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・菊地大司教の日記より「本所教会で、日本26聖人殉教記念ミサ」
2022年2月 8日 (火)日本26聖人殉教祭@本所教会
2月5日は日本26聖人の記念日でした。聖パウロ三木を筆頭に、26名のキリスト者は、長崎の西坂において、1597年2月5日に殉教の死を遂げられました。
毎年2月の最初の主日には、この26聖人殉教者を保護の聖人とする東京の本所教会で、殉教祭が行われてきました。今年は感染対策をしてミサに参加する方の人数を制限しながら、2月6日の日曜日の午前10時から、殉教者記念のミサを行いました。
本所教会は、東京での4番目の教会として1880年(明治13年)の4月に聖堂が設けられ、そのときに「日本26聖人殉教者」に捧げられました。聖堂は度重なる火事や災害や空襲で焼失しましたが、現在の聖堂は1951年に、当時の主任司祭であった下山神父様によって建設されたものです。なお26聖人殉教者が列聖されたのは1862年(文久2年)6月8日ですから、今年で160年になります。またその当時の4つの教会とは、築地、浅草、神田、本所の四カ所で、その後に麻布と関口が加わりました。このあたりのことは、こちらのリンクから本所教会のホームページへ。
以下当日のミサの説教の時、手元にあった原稿です。原稿のあとに、本所教会のYoutubeアカウントから当日のミサの映像のリンクを張ります。説教中、一部音声が乱れますが、すぐに回復しますので、御寛恕ください。
【日本26聖人殉教者殉教祭ミサ 2022年2月6日 本所教会】
私たちの人生には苦しみや困難がつきものです。他人の目からはどれほど順風満帆な人生だと思われていたとしても、そこには大なり小なり、さまざまな意味での苦しみや困難が存在するのが、私たちの人生です。
特にこの二年間、私たちは感染症の影響で、世界中ですべての人が命の危機に直面しています。どうしてこんなことになったのか、誰も分かりません。いつになったら安心できるのか、誰も分かりません。暗中模索という言葉は、まさしく今現在の状況を表している言葉であり、私たちは闇の中で希望を求めてさまよっています。
感染症対策が経済に影響を与え、社会的距離を取ることや不要不急の外出を避けることなどが、多くの人を孤立の闇に閉じ込め、孤独が広がっています。感染症によって命の危機に直面する人もいれば、その感染症への対策によってもたらされた経済の危機や隔離政策によって、命の危機に直面する人もいます。
なぜこんなことになったのか。なぜ今なのか。いくら問いかけても答えは見つかりません。
教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」の中で、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。この世界から理不尽な苦しみを取り除く努力をしなければならないとしながらも、教皇は、人間はその有限性という限界の故に、苦しみの源である悪と罪の力を取り除くことができないのだとも指摘します。それができるのは神だけであり、神は人間の歴史に介入されて、自ら苦しまれることで、世界に癒しを与える希望を生み出した。それは自ら創造された人類への愛に基づく行動なのであり、その神の愛による苦しみにこそ、わたしたちが掲げる希望があるのだと指摘されます。
その上で、教皇ベネディクト十六世は、人間の価値というものは、私たちと苦しみとの関係で決まるのだとして、回勅にこう記しておられます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」
苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神が私たちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神が私たちを愛し、この世で苦しむ私たちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。
私たちの主イエスの人生こそは、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を具現化する人生であります。
歴代の教皇様たちは「この世界になぜ苦しみが存在するのか、悪が存在するのか」という課題に取り組んで、それぞれさまざまな教えを残しておられます。
