☩ 「戦争は、すべてを破壊に導く、神の創造の業への反逆」(VN)

Pope Francis appears on the television show "Che tempo che fa," broadcast on Italian network Rai 3.Pope Francis appears on the television show “Che tempo che fa,” broadcast on Italian network Rai 3. 

(2022.2.6 Vatican News Salvatore Cernuzio)

「戦争は自己矛盾です」ー教皇フランシスコは5日夜の、イタリアのテレビ司会者ファビオ・ファジオの番組Che tempo chefaにご自宅の聖マリアの館から参加され、戦争、移民・難民、被造物である地球の環境保護、親と子の関係、悪と苦しみ、祈り、教会の未来、友人の必要性など、さまざまな問題について質問に答えられた。

*移民・難民の悲劇は”無関心の文化”のしるし

    特に欧州では中東やアフリカから紛争や飢餓を逃れてくる移民・難民が大きな問題であり続けており、最近でも、ギリシャとトルコの国境で12人の難民が凍え死ぬという悲劇があった。

   教皇は、「この問題は”無関心の文化”のしるしであり、優先順位の問題でもありますー戦争が第一、そこに暮らしている人々はその次になっている」とされた。

   そして、イエメンを例に挙げ、「イエメンの人々はどれくらい戦争に苦しんでいるでしょうか。そして私たちは、イエメンの子供たちについてどれくらい話題にしてきたでしょうか。何年もの間、問題の解決策はありませんでした。子供、移民・難民、貧しい人々、飢えている人々を助けようとする人々はいますが、優先されているのが戦争、武器輸出・売買です。武器を買わなければ、その分のお金で、1年間、無料で全世界のこうした人々に食糧と教育を与えることができる、ということを考えてください」と訴えられた。

   さらに、教皇は、海岸で亡くなっていたシリア人の少年、アラン・クルディと、「私たちがその名を知らない、寒さの中で毎日、命を落としている数多くの子供たち」を思い浮かべ、「それでも、戦争は依然として高い優先順位に置かれています。私たちは目の当たりにしているのは、今日、最も重要なのは戦争ーイデオロギーの戦い、権力の戦い、商いの戦い、そして極めて多くの兵器工場ーであり、そのために経済が動員されている、という現実です」と指摘された。

*戦争は「破壊のメカニズム」を働かせること

   関連して、ロシア軍による侵攻の危機が強まっているウクライナ問題について聞かれた教皇は、この恐ろしい現実の起源を、旧約聖書『創世記』第4章に登場するカインとアベルの物語、同じく11章に描かれたバベルの塔の物語に辿られた。

   そして、「カインとアベルの兄弟の戦いは、神が男女を創造した直後に起きました。バベルの塔(神の意向に逆らい、実現不可能な天にも届く塔を作ろうとして、破壊されてしまった)もそうですが、そこには、神の創造の業への”反逆”があるように思います。それが戦争が常に『破壊』である理由です。土地を耕し、子供を育て、家族を養い、社会を発展させるー戦争をすることはそれを破壊することです。破壊のメカニズムです」と強く批判された。

*被造物へのいたわり

 教皇は、このことは「地球の破壊」にも当てはまる、とされ、被造物をいたわることの必要性を改めて強調された。そして、アマゾンにおける自然破壊、森林破壊、酸素の減少、気候変動の問題を列挙され、「生物多様性の死」のリスク、「母なる地球を殺す」リスクを指摘された。リスクに対応する具体的な例として、イタリア海のアドリア海沿岸のサンベネデット・デル・トロントの漁師たちの活動を紹介し、「彼らは、海からすべての廃棄物を取り除くために行動を起こし、1年間で約300万トンのプラスチックを回収しました。私たちは母なる地球の世話をしなければならないのです」と訴えられた。

 

*人に対するいたわり

 また、こうしたいたわりの心、振る舞いは、それは社会的観点からも欠けているようだ、とし、「私たちが日々経験しているのは、『いじめ』に見られるような、『社会的攻撃性』の問題です。インターネットなどで人々が密接に結びついているにもかかわらず、信じられないほどの孤独感にさいなまれる若者がいます」と指摘。

 「そうした若者の親たちとも話したことがありますが、親と子の関係は一言で言えば『親密さ』です。若い夫婦と話す時、私はいつも『あなたたちは、自分の子供たちと遊んでいますか』と聞きます。ある夫婦は確かに、子供たちと一緒に生活していますが、父親は『私が仕事に出る時、子供たちはまだ眠っており、夜、帰宅した時には、もう眠っています』と言うことでした」と語られ、「それは子供たちが、親から離される残酷な社会です」とされた。

 さらに、親たちが子供たちと遊び、子供たちや、彼らの話すこと、憶測におびえたりしないこと、思春期の年長の子供たちの側にして、失敗した時に、父親、母親として声をかけることの重要性も指摘された。

*世界と教会の未来

 世界と教会の未来について聞かれた教皇は、まず世界の未来について、「経済と選択の中心に人間がいる。それが、回勅『Fratelli tutti(兄弟の皆さん)』で予見した世界の未来。その実現が、私と同じ理想を持つ世界の多くの指導者たちと共有している優先事項です」とされたうえで、「だが、理想とされる諸事項は、政治的、社会的な調整で、国際政治の場でも激しく衝突し、善意が働くのを止めてしまいます。社会や人々、そして、責任ある役割の人々に圧力をかける“影”です。ですから、(注:好ましい未来の実現に向けて前に進むために数多くの交渉が必要なのです」と強調された。

 教会の将来について、教皇フランシスコは、1975年に教皇パウロ6世が使徒的勧告『Evangelii Nuntiandi(福音宣教)』を出され、この世界を福音の精神によって「福音化する」ことを訴えられたことを思い起こされ、「この使徒的勧告は2,013年に私が出した使徒的勧告『福音の喜び』(Evangelii Gaudium)の着想の源ー”旅する教会”です」とされた。

 そのうえで、「現代の教会が抱える最大の悪、最も大きなものは、”霊的な世俗化”です。これが、教会の逸脱である聖職者主義をもたらしています」とし、「あらゆる種類の硬直化の下には常に腐敗があります」として、硬直化した聖職者主義を強く批判。今の教会にある醜さの中に、福音に取って代わる「硬直的な、イデオロギー的に硬直した姿勢がある」とも指摘された。

 また司牧上の問題では、「ペラギウス主義とグノーシス主義の古い考え方、2つだけについて述べたい」とされた。そして、「ペラギウス主義は、自分の力で前に進めると信じる考もの」だが、「実際は、教会は、神の力、神の憐れみ、聖霊の力で前進できるのです」と語られ、「グノーシス主義は一種の神秘主義、神のいない、空の霊性」と表現され、「キリストの肉がなければ、理解はなく、救いもありません。私たちは、もう一度、『みことばが肉となった』という信仰の原点に戻らなねばなりません。教会の未来は、この十字架の驚くべき真実、みことばが肉となったことに、あるのです」と説かれた。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*以上の他の教皇の発言以下の通り

(2022.2.7 バチカン放送)

