(2022.2.2 バチカン放送)
教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見で、国軍によるクーデターから1年を経てなお多くの国民が悲嘆の底にあるミャンマー情勢を注視、紛争当事者や世界の指導者たちに対して、和平実現への努力を改めて求めた。
「この一年間、ミャンマーで繰り返される流血の暴力を、苦しみをもって見守ってきました」と述べた教皇は、同国の司教たちと心を合わせ、「当事者間の和解のために働きかけて欲しい」と訴えられ、「多くの兄弟姉妹の苦しみに、目をそらしてはなりません」とされたうえで、「苦しみを生きる人々のために慰めを祈り、平和のために皆が努力するよう神に願いましょう」と世界の信徒たちに呼びかけられた。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis during the Sunday Angelus (Vatican Media)
(2022.1.30 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは30日、年間第4主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカによる福音の箇所(4章21‐30節)を振り返られ、「謙遜で、意欲をもち、主の道を歩むことを決して拒まないように」と信徒たちに説かれた。
*なぜイエスは無理解の人たちの所に行かれたのか
この箇所でルカは、イエスが故郷のナザレで最初の説教をした時、どのように人々の無理解と敵意に直面したかを語っている。
教皇は「故郷の村の人たちは、真理の言葉よりも、奇跡と人を驚かせるようなしるしを求め、イエスの言葉を受け入れようしなかった。それで、イエスは、今では諺になっている言葉を語られたのですー『預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』と」語られた。
さらに教皇は、「このような言葉は、イエスの失敗は、決して予想外のことではなかったことを示しています。イエスは、彼らのことを知っておられ、ご自分がされていることのリスクを分かっておられたーご自分が拒否されることを念頭に置いておられたのです」とされたうえで、「それなのに、失敗を予想していながら、どうして故郷に行かれたのか、私たちは不思議に思うかもしれません。なぜ、自分を進んで受け入れようとしない人たちに、そこまで親切にするのでしょう?」と会衆に問いかけられた。
そして、「このような問いかけは、私たちが頻繁に自分に対してしているものですが、神をよりよく理解するために役立ちます。相手に拒絶された時、イエスは退きません。『愛することに、ブレーキをかけない』のです」と説かれた。
*イエスのなさり方は、親の子に対する無償の愛を体現している
さらに、「イエスのなさり方は、子供たちが自分に感謝の気持ちを持たないことを知りながら、彼らを愛することを止めず、彼らのためになることをする、親たちの無償の愛に体現されています」とされ、「神も、そういう親たちと同じですが、もっとレベルが高い。イエスは今も、私たちに前を信じ、全を行なうためにあらゆる手段を使うように、と勧めておられるのです」と強調された。
*信仰は、進取の姿勢と謙虚さを通して得られる
教皇はまた、「敵意と歓迎しない態度に関して私たちに自問させるナザレでの出来事によって、他のことが明らかにされます」と述べられた。
「イエスが今日の福音で示されている“受け入れる”ことの模範的な人物に注目しましょう。それは、2人の異邦人、シドンのサレプタ地方にいる未亡人と、シリア人のナアマンです。そして、彼らのところに遣わされた預言者エリヤとエリシャ。だが、いずれの預言者も、容易には受け入れられず、多くの苦労を重ねました。そうした中で、未亡人とナアマンは、進取の姿勢と謙虚さをもって、それぞれの預言者の言葉を受け入れたのです」とされた。
そして、「信仰は心の準備と謙虚さを通して得られるのです。未亡人とナアマンは、神とその預言者の働きかけを拒まなかった。従順であり、心を堅くして閉じるようなことはしませんでした」と語られた。
*日々の現実の中でご自身を受け入れるように、イエスは求める
続けて教皇は、「イエスもまた、預言者と同じやり方をなさいます。私たちが期待するような振る舞いはなさいません。奇跡や、これまでなかった目新しいこと、権力と外見的なしるしから成る信仰、を求める人々には、イエスを見つけられない。不満もなく、疑いもなく、批判や浮かない顔をすることなく、イエスのなさり方、イエスがあえてなさろうとしていることを受け入れる人々が、イエスを見つけるのです」と強調。
「別の言葉でいえば、あなたが生活している日々の現実の中に、教会の中で、あなたのそばに居るいる人たちの中に、助けを求めている人たちの現実の中に、ご自分を受け入れるように、イエスは求めておられるのです。イエスはそこにおられ、そばの”川”で、”健全な、謙虚さの浴槽”で、自身を清めるように、勧めておられます」。
