読者投稿の「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感です。第二バチカン公会議の「世界に開かれた、共に歩む教会」の精神を受けて、約30年前に日本の教会が取り組んだ「NIC
私の教区でも数か月前、司教と司祭たちによる「霊における対話」
司教と司祭のみの
私は自分の小教区共同体でも、10年前と比べて「シノダリティ(共働性)」が低下し
教区の号令を待っていては、いつになるか分かりません。「
テーマをしっかり決めて逸脱しな
森司教の「
(2024.7.5 東の教区の信徒、匿名希望)
読者投稿の「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感です。第二バチカン公会議の「世界に開かれた、共に歩む教会」の精神を受けて、約30年前に日本の教会が取り組んだ「NIC
私の教区でも数か月前、司教と司祭たちによる「霊における対話」
司教と司祭のみの
私は自分の小教区共同体でも、10年前と比べて「シノダリティ(共働性)」が低下し
教区の号令を待っていては、いつになるか分かりません。「
テーマをしっかり決めて逸脱しな
森司教の「
(2024.7.5 東の教区の信徒、匿名希望)
(Chris Kyogetu)
映画「クォ・ヴァディス」。ポーランドのノーベル文学賞作家、ヘンリク・シェンキェヴィチの同名小説を、壮大なスケールで描いた、今から70年前、1951年初上映の映画だ。ロバート・テイラー、デボラ・カー、ピーター・ユスチノフなど当時のハリウッドの人気俳優が多数出演しており、年配の方の中には、ご覧になった方も少なくないだろう。
「クォ・ヴァディス」はラテン語で「主よ!いずこに行き給うや」という意味だ。キリストがこの世を去り、残された弟子達が、当時の世界の中心であったローマにキリスト教を広めていく中で、暴君ネロにより迫害を被った。ネロが放った放火が、ローマの大火事となり、火事の責任をキリスト教徒に押し付けて、迫害されていく…。そのような中で、ローマの将軍とキリスト教徒の女性奴隷との恋愛をからめ、初期のキリスト教がどのようにして広まっていったのかが、この映画を通じて理解できる。
地下の共同墓地(カタコンベと言い、ローマ観光旅行の定番見学地となっている)で、キリスト教徒の秘密の集会が行われた場面が出てきたり、ローマのコロッセオで、どう猛な野獣とキリスト教徒の戦いが、ローマ市民の見世物になっていたりと、ローマ時代の様子を直に視覚的に理解できる映画にもなっている。カタコンベでの集会では、新約聖書に出てくる聖ペトロによるキリストご受難についての有名な演説が見ものである。
映画のタイトル「クォ・ヴァディス」は、大迫害の中、ペトロがローマから逃げていく途中で、キリストに出会う。その時、彼がキリストに発した言葉だ。この問いにキリストは、「おまえが行かないので、私は再度、十字架にかかりにローマに行く」と答え、それを聞いてペトロは、はっと我に返り、踵を返し、十字架の刑を受けにローマに赴く、というのが映画のストーリーになっている。いずれにしても、聖書には記述のない、シェンキェヴィチの創作ではあるが、私にとって、是非とも世の子供たちに見せたい映画の一つになっている。
(この映画のブルーレイディスクは、JR四谷駅真向いの「サンパウロ」で購入できる。)
横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com)
私の教区では、この2年間「シノドス」
日本では、全世界に向けて「開かれた教会」「共に歩む教会」となることを宣言した第二バチカン公会議の精神を受けて、約30年前に、全国福音宣教推進会議(NICE)という全国的な運動が進められ、教皇フランシスコが昌道される”シノドスの道”の原型ともいえる「共に喜びをもって歩む」分かち合いの実践が提唱されました。しかし、せっかく盛り上がりかけた運動は、その後の日本の教会、そのリーダーである司教団には、全く引き継がれず、運動を担った司祭、信徒も高齢化し、鬼籍に入られたりして、忘れ去られた状態のまま、現在に至っています。
