・Sr. 岡のマリアの風(72) 「聖徒の交わり」とは… 教皇の講話から改めて考える

 「聖徒の交わり(the communion of saints)」は、ローマでマリア論を勉強していた時、教義学の教授が何度もしつこいくらいに繰り返していたテーマの一つです。教会の信仰の中で、マリアは決して孤立していない、キリストの内に、私たちとの交わりの中にいる、だから「聖徒の交わり」の視点からマリアの姿を見ることはとても大切だ、と言いながら

 教皇フランシスコは、2月2日の聖ヨセフについての連続講話の最終回で、「聖ヨセフと聖徒の交わり」について話されました。私にとって、この大切なテーマを、異なる光で、さらに深く考える機会となりました。

  私たちは「使徒信条」の中で「聖徒の交わり」を信じます、と宣言します。英語では、the communion of saints、「聖人たち(聖なる者たち)の交わり」と響きます。教皇は、この「ひじょうに重要な信仰の項目の一つ」は、しかし、明確に理解されているとは言えない、と指摘します。「聖徒の交わり」とはどのような現実を表しているのでしょうか。「聖徒(聖人)」とは誰のことでしょうか。教皇フランシスコ自身、自分が小さい頃、thecommunion of saintsと聞いて、聖人たちも「聖体拝領(communion)」をするのか、と思ったそうです。

 「聖徒の交わり」。教会の真の聖母崇敬を理解するためにも重要なテーマです。教皇フランシスコに導かれながら考えました。

*聖人が奇跡を行うのではない

 「さまざまな奇跡を行うのは、聖人たちではありません。違います!」と、教皇ははっきりと述べています。

 「この聖人はたくさん奇跡を行う」と言う人に、教皇は言われます。「違います。待ってください。聖人たちは奇跡を行いません。聖人たちを通して働く神の恵みだけが、奇跡を行うことが出来るのです。さまざまな奇跡は、神によってなし遂げられます。聖なる人、正しい人を通して働く、神の恵みによってなし遂げられます」。

 教皇は「このことは、はっきりすべきです」と言われます。「『私は神を信じていないが、この聖人を信じている』と言う人がいますが、それは間違いです。聖人は、あくまでも「執り成す人」、私たちのために祈ってくれる人です。聖人は私たちのために祈り、そして主は私たちに恵みをくださるのです」。

*「聖徒の交わり」の唯一の絆はキリスト

 「そんなこと知っている」と思うでしょうか。けれど教皇が指摘しているように、「時に、キリスト教は、キリスト教的というより異教的メンタリティーを反映している信心の形に陥る可能性」があるのも事実です。そのような「異教的な信心の形」とは、人間に信頼を置く形、イメージ(画像)や物体に信頼を置く形です。

 教皇は、預言者エレミヤの言葉を引用しています。「呪われよ、人間を頼みと[する]人は。[…]祝福されよ、主に信頼する人は」(エレミヤ書17章 5-7節)
私たちが、ある聖人の執り成しに完全に委ねるとき、「私たちの信頼は、キリストとの関係においてのみ価値をもちます」。ですから、聖母への崇敬であっても、というよりキリストの母マリアへの崇敬だからこそ、必然的にキリストに深く結びついているのです。

 別の言葉で言えば、「聖徒の交わり」の、「交わり」の絆は、唯一、キリストご自身です。「キリストが、私たちをご自分に結びつける絆、また私たちを互いに結びつける絆」であり、この絆こそが「聖徒の交わり」なのです。

*教会は「救われた罪人たち」の共同体

 教皇は、『カトリック教会のカテキズム』の「美しい表現」を紹介しています。「聖徒たち(聖人たち)の交わりがまさに教会(The communion of saints is the Church)なのです」(946項).

    これはどういう意味でしょうか、と教皇は問いかけます。教会は完全な人たちのためにあるという意味でしょうか―私たちは「聖徒(聖人)」と聞くと、完璧な人というイメージをまず思い浮かべます。

  「違います」と教皇は力強く答えます。教会は「救われた罪人たち(イタリア語:peccatori salvati)の共同体である、という意味です」。誰も教会から排斥されません、私たちは皆「救われた罪人」だからです。

    私たちの聖性は 「キリストの内に現わされた神の愛の実りです。キリストが私たちを聖化してくださいます。私たちを、私たちの『みじめさ(miseria)』において愛し、そのみじめさから救いながら」。これは、教皇フランシスコのモットー、「憐みを受けた憐れな者」-ただ、神の憐れみによってのみ救われた、哀れな者―に繋がります。キリストの内に「救われた罪人」、聖なる者とされた私たちの「交わり」は、ですから、私たちの努力や善意によるものではありません。神の、全く無償の愛の実りです。

