♰「記憶にとどめることは文明のしるし」-ナチ・ホロコーストの犠牲者を想起する国際デーで

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の聖コルベ神父の牢で祈る教皇フランシスコ 2016年7月アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の聖コルベ神父の牢で祈る教皇フランシスコ 2016年7月 

(2021.1.27 バチカン放送)

 ナチス・ドイツのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が解放された76年、「ホロコーストの犠牲者を想起する国際デー」の27日、教皇フランシスコは一般謁見で、ホロコーストの犠牲者とナチス独裁下に迫害され強制連行されたすべての人々を追悼された。

 この中で、教皇は「記憶にとどめることは、文明のしるしです。記憶することは、平和と兄弟愛のより良い未来のための条件です」とされ、「思い起こすことは、このようなことが二度と起きないように、気をつけることでもあります」と語られた。

 そして、「一つの民族の救済」というイデオロギー的意図から始まることが、「最後には特定の民族や人類そのものを滅ぼしてしまうことになる」と警告され、「大量虐殺と残忍性の道が、どのように始まったのか」を改めて思い起こすように、呼びかけられた。

2021年1月27日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑮「聖書は、神が祈る人と会われる場」

(2021.1.27 Vatican News Lydia O’Kane)

   教皇フランシスコは27日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」をテーマとした講話を続けられた。

 その中で、教皇は、「神の御言葉」を私たちにもたらすために、私たち1人ひとりに向けて書かれた「聖書」の重要性について考察され、「聖典の言葉は、パピルス、羊皮紙、あるいは紙に閉じ込められたままにするために書かれなかった。『祈り、心に花を咲かせる人』に受け入れられるために、書かれたのです」と強調された。

(以下の続きは「バチカン放送(日本語課)」より)

 教皇は「これまで何度も耳にしたはずの聖書の一節が、ある日突然、意味を帯び、自分が置かれた状況を照らし始める、という体験を、多くの信者はしているでしょう」とされ、「祈りを通して、御言葉の新たな受肉ともいえることが起こります… 神の御言葉が世界にもたらされるように、私たち自身が御言葉を受け入れて守る『聖櫃』とならねばなりません」と説かれた。

 そして、「信者は、聖書を自分の哲学・倫理の正当化のために利用してはならず、聖書を『神との出会い場、聖霊の働きを待つ場』とする必要があります。『聖書を読む』ことは、『御言葉に自分自身を読まれること』なのです」と語られた。

 キリスト教には、聖書を用いた豊かな祈りの伝統があるが、教皇はその中で、「Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ=神の御言葉を聴く=「カトリック・あい」訳)」という霊的読書を通した祈り・観想の方法を紹介された。「Lectio Divina」では、まず聖書の一節を注意深く読むが、「テキストに対し『従順』な姿勢をもって、それ自体が意味することを理解するよう努めなくてはなりません」と注意された。

 次に、「聖書との対話」に進むが、御言葉が「観想と祈り」の動機となるように、「常にテキストに忠実に留まりながら、それが『何を語りかけているか』を自分自身に問いかけるようにしましょう… これはデリケートな段階ですが、主観的な解釈に引きずられることなく、私たち一人ひとりを、聖書のもとに一致させる『教会の生きた伝統』に従う必要があります」と述べられた。

 「Lectio Divina」の最後の段階は、観想。「ここで、言葉や考えは愛に場所を譲ることになります。それは、愛する者たちの間では、しばしば『沈黙のうちに見つめ合うだけで十分』なのと似ています… そうして聖書の一節は、観想に招く、一枚の鏡、一枚のイコンのように留まり続けるのです」と語られた。

 最後の教皇は、祈りを通して、「神の御言葉は私たちの中に住み、同時に、私たちも御言葉の中に住むようになります… 御言葉は私たちに力と平安をもたらし、危機にある時、平和を与え、混乱の時に、悪の攻撃から守るための愛と信頼を、心に保証します」と説かれ、「聖書は尽きることのない宝」として、「私たちが祈りを通し、聖書からより多くを汲み取ることができますように」と主に祈られた。

 

*参考*「Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ)で味わう主日の福音・B年」共同訳聖書実行委員会 (著), 日本聖書協会 (著), United Bible Societies (著), カトリック中央協議会 (監修, 監修)は新刊本、中古本でも入手できます。 日本聖書協会「『Lectio Divina』で味わう主日の福音・B年」がインターネットでもお読みになれます→

https://www.bible.or.jp/read/lectio_b_dl_1502.html (「カトリック・あい」)

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月27日

♰「イエスの言葉の鍵は『時』と『回心』」「聖書を通し日々、神の言葉を聴こう」神のことばの主日正午の祈りで

(2021.1.24 Vatican News Devin Watkins)

