(2021.1.10 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは10日の正午の祈りの説教で、主の洗礼を祝うこの日、「私たちが洗礼を受けた日、聖霊を受け、神の愛する子になった日」を合わせて祝うように勧められた。
この日の説教で教皇はまず、イエスの公生活について、約30年間の両親と共に生活し、学び、働いた年月の後、福音宣教の公生活をおくられたのは約3年だったことに注目され、「イエスが、地上での人生の大半を、目立つことなく、人としてごく普通に過ごされたことは、示唆的です」と指摘。
そして、「これは私たちへの素晴らしいメッセージです。日常生活の素晴らしさ、あらゆる振る舞いや人生の瞬間ー一番単純で隠れたことさえもーの神から見た重要さ、の啓示です」と強調された。
30年にわたる隠された生活をされた後、イエスの公生活はヨルダン川で洗礼を受けること始まるが、「この洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼の本質は悔い改めにあります… 自からの罪の赦しを願い、進んで回心する意思の表明、です」とされた。
実際は、イエスにはその必要がなかったし、ヨハネは止めようとするが、それでもイエスは洗礼を受ける。「それは、イエスが私たち罪人とともにいることを望まれたからです… 私たちと同じ状態の中で生きるために、ヨルダン川に身を沈められました」「こうしてイエスは福音宣教を始められた最初の日に、私たちに“programmatic manifesto”ーご自分に与えられた権限あるいは力によって私たちを”高い所”から救おうとするのではなく、私たちのところに降りて来て、私たちの罪をご自身で背負うことによって(注:救う)ーということを示されたのです」と説かれた。
さらに、これが「神が世俗の悪を征服されるなさり方-ご自身を低くし、それを引き受けることによってーです。そして私たちも、裁くことによってではなく、どうすべきかを示唆することによってではなく、隣人になり、共感し、神の愛を分かち合うことによって、他者を引き上げることができる… ”親密であること”が、私たちと共にある神のなさり方なのです」と強調された。
10日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所では、イエスが洗礼を受けられたのに続いて、尋常ではないことが起きるー「天が開き、三位一体の神の姿が明らかにされる」。「天が裂けて、霊が鳩のように、イエスの中に入ってくる。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と、言う声が、天から聞こえた」(マルコ福音書1章10‐11節参照)。
教皇は「神は、慈しみが現れる時に、ご自身を現わされます。それが、神の”御顔”だからです」と述べ、「この箇所は、イエスがどのようにして罪人のしもべになり、御子と宣言されたのかを示しています… イエスは私たちのところに身を低くしておいでになり、聖霊がその上に降ります」と述べられた。
さらに「愛は愛を求めます」とされ、「これは私たちに当てはまりますー私たちの奉仕のすべての行為において、慈しみのすべての業において、神は彼自身を明らかにし、この世に視線を定められる… これは、私たちが何かをする前でさえ、私たちの人生は慈しみによって特徴づけられ、それが私たちに帰せられている、ということです」。そして、「これは私たちが洗礼を受けた日に起きたこと… 私たちのために亡くなり、復活されたキリストの愛に私たちは浸され、聖霊の賜物をいただき、父である神はイエスに言われたように、私たち一人一人にこうおっしゃいましたー『あなたは私の愛する子』と」と説かれた。
最後に教皇は「神の慈しみはとても深く、洗礼を受けていない人でもそれを受け取り、心が開かれていれば復活を信じることもできるのです… 間違ったことが多くの過ちを犯すと、私たちは考えるかもしれません。しかし私たちはいつも、神の愛する子供のままです。それが、私たちが得た最も大きな賜物なのです」と言われ、次のように祈られたー「私たちが今、祈りを捧げる聖母マリアが、私たちの信仰と生活の根底にある、洗礼の賜物を、私たちが養い育てるのを助けてくださいますように」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)