三輪先生の国際関係論 ⑭終戦特集2 ボッブ・ディランの強靭なる魂から流れ出る華麗なる文言

 

  ボッブ・ディラン(Bob Dylan, May 24, 1941~)がノーベル文学賞にノミネートされた時、彼を音楽家として知っていた人は「へー!文学賞ね?」と驚きを隠さなかった。

 私はといえば、エルビスは知っていても、彼のことは誰のことか分らなかった。そこで好奇心から、アマゾンで中古のCDを取寄せ、同時に彼の自伝的叙述とされるChronicles (クロニクル=年代記)を発注した。CDはすぐ届いたので聴いてみたが、選んだ曲のせいか「ふーん、こんな暗いシンガーなのか!?」くらいの感想しかなかった。やがて届いた2004年出版の年代記的自伝、第一巻も、自慢話を聞かされているようで、「此のナルシストめ」といった感じで、読み進むのが苦痛になった。

 だがそれからだいぶたって再度手にしてみて「ここに偉大な現代の英雄がいる」と感動した。そして何よりも「文学賞」は当然だと確信した。「美文」などといったら、半分以上も当っていないかも知れない。自分を売り込むためのいやしさを想起させるためだけではない。

   いや、根本的に通常の誉め言葉としての「美文」はあたらない。美しくないかも知れないのだ。一語いちごが絢爛たる花のごとく咲き競っているが、無意味な羅列とは全く違うのが、読者を当惑させさえするだろう。メッセージは的確に伝わってくる。一点の疑義もはさませないように。

 強いインパクトがあるのだ。アッパーカットを食らったようだが、それが甘美で心地よい酩酊を誘いさえする。どんどん読み進んでしまうのだ。これだ、この一冊で文学賞に値すると思えてくるのだ。

 ところで、ボッブ・ディランをここで取り上げた本来の目的は、文学賞の妥当性をあげつらうためではなかった。それは、この自伝的叙述の闇に紛れ込んだ如くに飛び込んできた第二次大戦中の日本軍人の行為の一齣である。

  私は一度本欄で、米軍人が、日本兵(あるいはベトコン)の頭骨を従軍記念のトロフィーのように扱っていることに触れたことがある。そんなことは、日本の兵士に限ってありえないことだと推察した。

   ところが、トロフィーではないが、ボッブ・ディランの『年代記』に次のようなエピソードが紛れ込んでいるのを見て、「はっ」としたのである。日本の軍人が、敵の将兵を捕虜にしても裁判も無しに処刑したことが知られている。ボッブ・ディランが取り上げている場合は、斬首されるのだが、その切り落とされた生首を、日本兵は剣つき鉄砲で突き刺すのであった。

 昨日まで市井のひとであった一般兵士に「殺人」は簡単には出来ない。心理的な抵抗がある。その抵抗を打ち砕き、実戦で「殺人行為」がさっと出来るようにする訓練であった。

 ボッブ・ディランは「生首」が順番に日本兵によって、つぎつぎに銃剣で刺された、とだけ書いた。ただそれだけ。何のコメントもない。「ひどいな!」とか、なんとか・・・。

 一語一語が、宝石かなにかのようにきらきらと輝きちりばめられている華麗な綴れ織りのタペストリーに、何処からか、ふと落下した血痕のように。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

017・7・18

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