    教皇フランシスコは24日、年間第三主日・神の言葉の主日の正午の祈りに先立つカテケーシスで、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(1章14-20節)から「私たちの人生のあらゆる瞬間が、私たちの心を神と隣人愛に向けるのにふさわしい時」という事を思い起こされた。

 また、正午の祈りの後で、今日が「神の言葉の主日」であることに信徒たちの注意を向けられ、いつも”ポケット聖書”を携行し、「日々、少なくとも3節か4節を読む(ことで、神のみ言葉を聴く)ように」と勧められた。

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 この日読まれた福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエスがガリラヤで宣教を始められたことについて述べている。教皇はカテケーシスでまず、「イエスの説教は、この箇所の冒頭で語られた)この言葉ー『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい』に集約できます」と語られ、このイエスのメッセージから、「時」と「回心」という二つの重要な主題が浮かび上がる、と指摘された。

 そして、「時」について、マルコ福音書は「神が働かれる救いの歴史の期間」を意味しており、「『時は満ち』は、その救いの業が頂点に達し、完全に達成される時、を指しています。神が、御子をこの世に送られ、神の王国が、かつてなく近づいた、歴史的瞬間なのです」と語られた。

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 (バチカン放送)正午の祈りに先立つ教皇のカテケーシスの全文は以下の通り。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 この日曜日のミサで朗読されたマルコによる福音書の箇所(1章14-20節参照) は、いわば、「洗礼者ヨハネ」という証人から「イエスご自身」という証人への、移行を示すものです。ヨハネは、イエスの先駆者として、イエスのための地盤と道を準備する者でした。今、イエスは、ご自分の使命を開始し、救いの到来を告げます。

 イエスの説教は、次の言葉に集約されます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」 (同 1章15節)。このメッセージは、二つの本質的テーマ、「時」と「回心」について改めて考えるようにわたしたちを促します。

 マルコによる福音書で、「時」とは、神の救いの御業の時、救いが「成就した」時を意味しています。それは、神が御子をこの世におくられた歴史上の「その時」、神の御国が「最も近づいた時」のことです。

 しかし、救いは、自動的なものではありません。救いは、神の愛の賜物です。自由に与えられるとともに、それに対する自由な答え、すなわち、「回心」を求めるものです。それは、「物事の見方、生活そのものを変える」ということです。「この世のやり方にこれ以上従わず、神の、イエスのやり方に従う」ということです。それは、考え方と態度の決定的な変革です。

 罪は、他者や神にも反し、目的達成のためには虚偽も暴力もいとわない、利己的なメンタリティーをこの世界に持ち込みました。イエスのメッセージは、これとはまったく反対です。イエスは、私たちに、自分には神とその恵みが必要だと自覚し、地上の善に対して調和ある態度を保ち、すべての人に謙虚に受容的に接し、他者との出会いと彼らへの奉仕において、自分自身を実現するように、と勧めておられます。

 誰にとっても、贖いを受け入れる時間は短い。私たちの地上の生命は、長く続きません。人間の一生は、「神の無限の愛の賜物」であると同時に、神への愛を「証しするための時」でもあります。ですから、私たちの一生の各瞬間は、神と隣人を愛するため、永遠の生命に入るための、貴重な準備の「時」なのです。

 私たちの生涯の歴史には、二つのリズムがあります。一つは、時間や日々、年月によって測られるもの。もう一つは、私たちの成長の過程によって刻まれるものです。誕生に始まり、幼年期、青春期、成熟期、老年期、そして、死。その各過程が、主との出会いのすばらしい瞬間となるための、貴重な価値を持っています。

 信仰は、この「時間」の霊的な意義を見出すための、大きな助けとなるものです。私たちの人生のそれぞれの瞬間は、受け入れることも、拒否することもできる「主からの特別な呼び掛け」です。今日の福音に、シモンと、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが、どのように「主の呼び掛け」に答えたか、を見ることができます。彼らは皆、成熟した大人でした。それぞれが仕事も家庭も持っていました。それにもかかわらず、イエスがそばを通りかかり、呼び掛けられた時、「すぐに網を捨てて従った」(マルコ 福音書1章18節)のでした。

 私たちが毎日、瞬間瞬間を「救いの時」として、主が私たちのそばを通りながら、ご自分に従うよう呼び掛けておられる「時」として、生きていくことができるように、聖母マリアが助けてくださいますように。そして、私たちがこの世のメンタリティーから、愛と奉仕のメンタリティーへと、回心できるよう、お助けくださいますように。

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2021年1月24日

♰「『来て、見なさい』とイエスは招かれる」-「世界広報の日」に向けて

タイ、日本訪問に向かう機内で記者らと話す教皇フランシスコ 2019年11月19日 タイ、日本訪問に向かう機内で記者らと話す教皇フランシスコ 2019年11月19日   (Vatican Media)

(2021.1.23 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、5月の「第55回世界広報の日」に先立ち、メッセージを発表された。

