・Sr.岡のマリアの風(71) 年の初めにー「腕まくり」して一歩前へ

   2022年正月、「本当の話」です。やっと正月休み。普段できないこと、これをしよう、あれをしよう…と、(休みなのに!)計画を立てていました。それを神さまは見事にひっくり返し、感染症胃腸炎に罹り、まさに「寝正月」。で、寝ながら、そういえば、と考えました。

   教皇フランシスコは、この待降節・降誕節の中で、思い通りにならない現実をありのままに受け入れるマリアの姿、ヨセフの姿を、しつこいくらい繰り返し示してくださっているのに、私は自分のこととして考えてなかったな~、と。

  マリアもヨセフも、夢物語ではなく、現実の中で、神の望みを探し求めた、と教皇は指摘します。だから、物事が自分の望んだ通りにいかない時でも(教皇フランシスコは、ほとんどの場合がそうです、と言っています)、パニックになることも、自虐的になることもなく、他の人のことを思い遣り、自分の望みを超える、神の望みを探し求めることが出来た、と。

  それにしても、人間というのは脆いものです。一年の初めに、「土の器」である自分の姿を再認識したことは恵みでした。この歳になったら、もっとちゃんと自分の現実と向き合うべきですね。私たちは、土に返っていくこの命の中に、神の子の永遠の命を生きている。これって、すごいことだな~と考えました。

  そう言えば、年末に読んでいた、アレクサンドル・シュメーマン師の本の中で、キリスト者はいつの間に、「死」を、「裁き」「恐れ」として捉えるようになってしまったのだろう、という問いかけがありました。古代教会のカタコンベ芸術が象徴しているような、「主との出会いの待望」の中で「喜び」のトーンを帯びた死の解釈は、どこへ行ってしまったのだろう、と。

  土の器の中に脆さ、弱さをもちながら、すでに今、ここで、神の命を生き始めている私たち。キリストとともに死んで、キリストとともに復活した私たち。それが私たちの「現実」の姿。正月三日間だけでは足りない黙想の時でした。

  教皇フランシスコは、年の初めに、私たちが今、緊急に求められているのは、理想主義について討論をするのではなく、「平和の手職人」として、「腕まくりをして」一歩を踏み出すことだ、と言われます。日々の小さな出来事、良いこともそうではないことも、すべてを心に留めて思い巡らすことを知っている、母の

 「まなざし」が必要です。教会は、マリアから、「母である」ことを学ばなければなりません、とも。

 「腕まくり」は、気合を入れるための、私の昔からの癖です。今年も、マリアの学び舎で、小さな者としての歩みを続けることが出来ますように!祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2022年1月7日