故岡田大司教様も、「善である神が創造された世界に、なぜ悪が存在しているのか」と言う課題を最後まで追求され、一冊の著書を残されました。「悪の研究」という著書は、大司教様が一年ほど前に亡くなられてから出版されました。
岡田大司教様の著書でもそう書かれていますが、悪が存在する理由は追求すればするほど、その理由は分からない。理由が分からないと言うことが分かる。悪が存在する理由は分からないけれども、「神は愛をもってそれを凌駕して、私たちの苦しみをともにされたことによって、苦しみの中から希望が生まれるのだ」ということを明確に示された。そのことは理解ができる。なぜ苦しみがあるのかは分からないけれども、神はそこから復活の命への希望を生み出していった。ですから、私たちは、苦しみと理不尽さの中にあるときにこそ、主イエスの苦しみの人生に、そしてその死と復活の神秘に、本当の希望を見出します、
教会は2月5日に、日本26聖人殉教者を記念します。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。
2019年11月に西坂を訪問された教皇フランシスコは、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。
「この聖地は、死についてよりも、命の勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです… ここは何よりも復活を告げる場所です。あらゆる試練があったとしても、死ではなく、命に至るのだ、と最後には宣言しているからです。私たちは死ではなく、全き命である方に向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです」
聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、命の勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いたのだ… そこから「福音の光」という希望が生み出された、と教皇様は指摘されました。
「殉教者の血は教会の種である」と、2世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しています。
教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。私たちには証しを続ける責務があります。
私たちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返って褒め称えるだけではなく、その出来事から現代社会に生きる私たち自身の希望の光を見い出そうとします。
私たちは、信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音を証しし、告げ知らせる者となる決意を新たにいたします。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音の証しとして、命を暴力的に奪われるときまで、信仰に生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音を証しし、告げ知らせたのです。私たちは殉教者に倣い、福音に生き抜くようにと、最後の瞬間まで福音を証し、語り、行うようにと、今日、主から呼ばれています。
迫害という困難な時代に、福音に生きるとはどういうことであるのかを、殉教者たちは明確に模範を示されました。永遠の命への希望を心に刻み、どのような困難があっても神の愛を証しする奉仕の業に励み、それを最後の最後までやり通すこと。
今この感染症という困難な時代に生きている私たちも、この状況だからこそ、どのように福音に生きるべきなのかを見極めなくてはなりません。神からの賜物である命を守り抜く行動は、自己保身ではなく隣人愛に基づく行動は、恐れのあまりの退却ではなく、積極的な愛の証しの行動です。今、私たちは信仰を堅く保って、それを証しし、告げ知らせるために、どのような生き方をするべきか、何を語るべきか、何に心を向けるべきか、何を大切にするべきか、心の耳を開き、信仰の先達に倣い、この困難なときだからこそ、互いに助け合い支え合うことで、福音を証しして参りましょう。
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・Sr. 岡のマリアの風(72) 「聖徒の交わり」とは… 教皇の講話から改めて考える
