(読者投稿)聖霊は、真実を受け入れる姿勢を持つアナニアに働きかけた、そして黙示録…

 去年のことでした。東京の荻窪教会の信徒でジャーナリストの佐々木宏人さんが書かれた「封印された殉教」という本と出会いました。それを読んで彼の真実を追う熱意と姿勢に感動し、3月17日に成城教会で開かれた彼の講演会に駆け付けました。

 真摯な彼の声を一生懸命聞いているうちに、自分の中で何か腑に落ちるものがありました。それは、少し奇妙な感覚で、彼の伝える真実が生きている、という感じがしたのです。私はそういうことにこれまで注意を向けたことがありませんでした。発信された情報を吟味することばかりに夢中になっていて、情報は受け取っても、「真実を伝えたい」という人の思いまで受けとれていなかった、と分かり、そんな自分の姿勢に、すごくがっかりしました。

 そこから一年ずっと考えていました。やがて、いつも愛読させていただいている「カトリック・あい」に投稿してみようと思いつきました。私も生きている読者になってみようと。そうすれば「真実を伝えたい」という人の思いまで受けとれるようになれるかもしれない、と思いました。

 佐々木さんは、去年の11月に天に召されていきました。あんまり急な知らせでした。なんとかしてお訪ねできたのではないかと、しばらく後悔もしていました。でも、今はフランシスコ教皇様と自由に会うことができて、私たちのために祈ってくださっている、と信じています。

 ずいぶん前から、私はパウロの回心に重要な役割を果たした「アナニア」のことがすごく気になっていました。使徒言行録を読んで、主が幻の中で言われることに彼が慣れているように見え、普通に主と対話していることが不思議でした(9章10~19節参照)。どうするとこんなことができるのだろう、と思ったのです。

 この場面は、「ダマスコにアナニアという弟子がいた」(同10節)と何でもないように始まっていますが、これらの描写はとんでもないことを伝えているように思えました。アナニアは、イエスを体験していました。「幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った」(同)とあるからです。だからこそ、イエスの名によって遣わされた聖霊(ヨハネ福音書14節26節参照)は、当たり前のように彼に関わって、パウロの救出に向かわせることができました。

 一方パウロは、聖霊が、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」(使徒言行録9章4節)と呼びかける声に、「主よ、あなたはどなたですか」(同5節)と問いかえしています。パウロはここでイエスを初めて体験したのです。

 聖霊は、イエスを知っているかどうかではなく、真実を受け入れる姿勢を持っているかどうか、で働きかけるのではないかと思います。パウロは、自分に起こった強烈な体験によって、旧約聖書で預言された救い主の名がイエスであると信じたことから、イエスの十字架と復活を通して神が人類を救済した、と理解しました。そして、自身の神学となる多くの教えを残しました。

 その一方で、パウロは自分の弟子たちに、「互いに詩編と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い,また賛美しなさい」(エフェソの信徒への手紙5章19節)、「聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」(テモテへの手紙1・4章13節)と勧めました。さらに、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です」(テモテへの手紙2・3章15~16節)と書き送っています。

 パウロがこれらの手紙に書いている「聖書」とは、旧約聖書のことです。ここで彼が、「与えることができます」、「訓練するために有益です」といった消極的な表現をしたのは、旧約聖書には、「キリスト」の預言はあっても、「キリスト・イエス」の名がないからだ、と思います。イエス・キリストと出会い、洗礼によって新しく生まれ、聖霊によってキリストに似た者へと変えられていく存在となった彼には、もはや旧約聖書に頼る必要がありませんでした。しかし彼は、自分の弟子たちの日常を支える訓練になる何をも持っていなかったのです。

 後になってパウロは、アナニアの言葉が、見えなくなっていた自分の目を回復させ、自分に「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです」(使徒言行録22章14~15節)と証言し、イエス・キリストの名を唱えて洗礼を受けるよう勧めた、と語っています。

 しかし、アナニア自身については、「律法に従って生活する信仰のあつい人で、そこに住むすべてのユダヤ人の間で評判の良い人でした」(同12節)と描写しただけでした。パウロは、アナニアがイエスの弟子として高度に養成された状態にあったことについては、考えなかったようです。

 私たちは、パウロが宣教した時代にはなかった新約聖書を持っています。私は、ここに、アナニアのような弟子になるための養成があるはずだ、と思いました。イエスを体験する養成です。パウロが自分の弟子たちに彼らの日常を支える訓練が必要だ、と判断したように、降臨した聖霊は私たち信者のためにそれを準備しないはずはなかったのです。

 このようなことについて7年ほど考察を続けた頃、私は、ヨハネの黙示録の「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(1章3節)という言葉に、イエス・キリストの養成の書があることに気づきました。この預言の言葉を声に出して読み、これを聞いて、自分の記憶に保持する者の幸いについて書いてあるのではないか、と思ったのです。

 そして、試しに毎日。少しずつ黙示録を朗読し始めて4年近くたちました。今度はその間に体験したことや考察したことを投稿できれば、と思います。

 今、黙示録の初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(1章1節)と書かれた言葉は、黙示録に隠されている訓練を保証しているように見えます。

 続いて「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」(同2節)とあるのは、ヨハネ福音書の終わりに書かれた「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(21章24節)と重なっているかのようです。真実を伝えたい、という人の思いがここにもあったのです。彼らも”良きジャーナリスト”だったのではないでしょうか。

Maria K. M.

2025年6月9日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑬ タイ語訳の日本の漫画が、シスターの誕生につながった!

 5月31日、タイの聖パウロ女子修道会の3人目が終生誓願を宣立し、うれしい、待ちに待った恵みの日でした。1994 年設立から31年目、向かいの聖ミカエル教会の感謝のミサの中で、聖パウロの宣教の熱意を生涯かけて生きる”パオリーナ”が誕生しました。

 チェンマイ教区出身、シスター・マリア・マナッサナン(通称シスター・ピム)。なんと召命のきっかけは、タイ語訳日本の漫画。「シスターが出された漫画の本、全部読みましたよ。初聖体の準備も漫画本で…」とシスター・ピム。彼女が住んでいたチェンマイ県メチェム山岳のピムのパークウェイ村まで、漫画宣教は辿り着き、召命に繋がったのです。

 1993年暮、タイに派遣された私が、タイ語を学びながら、宣教の道を模索していた折、タイ語の日本の漫画を夢中で読んでいる子供たちに出会いました。これだと直感、日本の女子パウロ会の漫画本版権使用を交渉し「ベンハー」2巻、「クォヴァディス」3巻「白い鳩のように」を翻訳出版。次いでサンパウロの「はるかなる風をこえて」3巻「たとえばなしきかせて」を各5000冊出版しました。親しくしている日本の友人のタイ人のご主人の伝手で印刷会社の社長、日本漫画タイ語出版社のベテラン翻訳者、私のために日本語通訳者まで集まり相談。みごとな協力の輪が広がり、漫画による宣教がスタートしました。

 電波の届かない山岳部の奥地まで漫画本は届き、予想外の宣教の道が開けて驚きでした。最初の「ベンハー」出版はフィルム使用、エジプトの友人パイロットが現地まで運んでくれました。宣教の応援の手は止まる事がありませんでした。

 その後、講談社の漫画聖書物語(旧約/新約)をバンコクの日本語の本屋さんで見つけ、ぜひとも出版したい、と計画を暖めていました。帰省の際、文京区の講談社を訪れ、海外出版の版権使用契約を結ぶことが出来、各5000部出版しました。これもまた、六本木の有名人の行きつけのバーでバンドをやっていたタイで知り合った友人が社長と親しく、手紙をfax してくれたのがもとで、実現したのでした。

 漫画30点、単行本18点、視聴覚21点、数えきれない協力者と援助の手で、タイでの宣教生活は、実に神様の心憎き摂理の御手が練った”仕事”を体験した日々でした。

 聖パウロの「私は自分が信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信」(新約聖書テモテへの手紙2・1章12節=「聖書協会・共同訳」)し、主の福音を宣べ伝え続けます、来し方をバネにして…、Deo  Gratias!

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年6月5日

・「神様からの贈り物」㉒日本に『修復的司法』がもっと広がってもいいのでは?