 私たちが互いに「交わり」の中に結びついていることをすぐに理解させるのが、聖パウロが述べている「キリストの体(キリストが頭[かしら]、私たちは肢体)」のイメージだ、と教皇は言われます(コリントの信徒への手紙1・12章12節参照)。

   「私たちは皆、一つの体です。信仰を通して、洗礼を通して、私たちは皆、結びついています。交わりの中にいます。イエス・キリストとの交わりの中に結びついています」。これが、「聖徒(聖人たち)の交わり」という意味なのです。

*聖徒の交わりは死をも超える

 キリストの内に一つの体を形づくっているのですから、私の喜び、苦しみは、すべての人に関わり、兄弟姉妹の喜び、苦しみは、私に関わります。

 この意味で、一人の人の罪は、つねにすべての人に関わり、一人ひとりの人の愛は、すべての人に関わります。「聖徒の交わりの力で、この結びつきの力で、教会のあらゆる成員(メンバー)は、深く私に結びついています。それは私が教皇だからではありません。私たちは互いに深く結びついているのです」。

 さらには、この私たちを結び付けている絆は「ひじょうに強いので、死さえもそれを断ち切ることはできません」。

 実際、聖徒の交わりは、今、この地上で私たちの周りにいる兄弟姉妹たちだけに関するのではありません。「地上の旅路を終え、死の境界を超えた兄弟姉妹たち」にも関連します。

 「愛する兄弟姉妹の皆さん、考えてみましょう。キリストの内に、誰も決して、私たちを、私たちが愛している人々から引き離すことはできません。[私たちを結びつけている]絆は、実存的な絆、私たちの本質(nature)そのものの中にある強い絆だからです。ただ、彼らと共にいる在り方だけが変わります。けれど、何も、誰も、この絆を断ち切ることはできません」。

*聖人への「信心、崇敬(devotion)」は愛の表現

 「聖徒の交わり」は「友情の関係」です。私たちはキリストの内に、周りにいる兄弟姉妹たちとも、天にいる兄弟姉妹たちとも友情を結ぶことが出来ます。聖人たちは「友人」なのです。
私たちがある聖人への「信心、崇敬」と呼んでいるものは、「実際、私たちを結び付けているこの絆から出発して、愛を表現する方法なのです」。私たちは、そのようにして、天に友人たちをもっています。イエスも、ご自分の友人たちを持っていて、重要な時に彼らに信頼しました。

 このような視点から、教会の聖母マリアへの「崇敬」も、決して個人的なものではなく、キリストの内に、キリストの体の成員(メンバー)たちの交わりの中で理解されるべきでしょう。

 「教会の歴史において、信じる者の共同体に持続的に寄り添ってきた聖人たちがいます。何よりも、教会は、神の母であり私たちの母であるマリアに対して、深い愛情、ひじょうに強い絆を感じてきました」。

 「私たちが聖人たちを近くに感じるのは、つねに、聖徒の交わりのおかげです」。聖人たちへの崇敬は、「友人」としての私たちの信頼であり、魔法でも迷信でもありません。それは「正しい生活、聖なる生活、模範的な生活を送り、今は神のみ前にいる兄弟や姉妹と話すことです。私は、この兄弟、この姉妹と話し、私のために執り成しを願うのです」。

 教皇フランシスコは、折々の話の中で、「一つの体」、「キリストの体」である教会のビジョンを、私たちに示し続けているように思います。父である神は、ご自分の家―「父の家」―に、すべての子らを「集める」ために、独り子を世に、私たちの救いのために遣わしてくださいました。「集める」、つまり「一つにする」ためです。人間は「分裂させる」のが得意です。私たちキリスト者も、ボーっとしていると、ついつい「分裂」の誘惑に負けてしまいます。

 自分に都合の悪いものはいらない、自分と合わない人は排斥する…そのようにして、私たちは「分裂」の力に協力してしまいます。一つに集める神の力と、分裂させる「この世」の力。多様性の中の一致を造り出す神の霊、聖霊と、疑い、対立の中で分裂させるこの世の霊。私たちは、日常の現実の中で、どちらの側についているのでしょうか。一致に向かう力なのか、分裂させる力なのか。言葉を変えて言えば、私たちは、聖霊に導かれて、日々、教会(キリストの体)を形造っているのか、それとも、この世の霊に引きずられて、ますます断片化、孤立化させているのか。時に、立ち止まって識別する勇気が必要でしょう。

 「聖徒(聖なる者たち)の交わり」、the communion of saintsのイメージは、一致を造り出す聖霊の働きを映し出しています。父である神は、ご自分がお造りになった人間を、たとえ人間の側から拒否されても、誰をも排斥することなく一つに集めようとなさっている。そのことを信じて、希望して、キリストの内の交わりに留まり続けることができますように!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2022年2月6日