アーカイブ
思えば人生、生まれた時から「出る」「出会う」の連続であること
・神様からの贈り物 ⑱相手を信じて見守ること〜中学生の職場体験を見て思い出したこと
「困っている人を見守る」というのは、とても難しいです。どうしても、手を出したくなってしまいます。そこを、ぐっと我慢して、その人が自分自身で物事を解決できるよう、じっと見守る胆力をつけようと、日々挑戦中の私です。
***
先日、昼食をとるために入った店に、明らかに幼い顔の女の子が二人いました。ネームプレートに『職場体験生』の文字があり、彼女たちが中学生だと分かりました。その女の子たちが、店のスタッフと一緒に、私の食事をテーブルに運んできました。
服薬のためのお水を頼み忘れてたのに気が付き、「この子に頼んで大丈夫かしら?」と不安を覚えつつ、「お薬が飲みたいので、お水を一杯もらえますか?」と彼女の目を見て伝えました。一瞬、目がゆらりと細かく揺れたのが分かりました。後ろについていたスタッフが「氷をお入れしてもよろしいですか?」とフォローしました。「はい、お願いします」と、スタッフと職場体験生の両方の顔を見てから、伝えました。
そんな出来事があって、中学3年の時の私自身の職場体験を思い出しました。職場体験をする場所について、先生が、生徒たちの挙手で希望をとり、希望者の名前を白いチョークで黒板に書きました。私は、保育園での体験を希望していましたが、希望者が多く、じゃんけんで決めることになり、それに参加したくなかったので、希望者のいない花屋さんを選びました。
「 第一希望ではなかったけれどせっかくだから、頑張りたい」と思い、たくさん質問を準備して、花屋さんでの体験に挑みました。花屋のおじさんが丁寧に指導してくださり、メモを取る紙が足りなくなったほどでしたが、「熱心に聞いてくれて、うれしかったよ」とほめてくれ、水がいっぱい入ったバケツを運ぶ仕事を、私たち中学生に任せてくれました。
その時は、おじさんの意図が分からず、重たくて大変だった記憶しかなかったのですが、振り返ってみると、私たち中学生が転ぶかもしれないし、バケツをひっくり返して水浸しにしてしまうかも知れないのに、それでも、仕事を任せてくれたことを、今になって、ありがたく感じます。
***
神様は、私たち人間に自由を与えてくださいました。間違えるかもしれないし、失敗する可能性もあります。そんな人間を見て、危険から守るために、手を出したくなることもあるでしょう。それでも、私たちを信頼して見守り、成長を促してくださいます。また、何度失敗しても、決して見離さずに、私たちを見守ってくださいます。
だからこそ、私は今日も明日も、新しいことにチャレンジする勇気を持てます。いつも、私の可能性を信じて、見守ってくださる神様に、心から感謝!!
(東京教区信徒・三品麻衣)
・共に歩む信仰に向けて ② 「召命」のために祈る前になすべきことは…
*なぜ召命が減っているのか?
教皇の2月の祈りの意向は、「司祭職や修道生活の召命のために」だそうです。
日本も韓国も召命が減少する一方、ベトナムなど新興国では召命が続いています。先進諸国での召命の減少は、「経済格差の拡大、政治の不寛容、個人主義の増大、少子高齢化」が影響している、と言われていますが、もっと重要なことは、日本や欧米諸国のような民主制の国家が与える「人間の尊厳」や「基本的人権」を、カトリック教会が軽視していることではないかと思います。
「『民主主義を叫ぶ前に、神の意思を求めるべきだ』とか『シノダリティ(共働性)とは、議会制民主主義を教会に持ち込むことではありません』などと言う司教さんたちがおられますが、『民主主義の価値とカトリックの教えは両立しない』と刷り込まれているからではありませんか」と嘆く信者の方もおられます。私も同意見で、両立させない限り、召命はおろかカトリック教会は存続できないでしょう。
*現代民主主義国家と身分制的な教会の乖離
召命が減少しているのは、民主制国家のカトリック教会です。専制国家や独裁政権の国家では、個人の人権がカトリック教会以上に制限されているため、精神的な自由を求めてカトリック教会に加入したり召命の道を選ぶこともあるでしょう。
日本は戦後は民主主義国家に変わってきました。現在、教会に来ている人は70代、80代(1955年以前に生まれた人たち)が大部分ですが、彼らは古い価値観や身分制的な感覚が残っていた時代を生きてきて、カトリック教会のヒエラルキーや司祭と信徒の身分な区別を違和感なく受け入れる方も少なくありません。「神父様」という呼び方も不自然ではないようです。
しかし、徐々に民主主義が定着し、学校でも教師と生徒の区別や上下感がないほどになっている今、良くも悪くも民主的にならなければ、カトリック教会の教えも教会観も受け入れられる可能性は乏しいと思います。
*民主化されない教会は、人類の歴史の進歩から取り残される
吉田徹・同志社大教授(比較政治学)によると、世界で「民主国家」と「専制国家」のどちらが多いかというと、民主国家・地域は世界の半数しかない。欧米を見ても民主主義が危機にあることは、事実です。民主国家でも極右政党が躍進したり、独裁的、権威主義的になったりする現象が起きています。しかし吉田教授は「人類の歴史は、民主化の歴史です。それが他の動物と違う最たるものではないでしょうか。自分の運命は自分で決めたい、コントロールしたいという根本的な欲求です。人が人であることを突き詰めると、民主主義という政治体制が望ましいと思うのですが」とも言っておられます。