 本コラムの内容は、まだまだ考え続ける必要があると感じているが、今の時点で、私の精一杯できるところまで、書いてみた。

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 「人が、人を裁けるのだろうか?」という問いが私の心の中に生まれたのは、16歳になる少し前のことだった。

 きっかけは、ある同期との出逢いだった。『the 陽キャ』だった彼女のユーモアや言い間違いに、私たちが笑い転げた回数は、数知れないほどだ。

 ある放課後、私が、図書室に本を返そうと立ち寄った日のことだった。偶然にも、彼女を図書室で見つけたが、私は彼女の名を呼ぶのをためらった。なぜなら、彼女が本を読む眼差しは、真剣そのもので、普段の姿からは想像もつかない様子だったからだ。私は、彼女に声をかける代わりに、そのタイトルをそっと確認した。それは、死刑制度に反対する本だった。

 この出来事は、私にとって、今まで当たり前だと思っていた死刑制度について、初めて考えるきっかけになった。そこから死刑制度の是非以前に、「人が、人を裁くことは、可能なのか?」を考えるようになった。16歳にして、大きな問いにぶつかった私は、本の中で『修復的司法』という言葉に出会った。

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  国の法律を破った人は、罪の代償としてその個人が刑罰を受ける。これが『懲罰的司法』というやり方にあたる。それに対して、先に出た『修復的司法』は、起こった事件をその地域に起きた害悪として捉え、関係者みんなで解決しようとする。具体的には、第三者が加害者と被害者を仲介して、対話の場を設け、そこでそれぞれの体験や気持ちを共有したり、罪をどうやって償うかを話し合ったりする。欧米では『修復的司法』によって、再犯率がかなり減ったというデータもある。ただし、重大な事件(殺人事件など)だと、会を開くことが難しいなど、デメリットもある。

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 あれから約20年が経ち、私は、大きなトラブルに巻き込まれた。その時、私が求めていたのは、お金や懲罰ではなく、誠実な謝罪と反省の言葉だった。だが、今ある刑法で、私のニーズは叶えられそうにない。諦めかけた時に、遥か昔に、本で読んだ修復的司法の知識がよみがえった。

  早速、私は、修復的司法の対話の会を開催できる弁護士をスマホで探した。探し出すことよりも、そこに連絡する方がよっぽど勇気が必要だった。何度も悩んだ末に、私は、事情を説明したメールを送った。

 数日後、丁寧なお返事をいただいた。そこには、私の場合、対話を持つのは精神的な負担が大きいということや、とても難しいケースにあたること、また、過去にも例が極めて少ないことなどが、分かりやすく文章にまとめられていた。私の心情に寄り添いながらも、専門家としての意見を誠実に伝えてくださった。私を支える周囲の人たちからも意見をもらい、結局、私は会を開くのを見送ることを決めた。

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 私は、もっと日本に『修復的司法』が広がってもいいのでは?と考えている。当時の私は、相手方にどんな事情があり、どんな気持ちなのかを知りたかった。また、「きっと反省してくれているだろう」と、希望を持っていた。ただ、正直なところ、自分を傷つけた人を前にして、冷静でいられるかどうかは、自信がない。

 けれども、私たちが立場を越えて共に考えるプロセスは、決して無駄ではないと、私は感じる。今の私に書けるのは、ここまでだが、今後も折に触れて考え続けたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2025年6月1日

・愛ある船旅への幻想曲(52) 新教皇への大きな期待と希望、そして日本の教会の大きな落差

 教皇フランシスコが88歳の生涯を終えられ、2025年5月18日、69歳のレオ14世がローマ教皇に正式に就任された。就任式ミサで「『神の愛に根ざし、一致のしるしとなる教会、人類の調和の酵母となる宣教する教会』を築こう!」(「カトリック・あい」)と説教された。

 世界中のカトリック教会の課題は山積みだ。教皇フランシスコに世代を超えて認められていた新教皇はどのような路線を歩まれるのだろうか。アウグスティヌス「告白」1章を引用して「私たちの心は、あなたの中に安らぎを得るまで休むことはない」と語られた新教皇に大きな期待と希望を抱く私である。そして、地方教会の女性信徒から悩みがなくなるのはいつの日か、と考える。

 「もう、教会がめちゃくちゃ」と目に涙をためて訴える若手?の外国人女性。そして、「今の教会が心配」「別の教区に転出しようと思う」「教会に来たら気分が悪くなる」等々、若手?の日本人女性信徒たちの今の教会への悩みは切実である。残念ながら、こうした声は、決して、教会のトップ集団には届かないだろう。

 信徒の訴えや悩みを受け、信徒代表が教区長に相談に行くが、一般社会では考えられないような結果になる。「教会」という組織には、信徒の意見は必要なく、ある司教のように「そのような信徒はいらん」と吐き捨てるように言われ、開いた口がふさがらない信徒たちは、去るしかないわけだ。

 日本社会での宗教は外国人の宗教観とは大きな違いがある。今回の教皇選挙で、バチカンの聖ペトロ広場で結果を見守る信者の中に、日本人はどれくらいいたか。日本の国旗は見えたか。日本人の中には、今回のニュースからカトリック教会を知った人もいるだろう。聖職者による性的虐待のニュースからカトリック教会を知っている人もいるだろう復活祭で受洗し、喜びでいっぱいの信徒生活をスタートした日本人もいるだろう。

 今、日本人信徒の大半は高齢者である。彼らの大半は外国人宣教師に育てられた。修道会の外国からの寄付によって聖堂が建てられ、外国人宣教師と共に青春時代を過ごした信徒も少なくない。当時の日本社会では、特に地方では、外国人が珍しい存在だったこともあり、私たちの世代以降の司祭に対して抱く思いとは大きな違いがあるのかもしれない。

 私は、十数年前に、あるスペイン人宣教師が日本を去る時の挨拶で「これからのカトリック教会は日本人司祭が中心となることでしょう」と言われたのを覚えている。この司祭が帰国するとは思っていなかった私は、とてもショックを受けた。その時期には、次々と司祭が教区を去られていたこともあった。

 そして今、私の周りで見る限りかもしれないが、いよいよベテラン外国人司祭と日本人司祭の関係が変わる時期に入っている、と感じる。

 若手?の教区司祭がベテラン外国人宣教師に対して敬意を払わない言葉をミサ中に信徒は聞かされる。この司祭に何があったか存じないが、信徒に対しても苦言を呈し、共にミサをなさる聖職者は笑って(?)いるとのこと。ここまでひどい聖職者は珍しいかも知れないが、信徒たちにとって、今までの聖職者の認識を変えねばならない時期が来ているようだ。

 まともな信者と聖職者が減り続ければ、小教区や教区の存続は難しくなるだろう。日本の教会関係者は、教会を「組織」と考え、「イエス」をどこに置いているのか。今の自分たちの”世界”と安泰だけを守るのではなく、教会の現状を直視し、イエス中心の愛ある教会を取り戻すことを考えてもらいたいのだが…

 故ジョルジュ・ネラン神父は著書『キリストを伝えるための核心とヒント』に次のように書いておられる。

 福音書には、教会における『組織憲章』ともいうべき基礎・基本が、明確に記されている。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい』」(マタイ福音書20章25~27節)。
 この福音は、司祭が権威によって信者に何かを指示・命令したり、コントロールしたりするのは間違いであること、また「司祭に権威があるから信者は何でも従わなければならない」と言うように、司祭に依存的になる必要はないことを説いている。
 このネラン神父のように、日本にキリストを伝え、身も心も日本の地に捧げている西欧人宣教師の姿は、今や貴重である。日本のカトリック教会での中堅?若手?司祭の年齢も社会とは大きなずれがあるようだが、聖職者、修道者含む信者全般が社会に沿う教会で人間として生きる必要があるだろう。

 レオ14世は教皇就任式ミサの説教でこう語られている—「ローマ教会は愛によって統治しており、その真の権威は『キリストの愛』にあるからです。それは決して、他者を抑圧や宗教的宣伝、あるいは権力の手段で捕らえることではなく、イエスがしたように愛することだけです」と。

 私は、今は亡き素晴らしい日本人司教との出会いがあったから、また今も、西欧人宣教師の自然体でのイエスの導きがあるからここに居る。カトリック教会での良き出会いに感謝し、教会への希望を失うことなく正直に愛ある旅を続けたい、と改めて、思い直している。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2025年5月31日

・カトリック精神を広める⑱ 勧めたい本紹介・1 三田一郎著「科学者はなぜ神を信じるのかーコペルニクスからホーキングまで」

 本稿より有意義な本を紹介していきます。今回は、プリンストン大学博士課程修了、元名古屋大学理学部教授の素粒子理論物理学者、現在はカトリック終身助祭を務めておられる三田一郎氏の「科学者はなぜ神を信じるのか―コペルニクスからホーキングまで」(講談社ブルーバックス)を紹介します。

 三田氏によると、国連の調査で、過去300年間で大きな業績を上げた科学者300人に聞いたところ、89割の科学者が神を信じていたそうです。なんと神を持ち出さずに宇宙論を創出した、名だたる無神論者と思われていたホーキング博士や、相対性理論を打ち立てたアインシュタインでさえ、神を信じていたというから驚きです。

  最近、友人と話す機会があり、神のことを聞いたら「宇宙は偶然にできた」と言うので、大いに驚きました。しかし、この本によると、「私たちがこの宇宙に偶然存在している確率は、限りなくゼロに近いものの、この宇宙は莫大で、なにしろ何回実験できるかどうか見当がつかないため、私たちは偶然存在していることを否定できない」。別な本では、あの有名なシェークスピアの「ハムレット」でさえ、AIが何回も挑戦すれば同じ物語を作れる可能性はゼロではない、といいます。

 そうだとしても、「この宇宙には科学法則があることは確か・・・科学法則はものではないので、偶然にはできません。宇宙創造の前には必然的に科学法則が存在したはずなのです。では科学法則は誰が創造したのでしょうか」と問い、筆者は、科学法則の創造者を「神」と定義し、「ルールが存在する、ということは、その創造者である神が存在するということだ」としています。

