アーカイブ
・「愛ある船旅への幻想曲」(44) 世界的にリーダー選挙の年ーカトリック教会における女性の位置、役割は…
「政治活動を指導する究極的真理が存在しないなら、 理念や信念は権力の論理によって簡単に操作されてしまうことを知 っておく必要があります。歴史が示しているように、 価値観を持たない民主主義は、公然たる全体主義、 あるいはうわべだけは民主的な全体主義に簡単に変わってしまうの です」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅「新しい課題 国家と文化」46項)
世界的に政治リーダー選挙の年である2024年。9月は日本で与野党計13名のトップ候補が立ち、各々の政治理念と人柄を知る月になった。
ところで、私は、今は帰天されたある司教に「あなたは、政治的だ」と言われた。 慧眼と行動力を持つ司教からの指摘に「これは褒め言葉? それとも悪いイメージを込めた言葉?」と一瞬悩んだ。 当時の信徒代表会議の参加者の中で一番若かった(?)私は、今まで 経験したことのない会議風景の中、他委員のように信徒として10 0点満点の私的発言もせず、私の小教区評議会の議事録の 発表は、教会として次の世代を見据えた「画期的内容」だった。”目がまんまる”の委員方とは対照的に司教は笑顔。 聞く耳を持つ司教のおかげで本音でキャッチボールができた良き教 区時代であった。。
司教は2005年の教区民のつどいで、教会が現代社会と離れていることへの危惧を表明。「今の教会の状態を壊すことには勇気がいるが一人ひとりが動かねば なりません。信者も政治と向き合わねばなりません」と壇上から訴え、「10年後には教区の規模も小さくなる、 信者の高齢化そして青少年の教会離れが進み事業運営が困難になる ことが目に見えています」と警告された。
それから19年、 この司教の思いを何人の信者が心に留めたのだろうか。
私たちは生活を生かすこと。自分の生きている場所が教会であり、 そこが宣教の場である。気負わない霊性を持ち、 普通の生活、すなわち家庭生活へと思いを馳せる司教の精神的若さと 説得力が懐かしい。司教は、女性パワーの必要性、人権問題に言及された。
政界もカトリック教会も、女性の見方と役割を問題提起しているが、 私にとっては、“はて?”である。 その場凌ぎの数合わせに意味はなく、 男女の区別なく人には適材適所があるだろうし、体力的、 能力的にもその場に一番相応しい人が必要であり、 無理やりの理屈と行動は長続きしない、と思っているからだ。
教会の女性への扱いに今も古い体制が残っていることは否めないが 、教会と女性双方に問題があると私は思っている。女性の差別をなくすためには、男女の愛、夫婦の愛を正しく知るこ とではないか。互いの価値観を認め合い、信頼関係ができて初めて 其々がどうあるべきか、どんな役割を持っているのかが、分かるはず である。
独身者、既婚者関係なく、女性に文句を言われたことがない、 言わせない男性は、支配欲だけが育ち自分中心の人格になるだろう 。
なぜ、カトリック教会が「男性中心社会」と言われるのか。 キリスト教の核心は何なのか。教会が人格的形成を妨げることが決してあってはならず、 人間らしく生きることを教える場になってこそ社会に開かれた教会 になるのではないだろうか。
「夫婦と家庭は、信徒が社会的義務を果たす第一の場です。この義務 を十分に果たすには、家庭が持っている、社会と教会自体の発展の ための唯一でかけがえのない価値についての信念がなければなりま せん」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告「信徒の召命と使命 社会的義務を果たす第一の場である家庭」40項)。
(西の憂うるパヴァーヌ)
“シノドスの道”に思う⑯その2「今年6月に発表された『ローマの司教』を読む」
バチカンのキリスト教一致推進省が発表した150ページほどの文書『ローマの司教』を少し紹介します。バチカンのシノダルな取り組みの一端を知ることができるからです。
*ローマの司教(教皇)が「ペトロの後継者」であるとは・・
キリスト教会の歴史の中で、最も自分を偉いとして権力を振るってきたのは、やはりローマ教皇ではないでしょうか。シモン・ペトロにイエスは「私はこの岩の上に私の教会を建てる。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは天上でも繋がれ、地上で解くことは天上でも解かれる」(マタイ福音書16章16節)と言いました。歴代のローマ司教は自分こそ「ペトロの後継者」であり「ペトロの首位権」を持っていると主張しました。のちに教皇の紋章や三重冠には金と銀の鍵が交差して描かれますが、これは天国の鍵(霊的支配権)と地上の鍵(地上支配権)でしょう。
4世紀以降、ローマ教会には土地の寄進もなされ、5世紀、ローマ教皇は自らを「ペトロの代理者」と名乗り、8世紀には世俗的な領土として教皇領ができます。9世紀のニコラウス1世教皇は地上における「神の代理者」かつ聖俗領域において最高権能を持つと主張し、11世紀のグレゴリウス7世教皇は「キリストの代理者」として世俗権も教皇に従うべきと主張しました。1870年のイタリア統一以降、教皇領はなくなり、現在、バチカン市国となり、ローマ教皇はその元首の地位にあります。従って、ローマ教皇は、世界のカトリック教会の最高権威者であり、ローマ司教であり、バチカン市国の元首です。
*『ローマの司教』の副題は・・
『ローマの司教』の副題は「首位性とシノダリティ:教会一致の対話における、また回勅『一つになるように』に答えて」となっています。回勅『一つになるように』はヨハネ・パウロ2世教皇が教会一致を目指して出したものです。教皇パウロ6世は「教皇(の存在)はエキュメニズムにとって最も深刻な障害である」と言いました。
この『ローマの司教』という文書を読むと、バチカンがたくさんの対話を諸教会や団体と重ねてきたことがわかります。回勅「一つになるように」への諸教会の約30個の応答文書があり、そして約50件のカトリックと正教会やプロテスタント教会諸派との対話文書が元になっていて、それらを要約したのがこの『ローマの司教』です。長い時間を掛けて、謙虚に話を聴く姿勢で対話をしているのです。
カトリック教会の内に向けてのシノダリティの実践があり、外に向けてのシノダリティの実践がここに示されています。東方正教会、古カトリック教会、ルター派教会、イギリス国教会、メソディスト教会などなどと「共に歩む」シノダリティの実践がなされているのです。外へ向けてのシノダリティの実践なしにローマ教皇の「首位性」の主張はできないからです。外に向けての取り組みには教皇の諸教会訪問旅行や巡礼などがあり、また諸教会をローマに迎えて共に祈るなどの活動も含まれます。
*シノダリティとエキュメニズムは並行して進む
『ローマの司教』は近年のエキュメニカルかつシノダルな働きの結果です。パウロ6世は「教皇の首位性」を奉仕と愛の首位性として提唱しました。またもっと団体的な方法で首位性を行使するために「世界代表司教会議(シノドス)」を設立した。その第16回目の通常総会が今回の総会です。ヨハネパウロ2世は回勅『一つになるように』で首位性を一致の奉仕と愛に仕えることとして理解しました。教皇フランシスコは、キリストにおける全信者との対話に開かれることなしに「ペトロ的奉仕」は理解できない、とされ、シノダリティを重視されています。神の民の「信仰の感覚」に基づいたシノダリティです。
以下、カトリック教会と他の諸教会でどのような対話がなされたのか、一致する最大公約数的な点を紹介します。
*首位性(首位権)に関する4つの問題点
教皇の首位性・首位権の性質とその行使に関して4つの神学的な問題点があります。諸教会によって理解や解釈の違うところです。
1, 首位性の根拠とされるペトロ的奉仕の聖書的基盤 2, 首位性は神法か否か 3, 統治権・裁治権の首位性 4, 教皇の不可謬性
かつてローマカトリック教会は新約聖書のペトロの箇所を、ローマ司教の奉仕と直接関係させて理解してきました。特にマタイ福音書16章17~19節とヨハネ福音書21章15節以下。教父たちの著作の中で、ペトロに関する箇所は3世紀の初めから色々に解釈されて登場します。
イエスがペトロに向けて語った言葉は、信じる人の信仰ゆえに、すべての人に向けられている、また使徒の後継者である司教たち全員に向けられている、との理解も。あるいは、使徒ペトロという個人・人格そのものに向けられている、なぜなら彼が教会の岩・基礎とされたから、などの解釈があります。さらに、マタイ福音書18章18節では「司牧的指導者の責任は、ペトロに限らず、すべての弟子たち」に約束されている。エフェソの信徒への手紙2章20節では「使徒団全体」に与えられている。「復活のキリストによって福音宣教の使命は11人全員に与えられている」(使徒言行録1章2~8節)といった理解もあります。
*ペトロ的奉仕の後継可能性の問題
