・「愛ある船旅への幻想曲」(48) カトリックの信仰と教会が別個にならないように

 「カトリックあい」の新年1月の巻頭言を読ませていただいた。執筆、編集者の方々の働きには敬服しかない。「カトリックあい」は、社会に適合したカトリック系独立インターネット新聞であると私は思っている。

 私が所属していた小教区は、某宣教会の司祭たちが司牧していた。それが、ある日突然、教区管理となった。信徒たちが知らないだけで、水面下では何かが動いていたのだろう。教区の方針が次々に伝達されて、あまりの変わりように、私たち信徒は面食らった。ましてや、他教区司祭が転任して来られての”教区の教会”のスタートだった。

 長く小教区に属していた信徒たちの戸惑いは、怒りとなり、「教会に文句は言わないけど、献金も金輪際、しない!」と訴えた。教区会議に出席した私は、「宣教会から教区になったら何がどう変わるのですか?」と質問したが、「何も変わらないし、いつでも、宣教会に戻れます」と笑いながらの答えが返って来ただけ。だが、実態は、決してそうではなかった。今は亡き信徒の方々の無念さが、よく分かる。

 他の信徒たちにとっても「教区って何?」という状態であった。教区司祭と宣教会司祭の役割や立場が違うことなど、知るすべもなかった。

 そして、教区の会議報告・議事録が小教区には発表されず、会議に参加していない宣教会司祭にも伝えられない状態が続いていた。その後、いくらか改善されたものの、教区が作成、発表した議事録に書かれたやり取りが、信徒が報告した内容と違ったことがあった。この時は、教区の議事録の方が正しいとされたが、このような食い違いがあってはならない。教区会議に出る信徒代表は信徒たちの意見を把握し、結果も正確に報告することが重要だろう。

 後に、自分自身が教区の会議に出席するようになったが、回を重ねるたびに「おかしい!」と思うことが増えた。だが、質問しても納得できる答えはなく、カトリック組織の在り方に幼稚さを感じ続けた。会議の大半の時間は会計報告にあてられ、討議すべき議題は後回しだ。他の出席者たちも、「教区の会議はお金しか興味がないのか」と疑問を呈していた。

 私たちは「小教区あっての教区でしょう」と小教区が財政的にも自立を保てるようにするよう主張し続けた。だが、”トップ集団”から、「そうじゃない。教区あっての小教区だ」と一蹴され、「そんな信徒はいらん」とまで言われた。全ての小教区の運営が困難になったら、教区はどうなるのか、私たち信徒は百も承知だった。

 そして、「教会とは何?」と考えるようになった。森司教様の著書を読んでいた私は、ある日,『カトリックあい』に出会った。その後、当時の担当司祭が「森司教を黙想会指導にお呼びしましょうか」と言われた時には、私は飛び上がって喜んだ。そして、私は森司教様本人と出会ったわけである。1対1で話をする機会があり、初対面の私に「あなたも書きなさい」と言われたことが頭から離れず、、今やこのように辛口コラムを書かせていただいている訳である。

 私とて、カトリック信徒として”ほんわかしたこと”を書こうとは思うのだが、「地方信徒の教会離れにはそれなりの原因がある、このままの教会でいいのか」と、捨て身覚悟の投稿を続けている。

 カトリックの信仰と教会が別個の状態にならないように、と願い、今日も「人間らしく自然体で生きていければ幸い」と思っている私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2025年1月30日

・カトリック精神を広める ⑮ミレニアル世代で初めての聖人に注目

 今年、ミレニアル世代(誕生年が1981年以降で2000年代で成人または、社会人となる世代)の最も若い「スニーカーの聖人」が誕生する。

 カトリックで言う聖人は、亡くなった後に与えられる最大の名誉で、賞の性格が異なるものの、生前に与えられるノーベル賞よりもはるかに格が高い。今年2025年、1991年生まれで、2006年15歳の時に、白血病で亡くなった福者カルロ・アクティス氏が聖人の位に列せられる予定になっており、ミレニアル世代生まれが聖人になるのは今回が初めてという。

 以下は、ウィキペディアやCNN等より引用。

 福者カルロ・アクティス氏は、1991年に英ロンドンで生まれ、幼少期にイタリア人の両親、アンドレア・アクティスとアントニア・サルツァーノとともにミラノに移住。彼は、どこにでもいる若者で、スニーカーをはき、ジーンズやスウェットシャツを着用し、「スーパーマリオ」や「ポケモン」を楽しむゲーマーであった。「歴史上初めて、ジーンズやスウェットシャツを着た聖人」、「スニーカーの聖人」となる予定である。

 彼は、独学でプログラミングを学び、『現代社会において教会に来る人が少ないのはご聖体のうちにイエズス・キリストが現存することを信じない人が多いからだ』と考え、9歳の時にご聖体の奇跡の研究に着手し、世界各地で発生した「ご聖体の奇跡」を収集したウェブサイトを誰の力も借りずに自力で立ち上げ」(カトリック・アクション同志会公式ホームページより引用)、コンピューターの技術を使ってカトリックの信仰を広めたことで「神のインフルエンサー」の異名を取った。

 また、両親が離婚したクラスメートを支えたり、いじめられている障害のある仲間を擁護したり、ミラノの路上生活者に食事や寝袋を提供する活動も行っていた。聖体の秘跡への賛美と聖母への崇敬が深く、毎日ミサに参加し、ロザリオを唱えていた、という。

 福者カルロ・アクティスが作成したウェブサイト<http://www.miracolieucaristici.org/en/Liste/list.html>より。

 2006年10月に白血病を発症。病気の苦しみを教皇と教会のために捧げ、同月モンツァのサン・ジェラルド病院で死去。ミラノのサンタ・マリア・セグレタ教会で葬儀が行われ、遺体は埋葬された。12年後、聖人の位に上げるのにふさわしい人かどうかを調べるために、2019年1月に遺体が発掘された。この時、聖人と認定される人がそうであるように、防腐剤等の死後の処置を施していないのに、遺体が腐敗せず、現在は、アッシジのサンタ・マリア・マッジョーレ教会で、そのご遺体を見ることができる。

 ところで、聖人の位に上げてもらうためには、死後2つの奇跡が必要で、アクティス氏の最初の奇跡は、ブラジルの7歳の少年が亡きアクティス氏のTシャツに触れた後、難病の膵臓疾患から回復したことである。これが奇跡であると教会に認められ、アクティス氏は2020年に列福され福者となった。もう一つの奇跡は、頭部の外傷から脳出血を起こしていたイタリア・フィレンツェの大学生を癒したことが、教会により第二の「奇跡」と認定された。
[cid:image001.png@01DB720C.CDCC64A0](「Holyロザリ屋」HPよりスクリーンショットでコピー)

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森川海守(舟木賢徳)〒247-0051 神奈川県鎌倉市岩瀬925番地 レーベンハイム鎌倉マナーハウス402号 TEL:0467-67-3419  携帯:080-5378-2327
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2025年1月30日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑧新年も、燃えて、輝いて、命いっぱいの人生を生きたい!