 カトリック教会の「世界広報の日」は、日本では、復活節第6主日(今年は5月9日)に記念される。 今年のテーマは、「『来て、見なさい』(ヨハネ1,46)人々との出会いを通し、ありのままを伝える」(仮訳)。

 教皇はこのメッセージにおいて、既存の情報に甘んじたり、机上の情報収集のみに陥ることなく、自ら行動し、出かけ、出会い、見聞きし、現実から感じ取ると共に、福音の告知の歴史のように、人と人、心と心の出会いを大切にした広報・報道の在り方を提示している。

 教皇は特に、今日、コピーされた情報や、あらゆるメディアで流れる同一情報、前もって準備された情報が、取材やルポルタージュなど「靴をすり減らして得た情報」の占めるべき場を奪っていることを懸念された。

 ヨハネ福音書で、イエスの弟子となったフィリポは、ナタナエルと出会う。ナザレの人、イエスとの出会いを語るフィリポに、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言うと、フィリポは「来て、見なさい」と言った(ヨハネ福音書1章45-46節参照)。ナタナエルはイエスに会いに行き、その時、彼の人生は変わった、と教皇は記し、キリスト教信仰は、このような直接の出会い、経験から生まれていった、と述べている。

 教皇は、世界が新型コロナウイルスの大感染に見舞われている今、地球の各地の多くの現実が「来て、見なさい」とコミュニケーションに携わる人々を招いている、と強調。コロナ大感染をはじめ他の危機を語る時、「豊かな世界の視点だけから語ることなく、貧しい人々の現実や、また恵まれた社会の中の隠された貧困にも目を向けること」を願われた。また、インターネット上の様々なソーシャルメディアが「物事を伝え、分かち合う能力を広げる一方で、事実確認のない情報流布の危険」を指摘された。

 「2000年以上にわたって、キリスト教の魅力は、人々との出会いの中で連綿と語り継がれてきました」とされた教皇は、「人々との出会いを通し、そこで見たままを伝えていくことが、私たちのこれからの挑戦となるでしょう」と述べられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月24日

♰「和解と平和を、米国と全世界に醸成して」教皇、米新大統領にメッセージ

就任式で宣誓するジョー・バイデン新大統領 2021年1月20日 米ワシントン・連邦議会議事堂で就任式で宣誓するジョー・バイデン新大統領 2021年1月20日 米ワシントン・連邦議会議事堂で  (ANSA)

   教皇フランシスコは20日、同日就任したジョー・バイデン米大統領にメッセージをおくられ、新大統領に祝意を述べると共に、「その高い任務の遂行において、神が賢明さと力を与えてくださるように」と祈られた。

 そして、米国民が、大統領のリーダーシップのもとに、「建国時より同国に啓示を与えてきた政治的・倫理的・宗教的な気高い価値から、力を引き出し続けることができるように」と願われ、同時に、「私たち人類家族が直面するこの重大な危機に、先見的、かつ一貫した対応が求められる中で、真の正義と自由を基礎とする社会の構築と、貧しい人・弱い立場の人・声を上げられない人たちをはじめすべての人の権利と尊厳に配慮した決定」ができることを強く期待された。

 教皇は「普遍的な共通善を推進するため、理解と和解と平和を米国内と全世界に醸成」できるよう大統領を導いてくださるように、すべての叡智と真理の源である神に祈られ、大統領とその家族、愛する米国民の上に、神の豊かな祝福を祈願された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月21日

♰教皇、核兵器禁止条約の発効を前に、改めて「核のない世界」へ努力訴え

広島平和記念公園で祈る人々 2020年8月6日広島平和記念公園で祈る人々(2020年8月6日 )

 教皇フランシスコは、20日の一般謁見で、22日に発効する核兵器禁止条約に言及し、「核兵器のない世界」を築くため、すべての国と人々に協力と努力を呼びかけられた。

 教皇は、核兵器禁止条約が「一瞬にして大量の人を攻撃し、非常に長期間、環境に破壊的影響を与える核兵器を、明瞭に、法的拘束力をもって禁止する最初の国際条約」であることを強調。

 「人類が心から願う核兵器のない世界に必要な環境を積極的に作り上げるために、平和を推進し、多面的に協力しながら、決意をもってこの問題に取り組む」ように、すべての国々、すべての人々に強く求められた。

 教皇は、これまで様々な機会に核兵器の廃絶を訴えてこられた。

 一昨年11月の日本訪問では、長崎の爆心地公園を訪れ、平和のメッセージの中で、「核兵器のない世界は可能であり、必要だ」と言う確信をもって、実現のために「真の平和の道具」となるよう、すべての人に訴えられた。広島の平和記念公園でも、「原子力の戦争目的の使用は倫理に反する… 核兵器を持つこと自体、倫理に反する」とされ、「真の平和とは、非武装の平和以外にありえないことを、歴史から学ぼう」と呼びかけられている。