カトリック教会では、教皇自らが「ペトロの後継者」であると主張しますが、新約聖書でペトロの指導的地位を譲り渡す、後継を定める、といった明確な記述はない。また一般的に使徒的権威を委任・継承することを明確に書いた聖書個所もない、との見方もあります。 また、新約聖書にみえるペトロと、ローマ司教の働きを結びつけることは難しい。ペトロ的役割は必ずしも特定の座、特定の人と結びつかない一般的な概念ではないか、との考えもあります。
相互の助け合いや宣教の協働を促進することで、教会の一致を維持・促進することがペトロ的役割であり、奉仕であると。イエスは他者を支配するのではなく仕えること(ルカ福音書22章24節以降)を弟子や使徒に求めました。「初めになりたい者は最期の者にならねばならない」というイエスの教え(マルコ福音書9章35節)。だから権威は十字架の神秘とキリストのケノーシス(自己無化)と分かちがたく結ばれています。
「真に導く」とは、「他者に仕える」ことであり、「支配する」ことではない、というイエスの教えに従ってペトロの役割も考えねばならない、との意見もあります。ディアコニア(奉仕・世話・仕えること)は愛の奉仕であるので、権威・権力とは違うのでないかとの意見もあります。
*首位性は神に基づくものか、人に基づくものか・・
第1バチカン公会議は、ローマ司教の首位性は神法によって設立されたので、それは教会の本質的かつ取り消すことのできない構造である、と教えています。また第1バチカン公会議で教皇の普遍的な支配権の教えと、不可謬性の教義は一緒にドグマとして宣言されました。
しかし他の教会は、この「神的法による設立」という観念を伝統的に拒否し、また争ってきました。これは西方教会が歴史の中で主張し発展させたものにすぎない、と。東方の諸教会はローマ司教には「名誉の首位性」を認めるが、この首位性は歴史的な展開によってできた事柄であると考えます。従って神的ではなく人的な設立であると。
「神的設立」という用語(表現)がキリストによってそれが立てられたとか、それが聖書の証言であるとか、言うのではなく、「奉仕として仕えること」としての神的設立でなければならない。また「普遍的な首位性」がキリストによって立てられたとか、普遍的首位性が教会の源泉であるので、それなしでキリストの救いは与えられないといったことを神法は意味してはいない。司教の団体性と首位性は相互に関係し、不分離であることが神的設立であると考えるべきであろう。また「神法による」と「人法による」を分けることはできない。神法は人間の歴史によって仲介されるから、などなどの意見があります。
*不可謬性について
「不可謬性」については第1バチカン公会議の言葉は、第2バチカン公会議の啓示憲章と教会憲章の理解の仕方で再解釈されねばならない、とカトリックも諸教会も考えています。すなわち、教会の教える職務は、神の言葉の上にはなく、神の言葉に仕えることにあると。「不可謬」とは、信じる事柄において誤ることができないのは信者の全体であると。
またローマ司教の首位性・首位権を認めるか否かは、まず「神の民」がそれを認めるか否かにかかっています。アングリカン(イギリス国教会)などはそれを認めません。ギリシャ正教会も、神の民によって認められたものが、教会(公会議など)の決定の信仰上の不可謬となると。その意味で、エキュメニシティはシノダリティの有無にかかっています。
*統治権・裁治権の首位性
キリスト教の初めの千年間、東方の諸教会もローマの司教の「名誉の首位性」は認めていました。ローマ教会は上級審的な役割も果たすことが多かったので、ローマの権威は認めていましたが、「教会の統治の権威」を認めたわけではありませんでした。しかし今回のある対話で、「名誉の権威」は単なる名誉的な優位ではなく「実際に決定を下す権威」である、とし、「名誉」は実際の責任性と権威を含むことを認める、とする理解もあります。
なお、諸教会の交わりのあり方に関しては4世紀の「使徒的カノン34」(アンティオキア教会の規則集成の一部)が参考になると言います。すなわち、首位者と他の司教たちとの関係に関してですが、<司教たちは首位者を認めねばならない。重要なことは首位者なしに決めてはならない。各司教は自分の教区に関わることだけをすることができる。しかし首位者は皆の同意なしに何をすることもできない。> 首位者と他の司教たちの相互依存関係のあり方の一つのモデルがこの「使徒的カノン34」ですが、これはローマ司教と司教たちの関係にも言えるでしょう。
*首位性はシノダリティの一部である
1人(one)、数名(some)、全員(all)の関係を上下関係ではなく網の目のようなネットワークとして捉えることが第2会期の討議要綱第3部「場所」の個所で述べられています。ここで、首位性と公会議性は、エピスコぺ(監督)の相補的な要素ですが、同時に、神の民全体の参加がなければ、交わりの教会とはならないでしょう。
「首位性はシノダリティの一部である」ことを忘れてはなりません。それゆえ、権力の行使が自発的に限定されること、また教皇の栽治権の行使の限界のため、団体的統治の機関が有効に機能することなど求められます。チェックアンドバランスが必要です。またある対話で言われているように、(現行の)司教シノドスに加えて、カトリック教会の普遍レベルで、一般信徒も加えた新規「全体司牧協議会General Pastoral Council」を創設することも必要でしょう。
*将来の一致した教会では・・・
さて将来、普遍的レベル・世界的レベルで和解が実現した教会ができた場合、一致の奉仕はどのように行使されるのでしょうか?そこで、全教会のための首位性は必要であるか否かが、種々の観点から考察されました。
名誉の首位性、同等者間の首位性という意味では必要との見方もあります。「権力の首位性」ではなくです。かつて4世紀から7世紀において5つの総大司教座がありました。現在はローマの司教座のみが「監督」を今も行使しています。ローマはペトロとパウロが亡くなった地でもあるので、将来の一致において普遍的首位性をローマに認めてもよい、との考えもあります。司教としての権威は他の司教たちと同等である、どれか一つの司教座を中心とする必要はないが、将来の一致を考える時、一応、ローマを中心として考えてもよい、との意見もあります。
従って、全教会の等しい「交わり」の中に組み込まれた首位性でなければならず、たぶん「裁治権の首位性」が認められるには、相当の制限が必要でしょう。また、もし再合同した教会ができて、そこでローマの司教がその公会議を招集し主宰できれば、ローマ司教は普遍的役割を果たすことになる、と言えるでしょう。
(西方の一司祭)
“シノドスの道”に思う⑯その1「シノドス総会第2会期を前に、米国とドイツの教会はどのような歩みをしているのか」
日本のシノドス担当者は「霊における会話」を重視しているようです。「霊における会話」は、昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回総会の第1会期のための『討議要綱」に出てきましたが、討議するには、その中身があるはずです。ですから、『討議要綱』のA2.33の最後に「具体的行動に導く正確でしばしば予期しない方向に一歩前進することがなければ、それは霊における会話ではありません」とあります。具体的な課題や問題を「霊的な会話」を方法として討議するなら何がしかの「具体的行動」が一つの結果として出てくるはずです。そのことが、シノドス担当者、いや日本の司教団はどこまで分かっているのでしょうか。米国とドイツの教会の最近の歩みから考えてみます。
*米国の場合;第1会期後も多くの話し合いが・・
昨年、第1会期が終わり、その『まとめ報告書』がバチカンから出ました。その後、合衆国では76%の教区・主教区は、さらなる「聴く」機会を設けたのです。今年の5月までの短期間ではありましたが、1千以上の「聴く」集会、3万5千人超が参加しました。第1会期と第2会期の中間段階での取り組みです。
各教区は2,3回の「聴く」集会をするように、シノドスチームから勧められました。その具体的内容を少し紹介します。いろんなことで決断できないこと、教会が伝統的なことを変えていると思うこと、自分たちの教会の規則に反する現代的なことを教会が認めていることなどで、共同体の中に様々な緊張があることが明るみに出たなど。しかし「難しい主題について話し合わなければ、私たち
は機能不良の家族のようになるといった意見も。「他者の考えを聴くことは、挑戦だ。一致しない点が出ても、さらに大きな討議をする必要を見出す」…つまり具体的な問題を分かち合う中で、現在の緊張・不和は、将来の一段高い調和や真理の発見、そして兄弟関係につながるのだ、というのです。
また「聖職者主義」がどれだけ悪影響を与えているか、女性の能動的な参加が小教区や司教区その他でどれほど求められているか、典礼の問題、カトリック教会の社会教説を深めねばならないこと、性のアイデンティティの問題、性的虐待の問題、人種差別問題などなど。シノダリティが成長していくためには、教区や小教区レベルその他で、具体的で意味あるコミニケーションがなされ、共同責任がなければならないと参加者は主張しています。
私たちは具体的な問題で分裂や分極化が生じることを恐れがちですが、そうではなく、将来の一致・統合のための過程だと考えて避けてはならないことを、米国の例から学びます。そしてこの文書の中には一度も「霊的会話」なる言葉は出てきません!