「聖徒の交わり(the communion of saints)」は、ローマでマリア論を勉強していた時、教義学の教授が何度もしつこいくらいに繰り返していたテーマの一つです。教会の信仰の中で、マリアは決して孤立していない、キリストの内に、私たちとの交わりの中にいる、だから「聖徒の交わり」の視点からマリアの姿を見ることはとても大切だ、と言いながら
教皇フランシスコは、2月2日の聖ヨセフについての連続講話の最終回で、「聖ヨセフと聖徒の交わり」について話されました。私にとって、この大切なテーマを、異なる光で、さらに深く考える機会となりました。
私たちは「使徒信条」の中で「聖徒の交わり」を信じます、と宣言します。英語では、the communion of saints、「聖人たち(聖なる者たち)の交わり」と響きます。教皇は、この「ひじょうに重要な信仰の項目の一つ」は、しかし、明確に理解されているとは言えない、と指摘します。「聖徒の交わり」とはどのような現実を表しているのでしょうか。「聖徒(聖人)」とは誰のことでしょうか。教皇フランシスコ自身、自分が小さい頃、thecommunion of saintsと聞いて、聖人たちも「聖体拝領(communion)」をするのか、と思ったそうです。
「聖徒の交わり」。教会の真の聖母崇敬を理解するためにも重要なテーマです。教皇フランシスコに導かれながら考えました。
*聖人が奇跡を行うのではない
「さまざまな奇跡を行うのは、聖人たちではありません。違います!」と、教皇ははっきりと述べています。
「この聖人はたくさん奇跡を行う」と言う人に、教皇は言われます。「違います。待ってください。聖人たちは奇跡を行いません。聖人たちを通して働く神の恵みだけが、奇跡を行うことが出来るのです。さまざまな奇跡は、神によってなし遂げられます。聖なる人、正しい人を通して働く、神の恵みによってなし遂げられます」。
教皇は「このことは、はっきりすべきです」と言われます。「『私は神を信じていないが、この聖人を信じている』と言う人がいますが、それは間違いです。聖人は、あくまでも「執り成す人」、私たちのために祈ってくれる人です。聖人は私たちのために祈り、そして主は私たちに恵みをくださるのです」。
*「聖徒の交わり」の唯一の絆はキリスト
「そんなこと知っている」と思うでしょうか。けれど教皇が指摘しているように、「時に、キリスト教は、キリスト教的というより異教的メンタリティーを反映している信心の形に陥る可能性」があるのも事実です。そのような「異教的な信心の形」とは、人間に信頼を置く形、イメージ(画像)や物体に信頼を置く形です。
教皇は、預言者エレミヤの言葉を引用しています。「呪われよ、人間を頼みと[する]人は。[…]祝福されよ、主に信頼する人は」(エレミヤ書17章 5-7節)
私たちが、ある聖人の執り成しに完全に委ねるとき、「私たちの信頼は、キリストとの関係においてのみ価値をもちます」。ですから、聖母への崇敬であっても、というよりキリストの母マリアへの崇敬だからこそ、必然的にキリストに深く結びついているのです。
別の言葉で言えば、「聖徒の交わり」の、「交わり」の絆は、唯一、キリストご自身です。「キリストが、私たちをご自分に結びつける絆、また私たちを互いに結びつける絆」であり、この絆こそが「聖徒の交わり」なのです。
*教会は「救われた罪人たち」の共同体
教皇は、『カトリック教会のカテキズム』の「美しい表現」を紹介しています。「聖徒たち(聖人たち)の交わりがまさに教会(The communion of saints is the Church)なのです」(946項).
これはどういう意味でしょうか、と教皇は問いかけます。教会は完全な人たちのためにあるという意味でしょうか―私たちは「聖徒(聖人)」と聞くと、完璧な人というイメージをまず思い浮かべます。
「違います」と教皇は力強く答えます。教会は「救われた罪人たち(イタリア語:peccatori salvati)の共同体である、という意味です」。誰も教会から排斥されません、私たちは皆「救われた罪人」だからです。
私たちの聖性は 「キリストの内に現わされた神の愛の実りです。キリストが私たちを聖化してくださいます。私たちを、私たちの『みじめさ(miseria)』において愛し、そのみじめさから救いながら」。これは、教皇フランシスコのモットー、「憐みを受けた憐れな者」-ただ、神の憐れみによってのみ救われた、哀れな者―に繋がります。キリストの内に「救われた罪人」、聖なる者とされた私たちの「交わり」は、ですから、私たちの努力や善意によるものではありません。神の、全く無償の愛の実りです。