(カトリック・あい)

 同条約は、これを批准する国が「いかなる状況においても、核兵器またはその他の核爆発装置を開発、実験、生産、製造、その他の方法で取得、保有、または保管してはならない」と宣言している。2017年7月7日、ニューヨークでの国連会議で採択され、核軍縮に関するものとしては20年ぶりに法的拘束力を持つ多国間協定となった。

 だが、これまでのところ、米国、英国、フランス、ロシア、中国など、肝心の核兵器保有国はこの条約に署名しておらず、中国や北朝鮮はむしろ増強を図っており、これらの国々が批准する見通しもない。つまり、現状を見る限り、実効性に乏しい条約と言わざるを得ない状況だ。

 

2021年1月20日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑭「神の恩恵によってキリスト教一致は実現する」一致祈祷週間に

 

(2021.1.20 Vatican News Devin Watkins)

   教皇フランシスコは20日、水曜恒例の一般謁見で、「祈りについて」の講話を続けられ、今回は、現在進行中の「キリスト教一致祈祷週間」をテーマに取り上げ、不一致を克服し、和解の種を蒔くように、とのイエスの勧めを考察された。

 まず教皇は、イエスが弟子たちに「一致するように」と命じるのではなく、「一致するように」と祈られたことに注目、「このことは、私たちは自分の力で一致を無く遂げることはできない、という事を意味します。一致は”、祈りを通して願われる“贈り物”、恩恵なのです」と説かれた。

*内的な葛藤

 使徒パウロが書いているように、私たち一人一人は、自分自身の中で痛みを伴う葛藤-善を強く望んでいるが悪に傾いてしまうこと-を経験している。 教皇は「私たちの内部対立は、『真の解決策は、平和、和解、一致を神に求めることで、もたらされる』ということを思い起こさせます」るもの」と述べた。 また教皇は、「イエスは、父に『すべての人を一つにしてください』(ヨハネ福音書17章21節)と祈られました。一致を求める私たちの祈りは、このように謙虚で、主の祈りに信頼して参加するものです」とされた。

 *外的な苦難

 そして教皇は、信徒全員に、私たちがどれほどキリスト教徒の一致を祈っているか、顧みるように求め、 「現在の深刻な危機の時にあって、この祈りは、一致が対立、葛藤を克服するために、従来以上に求められています… キリスト教徒は、目に見える一致の道を追求する必要があります。それは、私たちが「自分たちを一致させる愛」を証しすることによってのみ、世界はキリストを信じるからです」と強調。

*一致のために戦う

 「祈ることは、一致のために戦うことを意味し、他の人の欠陥や間違いを誇張することで不和や分裂を引き起こそうとする悪魔の業と戦うことを意味します」とされた教皇は、「神が私たちに与えてくださった『祈りと愛』という道具を使って、私たちの家や職場に一致の種を蒔くように」と促された。

*キリストの愛の中で

  最後に、教皇、今年のキリスト教一致祈祷週間のテーマ、「私の愛にとどまりなさい。そうすれば、あなたがたは豊かに実を結ぶ」(ヨハネ福音書15章5-9節参照)を考察された。

 「霊的交感と愛の根源は、キリストー私たちが偏見を克服し、他者の中にいつも愛されている兄弟姉妹を見るようにされる方ーにあります… 一致を求めることで、私たちは、他の宗派のキリスト教徒が神からの賜物だということを知ります」とし、 「彼らのために、そして可能であれば彼らと一緒に祈ることを始めましょう… そうすることで、私たちは彼らを愛し、理解することを学ぶのです」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年1月20日

♰「互いを『隣人』として平和を作り出そう」キング牧師記念日に

教皇フランシスコとバーニス・キングさん 2018年3月12日教皇フランシスコとバーニス・キングさん 2018年3月12日 

  教皇フランシスコは18日、米国の祝日「キング牧師記念日」にあたって、キング牧師の末娘で、アトランタのキング・センターの責任者であるバーニス・キングさん宛てのメッセージを通し、同記念日に参加するすべての人々に挨拶をおくられた。

 米国では、毎年1月第3月曜日を、公民権運動の指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師の功績をたたえる日としている。

 メッセージで教皇は、キング牧師が非暴力と平和という手段を通して追求した、共通善の実現や、すべての人の間の調和と平等という夢を妨げる「社会の不正義・分裂・対立が、今日の世界に拡大しています」と指摘。

 そして、兄弟愛と社会的友愛を説くご自身の新回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」を引用しつつ、「私たち一人ひとりが、分裂ではなく一致を求め、憎しみを引きずるのではなく、それを断ち、対話の道を開いて、平和を作り出す人となるよう召されています」と述べられた。