*見て見ないふり、メディアの責任

 学校や大学に行き、仕事に就ける社会がある一方で、子どもたちが亡くなり、移民が溺死し、不正が横行する社会がある、と世界の分裂を見つめた教皇は、こうした現実を前にして最も良くない誘惑は「目を逸らすこと、見ないふりをすること」と指摘。メディアはそれを伝えはするが、距離を置く態度をとり、悲劇を嘆いても、また何事もなかったかのように戻ってしまう、と述べられた。

*コロナ禍での医療関係者の努力を讃える

 教皇は、苦しむ人々を見るだけでは足りない、その苦しみに「耳を傾け、触れる」ことが必要と強調。こうした中、新型コロナ大感染の中で人々の苦しみに触れ、病者のかたわらに残ることを選んだ医療関係者たちを称えられた。

 教皇はアマゾンの森林破壊や各地の環境危機をめぐり、「母なる大地」を守る必要を改めて繰り返し、自然をいたわることを教育で学ばなければならない、と話した。

 

*「いじめ」は、家庭や地域社会での陰口から

 また、いじめの現象に見られるように、社会が攻撃的になっていることに対し、教皇は、その破壊的攻撃性はごく小さなことから始まっている、と述べ、その原因の一つとして、家庭や生活圏における言葉や陰口の影響を挙げられた。そして、互いを破壊し合わないためには、陰口を拒否し、言いたいことは言葉を呑むか、直接、「その人の顔を見つめて話す勇気」が必要、と述べた。

*自由、罪と赦し

 自由と罪の赦しというテーマをめぐり、教皇は、「自由は神の賜物であるが、それによって人間は悪を行う可能性もある」「神は私たちを自由な状態に置かれ、私たちは選択の責任を負っているが、時には誤った選択をすることもある」と説明。では神の慈しみと人々の赦しに値しない人間はいるか、という問いに、教皇は「赦される可能性を持つことは、人間の一つの権利です」と説かれた。

 もし赦しを乞うならば、私たちは皆、赦される権利を持っており、それは神の本質から生まれる権利である、と教皇は述べ、社会に対し償うべき負い目のある者は、その責任を果たした上で、赦しを願うことができる、と話された。

 教皇はこの対談で祈りの大切さを説くと共に、ご自分のためにも人々の祈りを願われた。

 

 

2022年2月7日

☩「イエスと共に人生の”海”に出て、“漁”をしよう」ー年間第5主日の正午の祈りで

File Photo: Pope during his Sunday Angelus File Photo: Pope during his Sunday Angelus   (ANSA)

 

*空っぽの舟ー私たちの無力の象徴

 続いて教皇は、一晩中、漁をしたものの、一匹もつれず、空っぽのまま戻って来た、シモンの空っぽの舟は「私たちの無力の象徴であり、イエスが御言葉を宣べ伝える”説教壇”です」とされ、「イエスが好まれるのは、私たちの隙間にお入りになり、その空間を埋めること。私たちの貧しさを”利用”して主の豊かさを、私たちの悲惨さ”利用”して、慈しみを表明されるのです」と強調。

 さらに、「神は、”クルーズ船”にお乗りになることを望んでおられません。私たちが、歓迎するなら、貧弱で粗雑な舟で十分なのです」とされ、問題は「私たちが自分の生活の中で持っている”小さなもの”を、神が利用できるか、どうか、ということ」と説かれた。

 そして、「自分は罪人だから価値が無いのだ」と思うのは言い訳だ、とされ、「神は、親密さの神です。私たちに完璧であることを求めておられません。歓迎しておられるのです。私たちにこう言われますー「そのままの姿で生きなさい」と。

 ルカ福音書の箇所に戻られた教皇は、「主はシモン・ペトロに、ご自分を彼の舟に乗せて、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになります。漁に適した時間ではありませんでしたが、ペトロはイエスを信頼し、頼みを受け入れます」とされた。

*失望に屈してはならない

 さらに、「ペトロは、自分のもっている漁師の経験・知識ではなく、イエスの新しさを信頼したのです。それは、私たちにとっても同じです。私たちが、主を自分の舟に迎え入れれば、舟を海に漕ぎ出せます。イエスと共に、恐れることなく、人生の”海”を進むことができます」と説かれた。

 説教の最後に、教皇は、「私たちが”海”で何も獲れなくても、失望したり、諦めたりしないように。私たちには、私生活だけでなく、教会生活や社会生活で、素晴らしい、勇敢な行為が可能です」と信徒たちを励まされ、「さあ、イエスの頼みを受け入れましょう。悲観論や不信感を不入り払い、イエスと一緒に”海”に出ましょう!」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月6日

☩「無関心を捨て、友愛の道を共に歩もう」ー教皇が 国連「人類友愛国際デーにメッセージ

(2022.2.4 バチカン放送)

 今年で二回目となる国連の「人類友愛国際デー」の4日、教皇フランシスコが、ドバイ国際博覧会会場で開かれた記念の会議にビデオ・メッセージを寄せられた。

 メッセージの冒頭で、3年前、アブダビで「世界平和のための人類の友愛」と題する文書に共に署名したアル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師、このテーマに取り組むアブダビのムハンマド・ビン・ザーイド皇太子、国連関係者はじめ人類の友愛を推進するすべての人々に挨拶をおくられた。

 そして「友愛は、苦しむ人や恵まれない人が疎外されたり、忘れられることなく、唯一の人類家族の一員として受け入れられ支えられるために、人民間の基礎にあるべき本質的で普遍的な価値の一つ」とされ、「私たちは兄弟です」と強調。「友愛の思いを互いに分かち合うことにおいて、皆が、持続可能な発展・寛容・一体性・相互理解・連帯を励ます平和の文化の推進者にならねばなりません」と語られた。

 教皇は、今年の「人類友愛国際デー」のテーマである「同じ空の下に」に触れつつ、「どこでどのように生活しているか、肌の色、宗教、社会的階層、性別や年齢、健康や経済状態にかかわらず、私たちは皆、同じ空の下で生きています」とし、「新型コロナの世界的大感染が明らかにしたように、私たちは一人だけで救われることはできないのです」と訴えられた。

 さらに、「神の名のもとに同じ空の下で暮らす私たちは、神に創られたものとして、互いを兄弟姉妹と認めると同時に、人々の眼差しと祈りを天に向けるのを助ける役割を負っています…天に眼差しを上げましょう。なぜなら、誠実な心で神を礼拝する人は、隣人をも愛するからです」と説かれた。

 そして、「今日こそ、信仰を持つ人、すべての善意の人が共に歩み、私たちの多様性の中の一致を讃え、『友愛の時代が来た』ことを社会に告げるために、互いに助け合う時」とされたうえで、「今は無関心の時代ではありません。友愛がなければ、すべては崩れます」と強調。

 「友愛の道は長く険しいが、それは人類を救う”錨(いかり)”なのです… 「多くの不穏なしるしと、闇の時代、紛争の論理に対し、互いの個性を尊重した、受け入れの態度、共通の歩みを促す友愛のしるしをもって対抗しましょう」とアピールされた。