「人類の歴史は民主化の歴史です」という言葉は重要だと思います。民主主義は個人の尊厳、個人の自主性を主張するものと言えます。国民一人一人が「自由、平等、相互愛」を生きれるようにすること、そのことに寄与しないどころかヒエラルキーを当然とする教会に、誰が喜んで来るでしょうか。このままでは、日本や欧米など民主国家にあるカトリック教会は信徒も司祭の減少は加速するかもしれません。
*インカルチュレーションの必要
ドイツのシノドスの道が示したように、カトリック教会は民主主義社会にインカルチュレーション(文化内在化。文化の中に入っていくこと、歩調を合わせること)していかなければなりません。前にも紹介したドイツの「シノドスの道」、2022年の春と秋2回のシノドス集会で現行の教会法典とは別に、全信者の基本的権利を明記した「教会基本法 a Lex Ecclesiae Fundamentalis」を作るべきだ、ということが議決されました。
聖職者だけでなく、信徒も等しく自由で平等な権利を持っていることをまず第一に明記し、すべての人がそれぞれのカリスマをもって宣教の使命を果たせるようになるために自由な発言権を持ち、キリスト教のメッセージについての共通理解を持ち、教会の奉仕職(役務)にジェンダーの違いや既婚・独身の違いを超えて参加できるように規定すること。
このような基本法が地方教会レベルでも普遍教会レベルでも必要だと思います。その下に現行の教会法典を位置づけるくらいのことをしないと、民主主義社会に生きる人間にはカトリック教会は受け入れられないだろうと思います。
*民主主義と共存してシノダルな実践を
ドイツのシノドスの道が構想する「教会基本法」と教会法典の関係は、例えて言えば日本の憲法と諸法律の関係に近いと言えます。近代の憲法は国民の権利や自由を守り、為政者を縛るものです。その下で国民は刑法や民法などの諸法律に従って生きています。同様に、教会基本法によって教会内の個人の権利と自由を守った上で、教会法典で全信者のあり方をシノダルに規定し直すのです。何が神の意思なのかをお互いに問いながら教会のあり方を決めていく。司教や司祭が特別神に近いわけではありません。そうすれば民主主義とカトリック教会は両立・共存できるはずです。
*教会は消滅の危機に
最近は「聖年」ということばかりが多くの司教サイドから発信され、2023年、2024年と開かれた「シノダリティ(共働性」のあり方をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)通常総会の最終文書は、「カトリック・あい」が全文試訳を出して2か月たった今も、司教団から翻訳は出されず、そればかりかこのシノドスそのものが、早くも忘れ去られようとしている感があります。
シノダルな実践を伴わない「召命のため祈り」は空しく響きます。そうした中で、最近、ある女子修道院は一年かけて閉鎖することが決まったと聞きます。閉鎖予定の修道院は、あちこちにあるのではないでしょうか。
私は最近、一人の女性信徒(80代半ば)の葬儀をしました。その方には娘がいて幼児洗礼は受けているが教会からは離れていた。葬儀担当のある信徒が、その娘さんに「告解をして、ご聖体をいただけますよ」と誘ったのですが、娘さんは丁重に断っておられました。お孫さんたちも洗礼は受けていませんから、親族は誰も聖体拝領をしません。母親の信仰を尊重して、葬儀ミサを教会に頼んだ、ということでしょう。このようにカトリック信仰は広がっていかないのです。福音中心に、シノダルに改革されることを望みます。
*引用:毎日新聞連載 デモクラシーズ 世界の人類では少数派「それでも民主主義がいい」のはなぜか
*ドイツの「教会基本法」については 、www.synodalerweg.de
(西方の一司祭)
・「愛ある船旅への幻想曲」(48) カトリックの信仰と教会が別個にならないように
「カトリックあい」の新年1月の巻頭言を読ませていただいた。執筆、編集者の方々の働きには敬服しかない。「カトリックあい」は、 社会に適合したカトリック系独立インターネット新聞であると私は 思っている。
私が所属していた小教区は、某宣教会の司祭たちが司牧していた。それが、 ある日突然、教区管理となった。 信徒たちが知らないだけで、水面下では何かが動いていたのだろう。教区の方針が次々に伝達されて、 あまりの変わりように、私たち信徒は面食らった。ましてや、 他教区司祭が転任して来られての”教区の教会” のスタートだった。
長く小教区に属していた信徒たちの戸惑いは、怒りとなり、「教会に文句は言わないけど、献金も金輪際、しない!」と訴えた。教区会議に出席した私は、「 宣教会から教区になったら何がどう変わるのですか?」 と質問したが、「何も変わらないし、 いつでも、宣教会に戻れます」と笑いながらの答えが返って来ただけ。だが、実態は、決してそうではなかった。 今は亡き信徒の方々の無念さが、よく分かる。
他の信徒たちにとっても「教区って何?」という状態であった。 教区司祭と宣教会司祭の役割や立場が違うことなど、知るすべもな かった。
そして、教区の会議報告・ 議事録が小教区には発表されず、会議に参加していない宣教会司祭に も伝えられない状態が続いていた。その後、いくらか改善されたものの、教区が作成、発表した議事録に書かれたやり取りが、信徒が報告した内容と違ったことがあった。この時は、教区の議事録の方が正しいとされたが、このような食い違いがあってはならない。教区会議に出る 信徒代表は信徒たちの意見を把握し、結果も正確に報告することが重要だろう。
後に、自分自身が教区の会議に出席するようになったが、回を重ねるたびに「 おかしい!」と思うことが増えた。だが、 質問しても納得できる答えはなく、カトリック組織の在り方に幼稚さ を感じ続けた。会議の大半の時間は会計報告にあてられ、討議すべき議題は後回しだ。他の出席者たちも、「 教区の会議はお金しか興味がないのか」と疑問を呈していた。
