自意識が高まるようになってからは、社会の現実体験の裏付けが乏しい文書は 説得力がなく、たとえバチカンからの文書であったとしても、そのままでは受け取られることの難しい時代になってしまっていたのである。
またアジアやアフリカなどの教会などでは、別の理由から、そのまま受け取ることが難しい文書が多くなっていたことも、見逃せない。というのは、ほとんどの文書が、キリスト教が深く浸透した欧米文化に慣れ親しんだ人々の感性と発想によってまとめられていたからである。そうした文書が、欧米とは全く異なる歴史や文化の中で生きる人々にしっくりしないのは、当然である。そのままでは反発を招かねないような指導が示されていたことも、稀ではなかった。
私の体験からしか推測出来ないが、自分たちには明らかに馴染まないと思える文書に戸惑い、その対応に困ってしまうような体験をしたことのない司教は、アジアでは一人もいない、と言っても過言ではない。
さらにまたバチカンからの文書や教書が、人々の心に響かなくなっていったもう一つの理由がある。それは、文書を纏める人々の、現実社会の過酷さについての理解不足と日々の生活の中でもがき苦しみながら生きる人々に対するあたたか眼差しの欠如によるものである。
産業革命以降、社会は経済を中心とした厳しい競争社会に変わってしまい、そこで生き抜くことが出来るものは能力に恵まれた者で、貧しい者はさらに厳しい貧しさの中に追いやられるようになり、貧富の格差はますます広がる一方の社会になってしまった。
そうした人々の辛さや惨めさは、妻子を抱えたこともなく、会社勤めをしたこともない聖職者たちに分かるはずがない。人々の痛みや辛さを実感出来ない聖職者たちが中心となって纏められる指導書簡や文書が、たとえ、その内容が教義的にはどんなに正しいものであったとしても、人々の心に響かないのは、当然である。
こうした19世紀から20世紀にかけて欧米社会での教会離れが進み、教会は人々には魅力のない存在になってしまっていたのである。
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教会が、現実社会から遊離し、そのメッセージが人々の心にストレートに響かなくなってしまった事実を直視し、教会の刷新を求めて開催されたのが、第二バチカン公会議だったのである。
公会議に出席した司教たちが、教会の社会からの遊離の克服を求めて提案した数々の具体策の中の一つが、シノドスだったのである。教皇と世界各地の司教たちと一堂に会して、分かち合い、議論する場を設けて、カトリック教会の中の風通しを良くしようと願ったのである。
シノドスはこれまで15回も開催されてきたが、公会議に参加した司教たちの当初の願い通りに、教会のそれまでのような中央集権的な固い体制はやわらぎ、対話型の共同体に変わり始めたのである。
シノドスでまず変えられたのは、教皇たちである。それまでは孤高を保ち、司教たちと気安く言葉を交わすことさえ難しかった教皇も、司教たちと率直に言葉を交わしたり意見を交換したりすることができる場を与えられ、その交わりを介して自らの心で直接世界各地の状況とその問題を感じとり、世界に対する認識を深めて視野を広げ、これまでとは異なった視点で物事を考えることが出来るようになったのである。
司教たちも恩恵を受けている。司教たちの多くは、それぞれ派遣された地域では孤独である。心を打ち明け、親身になって相談に乗ってくれる信頼出来るブレーンに恵まれている者は、実は少ない。また責任感の強い司教ほど、山積する地域の課題と真剣に向き合い、そのため、ともすると目先のことに追われて、広く世界を見る余裕を失い、視野が狭くなり、蛸壺的になっていく。
そんな司教たちにとっては、教皇に直接まみえ、教皇とともに考える場を与えられることは、何よりの支え、励ましになる。また他の地域で働く司教たちと交わり、議論し合うことによって、孤独感は癒やされ、視野も広がる。
シノドスのお陰で、教皇と司教たち、そして司教たち自身が、啓発され、相互理解と連帯感を深めることが出来るようになったのである。
さらにまた、シノドスの事務局が、一般の信者たちの声を吸い上げようとして、工夫したことも軽々しく見落としてはならない、新しい点である。その工夫とは、議題についての質問票を作成し、全世界の教会に公にし、協力を呼び掛けたのである。実に、その質問票には、一般信者も、個人的に答え、それを事務局に直接送付することもできるのである。
事務局は、全世界から寄せられた回答書を纏め整理して会議に提示する。司教たちは、それを参考にしながら、会議を進めていくのである。
こうして一般信者も、間接的ではあるが、シノドスに参加することができるようになったのである。それは、聖職者たちが中心となって歩んできたそれまでの教会の歩みの中では画期的なことなのである。
