・竹内神父の午後の散歩道 ㉔私の名によって願うなら…

 互いに相手をどう呼び合っているかーそれによって、私たちは、お互いの関係を見ることができるでしょう。家族の中で、また学校や職場といった社会の中で、私たちは、そ
のことを体験します。その際、「名(前)」は、大切な役割を担っています。相手が自分の名前を憶えているー感謝(よろこび!)。自分が相手の名前を憶えているー祈り(よろ
こび!)。これが、人間関係の原点ではないか、とそう思います。

*名は体を表して

 聖書において、「名」は、その人の単なる「しる」や「記号」ではなく、その人の本質や役割を表しています。

 例えば、旧約聖書でしたら、アブラハム(国民の父)、イサク(神は笑う)、そしてヤコブ(かかとを握る)、などを思い起こすことができます。また、新約聖書でしたら、ヨセフ(主[ヤーウェ]は加えたもう)、マリア(神に愛された者/高められた者)、そしてイエス(主は救い)、などを挙げることができるでしょう。

 イスラエルの民は、しかし、直接神を名前で呼ぶことをはばかりました。そこで、彼らは、「主」という言葉で神を呼ぶようになります。「主」以外に神はない。「あなたがた
は私の証人/私が選んだ私の僕であるー主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。/
私、私が主である。/私のほかに救う者はいない」(イザヤ書43章10-11節)。

*主の名を呼び求め

 その延長線上において、イエスは、‶主イエス・キリスト〟と呼ばれます。つまり、これは、‶イエスは神である〟という信仰告白です。ですから私たちは、祈りの最後に「私
たちの主イエス・キリストによって」と唱えます。言い換えれば、これは、「主イエス・キリストの名によって」ということです。

 主の名を呼ぶーそれは、神に礼拝を捧げること、あるいは祈ることにほかなりません。それゆえ、キリスト者は、「主の名を呼び求める者」(使徒言行録9章14、21節参照)と言われます。つまりキリスト者は、「絶えず祈る者」なのです。

 イエスは、こう語りましたー「あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(ヨハネによる福音書16章23節)。イエスの名によって願うとは、イエスの本質によって願うということ。その本質とは、‶主は救い〟。つまり、神の救いの営み(オイコノミア)を信じるならば、父は、必ずそれを叶えられるということです(3章17節参照)。

 このように、キリスト者の信仰はイエスの名に基づきます。ですから、パウロは、こう語りますー「口でイエスは主である告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられ
たと信じるなら、あなたは救われ(ます)」(ローマの信徒への手紙10章9節)。ここに、‶使徒信条〟の核心があります。

*イエスの御名の祈り

 「イエスの御名の祈り」という祈りがあります。「主イエス・キリスト、罪人の私を憐れんでください」というものです(マタイによる福音書20章31節参照)。この祈りは、6~7世紀の東方教会にその起源を持ち、極めて簡潔な祈りです。呼吸を整え、を使いながら唱えられることもあったそうです。何回も何回も繰り返し唱えることによって、私たちを、よりいっそう深い祈りへと導きます。

 生きることは一筋がよし寒椿(五所平之助)

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2023年2月6日

・Sr.阿部のバンコク通信(74) 「え!サツマイモじゃないの?… 実は”ブアヒマ”」

   色も形もサツマイモそっくりの、英語でYacone (ヤーコン)とも呼ばれる根菜。ある日、姉妹が「美味しいのよ」と、掘り出してきたばかりの土の付いたサツマイモらしきものをもらって来ました。

 ゴシゴシ洗って皮を剥いて輪切りにして「生で食べられるのよ。はい、どうぞ」と。シャキシャキ瑞々しい、うっすらと甘い梨の感触。皮を剥いて一個食べてしまいました。おいしかった!生まれて初めての体験がまた一つ、この齢になって、感動です。

 「名前は何て言うの」と聞いたら「บัวหิมะ (ブアヒマ= 蓮雪=snow lotus)」。台湾では「雪蓮果」と呼ばれ、果物として親しまれて、名前まで素敵!

 調べてみたら何ともうれしい発見。この野生根菜の原産地は南米ペルー説、チベット説がありますが、どちらにしても寒冷地に育つ菊科の多年生草木。「地下のリンゴ」とも呼ばれ、古くから現地人の大切な食料です。

 甘みがあっても糖分は少なく、免疫力を向上させ、多分に含まれるオリゴ糖は腸内で大活躍。関節や筋肉、軟骨を守る野生の薬でもあり、化粧品としても使われています。日本でも栽培する農家があり、直送されてお料理にも使われていますね。サプリメントまで出回っていてびっくりです。

 また一つ、創造主の大地の贈り物、サツマイモに“扮した”ブアヒマをいただき、小さな醍醐味に、目も心もピカッと輝きました。

 今日もお向かいの教会のミサに与り、恵みを感謝して外に出て夕暮れの空を見上げると、爽やかな月、星々がきらめき、実に美しい。天地の創造主への、有難い清々しい感謝と感動で心がいっぱいになります。

 愛読者の皆さん、ちまたの身近な、細やかな発見や体験を通して、心身をときめかせ、感謝と喜びの人生を一緒に生きましょう。

 聖パウロのフィリピの信徒への手紙を贈ります。

 「ゆがんだ邪悪な時代にあって… この世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」(2章15‐16節)ように!