*ドイツの場合;ここでも第1会期後、様々な対話が・・
同じくドイツの司教協議会も、総会第1会期のまとめ報告書が出た後、各教区に具体的に信徒を巻き込んでシノダル(共働的)な取り組みをするように指示しました。その結果、各教区は具体的に信徒を巻き込んでシノダルな動き、つまり全員参加を求めて対話をし、互いの意見を聞き、シノダルな仕組みや委員会の設置などが進みました。そうした中で「神は教会に何をするように求めているのか」という問いを草の根レベルで意識するようになった、と言っています。
そこには「霊における会話」も方法として用いたことが2回ほど述べられています。またどうすれば、多くの人々を対話やシノダルな構造に参加させることができるか、彼らを協議と意思決定の過程に誘い、また指導的な奉仕職もシノダルな共同体に統合できるか、など分かち合い、またいくつかの教区では新たにシノダルな団体を作ることもしています。シノダリティ(共働性)を考える上で中心的な課題は「参加」です。
さらに重要な問題として、女性に種々の奉仕職への参加の機会を与えることは喫緊の課題であると再度議論されています。日本にも当てはまる「虐待を生み出す構造」について、また、それに関連して「透明性と説明責任」なども話し合われました。
この文書の最後には「具体化」という見出しで13項目が挙げられています。「指導者の権威がシノダルに拘束されて行使される」こと、「教会における権力の分散、奉仕者の選任の際、神の民ももっと参加する」こと、「司祭の独身義務の見直し」、「女性が指導者の地位につけるようにする」ことなど。シノダルな教会になっていくには、このような問題の「具体化」を考え、また試行錯誤しながらも実行していくしかないのだと思います。
*霊的会話でも、内容を具体化することが必要・・
ドイツでは、7月9日の司教協議会のプレス発表で、ベッティング司教協議会議長がローマでの第2会期の討議要綱について解説しています。10月の総会第2会期では、これまで出てきた具体的な個々の改革すべき事柄を中心の論点にはせず、「どうすれば宣教的なシノダルな教会になるのか」がテーマだが、そのためには第1会期で出てきた問題提起の諸相を第2会期の集会で「構造化し具体化し」なければならないこと、そのために「関係」「方法」「場所」という観点から協議されるだろうことを述べています。
「関係」とは、教区、小教区、信徒を上下の列で考えるのではなく、関係のネットワークとして考える、「方法」とは、意思決定への全員参加や透明性と説明責任を持たせる、「場所」とは、信者が住んでいる具体的な場、文化や土地柄などの多様性を重視し、画一性を強制しない、などです。
そのあとにベッティング議長が2点述べています。一つは虐待や性的暴力行為は組織的な原因が考えられるのだから、その組織的原因を除去しなければならない(討議要綱の第75項参照)。次に、教皇は10個の作業部会を作って個々の問題を扱うことを決めたが、部会の具体的な説明はされていないし、どういうプロセスで、また人選はどういうふうに決めたのか、これは透明性と説明責任に欠
けることであり、こういった外部委託は「参加」の精神を損なうものであるので「変革」が必要であると。「具体的な変革なしでシノダルな教会のビジョンは信用できないし、シ
ノドスの道から力と希望を汲もうとする神の民のメンバーを遠ざけるものである、と(討議要綱の第71項)。
以上から、シノダリティを考えるには、まず具体的な問題や課題を考え、「具体的な変革」を考えることから出発するしかないのではないでしょうか。具体的な問題を主題化することなしに霊的会話も成立しないと考えます。
日本でも信徒と共に「分かち合い」などの「聴く」機会、「発言する」場をもっと提供していくべきでしょう。
*シノドス総会第2会期の討議要綱についての評価
ドイツの信者団体「我が教会」が総会第二会期の討議要綱をどう評価しているか、彼らのウェブサイトの7月9日の投稿を見てみると…。
「2021年10月に世界規模で始まった”シノドスの道”は、小教区から教区、国、大陸のレベルに、そしてローマへ、また地方に戻るといった循環的な、学習しながらの作業であり、まだその途中ではあるが、一定の評価はできる。しかしながら、第一バチカン公会議以降、君主制的、中央集権的でやってきたローマ・カトリック教会が抱えている組織的(制度的)な困難さは、今でもなお明白である。従って、今日の世界でそれぞれの『異なった文脈』に応じて、諸課題を正当に公平に扱うことのできる神の民の共同体になることは困難だ」としています。
います。
・討議要綱71項と72項の重要な部分は・・
71項には「(地域や文化といった)文脈の特殊性に適したシノダルな意思決定のプロセスに命を与えるためにあらゆる可能なことを実行することは地方教会の責任です。このことは極めて重要かつ急を要する仕事です。なぜなら今回の世界シノドスが成功裡に実践されるかどうかは、そこに掛かっているからです。目に見える変化がなければ、シノダルな教会の見通しが信用されることはないでしょう」。補完性(相補性)の原理によって、普遍的な事柄以外はもっと地方教会の自治に任せるべきでしょう。補完性の原理については、このコラム「シノドスの道に思う③」でも述べました。
72項は「“最後に、協議(諮問)、共同の識別、シノダルな意思決定という一連のプロセスが可能であるためには、それに参加する人々が、関連するあらゆる情報にもれなくアクセスできなければなりません。そうすることでその人々は自分自身の合理的な意見を構築することができるのです。・・健全な意思決定のプロセスには、そのための適切なレベルの透明性が必要です」とあります。
・「透明性と説明責任」を求めている点は評価できるが・・
討議要綱の文中に17回も出てくる「透明性と説明責任」に関する具体的な記載は、シノダルな教会の文化と実践には重要なことだと考えられ、また聖職者主義がはっきりと批判されている点も評価できる、と「我が教会」は言います。そして、「財政的なスキャンダルや性的虐待やパワハラなどによって教会の信用が落ちてしまったのだから、透明性と説明責任は、今こそ必要」とし、「透明性と説明責任」を明らかにするための効果的な形や手続きを展開していく責任は、「現地教会の組織や団体、特に司教協議会にある」と言っています。
同時に、「そこまで現地教会に責任を持たせるのなら、バチカンはドイツの”シノドスの道”の歩みを阻むことを、もう止めるべきではないか」とも批判しています。
・教会での女性の働きと地位については待ったなし
また「我が教会」は、「いわゆる女性の問題」について、討議要綱の姿勢を明確に批判しています。特別の研究グループという、いわば外部に任せるのではなく、第1会期と同様に第2会期でもシノドスの集会で取り上げるべきであると。なぜなら2021年に教皇が”シノドスの道”を始められる前から世界の各地の教会では女性の地位と奉仕職の問題が大きくなっていて、「教会は女性の大きな力、活躍を失うなら、教会自体が立ち行かなくなる」という危機感を持っているからです。
「バチカンが自分たちと専門家だけで重要な問題を審議&意思決定するのではなく、皆でシノダルに協議すべきだ」と、信徒たちは考えているからです。また女性たち、そしてノンバイナリー(男か女かという二分法に当てはめて性を考えない立場)に同等の権利を認めることは「教会の将来の存続問題」であると言っています。
日本もシノダルな教会になるために、米国やドイツの歩みを参考に、今からでも、少しずつ、しかし着実に司祭や信徒の間で対話や分かち合いを重ねていく努力が必要でしょう。