私たちが互いに「交わり」の中に結びついていることをすぐに理解させるのが、聖パウロが述べている「キリストの体(キリストが頭[かしら]、私たちは肢体)」のイメージだ、と教皇は言われます(コリントの信徒への手紙1・12章12節参照)。
「私たちは皆、一つの体です。信仰を通して、洗礼を通して、私たちは皆、結びついています。交わりの中にいます。イエス・キリストとの交わりの中に結びついています」。これが、「聖徒(聖人たち)の交わり」という意味なのです。
*聖徒の交わりは死をも超える
キリストの内に一つの体を形づくっているのですから、私の喜び、苦しみは、すべての人に関わり、兄弟姉妹の喜び、苦しみは、私に関わります。
この意味で、一人の人の罪は、つねにすべての人に関わり、一人ひとりの人の愛は、すべての人に関わります。「聖徒の交わりの力で、この結びつきの力で、教会のあらゆる成員(メンバー)は、深く私に結びついています。それは私が教皇だからではありません。私たちは互いに深く結びついているのです」。
さらには、この私たちを結び付けている絆は「ひじょうに強いので、死さえもそれを断ち切ることはできません」。
実際、聖徒の交わりは、今、この地上で私たちの周りにいる兄弟姉妹たちだけに関するのではありません。「地上の旅路を終え、死の境界を超えた兄弟姉妹たち」にも関連します。
「愛する兄弟姉妹の皆さん、考えてみましょう。キリストの内に、誰も決して、私たちを、私たちが愛している人々から引き離すことはできません。[私たちを結びつけている]絆は、実存的な絆、私たちの本質(nature)そのものの中にある強い絆だからです。ただ、彼らと共にいる在り方だけが変わります。けれど、何も、誰も、この絆を断ち切ることはできません」。
*聖人への「信心、崇敬(devotion)」は愛の表現
「聖徒の交わり」は「友情の関係」です。私たちはキリストの内に、周りにいる兄弟姉妹たちとも、天にいる兄弟姉妹たちとも友情を結ぶことが出来ます。聖人たちは「友人」なのです。
私たちがある聖人への「信心、崇敬」と呼んでいるものは、「実際、私たちを結び付けているこの絆から出発して、愛を表現する方法なのです」。私たちは、そのようにして、天に友人たちをもっています。イエスも、ご自分の友人たちを持っていて、重要な時に彼らに信頼しました。
このような視点から、教会の聖母マリアへの「崇敬」も、決して個人的なものではなく、キリストの内に、キリストの体の成員(メンバー)たちの交わりの中で理解されるべきでしょう。
「教会の歴史において、信じる者の共同体に持続的に寄り添ってきた聖人たちがいます。何よりも、教会は、神の母であり私たちの母であるマリアに対して、深い愛情、ひじょうに強い絆を感じてきました」。
「私たちが聖人たちを近くに感じるのは、つねに、聖徒の交わりのおかげです」。聖人たちへの崇敬は、「友人」としての私たちの信頼であり、魔法でも迷信でもありません。それは「正しい生活、聖なる生活、模範的な生活を送り、今は神のみ前にいる兄弟や姉妹と話すことです。私は、この兄弟、この姉妹と話し、私のために執り成しを願うのです」。
教皇フランシスコは、折々の話の中で、「一つの体」、「キリストの体」である教会のビジョンを、私たちに示し続けているように思います。父である神は、ご自分の家―「父の家」―に、すべての子らを「集める」ために、独り子を世に、私たちの救いのために遣わしてくださいました。「集める」、つまり「一つにする」ためです。人間は「分裂させる」のが得意です。私たちキリスト者も、ボーっとしていると、ついつい「分裂」の誘惑に負けてしまいます。
自分に都合の悪いものはいらない、自分と合わない人は排斥する…そのようにして、私たちは「分裂」の力に協力してしまいます。一つに集める神の力と、分裂させる「この世」の力。多様性の中の一致を造り出す神の霊、聖霊と、疑い、対立の中で分裂させるこの世の霊。私たちは、日常の現実の中で、どちらの側についているのでしょうか。一致に向かう力なのか、分裂させる力なのか。言葉を変えて言えば、私たちは、聖霊に導かれて、日々、教会(キリストの体)を形造っているのか、それとも、この世の霊に引きずられて、ますます断片化、孤立化させているのか。時に、立ち止まって識別する勇気が必要でしょう。
「聖徒(聖なる者たち)の交わり」、the communion of saintsのイメージは、一致を造り出す聖霊の働きを映し出しています。父である神は、ご自分がお造りになった人間を、たとえ人間の側から拒否されても、誰をも排斥することなく一つに集めようとなさっている。そのことを信じて、希望して、キリストの内の交わりに留まり続けることができますように!