  もう一つ、本の中のエピソードを紹介しましょう。枝から落ちるリンゴをみて万有引力を発見したニュートンですが、彼は極めて熱心なキリスト教徒で、生涯に書いた本の中で、宗教関係の本の方が多かったそうです。そんな彼の元に、無神論者の友人が訪ねて来ました。

 部屋には機械職人に作らせた太陽と惑星が動く模型が置いてありました。開口一番、友人は言いました。「誰が作ったんだい、実に見事な模型ではないか」。ニュートンはしばらく黙っていましたが、再度促され、「それは誰かが作ったものではない。たまたまここにあるのさ」と答えると、友人は気色ばんで言います。「馬鹿にするもんじゃない。誰かが作ったに決まってるだろう」。ニュートンは言い返しました—「これは偉大な太陽系を模して作った単なる模型だ。この模型が、設計者も製作者もなく、ひとりでに出来た、と言っても、君は信じない。だが君は普段、本物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現した、と言う。どうしたらそんな不統一な結論になるんだ」。それで友人は、創造主が存在することに納得したといいます。

 この本では、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンに始まって、量子力学を打ち立てた、錚々たる科学者が登場し、「神様はサイコロを振らない」で有名なアインシュタインとボーアとの論争など、宇宙論を述べながら、神様に関わる逸話を散りばめ、なぜ科学者は神を信じるのかと論じています。ペーパーバック版なので、読みやすい。一読をお勧めします。

 

横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ https://mori27.com

2025年5月31日

・共に歩む信仰に向けて⑥ 新教皇レオ14世への期待と不安、そしてドイツの教会の”シノドスの道〟の行方は、日本は

*新教皇レオ14世に期待する・・

 プレボスト枢機卿がレオの名を選び、レオ14世と名乗られたことは喜ばしいことだと思います。その名を選ばれた動機となったレオ13世(在位:1878年–1903年)について振り返ってみましょう。レオ13世の存在は、近・現代においてカトリック教会が社会と関わりを持つようになった原点だからです。

*レオ13世の時代背景

 時代背景を見てみますと、フランス革命(1789年~)があり、ナポレオン後、思想的には啓蒙主義、近代の自然科学など、理性の立場が社会を支配していきますから、キリスト教や聖書が述べる奇跡などは認めないとする時代思潮となります。

 産業革命があり、それに合わせて人間関係、社会も変化し、労働者階級ができ、彼らは貧困化します。資本家や地主と対立。男も女も子供も奴隷のように働かされます。長時間労働、伝染病の蔓延。スラムもできます。社会では共産党、社会主義運動、労働運動など。19世紀後半は西欧の諸国家は政教分離、教会は社会との関係を失い、社会への発言力も失います。

*レオ13世の前はピオ9世教皇・・

 ピオ9世教皇は1864年、「誤謬表(シラブス)」で近代を全面的に批判します。哲学的な合理主義も、社会主義も自由資本主義も進歩や近代文明もすべて否定・断罪します。こうしてカトリック教会は社会から孤立して、伝統的な「信仰の遺産」を墨守し、「教義本位主義」という頑なな姿勢を貫きました。

*レオ13世の登場で・・

 そんな中にレオ13世が登場し、近代社会との和解を実現していきます。啓蒙思想や科学などの「理性」の立場と「信仰」は共存できると言いました。

 そして1891年に回勅「レールム・ノヴァールム」を出し、資本家、雇用者、労働者、そして国家の義務や権利を明確にします―資本家・富裕層と労働者は、それぞれの義務と権利を認め合い、協議によって和解し、労働者も人間らしい生活を営めるようにすべきであり、それが資本家にもプラスになる。雇用者は労働者が家族を養うに足る賃金を支払う義務がある。労働時間、休憩時間、婦人や年少者の保護。労働組合を結成する権利もある。国家にも、生活の困難な労働者を援助する義務、貧しい人を守る義務があり、人間は精神的存在なのだから、人々の精神生活、宗教生活を守る義務がある。日曜日にはミサ・礼拝に参加できるようすべき、と。

*レオ13世によって教会は社会や政治との関りを持つように・・

 以上のような主張は。社会に大きな影響を与え、カトリック教会は、政治、社会運動に関与するようになりました。社会の中で、世界の中で発言権を得ていったのです。カトリックと民主主義の両立が可能である、それで「キリスト教民主主義」という政治運動が生まれました。

 歴代の教皇は、国際連盟の設立にも影響を与え、国際労働機関(ILO)などの国際機関との関係を構築してきました。教皇ヨハネ23世は、1962年のキューバ危機で米ソ首脳を仲介し、核戦争を防ぐことを助けました。冷戦末期には、教皇ヨハネ・パウロ2世が、まだ共産主義政権だった母国ポーランドを訪れ、民主主義運動「連帯」を支えました。1989年にポーランドで総選挙が行われ、共産党政権は崩壊。教皇が民主化運動が東欧に広がるきっかけを作った、との見方もされました。

 第二次世界大戦後、1962年に、ヨハネ23世は第二バチカン公会議を通して、現代社会の戦争と平和、富と貧困といった問題も「教会の問題」として捉えるようになり、バチカンの国連との関係も出来ます。国連には、政治的に中立を保つためオブザーバーとして参加。教皇フランシスコは核廃絶運動に注力され、核兵器が引き起こした惨状を身をもって知るために被爆地を訪問されました。地球環境問題への取り組みも、国際的な影響を及ぼしています。

 これらの延長線上にプレボスト枢機卿が「レオ14世」を教皇名に選んだということは期待していいのだろうと思います。

*レオ14世への不安・・ドイツの「シノドスの道」への対処は?

 もう一つの関心は、新教皇がドイツの教会に対してどのような姿勢で臨んでいくのか、です。

 教会における信徒の役割を大きく高めようとするドイツの司教団に対してNOを突き付けた3人の枢機卿のうちの1人が、当時のプレボスト枢機卿(司教省長官)でした。あとの二人はパロリン国務長官とフェルナンデス教理省長官です。ドイツの「シノドスの道」の歩みの重要な段階である「シノドス委員会」の設立を承認するか否かの投票を行なわないように、という書簡を、3人の連名で、投票直前になってドイツ司教協議会に送ったのです。

 信者団体「我々が教会」によると、それは「突然の、脅迫的な手紙」でした。2023年3月にシノドス集会で、シノドス委員会を新たに設立することが決まり、その後、その規約なども決議されました。そして信徒組織であるZdK総会で、圧倒的多数の賛成をもってシノドス委員会の規約は決議・採択されました。

 最終的な決定には、司教サイドの承認が必要でした。司教協議会総会の決議を経て初めて効力を持つことになるからです。司教協議会総会は2024年2月アウクスブルクで開催されましたが、その直前にバチカンから3人連名の書簡が届いたというわけです。

*シノドス委員会、そしてシノドス評議会とは・・・

 世界の教会の取り組みに先駆けて進んできたドイツの教会の「シノドスの道」の歩みを、さらに協働的なものにするための審議と決議の場となる「シノドス評議会」を2026年3月までに発足させること、そしてその準備のための「シノドス委員会」を新たに作ること。。すでに決まっていました。

 シノドス評議会の機能は、教会と社会に助言し、司牧計画や将来の展望を示し、一つの司教区だけで決めることのできない経済的・予算的事柄を教区を超えて決定することです。全教区に関わる連邦レベルでの機能を果たすことが狙いです。

*バチカンからの書簡の背景にあるもの・・・

 バチカンからの3人連名の書簡が、ドイツ教会の動きにストップをかけた理由は、「司教たちと一般信徒による共同統治を含むシノドス評議会の機能は、カトリックの教会観、カトリック教会の秘跡的構造と一致しない」というものでした。

 そしてドイツ内部の問題も指摘されました。司教団の一致の乱れ。シノドス集会等で、ケルンと南部3州のアイヒシュッタト、パッサウ、レーゲンスブルクの司教たち4名が反対したこと。ドイツは全部で27教区ありますが、4教区の司教が反対し、「シノドスの道」から撤退したので、委員会に合法性に疑問を呈したのです。

 シノドス委員会の規約上、もはや司教優位の投票方法ではなく、司教か信徒かの違いに関係なく、投票数の3分の2の多数で議決されますので、4名の司教が委員会に入らなければ、一般信徒に有利になってしまう、ということも危惧され、委員会の運営資金の調達も、司教たちの満場一致の承認が必要なので、この面からも問題が生じます。

*その後・・・

 2024年6月、教皇フランシスコの意向に従って、ドイツ司教団の代表とバチカンの代表それぞれ6名が、丸一日の会談がもたれました。詳しくは2024年7月31日付けコラム「シノドスの道に思う⑭ドイツの視点から・8」をご覧ください。バチカンの介入もあり、シノドス委員会(Ausschuss)をどうするか、シノドス評議会(Rat)をどうするかという問題が話し合われました。シノドス評議会はシノドス審議会Gremiunに名称が変更され, 内容も変わるようです。

