♰「私たちに必要な『目を高く上げる』『旅に出る』『見る』こと」主の公現の祭日ミサで

(2021.1.6 Vatican News Christopher Wells)

    教皇フランシスコは6日、主の公現の祭日のミサ中の説教で、この日読まれた福音書(マタイ1章1-12節)を取り上げ、「私たちは、幼子イエスに会うためにベツレヘムを訪れた賢者たち、Magi(東方の博士たち)を模範として、主をより良く熟視する仕方を学ぶ必要があります」と語られ、「個人個人として、そして共同体として、祈りにもっと時間を割くことが、私たちにとって、今日、特に必要とされています」「博士たちのように、私たちは主にひれ伏し、崇敬することを求めているのです」と強調された。

教皇は、このマタイ福音書の箇所からヒントを得て、「主の崇拝する者であることが何を意味するのか、私たちがもっとよく理解する」のに役立つ3つの単語として、「目を高く上げる」「旅に出る」「見る」を指摘された。

*私たちの目を高く上げる

 このうち、一つ目の「目を高く上げる」について、教皇は「預言者イザヤが、バビロンの捕囚から故郷に戻ったイスラエルの人々に、問題を抱える中でも、目を高く上げ、周りを見回すように励ましたことから、取られています。『周りを見回す』ように、という預言的な呼びかけは、困難や問題を無視することを意味せず、ましてや現実を否定することを意味するものではありません」とされ、その意味は「問題や不安を新たな仕方で見ることー神は、私たちの抱える問題をご存じで、私たちの祈りに耳を傾け、私たちの流す涙に無関心ではない(注:を知るように)ということなのです」と語られた。

 そして、これは「神をいつも信頼するように」という勧めであり、「親に対する子の感謝」の気持ちに繋がるもの。「私たちが神に向かって目を上げても、私たちの問題は無くなりませんが、問題に対処する力を主が下さる、と私たちは確信します。そして、神への信頼を基礎にした『親に対する子の感謝』、喜びは、主を崇拝したいという熱望を私たちの中に目覚めさせるのです」と強調された。

*旅に出る

 続いて教皇は「ベツレヘムでイエスに会うために、博士たちは長い旅をしなければなりませんでした… 旅は常に変化を伴います。私たちの人生の旅も多くの変化を伴い、学習体験になりうる間違いや失敗もあります」とされ、 「人生の試練と困難、信仰の体験は、私たちの心を浄化するのを助け、より謙虚にし、それによって神に対してより開かれるようにします」と説かれ、人生で経験する困難に落胆するのではなく、「主イエスに向かって前進する機会とすべきです…私たちの目を主に向け続けることで、新たな喜びの中で、困難に耐える力を見出すでしょう」と励まされた。

*見て知る

 このことは、三つ目の単語「見る」に繋がる。博士たちがベツレヘムに到着し、母のマリアとともにおられるイエスを見た時、彼らはイエスを伏し拝んだ。教皇は、これがどれほど注目に値するか強調され、「崇拝は当時、権力を持つ者、位の高い者を表敬する行為でした。博士たちはイエスがユダヤ人の王になられる方だと知ってはいましたが、彼らがその時に目にしたのは、貧しい幼子と母の姿でしかなかった。にもかかわらず、彼らは外見を超えて『見る』ことができたのです」と語られた。

 そして、主を崇拝するために、私たちも「目には見えるが、欺瞞的なことの多いベールを越えて『見る』必要があります」と説かれた。福音書の箇所は、ヘロデとエルサレムの人々で「外見と直接的な魅力にとらわれた俗人、イエスが誰であるかを認識出来ない者を代表させている、とされた。

*「神学的リアリズム」

 こうした人々に対して、東方の三博士は、「神学的リアリズム」によって、別のやり方でものを見ている、と教皇は指摘。それは、「物事の客観的な現実を知覚するやり方、外見を超えて『見る』、日々の状況の中に、貧しい人々の中に、片隅に追いやられた人々の中に隠れておられる主を崇拝することを可能にするやり方… 音や怒りに影響を受けないものを見るやり方。そして、どのような状況の中でも、本当に重要なものを求めるやり方です」と語られた。

 そして最後に、「主が私たちを真の崇拝者とし、私たちの生活を通して、すべての人に対する主の愛にあふれた計画を示すことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年1月6日