*諸文書はドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de 米国カトリック司教協議会www.usccb.orgから。
(西方の一司祭)
・カトリック精神を広める⑪ 神様からの呼び掛け:アウグスティヌスの場合
あなたは信じますか?神様から直接人間に呼び掛けることがあることを
アウグスティヌスの場合。アウグスティヌスは、カトリック教会で最も重要な哲学者、神学者の一人で、西暦313年にローマのコンスタンチヌス大帝によって、カトリックが公認された後の世界で、マニ教をはじめとした異端との戦いや三位一体といったカトリックの教義に重要な役割を果たした聖人であるが、実は、青年の頃は、性欲等の物欲や、マニ教との異端の教えに染まり、カトリックの熱心な信者であった母モニカを困らせていた。はっきり言って罪人であったが、32歳の時に、神からの呼び掛けに答え一大回心を遂げた。その経緯は、著書「告白」に詳しい。どんな経緯で回心を遂げたのであろうか。
32歳の時に、母モニカが、16年連れ添った素性のよろしくない女性と別れさせ、良縁を探してきたが、彼女はまだ婚期に達しておらず、2年待たねばならないという。性欲を我慢できない彼は、またしても情婦を探し、性欲を満たしていた。
良心の呵責に悩まされた彼は、たまたまアフリカから帰った友人から、荒野に住んで修道生活を送る修道士の話しを聞いて、「無学な者が奮起して天をうばったのに、私どもは学問がありながら、どこをのたうち回っているのか。血肉の中にではないか」(「聖人たちの生涯」池田敏雄著、中央出版社より引用)。
興奮した彼は、涙を拭おうともせずに外に走り出た。すると、隣家の庭で遊ぶ子供たちが「取って読め、取って読め」と繰り返し歌っていた。これを聞いたアウグスティヌスは、これは「聖書を開いて読め!」との神の命令と悟り、すぐに聖書を探して開いたところ、「ローマ人への手紙」13章12節が目に止まった。
「夜は更けて日は近づいた、だから、闇に行われる業(わざ)を捨てて、光の甲(よろい)をつけよう。昼のように謹(つつし)んで行動しよう。酒盛り、淫乱、好色、争い、妬み(ねたみ)を行わず、主イエス・キリストを着よ。よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな」(「旧約・新約聖書」ドンボスコ社)。
これを読んで、アウグスティヌスは回心を遂げたのである。
・・・・・・・・
初めての詩集を、Amazonkindleよりリリースしましたので、お知らせします⇒https://www.amazon.co.jp/dp/B0DHTWRHSK。詩の中の「神々の道楽」は、かなり衝撃的な詩ですが、これは作者自身を揶揄している詩ですので、驚かないでいただけたら幸いです。
・・・・・・・・
(横浜教区信徒 森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com)
・神様からの贈り物 ⑭校長先生から電話をいただき、22年前に戻った気持ちに
日が昇り、朝の家事を終えた頃、机に置いたスマホの着信ランプが光った。私の胸に、ドキッと緊張が走った。知らない番号からの電話だったからだ。過去に、迷惑電話が頻繁にかかってきた時期があったので、警戒心が強かった。
しかし、電話番号を検索してみて、驚いた。なんと母校の番号だった。留守電を聞いてみると、「校長です。あなたからのお手紙が届いたので、お礼に電話しました。もしよかったら、電話ください」というメッセージが残されていた。その声は、私の在学時に、教頭先生だった方の声だった。
私は、すぐに折り返し電話をした。自分の名前を告げ、つい先ほど校長先生からお電話をいただいたので折り返した旨を伝えた。事務員から「少々お待ちください」と言われ、ドキドキしながら保留音を聞いた。「私は、大勢いる卒業生のひとりに過ぎない。事務員さんが、直接、校長先生に取り次いでくれるなんてあるのかしら?」と気が気ではなかった。しかし、それは杞憂だった。
***
「三品さん? 私だけど。お手紙届きましたよ。素晴らしいですね!」
ごく自然な呼び掛けに、まるで目の前に先生がいらっしゃるような気持ちになった。懐かしい声に、胸の辺りに熱いものが込み上げた。
手紙を書いた経緯は、「カトリックあい」で書いたコラムを、先生にも読んでほしかったからだ。電話では、帰天したシスターのことや互いの近況などを話した。私は、しばし22年前に戻ったような気持ちだった。
電話を終える直前に、先生からある質問をされた。「あなたは、仕事についてはどう考えているの? 時々、卒業生が仕事を頼みたい人を探していることがあるんですよ」。そう尋ねられたものの、この言葉に、私はどう答えていいのか、分からなかった。
発達障害や学習障害などの診断がされてから、社会でうまくやれない原因は分かったものの、働く自信が、まるで無くなってしまった。心身の状態も決して良いものではなく、主治医から一般的な就労の許可は出ていない。それでも、私には社会の役に立ちたい気持ちがあった。
先生は、私の迷いを感じ取ってくださったようだった。「もし必要だったら、連絡しなさいね。それ以外でも、何かあったら、私に電話しなさいね」。その時、受話器の向こうからチャイムが聞こえた。学校の一時間目の授業が始まる時間だ。先生の声と鐘の音が重なる。先生は、「もう行かなくてはいけないけれども、あなたと話せてよかった。しっかり話せた。電話をくれて本当に良かった。いい? 何かあったら、電話しなさいね」と、念を押して電話を終えた。
目頭が、じわっと熱くなった。目の縁に、みるみる涙がたまっていくのがわかった。それらは、まもなくボロボロと音を立てるようにこぼれ落ちた。通話時間が12分◯秒と表示された。この短い電話が、凍った心をゆっくりと溶かし始めた。
***
あれから一年、私は今月、福祉的就労ができる作業所へ見学に行く予定だ。一般就労までの道のりは、まだ遠い。けれど、私は一歩を踏み出すことにした。次回は、先生に嬉しい報告ができそうだ。
(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)
・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」④ 「今、ここに在り、私の人生を生きる」
「今、ここに在り、私の人生を生きる」に限る―そんな思い を強くしながら、30年ぶりに乃木坂の修道院で生活しています。
東京・乃木坂の聖パウロ女子修道会を初めて訪れた時の、曲がりくねった同じ坂道 、上り切った処に修道院が在ります。尽きない思い出を懐かしみな がら上り下り、多少、「きついなぁ」と感じる様になりました。
久々に姉妹たちと母国語で、新鮮な気持ちで語らっています。目を 輝かせて、宣教の出会いの思い出を語る姉妹。本当に素敵な福音宣 教物語なのですが、私は既に暗記出来るほど繰り返し聞いているの です。鮮明に覚えている感動の思い出を、今を生き、語る隣人に全身 の焦点を合わせて聞く…、生きている実感を噛み締める日々です。
「今、ここに在り生きる」-開き直った姿勢でここ数年過ごしていま す。単純さっぱりの実感があり爽快です。「もう何度も聞いた、またか、時間がもったいない…」と考えたらイライラして、心ここに在 らず、という自分になりますよね。人生-時間、何のために?仕事? 効率よく生きる?ノルマを果たす?