 2025年5月9,10日、マクデブルクにおいて第4回目のシノドス委員会が開催されました。もちろんドイツ司教協議会と信徒団体ZdKの共催です。そこではシノドス審議会Gremiumはシノドス団体a synodal body と英訳されています。「連邦レベルでのシノダル団体」です。はっきりしていることは2024年10月に出た世界シノドスの最終文書に添ってドイツのシノドスの道も進めていくという方針が確認されたことです。

 5月のシノドス委員会には、あの撤退していた4つの教区(アイヒシュタット、レーゲンスブルク、パッサウ、ケルン)のうちの3教区からも招待客が参加したようです。次回は2025年11月、フルダで第5回シノドス委員会が開かれ、そこで「連邦レベルでのシノダル団体」の規約が決まる予定です。ドイツの27教区が一致してシノドスの道がさらに展開することが期待されています。

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 参考までに、ドイツの「シノドスの道」がどのように歩んできたかを、これまでこのコラムに書いてきたことから要約してみます。

*ドイツ・シノドスの道の略歴・・

 ドイツの「シノドスの道」のきっかけは、聖職者による性的虐待と教会当局による隠ぺいの原因の研究でした。これに基づいて、危機打開のためには自由で公開の討論が必要だ、と司教協議会総会が認め、「シノドスの道」の歩みが始まりました。

 2019年12月に始まり、翌年、第1回目のシノドス集会。「シノドスの道」は2つの団体、すなわちドイツ司教協議会と一般信徒組織である「ドイツカトリック者中央委員会(ZdK)」の共同作業として行なわれています。合計約230名。シノドス集会が最高の会合であり、様々な決議(決定)を行なう。メンバーは等しい投票権を持つ。なお、中央委員会のメンバーは約230人で、その内97人はドイツカトリック組合の作業チームから選ばれ、84人は各教区の信徒連合から約3名ずつ送られた者、45人は個人として選ばれた人たちです。

*ドイツ・シノドスの道で扱うテーマは4つ・・・

 テーマは①権力と権力の分散―宣教への共同参画と参入について ②今日における司祭の存在について ③教会における女性の奉仕と役務について ④継続する関係における生活―セクシャリティとパートナーシップにおける生ける愛について。要するに、統治の問題、司祭の問題、ないがしろにされてきた女性の問題、特に性の倫理の問題の4つです。

 これらを審議して出席メンバーの3分の2(そのうちに司教協議会の出席メンバーの3分の2を含む)の賛成で決議案は可決しますが、この決議案が法的効力を持つためには、司教協議会と個別教区司教の教導権によります。諸会合において、審議から決議文ができるまでは、聖職者も一般信徒も平等の権利(一票の権利)を持って参加しています。

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 最後に―

*新教皇への期待と不安・・・

 レオ14世に対しては、ドイツ司教協議会もZdKも期待していることは間違いないと思いますが、例の書簡のことを考えると、ドイツの「シノドスの道」は大きな改革を進めるなことはできないのではないか、とも思われます。

 信者団体「我々が教会」は、今年5月7日の新聞記事で、教皇フランシスコが始めたシノダル(共働的)な教会への改革を、新教皇がさらに進めることへの希望を表明し、具体的に4点を挙げています—①あらゆる点における共同の意思決定:小教区、教区、シノドス(教会会議)において。②女性、LGBTQ+、叙階された奉仕職における既婚者にも同等の権利。③司教の任命において、性的虐待を絶対赦さない。④異なる文化の多様性における一致の尊重。これらは「シノドスの道」の方向とほぼ同じです。

 蛇足ですが、2024年度のドイツのカトリック教会の統計の仮発表がこのほどされました。それによると、受洗者数も、教会での結婚者数も、減少傾向が続いており、小教区数も2023年度に9418から9291に減っています。教会を公的に去った人数は2023年度に40万2600人、24年度に32万1600人と、若干少なくなったものの、教会離れの傾向は続いています。

 ちなみに、日本では教皇フランシスコが通常の教導権において承認した昨年10月の世界代表司教会議総会・第2会期の最終文書」は、「カトリック・あい」の有志信徒による試訳は昨年11月に完成、掲載されているにもかかわらず、司教協議会の”公式訳”はそれから半年以上も経つのにまだ出てきません。”シノドスの道”への日本の教会の取り組みは極めて消極的でしたが、今やほとんど忘れ去られたように思う
のは私だけでしょうか。

 参考=レオ13世に関しては増田正勝「労働者問題とドイツカトリシズム―レオ13世 『レールム・ノヴァールム』100周年に寄せて―」、アゴラ言論プラットフォームの八幡和郎、 湯浅 拓也の記事参照。その他ドイツ司教協議会、ZdK、「我々が教会」のサイトを参照してください。

(西方の一司祭)

2025年5月31日

(コラム)「2025聖年—戦後80年を振り返り、平和を祈る」テーマにカトリック小金井教会有志が都内巡礼を実施

 今年2025年は世界のカトリック教会にとって25年おきに行われる「聖年」です。また、日本にとっては第二次大戦終結から80周年、東京にとっては、一日で10万人と広島、長崎に匹敵する死者を出した米軍による東京大空数から80周年を迎える年でもあります。

 カトリック小金井教会では、有志の実行委員十数名が主催する巡礼が20年以上前から行われており、コロナの大感染で中断を余儀なくされていましたが、このような歴史的な節目を迎える今年、五年ぶりの再開となり、私も参加させていただきました。

 「2025聖年—戦後80年を振り返り、平和を祈る』をテーマにした今回の都内巡礼には、40人余りが参加し。午前八時、小金井教会で加藤主任司祭による出発の祈りを共に捧げた後、マイクロバス2台に分乗して午前8時に出発。  

 まず今年の巡礼指定教会である東京カテドラル聖マリア大聖堂に向かい、巡礼に同行してくださる竹内修一神父様(上智大学教授)と合流。教皇選挙でローマ出張中の菊地大司教・枢機卿に代わってアンドレア・レンボ補佐司教から「私たちもキリストと共に歩みを続けることで、少しづつ、キリストの似姿に近づくことができます」という励ましの言葉と祝福をいただきました。

 続いて向かった千鳥ヶ淵の戦没者墓苑では、大戦で亡くなった方々の碑の前で祈り、献花をしました。中央の六角堂には、国内や海外で亡くなり、引き取り手のないご遺骨が納められています。

 両国で昼食の後、終戦直前の1944年秋から1945年8月までに行われた米軍による2000回に上る日本本土空襲の中でも、広島、長崎と並ぶ最も大きな被害を受けた1945年3月10日の東京東部大空襲の中心被災地にある「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区北砂)を見学。

 大画面のビデオを使った大空襲の模様の説明を聞き、実際に米軍の爆撃機が投下し、木造家屋が密集する下町市街地を火の海にした油脂焼夷弾の実物などの展示を見て回り、女性や子供たちを含む市民の大殺戮を平然として行わせた戦争の恐ろしさ、醜さを痛切に感じました。

 センターからほど近い、カトリック本所教会は、まさにその大空襲で焼き払われた恐怖の経験を持つ教会です。ここではまず、大空襲当時、教会の信徒で中学生だった猪野さまから、体験談をうかがいました。

 主任司祭の宇賀山神父様からいつも、「空襲警報が鳴ったら、ミサ中でも安全な場所に避難しなさい。私はここにいます」と言っておられたこと、空襲があった夜は期末試験のための勉強をしていたが、空襲警報で外に出ると、すでに、川向こうの浅草方面は真っ赤に燃えていたこと、皆で逃げ、都電の線路に身を伏せて危うく命が助かったこと、教会も自宅も皆、燃えてしまい、教会の焼け跡などを皆で探したが、神父様を見つけることができなかったことなど、辛い思い出を語られました。

 そして、最後に猪野さまは、「当時、私たちカトリック信者は、『敵の宗教を信じている』と陰口を言われました。その時、大空襲の惨事に遭った時、十字架につけられたキリストが『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』(ルカ福音書23章34節)と主に願われた気持ちが分かるような気がしたのです」と回想されました。

 そうした大空襲の苦しみ、戦争のもたらす惨禍を胸に、竹内神父様の司式で、世界の平和を願うミサを捧げました。ミサ中の説教で「キリストは平和の君として、この世においでになったのです」と強調されました。このミサを今回の巡礼の締めくくりとして、平和のありがたさ、重要性、そして、世界中で戦火に苦しむ人たちを思い、すみやかに平和が訪れるよう祈りつつ、帰途に就きました。

 雨天の中の巡礼で、高齢者も多くおられましたが、実行委員の方々の事前の周到な準備、そして当日も数人ずつのチームを作るなど、安全確保にも気を配っていただき、素晴らしい巡礼となったこことを心から感謝いたします。

 (文・カトリック小金井教会信徒・雨森政惠、写真・東山美代子、編集「カトリック・あい」)

2025年5月16日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑫タイで好きな言葉のひとつは「チャイイェンイェン(慌てないで、ゆっくりね)」  