 謹賀新年-久しぶりにこの言葉を心底味わいながら、清々しい気持ちで、日本での正月を迎えました。乃木坂の修道院で、姉妹たちとすき焼を囲んで語らいながら… なんとも嬉しいですね。

 八十路の祖国での宣教再出発、燃えています。イエス様の喜びと平和の福音を胸とカバンに詰めて、今年の聖年、「希望の巡礼」の年を歩み始めました。初日曜、市川カトリック教会に出かけミサに与り、新刊『声に出して読む7歳からの聖書』と『愛と平和の使者マザーテレサの日めくり』(私の書)の2冊の本の紹介展示即売。教会の皆さんとの新年の出会いと初売り、晴佐久神父様の説教と『行きましょう…』に激励された嬉しい出初式でした。

 年末年始、改めて亜熱帯気候での来し方を、ぶるっと身震いしながら思い出しています。タイ国での宣教の日々、出会った人々が走馬灯のように浮かんできます。全てが神様の深い摂理のご配慮の裡(うち)にあり、今日に至った事、感謝と賛美のひと言です。

 過日、国際NGOのWorld Vision のスタッフ養成のため、宣教体験から私が生きた『塩と光』について話す機会がありました。このNGOは、キリスト教精神に基づいて、緊急人道支援や途上国援助をしたり、市民社会や関係国政府へ支援を働きかけたりしている機関で、対象国は100カ国に上ります。

 このNGOの職員としてカンボジアで働いていた方が、タイに立ち寄られ親しくなり、私が日本に帰ったのを知り、話を頼まれることになったわけです。出会いの不思議!

 『塩』は、ほんの少し、人生をおいしく味付けし、役割を果たしたら見えなくなる…。『光』は出会う人々の道を照らすために、蝋燭のように『私』を灯しながら生きる—確かに、私の全てを精一杯、灯して、溶けて、生きて、消えていく人生でした。神様ありがとう、出会ったすべての人にありがとう。

 新しい年も、燃えて、輝いて、命いっぱいの人生を生きたいと思います。コラムを愛読してくださる皆さん、心よりの祝賀とお祈りを捧げています。

 『汝らは地の塩なり、世の光なり』(マタイ福音書5章13-14節)。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年1月11日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㊳新年の抱負を立てる意味は

*一年の計は元旦にあり

 新しい年の始まりに、仕事や勉強、ダイエットなど、様々な新たな目標や挑戦のために計画を立てる方が多いのではないでしょうか。一方「「新年の抱負なんて馬鹿げている」とお思いになる方も少なくないでしょう。

 そもそも、新しい年が始まる日付は、様々な背景や理由により実は恣意的なものなのだ、といわれています。例えば、バビロニアや古代ローマでは3月(マルティウス=Martius)、ドイツやイギリスは13世紀まで12月25日のクリスマス、中国では太陰暦の月の満ち欠けの周期をもとに、設定されています。そして、我らカトリック教会の典礼暦では、待降節初日が一年の始まりとされています。従って、新しい目標や抱負を立てるのに、わざわざ1月まで待つ理由はない、というわけです。

 また、世の中で行われてきた多種多様な調査をみると、「私たちが立てた新年の抱負の概ね90%以上は、その1年を通して持続しない」ともいわれています。とりわけ1年の変化が急激で、自分の身の回りも社会全体もあっという間に変わってしまう今日の時代において、はたして「一年の計は元旦にあり」に意味があるのでしょうか。それでも、1月1日に自分の人生や生活に変化をもたらすような目標や抱負を立て続けおられる方が、少なくない。いろいろ言われているにもかかわらず、「それが素晴らしいことだ」と私も思っています。

*希望を持って、新たな出発

 新年の真の目的は、単に暦の変り目を告げることではなく、私たちの心と視界の再生に火を付けることだ、と思います。新年は、私たちに「新しい視点を受け入れ、新たな決意で前進し、勇気ある気概を強めるよう」と呼びかけています。新たな耳で聞き、明るい目で見、生きることの素晴らしさを再発見することを促しています。

 なぜなら、果敢な抱負がなければ、私たちは立ち止まってしまう危険があるからです。人生そのものが真新しいかのように、あえてもう一度始める勇気がなければ、変革の深遠な力を逃してしまいます。真に生きるとは、新たに出発することであり、神聖な刷新の可能性を受け入れることであり、天国の約束に一歩でも近づくために、希望を持って、新たに思い描かれた人生へと歩みを進める希望なのだ、と思います。

 主イエスは言われました。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)。希望は、私たちを新しい人間にしてくれます。「明日も昨日と同じに違いない」、「人生は決して変わらない」と考えるのは、「心の中で死ぬこと」と同じではないか、と思います。新年の抱負のような単純なものでさえ、神が私たちを希望の被造物として造られたことを認めることではないでしょうか。

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、日本に住むカトリック信徒)

2025年1月3日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉙年頭に…平和を願い求めて

 年の初めにあたって、改めて思いを馳せること—それは、平和です。いったいどうなってるんだろうか、と思うほど、世の中は、争い、不和、そして戦争に満ちています。それらが本来は良くないことだと分かっている(だろう)にもかかわらず、なぜ人間は、これほどまでに愚かなんだろうか、と思います。

 平和はしかし、何も国や民族のレベルだけのことではありません。一人ひとりの人間関係においても、さらには一人ひとりの人間においても求められます。つまり、今自分の心は穏やかであるかどうか、ということです。もしそうでなければ、人との平和な関係を築くことはできないでしょう。この不確かな自分を、いい点も悪い点も含めて、とりあえず受け容れられるかどうか、ということです。自分が自分と対立し合っているかぎり、私たちは、決して平和を享受することはできません。

 もし自分の中に平和を見出すことができたら、次は家族、学校や職場と少しずつ半径を大きくしていき、やがてそれは世界レベルにまで広がります。すべての人が、一つの中心を見定め、それを大切にしようとするなら、たとえ時間や労力がかかっても、平和の実現は不可能ではないでしょう。そのために、自分は、何を考え何を思い、そして何を行うかが、問われます。

 「一人のみどりごが私たちのために生まれ」(イザヤ書9章5節)ました。その子の名は、「平和の君」。これが、イエスのもう一つの名前です。彼は、「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙4章15節)と語られます。その彼が、復活の後、恐怖の中にある弟子たちに現われて、こう語ります—「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ福音書20章19、21、26節)。

 かつて、マザー・テレサは、こう語りました—「沈黙の実りは祈り、祈りの実りは信仰、信仰の実りは愛、愛の実りは奉仕、奉仕の実りは平和」。真の平和は、一人ひとりが、自らに囁きかける神の言葉に耳を傾け、心を開き、静かにそれを聴くことから始まるのでしょう。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2025年1月2日

・共に歩む信仰に向けて ①一陽来復-聖家族と、その真逆の家族を考える

 昨年は12月21日が冬至で、その後太陽神とも言えるイエスキリストの誕生を祝いました。古代の不敗太陽神の祝日をキリスト教が受け継いでイエスの誕生日として祝うようになったことは、よく知られていると思います。闇から光、日照時間が長くなっていく起点となる日です。陰から陽へ。一陽来復。

