・三輪先生の新年の思い「1989年1月7日・激動の昭和の御代が終わった日…」

 激動の昭和の御代は63年の長きにわたったが、1989年1月7日を持って閉じた。

 私が生まれたのは昭和4年(1929年)、ちょうど60年前である。この年、ニューヨークでは株式市場で大暴落が起こり、これに端を発して、経済大恐慌がたちまち全世界を覆った。私の生まれた長野県は生糸の一大産地で、北米の経済と深く結びついていた。岡谷市は北米との間に直通の電話回線を持っていた。

 生家は長野県松本市の商店街、中町通りにあった。物心がついた頃、我が家の筋向いの大店が空き家になっていた。生糸の卸問屋ででもあったのだろうか。間口は優に九間(約16メートル)はあった。店内は20畳ほどの畳敷きになっていた。店先は開け放たれていても、店番などはおらず、悪ガキ友が勝手に上がってみたりしていた。

 商店街の不景気とは、そんなものだった。

 それでも県下の壮丁が兵役に服する歩兵第50連隊の所在地として、中町通りだけでも「連隊ご用達」の漆屋が二軒あって、除隊祝いに縁者に贈る茶盆などを商っていた。

 戦火は中国大陸全域にに広がっていった。初めの頃、秋口であったろうか。立派なラシャ地の軍服に盛装した堂々たる体躯の兵隊さんが5,6人、我が家の空き店に数日、宿泊したことがあった。連隊の兵営が手狭で、分散して、余裕のある家に預けられたのである。

 南京陥落でも、戦争は終結しなかった。

 陥落を提灯行列で祝ったのかもしれないが、当時八歳の私の記憶にはない。しかし杉葉で飾られた凱旋門が、帰還する第50連隊の兵隊さんたちを迎えたことは、かすかながら覚えている。そんなことが一度ならずあって、軍都、松本市は華やいでいた。

 しかし、兵隊が死なずに済む戦争はない。やがて、国鉄の松本駅から、白布に包まれた骨箱を首から下げた遺族などの悲しい行列を見送ることが多くなった。そして、小学校も高学年になった頃、「ボーイスカウト」改め「大日本少年団」の一員として、私は同輩と二人で、戦死した長野県出身の兵士の御霊を、新設なった護国神社に合祀する行事に携わった。

おそらく昭和12年の秋のことだったろう。東京では靖国神社の例大祭が執り行われる時、私は、母が仕立て直してくれた、生後百日のお宮参りに着た羽二重の衣装で、白木造りの唐柩に収まった兵士の英霊を、神社脇の真っ暗な田舎道から担ぎ出したのであった。

・・・・・・・・

 昭和の御代60余年のうち最初の20年は対外戦争の絶えないような時代であった。一般国民が熱望した平和な時代は、世界の半分以上を敵に回した大戦の結果が「大敗」と出た時、初めて到来したのであった。昨日の敵が軍国主義国家=大日本帝国の戦災で荒廃した国土と国民を占領支配し、そのうえで、財閥解体とか農地解放政策を日本政府に実施せしめたのである。

 こうして「再生日本」は、民主主義国家への道を歩み始めたのである。昭和の御代も初めの20年は戦争に明け暮れたが、その後は新憲法の下、順調に復興していった。一時は、米国を出し抜くばかりにさえ、なったのである。

 そんな折、天皇が崩御された。戦後は40年余の昭和の御代が終わったのである。その時、私は同時代を生きた国民の一人として、特別に深い感慨に襲われた。戦前から戦後へ、共に喜び、共に悲しんだ大御親を亡くした思いであった。

 崩御のニュースを聞いた翌日、1989年1月8日の朝、私は湘南海岸にいた。私の海浜の遊び場兼仕事部屋のすぐ先の波打ち際で素足でジョギングをしていた。少しばかり雨交じりの天気だったが、その程度の肉体の”酷使”は、この際、適切に思われた。

 それはちょうど、私にとって還暦を迎える年に当たっていた… こうして一つの時代は終わり、新しい時代が始まっていた。(令和3年12月23日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長、プリンストン大博士)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年12月31日