私たちは「 小教区あっての教区でしょう」 と小教区が財政的にも自立を保てるようにするよう主張し続けた。だが、”トップ集団”から、「そうじゃない。教区あっての小教区だ」と一蹴され、「 そんな信徒はいらん」とまで言われた。 全ての小教区の運営が困難になったら、教区はどうなるのか、 私たち信徒は百も承知だった。
そして、「教会とは何?」と考えるようになった。 森司教様の著書を読んでいた私は、ある日,『カトリックあい』 に出会った。その後、当時の担当司祭が「 森司教を黙想会指導にお呼びしましょうか」 と言われた時には、私は飛び上がって喜んだ。そして、私は森司教様本人と出会ったわけである。1対1で話をする機会があり、初対面の私に「あなたも書きなさい」 と言われたことが頭から離れず、、 今やこのように辛口コラムを書かせていただいている訳である。
私とて、 カトリック信徒として”ほんわかしたこと”を書こうとは思うのだが、「地方信徒の教会離れにはそれなりの原因がある、 このままの教会でいいのか」と、捨て身覚悟の投稿を続けている。
カトリックの信仰と教会が別個の状態にならないように、と願い、 今日も「人間らしく自然体で生きていければ幸い」と思っている私であ る。
(西の憂うるパヴァーヌ)
・カトリック精神を広める ⑮ミレニアル世代で初めての聖人に注目
今年、ミレニアル世代(誕生年が1981年以降で2000年代 で成人または、社会人となる世代)の最も若い「 スニーカーの聖人」が誕生する。
カトリックで言う聖人は、亡くなった後に与えられる最 大の名誉で、賞の性格が異なるものの、生前に与えられるノーベル 賞よりもはるかに格が高い。今年2025年、1991年生まれで、2006年15歳の時に、 白血病で亡くなった福者カルロ・アクティス氏が聖人の位に列せら れる予定になっており、ミレニアル世代生まれが聖人になるのは今 回が初めてという。
以下は、ウィキペディアやCNN等より引用。
福者カルロ・アクティス氏は、1991年に英ロンドンで生まれ、 幼少期にイタリア人の両親、アンドレア・アクティスとアントニア ・サルツァーノとともにミラノに移住。彼は、 どこにでもいる若者で、スニーカーをはき、ジーンズやスウェット シャツを着用し、「スーパーマリオ」や「ポケモン」 を楽しむゲーマーであった。「歴史上初めて、ジーンズやスウェッ トシャツを着た聖人」、「スニーカーの聖人」となる予定である。
彼は、独学でプログラミングを学び、『現代社会において教会に来 る人が少ないのはご聖体のうちにイエズス・ キリストが現存することを信じない人が多いからだ』と考え、9歳 の時にご聖体の奇跡の研究に着手し、世界各地で発生した「ご聖体 の奇跡」を収集したウェブサイトを誰の力も借りずに自力で立ち上 げ」(カトリック・アクション同志会公式ホームページより引用) 、コンピューターの技術を使ってカトリックの信仰を広めたことで 「神のインフルエンサー」の異名を取った。
また、両親が離婚した クラスメートを支えたり、いじめられている障害のある仲間を擁護 したり、ミラノの路上生活者に食事や寝袋を提供する活動も行って いた。聖体の秘跡への賛美と聖母への崇敬が深く、 毎日ミサに参加し、ロザリオを唱えていた、という。
福者カルロ・アクティスが作成したウェブサイト<http:// www.miracolieucaristici.org/en /Liste/list.html>より。
2006年10月に白血病を発症。病気の苦しみを教皇と教会のた めに捧げ、同月モンツァのサン・ジェラルド病院で死去。 ミラノのサンタ・マリア・セグレタ教会で葬儀が行われ、 遺体は埋葬された。12年後、聖人の位に上げるのにふさわしい人 かどうかを調べるために、2019年1月に遺体が発掘された。 この時、聖人と認定される人がそうであるように、防腐剤等の死後 の処置を施していないのに、遺体が腐敗せず、現在は、 アッシジのサンタ・マリア・マッジョーレ教会で、そのご遺体を見 ることができる。
ところで、聖人の位に上げてもらうためには、死後2つの奇跡が必 要で、アクティス氏の最初の奇跡は、ブラジルの7歳の少年が亡き アクティス氏のTシャツに触れた後、難病の膵臓疾患から回復した ことである。これが奇跡であると教会に認められ、アクティス氏は 2020年に列福され福者となった。もう一つの奇跡は、頭部の外 傷から脳出血を起こしていたイタリア・フィレンツェの大学生を癒 したことが、教会により第二の「奇跡」と認定された。
[cid:image001.png@01DB720C.CDC C64A0](「Holyロザリ屋」HPよりスクリーンショットでコピー)
—————————— —————–
森川海守(舟木賢徳)〒247-0051 神奈川県鎌倉市岩瀬925番地 レーベンハイム鎌倉マナーハウス402号 TEL:0467-67-3419 携帯:080-5378-2327
Email funakiken@hotmail.com<mailto:f unakiken@hotmail.com>funakiken@jcom.zaq.ne.jp
HP https://morikawa12.com<https: //morikawa12.com/> X(ツイッター) https://x.com/morikawa121a カクヨム https://kakuyomu.jp/users/mori kawa12
・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑧新年も、燃えて、輝いて、命いっぱいの人生を生きたい!
