三輪先生の国際関係論 ⑬終戦特集1「孫子」が死んでいた「軍国日本」    

 イギリスの歴史家で日清戦争のことを「第一次日中戦争」とし、盧溝橋事件から始まった、当時日本政府が「日支事変」と呼んでいた日中間の軍事紛争を「第二次日中戦争」とする人がいる。日中間の戦争に限らず、戦争は呼び名によって見えてくるものの濃淡に微妙な差が生じものである。

 日中間の紛争史を「第一次」と「第二次」と呼び直すと何がより鮮明になるだろう。私にとっては、それは大日本帝国と言う多民族国家=植民地帝国の発祥をマークすると共に、その終焉、幕藩体制から近代の国民国家の主権線を外交交渉で固めた領土までも失う結果をもたらした「大東亜戦争=太平洋戦争」へと展開してしまった戦争、それが「第二次日中戦争」ということになるのである。

 大日本帝国の発祥と終焉で特徴づけられる二つにして、実は一連の国際紛争であったことがわかるのである。

 現代の戦略論家を一人挙げよと言われれば、白羽の矢まずイギリスのリデルハートにむかうだろう。その御大家が、日本人が「支那事変」と呼んでいた「第二次日中戦争」発端の1937のころ、最前線の中国国民党軍の将校に「『孫子の兵法』をどう使っていますか」と質問している。すると「いやあれは古いです、我々はリデルハート先生、貴方の著作を使わせてもらっています」と応えた。「そうですか、でも私は孫子の兵法を使わせてもらっているのです。いわば孫子の焼き直しです」とリデルハートと応じ。両者はほほえみあったという。

 今日本の出版業界では「子供のための」とかいう『孫子』が売り出されている。

 歴史的には、孫子は遣隋使だか、仏教の高僧がもたらしたと言われ、以降何遍にもわたって江戸時代から、明治の近代まで「再輸入」と言うか、読み継がれてきている。

 ヨーロッパのルネサンス期のマキアベリ、そしてドイツ帝国のクラウセビッツが、戦略論家と言えば思い出されるわけだが、マキアベリはいざ知らず、クラウセビッツはフランス人が翻訳した『孫子』を読んでいる。そしてついでに言えば、クラウセビッツを仏語訳から転訳した人には森鴎外がいる。

 それほどの厚みを持った知的遺産なのだが、実際日本の近代戦争でどれだけの痕跡を残しているのだろうか。興味深々である。『孫子』は敵の軍勢が味方よりまさっている時には、迂回して遁走せよとしているはずである。第二次日中戦争で、この訓えにしたがって最後に笑ったのは国民党政府の中国であり、このアドバイスを忘れたように日米戦にまで猪突したのは大日本帝国軍部を中心にした政策形成者等であった。

 試みに、どんなことが記録に残っているものかと、昭和37年に財団法人偕行社が復刻発行した『統帥綱領・統帥参考』をみてみる。「統帥綱領」は「軍事機密」と銘打って、昭和3年3月20日、参謀総長陸軍大将鈴木荘六の名のもとに、「統帥参考」は昭和7年7月、陸軍大学校幹事陸軍少将今井清の名のもとに発行されたものである。さてその何処に『孫子』はいるのか。

 確かに『孫子』はいた。「統帥要綱」の83頁に、以下のように引用されていた。

 「新なる作戦上の大企画を遂行せんとする場合に於ては特に統帥者は被統帥者の精神を準備し之に「不可不必勝」の信念を与ふる如く努めさるへからす孫子曰く「上下同欲者勝」と味はさるへけんや」(原文はカタカナ表記)

 必ず勝つのだとの信念を部下に徹底し、指揮官として自らが欲するものを部下にも徹底共有させることが出来れば、勝利を手にすることができる。こういう意味深長なる教えである。この他には何が、と、眼を皿のようにしてねめつくしたが、全編を通して『孫子』はこれだけのようであった。これをもって日本軍の究極的敗因としてもいいだろうか。いやリデルハートは読んでいた。孫子の焼き直しだと著者自身が公言していたイギリス人戦略論学者を。

 いやいや敗因はやっぱりたったこれだけの『孫子』をさえ、拳拳服膺していなかったからといえるかもしれない。日本陸海軍将校は、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は知っていたが、「被統帥者」である部下の兵卒はそれを教えられていなかった。それどころか、真逆の事が、東条英機制定の『戦陣訓』で脳裏に叩き込まれていたのである。

 虜囚の辱めを避けるために、自害が、そして集団としては「玉砕」こそが大和魂の真髄であり、名誉ある武人の有終の美と讃えられていたのである。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

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