実にシノドスは、キリストから託された責任を、教皇、司教、一般の信者たちが、一つの丸いテーブルを囲んで、意見を交換し、互いに補い合い、ともに協力し合って果たそうという、これまでの教会に見られなかった新しい形を生み出し、その方向に向かって歩み始めているのである。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
菊地・新潟司教の日記 ⑫いのちへのまなざし
一年前、相模原で障がいと共に生きておられる19名の方々が殺害されるという事件が起こりました。26名の方も怪我をされたといいます。あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を、心からお祈りし、また傷を負わされた方々に回復と心の平安がもたらされるように、祈ります。
犯人の青年の、障がいを持った人たちに対する考え方、価値観、そしてなによりも人間のいのちに対する考え方には、まったく賛同することができません。それ以上に、事件後には、インターネット上などで「よくやってくれた」などという賛同の言葉が少なからず見られたことは、私たちが生きているこの社会が、人間のいのちをどう捉えているのかを象徴的に表しているものとして、わたしはすくなからずの衝撃を受けました。
あらためて繰り返すまでもなく、キリスト者にとって、いのちは神から与えられた賜物であり、神はご自分の似姿として、そして善いものとして、人間のいのちを創造されたと、私は信じています。そしていのちの価値を計ることがゆるされているのは、その創造主である神のみであり、同じ被造物である人間がそうすることは、神に対する傲慢だと、わたしは思います。いのちは、この世界におけるその始まりから終わりまで、まもられなければなりません。一人一人のいのちの尊厳は、誰一人として奪われてはなりません。
日本のカトリック司教団は、先般、「いのちへのまなざし」と題したメッセージの「増補新版」を発表しました。16年前に発表したメッセージを改定した内容です。旧版冒頭のあいさつに記されていることが、いのちの大切さを説いているこのメッセージ全体を貫くテーマの一つです。「この世界は人間だけのものではない。人間の幸せも、この世で完結するものではない。世界は神の手の中にあるものであり、人間の営みも、神とのかかわりの中で完成され充実していくものである」
さらにいえば、「誰一人として排除されたり忘れ去られていい人はいない」。これが私たちの牧者である教皇フランシスコの様々な言動の中心にある考えだということを念頭におくとき、自ずと私たちの言動も定まってくるのではないでしょうか。
是非一度、「いのちへのまなざし」を手にとって、読んでみてください。今年の9月2日と9日には、午後1時半から新潟教会で「いのちへのまなざし」を学ぶ信徒養成講座があります。講師は私です。
以下は、国際ラルシュが公開している短編映像です。静岡にあるラルシュかなの家で暮らすある女性を中心に、相模原の事件に対する考えと行動を短い物語にしたものです。オリジナルは日本語ですが、国際ラルシュのフェイスブックには、英語とフランス語の字幕版が公開されています。(L’Arche Internationale)
(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)
Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑩ 「人生130年」の隣国

デビュー小説「サイレント・ブレス」の著者・南杏子さん(24日、東京都渋谷区で)∥稲垣政則撮影
日野原重明先生が亡くなった。先生にはあるパーティーでお目にかかり、親しくお話をさせていただく機会に恵まれた。今から23 年前の1994年10 月。聖路加看護大学学長だった先生が、30 歳を過ぎて医学部に入り直した晩生の医学生にあたたかい言葉をかけて下さったことが忘れられない。当時、先生はすでに83 歳だった。105 歳の大往生に、今さらながら感慨がよみがえる。
さて、日野原先生より26歳年上という<史上最高齢>の女性が隣国にいる。その人の名は、阿麗米罕・色依提(アーリーミーハン・サーイーティー)さん。中国の北西部にある新疆ウイグル自治区に住むウイグル族の女性で、1886 (明治19 )年6月25日生まれの満131歳とされる。
ただ彼女の存在は、中国の国外ではほとんど知られていない。それには理由がある。19世紀の中国の戸籍は、信頼性が極めて低い。特に、少数民族が数多く暮らす地域の戸籍には過去にもさまざまな疑問が指摘されてきた。 2013年6 月のことだ。中国南部にある広西チワン族自治区で、ある女性が、<127歳と337 日の天寿を全うした>と伝えられた。その訃報の中で彼女は、「1946年に61歳で息子を出産した」とされている。これでは、戸籍そのものに疑問符がつくのは当然だ。