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)
・竹内神父の午後の散歩道⑭ 洗礼者ヨハネー主の証しを生きる人
自分が生きてきた証しを、何らかの形で残したい――おそらく、そう思う人は、少なくないかもしれません。
証しとは、それが形のあるものであってもそうでなくても、それによって、残された人々が、(あぁ、あの人はこんな人だったんだなぁ)と思い起こすことができ
るようなものかもしれません。ですから、それが、残された人々の記憶に残るかぎり、その人は、ある意味で(まだ)生きている、と言えるのかもしれません。
*光についての証し人
洗礼者ヨハネは、確かに、一つの証しを生きた人でした。彼の証しは、しかし、自分のことを後世の人々に残そうとするものではありませんでした。むしろ、それは、彼の後に来る「世の光」(ヨハネによる福音書 9 章 5 節)についての証しでした。
彼について、聖書は、こう語りますー彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1 章 8 節)。ヨハネは、「燃えて輝くともし火」(5 章 35 節)でしたが、光ではありませんでした。
けれん味のない生き方―それが、ヨハネの魅力です。彼は、言葉と行いにおいて、潔さのある人物でした。「主の道をまっすぐにせよ」(ヨハネによる福音書 1 章 23 節)―彼は、文字通り、このことを自らの務めとし、それを生き抜きました。
彼は実際、際立った人物でした。イエスは、彼のことを「預言者以上の者」(マタイによる福音書 11 章 9 節)と言い、さらには、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(11 章 11 節)とまで称揚します。それゆえ、人々は、彼こそ来るべきメシアではないか、と思うほどでした。しかし、彼は、そのような人々の噂や思惑を一蹴します。
*信仰告白という証し
ヨハネは、確かに、イエスの先駆者でした。それは、言葉においてだけでなく、自らの死においてもそうでした。「イエスは誰か」ーこれは、すべての人に向けられた共通の問い掛けです。そして、ヨハネの証しは、まさにこの問い掛けに応えるものでした。
ですから、もしこの問いに対して、「イエスはキリストである」と応えることができるなら、それは、‵‵信仰告白〟となります。そうすると、ヨハネは、最初にこの信仰告白をした人、つまり、‵‵最初のキリスト者〟と言えるかもしれません。
「自分は誰なのか」―ヨハネはまた、そのことをよく弁えていた人でした。ですから、彼は、端的に自分とイエスの違いを語ります。「その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」(ヨハネによる福音書 1 章 27 節)。このヨハネのわきまえこそが、彼の偉大さを端的に示しています。「あの方は必ず栄え、私は衰える」(同3 章 30節)。
*聖霊による証し
「私はこの方を知らなかった」(ヨハネ による福音書1 章 31 節、33 節)―最初ヨハネは、そう語りました。しかし、彼は後に、イエスを知ることとなりました。それを可能にしたもの、それが、聖霊にほかなりません(同1 章 33 節)。
それゆえ、彼は、イエスを指し示してこう語りました―「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(同1 章 29 節)。「神の小羊」とは、どういう方でしょうか。それは、「終わりの日に世を裁く方」(ヨハネの黙示録 7 章 17 節、17 章 14 節)、「苦しむ主の僕」(イザヤ書 53 章)、また、「過ぎ越し祭に屠られる羊」(ローマの信徒への手紙 3 章 25ー26 節)です。
ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」(ヨハネによる福音書 1章23節)。そして、イエスは、それによって証しされた「神のみことば」そのものです。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)
・ガブリエルの信仰見聞思㉕ 「人に感謝すること」とは…
*キリスト者として人に感謝すること
かつては友人からこのようなユニークな観点を聞いたことがあります。
「あなたは誰かから好意や援助を受けたとしよう。その人に感謝するのは一般的に筋だと思われている。しかし、そもそも、その人がしてくれた善いことに必要なすべての能力、機会、意欲、そしてその人の命、呼吸、存在そのものは、神様がその人に与えられているのです。すべては神様が与えてくださっているのだから、神様だけに感謝するのが正しいのではないか」。
そもそも、人に対して感謝の気持ちを持つことは、ごく自然なことで、なぜそんなことを疑問に思ったのか不思議でした。そして友人は「なぜなら聖書には、一人の人間が何かに対して他の人間に明示的に感謝するところがないからです」と答えました。
なるほど。結局のところ、あらゆるものを通して、あらゆるものにおいて、神様こそが究極の与え主だから、神様以外の人に感謝することは適切なのでしょうか、ということです。
*神様に感謝すること
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ローマの信徒への手紙11章36節)、「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章25節)と、使徒パウロは教えます。
そのため、私は誰かに助けられたり、誰かから恩恵を受けたりしたとすれば、神様がその人を創られ、息を吹き込まれ、助けてくれる心を傾けられたのだから、その人ではなく、神様だけに感謝すべきなのです…か。
もちろん、神様はすべてを与えてくださったのですから、神様に感謝すべきことです。私たちが感謝するとき、最終的に念頭に置くべきことは、私たちに起こるすべての良いことの与え手であり支え手であり、摂理にかなった導き手である神様だと思います。
しかし、これらの真理は、私たちが他人から受けた恩恵に感謝すべきでないことを意味している、とは思いません。人間は、神様が望まれる多くの善いことを行うために、主の御手の中の器となることは、誰も認めるところでしょう。
*主の御手の中の器
例えば、主イエスは使徒パウロについて、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である」(使徒言行禄9章15節)と言われ、「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、…罪の赦しを得るように」(同26章18節参照)と、パウロを遣わされたのです。
これは神様が初めから、ずっと行われていることではないでしょうか。神様は戒めをくださり、約束をされ、警告を発され、助けを与られますが、主の望まれことをこの世で成し遂げられるために創られた主要な器が人間であることを、疑うことはないでしょう。
では、神様は、御手の中の器そのものである私たちのことを、どのように考えておられるのでしょうか。主の器である私たちは、「良いもの」「賞賛に値するもの」「忠実なもの」「従順なもの」「喜ばれるもの」と称されていいのでしょうか?器である私たちは神様からの報いと称賛に値する適切な受け手と見なされるのでしょうか?