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

2023年2月1日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉔禅の教えから、己の無知を知る

 今年も受験シーズンがやってきた。受験生を持つご家庭は緊張の中、家族共に祈り、心を一つにして試験に臨む環境作りをされていることだろう。我が家も例外ではない。人より受験慣れしている私ではあるが、孫の受験には落ち着かない。そろそろ合格祈願のために神社に行かねばと、日本の習慣も重んじる私である。

 そんな私は、以前から禅宗に興味を持っている。名刹でイベントを開催した事もある。県をはじめ教育委員会等々の後援のおかげもあるが、なんといってもその名刹の普段閉ざされている仏間での開催に人々は興味を持ち、大きな反響があった。当日は和服で参加してくださった女性の姿もあり、その場に溶け込む上品な華やぎから、日本が誇る着物文化の魅力を再認識し、そこに居る外国の方々の感嘆の声を素直に受け入れた私だ。

 受洗後も禅寺に座りに行く信徒さんがいらっしゃる。私も一度だけご一緒させていただいた。名刹の坐禅堂に足を踏み入れる時の緊張は、座ってからもしばらく続いた。段々と呼吸が整い、心地良い緊張感を体験することができた。その方のお陰で、国内外でご活躍のご住職さんを知る事もできた。私の娘と同世代のご住職さんであるが、日本人としての礼儀を重んじる振る舞いと会話からは修行の奥深さ、頭脳明晰であられることを直感でき、人格者に年齢は関係ないことを思い知った。

 名刹は、ご住職さんの生き様によって作られ、その苦労を必ず見ている人がいる。世の人が認めてこそ、その足跡は語り継がれる。全ての聖職者が尊敬に値する人ではないことを私たちは知っている。そして、その名刹を受け継ぐ次の世代のご住職の責任は大きい。

 最近は、県内外からの若者は勿論、外国人観光客らの訪問者の増加、イベントの開催などがニュースで報じられ、メディアとの関係も良さそうだ。この歴史ある名刹は、若いご住職によって、時代に沿った寺と人との関わりに取り組みながら知名度を上げ、それにより前住職の寺の再興への真摯な取り組みと不屈の熱意をも、私たちが知るに至るのである。生きた宣教である。

 次女は、「洗礼を受けるにあたって他宗教を深く知る必要がある」と禅宗の本を選んでいた。ここでの「選んでいた」とは、ある亡くなられた方の奥様から、お持ちになっている沢山の蔵書の中から「必要ならば譲り受けて欲しい」とのお話があり、興味ある本をいただいて、家に持ち帰ったのである。その時、娘は、上智大学教授でイエズス会士の門脇佳吉師の著書『禅とキリスト教』についての本二冊を選んでいたのだ。

 この蔵書の持ち主は、上智大学出身であり、カトリックからプロテスタントへ改宗されたが、キリスト教の教義と組織への疑問が解消されず自分の道を探し求めた方だ。この方が悩まれた時から70年以上が過ぎた今、私たちも同様の悩みを持っているのかもしれない。

 新たな教皇フランシスコ連続講話・新「使徒的熱意について」から、私は希望を与えられている。(翻訳は「カトリック・あい」)

 「教会は他者をひたすら改宗することをしない、「他者を引き付ける魅力」によって成長するもの。この魅力的で喜びに満ちた証しこそ、ご自分の愛に満ちた眼差し、聖霊の私たちの心を立ち上がらせる外向きの働きをもって、イエスが私たちを導かれる目的地なのです」(「使徒的熱意について」①から抜粋=教皇ベネディクト16世の言葉から)

 「私たちは、司牧者の心の恵みを願います。苦しみとリスクを引き受けるそのような愛なしには、自分たちだけを養うリスクを冒すからです」(「使徒的熱意について」②から抜粋=群れを離れる人を見たら証しする機会に)

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 私が愛読する中村元『慈しみの心』ー

、慈悲と生きる智慧に満ちたブッダの言葉、名僧、経典などを紹介した、から…

 「我を尽くすのが正法である。智慧者は智慧に執着する我を立てる。慈悲者は慈悲に執着する我を立てる。坐禅者は坐禅に執着する我を立てる」(鈴木正三=江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家)。

 「我を尽くす、とは驕りの心をなくすという意味。釈迦は貪りと怒りと驕りの三つの心をなくせば心の安らぎを得ると教えた。なかんずく驕りをなくせと力説した。己の家柄や身分や知識を自慢し、高圧的に振る舞いたがる人がいる」(解説=田上太秀・駒澤大学名誉教授)

 日本人として、人としての、己の無知を思い知る年の初めである。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2023年1月31日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㉘神の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見るーその1

 ・ガブリエルの信仰見聞思 ㉘神の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見るーその1

3週間前に「5万年に1度しか見えない緑の彗星が接近。2月には肉眼で見えるかも」という世界中の天文学界やファンを興奮させるような報道がありました。

 彗星の名前は「C/2022 E3(ZTF)」。米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所によると、このZTF彗星は1月12日に太陽、そして2月2日に地球に最接近し、環境条件が合って暗い夜空であれば肉眼で見える可能性もあると伝えられています。

 昔から宇宙や自然界に少しばかり興味があって、時々気が向くと、その分野に関する雑誌や本、写真集を気軽に読んだりしています。いつからその興味を持ち始めたのかは定かではありませんが、おそらく、初めて旧約聖書のシラ書42章15節~43章33節(『自然界における神の偉大さ』という小見出しを付けても良いのでは。と勝手に思っています)を読んで深い感銘を受けたことがきっかけだったのかもしれません。

 あらゆる分野において科学が進歩する中でなされている多くの様々な発見を通して、神様の御業の偉大さと素晴らしさを少しでもより一層知りたい、より深く感じたい、と思っているからです。