とは言え<131歳>のサーイーティーさん本人は、「幸せ」を満喫している。「(中国共産党は)私と私の家族、孫やひ孫たちのために、素晴らしい誕生パーティーを開いてくれました。私は人生に満足しています。(共産党の)皆さんは、私に良くしてくれます。私のために家を建てて下さり、私はとても幸せです」。誕生日のたびに、サーイーティーさんのそんな談話が報じられる。長寿のお祝いの陰に、国家への「感謝」が強調されている印象だ。
<史上最高齢女性>が住む新疆ウイグル自治区は、「シルクロードの十字路」という美しい別名とは裏腹に、イスラム教徒の少数民族ウイグル族と漢族などの民族対立が問題視されている。2009年には両者の衝突が「ウルムチ暴動」と呼ばれる武力衝突に発展し、中国当局の発表で197人が亡くなった。昨年、今年も住民同士の襲撃事件や爆破事件などが起きている。
すべての民族が仲良く幸せに暮らし、世界一の長寿を祝う国――。暴力の応酬が続く中、サーイーティーさんの長寿を祝うことで「国威発揚」を図ろうとする中国当局のイメージ戦略が透けて見える。
米カリフォルニア州に本拠のある国際的な研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループは、現在の世界最高齢者をジャマイカに住む女性、バイオレット・ブラウンさん(117歳)と認定している。
日本で100歳以上の「百寿者」は、この半世紀で300倍に激増し、5万人を突破した。私が勤める病院でも、100歳以上の患者さんは約20名にのぼる。「長寿社会」「長寿国家」「長寿世界」……。どのような表現をしたとしても、そこに生きる人それぞれが、日野原先生のように真の「幸せ」であってほしい。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22)
Sr岡のマリアの風⑬独り言…教皇フランシスコと「お母さん」

8月15日(被昇天の聖母祭日)、「マリアと平和」について話す機会をいただき、教皇フランシスコの、今までの「世界平和の日メッセージ」、1月1日のミサ説教、お告げの祈り後の講話などを読み直している。このように、数日間、パパ・フランシスコの言葉に浸りながら、パパと「共に」考えた。
「平和」から連想する言葉…母―いのち-関係―大切にする―聞く―開く―受け入れる-思い巡らす-信じる-待つ―ゆるす―祈り―希望―喜び…。
キリストに従う者にとって、「平和」とは、単に争いがない、中立、妥協、ではなく、「積極的」な平和、「自分」から「出て行き」、つまり、自分の考え方、やり方、好み…から出て行き、「他者」の幸せのために祈り、動く、そのようなダイナミックさの中にある「平和」だ。それはまさに、「キリストの平和」であり、キリストはこの平和を、「十字架」を通して成し遂げた。
パパは、「平和」のテーマと、「母であること」との間の深い結びつきを、ことあるごとに指摘する。「教会はお母さんでなければなりません」、と。
「お母さん」の行動の原動力は、理屈を超えた、わが子を大切にする思いだ。わが子を、いとおしく、大切にする。その子が、どんな状態にあっても、母だけは、信じて、待つ。多くを語らず、ひたすら祈って、希望を失わずに、待つ。
お母さんの幸せは、自分の幸せより先に、わが子の幸せだ。わが子が幸せを―そして、真の幸せを―見出せるためなら、何でもする。
わが子が苦しんでいれば、いてもたってもいられず、共に苦しみ、共に祈り、希望する。苦しむ子を前に、「あなたが悪いのよ。自業自得だからしかたない」、と言って、何もせずにいられるなら、その時、すでに「母である」ことを放棄しているのだろう。
「お母さんである」ということは、「関係」の中にいる、ということだ。子がいなければ、母もいない。
今まで、「わたし」が生活の中心だったのに、「母」になると、その中心が、徐々に、「子」にシフトしていく。このようにして、子のおかげで、母は、さらに「人間らしく」なっていくのだろう。人間は、関係から生まれ、関係の中で育ち、関係の中で生かされているから。
「神である主は土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった」(創世記2・7)。たった一節の、シンプルな神の言葉。しかし、何と深いのだろう。