 さらに、このような平和を求める態度をもってこそ、「私たちは、神の子らとしての共通の尊厳のもとに、互いを『よそ者』ではなく、『隣人』とすることができるようになるのです」と強調。こうしたビジョンを具体化するために、日々絶え間なく取り組み、「皆が力を合わせ、正義と愛に基づく共同体を作り上げていくことができるように」と励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月19日

♰「神の呼び掛けに、ただ愛をもって応えよう」教皇、年間第二主日正午の祈りで

Pope Francis leads the Sunday AngelusPope Francis leads the Sunday Angelus  (Vatican Media)
 洗礼者ヨハネは、一緒にいた二人の弟子に、イエスを指して、「見よ、神の子羊だ」と言う。イエスは、彼らがご自分に付いて来るのに気付いて、「何を求めているのか」とお尋になる。そして、彼らが「どこに泊まっておられるのですか」と聞くと、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。

 このイエスの答えは、単なる”名刺”ではなく、”出会いへの招待状”だ、と指摘された教皇は、二人はその日の午後を、イエスとともに居て、彼が話されている間、「自分たちの心がこれまで以上に燃え立ったと彼らが感じるのを想像するのは、難しいことではありません… 日暮れ時なのに、神だけが与えることのできる光が、彼らの中で炸裂するのが分かったのです」と述べられた。

彼らがイエスと別れて、兄弟たちの所に戻る時、その喜び、光が、彼らの内から洪水のようにあふれ出る。そして、弟子の一人、アンデレは、まず自分の兄弟のシモンに。「私たちはメシアに出会った」と告げる。

 教皇は「私たちに、共にいるように、と呼び掛けられるイエスとの出会いの経験について、少し考えてみましょう」とされ、次のように語られた。

 「神の呼び掛けの一つ一つは、神の愛のイニシアチブです… 神は命に呼び掛け、信仰に呼び掛け、人生の特定の状態に呼び掛けます。神の最初の呼び掛けは、命への呼び掛けで、それを通して、神は私たちを『人』にします。神は物事を連続する形ではなさらないので、それは個々人への呼び掛けです。 神は、私たちを信仰に招き、神の子供として神の家族の一員になるように招かれます。最後に、神は私たちを、人生における特定の状態へと招かれますー結婚の道、あるいは司祭職ないしは奉献生活の道に身をゆだねるように、招かれるのです」。      

 さらに、「これらの道は、神が私たち一人一人のためにお持ちの計画を実現するための異なる道、それは常に愛の設計図です… すべての信者にとって大きな喜びは、神と兄弟姉妹の奉仕に全存在を捧げる、という呼び掛けに応えることです」と強調された。

 そして、説教の最後に、教皇は「一千通りもの神の呼び掛けの前に、私たちは、時として、それを拒否したり、恐れを持ったりすることがあります… だが、神の呼び掛けは愛。呼び掛けには、ただ愛によって応えるべきなのです」とされ、次のように語られた。

 「初めに出会いー父について私たちに語りかけるイエスとの出会い-があります。イエスは父の愛を私たちに知らせます。そして、私たちに、それを人々に伝えたい、という自発的な欲求が起きますー『 私は愛に出会った』『私は人生の意味を見つけた』-ひと言で言えば『私は神を見つけた』と」。

 そして、正午の祈りを唱える前に、聖母マリアにこう祈られた。「私たちが神の呼び掛けに応え、謙虚に、喜びをもって、神のご意思を達成する中で、神への賛歌の人生をおくるように、助けくださいますように」。

2021年1月17日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑬ イエスの父への賛美の祈りに倣う

(2021.1.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿図書室から動画配信の形で行い、「祈りについて」の連続講話で今回は「賛美の祈り」を考察された。

 新年になって初めての一般謁見の講話で、教皇はまず、イエスが公生活で、人々の敵意や無理解を受け、困難な状況に置かれながらも、神を賛美していたことを思い起こされた。

 イエスはガリラヤ地方の村々で神の御国を告げ、多くのしるしを行いながら、弟子たちと宣教を続けたが、一方で、イエスに対する人々の反感も高まっていた。そうした中で、イエスは御父に嘆きの声をあげるのではなく、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました」(マタイ福音書11章25節)と、危機にあっても御父を賛美しておられた。

 教皇は、「イエスは、この賛美の祈りを通して、御父が『天地の主』であると同時に『自分自身の父』であることに喜びを表されるとともに、小さき者たちが福音に心を開くよう計らってくださった御父を、おたたえになっているのです」と話された。

 そして、「世界の未来と教会の希望には、『小さき人々』ー自分を他者よりも優れた者と見なさず、自らの限界と罪を自覚し、神なる御父のうちにすべての人を兄弟と認める人々ーの存在が常にある」とされ、「一見、失敗と思われる状況の中で神をたたえるイエスの祈りは、私たちにも、人生における敗北や、神の存在や働きをはっきりと感じられない状態を、違った視点で捉えることを教えてくれます」と説かれた。