*聖母は私たちに、イエスを喜んで受け入れる方法を教えてくれる
最後に教皇は、「長い間、信者として過ごすと、自分の思考力や判断力で『自分は神のことを良く知っている』と考えてしまうことがあるでしょう。私たちが犯すリスクは、”イエスに慣れてしまうこと、イエスの新鮮さから心を閉じてしまうこと、自分の考えに凝り固まってしまうこと、です。そうならないように、主は私たちに開かれた心、誠実な心を求めておられるのです」と語られ、次のように祈られたー「謙虚さと進取の模範である聖母マリアが、イエスを進んで受け入れる方法を、私たちに示してくださいますように」。
2022年第30回「世界病者の日」教皇メッセージ 「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)ー愛の道にあって、苦しむ人の傍らにいる
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
30年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が世界病者の日を制定したのは、神の民、カトリック医療施設、そして市民社会が、病者と彼らのケアにあたる人々の支援の必要性への認識を高めるためでした1 。
この間、世界中の地方教会で実現してきたことを、主に感謝します。さまざまな進展がありましたが、すべての病者が、中でも貧困と排除のもっとも激しい地域や状況にある人々が、必要な医療ケアを受けられるようになるには道半ばです。また、十字架につけられ復活したキリストと結ばれて病の時を過ごせるような司牧的同伴も十分ではありません。第30回世界病者の日ーその締めくくりの祭儀は、パンデミックのために、ペルーのアレキパではなく、バチカンのサンピエトロ大聖堂で行われますーを通して、病者とその家族への奉仕と寄り添いを深めることができますように。
1.御父のように憐れみ深く
今回の第30回のテーマとして選ばれた「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)は、まず私たちの視線を「憐れみ豊かな」(エフェソの教会への手紙2章4節)神に向けさせます。いつでも、子らを、たとえ子どもたちが背を向けようとも、父の愛で見守ってくださる神です。まさに、憐れみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべての業の中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります。だから私たちは、神の憐れみには父性と母性(イザヤ書49章15節参照)の二つの側面が内包されているのだ、と驚きと感謝をもって断言できるのです。神は、父の強さと母の優しさをもって私たちの面倒を見ておられ、聖霊によって新しい命を与えようと、絶えず強く願っておられるからです。
2.御父の憐れみであるイエス
病者に注ぐ御父の憐れみ深い愛を証しする最高の方は、神の一人子です。福音書は実に多くの箇所で、さまざまな病気を患う人とのイエスの出会いを伝えています。イエスは「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされ」(マタイ福音書4章23節)のです。次のような疑問が湧きます。使徒は福音の告知と病者の癒しのために師から遣わされた者ですが(ルカ福音書9章2節参照)、なぜイエスは、使徒の宣教において第一の任務とするほどに病者に対するケアを特別視していたのでしょうか。
20世紀の一人の思想家が、一つの理由を示唆しています。「痛みはまったき孤立をもたらし、まさにこの全き孤立から、他への訴え、他への嘆願が生まれる」2 。病によって肉体のもろさや苦しみを味わうと、心も沈み、不安が募り、次々と疑問が湧いてきます。起きること一つ一つの意味を問い、すぐに答えを得ようとします。これについては、今回の新型コロナの世界的大感染において、集中治療室で孤独に末期を迎えた多くの患者を思い出さずにはいられません。もちろん、献身的な医療従事者たちのケアを受けてはいましたが、最愛の家族や、現世での生活でいちばん大切だった人たちとは離されたままでした。だからこそ、御父の憐れみであるイエスの模範に倣って、病者の傷に慰めの油と希望のぶどう酒を注ぐ、神の愛の証し人3 の存在が重要なのです。
3.キリストの痛みを負う体に触れる
「御父のように憐れみ深い者となりなさい」というイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。私が考えているのは、医師、看護師、検査技師、病者の介助や介護のスタッフ、そして苦しむ人のために貴重な時間を割いてくれる多くのボランティアのことです。親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負った体に触れる皆さんの手は、御父の憐れみ深いみ手のしるしとなるはずです。皆さんの職業の特別な尊さと、そしてそれに伴う責任とを、どうか心に留めておいてください。