人は、「生かされて」いる。関係の中にいる。人は、だから、自分の力だけで十分、自分だけが幸せになればいい、と思って生きている間は、決して幸せになれない。幸せだと思っているとしても、実は、幸せではない。文明の発展だけでは幸せになれないことは、すでに歴史が、そしてわたしたちの周りの具体的な出来事が証明している事実だろう。
人は、創造主の神の「イメージ(姿、像)」、「似た者」として造られた(創世記1・27参照)。わたしたちの中には、すでに、神のイメージが刻印されている。
この神を、パパ・フランシスコは、「いつくしみ深い」「愛さずにはいられない」「いつも、どんなときでも、繰り返し、ゆるさずにはいられない」神として、わたしたちに呼び起こしている。それはすでに聖書の中の神の姿であるが、時にわたしたちは、あたかも神は厳しい方、罪びとを罰する方、汚れたものを排斥する方、として考えてしまう。
そうではない、とパパ・フランシスコは、何度も何度も、繰り返す。
神は、子どもであるわたしたちが、不幸になることを望まない。神は、子どもであるわたしたちが、知らずに、不幸になる道を選んでいるのを、「自業自得だ、勝手にしなさい」と、ただ見ていることなど出来ない。
家を勝手に飛び出していった子が、ただお腹がすいたから、という理由で家に帰ってきたとしても、ただただ、「帰ってきてくれた」ことで大喜びし、駆け寄って子を抱きしめ、宴会まで開いてしまう、「愚か」なまでの「お父さん」。イエスの、いわゆる「放蕩息子」のたとえ話に出てくる、「何でそこまでするの~?信じられない!」お父さん(ルカ15・11-32参照)。でもそれが、実は、お父さんである神の、子であるわたしたちとの、日々の関わりなのだろう。
それが、生きておられる神、アブラハム、イサク、ヤコブ…そしてイエスの神、わたしたちの神の真の姿であり、それを聖書は、たびたび「母のイメージ」で描いている。つまり、神の心は、限りなく「母の心」に近い。それは、何よりもまず、母が、勇気をもって、「いのち」に「はい」と言い、「他者」の「いのち」を生かすために、自分のいのちを投げ出すことを知っているからだ。
わが子を、何にもまして大切にする心。わが子が、自分の思うようにならなくても、祈り、待ち、思いめぐらし、希望し、信じる母。
そして、パパ・フランシスコは、「教会はお母さんでなければなりません」と言う。
パパの思考の中で、イエスは、母マリアを、「教会は、このようになってほしい」という思いを込めて、教会に賜物として残した。「お告げ」の時の、「いのち」への「はい」から、十字架のもとで、その「いのち」が暗黒の淵に飲み込まれるかに見えた時にも、信じ、希望し、子と共に苦しみながら差し出した「はい」まで。そして、最初の、不安と自責の念に沈んでいた共同体の中で、わが子の約束を信じ、待ち、希望した母。
今年の1月1日のミサ説教の中で、パパ・フランシスコは言っている。「マリアはわたしたちに、困難のただ中でわたしたちを包み込む、母の温かさを与えてくださいます。それは、教会の懐の中で、御子イエスによって始められた『やさしさの革命』を、誰にも、何ごとにも消すことを許さない、母の温かさです。母がいるところには、やさしさがあります。マリアは母の心をもって、わたしたちに、謙虚さとやさしさは、弱い者の徳ではなく、強い者の徳であることを示し、自分の重要さを実感するために、他者を虐げる必要はないことを教えています(使徒的勧告『福音の喜び』288参照)」。
わたしたちは何と、世のお母さんたちに学ばなければならないだろう!
(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑬生活習慣の違い

バチカン放送内では、会話はどの国の言葉で話すのも自由だったが、共通語はイタリア語だった。聞きなれない言葉、聞いたことのない言葉を耳にするのは楽しみだった。
しかし、録音を担当するミキサーたちは全員がイタリア人なので、「録音の時にはミキサーたちとイタリア語で話すように」というのが決まりだった。録音前にいろいろ細かい打ち合わせをしたり、指示を出さなければならないからだ。
イタリア語には自信があった。でも、イタリア社会の習慣になじめるかどうか、不安だった。初めて挨拶回りに行った日、音楽部に2・3人のプロの歌手がいた。N神父が私を紹介すると、一人の歌手が、握手のために差し出した私の手に接吻した。表には出さなかったけれど、ぎょっとした。映画でしか見たことのないシーンが、今、現実に私の目の前で起こっている。こんなこともあろうかと想像はしていたが、先が思いやられて憂鬱になった。
そして、どこでもレディー・ファースト。エレベーターの前で局長や部長に会う。当然のこととして、私は先を譲り、身をちょっと引く。エレべ-タが来て、そうやって後から乗り込もうとすると、彼らは「どうぞ」と言って、一歩下がる。私が先に乗らなければいけないのだ。