そうした中での、「霊による対話」。本来なら、”シノドスの道”を実践する有効な手段にもなり得るはずですし、教皇やバチカンの意向もそこにあるはずなのですが、日本の司教団はその意向を十分に理解しているとは思われず、教区レベル、小教区レベルの準備もないまま形だけの全国集会をもったりしてはいるものの、信徒一人ひとりに浸透させるような努力は全くされていないようです。
なぜ、30年前の「共に喜びをもって歩む」NICEの運動が定着せず、消えてしまったのか。その反省もなく、教皇の意向を深く受け止め、末端の信徒一人ひとりに耳を傾け、心を開き、共に歩もうとする真剣な努力もなく、ただ、形だけ”シノドスの道”なのか。
ここにこそ、日本の教会の抱える問題、危機があるはずですし、教会の指導者たちは気が付いているはずなのに、真正面から取り組もうとしていません。昨年の前駐日バチカン大使の司教団への講話「シノドスとシノダリティ」が良いヒントを提供していたのに、司教たちはスルー(無視)してしまいました。このような状態では、「霊による対話」も忘れ去られてしまうでしょう。
NICEの推進役をされた故森司教は、著書「信徒の霊性」で、信仰の土台(根本)を分かりやすく説明されています。多くの司教や神学者に見られる、神学用語で煙に巻くやり方ではありません。今読んでも納得する箇所がたくさんあります。 その一つが
「(祈りが)たった一瞬でもよい、魂が神に向けられているならば、それで十分なのである」。
今の司教たちの中に、霊性を”冷静”に語る方がおられるのでしょうか。
(南のカトリック教会の信徒より)
筆者は二十歳前後の頃、フランシスコ会の修道院があった瀬田教会に所属していた。その頃はどこも、「青年会」の活動が活発で、神父様を交えた黙想会や、キャンプ等の催しがあり、所属する教会内での青年たちの交流が盛んだった。この時の青年会の面々は、50年経っても年に1回は集まり、懇親会を開いている。皆それぞれ、所属する教会で、会長になったりして、重鎮となっている。
しかし最近では物故者も増え、葬儀ミサなどの関係で彼らの子供たちの教会との関わりも明らかになったのだが、どの人の子供も、主日のミサに出ていない。すなわち、このことで判断する限り、自分の子供たちにカトリック精神を広めることができていない、ということである。中学1年の我が息子も例外ではない。日曜日に教会に行くことを嫌がるようになり、最近、教会に行っていない。
宗教を強制しないことがカトリックの良いところではあるが、このままでは、教会がじり貧となることは必定。そこで、どうやってカトリック精神を広めるかを考えてみた。筆者は、身寄りのない子や育児放棄された子供を預かって教育するサレジオ学園で小学から中学まで9年間を過ごし、色々なカトリックの教育を受けたが、その中で、カトリック精神豊かな映画を見せられ、感動した経験を持つ。それが、今の子どもたちにカトリック精神を伝える方策を考える場合のヒントになるかも知れない、と思い、学園で見て感動した映画を紹介することにする―「ベン・ハー」だ。
「男の中の男」と称えられる俳優チャ-ルトン・ヘストンが、エルサレムのユダヤ人豪商の息子、ユダ・ベン・ハーとしてイエス・キリストのご受難に合わせて物語が進行するこの映画は、私にとって今もって最高である。
映画の大筋は、次のようなものだ。
ベン・ハーは、ローマ軍の百人隊長のメッサラと幼なじみで、ある日、2階からローマ軍の馬の隊列を見学していたが、ふと触れた瓦が隊列の前に落ち、ローマ軍の一人が落馬するという事件が起きた。故意の事故ではないのに、幼なじみのメッサラが彼を助けず、家族全員が捕えられ、母と妹は牢屋に、ベン・ハーはガレー船の奴隷として、鎖につながれ、オールをこぐ奴隷になった。その戦いの中で、ベン・ハーが乗った船が火災に包まれ、船が沈没するという中で、ベン・ハーは、窮地に陥ったローマ軍の将軍を救ったことで、将軍の養子となり、奴隷から解放されることになった。
そんな中、たまたま、戦車レースがあり、幼なじみのメッセラと対戦することになった。この2頭の馬を操って競争する戦車レースが、CGを使う今と違い、本物を使っており、手に汗握る見応えのあるシーンとなっている。
