・竹内神父の午後の散歩道⑮ 神に愛された塵ー四旬節の初めに

 灰の水曜を迎え、四旬節が始まります。司祭から灰を額(あるいは頭)に受ける時、次のような二つの言葉が用意されています。一つは、「回心して福音を信じなさい」(マルコによる福音書 1 章 15 節参照)、そしてもう一つは、「あなたは塵だから、塵に帰る」(創世記 3 章 19 節参照)です。

 いずれの言葉も、それぞれ味わい深いと思います。「自分はいったい誰なのか」「自分は何のために生きているのか」ーこれらは、私たちにとって、根本的な問い掛けです。儚さと掛け替えのなさこのような問いに出会う時、一つの事実に気づかされます。それは、自分は塵に過ぎない、ということ。

   ある時、次のような言葉に出会いましたー“We are only dust、but beloved dust [by God]”(私たちは、ほんの塵に過ぎない。しかし単なる塵ではなく、〔神に〕愛された塵である)。簡潔な文ですが、この中には人間の二つの現実が語られている、と思います。一つは人間の儚さであり、もう一つは人間の掛け替えのなさです。

  自分は塵に過ぎないーその事実がふっと腑に落ちる時、改めて自分をわきまえ謙虚になれるのではないか、そう思います。それはまた、いかに自分は多くの恵みを与えられているのか、ということへの気づきでもあります(コリントの信徒への手紙1・ 4 章 7 節参照)。

 ですから、主から「私に立ち帰れ」(ヨエル書 2 章 12 節)と言われる時、それは、恵みの与え主への立ち帰りにほかなりませんー回心。「回心とは、衣を裂くことによってではなく、心を引き裂くことによってこそ生まれる」と語られます(同 2 章 13 節参照)。

*悪人の死を喜ばない

 私たちが立ち帰るべき方ーそれは、命そのもの。ですから、もし私たちが、この方へと立ち帰らなければ、私たちの中に命はありません。たちまち死の深淵へと沈み込んでしまうでしょう。しかし、それは、この方の思いではありません。この方は、たとえどんな人であっても、その人の死は望みません。むしろ、立ち帰って生きることこそ願っています。

 「私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか」(エゼキエル書 33 章 11 節)。

 それに対して、私たちは、どのように応えましょうか。そこで求められるもの、それは、「和解」にほかなりません(コリントの信徒への手紙二 5 章 18-19 節参照)。和解とは、神との和解、キリストとの和解、そして私たちの間の和解です。

 この和解が可能となったのは、「平和の君」(イザヤ書 9 章 5 節)と呼ばれる方が、神の独り子として私たちに与えられたからです。その方が、私たちを招きますー「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコによる福音書 1 章 15 節)。だからこそ、「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントの信徒への手紙二 6 章 2 節)なのです。

 神はまた、「隠れたことを見ておられる父」(マタイによる福音書 6 章 4 節)です。この方から遣わされたイエスは、ただひたむきに、その方の御心の実現のために自らの生を生き抜きました(ヨハネによる福音書 6 章 38-40 節参照)。

 彼は、人間として、私たちと同じように塵から生まれました。彼は、罪を犯されませんでしたが、あらゆる点で私たちと同様に試練に遭われました(ヘブライ人への手紙 4 章 15 節参照)。また、彼は、御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれた(同 5 章 8 節参照)、とも語られます。

 その彼が、自らについてこう言い切りますー「私は命である」(ヨハネによる福音書 14 章 6 節)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2022年2月28日