長い人生でたくさんのことを学びましたが、無駄だと思える事、振 り払って生きてきた事々が、キラキラ輝く人生の星屑、大切に押しいただくようになりました。
* * *
タイを去る寸前、チャンタブリのカミリアン老人ホームを訪問しま した。尊敬するレナート神父が、60人のスタッフと140の要介 護の患者と老人たちのお世話をしています。自力で歩ける人、車椅 子で動ける人を除いて重軽度の介護が必要な人たちが大半。目と口 だけが動かせる人、寝たきりの人を時間の許す限り訪ねました。
何 もできないけど、側にいて「十字架のイエスと共に一番大切なお仕事 をしている」と拝む様な気持ちで、摩ったり手を握ったり、目をじ っと見つめて、信じる思いを捧げました。
レナート神父は毎日訪問して声をかけておられますが、入所者がど れほど喜んでいるかよく分かります。「スタッフは介護だけで手い っぱい。シスターみたいな存在が大事で望まれているんだけど…」
仏教徒が殆どですが、何人かの信者と朝ミサで会いました。近々洗 礼を受ける2人は、連日周りの人のお世話や話し相手、とっても優 しい笑顔で感心しました。折り紙を一緒に楽しみ、指ロザリオを造 って、欲しい方に差し上げました。皆さんお守りにして、嬉しそうに 指にかざして笑顔… ほんの数日間でしたが、タイ国民を支える合掌する手でもある人々に触れて、「お別れ出来て良か ったなぁ」と感謝です。
愛読者の皆さん、星屑を拾いながら、「今」に焦点を絞って、爽やか に生きていきましょう!
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
・シノドスの道に思う ⑮総会第2会期の準備要綱を吟味するー「シノダリティ」と「ヒエラルキー」は”競合”しないのか
ピウス12世(在位1939年~1958年)は「トリエント公会議からの路線を順守し、1947年、典礼に関する回勅『メディアトル・デイ』を出します。「教会は、神と人類を仲介する大祭司イエス・キリストの任務を継ぐもので、その中に典礼があり、祭壇の秘跡などに現存するキリストに人は活かされるが、それも祭壇の奉仕者を通してである」(第20項)など、権威的な教会観が述べられています。
「人を教え、統治し、犠牲を捧げる役目は、教会が持っており、そうすることで教会は創造主と被造物の間を再確立する」(第19項)。そして「教会は一つの社会であり、それ自身の権威とヒエラルキアを当然備えている。つまり神秘体のすべての構成員は同じ祝福を分かち持つが、同じ力(権力)を持つわけでも同じ行為をする資格を持つわけでもない。贖い主は、ご自分の王国が、ある仕方で天上のヒエラルキアに似た聖なる秩序(位階)の上に建てられ維持されることを意図された」(第39項)。だから、使徒と、彼らが按手した後継者だけが、祭司職の権能を与えられている… このような教会観は過去のものです。
一冊良書を紹介させていただきます。藤崎衛著『ローマ教皇はなぜ特別な存在なのか』(NHK出版)。わずか160ページの本ですが、ローマ教皇の権威・権力が西欧中世世界の中でどのように作られていったか学べます。
振り返ってみますと、教皇フランシスコは2015年10月の『世界代表司教会議(シノドス)設立50周年記念式典における演説』で、教会のあるべき姿が、「共に歩む」シノダル(共働的)な教会でなければならないこと、それは「聴く」教会であり、その運営方法は「すべての人に関わることは、すべての人によって承認されなければならない」が原則、と語られました。
だから教会は、基本的には全員参加で、意思決定の過程にも最初から最後まで信徒も関わることができ、透明性と説明責任を負っている。「この教会は、”逆ピラミッド”のように… 唯一の権威は、奉仕の権威であり、唯一の権力は、十字架の権力であるべきです」と。
2024年3月14日付けバチカンのシノドス事務局の文書『宣教するシノドス的教会になるには』には、「シノドス的次元と位階的次元は競合するものではない」-シノダリティ(共働性)とヒエラルキー(位階制)は競合しないと言っていますが、7月に出された10月のシノドス総会第2会期に向けた討議要綱はそうなっているでしょうか。
「カトリック・あい」には7月中旬から、すでに全文の日本語試訳が掲載されています(司教団の中央協議会ホームページには、いまだに討議要綱原文も日本語訳も載っていない)が、種々の活動を決める際の「意思決定の過程」に一般信徒をどのように参加させるかについて、どのように記述されているのかを見てみましょう。
「ピラミッド型」という言葉が出てくるのは2か所。第36項と第3部の冒頭部分です。36項では、聖職者の職務観を刷新して権力の行使をピラミッド型からシノダルな型へ移行させ、一般信徒のカリスマと奉仕活動を促す。責任分担をもっときめ細やかにすれば、「意思決定に向けて論じ合うdecision-making 」過程と「最終的に決定を下す(decision-taking 」過程をもっとシノダルな形にできるでしょうと。
第3部の冒頭では、小教区→司教区→教会管区→司教協議会→ 普遍教会といったピラミッド型に従って教会の活動や諸関係等を連続的な次元や段階で処理していくのではなく、また教会間の諸関係と活動を、直線的な形ではなく、むしろ網の目のようなネットワークとして捉えるべきだ、と言っています。
討議要綱に「逆ピラミッド」という言葉が見当たらないのは残念ですが、ピラミッド型から「奉仕するヒエラルキー」へという方向性はわずかながら感じられます。
シノダルな教会になるため、種々の活動を決める際の「意思決定の過程」に一般信徒をどのように参加させるか、その点がどう記述されているのかを見てみましょう。「意思決定のプロセス」を述べた67項から70項は特に重要です。
第67項 <シノダルな教会においては共同体の多様なメンバー全員が、祈り、聴き、識別し、司牧に関わる決定の際には助言することへ招かれています。このことが明確に実行されるべきです。そのためには、すべての人が、「意思決定に向けて論じ合う decision-making 」過程と「最終的に決定を下す(decision-taking 」過程に参加することが最もシノダルな教会になっていくには効果的であることは想像に難くないでしょう。この参加は、共同体の個々のメンバーを考慮し、個々の能力や賜物を尊重して、様々な異なった責任分担に基づいてなされるものです。>
⇒私のコメント:ここで「最終的な意思決定」過程にも信徒は参加するのが効果的とは言っていますが、参加させるとは明言していません。
第68項 <・・意思決定のプロセスがどのような形をとっていくのかを考えてみましょう。通常、意思決定プロセス(decision-making)は、識別、協議、協働を一緒に行なうという「参加と入念な検討」の段階を含んでおり、この段階はその後続いてなされる「意思決定」に情報を提供し支援します。この「意思決定」をするのは究極的には教区の司教などの権限を有する権威者の責任になります。・・・課題を遂行することは共働の仕事であり、決定は奉仕職の責任です。>
⇒私のコメント:要するに、「審議はシノダルに、決定は聖職者がする」ということのようです。これで納得する信徒はいるでしょうか。
第69項 <権威者は、意思決定する前に、諮問(協議)の段階を踏むことが義務となっています。この協議(諮問)や聴取を軽視することはできません。法的には諮問(協議)で得た意見に権威(者)は拘束されませんが、しかし全般的な意見の一致があるのなら、明白な理由がない限り(=自己の意見がそれに勝るものと自ら判断する理由がない限り)権威者はそれから免れないことになっています。もし権限を有する権威者がそれを無視するなら、権威者は諮問(協議)者たちから孤立してしまい、一致の絆を傷つけることになります。権威の行使は、恣意的な意思を押し付けることではなく、むしろ聖霊が求めることを共に探していく調停的な力となることにあります。>
⇒私のコメント:ここで「自ら」とは、言うまでもなく「司教など権限の保持者」です。司教は、「皆が優れていて合理的だ」という意見に逆らって、自己の意見に固執することはできない。しかし多数者の意見が何らかの拘束力をもたないと、司教が”我が道”を行く恐れは十分にあります。)