戦いの後、ベン・ハーは、大けがを負った幼なじみのメッサラに会い、牢屋に入れられた母と妹が、重い皮膚病となって、人里離れたところに暮らしているのを聞き出した。密かに母と妹を連れ出したところ、途中で、キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘に行く受難に遭遇する。そうして、キリストが十字架上で亡くなる時、重い皮膚病を患った母と妹の体がどうなるのか。最後のシーンは感動ものであった。
この映画は、ユダヤ人とローマ人の友情と争い、それがキリストのご受難と重なり、なかなか見事なカトリック精神を広める娯楽映画となっている。作者は神様の助けを得て、この物語を着想したと、証言している。
(横浜教区信徒・森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com)
4月の日本の教会の祈りは、ご案内の通り、「日本の司教団アド・リミナ」だった。そこでは「日本の司教団がペトロの後継者との絆をさらに深め、よい牧者として日本の教会を導いていくことができますように」と祈るよう求めていた。
そして、アド・リミナ終了後のカトリック中央協議会ホームページでは「今年は、Covid-19の影響もあって、2015年以来の訪問でした。司教たちは、この機会を利用して、関係する教皇庁各省庁にも訪問し、日本での宣教司牧のため、情報交換などを行いました。 このアド・リミナが豊かな実りをもたらすよう、皆さん共にお祈りください」とあった。
9年ぶりのアド・リミナ。このように、繰り返し、信徒たちに祈りを求めているにもかかわらず、司教たちが教皇と、教皇庁各省庁の責任者と、どのような意見のやり取りがあり、どのような受け止めがされ、どのような成果を持ち帰ることが出来たのか、それをこれからの教会活動にどのように生かしていこうとしているのか。私たちの知りたいことは何一つ報告されていない。
これで、「豊かな祈りをもたらす」ように、共に祈ることができるのだろうか。
下世話な話かも知れないが、補佐司教も入れて17人もの司教団が、遠路ローマまで往復し、5泊滞在するのには相当額の経費がかかっただろうし、その全額は日本の信徒たちの献金からまかなわれたであろう。昨今の急激な円安でさらに経費は膨らんだであろう。全国の信徒たちに、繰り返し祈るよう求め、そのうえ経費まで負担させ… それだけ考えても、社会の一般常識では、その恩恵を受けた方々は、説明責任を果たす必要があると考えるが、教会ではそれが通用しない、いや、通用しなくて当然、と考えておられるのだろうか。
菊地・カトリック司教協議会会長の「週間大司教」や、中央協議会ホームページ、そしてバチカン放送日本語版の形ばかりの報道は「カトリック・あい」でも転載したが、閲覧件数を見ても、かなりの読者が関心をもって見ていた。しかし、肝心の中身は、音声なしの動画も含めて、皆無と言っていいほど。そして、いまだにそうだ。
菊地会長の「週間大司教」には、教皇からは「公式なスピーチはいらないから、じっくりと話を聞かせてください」と言われ、「それから1時間以上をかけて、日本の教会の様々な出来事について、司教たちが順番に教皇様に報告し、教皇様からもいくつかの質問があり、非常にリラックスした雰囲気の中で、共に分かち合う時間をとることができたと思います」とあり、「内容について記すことはできませんが」と念を押したうえで、「教皇様は日本の教会について、詳しく情報を事前に把握されており、具体的な質問がいくつもありました。あれだけ激務の中で、どうやって準備をされているのか、教皇様のその配慮に感銘いたしました」とある。
「内容について記すことはできません」というのは、教皇から、かん口令を出されたのだろうか。そうでないなら、一字一句でなくとも、教皇と司教たちとのやり取りの概要、あるいはポイントの説明がなければ、その場にいない信徒・聖職者は「感銘」のしようもないではないか。