医学の、とくに近年の進歩の恵みを、主に感謝しましょう。新たな技術によって数々の治療法が開発され、患者に大きな利益をもたらしています。古いものから新しいものまで、さまざまな病気の撲滅に貴重な貢献をなすべく、研究が続けられています。リハビリ医療は、その知見と技能を著しく発展させてきました。
だからと言って、忘れてはならないのは、患者それぞれが、その尊厳と弱さを含めて唯一無二の存在であることです4 。患者はつねにその人の病気よりも大切で、だからこそ、どのような治療法も、患者の話に、これまでのこと、懸念、不安に、耳を傾けないままなされてはなりません。回復の見込みがない場合でも、ケアは常に可能であり、慰めを与えることはつねに可能であり、病状にではなくその人に関心を示しているという寄り添いを感じてもらうことは、常に可能なのです。ですから医療従事者には、専門課程の間に、患者への傾聴の仕方と、患者との関わり方を身に着けることを期待しています。
4.ケアにかかわる施設――あわれみを表す家
世界病者の日はまた、ケアにかかわる施設に着目するにも良い機会です。何世紀にもわたり、病者への憐れみに動かされて、キリスト教共同体は無数の「よいサマリア人の宿屋」を開設してきました。そこに迎えられケアを受けることができるのは、あらゆる病気の患者たち、とりわけ貧困や社会的排除から、あるいは特定の病状から治療が困難で回復が見込めない人たちです。そうした状況では、子どもや高齢者、そして最も弱い立場の人たちの負担が、最も重くなります。
多くの宣教師、御父のように憐れみ深い者たちは、福音を宣べ伝えつつ、病院や診療所やケアする施設を建設していきました。どちらもが尊い事業であり、二つを通してキリスト者の慈善の愛は具体化し、弟子たちによってキリストの愛が証しされ、信用を得ていったのです。とくに私が思い起こしているのは、地球上で最も貧しい地域の住民のことです。そうした地域では、人的・物的資源が限られてはいても可能なことを全てしてくれる医療施設にたどり着くのに、長距離を移動しなければならないことも、多々あります。この先もやるべきことはあり、十分な治療を受けることが贅沢でしかない国もまだあります。貧困国では新型コロナウイルスのワクチンが入手できないことや、さらにいえば、もっとずっと一般的な薬で対応できる病気も治療できないことがある、というのがその顕著な例です。
この文脈において、カトリックの医療施設の意義を今一度訴えたいと思います。それらは保護され維持されるべき貴重な宝です。もっとも貧しい病者と、完全に見捨てられた境遇に寄り添うことで、その存在は教会の歴史を浮き彫りにしてきました5 。医療を受けられない兄弟姉妹、あるいは十分なケアを得られない兄弟姉妹の叫びに耳を傾け、彼らに奉仕するために身をささげてきた修道会創設者が、どれほど多くいたことでしょう。
現在もなお、先進国においてさえ、その存在は恵みです。必要なあらゆる専門性を踏まえた身体のケアに加え、患者とその家族を第一の関心事とする愛も、つねに差し出しているはずだからです。使い捨ての文化が広がり、必ずしも命が、歓迎され、生かされるに値するものだ、と認められていない今日、憐れみを表す家であるこれらの施設は、全ての人間の生命―最も弱い存在であろうとも―をその発生の瞬間から自然な死に至るまで、保護し世話をする模範となりうるのです。
5.司牧における憐れみ―寄り添い、慰めること
ここ30年で医療司牧(パストラルケア)は、必須の奉仕としての認知度が高まったと思います。貧しい人―病者は健康状態において貧しい人です―が苦しむ、最もひどい差別が「霊的配慮の欠如」なら、私たちは彼らに対し、神の寄り添い、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道への促しを差し出さずにいてはなりません6 。これについて、皆さんに覚えていてほしいことがあります。病者に寄り添うことや、彼らに対するパストラルケアは、専門的にそれに従事する一部の牧者だけの務めではないのです。病者を訪問することは、キリストからの全ての弟子に対する要請です。自宅で訪問を待つ病者や高齢者は、どれほど多いことか。慰めという奉仕の務めは、「私が……病気の時に見舞(ってくれた)」(マタイ福音書25章36節)というイエスの言葉を心に留めながら行う、洗礼を受けた全て人の責務です。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。私は全ての病者とその家族を、病者の癒し手、マリアの執り成しに委ねます。この世の痛みを身に受けておられるキリストと結ばれて、意義と慰めを見い出し、自信をもつことができますように。すべての医療従事者のために祈ります。彼らが憐れみ深い者となり、患者に対する適切なケアだけでなく、兄弟愛からの寄り添いに努めることができますように。
全ての人に、私は愛を込めて使徒的祝福を送ります。
ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年12月10日 ロレトの聖母マリアの記念日に フランシスコ
*注*
1. 教皇聖ヨハネ・パウロ二世「世界病者の日制定のための、保健従事者評議会議長フィオレンツォ・アンジェリーニ枢機卿あて書簡(1992年5月13日)」参照。
2. エマニュエル・レヴィナスはこれを「苦しみの倫理(Une éthique de la souffrance)」(Souffrances. Corps et âme, épreuves partagées, J.-M. von Kaenel edit., Autrement, París 1994, pp. 133-135)という。
3. 『ローマ・ミサ典礼書(イタリア語版)』叙唱―共通8「よいサマリア人であるイエス」参照。
4. 教皇フランシスコ「イタリア医科大・歯科大連盟でのあいさつ(2019年9月20日)」参照。
5.教皇フランシスコ「ジェメッリ総合病院(ローマ市)訪問時のお告げの祈り前のあいさつ(2021年7月11日)」参照。
6.教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び(2013年11月24日)』200参照。
ポーランド南部・アウシュビッツ強制収容所跡で祈られる教皇フランシスコ (2016年7月 )
(2022.1.27 バチカン放送)
教皇フランシスコは26日の水曜恒例の一般謁見で、翌27日の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に向けて、「こうした言語道断の残忍な行為が、決して繰り返されないように」と祈られた。
教皇は、ユダヤ人や様々な国籍・宗教の人々、何百万人をも犠牲にしたこの虐殺を記憶に留める必要を強調。「言語道断の残忍な行為が繰りかえされるようなことは、決してあってはなりません」と語られた。
特に教育関係者や各家庭に対して、「歴史に記されたこの暗いページの恐ろしさに対する認識を、若い世代に促していただきたい」と願われ。「人間の尊厳が蹂躙されることのない未来を築くために、この悲劇を忘れてはなりません」と訴えられた。
(編集「カトリック・あい」)
教皇フランシスコ、エキュメニカルな夕べの祈りで 2022年1月25日 ローマ・聖パウロ大聖堂 (ANSA)
(2022.1.25 バチカン放送)
「キリスト教一致祈祷週間」の最終日で「聖パウロの回心」の祝日でもある25日、教皇フランシスコがローマの城壁外の聖パウロ大聖堂(サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ)で、”エキュメニカルな夕べの祈り”を主宰され、諸キリスト教教会のローマにおける代表者、様々な教会に属する世界各国の学生たちが参加した。
教皇は集いの説教で、救い主との出会いを求めベツレヘムに向かう東方三博士の歩みと、完全な一致を目指すキリスト者たちの歩みを重ねられ、「博士たちは、星を見て東の方から旅立ちました。日の光が上る東方から、さらに大きな光を求め、自分たちの知識や伝統だけに満足することなく、神を求める心に突き動かされて出発しました」と語られた。
そして「イエスの一致への招きに応え、私たちもまた、三博士のように互いに支え合いながら歩むことを希望しています」とされ、「伝統的に様々な衣装で描かれる三人の博士は、民族の多様性だけでなく、異なる伝統を持つキリスト者たちをも象徴しています」と指摘された。
さらに「博士たちはまずエルサレムに着きましたが、天上を求める彼らが目にしたのは、ユダヤ人の王が生まれたと聞き『不安』を抱いたヘロデ王とエルサレムの人々の地上の残酷な現実であり、空の星の輝きに対する『世の闇の暗い力』でした」とされたうえで、「私たちも、一致への歩みの間には、習慣や安穏を揺さぶる新しい出来事への不安に襲われることもあるでしょう。しかし、復活の主は、私たちをこのような不安から解放し、『恐れることはない』と励ましてくださるでしょう」と話された。
ベツレヘムに到着した東方の三博士は、家に入り、ひれ伏して幼子を拝んだと聖書に書かれていることについて、教皇は「一緒に同じ家に入り礼拝した博士たちの姿は、ガリラヤの山で復活したイエスを前に一致した弟子たち(マタイ福音書28章17節参照)を先取りしたものであり、一致のための旅を続ける私たちにとって預言的なしるしでもあります」と強調。
博士たちは「別の道を通って」(マタイ福音書2章12節)自分たちの国へ帰って行った、と書かれていることについては、「イエスに出会う前のサウロのように、私たちも、主が示す謙遜と兄弟愛と礼拝の道を見出すために、”自分たちの習慣や都合”という進路をを変える必要があります」と語られ、「神の御旨に従い、一致の歩みを共に続けるために、進路を変える勇気、回心の勇気を与えてくださいますように」と主に祈られた。
(編集「カトリック・あい」)
(2022.1.23 カトリック・あい)