そして、もし主がご自分の御手にある器を、ご自分の称賛と報いの適切な受け手、として見ておられるなら、それらの人間である器に対する私たちの態度と応えはどうあるべきなのでしょうか?
聖書は、神を求める者に報いられるのは神である、と明確に述べています。マタイ福音書第6章では、主イエスが「特定の行動をとれば、御父なる神様が報いてくださる」と何度も言っておられます―「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」「施しをするときには、…ラッパを吹き鳴らしてはならない…右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」「…隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と。
「主は私たちの善い行いに報いてくださる」と何度も言われています。エフェソの信徒への手紙第6章8節は、驚くべき言葉だと思います―「…奴隷であっても自由人であっても、善いことを行えば、誰でも主から報いを受けるのです」。これは実にすごいことだと思いませんか。
そして、報い以上に、私たちは、「…神からそれぞれ誉れを受ける」とパウロは言います(コリントの信徒への手紙①第4章5節)。なんと理解し難いことでしょう。神様はどうして私のような弱くちっぽけな人間にそんなことをおっしゃることができたのでしょう?
*謙虚に人に感謝の気持ちを表す
すなわち、私たちが行うすべての善いことは、神様によって可能にされたとしても、それは神様によって支えられ、神様によって役立つものとされたとしても、神様はご自分の御手の中の従順な器を、ご自分にとってお喜びであり、ご自分の報いと称賛を受けるにふさわしいものとして、寛大に見なされることを選ばれたのでしょう。
無限の完全さで、何の必要もない全能の神様が、その民の不完全な働きに対する喜び、報い、称賛、誉れをもってお見つめになれるのなら、私は謙虚に、主の御手の中にある器である自分と同じ人間の他者 に対して、喜びを込めた感謝の気持ちを表して接するのは、ふさわしいことではないでしょうか。
それが、私たちキリスト者として人に感謝することの定義ではないか、と思います。すなわち、人が私にしてくれた善いことを通じて、神様からの恵 みを私に取り持ってくれたその人に対して、謙虚に喜んで恩義を表現することです。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
・Sr.阿部のバンコク通信(63) 食用ホオズキ(鬼灯)にコロナ撃退効果!