*太陽と星

 「光り輝く太陽は、万物を見下ろし、主の御業はその栄光に満ちている…。澄み渡る大空は天の高みの誇り 天の姿は栄光に満ちた眺め。太陽は現れる時、日の出の時、あまねく告げる。いと高き方の御業はなんと驚くべきものか…。星々の輝きは天の美 主のいと高き所にあって輝く飾り」(シラ書42章16節、43章1~2節、9節)

 私たちの太陽は巨大です。100万個以上の地球は、端から端まで約160万kmの太陽にきれいに収まります。そして天の川には、太陽と同じような星が20億から30億あるようです。海浜に行って一握りの砂を拾えば、1万粒ほどの砂を手に持つことになるらしいです。

 宇宙には、地球上のすべての海浜の砂粒よりも多くの星があります。神様はそれらの星すべてを、口の息によって創られ、それらすべての名前を知っておられる、と聖書が教えてくれます(イザヤ書40章26節、詩編33章6節、147章4節参照)。

 「神は言われた。『光あれ』。すると光があった(創世記1章3節)ーご存じかも知れませんが、光は秒速約 30 万kmで移動することが分かっています。この速度で、光が地球の赤道(約4万km)を1秒間に7回旋回できます。太陽の光は私たちの肌に届くまで8分かかりますが、巡航時速800kmのジェット旅客機は太陽に到達するのに18年かかるでしょう。 私たちの銀河の端から端までの距離は約10万光年あります(1光年は約9.5兆km)。ジェット旅客機でその旅をすれば1000億年かかるでしょう。地球から最も近い恒星は4光年離れていますが、そのジェット機がそこに到達するまで550万年かかります。

 さらに想像を広げてみましょう。私たちの知られている宇宙は端から端まで約120億~150億光年で、さらに広がり続けています。現代の科学的証拠によると、観測可能な宇宙には少なくとも1000億の銀河があり、それぞれには20億から40億以上の星があるようです。

 これまで発見された最大の恒星は、太陽の約500倍の大きさです。そしてもう一つ別の恒星は太陽の約650万倍の明るさがあります。では、超新星(スーパーノヴァ、爆発する恒星)についてはどうでしょうか。超高密度であるため、その物質の一匙分だけで数千トンの重さがあり、数十億の星のある銀河に相当する光を放射しています。

*人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは

 しかし、これらの想像を絶する壮大さにもかかわらず、小さな赤ちゃんは、すべての銀河を合わせたよりもはるかに高い尊厳、価値があるのです。なぜなら、私たちが夢見ることも想像することもできないほど、何よりもはるかに全能で無限に偉大な神様が、私たちを母の胎内から知っておられるからです。(エレミヤ書1章5節、イザヤ書44章2節、詩編139章13節)。

 ダビデが次のようにうたっています。

 「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは」(詩編8章4~5節)

 神様が創られた素晴らしく美しい天体の名前を超え、その天体のことを少しでも知れば知るほど、ダビデのこの詩篇は自分の心に響いてきます。ダビデは宇宙の夜空を見上げながら、なぜ神様が人間の面倒を見るのか、不思議に思っていました。私たちも同じように、神様の偉大な栄光を振り返り、神様がなぜ、私たちの面倒を見るのか不思議に思ったことはありませんか。

(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用。3月のコラムに続く)

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

2023年1月31日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉓新年に改めて祈り求めたいことは…平和

平和の寿ぎ

新しい年を迎えて、改めて祈り求めたいこと――それは、平和です。真の平和とは、ただ単に、戦争のない状態ではありません。そこには、もっと積極的な意味があります。例えば、それは、一人ひとりの命が、その人の命として大切にされること。一人ひとりは、掛け替えのない存在である――この素朴な事実を、改めて思いめぐらしてみたい、とそう思います。

平和の挨拶

真の平和――それは、確かに、神からの恵みです。しかし、同時にまた、それは私たちが、築き上げていかなくてはならないもの、でもあります。言い換えれば、真の平和の実現とは、神と私たちの協働作業によって生まれるもの。それが、歴史です。

 パウロは、彼の手紙の冒頭で、次のように語りかけます――「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」(コリントの信徒への手紙一1章3節)。これは、彼の挨拶の言葉。同時に、それはまた、相手に対する彼の心遣いであり、祈りでもあります。そして、その原点は、イエス自身にあります。

神は私たちと共に

かつて預言者イザヤは、次のように語りました――「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/…その名は『平和の君』と呼ばれる」(イザヤ書9章5節)。そのみどりごとは、イエス。「平和の君」――それが、救い主としての彼の名前です。事実、彼の福音は、私たちに真の平和を伝えることにありました。

 彼の誕生にあたって、主の天使は、こう語りました――「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。つまり、真の平和とは、「神が私たちと共におられる」ということ、に他なりません。それゆえイエスは、復活の後、弟子たちを派遣するにあたって、こう語りました――「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。

 イエスは、十字架上で、自らの命を捧げました。その後、弟子たちは、今度は自分たちが殺されるのではないか、と恐怖のどん底にいました。彼らは、息を潜めるようにして、一つの部屋の中に閉じこもります。するとそこに、復活したイエスが現われ、こう語ります――「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20章19、21節)。

 これは、昔も今も、そしてこれからも、決して変わることのない彼の約束。ここで語られる「平和」(エイレーネー〔ギリシア語〕)とは、この世が与えるものとは異なります。この言葉の背後には、「シャローム」〔ヘブライ語〕という言葉が響いています。そのもともとの意味は「神が共にいる」ということ。

平和への段取り

「平和とは、秩序の静けさである」――そう語ったのは、アウグスティヌス。まず、自分の心が穏やかであること――それを願い求めたい、とそう思います。それが整って初めて、私たちは、他の人の言葉に心を開き、耳を傾けることができます。また、自分の心が平和になったら、次は、家庭の平和、そして世界の平和を願い求めます。その半径は、たとえどんなに大きくなっても、もしその中心に平和の君の言葉があるなら、きっと、私たちは、平和を築いていけるでしょう。彼の言葉は、余韻となって、私たちを包みます――「あなたがたに平和があるように」

 初空や平和の祈りまたひとつ

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2023年1月4日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉓新年、イエスの喜ばれる顔に出会いたい!