 最後に教皇は、「調和と平和のうちに生きることは可能だ」との確信をもって働く人々、友愛の歩みに加わる人々、平和のために、また貧しい人、弱い立場の人の求めに応える努力をしているすべての人々に感謝を表され、多様性の調和と互いの個性の尊重のうちに、平和と正義を作り出す者となるために、「皆が兄弟として、共に並んで歩むことができるように」と願われ、「この友愛の道を進みましょう」と会議の出席者、そして世界の全ての人々に呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月5日

☩「多くの兄弟姉妹の苦しみに目をそらすな」教皇、ミャンマーの和平実現改めて呼びかけ

(2022.2.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見で、国軍によるクーデターから1年を経てなお多くの国民が悲嘆の底にあるミャンマー情勢を注視、紛争当事者や世界の指導者たちに対して、和平実現への努力を改めて求めた。

 「この一年間、ミャンマーで繰り返される流血の暴力を、苦しみをもって見守ってきました」と述べた教皇は、同国の司教たちと心を合わせ、「当事者間の和解のために働きかけて欲しい」と訴えられ、「多くの兄弟姉妹の苦しみに、目をそらしてはなりません」とされたうえで、「苦しみを生きる人々のために慰めを祈り、平和のために皆が努力するよう神に願いましょう」と世界の信徒たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月2日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑩「使徒信条の『聖徒の交わり…を信じます』を考える」

Pope Francis at the weekly General AudiencePope Francis at the weekly General Audience  (Vatican Media)

 

  教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見の講話で、「聖徒の交わり」について考察され、「教会のすべてのメンバーは、キリストにおいて互いに密接につながっている」と語られた。

そして、最初に、「私たちは、使徒信条で、『聖徒の交わり… を信じます』と言います。『聖徒の交わり』とは何でしょう。私は子供のころ、『ああ、聖人たちは聖体拝領をする、と言うことです』とよく答えていました。私たちは、自分が言っていることが分からない…。では、『聖徒の交わり』とは何でしょう?」と問いかけられた。

「それは、『聖体を拝領している聖人たち』の意味ではありません。意味は他にあります… その意味は、『神の愛の表現』です。聖徒への信心の形の中には、キリスト教よりも『異教』の考え方に由来しているように見えるものがあります」と指摘。

そして、「キリスト教の信仰が、『異教』と違うのは、人物や偶像ではなく、神のみに信頼を置くところです」とされたうえで、「聖徒の執り成し、あるいはそれ以上に聖母マリアの執り成しに全てを委ねる時でさえも、私たちの信頼は、キリストに対してのみ、価値があるのです」と強調され、さらに、「聖人たちが奇跡を起こすのではない。彼らは、神の恵みが働く器に過ぎません… 聖人たちは私たちのために祈る仲介者であり、主は聖人たちを通して、私たちに恵みを与えてくださるのです」と付け加えられた。

*教会は「救済された罪人たちの共同体」 また教皇*は、「カトリック教会のカテキズムによれば、『教会とは、すべての聖徒たちの集まりに他ならない』(946項)のであり、教会が『救われた罪人の共同体』であることを意味します」と語られた。

 さらに、「私たちの神聖さは、『悲惨さの中で私たちを愛し、助け出すことで、私たちを聖別するキリスト』に現れた、『神の愛』の結晶。聖パウロが指摘しているように、私たちは『キリストの体であり、一人ひとりはその部分です。1つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ』(コリントの信徒への手紙1・12章26‐27節)のです」と説かれ、「聖徒の交わりは、地上と天国の信徒の共同体をまとめています」と付け加えられた。

*聖人たちへの信心とは、神とと共にある兄弟姉妹に語りかけること

 続いて教皇は、聖人たちへの信心を取り上げ、「人生を通して私たちを助けることのできる信仰の中で、私たちの先祖との友情を築くことができます」とされ、「私たちが信心と呼んでいるものは、私たちを結びつける絆で愛を表現する方法です…そして、特に私たちが困難に遭い、助けが必要な時、いつでも友達に頼ることができるのを、私たちは皆、知っています」と語られた。

 「教会は、共同体を導いてもらうために聖徒、とくに神がご自分の一人息子を託された聖母マリアと聖ヨセフに、目を向けてきました。守護の聖人である男女の聖人が、私たちがいただいているその名ゆえに、私たちが所属する教会ゆえに、私たちが生きている場ゆえに… 私たちにそばにいてくれるのを感じるのは、『聖徒の交わり』のおかげです」とされ、これが、「私たちの人生の決定的な瞬間に彼らに目を向けるよう、私たちを強く促す信頼なのです」。

 さらに「聖人たちへの信心は、魔術や迷信ではなく、神と共にあり、正しく聖なる生活を送っている兄弟姉妹にひたすら語りかけること」と述べられた。

*聖ヨセフへの祈り

 講話の最後に、教皇は、これまで40年以上にわたって毎日唱えてこられた聖ヨセフへの祈りを、信徒たちとともに唱えられた。

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栄光輝く総大司教聖ヨセフ 不可能を可能とする力を持つ方

私が苦悩と困難に出会う時、助けに来てください

深刻で厄介な状況にある私を あなたの保護のもとにおいてください

あなたに託し 幸せな結果がもたらせるように

私の愛する父、私の信頼はすべて あなたにあります

あなたに求める助けが 無駄にならないようにしてください

あなたは イエスとマリアと共に すべてをおできになります

あなたの徳が その力と同じように 偉大であることをお示しください  アーメン

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年2月2日

☩「日々、あなたの近くにいる人々の中にイエスを見つけよう」-年間第4主日の正午の祈りで

Pope Francis during the Sunday AngelusPope Francis during the Sunday Angelus  (Vatican Media)

*なぜイエスは無理解の人たちの所に行かれたのか

 この箇所でルカは、イエスが故郷のナザレで最初の説教をした時、どのように人々の無理解と敵意に直面したかを語っている。

 教皇は「故郷の村の人たちは、真理の言葉よりも、奇跡と人を驚かせるようなしるしを求め、イエスの言葉を受け入れようしなかった。それで、イエスは、今では諺になっている言葉を語られたのですー『預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』と」語られた。

 さらに教皇は、「このような言葉は、イエスの失敗は、決して予想外のことではなかったことを示しています。イエスは、彼らのことを知っておられ、ご自分がされていることのリスクを分かっておられたーご自分が拒否されることを念頭に置いておられたのです」とされたうえで、「それなのに、失敗を予想していながら、どうして故郷に行かれたのか、私たちは不思議に思うかもしれません。なぜ、自分を進んで受け入れようとしない人たちに、そこまで親切にするのでしょう?」と会衆に問いかけられた。

  そして、「このような問いかけは、私たちが頻繁に自分に対してしているものですが、神をよりよく理解するために役立ちます。相手に拒絶された時、イエスは退きません。『愛することに、ブレーキをかけない』のです」と説かれた。

 

*イエスのなさり方は、親の子に対する無償の愛を体現している

 さらに、「イエスのなさり方は、子供たちが自分に感謝の気持ちを持たないことを知りながら、彼らを愛することを止めず、彼らのためになることをする、親たちの無償の愛に体現されています」とされ、「神も、そういう親たちと同じですが、もっとレベルが高い。イエスは今も、私たちに前を信じ、全を行なうためにあらゆる手段を使うように、と勧めておられるのです」と強調された。

