(読者コラム)改・司教引退後のタイトル、「emeriti」イコール「名誉…」か?

 引退した役職者などに”名誉“という”称号“がつくことがある。春の人事異動期には、今年も”名誉“がつけられる人が多く出るかも知れない。 

 企業や団体の場合は、様々な事情、主としてその貢献度の高さから”名誉会長“とかのタイトルが退任者に贈られる場合があるが、一般的なのが大学の”名誉教授“だろう。

 学校教育法に「大学は、当該大学に学長、副学長、学部長、教授、准教授又は講師として勤務した者であって、教育上又は研究上特に功績のあった者に対し、当該大学の定めるところにより、名誉教授の称号を授与することができる」と定められており、「教育上、または研究上、特に功績のあった者」に、その大学がタイトルを認めることになっているようだ。

 そうした”社会的常識”からみて、昨年末に、カトリック長崎教区の髙見三明大司教が出した、教区の信徒、男女修道者、司祭にあての「重大なお知らせ」の中に、こう書かれているのに、違和感を持った方も少なくないのではなかろうか。

 「わたしは、フランシスコ教皇様により、長崎大司教(教区長)の退任願いを受理されて、新大司教の着座式まで『使徒座管理者』の任命を受け、実質上これまでのような長崎大司教区の責任を委ねられました。そして着座式後に引退し、『名誉大司教Archiepiscopus emeritus』となります」(表記も含め原文通り)。

 このタイトルは、教会法の第402条第1項 の日本語訳、「司教は、退任が受理されたときは、退任前の教区の『名誉司教の称号』を得る」が根拠になっているわけだが、この箇所のラテン語で書かれた原文は「titulum emeriti suae dioecesis retinet」だ。 ラテン語の専門家によると、emeriti形容詞)には、もともとは「名誉の」という意味は無く、「引退した」だった。これを語源とする英語emeritusを、Merriam Websterでは「退職した」と「名誉の」の二通りの意味を載せている。

 日本では、教会も含めて、引退した前任者への敬意を込めて「名誉云々」というように”翻訳”されているようだが、現代イタリア語では 悪名高い」とか、「悪いことで名が知られている」というニュアンスで使われることもあるという。「悪名高い」もあり得るとすれは、「引退司教」の方が訳としても適切ではなかろうか。

 数年前に定年まで10年以上も残して辞めてしまう司教が続出したが、彼らの中に「名誉司教」のタイトルを名乗っている人がいるような記憶がある。こういう人は、百歩譲っても「引退…」が適当だろう。

 この問題に関連して思い浮かぶのは、世界最大の男子修道会で、日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルも創始者の一人だったイエズス会の前総長、アドルフォ・ニコラス師のことだ。

 組織神学の教授として上智大学で教鞭をとり、日本管区の管区長となり、さらに総長として全世界で活動する約2万人の会士たちのトップとして活躍された。イエズス会士として教皇フランシスコの先輩でもある師は、教皇の良き相談相手でもあったが、80歳で”定年”(総長には正式な定年はない)を迎えると、その年の総会で退任。その後は、本部のあるローマにも、故郷のスペインにも戻らず、マニラの東アジア司牧研究所、さらに上智大学アルペ国際学生寮で奉仕をなさった。健康を害され、東京のイエズス会の静養施設「ロヨラ・ハウス」を終の棲家とされたが、”名誉総長”などのような肩書を受けたり、もちろんご自身で名乗ったりされることはなかった。そもそも、同修道会には「肩書」を誇るような文化はないのだ。

 引退される方には申し訳ないが、「名誉司教」ないしは「名誉大司教」の条件は、学校法の定めを援用するなら「教区あるいは日本における福音宣教、または信徒、司祭のリーダーとして特に功績のあった者」とするが妥当ではなかろうか。

 ご本人は、この条件に相当するような”功績”をあげた、と本心からお思いなのだろうか?お名乗りになるのは、せめて、聖職者による性的虐待裁判や巨額損失発生事件をきちんと収拾され、責任も明確にされ、教会内外に対する信頼を回復されてからでも、遅くはないと思うのだが…。

 日本の教会のためにも、そして聖職者の性的虐待とそれに対する高位聖職者の対応に深く傷ついている信徒のためにも、あえて苦言を呈したい。

(日本の教会関係者の言葉使いを憂うる一信徒)

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2022年1月16日