*聖家族の祝日

 その後、12月29日は「聖家族」の祝日でした。ミサの聖書個所はサムエル記上1章20∼28節、ルカ福音書2章41∼52節。イエス、マリア、ヨセフ。これを「聖家族」と呼び、模範とするようにと言われています。理想化されてきた面もあります。

 イエスは、肉の欲や人の欲によってではなく、「神によって生まれた」人です。第1朗読で出てきた預言者サムエルは、洗礼者ヨハネと同じように、長い間不妊の女であるにもかかわらず、ハンナの祈りによって神から恵まれて生まれた存在であり、それゆえ神との特別の結びつきがあり、神に捧げられる存在となったのでしょう。同様に、と言うか、それ以上にイエスもマリアという乙女から聖霊によって生まれたといわれ、特別な存在と見なされます。

 マリアとヨセフは、このイエス・キリストの成長のために尽くすという献身的生き方をしたのだ、とされています。これが実際にそうだったのかは、問わないでおきましょう。

*神殿に残るイエス・・

 さて、ルカの福音。イエスたち一行は過越祭の頃エルサレムに行きますが、その帰り、両親と一緒には帰らず、神殿にとどまって学者たちと話をしていた。どのような話をしていたのでしょうか。イエスには何か気懸りなことがあり、そのため両親には断りもしないまま、学者たちのところへ行ってしまったのではないか、と思います。何が気懸りで、どのような質問をしたのでしょうか。

 イエス当時のユダヤ教がどのようなものだったか考えますと、律法学者と大祭司、祭司たちによって形を与えられていました。律法学者は聖書の解釈を独占し、神殿祭司、大祭司は祭儀を取り仕切っていました。人々の宗教的生活の形を作っていた、と言えます。

 宗教かつ政治的にはサンヘドリン(最高法院)の71名が支配層として外国の支配者たちとも妥協しながらやっていた。それらを嫌って、砂漠に入って修道的な生活をしていたのがエッセネ派などでした。イエスの家族ほか一行がエルサレム詣でをしたのは、過越祭の時です。

*イエスが問いかけたのは何だったのだろう

 イエスは昔からずっと行われてきたこと、具体的には律法のたくさんの規定を守ることや動物の犠牲を捧げたりすることを今も神は望んでいるのか、つまりこれらによってユダヤ人は神に良しとされるのかどうかについて、学者たちに尋ねていたのではないでしょうか。

 モーセの時代から自分たちの先祖がどう生きてきたかを振り返ってみても、外国の神々を持ち込んで信仰したり、神の望まない行ないをしたりして、救いがたい状況にあった。それで神は預言者を遣わして、そんなことをしていてはダメだよ、律法を守りなさい、そうでないと、大きな災いに見舞われるだろう、と警告しました。

 さらに、大部分の人々は律法を守っていないし、守れない、だから預言者たちは律法と祭儀はもはや無効であり、そのような礼拝を神は喜んでいない、新しいことが始まらなければ、このままではダメだろう、民の罪や過ちを担うメシアを送ってくださる、と預言されている、と聞いている。

 預言者たちが、これではダメだ、と言ったことを継続している現在のユダヤ教はどうなのでしょうかと、そんなことをイエスは念頭に置いて、学者たちがこの現状をどのように捉えているのかを質問していたのではないでしょうか。要するに、「もう古い時代は去り、新しい時代、預言者エレミヤたちが言った新しい契約の時代が来るはずではないのか」という問いかけです。

 当時イエスがおられて地方では、満13歳が法的な成人だった、といわれます。12歳のイエスはどのような意識を持っていたのでしょうか。現代でも幼少期に大病を患っている子は普通以上にしっかりしていて、大人びた考えをすることがあるようですから、12歳のイエスはわれわれの想像以上にしっかりした考えを持っていただろうと考えていいのかも知れません。

*少年イエスの意識は・・・

 両親がイエスを探して神殿に戻ってきた時、イエスが言った言葉、「私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」は、イエスが自分もサムエルのように神に捧げられた人間ではないのだろうか、神との交わりを深めていくことが自分の務めではないのだろうかと、そういった意識というか、自覚が芽生えていたのではないでしょうか。だから「自分の父の家にいる…」のだと。

 それから彼ら一家はナザレに帰ります。「両親に仕えてお暮しになった」とあります。「両親に仕えて」というのが、現代の民主主義の国に住む私たちにとっては違和感がありますが、父子の序、長幼の序を守るような習慣があったのでしょう。イエスの「両親に仕える」が、後に社会や民族を視野において「神に仕える」に移行していくのだろうと思います。

*聖家族は「模範」か?

 聖家族を私たちの模範とすべき、とか言われてきました。私たちとしては、イエス・キリストへの信仰を中心として、家族のみんなを思いやりながら生活すべきだ、ということでしょうか。理想通りには行かないでしょうが、家族の間に相互の思いやりがあって、一人が過ちを犯したり欠点や病気があっても、それをカバーして共に生きる、足りないところを補い、赦し合って生きていければいいのでは、と思います。イエス・キリストを光、太陽としてあおぎながらです。

*真逆な家族もたくさんある…「アジャセの家族」の場合は

聖家族とは真逆な家族も、たくさんあります。例えば父親殺しの家族。古代ギリシャのオイディプスの家族も、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の家族も、そしてこれから紹介するアジャセの家族もそうです。イエス、マリアとヨセフという聖家族はキリスト教を開いたと言えますが、同様に、父親殺しの家族も新しい宗教を開いたのです。観無量寿経に記されている「王舎城の悲劇」がそのことを伝えています。

 紀元前600年頃のインドのマガダ国の王ビンバシャラ、その王妃韋提希(イダイケ)、その王子アジャセという家族、そしてアジャセの悪友提婆達多(ダイバダッタ)の物語です。単純化して言うと、提婆達多は王子アジャセの友になり、彼をそそのかしてアジャセにとって父であり王であるビンバシャラを殺害させます。アジャセはさらに母親である韋提希夫人を牢獄に幽閉してしまいます。獄中の韋提希はこの俗世から逃れたいと思い、霊鷲山にいる世尊の教えを請い求めます。

 ブッダ(世尊、釈尊)は浄土の観想方法すなわち「救われる方法」を教えます。こうして新しい浄土教という道が人類に開かれることになりました。家族の悲劇が機縁となって、新しい宗教が開かれたのです。

*親鸞聖人の言葉―心の隅々まで照らす太陽神の光

 親鸞聖人は「弥陀如来の本願によって、煩悩の障りにも遮られずして、私どもの胸の奥底までも照らして下さる光明は、あらゆる煩悩の源である自力疑心の闇を破り、そして孤独な寂しい冷たい心を温めて下さる太陽であります」と述べています(『教行信証』の総序)。阿弥陀如来はアミターバ、太陽神、太陽霊です。どのように重い罪や煩悩を抱えていたとしても、我々の心の隅々にまで霊的な太陽の光は注いでくださるというのです。