 

*信仰は、進取の姿勢と謙虚さを通して得られる

 教皇はまた、「敵意と歓迎しない態度に関して私たちに自問させるナザレでの出来事によって、他のことが明らかにされます」と述べられた。

 「イエスが今日の福音で示されている“受け入れる”ことの模範的な人物に注目しましょう。それは、2人の異邦人、シドンのサレプタ地方にいる未亡人と、シリア人のナアマンです。そして、彼らのところに遣わされた預言者エリヤとエリシャ。だが、いずれの預言者も、容易には受け入れられず、多くの苦労を重ねました。そうした中で、未亡人とナアマンは、進取の姿勢と謙虚さをもって、それぞれの預言者の言葉を受け入れたのです」とされた。

 そして、「信仰は心の準備と謙虚さを通して得られるのです。未亡人とナアマンは、神とその預言者の働きかけを拒まなかった。従順であり、心を堅くして閉じるようなことはしませんでした」と語られた。

*日々の現実の中でご自身を受け入れるように、イエスは求める

 続けて教皇は、「イエスもまた、預言者と同じやり方をなさいます。私たちが期待するような振る舞いはなさいません。奇跡や、これまでなかった目新しいこと、権力と外見的なしるしから成る信仰、を求める人々には、イエスを見つけられない。不満もなく、疑いもなく、批判や浮かない顔をすることなく、イエスのなさり方、イエスがあえてなさろうとしていることを受け入れる人々が、イエスを見つけるのです」と強調。

 「別の言葉でいえば、あなたが生活している日々の現実の中に、教会の中で、あなたのそばに居るいる人たちの中に、助けを求めている人たちの現実の中に、ご自分を受け入れるように、イエスは求めておられるのです。イエスはそこにおられ、そばの”川”で、”健全な、謙虚さの浴槽”で、自身を清めるように、勧めておられます」。

*聖母は私たちに、イエスを喜んで受け入れる方法を教えてくれる

 最後に教皇は、「長い間、信者として過ごすと、自分の思考力や判断力で『自分は神のことを良く知っている』と考えてしまうことがあるでしょう。私たちが犯すリスクは、”イエスに慣れてしまうこと、イエスの新鮮さから心を閉じてしまうこと、自分の考えに凝り固まってしまうこと、です。そうならないように、主は私たちに開かれた心、誠実な心を求めておられるのです」と語られ、次のように祈られたー「謙虚さと進取の模範である聖母マリアが、イエスを進んで受け入れる方法を、私たちに示してくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年1月30日

☩「病める人に慰めをもたらすことは、全てのキリスト者の義務」ー2月11日「第30回世界病者の日」に向けて

(2022.1.7 バチカン放送)

 2月11日のカトリック教会の第30回「世界病者の日」に向け、教皇フランシスコが7日、メッセージをおくられた。

 「世界病者の日」へのメッセージのテーマは「『あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい』(ルカ福音書6章36節)ー 愛の歩みにおいて苦しむ人に寄り添う(仮訳)」。

 冒頭で、教皇は、「世界病者の日」にあたって当初予定されていたペルーのアレキパでの記念ミサが、新型コロナ大感染の影響で中止となり、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサが捧げられることになったことを説明された。

 そのうえで、「世界病者の日」を機会に、「いかなる時も、父の愛をもって子らを見つめる『憐れみ豊かな神』(エフェソの信徒への手紙2章4節)に眼差しを向けるように」と促され、「神は父の強さと母の優しさをもって、私たちに配慮され、聖霊において新しい命を与えることを望まれます」と強調。

 また「憐れみ深い御父の愛の至上の証人は、その御一人子イエスです。福音書には、イエスと病者との出会いが、どれほどたくさん語られていることでしょうか」と問いかけられ、「苦しみは人を孤立させ、その孤立の中から他者への嘆願が生まれます。御父の憐れみそのものであるイエスに倣い、神の愛の証し人として病者に寄り添い、慰めの油と希望のぶどう酒をその傷に注ぐことが重要です」と説かれた。

 さらに、「御父のように憐れみ深い者となるように、とのイエスの招きは、とりわけ医療関係者にとって特別な意味を持つもの」と指摘。「医師や、看護師、医療技師、ボランティアなど、苦しむキリストの肉に触れるこれらの人々の手は、御父の憐れみ深い御手のしるしとなることができるのです」と語られた。

 教皇は、今日の医療技術の進歩を神に感謝する一方で、「一人ひとりの病者の尊厳や脆さを、忘れてはなりません… 病者は、常に、その人の病気そのものよりも大切。それゆえ、患者の声や事情や不安を考慮せずに、治療を行うことがあってはなりません」とされ、「たとえ回復の見込みがない場合でも、ケアや、慰め、寄り添いは常に可能です。病者に耳を傾け、良い関係を築くことができるような、医療関係者の育成プロセスが望まれます」と希望された。

 また、「『世界病者の日』は、ケアを行う場所に対する関心を高める機会でもあります。キリスト教共同体は何世紀にもわたって『善きサマリア人の宿』として、あらゆる病者を受け入れる施設を設けてきました。カトリックの医療機関の重要さを再確認するとともに、この大切な宝を守り、支えていかなくてはなりません」と訴えられた。

 そして、「苦しんでいる貧しい人々に対する最悪の差別は、霊的な助けの欠如です。祝福や、御言葉、秘跡を通して、これらの人々に神の寄り添いを伝える必要があります」とされ、「病者への寄り添いと司牧的ケアは、一部の人々の務めではなく、すべてのキリストの弟子の務め。どれだけの病者やお年寄りたちが、人々の訪問を待っていることでしょうか。『お前たちは、私が病気のときに見舞ってくれた』(マタイ福音書25章36節参照)というイエスの言葉を胸にしつつ、病者に慰めをもたらすことは、全てのキリスト者の義務です」と強調された。

 メッセージの最後に教皇は、「病者とその家族が世の苦しみを背負うキリストに一致し、意味と慰めと信頼を見出すことができるように」と聖母の取り次ぎを祈られ、「すべての医療関係者が豊かな憐れみをもって、病者らに適切な治療と兄弟的な寄り添いを与えることができるように」と祈願されている。

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 カトリック教会は、毎年2月11日の「ルルドの聖母」の日に「世界病者の日」を記念する。教皇聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡「サルヴィフチ・ドローリス – 苦しみのキリスト教意味」(1984年)の精神のもとに1993年に創設されたこの日は、病者がふさわしい援助を受けられるよう、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように祈ると共に、病者とそのケアにあたる人々への関心を教会内はもとより社会に広く呼びかけることを目的としている。

(編集「カトリック・あい」)

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(2022.1.30 カトリック・あい)

 以下、カトリック中央協議会訳によるメッセージ全文(編集「カトリック・あい」=原則として当用漢字表記に統一)

2022年第30回「世界病者の日」教皇メッセージ 「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)ー愛の道にあって、苦しむ人の傍らにいる