どんなときにも男性優先の日本社会に生きていた私は、初めのうちは戸惑い、緊張した。でも、多少の意識の転換と時間をかけて乗り越えることができた。その後は、にこにこしながらレディー・ファーストを心地よく楽しんだのだった。
( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
三輪先生の国際関係論 ⑫アメリカで学んだこと(2)1960年代
アメリカは移民の国である。アメリカ建国を先導し、それを担った人々も元をただせば移民である。「ピューリタン」からしてそうである。「サンクスギビング」という国民的祝祭日の発端は、原住民であるいわゆるアメリカインディアンに助けられたことへの感謝に発していた。
それは綿々として実行されている。先に来た者が、後から来た者に恩返しをしているのである。それは留学生に対して端的に示されている。
私や私の家族がその恩を受けた。まず1952年9月、初めてアメリカの土を踏んだ私は、留学先のワシントンのジョージタウン大学でそれを受けた。大学生活にまだなじみ切れない頃、ポーランドから移民してきて2,3年と言う若い夫婦に招待を受けた。「サンクスギビングのディナーにいらっしゃい」と言ってくれたのだった。私と同じ奨学金で一緒にジョージタウンに来たY君と2人だった。
自家用車で迎えに来てくれた。この休暇に寮生たちもそれぞれ全国の自宅に帰省していて、寮生の為の大食堂は閉鎖されていた。寮に残っていたのは我々2人だけだったのである。招待してくれた若夫婦は、たどたどしい英語で、我々より下手だった。案内してくれた彼らの家は、なにか薄暗く貧しい感じで、晩餐そのものも貧しく感じられた。
日本人だったらこんな状態ならお客などしないのではないか、と経験不足の日本の若者は偏見丸出しの反応を示していた。そんな我々の態度に対して、彼らはこう説明してくれた、と記憶する。「移民の国アメリカでは、少しでも先に来た者が、後から来た者に手を差し伸べるのです」と。
それからもう一つ。これは2度目の留学、1964年から66年の家族を伴ったプリンストン大学での体験である。家族とは妻と3人の娘―64年当時、生後3か月の3女、年子の次女、そして4歳の長女―であった。66年の6月、妻の父が危篤、と連絡が入った。すぐ帰国しようとしたが、持ち合わせが無い。普段から為替制限のため蓄えが無いのであった。帰国するにも航空券を買う資金が無い。
そのピンチの時に、指導教授が差し向けてくれた大学の事務局員が、私の手の上にポンと$1000を渡してくれた。「借用書を書きましょうか」と聞くと、「その必要はありません」。「では何時までに返金すればいいのですか」と問うと、「いつか返せるようになったらで良いのです」との返事。「だってそうでしょう。私たちは貴方がたに、学びに来てもらっているのですから」と言うのだった。
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
漆原JLMM事務局長の「共に生きるヒント」⑨「神様が望むなら・・」
この4年間は毎年7月に、地元鎌倉大町の八雲神社のお祭りに参加させてもらっています。
「新羅三郎義光公が、住民の悪疫難儀を救うため京都の祇園社を勧請し、住民は難を逃れて安堵したという故事を記念し、感謝し、合わせて平和と繁栄を祈願する恒例の祭り」ということで、昼からお神輿を担ぎ、街を練り歩きます。私も白丁烏帽子姿となり、地元のメンバーとともにお神輿を担ぐことが毎年の夏の大きな楽しみです。
祭事中神様をお迎えし、お神輿にお乗りいただき、町内各地に出向いていただく」という神事です。町の人々が通りに出てきてお神輿をお迎えする様子は、いつもの風景とは全く違う、祈りの雰囲気に包まれています。そして新たなにつながる人と人が、皆で力をあわせ、息とリズムを合わせて神輿を担ぐ行為には何か深い霊的なものを感じます。
昼のお渡りと夜の神輿ぶりを合わせると、150人くらいの男たちが四社の神輿を担いでまわるのですが、その集団をまとめているのが、私の小中学校時代の同級生です。先日その彼と町で偶然会い、同じ方面の帰り道、祭りの話題になると彼はこう呟きました。 「今、自分がこうして祭りや神輿の世話係をやらせてもらっているのには、何か意味があると思うんだよ。神様が僕に、今これをやれって言っているような気がする・・・」
私はその言葉を聞いたとき、とても嬉しい気持ちになりました。なぜなら、これはキリスト教で言えば「ミッション」ということと同じだなと思ったからです。自分の意志や思いよりも、まず先に神様が自分にどのような使命や役割を望み、派遣されるのかという問いに応えようとすること。