謹賀新年-久しぶりにこの言葉を心底味わいながら、 清々しい気持ちで、日本での正月を迎えました。乃木坂の修道院で、 姉妹たちとすき焼を囲んで語らいながら… なんとも嬉しいですね。
八十路の祖国での宣教再出発、燃えています。 イエス様の喜びと平和の福音を胸とカバンに詰めて、 今年の聖年、「希望の巡礼」の年を歩み始めました。初日曜、 市川カトリック教会に出かけミサに与り、新刊『 声に出して読む7歳からの聖書』と『 愛と平和の使者マザーテレサの日めくり』(私の書) の2冊の本の紹介展示即売。教会の皆さんとの新年の出会いと初売り、晴佐久神父様の説教と『 行きましょう…』に激励された嬉しい出初式でした。
年末年始、 改めて亜熱帯気候での来し方を、ぶるっと身震いしながら思い出して います。タイ国での宣教の日々、 出会った人々が走馬灯のように浮かんできます。 全てが神様の深い摂理のご配慮の裡(うち)にあり、今日に至った事、 感謝と賛美のひと言です。
過日、国際NGOのWorld Vision のスタッフ養成のため、宣教体験から私が生きた『塩と光』 について話す機会がありました。このNGOは、キリスト教精神に基づいて、緊急人道支援や途上国援助をしたり、市民社会や関係国政府へ支援を働きかけたりしている機関で、対象国は100カ国に上ります。
このNGOの職員としてカンボジアで働いていた方が、タイに立ち寄られ親しくなり、私が日本に帰ったのを知り、 話を頼まれることになったわけです。出会いの不思議!
『塩』は、ほんの少し、人生をおいしく味付けし、 役割を果たしたら見えなくなる…。『光』 は出会う人々の道を照らすために、 蝋燭のように『私』を灯しながら生きる—確かに、私の全てを精一杯、灯して、溶けて、生きて、消えていく人生でした。 神様ありがとう、出会ったすべての人にありがとう。
新しい年も、燃えて、輝いて、命いっぱいの人生を生きたいと思います。コラムを愛読してくださる皆さん、心よりの祝賀とお祈りを捧げています。
『汝らは地の塩なり、世の光なり』(マタイ福音書5章13-14節)。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
・ガブリエルの信仰見聞思 ㊳新年の抱負を立てる意味は
*一年の計は元旦にあり
新しい年の始まりに、仕事や勉強、ダイエットなど、様々な新たな目標や挑戦のために計画を立てる方が多いのではないでしょうか。一方「「新年の抱負なんて馬鹿げている」とお思いになる方も少なくないでしょう。
そもそも、新しい年が始まる日付は、様々な背景や理由により実は恣意的なものなのだ、といわれています。例えば、バビロニアや古代ローマでは3月(マルティウス=Martius)、ドイツやイギリスは13世紀まで12月25日のクリスマス、中国では太陰暦の月の満ち欠けの周期をもとに、設定されています。そして、我らカトリック教会の典礼暦では、待降節初日が一年の始まりとされています。従って、新しい目標や抱負を立てるのに、わざわざ1月まで待つ理由はない、というわけです。
また、世の中で行われてきた多種多様な調査をみると、「私たちが立てた新年の抱負の概ね90%以上は、その1年を通して持続しない」ともいわれています。とりわけ1年の変化が急激で、自分の身の回りも社会全体もあっという間に変わってしまう今日の時代において、はたして「一年の計は元旦にあり」に意味があるのでしょうか。それでも、1月1日に自分の人生や生活に変化をもたらすような目標や抱負を立て続けおられる方が、少なくない。いろいろ言われているにもかかわらず、「それが素晴らしいことだ」と私も思っています。
*希望を持って、新たな出発
新年の真の目的は、単に暦の変り目を告げることではなく、私たちの心と視界の再生に火を付けることだ、と思います。新年は、私たちに「新しい視点を受け入れ、新たな決意で前進し、勇気ある気概を強めるよう」と呼びかけています。新たな耳で聞き、明るい目で見、生きることの素晴らしさを再発見することを促しています。
なぜなら、果敢な抱負がなければ、私たちは立ち止まってしまう危険があるからです。人生そのものが真新しいかのように、あえてもう一度始める勇気がなければ、変革の深遠な力を逃してしまいます。真に生きるとは、新たに出発することであり、神聖な刷新の可能性を受け入れることであり、天国の約束に一歩でも近づくために、希望を持って、新たに思い描かれた人生へと歩みを進める希望なのだ、と思います。
主イエスは言われました。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)。希望は、私たちを新しい人間にしてくれます。「明日も昨日と同じに違いない」、「人生は決して変わらない」と考えるのは、「心の中で死ぬこと」と同じではないか、と思います。新年の抱負のような単純なものでさえ、神が私たちを希望の被造物として造られたことを認めることではないでしょうか。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、日本に住むカトリック信徒)
・竹内神父の午後の散歩道 ㉙年頭に…平和を願い求めて
年の初めにあたって、改めて思いを馳せること—それは、平和です。いったいどうなってるんだろうか、と思うほど、世の中は、争い、不和、そして戦争に満ちています。それらが本来は良くないことだと分かっている(だろう)にもかかわらず、なぜ人間は、これほどまでに愚かなんだろうか、と思います。
平和はしかし、何も国や民族のレベルだけのことではありません。一人ひとりの人間関係においても、さらには一人ひとりの人間においても求められます。つまり、今自分の心は穏やかであるかどうか、ということです。もしそうでなければ、人との平和な関係を築くことはできないでしょう。この不確かな自分を、いい点も悪い点も含めて、とりあえず受け容れられるかどうか、ということです。自分が自分と対立し合っているかぎり、私たちは、決して平和を享受することはできません。
もし自分の中に平和を見出すことができたら、次は家族、学校や職場と少しずつ半径を大きくしていき、やがてそれは世界レベルにまで広がります。すべての人が、一つの中心を見定め、それを大切にしようとするなら、たとえ時間や労力がかかっても、平和の実現は不可能ではないでしょう。そのために、自分は、何を考え何を思い、そして何を行うかが、問われます。
