・ガブリエルの信仰見聞思㉕ 「人に感謝すること」とは…

*キリスト者として人に感謝すること

 かつては友人からこのようなユニークな観点を聞いたことがあります。

 「あなたは誰かから好意や援助を受けたとしよう。その人に感謝するのは一般的に筋だと思われている。しかし、そもそも、その人がしてくれた善いことに必要なすべての能力、機会、意欲、そしてその人の命、呼吸、存在そのものは、神様がその人に与えられているのです。すべては神様が与えてくださっているのだから、神様だけに感謝するのが正しいのではないか」。

 そもそも、人に対して感謝の気持ちを持つことは、ごく自然なことで、なぜそんなことを疑問に思ったのか不思議でした。そして友人は「なぜなら聖書には、一人の人間が何かに対して他の人間に明示的に感謝するところがないからです」と答えました。

 なるほど。結局のところ、あらゆるものを通して、あらゆるものにおいて、神様こそが究極の与え主だから、神様以外の人に感謝することは適切なのでしょうか、ということです。

 

*神様に感謝すること

 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ローマの信徒への手紙11章36節)、「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章25節)と、使徒パウロは教えます。

 そのため、私は誰かに助けられたり、誰かから恩恵を受けたりしたとすれば、神様がその人を創られ、息を吹き込まれ、助けてくれる心を傾けられたのだから、その人ではなく、神様だけに感謝すべきなのです…か。

 もちろん、神様はすべてを与えてくださったのですから、神様に感謝すべきことです。私たちが感謝するとき、最終的に念頭に置くべきことは、私たちに起こるすべての良いことの与え手であり支え手であり、摂理にかなった導き手である神様だと思います。

 しかし、これらの真理は、私たちが他人から受けた恩恵に感謝すべきでないことを意味している、とは思いません。人間は、神様が望まれる多くの善いことを行うために、主の御手の中の器となることは、誰も認めるところでしょう。

 

*主の御手の中の器

 例えば、主イエスは使徒パウロについて、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である」(使徒言行禄9章15節)と言われ、「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、…罪の赦しを得るように」(同26章18節参照)と、パウロを遣わされたのです。

 これは神様が初めから、ずっと行われていることではないでしょうか。神様は戒めをくださり、約束をされ、警告を発され、助けを与られますが、主の望まれことをこの世で成し遂げられるために創られた主要な器が人間であることを、疑うことはないでしょう。

 では、神様は、御手の中の器そのものである私たちのことを、どのように考えておられるのでしょうか。主の器である私たちは、「良いもの」「賞賛に値するもの」「忠実なもの」「従順なもの」「喜ばれるもの」と称されていいのでしょうか?器である私たちは神様からの報いと称賛に値する適切な受け手と見なされるのでしょうか?

 そして、もし主がご自分の御手にある器を、ご自分の称賛と報いの適切な受け手、として見ておられるなら、それらの人間である器に対する私たちの態度と応えはどうあるべきなのでしょうか?

 聖書は、神を求める者に報いられるのは神である、と明確に述べています。マタイ福音書第6章では、主イエスが「特定の行動をとれば、御父なる神様が報いてくださる」と何度も言っておられます―「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」「施しをするときには、…ラッパを吹き鳴らしてはならない…右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」「…隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と。

 「主は私たちの善い行いに報いてくださる」と何度も言われています。エフェソの信徒への手紙第6章8節は、驚くべき言葉だと思います―「…奴隷であっても自由人であっても、善いことを行えば、誰でも主から報いを受けるのです」。これは実にすごいことだと思いませんか。

 そして、報い以上に、私たちは、「…神からそれぞれ誉れを受ける」とパウロは言います(コリントの信徒への手紙①第4章5節)。なんと理解し難いことでしょう。神様はどうして私のような弱くちっぽけな人間にそんなことをおっしゃることができたのでしょう?

 

*謙虚に人に感謝の気持ちを表す

 すなわち、私たちが行うすべての善いことは、神様によって可能にされたとしても、それは神様によって支えられ、神様によって役立つものとされたとしても、神様はご自分の御手の中の従順な器を、ご自分にとってお喜びであり、ご自分の報いと称賛を受けるにふさわしいものとして、寛大に見なされることを選ばれたのでしょう。

 無限の完全さで、何の必要もない全能の神様が、その民の不完全な働きに対する喜び、報い、称賛、誉れをもってお見つめになれるのなら、私は謙虚に、主の御手の中にある器である自分と同じ人間の他者に対して、喜びを込めた感謝の気持ちを表して接するのは、ふさわしいことではないでしょうか。

 それが、私たちキリスト者として人に感謝することの定義ではないか、と思います。すなわち、人が私にしてくれた善いことを通じて、神様からの恵みを私に取り持ってくれたその人に対して、謙虚に喜んで恩義を表現することです。

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

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2022年2月3日