第70項 <シノダルな教会においても、決定(決議)は司教、司教団、ローマ教皇の責任かつ権利です。しかしその決定権・決議権は無条件ではありません。諮問(協議)の過程で適切な識別の結果として出てきた方向性は、—特にそれが地方教会の参加諸団体によって出されたものであるなら—無視されてはなりません。識別の目的は・・聖霊に従って皆で共有された決定に至ることです。教会において、審議は、皆の助けをもってなされ、かつ、その奉仕職ゆえに決定を下す司牧的権威者なしでは、なされないのです。このゆえに、教会法典に散見される定型句、「諮問投票権(参考投票権)のみ」は諮問(協議)の価値を貶めるものであるので、修正すべきです。>
⇒私のコメント:現行教会法典の「参考投票権のみ」は修正されるべきだ、と明言したことは改革への意志を示していますが、問題は、どのように具体化されるかでしょう。67~70項は結局、「ヒエラルキーの下でのシノダリティ」という構想のようで、その意味で「シノダリティとヒエラルキーは競合しない」ということのようです。
*ドイツが考える意思決定のあり方はどうなっているか・・
ドイツの提案(2022年9月8~10日 第4シノドス集会&フォーラム 教会における権力とその分散」)を紹介します。
教区レベル(小教区レベルも同様)で、既存の評議会や委員会、団体・グループ等からシノドス評議会を作り、教区の重要な事柄すなわち重大な人事計画や人事的開発、司牧計画、将来の展望、重大な財政的決議などを審議する。その際のプロセスは次に通りだ。
① 教区のシノドス評議会は自由・平等・秘密の投票で選出されるべきである。その構成は、教区の神の民をその種々の自発的なフルタイム勤務の団体と奉仕・役務と共に反映するものとなり、またできる限り性別的かつ年代的に平等に構成されるべきである。・・・
② 教区のシノドス評議会は、司教、及び、評議会によって選ばれた議長の二人が共同議長として運営されなければならない。
③ 司教が教区のシノドス評議会の決議(決定)を認めれば、この決議は法的に効力を持つものとなる。
④司教がそれに同意しないために、法的に有効な決議ができない場合は、新たに審議がなされるべきである。ここでも合意に達しないときは、評議会は三分の二の多数をもって司教の票を否定しても構わない。
⑤司教がこの決定をも否定したために、いかなる合意にも至らない場合は、調停の手続きが開始されることになるが、その場合の条件は前もって決めておかねばならないし、そのことにすべての関係する者が関わっておくべきである。
この「シノドス評議会」はすでに筆者がコラム「シノドスの道に思う➉」で紹介した司教に対応する「カウンターパート」を意味します。ここまですれば、「共同参加」「共同責任」と言えるでしょう。
以上のような協議と決定過程を、透明性と監視(スーパービジョン)を確保しながら行なうなら、司教の「一致の奉仕」もなされた、と言えると思います。
*信徒団体「我々が教会」の5つの目標&要求が達成されない限り、大量の教会離れは続く
話は変わりますが、以前も紹介したドイツの信徒団体「我々が教会Wir SindKirche 」の規約にある「5つの目標と要求」は次の通りです。
①兄弟的教会を造ること ②教会のすべての奉仕職を女性にも同等に認めること ③司祭に独身制を強制しない ④セクシュアリティをポジティブに評価する;良心の責任ある決定を認めること。
⑤脅すようなメッセージではなく福音を。
この5つの目標&要求に賛同する種々の団体や組織、有志を内に含んでいる団体(組織)が「我々が教会」です。ちなみに、筆者はこのコラム「シノドスの道に思う④」で倫理神学者へーリンクの考えが極めてシノダルなものであることを紹介しました。
へーリンクはこの「我々が教会」の一員でもありました。ドイツは2022年度に52万人の信者が、23年度には40万2694人がカトリック教会から離れました。死者も含めると、わずか1年の間にカトリック人口は59万人も減っています。「我々が教会」の5つの目標と要求が達成されない限り、教会離れは今後も続くでしょう。上述の「意思決定のプロセス」でも、聖職者と同等の権利を信徒に認めない限り、納得する信徒はいないでしょう。そして、このような問題意識が希薄な日本の教会は…
(西方の一司祭)
・神様からの贈り物⑭ 私に望まれることを受け取る心の余白を用意していたい
「なぜ、こんなことが、私に起きるのだろう?」普段なら流せる些細な、すれ違いやトラブルだとしても、それらが重なると、前向きに考えるのが難しくなってしまう。自分の信念に従って行動した時には、尚更だ。風船から空気が抜けてしまうように、あっという間に希望が消えてしまう。
きっかけは、理不尽な目に遭っていた仲間を、私が助けようとしたことだった。私の言動は、周りからは理解されなかった。「正しいことをしたのになぜ? 言わなければ良かった」という無力感が心を覆った。処理できなかった感情が積み重なり、いつしかそれらが生ゴミのように腐敗臭を漂わせた。
気持ちが沈む中、一生懸命に打開策を考えては実行した。けれども、一向に解決しなかった。「もう、できることはやった」-その自覚はあったが、どうしても諦めきれなかった。
考え込んで数日、「もうにでもなれ!」と降参するように、散歩に出た。目的地を特に決めずに、無心になってしばらく歩いていた。そんな時、急に頭の中にこんな考えが浮かんだ。「神さまは、私に何をお望みなのだろう? 私にどんな役割を果たしてほしい、と考えていらっしゃるのかしら?」。すると、爽やかな風や、緑のきらめき、広がる青空が、急に感じられるようになった。物事は何も解決していなかったが、生きるエネルギーが沸いてきた。
後日、先に記したトラブルは、意外な、良い形で終結した。また、その人が理不尽な行為に及んだ背景を知った。反省の言葉と謝罪を受け、その人の素直さに心を打たれた。人生何が起きるか分からないものだ。
こんなふうに「なぜ?」と原因を人間の視点で考えるのではなく、神さまの思いや望まれることに思いを馳せたとき、気持ちがすっと軽くなった。振り返ると、私の心は、自分の思いでパンパンになっていた。心に余白がなくなっていた。私を通して主の思いを実現させるため、私のやりたいことではなく、神さまが私に何を望まれていることに注目したい。そして、それをいつでも受け取れる余白と余裕を、心に用意していたい。
(東京教区信徒・三品麻衣)
・カトリック精神を広める⑩ 神様からの呼び掛けーマザー・テレサの場合
あなたは信じますか? 神様から直接人間に呼び掛けることがあることを…。
マザー・テレサは、ご存知のように、1997年に85歳で亡くなった時点で、123か国に3914人のシスターを擁する「神の愛の宣教者会」(公式ホームページ:https://www.motherteresa.org/)。に育て上げていた。日本では、1978年以降、東京都山谷、名古屋、別府の3か所に支部修道院を創設し、インドだけではなく、全世界で貧しい人々のために働き、1979年にノーベル平和賞を受賞された故マザー・テレサも、神の呼び掛けを直接聞いた一人である。聞くところによると、一生独身を通す神父様達も、神の呼び掛けを聞いて、神父様やシスターになる、という。そうでなければ、聖職を長く続けられないであろう。
マザー・テレサは、1910年8月26日ギリシャの北に位置するマケドニア共和国(旧ユーゴスラビア共和国)のスコピエに、建築家の父とイタリア出身の母との間で生まれた。姉と兄がおり、両親は、果樹園を経営し、裕福な家だったようだ。父母とも熱心なカトリック教徒で、18歳の時、シスタ―になることを決意したという。そのことを、彼女は「神がお決めになったのです」と「マザー・テレサ 愛の軌跡」(三代川律子訳、日本教文社)の著者、ナヴィン・チャウラ氏と語っている。19歳の時に希望してインドに派遣され、「神からの呼び掛け」を聞いたのは38歳、ロレット修道会がインドのコルカタで運営している女子の学校で、校長兼地理の教師をしていた時である。
1946年9月10日、黙想会に出席のため、コルカタからダージリンに向かう汽車の中で、「貧しい人々とともにいるキリストに尽くしなさい」という神の呼び掛けを直接、聞いたという。それも一度や二度ではない。
彼女の証言を聞いてみよう。