クリスマスと新しい年おめでとうございます。

 いつも私の拙い文章にお付き合いくださる方々に感謝申し上げます。(なお、私の文章にあるカトリック教会、教区、小教区は、私が知っている範囲の状況ですので、全ての教会などに当てはまりません。その点にご配慮のうえ、お読みいただけますようお願いします。)

 2023年どんな年になるのかと、年の初めに、切実に思う私です。良い年になるように、と祈らずにはいられません。

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 私は、幸せなことに、男女ともに自分より若い人たちとの交流も多い。類は類を呼び、友は友を呼ぶの流れの中、特に40代、50代の未信者の現代社会で活躍している女性からの感性と意見は、私にとって学ぶことが多い。若く、強く、賢く、美しい女性と一緒にいると居心地が良い。彼女らが描く芯の通った自分の意思を持つ新しい女性像は眩しく、偏った価値観を持つ場所から、私が解放される瞬間である。

 先日、面白いことを言った40代男子がいる。彼の代母である私が、今の教会への不満を一生懸命に語っている時にだ。「〇〇さんは、そう言いながら、そうする事を楽しんでるんでしょ⁈絶対にそうでしょう。実に面白い。安心します」と、彼は満面の笑みであった。

 威厳のない代母も咄嗟に考えた。「うん?なるほどそうかも知れない」「上手いこと言うなぁ」と。若者男子の優しさは、エッセンス使いにも技がある。私を知るが故に言える彼の言葉だ。

 今、私たち信徒が持つ教会への意見は、何を言っても受け入れられない諦めを既に確信しながら、「”負け戦”に意義を見出したい」のかも知れない。「負けの中に次に繋がる何かを伝えることで、前向きに負けたい」のかも知れない。

 しらけ世代の私の男友達は、大学入学直後、『聞け、わだつみの声』を読み、たまたま戦争の時代に生を受けて、歴史のうねりに巻き込まれた高学歴の若者の死に行く苦悩と意義を受け止め、今を生きる自分の使命を熱く語っていた。国のために死んだ人たちがいたこと、彼らの死を無駄にせず、より良い国作りをせねばならないことを、私たちは知っているはずだ。価値観の違いはあるだろうが、平和への願いを受け取り、戦争は絶対にしてはならない、と肝に銘じたい。

 私たちは、教会の方針に疑問を持つ信徒の意見を受けた時には、必ず他の信徒たちを交えて意見交換の場を設け、答えを出してきた。下とか上とか、こっち側とかあっち側とか、納得のいかない教会独特の変な言い方を敢えて使わせてもらう。

 下(こっち側)の多数の意見を上(あっち側)に伝える時には、段階を踏み敬意を払ってきたつもりだ。しかし、教会を運営している”上の方々”は”下々の者”の意見は、全て文句と捉え、コミュニケーションなど取りたくはなく、「教区の言うことを聞かない信徒は要らない」と言われてしまった。ある意味で、教区指導者の本音が聞けて良かった。(かわいそうな人、とも思った)。

 このような指導者に賛同する信者たちが教区・小教区を運営している状況下では、『シノドスの道』に参加する信者が限られてくることがお分かりいただけるだろう。今のカトリック教会の組織、体制が変わらない限り、根本的な問題解決は望めない、と思っている。

 今は亡き世代の多くの信徒は、厳しさの中にも物事の良し悪しをはっきり発言され、教会を、信徒を守っていた、と感じるのは、私だけだろうか。それを窮屈に思ってきただろう、その後の世代が今、教会の中心で働かれている。二つの世代から移り変わる教会の姿を肌で感じている私たちには、厚顔無恥の人々の”美辞麗句”は通用しない。

 2023年、教会はどう変わっていくのだろう。イエスの喜ばれる顔に出会いたい。

 2004年第19回「世界青年の日」の教皇ヨハネ・パウロ2世のメッセージ…「教会とは、異なる時代と場所におけるキリストの救済活動の延長です。教会において、教会を通して、イエスは今日、ご自分を人の目に見えるものとし、人々との出会いを待ち続けておられます。あなたがたの小教区、活動、共同体において、あなたがた同士の交わりの一致を成長させるため、互いに受け入れ合ってください。教会にはしばしば人間の罪によって入り込む不透明な隔ての壁があるにもかかわらず、あなたがたの交わりの一致は、教会におけるキリストの現存の、目に見えるしるしとなるのです」。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2022年12月31日

Sr.阿部のバンコク通信 (73) 命をいっぱいに生きる年にしたい!