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 30年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が世界病者の日を制定したのは、神の民、カトリック医療施設、そして市民社会が、病者と彼らのケアにあたる人々の支援の必要性への認識を高めるためでした1

 この間、世界中の地方教会で実現してきたことを、主に感謝します。さまざまな進展がありましたが、すべての病者が、中でも貧困と排除のもっとも激しい地域や状況にある人々が、必要な医療ケアを受けられるようになるには道半ばです。また、十字架につけられ復活したキリストと結ばれて病の時を過ごせるような司牧的同伴も十分ではありません。第30回世界病者の日ーその締めくくりの祭儀は、パンデミックのために、ペルーのアレキパではなく、バチカンのサンピエトロ大聖堂で行われますーを通して、病者とその家族への奉仕と寄り添いを深めることができますように。

1.御父のように憐れみ深く

 今回の第30回のテーマとして選ばれた「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)は、まず私たちの視線を「憐れみ豊かな」(エフェソの教会への手紙2章4節)神に向けさせます。いつでも、子らを、たとえ子どもたちが背を向けようとも、父の愛で見守ってくださる神です。まさに、憐れみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべての業の中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります。だから私たちは、神の憐れみには父性と母性(イザヤ書49章15節参照)の二つの側面が内包されているのだ、と驚きと感謝をもって断言できるのです。神は、父の強さと母の優しさをもって私たちの面倒を見ておられ、聖霊によって新しい命を与えようと、絶えず強く願っておられるからです。

2.御父の憐れみであるイエス

 病者に注ぐ御父の憐れみ深い愛を証しする最高の方は、神の一人子です。福音書は実に多くの箇所で、さまざまな病気を患う人とのイエスの出会いを伝えています。イエスは「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされ」(マタイ福音書4章23節)のです。次のような疑問が湧きます。使徒は福音の告知と病者の癒しのために師から遣わされた者ですが(ルカ福音書9章2節参照)、なぜイエスは、使徒の宣教において第一の任務とするほどに病者に対するケアを特別視していたのでしょうか。

 20世紀の一人の思想家が、一つの理由を示唆しています。「痛みはまったき孤立をもたらし、まさにこの全き孤立から、他への訴え、他への嘆願が生まれる」2。病によって肉体のもろさや苦しみを味わうと、心も沈み、不安が募り、次々と疑問が湧いてきます。起きること一つ一つの意味を問い、すぐに答えを得ようとします。これについては、今回の新型コロナの世界的大感染において、集中治療室で孤独に末期を迎えた多くの患者を思い出さずにはいられません。もちろん、献身的な医療従事者たちのケアを受けてはいましたが、最愛の家族や、現世での生活でいちばん大切だった人たちとは離されたままでした。だからこそ、御父の憐れみであるイエスの模範に倣って、病者の傷に慰めの油と希望のぶどう酒を注ぐ、神の愛の証し人3の存在が重要なのです。

3.キリストの痛みを負う体に触れる

 「御父のように憐れみ深い者となりなさい」というイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。私が考えているのは、医師、看護師、検査技師、病者の介助や介護のスタッフ、そして苦しむ人のために貴重な時間を割いてくれる多くのボランティアのことです。親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負った体に触れる皆さんの手は、御父の憐れみ深いみ手のしるしとなるはずです。皆さんの職業の特別な尊さと、そしてそれに伴う責任とを、どうか心に留めておいてください。

 医学の、とくに近年の進歩の恵みを、主に感謝しましょう。新たな技術によって数々の治療法が開発され、患者に大きな利益をもたらしています。古いものから新しいものまで、さまざまな病気の撲滅に貴重な貢献をなすべく、研究が続けられています。リハビリ医療は、その知見と技能を著しく発展させてきました。

 だからと言って、忘れてはならないのは、患者それぞれが、その尊厳と弱さを含めて唯一無二の存在であることです4。患者はつねにその人の病気よりも大切で、だからこそ、どのような治療法も、患者の話に、これまでのこと、懸念、不安に、耳を傾けないままなされてはなりません。回復の見込みがない場合でも、ケアは常に可能であり、慰めを与えることはつねに可能であり、病状にではなくその人に関心を示しているという寄り添いを感じてもらうことは、常に可能なのです。ですから医療従事者には、専門課程の間に、患者への傾聴の仕方と、患者との関わり方を身に着けることを期待しています。

4.ケアにかかわる施設――あわれみを表す家

 世界病者の日はまた、ケアにかかわる施設に着目するにも良い機会です。何世紀にもわたり、病者への憐れみに動かされて、キリスト教共同体は無数の「よいサマリア人の宿屋」を開設してきました。そこに迎えられケアを受けることができるのは、あらゆる病気の患者たち、とりわけ貧困や社会的排除から、あるいは特定の病状から治療が困難で回復が見込めない人たちです。そうした状況では、子どもや高齢者、そして最も弱い立場の人たちの負担が、最も重くなります。

 多くの宣教師、御父のように憐れみ深い者たちは、福音を宣べ伝えつつ、病院や診療所やケアする施設を建設していきました。どちらもが尊い事業であり、二つを通してキリスト者の慈善の愛は具体化し、弟子たちによってキリストの愛が証しされ、信用を得ていったのです。とくに私が思い起こしているのは、地球上で最も貧しい地域の住民のことです。そうした地域では、人的・物的資源が限られてはいても可能なことを全てしてくれる医療施設にたどり着くのに、長距離を移動しなければならないことも、多々あります。この先もやるべきことはあり、十分な治療を受けることが贅沢でしかない国もまだあります。貧困国では新型コロナウイルスのワクチンが入手できないことや、さらにいえば、もっとずっと一般的な薬で対応できる病気も治療できないことがある、というのがその顕著な例です。

 この文脈において、カトリックの医療施設の意義を今一度訴えたいと思います。それらは保護され維持されるべき貴重な宝です。もっとも貧しい病者と、完全に見捨てられた境遇に寄り添うことで、その存在は教会の歴史を浮き彫りにしてきました5。医療を受けられない兄弟姉妹、あるいは十分なケアを得られない兄弟姉妹の叫びに耳を傾け、彼らに奉仕するために身をささげてきた修道会創設者が、どれほど多くいたことでしょう。

 現在もなお、先進国においてさえ、その存在は恵みです。必要なあらゆる専門性を踏まえた身体のケアに加え、患者とその家族を第一の関心事とする愛も、つねに差し出しているはずだからです。使い捨ての文化が広がり、必ずしも命が、歓迎され、生かされるに値するものだ、と認められていない今日、憐れみを表す家であるこれらの施設は、全ての人間の生命―最も弱い存在であろうとも―をその発生の瞬間から自然な死に至るまで、保護し世話をする模範となりうるのです。