 さらに、教皇は「賛美は私たちのために必要なのか、それとも神のために必要なのか」と問いかけ、「私たちは、神を賛美しながら救われる。賛美の祈りとは『栄光のうちにおられる神を仰ぎ見る前から信仰をもって、愛している、清い心を持った人々の幸いにあずかること」(「カトリック教会のカテキズム」2639黄)だ、と語られ、この祈りを、「特に試練の時、人生の歩みの上り坂で捧げる」ように勧められ、神への賛美を通して「私たちの前に新しい視界が開けるでしょう」と話された。

 また、アッシジの聖フランシスコの生涯を振り返っって、彼が「太陽の賛歌」を作った時、「健康を害していただけでなく、説教を始めた頃と何も変わらない世界や、相変わらず山積する問題に失望していてもおかしくない状況でした… しかし、そうした闇の中で、『ラウダート・シ・ミ・ショニョーレ(私の主よ、あなたは称えられますように)』と、神がお造りになったすべてのもののために神を賛美し、死に対してさえも、『姉妹なる死』と勇気をもって呼んだのです」と強調。

 最後に、「聖人たちは、良い時もそうでない時も、常に神をたたえることを教えてくれます… 誠実な神の愛は、決して欠けることがありません」と語られた。

(編集「カトリック・あい」=引用された聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2021年1月14日

♰「弱者への医療支援こそ、優先すべき『共通善』」-2月11日の「世界病者の日」へのメッセージ

イタリア・ミラノ近郊の病院で 2020年3月イタリア・ミラノ近郊の病院で 2020年3月  (ANSA)

 来月2月11日の「ルルドの聖母」の日は、カトリック教会の「世界病者の日」でもあるが、教皇フランシスコは12日、この日に先立ち、「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆、兄弟なのだ」(マタイ福音書23章8節)をテーマとするメッセージを発表された。

 このメッセージで、教皇は、特に、貧しい人々をはじめ、新型コロナウイルスの大感染で苦しむすべての人々に思いを向け、「兄弟愛に動かされ、弱い立場の人々を思いやることのできる社会こそが、人間的な社会」だとされ、健康を「優先すべき共通善」として、医療支援を大切にするよう呼びかけている。そして、「言葉だけで実行の伴わない偽善」に注意を促し、「誰一人、疎外され、見捨てられた、と感じることのないように、病者との絆を築くように」と希望されている。

 また、今回のコロナ大感染で表面化した医療システムの不備や病者への支援の不足に触れる中で、「特に高齢者や社会的に弱い立場の人々が手当てされる手立てが、必ずしも平等な形で保証されていません」とされ、他者に隣人として寄り添った「無数の人々の沈黙の群れ」を思い起しつつ、「手当てを必要とする人々と彼らを手当てする人々との間の、心の通う関係の重要さ」を強調。「いたわりの姿勢は、苦しむ病者へに慰めを与える貴重な『香油』です」と述べられた。

 さらに、「病者との絆」は、キリストの愛(カリタス)に限りない源泉を見出すことができ、「キリストの死と復活の神秘からほとばしる愛こそが、病者と彼らを世話する者の双方に深い意味を与えることができます」と語られた。

 そして、教皇はメッセージの最後に、「慈しみの母」「弱っている者の癒やし」である聖母マリアに、「私たちが、兄弟愛をもって互いをいたわることができるように」と助けを祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月13日

♰「私たちが洗礼を受けた日、聖霊を受け、神の愛する子になった日を思い起こそう」主の洗礼の日に

Pope Francis during AngelusPope Francis during Angelus  (Vatican Media)

 10日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所では、イエスが洗礼を受けられたのに続いて、尋常ではないことが起きるー「天が開き、三位一体の神の姿が明らかにされる」。「天が裂けて、霊が鳩のように、イエスの中に入ってくる。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と、言う声が、天から聞こえた」(マルコ福音書1章10‐11節参照)。

 教皇は「神は、慈しみが現れる時に、ご自身を現わされます。それが、神の”御顔”だからです」と述べ、「この箇所は、イエスがどのようにして罪人のしもべになり、御子と宣言されたのかを示しています… イエスは私たちのところに身を低くしておいでになり、聖霊がその上に降ります」と述べられた。

 さらに「愛は愛を求めます」とされ、「これは私たちに当てはまりますー私たちの奉仕のすべての行為において、慈しみのすべての業において、神は彼自身を明らかにし、この世に視線を定められる… これは、私たちが何かをする前でさえ、私たちの人生は慈しみによって特徴づけられ、それが私たちに帰せられている、ということです」。そして、「これは私たちが洗礼を受けた日に起きたこと… 私たちのために亡くなり、復活されたキリストの愛に私たちは浸され、聖霊の賜物をいただき、父である神はイエスに言われたように、私たち一人一人にこうおっしゃいましたー『あなたは私の愛する子』と」と説かれた。