宗教は違っても、長年人々によって祈り込められた神社という神聖な場所と、神事に加わる人々がスピリチュアルな存在を確かに感じさせているのかもしれない、と思いました。
私もまた、「神様」が望まれるならば、来年も担がせてもらいたいなと思っています。
(2017.7.25 JLMM 漆原比呂志 )
*JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(J
JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、
JLMM 漆原比呂志
三輪先生の国際関係論 ⑪アメリカで学んだ事(1)1950年代
私が初めてアメリカに留学したのは1952年のことで、日本では米軍による7年に及ぶ占領統治が「血のメイデー」と共に終結した年。戦後アメリカ留学のハシリであった。私の場合は、上智大学と同じカトリック修道会、イエズス会が経営する首都ワシントンのジョージタウン大学であった。
本来アメリカ人学生に与えられるべき授業料と学生寮費の両方を無償にしてくれるいわゆる「フル・スカラシップ」が与えられたのである。16世紀末に渡来して京都に大学を創設しようとしたイエズス会士フランシスコ・ザビエルにちなんだ記念行事の一端であったらしい。私のほかにもう一人同様の奨学金を授けられた男子がいた。外交官の息子で、バチカンで時の教皇から幼児洗礼を受けたカトリック信徒であった。 私がカトリックの洗礼を受けたのは、ジョージタウンの「教養学部」といえばいいのかな、カレッジを卒業する55年のことであった。
少し前置きが長くなってしまった。本題にはいろう。
学部卒の時、私が授与された学位はバチェラー・オヴ・サイエンス・イン・ソーシャル・サイエンシィースというのであった。「社会科学学士」ということだろう。実際どんな科目を履修していたかと言えば、歴史学主専攻・政治学副専攻と称していた。しかし必修科目の単位数からいえば、哲学というか、存在論、論理学、倫理学など、形而上学こそが主専攻の如くであった。
ところで、今ここで取り上げたかったことは、地政学的な国際政治学の教室で使用したテキストの内容である。だいたいアメリカの大学用の教材は、大きくて重いのが当たり前だが、そんな分厚な書物の一つの内容は、意外に軽快で、寮のベットに寝転がっても気楽に読めた。
真珠湾奇襲攻撃で始まった戦争のことをアメリカ人は決して忘れない。最近読んだ週刊誌TIMEの記事によると、それは一つには時の大統領フランクリン・D・ルーズベルトの卓抜なる言葉選びによるとされる。彼は「真珠湾(の奇襲攻撃」を忘れるな」と国民に呼びかけたが、「1941年12月7日」のことを単に「あの日」“the day”としてではなく”the date of infamy”「破廉恥(な行為)の年月日」として記憶するように呼びかけたのであった。
日本の軍当局は「本土決戦」を覚悟し、「一億玉砕」をも辞さない姿勢であったが、それ以前に米軍の焦土戦術は日に日にエスカレートし、焼夷弾による絨緞爆撃の果ては終に原爆投下となった。それに中立条約を破棄したソ連も満洲国境を越えて参戦してきた。その間海外駐在の外交官からは、降伏を勧告する「ポツダム宣言」の受諾こそがこの際日本国家にとって妥当な選択であると報告があったが国家の意思は最後の最後まで「国体護持」を確認できなければ交戦を継続するというものであった。天皇のいわゆる「鶴の一声」無くしては、連合国の軍門に降る決断に達し得なかったのである。
なんと手間のかかる敵国か、と連合国の政府も国民もあきれたものだろう。屈服させては見たものの、この日本人は果たして復讐戦など考えもしない平和国民になったのだろうか。連合国の政府も国民も、この問題に100パーセント安心できる確信をもってはいなかった。枕を高くして睡眠できるようにするためには、何か科学的というか歴史的に納得できる説明が欲しかったのではなかろうか。教科書一つは次のような歴史的推論を提示していた。
秀吉が朝鮮攻略に失敗して以降日本は300年に渡り平和に逼塞していた.次なる対外戦争にうってでたのは1894-95年の日清戦争であった.じつに300年もの歳月が経過していたのである。そこから推論すれば、対米戦争に敗北した日本は同じように向こう300年は戦争を始めたりはしないだろう、と。
これを「滑稽な推論」と笑い飛すことはできる.しかし考えてもみよう。日本国憲法の九条の平和条項が少なくとも今日でもしっかりと国民の生活信条になっているのは何故だろう.この姿勢は戦争を体験しなかった世代には、あたかも国民的DNAででもあるかのように生き生きと伝達され続けているからではないだろうか.
その由来は・・、一度負ければ、向こう300年の不戦平和が日本国民の歴史的習性なのだと言えるのかも知れないのである.