5.司牧における憐れみ―寄り添い、慰めること

 ここ30年で医療司牧(パストラルケア)は、必須の奉仕としての認知度が高まったと思います。貧しい人―病者は健康状態において貧しい人です―が苦しむ、最もひどい差別が「霊的配慮の欠如」なら、私たちは彼らに対し、神の寄り添い、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道への促しを差し出さずにいてはなりません6。これについて、皆さんに覚えていてほしいことがあります。病者に寄り添うことや、彼らに対するパストラルケアは、専門的にそれに従事する一部の牧者だけの務めではないのです。病者を訪問することは、キリストからの全ての弟子に対する要請です。自宅で訪問を待つ病者や高齢者は、どれほど多いことか。慰めという奉仕の務めは、「私が……病気の時に見舞(ってくれた)」(マタイ福音書25章36節)というイエスの言葉を心に留めながら行う、洗礼を受けた全て人の責務です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。私は全ての病者とその家族を、病者の癒し手、マリアの執り成しに委ねます。この世の痛みを身に受けておられるキリストと結ばれて、意義と慰めを見い出し、自信をもつことができますように。すべての医療従事者のために祈ります。彼らが憐れみ深い者となり、患者に対する適切なケアだけでなく、兄弟愛からの寄り添いに努めることができますように。

 全ての人に、私は愛を込めて使徒的祝福を送ります。

ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年12月10日 ロレトの聖母マリアの記念日に フランシスコ

*注*

1.  教皇聖ヨハネ・パウロ二世「世界病者の日制定のための、保健従事者評議会議長フィオレンツォ・アンジェリーニ枢機卿あて書簡(1992年5月13日)」参照。

2.エマニュエル・レヴィナスはこれを「苦しみの倫理(Une éthique de la souffrance)」(Souffrances. Corps et âme, épreuves partagées, J.-M. von Kaenel edit., Autrement, París 1994, pp. 133-135)という。

3.『ローマ・ミサ典礼書(イタリア語版)』叙唱―共通8「よいサマリア人であるイエス」参照。

4. 教皇フランシスコ「イタリア医科大・歯科大連盟でのあいさつ(2019年9月20日)」参照。

5.教皇フランシスコ「ジェメッリ総合病院(ローマ市)訪問時のお告げの祈り前のあいさつ(2021年7月11日)」参照。

6.教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び(2013年11月24日)』200参照。

2022年1月30日

☩「言語道断の残忍な行為を繰り返すな」ー教皇、27日の「ホロコースト想起国際デー」に

ポーランド南部・アウシュビッツ強制収容所跡で祈る教皇フランシスコ 2016年7月ポーランド南部・アウシュビッツ強制収容所跡で祈られる教皇フランシスコ (2016年7月 )

 教皇フランシスコは26日の水曜恒例の一般謁見で、翌27日の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に向けて、「こうした言語道断の残忍な行為が、決して繰り返されないように」と祈られた。

  教皇は、ユダヤ人や様々な国籍・宗教の人々、何百万人をも犠牲にしたこの虐殺を記憶に留める必要を強調。「言語道断の残忍な行為が繰りかえされるようなことは、決してあってはなりません」と語られた。

 特に教育関係者や各家庭に対して、「歴史に記されたこの暗いページの恐ろしさに対する認識を、若い世代に促していただきたい」と願われ。「人間の尊厳が蹂躙されることのない未来を築くために、この悲劇を忘れてはなりません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月28日

☩「世界の指導者たちはウクライナ危機回避に全力を」ー教皇、26日「平和のための祈りの日」に

(2022.1.26 Vatican News staff writer)

 ウクライナでは、ロシア軍部隊がウクライナ東部の分離主義者を支援する形で侵攻を始めた2014年以来、すでに約1万4000人に上る死者を出しているが、現在は、プーチン大統領の”否定発言”とは裏腹に、ロシア軍が10万人規模でウクライナとの国境沿いに部隊を集結し、全面的な軍事侵攻の姿勢を見せている。

 これに対して、米国は、ロシアとの外交交渉を続ける一方で、ロシア側の出方次第で、欧州各国とともに、武力によるロシア軍の侵攻阻止の用意に着手。バイデン大統領が8500人の米軍部隊の派遣を発表している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年1月26日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑨「神の声を聴き分けられる”夢見る人”」

(2022.1.26 Vatican News  Christopher Wells )

 教皇フランシスコは26日、水曜恒例の一般謁見で、「聖ヨセフについて」の講話をお続けになり、「夢見る人」としてのヨセフ、神の声を聴き分け、それに基づいて行動する術を知っているヨセフについて語られた。

 教皇はこの日の講話で、聖ヨセフの「夢」に焦点を当て、イエスの養父であるヨセフの模範的な行為が、私たちが神の声を聴き分けるために、いかに役立っているかを説かれ、「聖書の中で、夢は、神がご自身を啓示される手段と考えられていました。そして、夢は、『私たち一人一人の霊的生活』『神がご自身を明らかにされ、語り掛けられる、私たち一人一人が育て、守るよう呼ばれている内なる空間』を象徴しています」と指摘。

 同時に教皇は「私たちの内にある”他の声”を警戒するように」と言われた。その声は、「私たち自身の恐怖、経験、希望の声、私たちをだまし、混乱させようとする邪悪な者の声」である、とされ、「それ故、私たちにとって必要なのは、様々な声の中から、神の声を認識できるような識別力を養うことなのです」と強調された。

   以下、バチカン放送(日本語課)による講話の前文(編集「カトリック・あい」)

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 今日は、「夢見る人」としての聖ヨセフを考察したいと思います。

 聖書に見られる、古代の人々の文化において、夢は神がご自身を啓示するための手段と考えられていました。

 夢は、私たちの霊的生活、内的世界を象徴するものであり、しばしば神は啓示をされたり、私たちに語りかけられたりされます。しかし、私たちの心には、神の声だけでなく、恐れや、希望、誘惑など、他の多くの声があり、その中で、神の声を「聴き分ける」ことが重要です。

 ヨセフは、そのために必要な沈黙を育み、主が自分の心に向ける言葉を前に、正しい選択をすることができる人でした。

 ここで、福音書に記される「ヨセフの四つの夢・啓示」を振り返り、神の啓示を前にどのような態度で臨むべきかを学ばましょう。

 ヨセフの最初の夢は、婚約していたマリアが身ごもっていることが明らかになった時のことです。このことについて思い巡らすヨセフの夢に、天使が現れ、「恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」( マタイ福音書1章18-25節参照)と言いました。これに対するヨセフの反応は速やかでした。「ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」( 同1章24節)のです。

 人生は、難解で解決もないように見える状況に私たちを立たせることもありますが、こうした時に祈ることは、主から私たちがすべきことを示していただくことを意味します。祈りは、私たちに、問題から抜け出すための直感を与えてくれるのです。神は、解決のための助けをくださらずに、私たちに問題をお与えになることはありません。

 ヨセフの二番目の夢は、幼子イエスの命が危険にさらされている時でした。そのメッセージは明らかです。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(同2,章13節)。ヨセフはためらうことなく、その言葉に従いました。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた」( 同2章,14-15節)。

 人生では、自分や愛する人たちが危険な状況に出会うこともありますが、そのような時に祈ることは、困難に負けず、立ち向かうために、聖ヨセフと同じ勇気が私たちの心に湧き起るようにする声を聞くことを助けてくれます。