教皇フランシスコは23日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の言葉の主日」のミサを奉げられ、ミサ中の説教で次のように語られた。バチカン広報発表の全文は以下の通り。
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*旧約のネヘミヤ記とルカ福音書の朗読箇所の中心に御言葉がある
今日のミサの第一朗読(旧約聖書ネヘミヤ記8章2-4a節、5-6節、8-10節)と福音朗読(ルカ福音書1章1‐4節、4章14‐21節)には、2つの並行した動作があります。
祭司エズラは神の律法の本を高く上げ、開き、すべての人々の前でそれを宣言します。ナザレの会堂にいるイエスも、聖典の巻物を開き、すべての人の前で預言者イザヤからの一節を読みます。これは、私たちに基本的な現実を伝える2つの場面です。神の聖なる人々の生活の中心で、そして私たちの信仰の旅の中心で、私たちの言葉で。その中心にあるのは神の御言葉です。
それはすべて、神が私たちに向けられた御言葉から始まりました。キリストにおいて、永遠の言葉である父は「天地創造の前に、私たちをお選びになった」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。主の言葉で宇宙は創造されましたー「主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った」(詩編33章9節)。
古代から、主は預言者を通して私たちに話しかけてきました(ヘブライ人への手紙1章1節参照)。最後に、時が満ちると(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)、私たちにご自身の言葉ー独り子ーを送ってくださいました。
そして、イエスはイザヤ書を読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ福音書4章21節)という前代未聞の宣言をなさいました。現実となりました。神の言葉はもはや約束ではありません。現実のものとなったのです。イエスにおいて、言葉は肉体となり、聖霊の働きによって、私たちの間に来られ、私たちの期待を満たし、私たちの傷を癒すために、私たちの中に住みたいと願われています。
兄弟姉妹の皆さん。ナザレの会堂の人々のように、私たちもイエスをじっと見つめましょう(ルカ福音書4章20節参照)ー会堂にいた人々はイエスを見つめました。イエスは彼らナザレの民の一人でした。彼らはイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚きました。そして私たちも、イエスの言葉を歓迎します。
*御言葉は、私たちに神を啓示する
互いに関連している二つの側面について黙想しましょう。御言葉は私たちの中心にあり、神を明らかにし、私たちを導きます。
まず第一に、御言葉は神を啓示します。イエスは福音宣教の初めに、預言者イザヤの書の特定の箇所を朗読され、聖書の言葉が実現したことを宣言されます。イエスは、貧しい人に福音を告げ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にするために、地上に来られました(ルカ福音書4章18節参照)。このように聖書を通して、イエスは、私たちの運命を心に留めておられる方としての神の顔を、啓示にしてくださるのです。
主は”天国に腰掛けた主人”ではありません。そうではありません。私たちの足跡をたどる父です。冷たく、超然とした、冷静な観察者ではないし、”数学的”な神でもありません。私たちの人生に情熱を傾け、涙を流しているところまで関わってくださるのは、私たちと共におられる神です。私たちの周りで起きることに中立だったり、無関心だったりせず、私たちを守り、助言し、私たちの側に立ち、関わり、私たちの痛みを受け入れる、愛情深い存在。常に側におられます。
*私たちのそばにおられる神
これが、イエスがすべての人の前で宣言された「福音」(14章8節)なのです。神は近くにいて、私、あなた、そして、すべての人の世話をしたい、と望んでおられます。これが神の特徴です。親密さです。神はご自身をこのように定義していますー主は、私たちがいつ呼びかけても近くにいる。このような神を持つ大いなる国民が、果たしてほかにいるだろうか」 (申命記4章7節参照)。
近くにおられる神は、思いやりと優しい親密さで、押しつぶされるな重荷からあなたを解放し、冬の寒さにこごえるあなたを暖め、暗い日々を過ごすあなたを照らし、おばつかない足取りのあなたを支えようとしてくださいます。そして神はご自身の言葉でそうなさいます、言葉で、あなたの恐れの灰の中に希望を再び燃え立たせ、あなたの悲しみの迷宮に喜びを再発見させ、孤独に苦しむあなたを希望で満たすように、あなたに話しかけられます。あなたを歩ませますが、迷路の中ではありません。あなたを道に沿って歩ませ、日々、新たな展望が開けるようにしてくださいます。
*私たちが、神に対して持つイメージは?