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
三輪先生の国際関係論⑩「軍事史」の無い日本の大学教育と「失敗の本質」論の流行
大学の教養科目の中に「歴史」は含まれているだろうが、「軍事史」は無いのが普通だろう。日本の場合のことである。しかし私の限られた経験から言うと、アメリカでは当たり前のように思われる。ひょっとすると、大学院に限られたことかもしれないが。
いずれにしろ、独断のきらいがあるのを承知で、あえて言えば、「失敗の本質」とか、先の戦争に敗北を喫したその原因究明から歴史的教訓を学び取り、現代社会に活かそうとする一つの流行現象の由来の一因は、大学の学部レベルで、普通の事のように「軍事史」が提供されていない為ではないか、と思考するのだが、どうだろう。
学界には、日本軍事史学会が、でんとして存在している。日本学術会議のメンバーでもあるだろう。かって私が日本カナダ学会の会長を務めていた時、なにかの機会に日本カナダ学会が日本学術会議のメンバーから外れてしまっていることに気付き、登録の復活手続きをしたことがある。
記憶をたどれば、上智大学の教員として駆け出しの頃、日本国際政治学会の年次大会で知り合ったばかりの三宅正樹さんから、日本軍事史学会の『軍事史学』に論文を寄稿するよう依頼され、「シベリア出兵」時の日米の利害の衝突について書いたことがあった。(ロシアではこれを「ロシア革命干渉戦争」と呼んでいるのだが。)
しかし、上智大学の史学科に独立した学科目としての「軍事史」はなかった。誰もそれを不満としたり不思議とする様子はなかったようである。当時、私は外国語学部英語学科の専任教員であったから、史学科の事情に通じていたわけではないが。
そんなわけで、真珠湾攻撃で始まった戦争に、日本が敗北した根本原因から歴史的教訓を得ようとする、出版界や言論界の一種の流行は、起こるべくして起こったとはいえ、なにか戦後日本に独特な「知的怠慢」のように思われるのである。
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
菊地・新潟司教の日記⑬‶若者シノドス”に向けて・「小共同体育成」秋田地区信徒の集い
2017年6月28日 来年のシノドスに向けて
来年、2018年の10月に、バチカンにおいてシノドス(世界代表者司教会議)が開催されます。第二バチカン公会議以降に始まった世界から司教の代表を集める会議ですが、今回はその通常総会の15回目となります。テーマは「若者、信仰そして召命の識別」とされており、日本の司教協議会の代表は、札幌教区の勝谷司教です。
こういったシノドスの開催前には、バチカンのシノドス事務局によって準備書面が用意され、期限が定められて各国の司教団に回答が求められ、その回答をもとに、実際の会議の基本となる作業文書が定められるという手続きがあります。今回は、教皇様の意向もあり、「出来るだけ多くの方の意見を聴取したい」として既に各国語で準備書面が発表され、様々な質問事項が添付されています。準備書面の日本語訳は、こちらのリンクの中央協議会サイトで公開されています。A4で30ページです。
質問事項については、それぞれの国の状況に応じて回答することが求められているので、司教協議会の事務局が作成しました。この質問への回答に基づいて、参加する勝谷司教が日本の報告をまとめることになります。すでに新潟教区で働いている神父さま方には、先日の胎内における司祭の集いでお願いしたところですが、できる限り多くの方に回答を寄せていただければと思います。すべての設問ではなく、ご自分に関係のある一部で構いません。質問事項はこちらのリンクです。
回答は直接メールで送付できるようにも記してありますが、大量になると混乱することも予想されますので、ご自分の回答を主任司祭にお持ちになる方がよろしいかと思います。7月末が勝谷司教のもとに必着の締めきりです。「若者、信仰そして召命の識別」というテーマに関心のある新潟教区の信徒の方々、是非、シノドスの質問事項に挑戦してみてください。
なお、バチカンの2018年シノドスの公式サイト(英語)も開設されました。興味のある方はどうぞ、こちらのリンクから、ご覧ください。このサイトからは、英語などのバチカン側で準備されている言語であれば、直接回答を送ることも出来るようです。
2017年6月26日 秋田地区信徒の集い@土崎教会
第27回目となる、新潟教区の秋田地区信徒の集いが、昨日、6月25日の日曜日、午前11時から午後3時まで、秋田市内の土崎教会を会場に開催されました。秋田地区には、北から、鹿角、大館、能代、秋田、土崎、本荘、横手の小教区がありますが、そこから170名の信徒の方が参加されました。