 帰国のための神からのしるしを、エジプトで待っていたヨセフは、三つ目の夢を見ました。天使が夢に現れ、幼子の命を狙っていたヘロデが死んだのでイエスとマリアを連れてイスラエルに行くように、と言った。ヨセフは「起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ入った」(同2章21節)。

 しかし、まさにその帰国の旅の途中、ヨセフは、「アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めている、と聞き、そこに行くことを恐れた」(同2章22節)。そこで、ヨセフは四つ目の夢を見ます。ヨセフは「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方へ退き、ナザレという町に行って」(参照 同2章22-23節)住みました。

 恐れもまた、人生の一部であり、そのために祈りを必要とします。神は、私たちが恐れに遭わないとは約束されませんが、恐れが私たちの選択を左右することがないように、助けてくださいます。ヨセフは恐れを感じましたが、神はその恐れを乗り越えるよう導かれました。祈りの力は、闇の中に光をもたらすのです。

 私は、人生の重みに押しつぶされて、希望することも、祈ることもできない人々を思います。これらの人々が、神との対話に心を開き、光と力と支えを、再び見出せるように、聖ヨセフの助けを願いたいと思います。

 「祈り」とは、決して抽象的な、あるいは自分の世界だけに閉じこもった行為ではありません。祈りは、常に慈愛と密接に結びついています。祈りと隣人への愛を一致させることができるときにのみ、私たちは、主のメッセージを理解することができるでしょう。

 聖ヨセフは、祈り、愛しました。それゆえに、常に人生の試練に立ち向かうために必要なものを、得ることができました。聖ヨセフに信頼し、取り次ぎを祈りましょう。

 夢を見る人、聖ヨセフよ、
霊的生活を取り戻すことを教えてください。
その内的な場所で、神はご自分を啓示し、私たちを救われます。
祈りは無駄であるとの考えを私たちから取り去ってください。
一人ひとりが神のお望みに応えられるよう助けてください。
私たちの考えが聖霊の光に照らされ、
心がその力に強められますように。
そして、私たちの恐れが神の慈しみに救われますように。
アーメン。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2022年1月26日

☩「共に歩み続けるために、進路を変える勇気を持とう」ー「キリスト教一致祈祷週間」の最終日に

教皇フランシスコ、エキュメニカルな夕べの祈りで 2022年1月25日 ローマ・聖パウロ大聖堂教皇フランシスコ、エキュメニカルな夕べの祈りで 2022年1月25日 ローマ・聖パウロ大聖堂  (ANSA)

「キリスト教一致祈祷週間」の最終日で「聖パウロの回心」の祝日でもある25日、教皇フランシスコがローマの城壁外の聖パウロ大聖堂(サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ)で、”エキュメニカルな夕べの祈り”を主宰され、諸キリスト教教会のローマにおける代表者、様々な教会に属する世界各国の学生たちが参加した。

 教皇は集いの説教で、救い主との出会いを求めベツレヘムに向かう東方三博士の歩みと、完全な一致を目指すキリスト者たちの歩みを重ねられ、「博士たちは、星を見て東の方から旅立ちました。日の光が上る東方から、さらに大きな光を求め、自分たちの知識や伝統だけに満足することなく、神を求める心に突き動かされて出発しました」と語られた。

 そして「イエスの一致への招きに応え、私たちもまた、三博士のように互いに支え合いながら歩むことを希望しています」とされ、「伝統的に様々な衣装で描かれる三人の博士は、民族の多様性だけでなく、異なる伝統を持つキリスト者たちをも象徴しています」と指摘された。

 さらに「博士たちはまずエルサレムに着きましたが、天上を求める彼らが目にしたのは、ユダヤ人の王が生まれたと聞き『不安』を抱いたヘロデ王とエルサレムの人々の地上の残酷な現実であり、空の星の輝きに対する『世の闇の暗い力』でした」とされたうえで、「私たちも、一致への歩みの間には、習慣や安穏を揺さぶる新しい出来事への不安に襲われることもあるでしょう。しかし、復活の主は、私たちをこのような不安から解放し、『恐れることはない』と励ましてくださるでしょう」と話された。

 ベツレヘムに到着した東方の三博士は、家に入り、ひれ伏して幼子を拝んだと聖書に書かれていることについて、教皇は「一緒に同じ家に入り礼拝した博士たちの姿は、ガリラヤの山で復活したイエスを前に一致した弟子たち(マタイ福音書28章17節参照)を先取りしたものであり、一致のための旅を続ける私たちにとって預言的なしるしでもあります」と強調。

 博士たちは「別の道を通って」(マタイ福音書2章12節)自分たちの国へ帰って行った、と書かれていることについては、「イエスに出会う前のサウロのように、私たちも、主が示す謙遜と兄弟愛と礼拝の道を見出すために、”自分たちの習慣や都合”という進路をを変える必要があります」と語られ、「神の御旨に従い、一致の歩みを共に続けるために、進路を変える勇気、回心の勇気を与えてくださいますように」と主に祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月26日

☩「”シノドスの歩み”を互いに耳を傾け合う大きな機会に」ー「世界広報の日」に向けて

教皇フランシスコ、キプロスとギリシャ訪問の帰国便における記者との対話で 2021年12月6日教皇フランシスコ、キプロスとギリシャ訪問の帰国便における記者との対話で 2021年12月6日 

(2022.1.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは24日、2022年度の「世界広報の日」(5月22日)に向けたメッセージを発表された。24日はジャーナリストの保護者、聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士を記念した日に当たる。

 今年の「広報の日」のテーマは、「心の耳で聴く」。昨年の「来て、見なさい」に続き、教皇はコミュニケーションの基本、真の対話の条件である「聴く」ことの重要さを示された。

 メッセージで教皇は、「私たちは目の前にいる人にだけでなく、日常生活や社会の様々な出来事に対して、耳を傾ける力を失いつつあります」と指摘。

 「心のケアで知られるある医師は、人は『誰かに聴いてもらいたい』という果てしない願望を持っている、と言っています。『耳を傾けてもらいたい』という人々の思いは、しばしば秘められたものですが、教師や、司牧者、広報・社会・政治関係者など、すべての人たちに向けられているのです」と強調された。

 さらに「神と人との対話は、神が人に話しかけ、人が耳を傾け答える、ということから始まりました。実際、『傾聴』は、神の謙遜なスタイルに合致するものです。神は人を愛し、言葉をかけ、その声を聞こうと耳を傾けますが、人は反対に、関係から逃れ、相手に背を向け、耳を塞ぐ傾向にあります」と語られ、「耳を傾けることへの拒絶は、しばしば他者に対する攻撃性さえ生みます」と述べられて、「使徒言行録」中の、人々が聖ステファノの説教に耳を塞ぎ、石を投げつける場面を思い起こされた。

 また教皇は、イエスが弟子たちに「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ福音書8章18節)と、深い傾聴と洞察の重要さを教えるとともに、「立派な善い心」で御言葉を聴く人たちが、人生の実りと救いを得ることができる(同8章15節)と説いている点に注目されるとともに、聖アウグスティヌスの「耳に心を持つのではなく、心に耳を持ちなさい」という言葉や、アッシジの聖フランシスコが兄弟たちに「心の耳を傾けるように」と励ましていた例を挙げられた。