 そして提婆達多、アジャセ、韋提希等は、われわれと同じ悪人凡夫です。その救いのために如来の本願があり仏菩薩の働きがあります。聖家族を模範とせよ、と言うのは、一面の真理ですが、父親殺しとまではいかなくとも悪人凡夫の家族のほうが圧倒的に多いはずです。こちらに救いがないわけではありません。陰から陽へ。「陰極まって陽に転じる」です。不幸は不幸で終わるわけではない。この世界にキリスト(太陽神)が存在する限り、希望も存在しているのですから。

 ところで、昨年まで「シノドスに思う」で連載をしてきました。日本のカトリック教会はどうなるのでしょうか。「シノダルな教会」にしていこうという取り組みについて考えようという兆しは、まだ見られないようです。教会に依存した信仰、教会に期待する信仰は止めるべきなのかもしれません。新年はもっと主に信頼して歩みたいと思います。

*参考*山辺習学・赤沼智善共著『教行信証講義 教行の巻』法蔵館

(西方の一司祭)

2024年12月31日

・愛ある船旅への幻想曲 (47)学び合いの中学生グループの発した言葉に共感する私

 2025年、主のご降誕、新しい年の始まりおめでとうございます。信者未信者にとって、それぞれのクリスマス。戦争や自然災害で平和が壊されている国々のクリスマス…。一人ひとりの上にどのような意味があったのでしょうか。キリストの愛と平和が、皆さんの上にありますように、お祈りします

 年々、子供そして若者たちと接する環境に恵まれていることに喜び、感謝する日々をおくっている。互いに身構えることなく分かち合えるのは、毎回ユニークで考えさせられる問いを発する中学生グループだ。「イエスの教えを広めたのは、後の宣教師・聖職者だ、という本を読みました。それは、イエスが教えたことと違っているのではないか、ということを聞きましたが…」と。

 彼は、どこでその文章を見つけたのか。今の教会の問題はこれで一気に解決できそうな中学1年生からの質問に今回も姿勢を正した私である。後日、若者との集いでこの話をすると「的を得た質問ですね。新鮮であり素晴らしい」と。

 3年間の”シノドスの道”を歩んだはずのカトリック教会だが、日本の教会の現状は、どうだろう。クリスマスシーズン、馬小屋は洞窟に変わり、にぎやかなイルミネーションの飾り方は、若い外国人信徒の自国の風習によるデコレーションであることが一目瞭然である。各教会ともに多種多様性の時代を感じる1シーンがそこにあり、黙想会の指導司教は、外国人に感謝の言葉を最後に述べておられた。

 私が知る地方の教会は、限られた日本人女性が中心となり奉仕されている。日本人信徒の高齢化が進み、日本人の若者のいない教会であるが、ほとんどの司祭は、「このままの教会の姿がずっと続くだろう」と思っているようだ。司祭がそれで良しとするならば何も言うことはない。

 そんな中、シノドスと真剣に取り組み最終文書も、既に目を通された司祭がおられることも知っている。教会について、人間として、信徒の視線で考えを述べてくださる一司祭の存在に安心する私である。

 私とて、今の教会を支える世代、後に続く世代のいく末も、同じかもしれない、と思っている。これは、「教区の方針に合う信徒しか、教区には必要ない」、つまり「司教の意見に従う信徒しか要らない」(!)と私たちに言ったことから、”正しい見方”であろう。

 何を訴えても、聖職者と圧倒的な力の差があること、自分を守るだけの信徒の状態から、「愛がない教会」と実感してカトリック教会を離れた信徒。それでも神からは離れられない信徒が、私の周りで何人プロテスタント教会また正教会に行っていることか。

 私の知る限りでは、若い牧師のプロテスタント教会に、以前から若者と子供たちが多く集い和気あいあいの教会の姿がある。日本で正教会は珍しいが、司祭が唱える長い祈祷文に感動し、祈りと愛の深さを知らされるのを経験する。結局、男女の愛、家族の愛を知らなければ、人は愛を語れないだろう。頭で考えるだけの愛には、人間らしさも優しさもない。これからは、人間イエスの教会を求めて人が集まるに違いない、と私は思っている。

 「どこのカトリック教会もおばあさんばかりですね。たまにおじいさんもいますが」という、若い外国人信徒の感想を皆さんお聞きになったこたことがあるだろうか?私は彼に一票だ。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年12月31日

・神様からの贈り物 ⑰20年前に訪れたカレン族の村で祈る体験を通して今、思うこと

  明けましておめでとうございます!

 今から20年前の1月に訪れた、タイ北部の山岳地帯にあるカレン族の村での体験は、私自身を構成する欠かせない要素です。日に焼けた手で、私の白い手をぎゅっと握りしめて歓迎してもらった時の喜びは、当時の2倍の年齢になった今でも、鮮明に思い出せます。

 カレン族の文化には「食事を相手に食べてもらうことが祝福」というものがありました。未信者だった私は、祝福という言葉がぴんときませんでした。けれども、お世話役のシスターの「祝福を断るなんてできないから、出されたものは、一口でもいいから食べてね」と念を押されました。食べ終わると、隣の家からも「オメ(ご飯だよ)」と声がかかりました。そんなことを繰り返して、私は朝ごはんを3回も食べることになりました。

 どの家へ行っても、村人たちは食事の前に、十字を切りました。十字を切る姿は、まるで呼吸をするように自然な動きでした。見よう見まねで私もやってみましたが、うまくいきませんでした。

 ある夕方、私の家のモーモー(お母さん)と、のんびり湯冷ましを飲んでいたら、遠くの方から、カーン、カーン!と鐘の音がしました。それを聞いたモーモーの表情が、ぱっと明るくなり「ミサ!」と嬉しそうな声をあげました。その様子を見た私も、なんだかウキウキした気持ちになりました。

 私たちは、手をつないで教会へ向かいました。日はあっという間に傾き、村人たちが、続々と、焦げ茶色をした木造の教会の入り口に吸い込まれていきました。電気が通っていない教会なのに、ぼんやり明るかったです。中に入ってみると、一人一人のそばには、小さなロウソクが立ててあった。となりのロウソクの灯りをもらって、少し溶けたロウを、丁寧にぽとりと床に垂らし、その上にロウソクを立てるーその丁寧な手つきから、もう神聖なミサが始まっていると感じました。

 山岳地帯の冬の夜は、信じられないほど寒いものでした。床に直に座るので、冷え込みが強く、私たちは、毛糸の帽子をかぶり、ダウン着込んだ状態で、ミサに与りました。

 司祭から「祈りましょう」という声があり、お御堂がしんと静まり返りました。その時、私はどうしてもモーモーがどんな風に祈るのか、気になってしまいました。そっと盗み見るように、私は目だけを彼女の方へ向けました。すると、彼女は、いつもの賑やかさから程遠い、静かで清らかなのに、密度の高い空気をまとっていたのです。手を合わせ、目を閉じた彼女の顔を、足元からのろうそくの光が、照らしていました。その様子を見て「祈りは、信者にとって、何よりも大事な時間なんだ」と初めて知りました。「祈りは、神様との親密な語らいの時間だ」だと体感した瞬間でした。

 ミサが終わると、モーモーはいつもの明るい笑顔を見せ、私の手を取り、にぎやかに話しながら、家路へ向かいました。このような祈りの時間の積み重ねが、彼女の生活を作っていることが、すとんと胸に落ちました。

*****

 「過去と人は変えられない。変えられるのは、自分だけだ」とは、よく聞く言葉です。そして、祈りもまた、どんなにお願い事をしても、「過去や周囲の人間たちを変えるわけではなさそうだ」と感じます。ただ、祈ることで、私自身が変化するのは実感します。環境や状況は、簡単には変わらないけれども、私自身が変化を拒むことさえしなければ、未来は明るいものになるという気持ちです。

 2025年1月、皆様にとって今月が素晴らしい一年のスタートでありますように!!