「一人のみどりごが私たちのために生まれ」(イザヤ書9章5節)ました。その子の名は、「平和の君」。これが、イエスのもう一つの名前です。彼は、「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙4章15節)と語られます。その彼が、復活の後、恐怖の中にある弟子たちに現われて、こう語ります—「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ福音書20章19、21、26節)。
かつて、マザー・テレサは、こう語りました—「沈黙の実りは祈り、祈りの実りは信仰、信仰の実りは愛、愛の実りは奉仕、奉仕の実りは平和」。真の平和は、一人ひとりが、自らに囁きかける神の言葉に耳を傾け、心を開き、静かにそれを聴くことから始まるのでしょう。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)
・共に歩む信仰に向けて ①一陽来復-聖家族と、その真逆の家族を考える
昨年は12月21日が冬至で、その後太陽神とも言えるイエスキリストの誕生を祝いました。古代の不敗太陽神の祝日をキリスト教が受け継いでイエスの誕生日として祝うようになったことは、よく知られていると思います。闇から光、日照時間が長くなっていく起点となる日です。陰から陽へ。一陽来復。
*聖家族の祝日
その後、12月29日は「聖家族」の祝日でした。ミサの聖書個所はサムエル記上1章20∼28節、ルカ福音書2章41∼52節。イエス、マリア、ヨセフ。これを「聖家族」と呼び、模範とするようにと言われています。理想化されてきた面もあります。
イエスは、肉の欲や人の欲によってではなく、「神によって生まれた」人です。第1朗読で出てきた預言者サムエルは、洗礼者ヨハネと同じように、長い間不妊の女であるにもかかわらず、ハンナの祈りによって神から恵まれて生まれた存在であり、それゆえ神との特別の結びつきがあり、神に捧げられる存在となったのでしょう。同様に、と言うか、それ以上にイエスもマリアという乙女から聖霊によって生まれたといわれ、特別な存在と見なされます。
マリアとヨセフは、このイエス・キリストの成長のために尽くすという献身的生き方をしたのだ、とされています。これが実際にそうだったのかは、問わないでおきましょう。
*神殿に残るイエス・・
さて、ルカの福音。イエスたち一行は過越祭の頃エルサレムに行きますが、その帰り、両親と一緒には帰らず、神殿にとどまって学者たちと話をしていた。どのような話をしていたのでしょうか。イエスには何か気懸りなことがあり、そのため両親には断りもしないまま、学者たちのところへ行ってしまったのではないか、と思います。何が気懸りで、どのような質問をしたのでしょうか。
イエス当時のユダヤ教がどのようなものだったか考えますと、律法学者と大祭司、祭司たちによって形を与えられていました。律法学者は聖書の解釈を独占し、神殿祭司、大祭司は祭儀を取り仕切っていました。人々の宗教的生活の形を作っていた、と言えます。
宗教かつ政治的にはサンヘドリン(最高法院)の71名が支配層として外国の支配者たちとも妥協しながらやっていた。それらを嫌って、砂漠に入って修道的な生活をしていたのがエッセネ派などでした。イエスの家族ほか一行がエルサレム詣でをしたのは、過越祭の時です。
*イエスが問いかけたのは何だったのだろう
イエスは昔からずっと行われてきたこと、具体的には律法のたくさんの規定を守ることや動物の犠牲を捧げたりすることを今も神は望んでいるのか、つまりこれらによってユダヤ人は神に良しとされるのかどうかについて、学者たちに尋ねていたのではないでしょうか。
モーセの時代から自分たちの先祖がどう生きてきたかを振り返ってみても、外国の神々を持ち込んで信仰したり、神の望まない行ないをしたりして、救いがたい状況にあった。それで神は預言者を遣わして、そんなことをしていてはダメだよ、律法を守りなさい、そうでないと、大きな災いに見舞われるだろう、と警告しました。
さらに、大部分の人々は律法を守っていないし、守れない、だから預言者たちは律法と祭儀はもはや無効であり、そのような礼拝を神は喜んでいない、新しいことが始まらなければ、このままではダメだろう、民の罪や過ちを担うメシアを送ってくださる、と預言されている、と聞いている。
預言者たちが、これではダメだ、と言ったことを継続している現在のユダヤ教はどうなのでしょうかと、そんなことをイエスは念頭に置いて、学者たちがこの現状をどのように捉えているのかを質問していたのではないでしょうか。要するに、「もう古い時代は去り、新しい時代、預言者エレミヤたちが言った新しい契約の時代が来るはずではないのか」という問いかけです。
当時イエスがおられて地方では、満13歳が法的な成人だった、といわれます。12歳のイエスはどのような意識を持っていたのでしょうか。現代でも幼少期に大病を患っている子は普通以上にしっかりしていて、大人びた考えをすることがあるようですから、12歳のイエスはわれわれの想像以上にしっかりした考えを持っていただろうと考えていいのかも知れません。
*少年イエスの意識は・・・
両親がイエスを探して神殿に戻ってきた時、イエスが言った言葉、「私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」は、イエスが自分もサムエルのように神に捧げられた人間ではないのだろうか、神との交わりを深めていくことが自分の務めではないのだろうかと、そういった意識というか、自覚が芽生えていたのではないでしょうか。だから「自分の父の家にいる…」のだと。
それから彼ら一家はナザレに帰ります。「両親に仕えてお暮しになった」とあります。「両親に仕えて」というのが、現代の民主主義の国に住む私たちにとっては違和感がありますが、父子の序、長幼の序を守るような習慣があったのでしょう。イエスの「両親に仕える」が、後に社会や民族を視野において「神に仕える」に移行していくのだろうと思います。
*聖家族は「模範」か?