「内なる呼び掛けの声です。ロレット修道会での生活は幸せでした。しかし、それを捨てて、路上で暮らす貧しい人々のために働くように、と言う声がはっきりと聞こえたのです。呼び掛けが意味する内容はとても単純なことでした。私に修道院を去ることを命じていました。神は私にもっと何かを求めている。私に、もっと貧しくなること、そして神の姿そのものである貧しい人々を愛することを求めている、と感じたのです」(前掲書)。」
ロレット修道会を退会し、コルカタのスラムで、貧しい人々のために働く許可をローマの教皇庁から得るのに2年かかっている。
1948年8月8日38歳の時に、ロレット修道会の修道服をぬぎ、水色のふちどり、肩に十字架をつけた白いサリーを身にまとって活動を始めた。スラムで小さい学校を開いたら、初日に5人の子供が来て、その後は日増しに人数が増えていったという。
その後は、以下の4つの家を作って活動している。
・子どもの家(シシュ・ババン) ・親に捨てられた乳幼児の世話する家 ・死を待つ人の家(マザーハウス):病気や飢えで、死にかけている人々を看護する家 ・学校:スラム街で、貧しい子どもたちを集め、勉強を教える ・平和の村:ハンセン病の人々の世話をし、自立のために手助けをする
マザー・テレサは2003年10月19日教皇ヨハネ・パウロ二世により福者に列せられ、2016年9月4日に教皇フランシスコにより聖人に列せられた。
(横浜教区信徒・森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com)
(読者投稿)シノドス総会第2会期直前の今になって、「シノドス・ハンドブック」!ー〝周回遅れ”の日本の司教団
先日、中央協議会のホームページで「シノドス・ハンドブック」 が発行されたことを知った。目を通してみて即時の感想は… 案の定というべきか、期待外れの内容だった。
〇なぜこの時期に発行したのか。今年の始めに、 日本の教会でシノドスに取り組む3つの方針が出された。その一つが、 シノドス・ハンドブックの発行である。これを作成するのに、どうして半年もかかるものなのか。 10月の世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期の2か月前に出しても、地方の信徒に伝わるのは第2会期終了後になってしまうだろう。 どういう目的で、この時期に出したのか、理解できない。「霊における会話」 を信者に普及させたいのであれば、もっと早い時期、3年前に教皇フランシスコが”シノドスの道”を始められた段階で出すべきだったのではないだろうか。
〇この文書の作成者は「 日本カトリック司教協議会シノドス特別チーム」である。 ということは、 日本の各教区のシノドスへの取り組みを把握しているはずだ。いくつもの教区で、小教区レベルからの全信者が参加する取り組みが何もされていない現状を認識しているのだろうか。そのようなところに、 このハンドブックを送ってどうなるのだろうか。活用できないことは目に見えている。 日本の教会の現状を踏まえて行なう、という発想が欠けていると思う 。
かつて日本の教会にはそのような取り組みがあった。第二バチカン公会議の成果を受けた「全国福音宣教推進会議(NICE)」の運動である。「共に喜びをもって歩もう」という、まさに、現在の”シノドスの道”の歩みを始められた教皇フランシスコの思いを先取りした形で、「分かち合い」が不充分ながらも実践されてきた。「聞いて、 吸い取り、活かす」ということで「ともに」 福音の喜びを生きる道を模索してきた。だが、”高松教区問題”で司教団の歩みが乱れる中で、その運動はいつしか立ち消えになり、NICEを主導した故白柳枢機卿、森司教のようなリーダシップを発揮する人材も司教団に出ないまま、今に至っている、というのが実際のところだ。
〇教区間の格差に目を向けるべきではなかろうか。日本における具体的方針の中に「教区におけるシノドスの集いを、 できれば9月までに実施する」というものがあった。 日本の15教区の実状はどうだろうか。 シノドスについてほとんど語られず行動のない教区が存在している 。信徒の中には、「シノドスは既に終わっている」「 代表者が3月東京に行って参加してきた」ということで、 自分たちには関係ないという認識もある。「シノドスの集い」 を教区で取り組む予定も準備も信徒に知らせていないのが実状であ る。このことを「シノドス特別チーム」 はどのように考えているのだろうか。後は、 各教区の判断で済ませるつもりだろうか。
〇このハンドブックには「非売品」と表示されている。 今回のシノドスの重要性を考えるなら、 全信者に配付すべきではないだろうか。 読者を限定するのであれば、神の民の参加を望むシノドスの趣旨に反することになる。財政面の問題があれば、 廉価でも販売すれば良いことである。
先月にはバチカンのシノドス事務局からシノドス第2会期の討議要綱が発表され、 信徒も各自考えていくことになる。そのためには、その材料を「シノドス特別チーム」 は早く提供していくべきである。しかし、司教団の消極的姿勢は変わらない。そうであるならば、 信徒は自分たちで情報を集めて、分かち合うしかないだろう。
(南のカトリック教会の信徒より)
・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」③どんな状況にあっても、父なる神を信じて人生を踊りたい
仏教信仰の厚いタイ国に長年生活している間に、自分の信仰が少し 単純になったなぁ、とありがたい気持ちで思い返しています。
どこに行っても、目に留まる煌びやかな金箔と赤や派手な彩りの寺院 が、ここかしこにあり、信徒が普段にお参りして、線香を捧げ、額ずき、祈 る姿はたいへん印象的です。
多いなぁと思って、調べてみましたが、寺院は3万余。日本の寺院の方 がその2倍以上(僧侶は13万余)も多いのです。タイの出家僧侶 は29万余、早朝、霞んだ橙色の袈裟を纏い裸足で街を巡り歩き、 跪座して捧げ物をする人々のために念仏する姿、高層ビルがそびえる 大都会バンコクの巷に見られるこういう光景は、何と言い表したらよいのでし ょうか。
カトリック信徒の信仰生活も同じ様に、荘厳な飾り付け、聖体、十字架 や聖母子、聖画像に触れ平伏して祈る、感覚が生き生きとした信仰 の表現です。
生活の節々で神仏と関わり、目に見えない次元との行き交いを仲介 する僧侶、天と地の交歓を身近に感じながらの人生でしたが、タイ の信心雰囲気には終始、何故か馴染めませんでした。けれど、私の信 仰を深く、純粋に、研ぎ澄ませる励みになっていたことは確実です。
︎ 闇のどん底で私の信じる神は、私を『踊りませんか』と誘って くださる方か?「自分の拝む、自分の信じる神によって喜んで踊れ るか…恐ろしい神を信じている限りでは踊れません。要するに体が 動かないのです」(『踊りませんか』=理辺良保行著 あかし書房=より)
︎
タイに派遣される50歳頃から、この問い掛けはいつも、私の内にこ だましていました。「どんな状況にあっても、イエスが示された父なる 神を信じて、人生を踊りたい」-この私の密かな願いが、感性豊かなタ イの人々の信仰心に触れ、辿り着いた私の境地だと思います。
日本に戻って巷の純粋な信仰に触れました。『お祈りする時、住所 を言い忘れたんです』と先日あるご婦人との会話、え? 「たくさんの 方が祈るので自分の名前と住所をいつも言うんですよ、でないと神様が困る でしょう?」と。紙に描かれた十字架とマリア様を大事に隠し持って お祈りしている仏教徒の方でした。何と純な…感動しました。
久しぶりに乃木坂の修道院で姉妹たちと共に祈り、生活しながら、今 日-此処に-息吹いている素朴な信仰、本当に嬉しく思います。
水を掬うように大事に心にいただいて、爽やかな信仰の道を歩み続 けたいです。いかなる境地においても、人生を踊りに誘って下さる 方と共に、今を生きて捧げる、これに尽きるなぁ、と思います。
愛読者の皆さん、爽やかな霊の風に導かれ暑い夏を乗り切りましょ う。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
・愛ある船旅への幻想曲(42) 10月のシノドス総会第2会期を前にー60年前の第二バチカン公会議が目指した「開かれた教会」はどこに行った?