(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)

2024年12月31日

・カトリック精神を広める⑭ 神様からの呼び掛け:聖マリアの場合

 

 あなたは信じるだろうか?神様から直接人間に呼び掛けることがあることを。

  聖マリアの場合は、ルカ福音書1章によると、天使ガブリエルが神から遣わされてマリアのもとを訪れて、こう言ったという。当時、マリアは16歳。既に、婚約者のヨゼフがいた。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる… マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(28∼32章)。

 これに対し、マリアは「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」。 当然ではある。未婚なのだから。これに対し、天使ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(34~37節)。

 これに対するマリアの答えは、秀逸である。マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。

  ここで重要なことは、いわゆる「処女懐胎」である。当時も今も、結婚していないのに、身ごもるなら、世間から白い目で見られるのは必至。それなのに、マリアは、「私は主の仕え女です」と言い、「お言葉通りになりますように」と述べている。この謙虚さの故に、人類は今も神への取り次ぎをお願いしている。

  婚約者のヨゼフは、マリアが身ごもっていることを知って、密かに別れようとしたが、夢の中で天使が現れ、「恐れず、マリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1章20~21節)。

  マリアは、息子のイエス・キリストのご受難に際して、ペトロはじめ弟子たちが離れていったのに、十字架上で死ぬまで、キリストに付き添い、最後はヨハネに引き取られた(ヨハネ福音書19章)。亡くなった後、マリアは肉体も霊魂も天に上げられたと信仰され、 1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布している。

 

横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ:https://www.morikawa12.com(X ツイッター:https://x.com/morikawa121(楽天ブログ: https://plaza.rakuten.co.jp/morikawa12/

2024年12月31日

・菊地・新枢機卿:12月7日の枢機卿会とその後の動きは・・

2024年12月14日 (土) 今週の週刊大司教はお休みです。

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  お待ちいただいている皆様には申し訳ありません。枢機卿会などの出張が重なり撮影が間に合わなかったため、12月14日の週刊大司教はお休みとさせてください。  来週12月21日は、午前11時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、枢機卿叙任の感謝ミサを捧げる予定です。また週刊大司教も再開するようにいたします。お待ちください。

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  12月7日夕方の枢機卿会では、教皇様の前に順番に進み出て。ビレッタ(儀式用の帽子)と指輪をいただきました。デザインは写真の通りですが、前田枢機卿様も同じ指輪でしたので、共通の指輪かと思います。ペトロとパウロの姿が刻まれています。事前に制作している工房でサイズ合わせをしました。

  これらをいただいた後に白い筒をいただきました。この中には教皇様からの枢機卿親任の書簡と、その中に。名義教会名が記されています。前回も記しましたが、ローマ教区の小教区でSan Giovanni Leonardiと言う教会です。現在、来年の着座式の日程を調整中です。

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  これらをいただいた後に、出席してくださった先輩の枢機卿様の全員とあいさつを交わしました。一人一人を回りましたので、かなりの時間を要しました。私にとっては、司教枢機卿として一番前の列におられたタグレ枢機卿様やタクソン枢機卿様にはお世話になってきたので、お祝いしていただいたのは感謝の一言でした。

  それ以外にも、これまでのカリタスでの務めを通じて存じ上げている枢機卿様がたくさんおられたので、あいさつ回りは感動の連続でした。(写真右は、タグレ枢機卿とあいさつのハグをしているところ)

 また、枢機卿会後には、バチカン美術館内のギャラリーに場所を移して、一人一人の新しい枢機卿がブースを設け、おいでいただいた方々のお祝いを受けるという儀式もありました。ここImg20241210wa0004にも多くの方に来ていただき、感謝です。今回は21名も新しい枢機卿が誕生したために、この会場に入る入口は大混乱であったと後からうかがいました。

 12月9日の月曜には、駐バチカン日本大使公邸をお借りして、レセプションを開いていただきました。日本大使公邸の準備される和食には定評があり、多くの外交関係者が集まると聞いていましたが、その通りでした。多くの国の大使の皆様に来ていただきました。

 バチカンからも、外交をつかさどる国務次官のギャラガー大司教をはじめ、典礼秘跡省長官のローチェ枢機卿、福音宣教省のタグレ枢機卿、そして海外出張に出かけるために空港に向かう途中によってくださったタクソン枢機卿、昨年のシノドスでお世話になった外交官養成所アカデミアの校長ペナッキオ大司教、神言会の総本部の皆さん、ローマ在住のカトリック日本人会の皆さん、国際カリタスの本部事務局の皆さんなど、多くの方に来ていただき、さらには多くのメディア関係者も来てくださり感謝でした。前田枢機卿様は、お得意の一句を披露されながら、乾杯の音頭を取ってくださいました。ありがとうございます。

 水曜日の昼に、前田枢機卿様とともに帰国し、そのまま夕方は麹町教会で司教団主催の教皇訪日5周年記念感謝ミサをささげ、その翌日は臨時司教総会でした。そのようなわけで、新しい枢機卿の服に変わってから、週刊大司教を撮影する時間をとれませんでした。

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 皆様のお祈りとお祝いの言葉に、心から感謝申し上げます。今後とも、お祈りを持って支えてくださるようにお願い申し上げます。

(菊地功・東京大司教・枢機卿)

2024年12月15日

・愛ある船旅への幻想曲 (46) 待降節、黙想会の季節に思う…

    12月1日、待降節C年第1主日となった。

   各小教区では、恒例の待降節黙想会が開催されたことだろう。私は、黙想会の指導者(スピーカー)とテーマには興味津々である。今を生きる司祭司教方が語る教会の姿とご自身の思い、そして、聖書の解釈等々新しい導きを期待するのである。信徒として真面目に自分の宗教を考えているなら、聖職者からの黙想指導は必要である。

 最近では、自分よりも若い司祭方の指導を受ける信徒がほとんどだろう。時として以前の神学校の指導とは違うのでは⁉︎と、彼らから感じるのは私だけだろうか。

 先の衆議院選挙の時、いつも正直な辛口同級生は「今は、自分よりも若い政治家達が圧倒的に多いことを忘れてはいけないよ。年寄りが何言ってるんだと言われる年なんだよ、我々は。それを忘れてはダメだよ」と。「いやいや、私の気持ちは今も若いんですけど」とは言えず、そんなことを考える年なんだ、と改めて認識した次第である。教会でもそのことを肝に銘じて生きていかねばならないのかも知れない。

