・竹内神父の午後の散歩道⑭ 洗礼者ヨハネー主の証しを生きる人

    自分が生きてきた証しを、何らかの形で残したい――おそらく、そう思う人は、少なくないかもしれません。

    証しとは、それが形のあるものであってもそうでなくても、それによって、残された人々が、(あぁ、あの人はこんな人だったんだなぁ)と思い起こすことができ
るようなものかもしれません。ですから、それが、残された人々の記憶に残るかぎり、その人は、ある意味で(まだ)生きている、と言えるのかもしれません。

*光についての証し人

   洗礼者ヨハネは、確かに、一つの証しを生きた人でした。彼の証しは、しかし、自分のことを後世の人々に残そうとするものではありませんでした。むしろ、それは、彼の後に来る「世の光」(ヨハネによる福音書 9 章 5 節)についての証しでした。

    彼について、聖書は、こう語りますー彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1 章 8 節)。ヨハネは、「燃えて輝くともし火」(5 章 35 節)でしたが、光ではありませんでした。

   けれん味のない生き方―それが、ヨハネの魅力です。彼は、言葉と行いにおいて、潔さのある人物でした。「主の道をまっすぐにせよ」(ヨハネによる福音書 1 章 23 節)―彼は、文字通り、このことを自らの務めとし、それを生き抜きました。

  彼は実際、際立った人物でした。イエスは、彼のことを「預言者以上の者」(マタイによる福音書 11 章 9 節)と言い、さらには、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(11 章 11 節)とまで称揚します。それゆえ、人々は、彼こそ来るべきメシアではないか、と思うほどでした。しかし、彼は、そのような人々の噂や思惑を一蹴します。

*信仰告白という証し

 ヨハネは、確かに、イエスの先駆者でした。それは、言葉においてだけでなく、自らの死においてもそうでした。「イエスは誰か」ーこれは、すべての人に向けられた共通の問い掛けです。そして、ヨハネの証しは、まさにこの問い掛けに応えるものでした。

 ですから、もしこの問いに対して、「イエスはキリストである」と応えることができるなら、それは、‵‵信仰告白〟となります。そうすると、ヨハネは、最初にこの信仰告白をした人、つまり、‵‵最初のキリスト者〟と言えるかもしれません。

 「自分は誰なのか」―ヨハネはまた、そのことをよく弁えていた人でした。ですから、彼は、端的に自分とイエスの違いを語ります。「その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」(ヨハネによる福音書 1 章 27 節)。このヨハネのわきまえこそが、彼の偉大さを端的に示しています。「あの方は必ず栄え、私は衰える」(同3 章 30節)。

*聖霊による証し

 「私はこの方を知らなかった」(ヨハネ による福音書1 章 31 節、33 節)―最初ヨハネは、そう語りました。しかし、彼は後に、イエスを知ることとなりました。それを可能にしたもの、それが、聖霊にほかなりません(同1 章 33 節)。

 それゆえ、彼は、イエスを指し示してこう語りました―「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(同1 章 29 節)。「神の小羊」とは、どういう方でしょうか。それは、「終わりの日に世を裁く方」(ヨハネの黙示録 7 章 17 節、17 章 14 節)、「苦しむ主の僕」(イザヤ書 53 章)、また、「過ぎ越し祭に屠られる羊」(ローマの信徒への手紙 3 章 25ー26 節)です。

 ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」(ヨハネによる福音書 1章23節)。そして、イエスは、それによって証しされた「神のみことば」そのものです。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2022年2月4日