 人生は新しい出会いの連続です。住み慣れた場から踏み出すのが生来苦手な私が、人生半ばでフィリピンに移り、タイに来て28 年、自分で驚いています。根は変わりませんが… もういくつ寝ると80歳…になっても新鮮な発見や喜びを人々、出来事、状況の中に身を投じ、体験しています。

 一歩踏み出し視座を変えて見るーたとえ動くことができなくても-自分から飛び出して、空の雲や風、草花や鳥、時計やスマホになって見つめて見る…そこから見る自分、面白い味な発見があるかもしれません。

 新しい年、心のアンテナを研ぎすませ、視野の効く場に身を置きお互いに新鮮な輝いた人生体験をしたいですね。

   『奇跡の木マロンガイ』という植物のことをご存じですか?亜熱帯地方で育ち、可愛らしい葉っぱが繁る爽やかな雰囲気の大木。初めての出会いは、一緒に生活しているフィリピンの姉妹が、その葉を枝ごと庭から取ってきて、炊事に使ったのです。肉と野菜の煮込みにマロンガイの葉っぱがいっぱい!馴染めない舌触りでしたが、すごい滋養があるのだと話してくれ、葉を摘み取るのを手伝い、味わって、いつもいただいています。

 調べて見ましたら、英語でモリンガと言い、限りなく豊かな栄養素、抗菌作用、免疫力、美容…効用は長々と続きます、モリンガはお薬箱みたい、びっくりしました。姉妹に教えてもらって、葉っぱを乾燥させ、粉末にしてカプセルに詰め、モリンガで体力づくり、コロナ禍の発見の一つです。

 今でも胸に残るもう一つの若い頃の発見を紹介しましょう。鍼治療に通っていた頃、老先生の話に耳を澄ませて聞いた話です。

 「針をツボに刺すと、身体はモルヒネよろしく劇薬を出し、それで治癒する」ーそうだ、人間の心身には絶体絶命、極まった状況に追い詰められて、初めて発揮する創造主からいただいた秘めた力がある。だから自分自身にも隣人にも、特に子供達に過保護は禁物…。
人間に秘められた威力を発揮する機会に挑戦して、更に新鮮に輝いて、命をいっぱいに生きる年にしたいですね。合掌❣️

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2022年12月30日

・(読者投稿)新しいミサの式次第の祈りの言葉に思う

 日本のカトリック教会では、新しい年の始まりである待降節第1主日(11月27日)から、新しい式次第によるミサが始まった。

 2021年10月に中央協議会から発行された冊子『新しい「ミサ式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』を読むと、ローマ規範版第3版に基づく今回の日本語版ミサ典礼書の改訂作業は、20年越しの作業であったようだ。

 多くは、翻訳上の言葉の見直しであるが、典礼なればこそ、使う言葉の重要性は計り知れない。そんな中で、単に言葉づかいではなく、内容に関わる極めて重大な変更があった。それは、聖体拝領の直前、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」という司祭の言葉に続いて、司祭が会衆とともに唱える言葉である。これは、日本では従来から「拝領前の信仰告白」と呼ばれている。

 これまでは、日本のための適応として日本固有の式文「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」が使われていた。今回の改訂で、ローマ規範版にある「主よ、わたしはあなたを迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」が導入され、従来の式文とどちらかを選択することとなった。

 ローマ規範版は世界標準であり、こちらを歓迎する向きもあろうが、よく見るとこの二つは内容的にまるで異なっていて、「どちらでもよい」と言えるようなものではない。主日、祭日のミサでは言葉の典礼の終わりに信仰宣言があり、信条を唱える。したがって、聖体拝領直前のこの信仰告白は、まさに、これから拝領しようとする聖体に対する、信仰を表明するものだ。

 このことを念頭に置いて、キリスト信者として、イエス・キリストご自身を前にどのような言葉で信仰を告白するのがふさわしいか、熟慮したうえで式文を選択すべきであろう。私は、「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」という名のブログサイトを開設しているが、先日寄稿された記事は、このテーマを取り扱っている。趣旨はおおむね以下のとおりである。

 ローマ規範版の式文は、子(僕)の病気の癒しをイエスに願った百人隊長の言葉から取られている。それは、イエスが「私が行って癒してあげよう」と自ら申し出たにもかかわらず、それを謙遜ゆえに断った言葉である。百人隊長のこの謙遜な態度から、彼が、「人の真の親である神を知らなかった」ことが分かる。

 人の思いのすべてを知っていたイエスは、謙遜であるがゆえにイエスの申し出を断わる言葉を聞いて、彼にはこの場面にふさわしい信仰がある、とみなした。しかしこの百人隊長の言葉は、神を「天の父」と呼ぶキリスト信者にはふさわしくない。イエスが、最期の夕食の席で、跪いて弟子たちの足を洗い、神の謙遜の極みを見せて教えたからである。

 ここでペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ福音書13章8節)と答えた。神の謙遜を前にしての人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになる。実際に百人隊長の謙遜は、彼の子(僕)や家族がイエスに出会う機会を奪うことになった。

 さらに、ご聖体を拝領することを望んでいるにもかかわらず、百人隊長の謙遜に倣って、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えるなら、そこには自ずと矛盾が生じる。

 ある時イエスは、弟子たちに尋ねた。「あなたがたは私を何者だと言うのか」。シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)。これに続けたイエスの言葉は、御父を敬う御子の喜びで満ちている。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(同17節)。

 天の父が現し、イエスによって幸いとされたペトロのこの言葉は、神の小羊の食卓に招かれた幸いな人が唱える真実の言葉になる(ヨハネの黙示録19章9節参照)。これこそが、ご聖体を前にして信者が唱える言葉だ。

 以上が記事の内容である。この記事は、今回の典礼式文変更を直接取り扱っているわけではないので、私たちがこれまで唱えてきた日本固有の式文そのものには言及していないが、その前半部分、すなわち、マタイ福音書の16章から取られた「主よ、あなたは神の子キリスト」について、それが、キリストのからだを拝領するカトリック信者にとって、必須の信仰告白であることを明確に説明している。