兄弟姉妹の皆さん。私たち自身に問いかけましょう。私たちは心の中に「解放された神」「近くにいる神」「思いやりのある神」「優しい神」のイメージを持っていますか? それとも、「厳格な裁判官」「厳格な税務署員」と見なしますか? 私たちの信仰は希望と喜びを生み出していますか?それとも、恐れを抱き続け、恐ろしい信仰によって心を重くされているでしょうか?教会で私たちは神のどの顔を宣言しますか? 私たちを解放し、癒す救い主?それとも罪悪感で打ち砕く恐ろしい神?
真の神へ心を向けるために、イエスは、私たちにどこから始めるべきかを示してくださいます。御言葉で、神の私たちへの愛の物語を語ることで。私たちを神に対する恐れや先入観から解放し、信仰の喜びをもたらします。御言葉は、偽りの偶像を打ち砕き、私たちの影を覆い隠し、人間的すぎる神の姿を破壊し、神の本当の顔、憐れみに、私たちを引き戻します。神の言葉は信仰を養い、新たにします。御言葉を祈りと霊的生活の中心に戻しましょう!中心に、神様がそのような存在か教えてくれる御言葉。私たちを神様に近づける御言葉を。
*御言葉は、私たちを人に導く
そして、御言葉の第二の側面。御言葉は私たちを人に導きます。私たちを神に導き、人に導きます。神が思いやりのある愛であることを発見したとき、私たちは偶像崇拝の宗教に身を寄せる誘惑に打ち勝ちます。隠された偶像崇拝、洗練された偶像崇拝もありますが、偶像崇拝です。御言葉は、人々を解放する神の愛の穏やかな力で、兄弟姉妹に会うために私たちの背中を押します。
ナザレの会堂で、イエスはこのことを私たちに明らかにされます。そして私たち、人々を解放します。イエスは、規範のリストを提供したり、宗教的な儀式を行ったりするためではなく、傷ついた人類に会い、苦しみで歪んだ顔を愛撫し、壊れた心を癒し、軛から私たちを解放するために、この世の街頭に立たれました。私たちの持ち物ー魂―を捕まえ、私たちに、どのように讃えることを神がいちばんお喜びになるのかーそれは、隣人をいたわることーを啓示されます。
そして、私たちは、そこに戻らなねばなりません。教会には“(硬直的な)厳格”さへの誘惑があり、神の啓示を受けるということは、より厳格に、より多くの規範を忠実に守ることだ、と信じられています…いいえ、そうではありません。厳格さの主張に出会うとき、私は直感しますーこれは偶像であり、神ではない。私たちの神はそのような方ではない、と。
*私たちを変える御言葉、硬直的な厳格さの誘惑
兄弟姉妹の皆さん。神の言葉は、私たちを変えますが、”厳格”さは私たちを変えません。私たちを隠蔽します。神の言葉は剣よりも鋭く、魂を刺し通すことで、私たちを変えます(ヘブライ人への手紙4:章12節参照)。神は、一方で、私たちを慰められ、御顔を私たちに明らかにされ、他方で、私たちを刺激し、揺さぶり、私たちを矛盾に引き戻されます。私たちを危機に陥れます。静けさの代償を払うのが、不公正と飢餓によって引き裂かれた人々であり、代償を払うのは常に最も弱い人々であるなら、私たちを落ち着かせません。最も弱い人が、常に代償を支払わされます。
御言葉は、うまくいかないことを他人や自分が置かれた環境のせいにする私たちの”自己正当化”に、異議を唱えます。兄弟姉妹が、誰も上陸させてくれないために、海でに命を落とすのを見で、どれだけ痛みを感じるでしょう! そして、(注:彼らを自国の領土に入れないことを)神の名において行う人もいます。神の言葉は、明るみに出るように、問題の複雑さの裏に隠れないように、私たちを促します。「何もできることはない」「それは他の人の問題だ」「彼らのことは放っておけ」というような言い訳をしないように、と。