聖家族を私たちの模範とすべき、とか言われてきました。私たちとしては、イエス・キリストへの信仰を中心として、家族のみんなを思いやりながら生活すべきだ、ということでしょうか。理想通りには行かないでしょうが、家族の間に相互の思いやりがあって、一人が過ちを犯したり欠点や病気があっても、それをカバーして共に生きる、足りないところを補い、赦し合って生きていければいいのでは、と思います。イエス・キリストを光、太陽としてあおぎながらです。
*真逆な家族もたくさんある…「アジャセの家族」の場合は
聖家族とは真逆な家族も、たくさんあります。例えば父親殺しの家族。古代ギリシャのオイディプスの家族も、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の家族も、そしてこれから紹介するアジャセの家族もそうです。イエス、マリアとヨセフという聖家族はキリスト教を開いたと言えますが、同様に、父親殺しの家族も新しい宗教を開いたのです。観無量寿経に記されている「王舎城の悲劇」がそのことを伝えています。
紀元前600年頃のインドのマガダ国の王ビンバシャラ、その王妃韋提希(イダイケ)、その王子アジャセという家族、そしてアジャセの悪友提婆達多(ダイバダッタ)の物語です。単純化して言うと、提婆達多は王子アジャセの友になり、彼をそそのかしてアジャセにとって父であり王であるビンバシャラを殺害させます。アジャセはさらに母親である韋提希夫人を牢獄に幽閉してしまいます。獄中の韋提希はこの俗世から逃れたいと思い、霊鷲山にいる世尊の教えを請い求めます。
ブッダ(世尊、釈尊)は浄土の観想方法すなわち「救われる方法」を教えます。こうして新しい浄土教という道が人類に開かれることになりました。家族の悲劇が機縁となって、新しい宗教が開かれたのです。
*親鸞聖人の言葉―心の隅々まで照らす太陽神の光
親鸞聖人は「弥陀如来の本願によって、煩悩の障りにも遮られずして、私どもの胸の奥底までも照らして下さる光明は、あらゆる煩悩の源である自力疑心の闇を破り、そして孤独な寂しい冷たい心を温めて下さる太陽であります」と述べています(『教行信証』の総序)。阿弥陀如来はアミターバ、太陽神、太陽霊です。どのように重い罪や煩悩を抱えていたとしても、我々の心の隅々にまで霊的な太陽の光は注いでくださるというのです。
そして提婆達多、アジャセ、韋提希等は、われわれと同じ悪人凡夫です。その救いのために如来の本願があり仏菩薩の働きがあります。聖家族を模範とせよ、と言うのは、一面の真理ですが、父親殺しとまではいかなくとも悪人凡夫の家族のほうが圧倒的に多いはずです。こちらに救いがないわけではありません。陰から陽へ。「陰極まって陽に転じる」です。不幸は不幸で終わるわけではない。この世界にキリスト(太陽神)が存在する限り、希望も存在しているのですから。
ところで、昨年まで「シノドスに思う」で連載をしてきました。日本のカトリック教会はどうなるのでしょうか。「シノダルな教会」にしていこうという取り組みについて考えようという兆しは、まだ見られないようです。教会に依存した信仰、教会に期待する信仰は止めるべきなのかもしれません。新年はもっと主に信頼して歩みたいと思います。
*参考*山辺習学・赤沼智善共著『教行信証講義 教行の巻』法蔵館
(西方の一司祭)
・愛ある船旅への幻想曲 (47)学び合いの中学生グループの発した言葉に共感する私
2025年、主のご降誕、 新しい年の始まりおめでとうございます。信者未信者にとって、それぞれのクリスマス。 戦争や自然災害で平和が壊されている国々のクリスマス…。一人ひとりの上にどのような意味があったのでしょうか。キリストの愛と平和が、皆さんの上にありますように、お祈りします 。
年々、 子供そして若者たちと接する環境に恵まれていることに喜び、 感謝する日々をおくっている。互いに身構えることなく分かち合えるのは、毎回ユニークで考えさせ られる問いを発する中学生グループだ。「イエスの教えを広めたのは、後の宣教師・聖職者だ、という本を読みました。それは、 イエスが教えたことと違っているのではないか、ということを聞きましたが…」 と。
彼は、どこでその文章を見つけたのか。今の教会の問題はこれで一気に解決できそうな中学1年生からの質 問に今回も姿勢を正した私である。後日、若者との集いでこの話をすると「的を得た質問ですね。 新鮮であり素晴らしい」と。
3年間の”シノドスの道”を歩んだはずのカトリック教会だが、 日本の教会の現状は、どうだろう。クリスマスシーズン、馬小屋は洞窟に変わり、 にぎやかなイルミネーションの飾り方は、 若い外国人信徒の自国の風習によるデコレーションであることが一 目瞭然である。各教会ともに多種多様性の時代を感じる1シーンがそこにあり、 黙想会の指導司教は、外国人に感謝の言葉を最後に述べておられた。 。
私が知る地方の教会は、 限られた日本人女性が中心となり奉仕されている。 日本人信徒の高齢化が進み、日本人の若者のいない教会であるが、 ほとんどの司祭は、「このままの教会の姿がずっと続くだろう」 と思っているようだ。 司祭がそれで良しとするならば何も言うことはない。