 待降節は、クリスマスを準備する期間である。スピーカーがどのようにイエスとマリアとヨセフを語るかによって黙想の中身も変わってくる。いろんなドラマを見たい好奇心旺盛の私であるが、何よりもイエスをもっともっと、知りたいのである。私自身、結構沢山イエスについての本を読んでいるとは思うのだが、未だに謎だらけのイエス。青年たちにも「イエスについて新しい発見があれば教えてね」と言い続けている。

 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ福音書21章25節)

 イエスは教会の中心でありリーダーである。人間イエスはどのように生きたのか。なぜ短い生涯だったのか等々、私たちが教会で生きていくためにはイエスについて分かち合うことが永遠の課題ではないだろうか。今教会が抱えている問題も、真のイエスを知っているなら起こり得なかったのではないか。(教会に多々ある問題すら知らない信者は多いが)。

 「日本ではイエス・キリストの教えが受け入れられにくい」と言われている。しかし、その日本で、キリスト教を伝えることに尽力された聖職者や信徒の書籍も多々ある。『信者としての苦しみ』を大なり小なり経験した著者故に発表できたのだろう。

 そんな彼らには信仰を語り合う良き友と師と仰ぐ聖職者の存在があった。羨ましい限りである。なぜならば、今、ミサ中に毎週、司祭から福音説教が聞けない教会がある。言い換えれば、司祭として福音宣教ができないのかも知れない。司祭職で大事な働きは何?と考えてしまう。これでは今も使命を持って一生懸命働いている老司祭や、教会を正しく導こうとしておられる司祭方の面目が丸潰れであろう。

 偶然にも「カトリック・あい」に掲載中の教皇連続講話「聖霊について」⑯は「説教をする人」について、「説教によってキリストを宣べ伝えるために、聖霊の恵みを祈らなければなりません」と言われている。ホッとした私である。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 最後に申し上げたいことがある。講話の中で「自分は結婚したかった。子供が欲しかった」と話される司祭方が多い。「だから⁈」と信徒の私は言いたいのである。。司祭の独身制にはいろいろな意味があるのも承知であるが、何よりも人間として自然に生きることがこれからの教会には必要、と私は思っている。「互いに愛し合いなさい」―この言葉の意味は深い。。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年12月5日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑦長崎で手話の「主和会」を発足させて40周年!

   タイの人々は進取の気性に富み、新しい物事に興味を持ちすぐ取り入れる。「気持ちが若いなぁ」といつも感心していました。そんな気風の中で長く生活して、「頑固な私のこだわり性も随分影響されたなぁ」と感じています。

 タイ国のスマホ普及率は人口を上回る123% 、使い勝手もよい。ある日、バンコクの電車の中で、スマホを鏡にかざして手話でカメラ通話している姿に出会いました。本当に嬉しい驚きで、やった!と、思いました。聾唖の障害を持つ人々にとって便利至極なスマートフォン、懐かしい長崎の聾唖友人仲間を思い出しました。

 40 年前、長崎勤務の頃、仕事の合間に手話講座に通い、勉強していた時のこと。ある日、「カトリック信者の多い長崎にも聾唖者がいるはず、調べたけど見つからない」と26聖人記念聖堂の故林神父様が書院にいらしてポツリ。ほんとにね、と思いました。

 それから聾唖のカトリック信者を探し、見つかりました。10余人。折良く手話の勉強会で、名古屋から転任された神言会の飯野神父様に出会い、話が決まり、急遽、手話ミサの準備を始めました。故結城了悟神父様のご配慮で、26聖人の記念聖堂でミサと初の集いをすることになり、10数通のお知らせの手紙を出しました。

 そして最初の手話のミサ。本当に、嬉しい暖かい集いの誕生でした。私は”助産婦”、誇りに思っています。名前は「主和会」と名付けられました。里脇枢機卿様の承認を得て、指導司祭もいただいて典礼行事には手話通訳が付き、正義と平和全国大会で

も手話通訳を付けるなど、毎月の手話ミサ、勉強会、 小教区をめぐっての手話ミサ… 、ボランティアも増え着実に成長しました。10年後、佐世保地区で「みことば会」も誕生。

 しっかりと歩み始めた主和会を神様にお任せして、私は大阪に転勤、次いでタイ国に派遣されて30年。今年は主和会40周年(みことば会30周年)、11月4日、お二人の大司教様をお招きして、長崎西町教会で感謝のミサと祝賀会が行われました。タイでの宣教を終え日本に帰った私への神様からの素晴らしい贈り物でした。久しく手話を使っていませんでしたが、皆の顔を見ると嬉しくて、手が動き出しました。心のこもった喜びに、はち切れそうな出会いでした。

 心の手と手で語らい、結ばれ、神様からの愛と喜び、希望の火が人々の心に灯されますように。スマートフォーンを大いに活躍させて、素敵なクリスマスを準備しお迎えください、マラナタ。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2024年12月3日

・“シノドスの道”に思う⑱ シノドスの最終文書後に向かう先は・・

*「洗礼による尊厳」から「秘跡」が出てくる

最終文書第15項から「神の民としての教会、一致の秘跡としての教会」という第2バチカン公会議の考えです。三位一体の神の名によって洗礼を受けた人々は「神の民」となり、まだ洗礼を受けていない人々に対してこの民は「しるし、秘跡」となります。そのため教会の外に向かって派遣され、宣教する召命を頂いていると言っています。

 教会すなわち神の民は洗礼において同じ一つの霊から飲んでいるので、「洗礼の尊厳(洗礼による尊厳)」はすべての人に等しく与えられています。この等しく与えられた「洗礼による尊厳以上に高いもの・優れているものは何もない(第21項)のです。種々のカリスマや召命や奉仕職があってもです。ぶどうの木の枝のようにすべての人はキリストにつながっている。

*「シノダリティを優先するヒエラルキー」であるべきだが・・

この「秘跡・しるし」としての教会の中に 洗礼、ユーカリスト(聖体)、叙階などの7つの秘跡があります。ですから ある人が司教になっても「最も高い・優れている」と言われている洗礼による尊厳を上回るものではないのです。だからこそ「共に歩む」というシノダルな教会でなければならないし、可能なはずです。

 ただ制度の中で司教たちは「叙階」されることで、それが「秘跡」とされ、教会に奉仕する務めを見える形で受けている、公認されていると言えます(第32,33項)。洗礼も叙階も同じ秘跡だとすれば、洗礼の秘跡のほうが初めであり基本であるのですから、ヒエラルキーよりもシノダリティの方を、もっと重視した教会制度にしなければならないのではないでしょうか。

*聖なる人と一般信徒(俗人) の区別の歴史

いつから叙階が 「秘跡」 だと主張されるようになったのでしょうか。聖書には、教会の指導者を選ぶとき、 使徒が相応しい、と判断した人に「手を置いて 祈った」(使徒言行録13章3節)とし、洗礼のとき、その人の上に「手を置く」と聖霊が降った、とあります(同19章6節)。ですから叙階が秘跡と呼ばれるようになる以前から、「手を置いて聖別する」という形が習慣となり、それが叙階であり、聖なる務めのためのものという理解は早くからあったでしょう。