    先日久しぶりにムッとする気持ちのまま口をきき、自分でもハッとするきつい言葉を言ってしまい反省。その時、走馬灯の様に思い出されたのが長いタイでの生活、温かい懐かしい記憶にしばし浸りました。どういう関連?読者の皆さんには想像つかないでしょう。

 タイ国に宣教に赴いた折、少しでも人々の生活に溶け込む為に、歴史文化、生活習慣を学ぶために本を読みました。マナーの本は今でも印象に残っています。蜘蛛の巣が張るほど忍耐強く待つ人の挿絵、腹を立て短気の不徳の至らなさがタイの人々にとっては最低の人間、忍従して穏やかに怒らないで生きるように、と。仏教に培われた文化ですね。喧しい騒音、うるさく煩わしい人々と気長に付き合う、約束の時間に遅れ待たせられても穏やか、決して人を急がせない。

 タイで平素使うใจเย็น ๆ (ใจ=チャイ=心 เย็น=イェン=冷える冷たい ๆ=繰り返しの記号なのでイェンイェンと発音し強調する) と言う言葉があります。チャイイェンイェン、冷静に、慌てないで、ゆっくりね、との声掛けです。タイでの生活でゆったりと受けとめる友人達の豊かな姿に触れ感化され、考え方を意識して変えたほどです。

 それまでの6年間は三ノ宮の聖パウロ書院に勤務、尼崎の修道院から通勤。神戸の街を歩く人並を足速にすり抜け、時間を惜しんだ秒刻みの 生活でした。手早い仕事、時間を大切にする実質は変わらないのですが、人との接点に労わり優しさがあることで、潤いができるのですね。さして時間を取るわけでなし、急かさなくても事はうまい具合に行き、人を生きた心地にしてくれます。

 タイでの多忙な30年の宣教生活は、人間味ある素敵な余裕の出会いに織りなされていました。労わりと優しさの心の潤滑力をますます発揮して、日本での宣教に励んでいます。ヨハネ福音書によると、鍵がかかっていたのに、イエス様は入って来られ、励ましてくださいました。

 「カトリック・あい」愛読者の皆さん、復活なさった主の平和と喜びを、霊に導かれて共に宣べ伝えましょう。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年5月6日

・共に歩む信仰に向けて⑤ 教皇制のゆくえ(その1)

 教皇フランシスコの帰天。冥福を祈ります。(今月のこのコラム原稿は死去される前に書いたものです。)

*教皇はキリストの代理者になった・・

このコラム2月28日付け「共に歩む信仰に向けて③キリシタン史と現代その1&その2」で、伴天連の政治的な動きが問題であったと述べました。では、そのおおもとの原因はどこにあったのかというと教皇権、制度としての教会であると言わざるを得ないと思います。

 15世紀末、教皇アレキサンデル6世は発見される土地(新大陸)をスペインとポルトガルとに分かつのに、おおよそ以下の教義を用いたと言われます。「地上の国を統一するのは、王のなかの王であるキリストである。キリストの中にいっさいの至上権はある。キリストは教皇をその代理人とした。教皇はキリストの全権力を、世俗の権力さえも受け継いだ。不信心な君主は単なる占領者にすぎない。キリスト教徒の国王は、教皇の認可を得てその代理として統治しているにすぎない。国王は教会の聖務の代行者として、教会のために宗教的職分を果たしているのである」(マルティモールによる)。教皇権の具体
化が伴天連たちの政治的動きとなったのでした。

*王と教皇の相互依存・・

教会も変動する世俗社会のただ中にありますから外敵からの攻撃や侵入などに対処するために強大な王たちの支援や保護を必要としました。教皇権と世俗の王や皇帝の権力との相互依存の社会です。フランク王のカール大帝(768~814)は自らを「信仰の擁護者にして教会の支配者」と自認していました。「皇帝が教皇からの支援を必要としたのとまったく同じくらい、教皇権も皇帝からの支援を必要とした」のです。

 その後、ドイツ国王オットー1世はカール大帝の居所だったアーヘンの大聖堂で大司教から国王としての権標(剣、マント、笏など)と聖油の塗油を受け、黄金の冠を被せられます。オットーはローマの政
情不安で苦しむ教皇ヨハネ12世の救援要請に応えたので、962年、サン・ピエトロ教会で教皇から皇帝として戴冠されます。こうしてドイツ国王はイタリアの北部と中部の支配という「イタリア政策」に関わることになります。

*3つの事件と教皇権・・

以下、3つの事件を取り上げ、教皇権がどのように表れたかを見てみます。

①カノッサ事件

高校の世界史でも扱う事件です。1075年、教皇グレゴリウス7世はドイツ国王ハインリヒ4世がイタリアの一部の司教たちの叙任を強行したことに警告を発し、教皇の命令に無条件で従うよう求めます。ハインリヒの行為は、ドイツ王はローマ帝国の後継者としてイタリアの支配に関わっていたためになされたことでした。

 ハインリヒは教会会議を開き、26名の大司教や司教が出席。彼らはグレゴリウスを教皇として認めず、教皇に服従の解除を通告します。それに対してグレゴリウスはハインリヒによる統治の停止と破門を宣
言し、全キリスト教徒をハインリヒに対する忠誠義務から解放します。

 ハインリヒは再び教会会議を開催しようとしますが、今度は出席する司教はほとんどいない。司教たちは教皇を恐れたのです。また反国王派の諸侯たちも会議を開いて、ハインリヒが一年以内に破門から解かれなければハインリヒを廃位すると宣言します。窮地に陥ったハインリヒは教皇に謝罪することを決めて、カノッサ城に滞在する教皇に赦しを請い、雪の城門で3日間裸足のまま祈りと断食をして、やっと破門を解かれたという事件です。

いちおう、教皇の勝利ではありますが、カノッサに赴く前、トリノに到着したとき、北イタリアの司教と諸侯たちは、ハインリヒを支えるために大軍を集めていました。グレゴリウス教皇は武力行使を畏れてカノッサのマチルダの居城に避難していました。

 またカノッサ事件には後日談があります。反国王派諸侯によって対立国王になったルードルフとの戦いでハインリヒが敗れたことで教皇は再びハインリヒを破門にし、ルードルフを正式な国王と認めます。これに対してハインリヒは教会会議を開き、対立教皇クレメンス3世を擁立します。ハインリヒとルードルフの両陣営の戦いが何度かありますが、ルードルフの死によって、ハインリヒはイタリアに進軍し、ローマに入って対立教皇クレメンス3世から皇帝戴冠を得ました。

 グレゴリウス7世はローマ近郊サレルノに逃れ、そこで憤死します。さらにハインリヒは帝国会議を開催し、多くの大司教や司教、世俗諸侯が出席し、そこでグレゴリウス派の司教の罷免が宣言されました。

 事件の前、1059年、教皇ニコラウス2世は、教皇選出は世俗権力を排するため、枢機卿団の相互選挙(コンクラーベ)によるとの教皇令を出します。これ自体、当時枢機卿だったグレゴリウス7世(ヒルデブランド)たちの意図によるものでした。グレゴリウス7世は『教皇訓令書(Dictatus Papae)』の中で、ローマ教皇のみが正しく普遍的であること、彼のみが司教を罷免することも復帰させることもできること、彼のみが皇帝の標徴を用いることができること、すべての君主は教皇の足に口づけすべきこと、彼は諸皇帝を廃位することができるとして、教皇の権威・権力が不可侵・普遍・不可謬であり、皇帝の権威・権力よりも上であること、教皇を頂点とした中央集権、社会全体のヒエラルキーを構想していました。

 グレゴリウス7世が失敗した理由の一つは、教皇が利用できる行政組織が未発達であったからだと教会史家バラクロウは言っています。従って1088年即位のウルバヌス2世の頃から教皇庁が組織化されますし、教会法も発展していきます。教皇庁の成立によってカトリック教会は「聖なる人々の集団が信徒を率いる組織」ではなく「法律家集団が信徒を統治する組織」へ変わったのだと中世史家の藤崎衛氏は言っています。

 この事件から、教皇権が王たちだけでなく司教たちからも全面的に支持されていたわけではないことがわかります。教皇は自分の至高権、普遍かつ不可謬な権威を主張していますが、全面的に承認されていたわけではないのです。

②シチリアの晩鐘(シシリアン・ヴェスパー)事件

この事件も高校の参考書『詳説世界史研究』(山川出版社の脚注に記載されています。1282年3月シチリアの首都パレルモでシチリア島人がフランス人数千人を殺戮する暴動・反乱が起こりました。直接の原因は、晩の祈りの時刻に、一人のフランス人兵士がシチリア人女性にセクハラをしたので、それに怒ったシチリア人たちがその兵士だけでなくフランス人を手当たり次第見つけ出しては殺していきました。十数年前からシチリア島民はフランスのシャルル・ダンジューの過酷な政治によって支配されていたので、その恨みもありました。しかしそれだけではなく、当時シチリアの諸都市がドイツや北イタリア
の都市のような自治を要求していました。

 時の教皇マルチン4世はシャルルによって立てられた傀儡にすぎなかったので、全島民に破門を宣告しますが、島民の働きもあって結局シャルルの支配は終わり、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを治めるようになります。