そんな中、シノドスと真剣に取り組み最終文書も、 既に目を通された司祭がおられることも知っている。 教会について、人間として、 信徒の視線で考えを述べてくださる一司祭の存在に安心する私であ る。
私とて、今の教会を支える世代、後に続く世代のいく末も、 同じかもしれない、と思っている。これは、「教区の方針に合う信徒しか、教区には必要ない」、 つまり「司教の意見に従う信徒しか要らない」(!) と私たちに言ったことから、”正しい見方”であろう。
何を訴えても、聖職者と圧倒的な力の差があること、 自分を守るだけの信徒の状態から、「 愛がない教会」と実感してカトリック教会を離れた信徒。 それでも神からは離れられない信徒が、私の周りで何人プロテスタント教会また 正教会に行っていることか。
私の知る限りでは、 若い牧師のプロテスタント教会に、以前から若者と子供たちが多く 集い和気あいあいの教会の姿がある。 日本で正教会は珍しいが、司祭が唱える長い祈祷文に感動し、祈りと愛の深さを知らされるのを経験する。結局、男女の愛、家族の愛を知らなければ、人は愛を語れないだろう。 頭で考えるだけの愛には、人間らしさも優しさもない。これからは、人間イエスの教会を求めて人が集まるに違いない、と私は 思っている。
「どこのカトリック教会もおばあさんばかりですね。 たまにおじいさんもいますが」 という、若い外国人信徒の感想を皆さんお聞きになったこたことがあるだろうか? 私は彼に一票だ。
(西の憂うるパヴァーヌ)
・神様からの贈り物 ⑰20年前に訪れたカレン族の村で祈る体験を通して今、思うこと
明けましておめでとうございます!
今から20年前の1月に訪れた、タイ北部の山岳地帯にあるカレン族の村での体験は、私自身を構成する欠かせない要素です。日に焼けた手で、私の白い手をぎゅっと握りしめて歓迎してもらった時の喜びは、当時の2倍の年齢になった今でも、鮮明に思い出せます。
カレン族の文化には「食事を相手に食べてもらうことが祝福」というものがありました。未信者だった私は、祝福という言葉がぴんときませんでした。けれども、お世話役のシスターの「祝福を断るなんてできないから、出されたものは、一口でもいいから食べてね」と念を押されました。食べ終わると、隣の家からも「オメ(ご飯だよ)」と声がかかりました。そんなことを繰り返して、私は朝ごはんを3回も食べることになりました。
どの家へ行っても、村人たちは食事の前に、十字を切りました。十字を切る姿は、まるで呼吸をするように自然な動きでした。見よう見まねで私もやってみましたが、うまくいきませんでした。
ある夕方、私の家のモーモー(お母さん)と、のんびり湯冷ましを飲んでいたら、遠くの方から、カーン、カーン!と鐘の音がしました。それを聞いたモーモーの表情が、ぱっと明るくなり「ミサ!」と嬉しそうな声をあげました。その様子を見た私も、なんだかウキウキした気持ちになりました。
私たちは、手をつないで教会へ向かいました。日はあっという間に傾き、村人たちが、続々と、焦げ茶色をした木造の教会の入り口に吸い込まれていきました。電気が通っていない教会なのに、ぼんやり明るかったです。中に入ってみると、一人一人のそばには、小さなロウソクが立ててあった。となりのロウソクの灯りをもらって、少し溶けたロウを、丁寧にぽとりと床に垂らし、その上にロウソクを立てるーその丁寧な手つきから、もう神聖なミサが始まっていると感じました。
山岳地帯の冬の夜は、信じられないほど寒いものでした。床に直に座るので、冷え込みが強く、私たちは、毛糸の帽子をかぶり、ダウン着込んだ状態で、ミサに与りました。
司祭から「祈りましょう」という声があり、お御堂がしんと静まり返りました。その時、私はどうしてもモーモーがどんな風に祈るのか、気になってしまいました。そっと盗み見るように、私は目だけを彼女の方へ向けました。すると、彼女は、いつもの賑やかさから程遠い、静かで清らかなのに、密度の高い空気をまとっていたのです。手を合わせ、目を閉じた彼女の顔を、足元からのろうそくの光が、照らしていました。その様子を見て「祈りは、信者にとって、何よりも大事な時間なんだ」と初めて知りました。「祈りは、神様との親密な語らいの時間だ」だと体感した瞬間でした。
ミサが終わると、モーモーはいつもの明るい笑顔を見せ、私の手を取り、にぎやかに話しながら、家路へ向かいました。このような祈りの時間の積み重ねが、彼女の生活を作っていることが、すとんと胸に落ちました。
*****
「過去と人は変えられない。変えられるのは、自分だけだ」とは、よく聞く言葉です。そして、祈りもまた、どんなにお願い事をしても、「過去や周囲の人間たちを変えるわけではなさそうだ」と感じます。ただ、祈ることで、私自身が変化するのは実感します。環境や状況は、簡単には変わらないけれども、私自身が変化を拒むことさえしなければ、未来は明るいものになるという気持ちです。
2025年1月、皆様にとって今月が素晴らしい一年のスタートでありますように!!