 しかしながら典礼史のユングマンは『古代キリスト教典礼史』の中で「祭司」(ヒエレウス、サチェルドス)という異教の用語を、キリスト教の司教や司祭に用いることは、長いこと避けられていた、はばかられていた、と2度も述べています。

 なぜなら異教における「人と神との仲介者」としての犠牲・いけにえを捧げる祭司は、キリスト教ではイエス・キリストのみであるからです。ようやく2世紀の終わり頃になって「祭司」という語が使われ
るようになったとユングマンは言っています。

 米田彰男(ドミニコ会司祭)によると、テルトゥリアヌス、ヒッポリュトスあたりから、そしてオリゲネスあたりで、キリスト者の奉仕職にためらいもなく「祭司」の名称を与えていく(『神と人との記憶―ミサの根源―』知泉書館 )ペトロの手紙1にあるように、神の民、「共同体」全体が祭司職を担うにもかかわらずです。

 そしてコンスタンチヌス帝によるキリスト教公認と国教化以降、司祭 司教は社会的な権力も与えられていき、一般信徒との区別は明確になっていきます。「神と人との仲介者は、人であるキリスト・イエ
スただ一人です」(テモテへの手紙1・2章5節)という重要な真理は徐々に忘れられていきました。

 話が飛びますが、第2ラテラン公会議(西暦113 年)の決議では「主の御聖体と御血の秘跡」とはありますが、奉仕職については「聖なる奉仕職」とだけ書かれています。1274年の第2リヨン公会議では「教会の秘跡は7つ であり、そのうちの一つ、叙階は秘跡である」と明確化されています。

*最終文書で「シノダリティはヒエラルキーの枠内で」となっている

初めに申し上げたように、まず「洗礼の秘跡」があり、その上で、その中のある人々が「叙階という秘跡」によって聖職者になるわけですが、その権威は制度としての教会が与えることは、誰もが納得するでしょう。しかしその権威が「使徒に由来する」とか、さらには「神に由来するものである」と断言されると、容易には受け入れ難いのではないでしょうか。

 第2バチカン公会議『教会憲章』で、ヒエラルキー、すなわち位階制度は「キリストが使徒たちに託した神的なもの」であると言いました。今回の最終文書でも、シノダリティは位階制度の枠内で具体化されていくことが随所に見られます。

 例えば、第68項を見ると「第二バチカン公会議は、神的に設立された叙階による奉仕職が種々の位階において、すなわち古代から、司教、司祭、助祭と呼ばれてきた人々によって行使されている」ことを想起させています(教会憲章28項) 最終文書の第33項にも「司牧者の権威は教会という体全体を建てるため頭(かしら)であるキリストの霊の特別な賜物である。この賜物は司牧者をキリストに似た姿にする叙階の秘跡に結ばれている」とあります。

 こういった理解は上述してきたように、容認するのが難しくなっていると言わざるを得ません。また実際、世界各国で聖職者による性的虐待が蔓延していることを考えると、なおさらです。

*男女は「同じ尊厳」を有するが「平等」ではない?

 最終文書にも引用されているガラテヤ書3章の言葉「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」を文字通り受け入れるなら、男女は平等なはずです。ところが第52項では、男女の不平等は神の計画の中にはないが、男女の違いはある、男女の「この違いは神からの贈り物であり、生命の源泉である。男女間の等しい尊厳と相互性を尊重する関係のなかで生きようとするとき、私たちは福音を証しするのです」と。相互性とは相補性・補完性とほぼ同義です。

 男女の違い、という考えは、教皇フランシスコの『福音の喜び』にも見られます。男女は等しく尊厳を有しているが、女性には母性に表れるような特別の気配りがある。しかし「聖体の秘跡によって受け渡された花婿としてのキリストのしるしとして、司祭職は男性に留保されます。・・ここで考えられているのは役割であって、尊厳や聖性ではありません」(104項)と。つまり尊厳は男女とも同じであるが、役割が男と女では違うのだ、というのです。

 「カトリック・あい」1月のコラムで紹介したように、バチカンは「平等」という言葉を避けたがっているように見えます。第52項と第60項で「等しい尊厳equal dignity」という言葉は出てきますが、平等equalityという言葉は一度も出てきません。男女は同じ尊厳を有するが、平等ではない、と。

*教皇フランシスコの不合理な説

男性と同じ尊厳を持ち、同じ指導者としての役割を担う能力を女性が持っているのなら、「女性を助祭叙階できない」というのは、なかなか理解できないことです。ちなみに「ActionPurple Stole」という女性の助祭 司祭叙階を求める団体が各国にあり、保守的な司教が3人もいる南ドイツでも活動しています 。

 またこの団体のウェブサイトを見ますと、America Magazineとのインタビュー(2022年11月)で、教皇フランシスコは、女性と男性を分ける独特な考え方をしていて、「女性の司祭叙階を認められない」という説を紹介しています。

*一歩前進した「意思決定のプロセス

最終文書の第87∼94項で、教区や小教区その他で何かを決めるとき、そこに誰が参加してどのようなプロセスを経て決めるのかが、示されています。今シノドス総会の第1会期よりも第2会期で議論は深まったのでしょうか。

 第2会期に向けた 討議要綱』において意思決定のプロセスがどう記述されていたかについては、このコラムの「シノドスの道に思う⑮」で詳しく書きました。そこに書いたことから進展はほとんどないと思います。92項で、現行の教会法典にある「参考投票権のみ」とあるのは再検討されるべきで、シノダルな観点から諮問・協議と決議の違いと関係が明確になるように改訂すべきである、としているの
は前進ですが、決議権(決議投票権)も下位の者に与えるとは言っていません。

 すでに存在している団体や組織をシノダルに参加させること、差異化された共同責任、つまり位階制に基づく違いによる働きに基づいて参加することを促す、としています。ヒエラルキーの枠内においてです。また92項「シノダルな教会において、司教、司教団、ローマ司教の権威は、キリストによって設立された教会の位階制構造に基づいたものなので、意思決定のプロセスにおける決議権は彼らすなわち司教、司教団、ローマ司教に不可侵のものである」と、権威の不可侵性を主張しています。これではシノダリティが窒息することが危惧されます。

*「共に」が実現するか否かは 結局司教の意思と能力次第・・

 その他、シノダルな教会になるために一般信徒がもっと教会の活動に「参加」して奉仕の幅や場を広げることが66、75∼77項など、また「参加する団体や組織」を既存のものだけでなく新設することなどが103~108項に書かれていますが、果たして司教たちが率先して実行するのかどうか・・。指導力、実行力、組織力、責任負担能力・・そういったものを「神の国」建設のために持ちうる司教がいるのかどうか。

 信徒がいくら「共に」と声を上げても、司教が「否」と言えば、それでお終いになりそうな「意思決定のプロセス」から「透明性、説明責任」(95~99項)となっているように思います。司教、司祭と信徒の間の「信頼」(97項)の欠如、そして聖職者主義(98項)が、密かに日本の教会には蔓延しているように思います。

