・愛ある船旅への幻想曲⑫「正しい人」とは他人から認められ、そう呼ばれてこそ本物

 ヒトには想定外の出来事が大なり小なり必ず起こる。それが「生きている」ということだろう。その時々をどう対処するのか。悩みを一人で抱え込むのか。家族や友達に相談するのか。自分の最良の手段は何か。どうすることが正しいのか。これも生きてきた仮定によって解決策は違うだろう。

 世界中がコロナウィルスの大感染の下にある。日々の生活に、数々の制約を受け、ストレスがある。どう生きていけば良いのか。今の自分は正しいのか。もちろん、あまり大きな変化もなくこの状況を受け入れている人もいるだろう。それが人間社会、と私は思っている。

 私は、1937年生まれの解剖学者、養老孟司先生の大ファンである。彼は、自分の言葉で歯に衣着せぬ、もの言いをされる。そして、84歳の今も、次から次へと考えるべき問題が生じて来る、と言う。

 数十年前、私は娘と共に養老孟司先生講演会に行く機会に恵まれ、期待を裏切らないダンディな養老先生と講話に、母娘は拍手喝采。今も母娘は、彼から目が離せない。

 養老氏の新刊『ヒトの壁』の第二章“新しい宗教が生まれる”に、森本あんり氏『異端の時代』から「正統に自己隠蔽能力が備わっている」に対して《含蓄の深い表現である》と記し、「正しい」とされた人、分野は「自らに都合の悪い面を隠す」ということにもなるが、これは宗教を見れば分かりやすい。

 作家の片山恭一氏は「新しい宗教が生まれつつある。その名を『シンギュラリティ』という」と書く。「間もなくAIが人間の知能を超える」ということが「正しい」とされている。そこを疑う人間は「古い」と言われ、異端者扱いされる。現代では”自然科学教”、”工学技術教”が正統化され、それが自己隠蔽する。

 以上、抜粋。

 「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ福音書23章47節)

 イエスが息を引き取られた時の百人隊長の言葉だ。私たちは、イエス・キリストの生き様を知っている。イエスは、神の子だったが、人間として生き、多くの人を癒し、救われた。しかし、十字架の上でさえ、ご自分のために力を使われなかった。人間の裏切りと罵りにも耐え抜いた姿を、聖書は記す。

 「正しい人」とは他人から認められ、そう呼ばれてこそ本物だ。ここで「自画自賛」は必要ない。

 コロナ終息後の人間社会は、どう変わるのだろう。自分の居場所を、本気で考える人が増えるかもしれない。暗く憂鬱な場所より「愛ある明かるい場所」でヒトは幸せに生きることができる、と私は思っている。

 見よ、私は新しいことを行う。 今や、それは起ころうとしている。 あなたがたはそれを知らないのか。 確かに、私は荒れ野に道を 荒れ地に川を置く。(イザヤ書43章19節)

        (西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年1月31日