(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)
・カトリック精神を広める⑭ 神様からの呼び掛け:聖マリアの場合
あなたは信じるだろうか?神様から直接人間に呼び掛けることがあることを。
聖マリアの場合は、ルカ福音書1章によると、天使ガブリエルが神から遣わされてマリアのもとを訪れて、こう言ったという。当時、マリアは16歳。既に、婚約者のヨゼフがいた。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる… マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(28∼32章)。
これに対し、マリアは「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」。 当然ではある。未婚なのだから。これに対し、天使ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(34~37節)。
これに対するマリアの答えは、秀逸である。マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。
ここで重要なことは、いわゆる「処女懐胎」である。当時も今も、結婚していないのに、身ごもるなら、世間から白い目で見られるのは必至。それなのに、マリアは、「私は主の仕え女です」と言い、「お言葉通りになりますように」と述べている。この謙虚さの故に、人類は今も神への取り次ぎをお願いしている。
婚約者のヨゼフは、マリアが身ごもっていることを知って、密かに別れようとしたが、夢の中で天使が現れ、「恐れず、マリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1章20~21節)。
マリアは、息子のイエス・キリストのご受難に際して、ペトロはじめ弟子たちが離れていったのに、十字架上で死ぬまで、キリストに付き添い、最後はヨハネに引き取られた(ヨハネ福音書19章)。亡くなった後、マリアは肉体も霊魂も天に上げられたと信仰され、 1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布している。
横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ:https://www.morikawa12.com)(X ツイッター:https://x.com/morikawa121)(楽天ブログ: https://plaza.rakuten.co.jp/morikawa12/)
・菊地・新枢機卿:12月7日の枢機卿会とその後の動きは・・
2024年12月14日 (土) 今週の週刊大司教はお休みです。
お待ちいただいている皆様には申し訳ありません。枢機卿会などの出張が重なり撮影が間に合わなかったため、12月14日の週刊大司教はお休みとさせてください。 来週12月21日は、午前11時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、枢機卿叙任の感謝ミサを捧げる予定です。また週刊大司教も再開するようにいたします。お待ちください。
12月7日夕方の枢機卿会では、教皇様の前に順番に進み出て。ビレッタ(儀式用の帽子)と指輪をいただきました。デザインは写真の通りですが、前田枢機卿様も同じ指輪でしたので、共通の指輪かと思います。ペトロとパウロの姿が刻まれています。事前に制作している工房でサイズ合わせをしました。
これらをいただいた後に白い筒をいただきました。この中には教皇様からの枢機卿親任の書簡と、その中に。名義教会名が記されています。前回も記しましたが、ローマ教区の小教区でSan Giovanni Leonardiと言う教会です。現在、来年の着座式の日程を調整中です。
これらをいただいた後に、出席してくださった先輩の枢機卿様の全員とあいさつを交わしました。一人一人を回りましたので、かなりの時間を要しました。私にとっては、司教枢機卿として一番前の列におられたタグレ枢機卿様やタクソン枢機卿様にはお世話になってきたので、お祝いしていただいたのは感謝の一言でした。
それ以外にも、これまでのカリタスでの務めを通じて存じ上げている枢機卿様がたくさんおられたので、あいさつ回りは感動の連続でした。(写真右は、タグレ枢機卿とあいさつのハグをしているところ)
また、枢機卿会後には、バチカン美術館内のギャラリーに場所を移して、一人一人の新しい枢機卿がブースを設け、おいでいただいた方々のお祝いを受けるという儀式もありました。ここ
にも多くの方に来ていただき、感謝です。今回は21名も新しい枢機卿が誕生したために、この会場に入る入口は大混乱であったと後からうかがいました。
12月9日の月曜には、駐バチカン日本大使公邸をお借りして、レセプションを開いていただきました。日本大使公邸の準備される和食には定評があり、多くの外交関係者が集まると聞いていましたが、その通りでした。多くの国の大使の皆様に来ていただきました。
バチカンからも、外交をつかさどる国務次官のギャラガー大司教をはじめ、典礼秘跡省長官のローチェ枢機卿、福音宣教省のタグレ枢機卿、そして海外出張に出かけるために空港に向かう途中によってくださったタクソン枢機卿、昨年のシノドスでお世話になった外交官養成所アカデミアの校長ペナッキオ大司教、神言会の総本部の皆さん、ローマ在住のカトリック日本人会の皆さん、国際カリタスの本部事務局の皆さんなど、多くの方に来ていただき、さらには多くのメディア関係者も来てくださり感謝でした。前田枢機卿様は、お得意の一句を披露されながら、乾杯の音頭を取ってくださいました。ありがとうございます。
水曜日の昼に、前田枢機卿様とともに帰国し、そのまま夕方は麹町教会で司教団主催の教皇訪日5周年記念感謝ミサをささげ、その翌日は臨時司教総会でした。そのようなわけで、新しい枢機卿の服に変わってから、週刊大司教を撮影する時間をとれませんでした。
皆様のお祈りとお祝いの言葉に、心から感謝申し上げます。今後とも、お祈りを持って支えてくださるようにお願い申し上げます。
(菊地功・東京大司教・枢機卿)