 一方、日本固有式文の後半「永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」は、ヨハネ6章68節のペトロの信仰告白から取られている。それは、「わたしは天から降って来たパンである」、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と語るイエスの話しを聞いて、弟子たちの多くが離れ去り、使徒たちだけが残った時、「あなたがたも離れて行きたいか」と問うイエスにペトロが答えたものである。これこそキリスト者が彼に倣って答えるべき言葉ではないだろうか。

 こうしてみると、日本固有の式文が、聖体に対する信仰を告白するのに、いかにふさわしく作られているかが良くわかる。聖体拝領前に司式者と会衆がともに唱えるこの式文は、ヨーロッパをはじめ日本以外の諸外国においては、伝統的に百人隊長の言葉から取った式文を使ってきた。

 これに対して、ペトロの信仰告白から取られた独自の式文を使ってきた日本が、今回の見直しによって、あらためてこの問題を考える機会を得たのは、特別な恵みであり、また、だからこそ、そのような機会を持ってこなかった他の国々に対して、明確な答えを提示する責任がある、とも言えるのではないだろうか。

 米国の著名な世論調査機関であるPEWリサーチセンターが2019年に米国のカトリック信者を対象に意識調査を行った結果は、当時の米国カトリック界を震撼させた。カトリック信者のほぼ7割が、「聖体がイエス・キリストの体と血であることを信じていない」という結果だったからだ。

 しかしよく考えてみると、カテキズムでは教わっていたにしても、毎回のミサで、これから拝領する方は誰なのか信仰告白したことが一度もないとしたら、このような結果になったとしても驚くに当たらない。

 日本が今後このようなことにならないように、式文を選択する教導職の責任は極めて重い。

(横浜教区のある信徒)

2022年12月30日

・「私たちに希望の光を掲げる勇気を与えてください」菊地大司教、日本聖書協会のクリスマス礼拝で

(菊地功・大司教の日記より)

2022年12月14日 (水)日本聖書協会クリスマス礼拝@銀座教会

Photo_20221214153901   一般財団法人日本聖書協会(JBS)は、聖書協会世界連盟(UBS)に所属している140を超える聖書普及のための団体の一つで、「聖書翻訳、出版、頒布、支援を主な活動として全世界の聖書普及に努めて」ている組織で(ホームページから)、基本的にはプロテスタント諸教派が中心になって運営されています。

   もちろん聖書の普及は福音宣教に欠かせない重要な役割であり、カトリック教会の体力がある国では、カトリック教会としても聖書の翻訳や普及活動に携わっていますが、日本を含めた宣教地では、カトリック教会も聖書協会の活動に協力しながら、一緒になって聖書の普及に努めてきました。

  特に、現在カトリックの典礼などを活用させていただいている新共同訳の事業を通じて、現在の聖書協会共同訳に至るまで、その関りは深くなっています。

Photo_20221214154001  昔、私自身もガーナで働いていたときに、首都アクラにあるガーナ聖書協会に、しばしば聖書の買い付けに出掛けたことを懐かしく思い出します。

 私が働いていた部族の言葉そのものの翻訳はありませんでしたが、それと同じ系統の言葉での翻訳が新約聖書にあり、それを大量に買っては、訪れる村で信徒の方に配布していました。(なお旧約は、英語の聖書から、その場でカテキスタが翻訳してました)

 そういった協力関係もあり、日本聖書協会の理事会には司教団から代表が一人理事として加わっていますが、ありがたいことに司教団の代表の理事は、聖書協会の副理事長を任ぜられています。現在は私が司教団を代表して理事として加わり、副理事長を拝命しています。

 そのような関係から、先日、12月8日の午後、聖書協会の主催になるクリスマス礼拝で、はじめて説教をさせていただきました。礼拝は数寄屋橋の近くにある日本基督教団銀座教会。ここは有楽町の駅の近くの表通りに面したビルの中にあり、正面に立派なパイプオルガンがある教会です。

 感染対策のため、入場制限がありましたが、多くの方が集まってくださり、その中にはカトリックの方も多くお見えでした。

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 以下、当日の説教の原稿です。

 

日本聖書協会クリスマス礼拝 銀座教会 2022年12月8日15時 
「光は暗闇に輝いているのか」 ルカ福音2章8節から12節

世界はあたかも暴力に支配されているかのようであります。この数年、私たちはただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面し続けています。この状況から抜け出すためにありとあらゆる努力が必要なときに、あろうことか、神からの賜物である人間のいのちに暴力的に襲いかかる理不尽な事件が続発しています。

例えば2021年2月に発生したクーデター後、ミャンマーでは政治的に不安定な状況が継続し、思想信条の自由を求める人たちへの圧迫が横行し、義のために声を上げる宗教者への暴力も頻発しています。2022年2月末には、大国であるロシアによるウクライナ侵攻が発生し、いまに至るまで平和的解決は実現せず、戦争に翻弄されいのちの危機に多くの人が直面しています。

この状況の中で、戦いに巻き込まれたり、兵士として戦場に駆り出されたりして、いのちの危機に直面する多くの人たち。独裁的な権力のもとで、心の自由を奪われている多くの人たち。様々な理由から安住の地を追われ、いのちを守るために、家族を守るために、世界を彷徨い続ける人たち。乱高下する経済に翻弄され、日毎の糧を得る事すら難しい状況に置かれ、困窮している多くの人たち。世界中の様々な現実の中で、今、危機に直面している多くの命に思いを馳せたいと思います。尊い命はなぜこうも、力ある者たちによって弄ばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにする時、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、それに対する明確な答えを見出すことができずにいます。同時に、苦しみの暗闇のただ中に取り残され彷徨っているからこそ、希望の光を必要としています。その光は闇が深ければ深いほど、小さな光であったとしても、希望の光として輝きを放ちます。