 当時、地中海世界はそれぞれの国家や都市が競い合い、利害関係は複雑でしたが、おおざっぱに分けると、教皇側にはフランスとシャルルのアンジュ―家、イタリアの教皇派諸都市、ヴェニス、南イタリアのナポリなど。反教皇側にはシチリアの諸都市、イタリアの皇帝派諸都市(ペルージア、スポレート、アッシジ)、ジェノア共和国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、神聖ローマ帝国(ドイツ)、アラゴン王国(アラゴン、カタロニア、ヴァレンシア)、アフリカの一部イスラム人など。そのような中でこの事件は起きたのです。

 もともと西欧中世世界は理念的にはローマ教皇を中心として一つになるはずでしたが、徐々に各々の国や都市は自分の利益を図るようになっていき、また教皇の側も自己の地位と存続を優先して行動するようになったために、このように教皇の考えに従わない反教皇派の国々や都市ができ、しかも彼らはイスラム勢力とも同盟を結ぶという、非キリスト教的なことまでしました。つまり教皇を中心にして一つであるべき西欧キリスト教世界の崩壊を露呈していたのです。また、国際政治の比重が高まる中で、教皇の存在は霊的な指導者ではなく政治的な要素の一つ、一勢力に過ぎないことを、「シチリアの晩鐘事件」は示しています。

 さらにシチリアの晩鐘事件の示すこと。この事件に限らず、教皇および教皇庁は一人の権力者や国に過剰に権力が集中して教皇に反抗することを防ぐため、また諸勢力が互いに争い合って仲裁役に当たる教皇の存在を皆が必要とするように、政治的に介入していきました。霊的な使命をもそのために利用したことが、結局は教皇の権威の失墜につながっていきました。聖戦という名目で十字軍を色んな国々に派遣させたこともその一つです。これでは教皇権は「神からのもの」と思える
はずがありません。

③アナーニ事件

この事件についても高校で学びます。教皇ボニファティウス8世は勅書 UnamSanctam (1302年)で二つの剣の思想(ルカ22:38参照)、すなわち霊的剣と現世的剣の両方とも教会の権力の中にあり、俗界の権威者は精神界の権威者に従わなければならない、そしてすべての権威は教会に、そしてその頭である教皇に帰される。すべての人は救いのために教皇に対する服従が絶対必要であるとして教皇の絶対性を主張しました。

 そして教皇庁はフランス国内の全教会の聖職禄に課税し、国王フィリップ4世も対イギリス戦争のため聖職者十分の一税を課したことで教皇と対立します。国王は全国三部会を開いてその支持を得、聖職者と国王は共同戦線を張り、また教皇を裁くための公会議の召集を要求します。そして1303年国王の密使たちはアナーニで教皇を急襲して捕え監禁します。教皇は捕えられる前に関係者を破門していましたが、その効果もなく屈辱の内に死去します。

 その後、フィリップ4世は新しい教皇に圧力を加え、先の勅書の撤回とアナーニ事件関係者の破門解除を認めさせました。また新教皇クレメンス5世は自らの住まいを1309年南フランスのアヴィニョンにします。ローマが政情不安であること、アヴィニョンが教皇に忠実なナポリ王国の治下にあったからです。以後、アヴィニョン教皇時代となり、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」が67年間続くことになります。また1378年、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が立ち、その後約40年間続く教会大分裂(シスマ)となりました。

 教会分裂によって、西欧は二つの陣営に分かれました。神聖ローマ皇帝、イギリス国王、 フランドルおよび多数のイタリア都市がローマのウルバヌス6世教皇の側に。フランス国王、サヴォワ公国、スコットランド、神聖ローマ帝国の幾つかの地方、そしてほどなくしてアラゴンとカスティラがクレメンス7世(対立教皇)の側に。教皇の権威は失墜しました。

*両剣の解釈は3者によって違う・・・

 ローマ司教がパパ(教皇)の称号・肩書きで教令を発したのはシリキウス(在位384~399)であったと言われますが、それまでは幾つかの教会でパパの称号は用いられていました。のちにローマ司教に限定されていきますが。

 5世紀の教皇ゲラシウス1世(在位492~496)は「それぞれ独立した聖俗二つの権力が世界を支配する」と述べ、世俗権力からの自立を主張しました。のちに両剣論と呼ばれる理論のもとになったものですが、先述したようにボニファティウス8世は世俗の剣も聖なる剣(教皇権)に従わなければならないとし、教皇権の絶対性を読み込んでいます。

 カノッサ事件の後、ドイツ王フリードリヒ1世(バルバロッサ)は教皇ハドリアヌスの馬の鐙(あぶみ)を支えて、つまり封建制的に教皇に臣下の礼を取って、ローマ帝国の皇帝戴冠を得ました(1155年)。しかしながらバルバロッサの思い、両剣の解釈は、世俗の剣と聖なる剣はともに神より発している。各剣は神により直接、その帯剣者に与えられたのであるから、政剣を与えられた皇帝は教剣を帯びる教皇と同等であるとし、帝国そのものの神的起源を強調しました。

 したがって、教皇には世俗権力に介入する権利は元々ないのであり、皇帝は直接神から世俗の統治を委ねられている、帝国は神に直接、聖別されているとし、自らの帝国を「神聖帝国」と命名します。のちに「神聖ローマ帝国」の名称に変わる帝国です。帝国が「神聖な」と冠せられるのは俗権が教皇の神権政治を断固として斥ける決意表明であったわけです。教皇の政治への介入を断固拒否していますし、教皇の権威は認められてはいないのです。

*まとめ

 教皇自身は聖俗両界における至高の権力を持っていると主張しましたが、以上見てきたように、人々はそのような信仰を持っていたとは言い難いのです。教皇も一人の人間に過ぎず、決して不偏不党にはなれなかったし、自分の利益や自分の生命の安全を優先して行動して逃げたり隠れたりしています。Aを聖別して王としても、その人がBに戦争で敗れるとAを破門して、Bを王とするなど、自分が生き延びるため行動していることが明らかです。判断の基準は神なのか何なのか、わからない。

 こんな次第では判断を教皇に仰ぐことはないでしょう。何よりも「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43)とのイエスの言葉。教皇がしてきたことは、その真逆ではなかったかと思います。

 今回のシノドスで、教皇フランシスコは第2千年期の教会はヒエラルキー中心であったが、第3千年期はシノダルな教会になることが神の意向であるとはっきり述べたことは重要な指摘です。

(参考資料 *堀米庸三『西洋中世世界の崩壊』(岩波書店)、スティーブン・ランシマン「シチリアの晩祷」(太陽出版)、藤沢房俊『地中海の十字路=シチリアの歴史』(講談社選書)、マルティモール『ガリカニスム』(白水社クセジュ文庫)、藤崎衛『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』(NHK出版)、G.バラクロウ「中世教皇史」(八坂書房)、山本文彦『神聖ローマ帝国』(中公新書)、菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社)など参照。
(西方の一司祭)

2025年5月4日

・愛ある船旅への幻想曲 (51) 「平和への希望を訴えられた教皇を、どれほど身近に感じていただろうか」

    教皇フランシスコのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りします。

    お亡くなりになる前日、復活祭に姿を現されお祝いの言葉を宣べられた教皇フランシスコは最期まで、現役の教皇だった。

 世界中のメディアが教皇フランシスコのご逝去を報じている。そんな教皇は『思想の自由と寛容』と『平和』を祈られた。教皇として戦争は人間性の敗北とはっきりと意見し、死の直前まで平和への希望を訴え続けられた。そして、カトリック教会を改革せねばならないことを宣べ続けられた教皇フランシスコを身近に感じた信者が、どれくらいいることか。

 『希望』を2025年聖年のメッセージの中心に置かれた意味が今はっきりと私に伝わっている。

 最近の私は路線バスでの移動を楽しんでいる。先日、高齢者が多く集う施設前停留所から杖を持つ3人が乗車した。87歳男性と88歳女性93歳男性の夫婦だ。なぜ私が彼らの年齢を知っているのか。バスのシルバーシートに座ったすぐ、一人の男性が「私は87歳です。あなたは何歳ですか?」と失礼にも女性に話しかけた。バス中に聞こえる大きな声である。女性は答えた。87歳男性は「あなたたちは夫婦ですか?それならばあなたは93歳でしょう!」と彼女の夫に話しかけた。なんと”ピンポーン!”である。

 話好きの彼は悦に入って続けた。「高齢夫婦の年齢は一方を知れば簡単に分かる。今の時代は、好いて好かれてでなければ結婚しない。互いの年齢など関係ない。だから若者は中々結婚しない。子供も少なくなる一方。そして、男性が女性よりも早く死ぬからあと10年もすれば女性ばかりが残る。その時には私もいませんが(アハハ)。これからの若者はこの国で苦労すると思いますよ… あなたたちは幸せですね。今も二人で行動できて」と。

 この人何者?93歳男性も「私たちは互いに元気ですからありがたい。だんだんと人口が減るのは困ったものです」と、しっかり答える。バスの中で、後期高齢者の方々が日本で生きてきた時代と現代社会への思いを聞くことができた私は、ひとりほくそ笑んだ。これも生きた信仰であろう。