神の言葉は、行動するように、神を信仰することと人へのいたわりを結びつけるように、と強く私たちに促します。聖書は、私たちが楽しむためや天使のような霊性で甘やかされるために与えられたのではありません。表に出て、他の人々と出会い、彼らの傷に接するために与えられているのです。
硬直的な厳格さー教会が陥りやすい誘惑の一つである現代のペラギウス主義*について話したことがあります。
注*4世紀中ごろにブリタニアに生まれ、修道士となったペラギウスの説とされるもの。当時のキリスト教徒の退廃的風潮を批判し、厳格な道徳的宗教性を求めたペラギウスは、また、人間には現在無しで存在できる可能性が、神の恩恵として与えられている、と主張。418年のカルタゴ教会会議で異端として破門された(「カトリック・あい」)。
そして、もう一つの他の誘惑は、天使のような霊性を求めることー人を”軌道”に乗せ、現実に触れさせないようにする”神の言葉”を提唱するグノーシス的な運動、グノーシス主義です。肉となった御言葉(ヨハネ福音書1章14節参照)は、私たちの中で肉になることをお望みです。私たちを人生から切り離すのではなく、人生に、日々の暮らしの真っただ中にいて、兄弟姉妹の苦しみ、貧しい人々の叫びに耳を傾け、社会と地球を傷つける暴力と不公正に直面することを望んでいます。御言葉は、私たちがキリスト教徒として、周囲の人や状況に無関心でいないように、行動的で、創造的で、預言的なキリスト教徒になることを希望しているのです。
*御言葉は、私たちが生きている今、「肉」となることを望まれる
「今日」イエスは言われますー「この聖書の言葉は、実現した」(ルカ福音書4章21節参照)-御言葉は、理想的な未来ではなく、私たちが生きているこの時、今日、肉体となることを望んでいます。
パリの郊外で福音を生きることを選んだ20世紀のフランスの神秘主義者はこのように書いています。「神の言葉は”死んだ手紙”ではなく、霊と命… 主の言葉が私たちに求めているのは、私たちの”今”ー私たちの日々の暮らしと私たちの隣人の渇望」(マドレーヌ・デルブレル** 「 La joie de croire( 信じる喜び)」)。
注**Madeleine Delbrêl、1904年 10月24日 –1964年 10月13日 =フランス の社会運動家
では、私たち自身に問いかけましょう。私たちは、イエスに倣い、他の人のために解放と慰めの教役者になり、御言葉を実行したいと思っているか?私たちの教会は御言葉に従順な教会になっているか?教会は、他の人の言葉に積極的に耳を傾け、兄弟姉妹を抑圧から解放し、恐れの結び目を解き、最も傷つきやすい人々を貧困の牢獄、人生を苦しめる倦怠感、悲しみからに夕にするために手を差し伸べていたか?私たちが望んでいるのは、このことではないのか?
*私たち1人ひとりが、神の言葉の伝道者、預言者
この神の言葉の主日のミサに参加されている私たちの兄弟姉妹の中に、このミサの中で任命されるカテキスタと朗読奉仕者がおられます。イエスの福音に奉仕し、イエスを宣べ伝え、イエスの慰め、喜び、解放がすべての人に届くようにするという重要な任務に召されています。これは、(彼らだけでなく)私たち一人一人の使命でもありますーそれは、この世において、神の言葉の伝道者、預言者となることです。
聖なる書に情熱を傾けましょう。神の新しさを明らかにし、私たちが他者を倦むことなく愛するよう導く御言葉に、進んで深く浸りましょう。神の言葉を、教会の生活と司牧活動の中心に置きましょう!そうすることで、私たちはあらゆる硬直的なペラギウス主義から、あらゆる硬直的な厳格さから、解放され、人を”軌道”に乗せる霊性の幻想、私たちの兄弟姉妹への無関心から自由にされます。神の言葉を教会生活と司牧活動の中心に置きましょう。御言葉に耳を傾け、御言葉と共に祈り、御言葉を実践しましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)