 最後に教皇は「神の慈しみはとても深く、洗礼を受けていない人でもそれを受け取り、心が開かれていれば復活を信じることもできるのです… 間違ったことが多くの過ちを犯すと、私たちは考えるかもしれません。しかし私たちはいつも、神の愛する子供のままです。それが、私たちが得た最も大きな賜物なのです」と言われ、次のように祈られたー「私たちが今、祈りを捧げる聖母マリアが、私たちの信仰と生活の根底にある、洗礼の賜物を、私たちが養い育てるのを助けてくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年1月11日

♰「民主主義を守り、和解に努めて」教皇、連邦議会議事堂乱入死傷事件で米国民に求める

A crowd-control fence around Capitol Hill in Washington DCA crowd-control fence around Capitol Hill in Washington DC  (AFP or licensors)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

教皇、「民主主義、共通善に反する暴力は無条件で非難。”治療薬”を歴史から学べ」伊テレビ・インタビューで

(2021.1.9 Vatican News staff writer)

 なお、このインタビューで教皇は、新型コロナワクチンの接種についても聞かれ、「倫理的」にかなったものであり、他者の命と健康を大事にする見地からも、皆が接種を受けることを希望している、と答え、今後何週間かの内に、バチカンでワクチン接種が行われることになるが、ご自身もその際に接種を受けられるように、同意書に署名していることを明らかにした。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年1月10日

♰「キリストの愛の光を深く受け入れ、回心するように」-「主の公現」の祭日正午の祈りで

(2021.1.6 Vatican News  Devin Watkins )

   教皇フランシスコは6日、バチカン宮殿の図書室から動画配信された「主の公現」の祭日正午の祈りの説教で、神の愛の光を他者が知る為に輝かせることで、福音を告げ知らせるように、全世界の信徒たちに勧められた。

教皇フランシスコ 2021年1月6日「主の公現」の祭日のお告げの祈り説教をされる教皇フランシスコ (ANSA)

(2021.1.6  バチカン放送)

 教皇の説教は、以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日、私たちは主のご公現の祭日を記念します。主の公現とは、すべての人々に主が現れたことを祝いします。事実、キリストによって実現された救いに、国境はありません。

 主の公現は、主の降誕と異なる別の神秘ではなく、同じ神秘です。ただ、主の公現では、光の観点が強調されています。すべての人々を隈なく照らす光です。それはまた、信仰の中に捉えるべき光であり、愛徳と福音宣教において他の人々にも、もたらさるべき光です。

 今日の典礼で引用されたイザヤ預言者の言葉(イザヤ書60章1-6節参照)は、今の時代に、特に現実味を帯びています。

 「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(60章2節)。このような状況の中で、預言者は光を告げます。この光は、遠くの者も近くの者も、すべての人々を惹きつけます。そして、皆、この輝きに向かって歩み始めます(60章3節)。胸いっぱいに新鮮な空気を吸うように、希望に心を開かせる情景です。

 もちろん、誰の人生にも、人類の歴史にも、常に闇と脅威は存在します。しかし、神の光は、いかなる闇よりも強いのです。問題は、すべての人々を照らすべく、この光を受け入れることです。では、この光はどこにあるのでしょうか。イザヤ預言者は、この光を遠くから垣間見ていました。しかし、それはエルサレムの人々の心を抑えがたい喜びであふれさせるのに十分でした。

 福音記者マタイは、東方からの博士たちのエピソードを伝えながら、この光とはベトレヘムで誕生したあの幼子である、と言っています (マタイ福音書2章1-12節)。その幼子は王であるとすべての人が認めたわけではありません。しかし、このイエスこそが世を照らす光でした。地上に現れた星であるイエスは、待ちに待たれた救い主です。神は、イエスを通して、その愛と正義と平和の王国を実現されます。イエスは、ある人々のためではなく、すべての人、あらゆる民のために生まれました。

 この光は、どのように照らすのでしょうか。キリストの光は、いかにしてあらゆる場所と時代に広がるのでしょうか。それは、常に支配を手に入れようとする、この世の権力者を通してではありません。「福音を告げ知らせること」を通してです。神がわたしたちの間においでになるために選ばれたものと、同じ「方法」によってです。

 それは、ご託身、すなわち人々と同じようになることを通してでした。愛そのものである神の光は、このようにすべての人々を照らし、惹きつけるのです。星は、キリストです。救い主がすべての人に無償でくださる、無限の慈しみと善意の宝の証人として、私たちも兄弟姉妹たちのために同じように星になることができ、ならなければなりません。