秋田地区は全体が神言会に宣教司牧が委託された地区となっていおり、神言会の司祭団も参加。教区の中で常に一番若い司祭が働いているのも、秋田地区の特徴です。会場は、先日竣工式を迎えたばかりの、こども園の新しい園舎二階ホール。これまでの幼稚園は、聖堂や司祭館と同じ敷地内にありましたが、こども園の新園舎は隣接する用地に新築されました。
今回の信徒の集いは、小共同体の育成をテーマに、これまで長年にわたって長崎教区で小共同体作りに取り組んでこられた信徒の長野宏樹さんを講師として招きました。長野さんは長年、長崎教区の事務局で信徒養成を担当して働かれ、現在は26聖人記念館の副館長を務めておられます。神言会が担当する長崎市内の西町教会の信徒の方で、わたし自身も司教になる前、名古屋教区で7年ばかり、信徒養成委員会のメンバーとして小共同体の育成についての出前研修などを行ってきたこともあり、その後も、長野さんからいろいろと資料をいただいたりしていたこともあって、興味深くお話を伺いました。
長野さん自身も言われたように、小教区は「様々な役割を担った多くの小共同体が集まって一つの共同体を生み出している」のが理想的であり、その小共同体は単に機能を果たす集まりではなく、御言葉を中心にした分かち合いの共同体でもあることが理想です。しかし、どこでも簡単に実現できるものではなく、一朝一夕に実現できるものでもありません。長野さんは講話の中で「実現には40年はかかる」と言われましたが、私もそう思います。
長野さんが紹介くださった手法は、FABC(アジア司教協議会連盟)の信徒局に所属するAsIPA(Asian Integral Pastoral Approach)デスクが長年にわたって導入を進めてきた教会共同体育成の手法。基本的には南アフリカにあるルムコ研究所がアフリカ全土で導入を進めてきた共同体育成の手法を、アジア的に手直ししたものです。ちなみにこのルムコ研究所の現在の所長はガーナ人の神言会員ですが、わたしもガーナで働いていた当時、ルムコの方法を取り入れて、小共同体育成を試みては挫折を繰り返しました。
小共同体育成の基本は「御言葉の分かち合いによる定期的な小共同体の集い」にあります。まず、この「御言葉の分かち合い」がなかなか定着しません。今回も長野さんのお話で紹介されていましたが、いわゆる「セブンステップ(七つの段階)」という方法があります。挑戦されたらいかがでしょう。長野さんが紹介されたものは、もっと具体的な集まりの進め方でしたが、セブンステップについてはこちらに一度書いたことがあります。参照ください。
信徒数が極端に少ない地域や、家族の中で信徒がお1人だけの場合は、小共同体の御言葉の分かち合いに限界があり、日本の現実に合わせて他の方法を考えなければ難しい、と私は考えています。ただ、御言葉の分かち合いそれ自体を行うことには、意味がありますから、専門家でもある神言会(神の御言葉の修道会)の会員に率先していただければ、と期待しています。
昼食後、ミサの前に、土崎教会の聖歌隊の皆さんによる、歌劇(?)の披露が。この土崎教会聖歌隊は、なんというか、特別なタレントが集まったグループだと、いつも感心させられますが、今回も、「武士たちの生きる道が、神への道ではなかったか」というテーマの、素晴らしい歌でした。衣装も、なかなか・・・。最後にわたしが司式するミサで終わりとなりました。秋田地区の皆さん、土崎教会のみなさん、ご苦労様でした。
Sr阿部のバンコク通信 ⑪ タイ料理の良さとは・・「もったいない」の文化も
タイ料理の味を楽しめるようになって久しいのですが、未だに緑色の唐辛子の辛さにはお手上げです。薬草、香草をふんだんに使ってのタイ料理の調理方は多彩で、すこぶる美味。身体に優しく滋養にも富んでいます。タイ料理の味は懐かしい思い出のようで、人を誘う風味があるのです。
激辛、慣れないエキゾチックな味に親しめない私でも、懐かしくなる味わいを感じます。久しぶりに帰郷して炊事をすると、「味に幅が出たね」と言われ、「味にも人間の成熟同様、挑戦するほどに幅や奥行きが出て来るのか」と頷きました。
ところで、タイの食堂では食べきれずに残したものを、お願いすればタレや薬味まで付けて持ち帰れる様にしてくれるのです。ほんの少しのお菜でも、汁物でも、ご飯でも。お祝いの会食の時など、ケーキやワインの持ち込みも許してくれます。片や食料不足で餓死する人々がいる世界で、食べ残しを「もったいない」と持ち帰れるタイでの暮らし、実に嬉しく楽しいことです。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