「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることより難しいものです」(教皇フランシスコ 2015年1月18日 フィリピン・マニラでの講話から)。

 今年も主イエス・キリストの復活を祝った私たちにとって、生きる信仰とはどういうことか、考える。ある若者からは「カトリックの信仰は八方美人的でしょう。違いますか?」。また別の若者からは「ここの教会はイデオロギーが強すぎるのでは⁈」。ある中学生からは「聖書に書かれたこととか、信じる人がいるんだね⁈」。そして、受洗のために聖書を勉強していた友人からは「聖書を勉強するたびに今までの自分を全否定されているように思って、どうしても神が入ってこないし信じられない」と。

 私自身これらの疑問と意見を共有できる側の信者だ。正しい聖書解釈と伝統を望むが故の声は大事だ。伝統を重んじる宗教も社会の移り変わりとともに現代人に合う聖書の解釈、表現の仕方を考えねば、今を生きる信仰にそぐわないと思っているからだ。

 聖書を読み、うわべだけの理解や机上の空論に真実はない。私たちは真実の愛を求めて旅を続けているのではないか。私自身、いつ如何なる時も偽善的愛は与えない、受け入れないと心している。幸いにも未信者の友達が”偽りの愛”を語ることを聞いたことがない。彼らは、嘘をついた後の面倒くささを知っているからである。しかし、教会での”愛”は多種多様であり、私は首を傾げることが多い。未信者の友達は何につけても「それがカトリックでしょう⁉︎」と便利な答えを持っている。私よりもカトリックの宗教を理解しているようだ。。

「隣人に関して偽証してはならない」(教皇フランシスコ 2018年11月14日 一般謁見の講話から)

 偽りの関わりをもつことは、交わりを妨げることにより、愛を阻む、深刻な問題だ。嘘のあるところに愛はないし、愛することもできない。人々の間のコミュニケーションには、言葉だけでなく、しぐさ、姿勢、さらには沈黙や不在であることさえ関わっているのだ。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2025年5月4日

・カトリック精神を広める⑰ 聖人の奇跡について ―聖ペトロの場合-

 この4月21日、フラシスコ教皇が亡くなれた。第1代目の教皇が聖ペトロだから、優に2000年続く第266代目の教皇であった。

 以下、新約聖書のルカ福音書第4章から引用する。

 初代教皇となった聖ペトロ、この男の生涯は奇跡に彩られている。イエスとの最初の出会いは、漁をしていた時である。夜通し漁をしたのに一匹も釣れずくたくたになって浜辺に戻ってきて、網の手入れをしていた時であった。そこへ、病気を治し、悪霊を追い払うことで評判を呼んでいたイエスを慕って大勢の人々が、浜辺にやってきていた。イエスは、当時シモンと呼ばれていたこの男に船を借り、船の上から群衆に説教をした。説教が終わった後、イエスは、シモンに言った。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。たった今しがた、夜通し漁をして帰ってきたところであった。恐らく疲れていただろ

うと思う。しかし、シモンは言った。「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。これが運の付き初めであった。漁をしてみたら、なんと一網で網が破れそうになる程の沢山の魚が取れ、船が沈みそうになったのである。驚いたのはシモンである。なにしろ、一晩くたくたになる程、何度も網を下ろしたのに一匹も捕れなかったのである。「この方はただ者ではない」と思ったのであろう。仲間の船に応援を頼んで、浜辺に戻ってきたシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。以来、ペトロは、漁師仲間ヤコブとヨハネとともにイエスの12弟子の一人となったのである。

 マタイによる福音書第16章では、元漁師だったペトロが初代教皇となったいきさつが記述されている。そこでは、イエスは、シモンにこのように言っている。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。このイエスの言葉により、十二人の弟子の長として初代教皇となったのである。

 ペトロについては、多くの話しが聖書の中に出てくるが、この話はペトロの勇敢さを現していると筆者は思う。

 マタイによる福音書第14章によると、事の次第はこうである。

 イエスは、群衆を帰らせた後、12人の弟子を船に乗せて、先に対岸に行かせ、自分は山に登り祈りを捧げた。船の方はと言えば、逆風のために波に翻弄されていた。イエスは、翌朝、船に乗ろうと、なんと湖の上を歩いていった。驚いたのは、船の上に乗っている十二人の弟子たちだ。「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 

 聖書の記述が本当であれば、水の上を歩いた人は、人類史上、後にも先にも、ペトロただ一人である。信仰はともかく、勇気とイエスへの熱き信頼が無ければ、水の上を歩くなどというのは、できる話しではないのではないか。

 ペトロの最後については、ローマ人による激しいキリスト教徒への迫害の中で、詳しいことは分かっていないが、弟子の自分がイエスの十字架に習うのは不遜として、頭を下にした逆十字架で殉教した、と言われている。

 横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ https://mori27.com

2025年5月4日

・神様からの贈り物 ㉑『誰かが自分自身を愛せるように』

 フランシスコ教皇が天国に帰られたこと、心からご冥福を申し上げます。これを機に、考えたことをコラムにまとめました。

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 先月の私のコラムを読んだ未信者の友人からこんな言葉をかけられた。「麻衣さんの文章を読んで、信じるものがある人は、僕とは違う世界に住んでいるんだな、と思いました。あまりにもまぶしいし、心に拠り所がある人たちが羨ましいです」私は、その言葉に、思わずドキリとしてしまった。そして、その言葉をきっかけに、私が誰にも打ち明けてこなかった気持ちを、彼の前で話すことになった。

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 洗礼を受け、いざ、信者になってみて、私は喜び以上に戸惑いを感じていた。神の存在を疑っているわけではないのに、なぜかまわりの信者たちと混ざれない感じがしていた。「本当は私には信仰がないのかもしれない」と悩んだこともある。

 その理由が分かったのは、受洗してから約10年後に、こんな意味の言葉を目にしたのがきっかけだった。「昨今、見えないものや神の存在を信じる人が減った。自分の親でさえ信頼できない子どもたちが増えたのだから、それはある意味当然とも言えよう」。読み終えた私は、愕然とした。そもそも私は、『信頼する』という感覚が分からないことに気がついた。

  人は、母親との関係の型を、他の人間関係においても無意識のうちにトレースしてしまう。なので、母親との関係性は、後の人生に大きな影響を与える。私の母は、精神的な問題を抱え、不安の強い人だったので、私は母との愛着関係を築けなかった。それは、私の後の人生に多くの課題を残した。

 「親ですら、本当の自分を愛してくれないのだから、他人が私を愛せるわけがない」と、私は考えていた。人付き合いを避けていた時期も長かった。友人たちにも心を閉ざした時期、私のスマホの電話帳には、片手に収まる数の連絡先しかなかった。

 ただ、本当は、私を愛してほしいと願っていた。受洗から15年以上経ち、その気持ちに向き合い、素直になると決めた。その背中を一番強く押したのは、私の意思ではなく、周囲の環境が良かったことと、それに与れる運に恵まれていたことだった。少しずつ「信頼するって、こういうことかもしれない」と体感できるようになった。

  それに派生して、こんな素晴らしい人々を周囲に配置してくださった『大いなる存在』に目が向くようになった。

 そんな過程を経て、私は今ここにいる。

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 「愛ってどんなものですか?」そう彼に聞かれた瞬間、私は過去の自分と彼とが、重なって見えた。かつての私も、『愛とはなにか?』といろんな人に聞いた。当時の焦りや混乱、孤独、渇望などが大波のように押し寄せた。私が「言葉では説明できない。感覚的なものだから…」と答えると、彼は、いっそう深く額に皺を寄せて、真剣に考え始めた。

 そして、彼はおもむろに顔をあげ、「もっと僕に迷惑をかけてほしい。気を遣わないで接してほしい」と言った。その言葉を受けた私は、胸に両手を当てた。そういえば、私自身にも、どこか彼に遠慮する部分があったのは否めない。私もまだ回復の途上にあることを改めて感じた。

 彼の存在は、私が私自身を愛せるようにしてくれた。私の存在も、彼自身を愛し始めるきっかけになれたら、と願ってやまない。また、それがろうそくの灯りを分けるように、世界中に広げたい。それは壮大な夢で、大海に一滴の水を落とすようなものだとわかっていたとしても。

 神よ、どうか私をあなたの平和の道具としてお使いください。アーメン。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2025年4月30日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑪ タイの村で少年だった男性が、横浜・山手教会のミサで私を見つけた!