先日、食用のホオズキをいただきました。橙色の丸い実 がカラカラに乾いた”提灯袋”に入っていて、実に可愛らしい。 甘酸っぱいくて美味しい。
タイでは観賞用としてではなく、もともと野生のホオズキを栽培し 食用として市場で売られています。 中南米では昔から薬用として重宝され、ヨーロッパでは果物として 、日本でも20余年前から「ゴールデンベリー」「オレンジチェリー」「ストロベリートマト」とか素敵な名が付けられ 、美容と健康のスーパーフードとして”珍重”されているようです。
タイの野生ホオズキが日の目を見たのは1969年。北部山岳地帯 を訪問した前国王ラマ9世が、麻薬原料のケシ栽培で生活していた 農民の自立を助けるためロイヤルプロジェクト( タイ国の資源、素材を100%使ってタイ国民の生活向上のために 王室が企画支援する事業)を始められ、その中の農業支援にホオズキ栽培もあったので す。現在ではホオズキは、生食用のほか、果物、ジャム、ジュースとして出荷されています。
ビタミンが豊富で、鉄分、マグネシウム、カルシウムも。 粘膜を強くし免疫力を高め、風邪、インフルエンザ、動脈硬化、心 筋梗塞の予防…と、効能書きが続く。
数年前から、姉妹が 好まないのを”幸い”に、よそからいただく度に、私1人でほとんど食べてしまう。それで最年長の私が一番元気。3度のワクチンを打っても痛くも痒 くも無し。自然のサプリメント。創造主が備えてくださった野生の 治癒力。ホオズキのおかげであったのかも知れません。
今、タイの市場にはホオズキが並んでいます。ウィルスの侵入を防ぐホオズキは、今はあまり使われていない漢字では、その姿から「 鬼灯」とも書きます。”鬼”の”灯火”が新型コロナウイルスを追い払ってくれているのかも。
「カトリックあい」読者の皆さま、長く続くコロナ禍に、気負け、根負けせず、お身 体を大事にお励みくださいませ。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Dr.南杏⼦のサイレント・ブレス⽇記 ㊿ パズルの向こう側に
認知症の人たちが共同で暮らすグループホームやデイサービスなどの高齢者施設を訪ねる機会がある。ある高齢者施設のフロアでは、利用者の方たちがパズルを楽しんでおられる風景を目にした。
卓上に広げられているのは、ジグソーパズル……いや、よく見るとそうでなかった。
一般にジグソーパズルのピースの形は、各辺に凹凸部があり、カタカナの「キ」に近い形をしている。 隣り合うピース同士が「キ」と「キ」の凹凸部をかみ合わせて接合し、はずれにくい構造になっている。それぞれ良く似た形のピースはたくさんあるものの、全く同じ形のピースをしたものはないかららしい。

その施設で人気のパズルは、個々のピースが「キ」ではなく、青空に浮かぶ雲のような形をしていた。ピースのサイズも大きい。ジグソーパズルと区別して、「板パズル」「ピクチャパズル」などと呼ばれていた。ピースの数にも大きな違いがある。ジグソーパズルは150ピース以上が当たり前。2000ピースを超える超難関もある。一方、雲形ピースを楽しむパズルは、40~60ピースが標準。26ピースといった品もあるという。
施設にある、パズルのストックを見せてもらった。フロアの棚に納められていたのは、約50種類。雲形ピースの板パズルのほかに、通常のジグソーパズルもあった。
だがいくつもの板パズルがほこりをかぶっていた。何年も使われていないと見えるジグソーパズルも随分あった。それを指摘すると、スタッフは「ご利用者様から人気がなくて」と苦笑する。それらは、五十音や九九の表のデザインだったり、ポケモンやアンパンマンなど子供向けのキャラクターが描かれている品だったりした。保有するパズルの約3分の1はお蔵入り状態だという。
「明らかに子供向けのものは、ご利用者様に手にしてもらえません。難易度が高すぎるものも同様です。これらの死蔵品は、パズルを買い集めた担当者だけでなく、日々の介護に携わる私たちスタッフ全員にとって大きな教訓です」と教えられた。
介護保険制度の導入から20年余。「高齢者の尊厳を重視するケア」「一人一人に合わせた介護」といった理想は、利用者とスタッフ相互の、それこそ小さな試行錯誤の積み重ねによって支えられているのだと改めて実感する。パズルだけでなく、言葉遣いから、食事、体操のメニューなど、いろいろな教訓が積み重ねられてきた。
わずか46ピースの板パズルでも、出来上がりの図は存在感を強くアピールする。満開となった桜の枝越しに見える富士山、緑あふれる皇居のお堀端、ゴッホやミレーら巨匠たちの名画、愛らしい子猫や子犬たちの姿……。
「きれいにできましたね」と同じ思いを共有する瞬間は、利用者も介護スタッフも同じ笑顔を浮かべている貴重な時間だ。そんなひとときをいかにたくさん作れるか、スタッフの試行錯誤はこれからも続く。
年正月、「本当の話」です。やっと正月休み。普段できないこと、これをしよう、あれをしよう…と、(休みなのに!)計画を立てていました。それを神さまは見事にひっくり返し、感染症胃腸炎に罹り、まさに「寝正月」。で、寝ながら、そういえば、と考えました。