Sr岡のマリアの風⑬独り言…教皇フランシスコと「お母さん」

  8月15日(被昇天の聖母祭日)、「マリアと平和」について話す機会をいただき、教皇フランシスコの、今までの「世界平和の日メッセージ」、1月1日のミサ説教、お告げの祈り後の講話などを読み直している。このように、数日間、パパ・フランシスコの言葉に浸りながら、パパと「共に」考えた。

  「平和」から連想する言葉…母―いのち-関係―大切にする―聞く―開く―受け入れる-思い巡らす-信じる-待つ―ゆるす―祈り―希望―喜び…。

    キリストに従う者にとって、「平和」とは、単に争いがない、中立、妥協、ではなく、「積極的」な平和、「自分」から「出て行き」、つまり、自分の考え方、やり方、好み…から出て行き、「他者」の幸せのために祈り、動く、そのようなダイナミックさの中にある「平和」だ。それはまさに、「キリストの平和」であり、キリストはこの平和を、「十字架」を通して成し遂げた。

    パパは、「平和」のテーマと、「母であること」との間の深い結びつきを、ことあるごとに指摘する。「教会はお母さんでなければなりません」、と。

  「お母さん」の行動の原動力は、理屈を超えた、わが子を大切にする思いだ。わが子を、いとおしく、大切にする。その子が、どんな状態にあっても、母だけは、信じて、待つ。多くを語らず、ひたすら祈って、希望を失わずに、待つ。

   お母さんの幸せは、自分の幸せより先に、わが子の幸せだ。わが子が幸せを―そして、真の幸せを―見出せるためなら、何でもする。

   わが子が苦しんでいれば、いてもたってもいられず、共に苦しみ、共に祈り、希望する。苦しむ子を前に、「あなたが悪いのよ。自業自得だからしかたない」、と言って、何もせずにいられるなら、その時、すでに「母である」ことを放棄しているのだろう。

  「お母さんである」ということは、「関係」の中にいる、ということだ。子がいなければ、母もいない。

    今まで、「わたし」が生活の中心だったのに、「母」になると、その中心が、徐々に、「子」にシフトしていく。このようにして、子のおかげで、母は、さらに「人間らしく」なっていくのだろう。人間は、関係から生まれ、関係の中で育ち、関係の中で生かされているから。

  「神である主は土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった」(創世記2・7)。たった一節の、シンプルな神の言葉。しかし、何と深いのだろう。

    人は、「生かされて」いる。関係の中にいる。人は、だから、自分の力だけで十分、自分だけが幸せになればいい、と思って生きている間は、決して幸せになれない。幸せだと思っているとしても、実は、幸せではない。文明の発展だけでは幸せになれないことは、すでに歴史が、そしてわたしたちの周りの具体的な出来事が証明している事実だろう。

   人は、創造主の神の「イメージ(姿、像)」、「似た者」として造られた(創世記1・27参照)。わたしたちの中には、すでに、神のイメージが刻印されている。

   この神を、パパ・フランシスコは、「いつくしみ深い」「愛さずにはいられない」「いつも、どんなときでも、繰り返し、ゆるさずにはいられない」神として、わたしたちに呼び起こしている。それはすでに聖書の中の神の姿であるが、時にわたしたちは、あたかも神は厳しい方、罪びとを罰する方、汚れたものを排斥する方、として考えてしまう。

   そうではない、とパパ・フランシスコは、何度も何度も、繰り返す。

   神は、子どもであるわたしたちが、不幸になることを望まない。神は、子どもであるわたしたちが、知らずに、不幸になる道を選んでいるのを、「自業自得だ、勝手にしなさい」と、ただ見ていることなど出来ない。

   家を勝手に飛び出していった子が、ただお腹がすいたから、という理由で家に帰ってきたとしても、ただただ、「帰ってきてくれた」ことで大喜びし、駆け寄って子を抱きしめ、宴会まで開いてしまう、「愚か」なまでの「お父さん」。イエスの、いわゆる「放蕩息子」のたとえ話に出てくる、「何でそこまでするの~?信じられない!」お父さん(ルカ15・11-32参照)。でもそれが、実は、お父さんである神の、子であるわたしたちとの、日々の関わりなのだろう。

   それが、生きておられる神、アブラハム、イサク、ヤコブ…そしてイエスの神、わたしたちの神の真の姿であり、それを聖書は、たびたび「母のイメージ」で描いている。つまり、神の心は、限りなく「母の心」に近い。それは、何よりもまず、母が、勇気をもって、「いのち」に「はい」と言い、「他者」の「いのち」を生かすために、自分のいのちを投げ出すことを知っているからだ。

    わが子を、何にもまして大切にする心。わが子が、自分の思うようにならなくても、祈り、待ち、思いめぐらし、希望し、信じる母。

   そして、パパ・フランシスコは、「教会はお母さんでなければなりません」と言う。

   パパの思考の中で、イエスは、母マリアを、「教会は、このようになってほしい」という思いを込めて、教会に賜物として残した。「お告げ」の時の、「いのち」への「はい」から、十字架のもとで、その「いのち」が暗黒の淵に飲み込まれるかに見えた時にも、信じ、希望し、子と共に苦しみながら差し出した「はい」まで。そして、最初の、不安と自責の念に沈んでいた共同体の中で、わが子の約束を信じ、待ち、希望した母。

   今年の1月1日のミサ説教の中で、パパ・フランシスコは言っている。「マリアはわたしたちに、困難のただ中でわたしたちを包み込む、母の温かさを与えてくださいます。それは、教会の懐の中で、御子イエスによって始められた『やさしさの革命』を、誰にも、何ごとにも消すことを許さない、母の温かさです。母がいるところには、やさしさがあります。マリアは母の心をもって、わたしたちに、謙虚さとやさしさは、弱い者の徳ではなく、強い者の徳であることを示し、自分の重要さを実感するために、他者を虐げる必要はないことを教えています(使徒的勧告『福音の喜び』288参照)」。

  わたしたちは何と、世のお母さんたちに学ばなければならないだろう!

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2017年7月27日 | カテゴリー :