*信者団体「我らが教会」の主張

このコラムで何度か紹介したこの団体は、国際的に37か国に広がっています。

 今回のシノドスで残された問題に関して、 女性の助祭叙階だけでなく、①女性司祭、司教の叙階を求めていく② これまで司祭だけに限られていた指導的な仕事を、ジェンダーや性的指向や独身か既婚かなどに関係なく、誰であっても適切な人物に与えること③ 司教や司祭と、各分野の参加団体の間のルールを明確化して多数者の意見が無駄にされないようにすること④ 司教の選出に当たって、一般信徒も選挙に参加できるようにすること⑤ 同性カップルの祝福⑥ 独身制の自由選択。叙階によるすべての奉仕職は、ジェンダーや性的指向や生活形態の如何にかかわらず、全信徒に開かれるべき、などが主張されています。

 また、これまでドイツの「シノドスの道」でシノドス委員会の設立に反対してきたバイエルン州の3教区の司教たちに、建設的に参加することを強く希望しています。因みにアイルランド人司祭Tony Flanneryは「今のところヨーロッパで脱中央集権化に挑戦しているのは、ドイツの司教たちだけのように思える」と述べています。

*民主主義を基底に据えた教会に

最後に、ご存知のように欧州連合EUは最初6か国からスタートし、現在27か国が加盟しています。民主的な政体を持つことが条件です。人間はどこかに誰かに従属して生きるのではなく「自由、平等、相互愛」の中で生きることを望むものではないでしょうか。カトリック教会も民主主義をベースにして、その上に教会独自のものを置くようにしないと、少なくとも民主的な国の人々は受け入れないのではないでしょうか。

 最終文書で結論が出なかった課題について10の研究グループが来年6月までに成果を公表することになっています。また来年7月にはドイツの教勢報告も出ます。注視していきたいと思います。なお今回をも
ちまして、この「シノドスの道に思う」の連載を終わりにします。これまでお読みくださいました皆様に心より感謝いたします。

 (西方の一司祭)

*参考資料=フランシスコ教皇『福音の喜び』(カトリック中央協議会)、第2ラテラン公会議等についてはDenzinger、The Sources of Catholic Dogma、 学術誌『クリオ』2018年5月、32号(東京大学)、Tony Flannery、From the Outside、Red Stripe Press。その他 We are Church、Action Purple Stole等のウェブサイト参照。

2024年12月2日

・カトリック精神を広める⑬ 神様からの呼び掛け:聖ヨハネ・ドン・ボスコの場合

 あなたは信じますか?神様から直接、人間に呼び掛けることがあるのを…

 筆者は、幼児の時に父親が一人息子の自分を置いて出奔したため、小学1年から中学3年まで、東京サレジオ学園で寄宿し、サレジオ小・中学校で教育を受けた。このように、サレジオ修道会は、全世界に、学校、大学だけで4,100ヶ所、日本では1926年にチマッチ神父が8人の司祭を連れて来日して以来、全国12支部に、教会、学校、職業学校等が設立されている。これらの事業を起こしたのが、聖ヨハネ・ドン・ボスコである。

 彼は、1815年イタリアの寒村に、貧しい農家の3人兄弟の末っ子として生まれ、2歳の時に父親が病没、母親に育てられた。9歳の時に見た夢がドン・ボスコの一生涯を決定づけたという。夢の内容はこうである。

 家の庭に大勢の子供がおり、遊んだりしていたが、中には神を呪うような言葉を吐く子供がおり、ボスコは、腕力で黙らせようとした時、全身を白いマントで覆ったイエス・キリストと聖母マリアとおぼしき人物が現れ、「げんこつはいけない、柔和と愛を持ってこの子供たちの友達になるのだよ」(「ドン・ボスコ自叙伝」ドンボスコ社)といってさとされた。物音で夢からさめたボスコは、朝食の時に母親に夢の内容を告げたら、「司祭になるのかもしれないね」と言われた。

 この夢は何度も見て、26歳の時にとうとう神父になり、時のイタリアで、職に付けずに悪に手を染める青少年のために、職業訓練を中心に身に着けさせる青少年教育に一生涯を捧げることとなった。

 神様からの呼び掛けを夢の形で受け取る例は、聖書の中でも散見される。聖ヨゼフが結婚前に、マリアが既に身ごもっていることを知った時に、穏便にマリアと分かれることを考えていた時に見た夢が、マリアとの結婚を後押ししたし、3人の博士が、キリストの誕生を祝った夜に見た夢が、帰路に時のヘロデ王に寄らずに別の道を通って帰国した例が挙げられる。

 

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年12月1日

・神様からの贈り物 ⑯メリー・クリスマス! すべての人に、愛と希望と喜びを!

 20年ほど前に洗礼を受けたばかりの私は、真っ白な心で希望にあふれていた。「信者になったのだから、きっと私は毎年クリスマスのミサに与るものだ」と疑いもしなかった。そう、あのクリスマスがやってくるまでは…。

 

 ☆ ☆ ☆ ☆

 8年ほど前、初めての入院から帰宅した。退院後の私が、『母の娘』としてではなく、『ひとりの人間』として歩み始めた時、母とのトラブルがたくさん起きた。母からは「こんなひどい娘、退院してこなければよかった。障害者のくせに、何もしないでごはん食べてずるい」と罵声を浴びせられた。父は、その様子をただ見ているだけで、止めようとはしなかった。

 さらにショックだったのは、担当医に、幼少期から母にされて辛かったことを相談した時。「お母さんがあなたにしてきたことは、虐待です」ときっぱり告げられたのだ。自分の親からされたことが、単なる躾や口喧嘩ではなく、虐待だった、という事実は、とても受け止めきれなかった。しばらくは認めたくなかった。

  秋も深まり、冬の入り口に立った頃、医療、福祉、警察などの専門家たちからのアドバイスを受け、実家から逃げて、とある場所で避難することになった。すべてを失った現実が辛すぎて、涙もすっかり枯れてしまった。

  ☆ ☆ ☆ ☆

 その年のクリスマスは、ひとりで過ごすことになった。寂しさに加え、ミサに行くことさえできない状況に、すっかり落ち込んでいた。そんな時、ちょうどクリスマス・イブの夕方、私が避難していた場所に、カードが届いた。シスターYからのメッセージだった。

 「おうちを出た理由、分かりました。涙いっぱいのお捧げでしたね。でも、今まで育ててくれたことには、感謝ですね。お母さんが元気になるよう、祈りましょう。赤ちゃんのイエス様と再出発!」

 枯れ果てていたはずの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「辛いときこそ、イエス様は、私のすぐそばにいる。それを忘れそうになっても、思い出させてくれる人が、私には、いる」と、改めて感じた。

 真っ暗な空には、いくつかの小さな星たちが輝いていた。生まれて初めてひとりで過ごすクリスマスだった。深い孤独と、悲しみの中で「ひとかけらの希望をつかみ取ろう」と決めた。

  ☆ ☆ ☆ ☆

 私は、あの日以上に、イエス様を身近に感じたクリスマスは、まだ体験していない。『私は弱いときにこそ、強い』というパウロの言葉が、胸に響いた。これからだって、きっと大丈夫! 主の深いご配慮は、いつも不思議で素晴らしいのだから。

 メリー・クリスマス! すべての人に、愛と希望と喜びを!!

 

(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)

2024年11月30日