2000年前に、深い暗闇の中に輝いた神の命の希望の光は、誕生したばかりの幼子という、小さな光でありました。いかに小さくとも、暗闇が深いほど、その小さな命は希望の光となります。誕生した幼子は、闇に生きる民の希望の光です。

この2年半の間、様々な命の危機に直面する中で、カトリック教会のリーダーである教皇フランシスコは、互いに連帯することの重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日、感染症対策のため一時中断していたバチカンにおける一般謁見を再開した日には、集まった人たちにこう話されています。

「このパンデミックは、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。私 たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。私たち人間の限界です。

調和を求めるがあまりに、皆が同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。「様々な人がいて当然だから」と多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、今、私たちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。暴力が世界を支配するかのような現実を目の当たりにし、多くの命が直面する悲劇を耳にするとき、暴力を止めるためには暴力を使うことを肯定してしまうような気持ちへと引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり、神の否定です。私たちは命を生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、命の創造主である神への挑戦です。

ローマ教皇就任直後の2013年7月に、地中海に浮かぶイタリア領のランペドゥーザ島を訪れ、アフリカから流れ着いた難民たちとともにミサを捧げたとき、教皇は次のように説教で語りました。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、「自分の安心や反映ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄に溺れているだけであり、その他者に対する無関心が、多くの命を奪っている」と指摘し続けてきました。

2019年11月に日本を訪れた時には、東京で東北の大震災の被災者と出会い、「一人で『復興』できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べて、連帯こそが希望と展望を生み出す、と強調されました。

私は、1995年に初めてルワンダ難民キャンプに出掛けて以来、昨年まで、カトリック教会の海外援助人道支援団体であるカリタスに、様々な立場で関わってきました。その中で、一つの出会いを忘れることができません。

2009年に、カリタスジャパンが支援をしていたバングラデシュに出掛けました。土地を持たない先住民族の子どもたちへの教育支援を行っていました。その支援先の一つであるラシャヒと言う町で、息子さんが教育支援を受けて高校に通っている家族を訪ねました。不安定な先住民族の立場でありとあらゆる困難に直面しながらも、その家族のお父さんは、私が見たこともないような笑顔で、息子さんの将来への明るい希望を語ってくれました。

その飛び抜けて明るい笑顔に接しながら、95年にルワンダ難民キャンプで、「自分たちは世界から忘れ去られた」と訴えてきた難民のリーダーの悲しい表情を思い出していました。

人が生きる希望は、「自分に心をかけてくれる人がいる」という確信から、「支えてくれる人がいる」という確信から湧き上がってくるのだ、と言うことを、その出会いから学びました。

「命」の危機に直面する人たちに関心を寄せ、寄り添い、歩みを共にするとき、そこに初めて希望が生まれます。衣食住が整うことは不可欠ですが、それに加えて、生きる希望が生み出されることが不可欠です。衣食住は第三者が外から提供できるものですが、希望は他の人が外から提供できるものではありません。希望は、それを必要とする人の心から生み出されるものであり、そのためには人と人との交わりが不可欠です。

まさしくこの数年間、感染症による先の見えない暗闇がもたらす不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。この現実の中では、「調和、多様性、連帯」は意味を失い、命が危機にさらされ続けています。

この世界に必要なのは、「互いの違いを受け入れ、支え合い、励まし合い、連帯して共に歩むこと」です。そのために、神の愛を身に受けている私たちは、他者のために自らの利益を後回しにしてでさえ、受けた神の愛を、多くの人たちと分かちあう生き方が必要です。人と人との交わりを通じて、支え合いを通じて、初めて命を生きる希望が心に生み出され、その希望が未来に向けての展望につながります。

暗闇の中に誕生した幼子こそは、神の言葉の受肉であり、神の愛と慈しみそのものであります。そのあふれんばかりの愛を、自らの言葉と行いで、すべての人のために分かち合おうとする神ご自身です。私たちはその神ご自身の出向いていく愛の行動力に倣いたいと思います。

命の尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、命を賜物として与えられた、私たちの使命です。

今、この国で宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて、自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は、尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(「カトリック教会のカテキズム」要約373項参照)。

宗教は、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、命を奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、命の希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

私たちはどうでしょう。キリストは命を生かす希望の光であり、私たちはそもそもこの命を、互いに助け合うものとなるように、と与えられています。私たちはすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、命を生かす希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。

神の言葉である御子イエスが誕生した時、暗闇に光が輝きました。イエスご自身が暗闇に輝く希望の光であります。天使は、あまりの出来事に恐れをなす羊飼いたちに、この輝く光こそが、暗闇から抜け出すための希望の光であると告げています。

私たち、イエスをキリストと信じるものは、その希望の光を受け継いで、暗闇に輝かし続けるものでありたい、と思います。不安に恐れおののく心を絶望の闇の淵に引きずり込むものではなく、命を生きる希望を生み出し、未来に向けての展望を切り開くものでありたい、と思います。輝く光であることを、自らの言葉と行いをもって証しするものでありたい、と思います。