シノドスの歩みも満足にリードできず、聖職者による男女信徒への性的虐待が相次いで訴えられていても適切に対処できないばかりか、無視あるいは隠蔽さえも耳に入り、長崎、仙台のように裁判所に訴えられて、損害賠償の命令まで受け、司祭の減少、高齢化の中で本来なら療養させるべき司祭に複数の教会を担当させざるを得ず、魅力を失った教会に若者の姿は減り、司祭志願者もなかなか出て来ない…という現状を率直に報告したのだろうか。
そのような報告がなされない限り、教皇やバチカンの幹部たちから適切な助言を得られるはずもないが。それとも、教皇は「日本の教会について、詳しく情報を事前に把握されていた」というから、そのような問題をわざわざ司教団側から説明する必要がなかったのか。いずれにしても、教皇からどのような示唆、助言があったのか、今後の教会のためにも、日本の全信徒、全聖職者と共有する必要があるだろう。
差し迫った課題として、司祭による性的虐待への対応がある。菊地・東京大司教、成井・新潟司教を輩出している修道会「神言会」に対して、原告被害者が損害賠償を求める裁判は、5月8日の午後2時から東京地裁第606法廷で第3回口頭弁論が行われる。被告側はこれまで代理人弁護士のみで、神言会の代表者は出廷していない。提訴されたことに不服があるなら、出廷して、堂々と反論をすればいいではないか。いや出廷は義務ではないか。
「カトリック・あい」には、ほかにも東京教区の複数の修道会がらみの聖職者による性的暴行被害の相談が2件、寄せられている。これまでのように、被害の訴えにまともに対応せず、無視、あるいは隠蔽の動きさえも聞こえる状態を放置しておけば、ドイツの教会で起きているような、まともな信徒の教会離れを加速する恐れもなしとしない。
9年ぶりのアド・リミナで司教たちは何を学び取ったのか、そして、それをもとに、このような問題も含め、これからの教会のために何をなそうと”決意”したのか。是非とも聞かせていただきたい。読者諸兄姉のご意見もお待ちしています。
*追記(5月25日加筆)*
以上を執筆後、西日本の友人司祭から、5月1日付けのカトリック大分教区報「こだま」534号のトップで、教区長の森山信三司教が「9年ぶりのアド・リミナ」というタイトルの記事を載せられたことを教えられた。部分的ではあるが、ご本人がどのように今回の訪問を受け止めたか、教皇やバチカン幹部の印象に残った言葉などが率直に報告されている。福岡教区も6月号の教区報で報告がされると聞いている。森山司教の報告は、「カトリック・あい」の「特集」欄に、大分教区の了解を得たうえで転載した。
本来であれば、司教協議会として、単なる”日程報告”ではなく、公式な報告として、日本の信者が目を通すことのできるような形で、具体的なやり取りをまとめ、参加した17司教の、森山司教のような報告も併せて、全国の司祭、信徒が”成果”を共有できるようにするのが、当然だろう。その司教協議会会長で、アドリミナの司教団団長を務めた菊地・東京大司教も、若干遅れて、インターネットのホーム・ページ「週間大司教」で「アドリミナを振り返って」の不定期連載を始め、5月25日現在、第六回まで続いている。5月25日から「カトリック・あい」では、シノドスの項目にまとめて掲載している。
内容はともかく、伝えよう、と言う誠意は見られるものの、見出しもなく、極めて読みにくい。しかも、「週間大司教」という、半ば非公式なページでの掲載であり、どれほどの信者が掲載に気が付いているのか、加えて、特に高齢の信徒は、インターネットのホームページを開くことも多くない。大司教がご自分でなく、アドリミナの広報担当を決めて、受け手の読者、信者に幅広く、分かりやすく共有する努力を司教団としてすべきではないだろうか。このままではせっかくの9年ぶり、多額の人的、物的負担のもとになされたアドリミナの成果を共有するには程遠い。
(「カトリック・あい」代表・南條俊二)
【読者から】
+5月号巻頭言、読ませていただきました。司教団、アドリミナ、本当に無駄ですね。彼らは自分たちが信徒をバカにしていることがわかっているのか?
+巻頭言を拝読しました。全く同感です。説明責任を果たそうとしない点については予想通りという気もして
「従順」の名の下に、司教には誰も意見を言わない(言えない)風潮が教区全体に蔓延しています。
+私は、毎月の巻頭言を楽しみにしている一人です。 9年ぶりのアド・