   タイ国の最高峰ドーイインタノン (ดอยอินทนนท์) 海抜2,536m。北部チェンマイ県の西、メーホンソーン県に隣接した山岳地帯に聳え、国立公園に指定された地帯もあり、動植物が生息し自然が美しく、亜熱帯地方の天国です。

 初めて訪れたのは2000年、長崎コレジオ神学生のボランティア•スタディーツアーの下見のため。初代の溝部院長が仙台教区司教になり、代わって院長になった故中島健二神父様と同伴の中村満神父様をお連れして、最高嶺を超えて西へメチェムに下り、更に山奥のカリアン山岳民のディンカオ村に行った時です。

 バンコクの見渡す限りの丘一つない平地、中心部は高層ビルの谷間に住んでいた私にとって、故郷福島の山に囲まれたような感激でした。その翌年から2016年春まで毎年、十数人の神学生と大学生を連れて登り降り、曲がりくねった道を車で5時間余で山岳民の村々に入り、村人と教会造りの手伝い。電気も通わぬ山奥、大自然と村人の懐で衣食住を共にし、感謝のミサを捧げ、祈り語り合い、汗を流して筆舌に語り尽くせぬ体験をしたのです。

 1日の終わりローソクの光でその日の体験を分かち合い夕の祈り…。まさに「Laudato si’」の醍醐味。その思い出を胸に、今は司祭、社会人として輝いて生きている事でしょう。

 先日、横浜の山手カトリック教会を訪問、タイで受洗し親しくしている友人夫妻と久しぶりに会い、ミサに与かりました。そしてミサ後、感動の出会いがあったのです。2012年2月末にコレジオ神学生と行ったメーニングクラン(บ้านแม่นีงกวาง)村の青年が、ミサに出ていたのが私だと確信して、聖堂前で待っていてくれたのです―人口48人12世帯の改宗したばかりのカトリックの小さな村、「ぜひ教会を建ててあげたい」とのナタポン神父の希望で訪れた村でした。その頃は少年だった愛称スマート君、ミサ中に私を見つけ、「モド(カリアン語でシスター)ヨウコだ!」と。

 彼は数年前、タイで現在の仕事に応募、今横浜で働いているのです。数人の神学生は叙階して立派なパド(カリアン語で神父)になっています。村人達の祈りの声援は今も届いているのを感じます。

 当時、「イエス様への同じ信仰が、私たちを出合わせてくれた」と、どこの村人も感慨無量で語ってくれました。時空も言語文化の違いも超えて結ばれ、共に祈りを捧げるカトリックのすごみですね。
タイでの宣教生活での一コマ、日本の青年たちとの山奥での思い出が蘇ります。イエス様を信じる喜びを胸に、日々復活の命を生きて行きましょう。Happy Easter !

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年4月5日

・カトリック精神を広める⑯ 聖人の奇跡について ―聖ドン・ボスコの場合

 今回は、サレジオ会の創始者聖ドン・ボスコの名高い奇跡を紹介したい。

   ドン・ボスコは、モンテマーニョというぶどうの産地の村に、8月15日の聖母マリアの被昇天祭(聖母が生きたまま天に昇られたとの信仰に基づく記念日)の前の3日間の黙想会に招かれ説教をしていた。この村ではもう3か月も雨が降らず、農家は困り果てていた。そこで、説教の最後に「皆さんが全員、この3日間の間に、赦しの秘蹟、告解をして、被昇天の日に全員、聖体拝領をするなら、その日に雨が降ることをお約束しましょう」と。驚いたのは、黙想会に招いた主任司祭である。

 「ドン・ボスコ、困りますよ、そんな約束をされては。降らなかったらどうしますか?」。ドン・ボスコは「大丈夫ですよ!」と一言。そんな会話をしていたということを知らない村の人々は、ドン・ボスコの言葉に従い、全員告解をして、15日の被昇天祭を迎えた。その日は朝からカンカン照りで、夕のミサまでに雨が降りそうにはまるで見えなかった。しかし、夕方になって、ボスコが祭服を着て、説教台に上ろうとしたとき、太陽が陰り始め、説教をはじめて数分で土砂降りの雨が降り出した。同じ3日の間、司祭の忠告を聞かずに飲めや歌えのお祭りをしていた隣り村では、雹が降ったというが、この村では降らなかった。

  思うに、ドン・ボスコが、雨を約束したのは、説教をしている最中に、神様からの天啓、インスピレーションを得たのではないだろうか。それで確信して雨の約束をしたと思われる。凡人と聖人の違いである。

  筆者の身近にも、聖人にふさわしい神父様がいた。2018年6月20日、享年87歳で亡くなられた、聖アウグスチノ修道会司祭、アルフレッド・バーク(Alfred Burke)神父様である。彼は、アメリカシカゴ出身の宣教師で、長く神奈川の大船教会や戸塚教会などで主任司祭を務めておられた。筆者の連れ合いは、彼に告解をしているときに、「長く子供が生まれないんです」と相談したことがある。神父様は「大丈夫ですよ。お祈りしておきますから」と答えられ、それから2年後に子供を授かった。

 また、ある知り合いのご夫婦は、当時、主任司祭を務めていた山手教会で、神父様の指導のもと、結婚式を挙げたが、彼らは異口同音「バーク神父様は聖人です」と事もなげに、はっきりと言っていた。また、ある時は、タイの教会で知り合った信者同士で食事会があり、バーク神父様を誘うということになったが、神父様は一言、「布教の機会になりますか」とお聞きになり、「なりません」と答えると、申し出をお受けにならなかった。他のグループも同様。つとに清貧の誉れ高い方だった。また、神父様は長い間、刑務所への慰問司祭を務められ、国から表彰されてもいる。

  現在、確実に天国におられ、神様への取りなしをして下さり、崇敬の対象となるところの「聖人」の位に上げて欲しい場合、我々はどうすれば良いか。自身が所属する教会の主任司祭に相談して、司教様に「調査委員会」を作るようお願いすることから始まる。司教様が承諾し、その国の枢機卿の承認を得れば、ローマ法王に正式な「調査員会」を作るようお願いすることになる。こうして調査委員会が作られ、聖人にふさわしいかどうかが調べられる。

  聖人になるためには、2つの奇跡が必要である。ここで活躍するのが漫画でも有名になった、悪魔の代弁者とも言われる「バチカン奇跡調査官」だ。真実の奇跡なのか、まやかしなのかを調査する。

  現在、聖人にふさわしいとして調査されている方々としては、筆者が知るところでは、江戸時代のキリシタン大名高山右近、サレジオ会の重鎮だったチマッティ神父、蟻の町で有名なゼノ神父や蟻の町のマリア北原 怜子(きたはら さとこ)氏などがおられる。

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ https://mori27.com

2025年3月31日

・神様からの贈り物⑳ 桜が咲くころの思い出、神様からのヒント探しを楽しみながら…

 桜が咲く頃になると、決まって思い出す出来事があった。

 20年以上前の私は、晴れて志望校に合格し、入学式を終え、学校のオリエンテーション合宿へ行った。クラスメイトたちは、まだ互いをそんなに知らない同士だったが、わさびソフトクリームを食べたり、夜中まで女子トークを続けたりと、まるで旧知の仲のように盛り上がった。学年全員が入れる大きなお御堂では、みんなで『ガリラヤの風かおる丘で』を歌い、初めてキャンドルサービスを体験した。小さな炎が、次々と広がっていくのを目の当たりにして、静かな感動を覚えた。

 私は、校長先生の講話が大好きだった。生きる意味や、自分らしさ、自己実現などを考え続けてきた私にとって、先生のお話は、興味深いものにあふれていた。

 合宿中のある日、クラスごとの集合写真を撮ったあと、私は個人的に、ツーショットで校長先生との記念撮影をお願いした。校長先生は、「私でいいの?」と少し驚かれた様子だったが、快く引き受けてくださった。とても嬉しくて、中学卒業直後の同窓会で、同窓生たちに校長先生との写真を見せて回った。

 帰宅後、私は舞い上がって、校長先生へ写真と共に手紙を書いた。「私はまだ祈りのことは、よく知りません。でも、マリア様は私にとって憧れの女性です」と書いた。校内には、赤ちゃんのイエス様を抱いたマリア様のご像がいろんなところにあったので、すっかり知った気になっていたのだ。

 後日、校長先生から、お返事が担任の先生を通じて届いた。きれいな便箋に、写真のお礼とこんな言葉が書かれていた。「聖母マリアは、私たちのどんな祈りも聞いてくださっていますよ」という言葉を読んだとき、私ははっとした。「そういえば、聖母マリアのことを『イエス様のお母さんだ』ということくらいしか、私は知らない… 顔だけでなく、耳まで真っ赤になるのを感じた。

  それから、入学時に生徒全員が買った聖書を、授業以外で初めて開いた。一生懸命読み進めたが、マリア様についての記述がほとんど出てこないことに気づいた。「カトリック信者の人たちは、どうやってマリア様を思い浮かべるのだろう? マリア様について知りたい!」と思った。

 知ったかぶりが、聖書を自発的に読むきっかけになったのは、思わぬ恵みだった。また、自ら気づき動けるような対応をしてくださった、校長先生の思慮深さには、頭が下がる思いだ。

 答えを与えるのではなく、自分で答えを見つけられるように導くのは、それを教える側にとって根気のいる作業だ。神様も同じ思いをされているかもしれない。ならば、日常には、神さまからのヒントがたくさんあるかもしれない。見つけようとすれば、見つかるはず。そのヒントを探すのを楽しみながら、毎日の生活を送りたい。

(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)

2025年3月31日