歳とともに暑さが身に応える。 愛猫と過ごす夏は、暑くても難なく乗り越えられたが、今年の夏に愛猫は居ない。。
愛し愛されたからだろうか。長患いもせず、 綺麗で見事な旅立ちを、私たち家族は彼から学んだ。 猫を持って、猫可愛がりを体現した14年だった。
ペットを飼ったことがない人たちはペットの死を体験することはな い。この寂しさに身を置くこともない。。
人間として生きていると、 何事も身を持って体験せねば分からないことが多いだろう。
動物観は、国や地方によって違うらしい。西洋人の動物観は、 旧約聖書の創造主である神が、全ての生き物を創った後に、神に似せて 人間を作り支配することを許したことから、 人間が支配するとされる。日本人の動物観は、 仏教の輪廻転生の考え方があり、 不殺生から人と動物とは同格とされている( 和辻哲郎哲学者ー動物観の形成に影響を及ぼす風土から)
そんな日本にも動物虐待が後を絶たない。 私が住む県にも、動物愛護団体が増えている。 私が知るシェルターには、世界各国からボランティアが来ている。 彼らの動物への愛は半端でない。以前は、毎年夏休みを利用し、 短期滞在のアイルランド人のカトリック信徒がミサにも参加されて いたが、今は外国人ボランティアがミサに与ることはない。 世界中で後を絶たないカトリック教会の性的虐待ニュースが世界各 国の若者たちに影響していることを、ここでも知る。
先日、久しぶりに会った女性信徒3人でランチを共にした。一人が言った―「私は今、 外国人のミサに与っているの」と。 暗に日本人が教会に居ないことを告げようとしたのだが。すると、もう一人の高齢女性が「教会の悪口はやめましょう」。この言葉に、先ほどの方と私は「これは“ 教会の悪口”⁇ 事実を伝えているのでしょう⁉︎」と反論した。すると、その方は、『教会に対 して絶対に負の発言はしないように。教会ってどういう所⁈ と思われるじゃない』と反撃された。
今の教会の状態を改善する気など さらさらなく、 閉鎖的で旧態依然とした教会で満足する信徒がここにも居ることを改めて知らされた。なぜ、カ トリックが「真実を隠す宗教」になってしまったのか。真実を言う信徒 の自由さえ奪い、「体裁だけのカトリック教会」を世に伝えようとする信者像 が社会で受け入れられるはずがない。
イエスは、なぜ十字架上で血を流されたのか。 今一度正しく学ぶ必要があるのではなかろうか。
司教、聖職者を含む信者の二極化から差別が生じ、真摯に教会を考える聖職者と信徒を無下に扱う教会で、司教に”付き従う”聖職者と信徒に、“隣人愛” を語る資格はない。自覚も反省もないままでは、今後、ますます信徒が減り、小教区、さらには 教区の合併再編が増えることだろう。
第2バチカン公会議を機に、世界に、社会に開かれた、全ての人々と共に歩む教会に向けた刷新が始まったはずなのに、60年経った今も、このような日本の教会の状況がある。その原因が、 今わかるような気がする。そして、 従来通りの教会を望んでいる信者たちを「保守派」として肯定的に受け止める風潮がある。何を持って『保守』と言うのか。開かれた、共に歩む教会にも、そのための改革にも興味がなく、「 自分に居場所のある教会」に安住しようとする信者たちを『保守派』 と”前向き”に呼ぶことに、私には大きな抵抗がある。
60年前と今の世界、社会は随分変わってきている。カトリック教会はどうだろうか。私は、教皇が2021年秋から始められた”シノドスの道”に、 どう対応すれば良いか分からなかった。適切な指導を信者たちにする指導者も教区にはいなかった。亡くなられた森司教から「開かれた教会をめざして―NICE1公式記録集」に目を通すことを勧められた。。
今も「聖職者中心主義」の指導者たちに委ねられた教会の姿が ある。私のように60年前に子供だった信徒は、 今の後期高齢信徒の聖職者への思いとは全く違うのである。「 神父さま〜司教さま〜」と目がハートマークになることは一切なく、「 悪いことは悪い。変なことは変」と、はっきり言う。そして、 嫌われる。結構なことだ。非人間的な組織が教会と呼ばれ、 頭ごなしに自分勝手な教会論を押し付けられる現状は、まだしばらく は続くだろう。しかし、 限界がもうすぐ来ることを忘れてはならない。
いついかなる場所であれ、 愛を持って綺麗な旅立ちをしたい私である。
(西の憂うるパヴァーヌ)
・映画がカトリックを広める ③モーセの「十戒」、「サウンドオブ・ミュージック」、そして「天使にラブソングを」
映画「十戒」といえば、名優チャールトン・ヘストンがモーセ役を演じている1956年版が有名である。映画では、旧約聖書の7つの物語、アダムとイブ、ソドムとゴモラ、ノアの箱舟、モーセの出エジプトなどの物語を、聖書の記述通りに正確に再現されている。中でも、エジプトを出たモーセとイスラエルの民を追いかけるエジプト軍の前に出現した、真っ二つに割れた海。そこを歩いて渡りきった彼らの前で、後を追うエジプト軍が、もとに戻った海に巻き込まれて全滅するシーンが、ことのほか有名である。
ところで、このような物語は単なる作り話なのだろうか。「単なる作り話ではない」と言うのは、大学受験で有名な故竹内均氏である。著書「地球物理学者竹内均の旧約聖書」(同文書院、1988年)では、紀元前1400年頃の地中海で起こったサントリニ島の火山大爆発による島の陥没、カルデラの生成などにより、実際に海が真っ二つに割れた事件が、モーセの出エジプトに記されている、と主張しておられる。
その他の物語も、実際に起こった事件が旧約聖書の物語に反映されている、という。日本の神話も、単なる物語ではなく、実際に起こった国誕生の事件が神話に反映している、というのが、もはや定説のようになっている。それはともかく、「十戒」を見れば、西洋人が話題にする聖書の物語が一通り理解できるので、教養として鑑賞してはどうだろう。
聖書物語などキリスト教そのものを表現した作品ではないが、カトリック精神が充満している映画としては、「サウンドオブ・ミュージック」をお勧めしたい。
ジュリー・アンドリュース扮する修道女が、見渡す限りの山の草原で歌い上げる、まさに、今でいえばドローンで撮ったような雄大な冒頭のシーンが有名だ。実は彼女は、毎回祈りの時間に遅れ、院長から「あなたは修道女に向いていない」と諭されていた。歌っているところではなかったのだ。
そうして7人の子供を持つ大佐一家に家庭教師として赴任する中での、恋あり、一家を捕らえようとするナチからの逃走劇ありの、実話に基づいた映画である。楽しい映画で、見たことがない人は是非鑑賞を勧めたい。実はこの映画の続編があって、ナチの追跡から辛うじてアメリカに逃れたトラップ一家がいかにしてアメリカで有名な家庭コーラスになっていくかが演じられている。
「天使にラブソングを」もいい。ギャングに追われた女性主人公の逃亡先の修道院の、あまりにも音程の酷いコーラスを立派に育て上げていく物語で、大ヒットし、続編が何編か作られている。
(横浜教区信徒 森川海守 ホームページ:https://www.morikawa12.com)