 必要とされるのは、この光を自分の中に受け入れ、より深く迎え入れることです。私たちも、あの博士たちのように、星に魅了され、導かれ、照らされ、キリストに向かって回心するよう招かれています。それは、私たちを喜びと新たな驚きで、絶えず満たし続ける神のみ業の観想と、祈りを通しての信仰の歩みです。

 すべての人々の光であるキリストの福音が世界のすみずみに広まるように、全教会の上に聖母マリアのご保護を祈りましょう。

 

2021年1月6日

♰「私たちに必要な『目を高く上げる』『旅に出る』『見る』こと」主の公現の祭日ミサで

(2021.1.6 Vatican News Christopher Wells)

    教皇フランシスコは6日、主の公現の祭日のミサ中の説教で、この日読まれた福音書(マタイ1章1-12節)を取り上げ、「私たちは、幼子イエスに会うためにベツレヘムを訪れた賢者たち、Magi(東方の博士たち)を模範として、主をより良く熟視する仕方を学ぶ必要があります」と語られ、「個人個人として、そして共同体として、祈りにもっと時間を割くことが、私たちにとって、今日、特に必要とされています」「博士たちのように、私たちは主にひれ伏し、崇敬することを求めているのです」と強調された。

教皇は、このマタイ福音書の箇所からヒントを得て、「主の崇拝する者であることが何を意味するのか、私たちがもっとよく理解する」のに役立つ3つの単語として、「目を高く上げる」「旅に出る」「見る」を指摘された。

*私たちの目を高く上げる

 このうち、一つ目の「目を高く上げる」について、教皇は「預言者イザヤが、バビロンの捕囚から故郷に戻ったイスラエルの人々に、問題を抱える中でも、目を高く上げ、周りを見回すように励ましたことから、取られています。『周りを見回す』ように、という預言的な呼びかけは、困難や問題を無視することを意味せず、ましてや現実を否定することを意味するものではありません」とされ、その意味は「問題や不安を新たな仕方で見ることー神は、私たちの抱える問題をご存じで、私たちの祈りに耳を傾け、私たちの流す涙に無関心ではない(注:を知るように)ということなのです」と語られた。

 そして、これは「神をいつも信頼するように」という勧めであり、「親に対する子の感謝」の気持ちに繋がるもの。「私たちが神に向かって目を上げても、私たちの問題は無くなりませんが、問題に対処する力を主が下さる、と私たちは確信します。そして、神への信頼を基礎にした『親に対する子の感謝』、喜びは、主を崇拝したいという熱望を私たちの中に目覚めさせるのです」と強調された。

*旅に出る

 続いて教皇は「ベツレヘムでイエスに会うために、博士たちは長い旅をしなければなりませんでした… 旅は常に変化を伴います。私たちの人生の旅も多くの変化を伴い、学習体験になりうる間違いや失敗もあります」とされ、 「人生の試練と困難、信仰の体験は、私たちの心を浄化するのを助け、より謙虚にし、それによって神に対してより開かれるようにします」と説かれ、人生で経験する困難に落胆するのではなく、「主イエスに向かって前進する機会とすべきです…私たちの目を主に向け続けることで、新たな喜びの中で、困難に耐える力を見出すでしょう」と励まされた。

*見て知る

 このことは、三つ目の単語「見る」に繋がる。博士たちがベツレヘムに到着し、母のマリアとともにおられるイエスを見た時、彼らはイエスを伏し拝んだ。教皇は、これがどれほど注目に値するか強調され、「崇拝は当時、権力を持つ者、位の高い者を表敬する行為でした。博士たちはイエスがユダヤ人の王になられる方だと知ってはいましたが、彼らがその時に目にしたのは、貧しい幼子と母の姿でしかなかった。にもかかわらず、彼らは外見を超えて『見る』ことができたのです」と語られた。

 そして、主を崇拝するために、私たちも「目には見えるが、欺瞞的なことの多いベールを越えて『見る』必要があります」と説かれた。福音書の箇所は、ヘロデとエルサレムの人々で「外見と直接的な魅力にとらわれた俗人、イエスが誰であるかを認識出来ない者を代表させている、とされた。

*「神学的リアリズム」

 こうした人々に対して、東方の三博士は、「神学的リアリズム」によって、別のやり方でものを見ている、と教皇は指摘。それは、「物事の客観的な現実を知覚するやり方、外見を超えて『見る』、日々の状況の中に、貧しい人々の中に、片隅に追いやられた人々の中に隠れておられる主を崇拝することを可能にするやり方… 音や怒りに影響を受けないものを見るやり方。そして、どのような状況の中でも、本当に重要なものを求めるやり方です」と語られた。

 そして最後に、「主が私たちを真の崇拝者とし、私たちの生活を通して、すべての人に対する主の愛にあふれた計画を示すことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年1月6日