祈ります。命の与え主である天の父よ。暗闇の中で小さな希望の光を輝かせたイエスの誕生に思いを馳せなが、私たちが暗闇を歩む現代世界にあって、互いに支え合い、連帯し、歩みをともにすることで、あなたが与えてくださった賜物である命を、喜びと希望を持って生きることができますように。私たちに希望の光を掲げる勇気を与えてください。

 (ビデオは日本聖書協会のYoutube チャンネルに掲載されています)

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年12月17日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉒見せかけの”謙遜”では「良き知らせ」は伝わらない

 紅葉に囲まれた観光スポット、風情ある温泉宿で開催された高校の同窓会に久しぶりに出席した。私たちの学年は妙に仲良く、女子会も含め幹事役に恵まれている。(次回の、鎌倉での開催には私も借り出されそうだ。旗振りだけならOKである)。それぞれが自分の力量を知り、準備から当日の役目まで、できる人がスムーズにこなし、決して足を引っ張ったり、出しゃばる人はいない。

 今回は、82歳の恩師も出席され、教え子たちへの心温まる言葉から謙遜をも感じ、改めて良き指導者との再会に感謝した。そして「ご出席の皆様の仲良きこと、一仕事終えられた皆さんのくつろぎと、女性の皆様の活動的な御姿、さすが○高で自由闊達に学ばれました方々だ、と感服致しました」と後日の手紙に書かれていた。当時も今も、女性パワー全開の私たち世代である。

 宴もたけなわ、一人ひとりのスピーチで、天理教の熱心な信者が二人いた。一人は、家が代々、天理教の信者で、もう一人は長い間、天理市でそのための仕事に従事していた、という。二人共、高校時代から性格が穏やかで、今も嫌味のない良い笑顔である。

 以前、英会話の男の先生が、ユタ州出身のモルモン教徒だった。彼は当時、「日本人が持つ宗教は天理教」と思い込んでいた。私がカトリック信徒であることを知って、とても驚いていた。外国で想像される日本の国や人の様子は千差万別であり、それを聞く私たちも驚くことが多い。彼は大きな身体であったが、控えめで優しい人柄に温かい目が印象的だった。ただ、モルモン教は飲み物に制限が多く、ティータイムに困った記憶がある。

 中年のアメリカ人の女の先生は「古着を恵まれない人たちに送る」と言い、私も協力はしたが、実際にどこへ送ったのかは分からない。彼女には心からの笑顔はなく、いつも寂しそうな目をしていた。

 「イギリス英語を習いたい」と、イギリス人の若い先生にも教えてもらった。彼女は「英会話教師を辞めて、マザー・テレサのそばでボランティアをする」と言って、暫くして日本を離れた。とても活発でしっかりした女性だったが、いつも忙しそうで、笑顔でも、目は笑っていなかった。

 このような出会いで、どこの国の人であれ、何の宗教であれ、その人の「一瞬の笑顔」から受ける印象は、私にとって貴重な思い出である。そして、考える。私の笑顔は、人にどんな印象を与えているのだろうか。それよりも、人に心からの笑顔で接しているだろうか。

 “目は口ほどに物を言う”との諺がある。人の目はその人の心の裡や本性をそのままに表す、ということだ。

箴言6章16-19

 主の憎むものが六つ

 心からいとうものが七つある。

 高ぶる目

 偽りを語る舌

 無実の人の血を流す手

 悪だくみを耕す心

 急いで悪に走る足

 虚偽を語る偽りの証人

 兄弟の間に争いを引き起こす者

 カトリック教会ではよく、”謙遜”が説かれる。しかし、説く人が、見せかけの”謙遜”の人であれば、心の目は高慢で、聞き手に「良き知らせ」は伝わらない。そして、自分を誤魔化すための笑顔から自分の功績を吹聴し、悦に入り、自分自身の”謙遜”の深さを神妙に説く。自分が認められたい一心での言葉選びと所作は、本人を知る聞き手にとっては、終始、滑稽でしかない。まさしく”謙遜”に見せかける「高慢」である。

 よく教会では、「人を見てはいけない」と言われる。「カトリック教会の中心はイエスであり、ミサである」と。しかし、なぜ今、教会のミサに与る日本人が減っているのか。コロナの影響だけではなさそうだ。

 先日の久しぶりの教区の集まりは、若者の居ない不自然な『敬老会』と言っても過言ではなかった。教会の未来にビジョンを持って活動されていた先輩信徒方の姿さえ無かった。「これが教区の守りたい姿なのか」と寂しくなった。

 「カトリック教会は、信徒が○○に関与してはならない。信徒は意見してもならず、カトリック教会はそれを聞かない。これがカトリック教会」と言い切った今のトップ集団の思い通りの教会の姿。この状態に疑問を持つ信徒との話し合いの場では、真摯な問いかけに、「そう言ったかもしれないが忘れた」と、どこかの政治家のような発言。

 私たち女性に対する最大のパワハラは、カトリック教会だから、ということで許されるのか。「どうしてあなたは聖職者になろうとしたのですか?」との問いに「〇〇さんも、なったらいいでしょう。あっ、女は聖職者になれなかったね」と人を不快にさせる無神経な言葉しか返ってこなかった。

 私は決して聖職者になりたいとは思っていない。思ったこともない。私の質問の意味さえこの人は、分からないのだろうか。いや、初めから用意していた言葉なのか。女性蔑視と受け取れる彼の返答で女性たちの思いは一つになったー「少なくとも、この教区では、”シノドスの道”に希望はない」と。そして、何よりも、このような某聖職者の振る舞いを通して、「カトリックの聖職者には簡単になれる」ことを証明してしまった司教の責任は重い。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2022年12月5日