 さらに、「傾聴」とは反対のものとして、ソーシャルメディアの中にしばしば見られるような、「自分の興味のために相手を探る、利用する態度」「相手を押しのけて自分ばかりが話したがる姿勢」などを指摘され、「私たちは多くの場合、対話の中で交わりがなく、自分の意見を言いたいがために、相手が話し終わるのを待っているだけになっています。こうした態度は『対話』ではなく、二人で言い合う『独り言』です」と批判。

 「人々の間で、教会の中で、多くの声を互いに聴き合うことで、私たちは識別の力を鍛え、皆の声を調和させる方向に持っていくことができるのです。司牧活動の中で一番大切なものは、『耳の使徒職』。人に耳を傾けるために、自分の時間を無償で捧げること、これこそ最初の慈愛の態度なのです」と説かれた。

 最後に教皇は、昨年10月に始まった”シノドスの歩み”が「互いに耳を傾け合うための大きな機会」となることを願われた。

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 カトリック教会の「世界広報の日」は、様々なメディア(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画・インターネットなど)を通して行う福音宣教について、教会全体で考え、祈ることを目的としている。毎年、聖霊降臨の直前の日曜日(2022年度は5月29日、ただし日本の教会では復活節第6主日、5月22日)に行われる。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月25日

☩教皇、ウクライナ情勢を懸念、26日を「平和のための祈りの日」とし、危機回避を祈るよう提唱

(2020.1.23  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは23日の正午の祈りの最後に、ロシアの軍事的圧力で緊迫の度を加えるウクライナ情勢に強い懸念を示されるとともに、今週の水曜、26日を「平和のための祈りの日」とすることを、世界に向けて提唱された。

 教皇は、現在のウクライナを巡る情勢について「ウクライナの平和と欧州大陸の安全の機会を覆す恐れのある緊張が高まっている」とされ、「主は私たち皆を兄弟姉妹としてお作りになりました。他者を犠牲にして自己の目的を追求しようとする人々は、人間としての使命をないがしろにしている」と糾弾。

 26日を「平和のための祈りの日」とし、「すべての政治的行動とイニシアチブが、党派の利益ではなく、人間の兄弟愛に役立つように、善意のすべての人々に心から全能の神に祈りを捧げることを願います」と訴えられた。また、危機回避のために、対話と交渉を優先するように関係国の指導者たちに強く求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月24日

☩「ナザレの会堂に人々のように、私たちもイエスを見つめよう」ー教皇の「神のことばの主日」ミサ説教

(2022.1.23 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは23日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の言葉の主日」のミサを奉げられ、ミサ中の説教で次のように語られた。バチカン広報発表の全文は以下の通り。

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*旧約のネヘミヤ記とルカ福音書の朗読箇所の中心に御言葉がある

 今日のミサの第一朗読(旧約聖書ネヘミヤ記8章2-4a節、5-6節、8-10節)と福音朗読(ルカ福音書1章1‐4節、4章14‐21節)には、2つの並行した動作があります。

 祭司エズラは神の律法の本を高く上げ、開き、すべての人々の前でそれを宣言します。ナザレの会堂にいるイエスも、聖典の巻物を開き、すべての人の前で預言者イザヤからの一節を読みます。これは、私たちに基本的な現実を伝える2つの場面です。神の聖なる人々の生活の中心で、そして私たちの信仰の旅の中心で、私たちの言葉で。その中心にあるのは神の御言葉です。

 それはすべて、神が私たちに向けられた御言葉から始まりました。キリストにおいて、永遠の言葉である父は「天地創造の前に、私たちをお選びになった」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。主の言葉で宇宙は創造されましたー「主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った」(詩編33章9節)。

 古代から、主は預言者を通して私たちに話しかけてきました(ヘブライ人への手紙1章1節参照)。最後に、時が満ちると(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)、私たちにご自身の言葉ー独り子ーを送ってくださいました。

 そして、イエスはイザヤ書を読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ福音書4章21節)という前代未聞の宣言をなさいました。現実となりました。神の言葉はもはや約束ではありません。現実のものとなったのです。イエスにおいて、言葉は肉体となり、聖霊の働きによって、私たちの間に来られ、私たちの期待を満たし、私たちの傷を癒すために、私たちの中に住みたいと願われています。

 兄弟姉妹の皆さん。ナザレの会堂の人々のように、私たちもイエスをじっと見つめましょう(ルカ福音書4章20節参照)ー会堂にいた人々はイエスを見つめました。イエスは彼らナザレの民の一人でした。彼らはイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚きました。そして私たちも、イエスの言葉を歓迎します。

*御言葉は、私たちに神を啓示する

 互いに関連している二つの側面について黙想しましょう。御言葉は私たちの中心にあり、神を明らかにし、私たちを導きます。

 まず第一に、御言葉は神を啓示します。イエスは福音宣教の初めに、預言者イザヤの書の特定の箇所を朗読され、聖書の言葉が実現したことを宣言されます。イエスは、貧しい人に福音を告げ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にするために、地上に来られました(ルカ福音書4章18節参照)。このように聖書を通して、イエスは、私たちの運命を心に留めておられる方としての神の顔を、啓示にしてくださるのです。

 主は”天国に腰掛けた主人”ではありません。そうではありません。私たちの足跡をたどる父です。冷たく、超然とした、冷静な観察者ではないし、”数学的”な神でもありません。私たちの人生に情熱を傾け、涙を流しているところまで関わってくださるのは、私たちと共におられる神です。私たちの周りで起きることに中立だったり、無関心だったりせず、私たちを守り、助言し、私たちの側に立ち、関わり、私たちの痛みを受け入れる、愛情深い存在。常に側におられます。

*私たちのそばにおられる神

 これが、イエスがすべての人の前で宣言された「福音」(14章8節)なのです。神は近くにいて、私、あなた、そして、すべての人の世話をしたい、と望んでおられます。これが神の特徴です。親密さです。神はご自身をこのように定義していますー主は、私たちがいつ呼びかけても近くにいる。このような神を持つ大いなる国民が、果たしてほかにいるだろうか」 (申命記4章7節参照)。

 近くにおられる神は、思いやりと優しい親密さで、押しつぶされるな重荷からあなたを解放し、冬の寒さにこごえるあなたを暖め、暗い日々を過ごすあなたを照らし、おばつかない足取りのあなたを支えようとしてくださいます。そして神はご自身の言葉でそうなさいます、言葉で、あなたの恐れの灰の中に希望を再び燃え立たせ、あなたの悲しみの迷宮に喜びを再発見させ、孤独に苦しむあなたを希望で満たすように、あなたに話しかけられます。あなたを歩ませますが、迷路の中ではありません。あなたを道に沿って歩ませ、日々、新たな展望が開けるようにしてくださいます。

*私たちが、神に対して持つイメージは?

 兄弟姉妹の皆さん。私たち自身に問いかけましょう。私たちは心の中に「解放された神」「近くにいる神」「思いやりのある神」「優しい神」のイメージを持っていますか? それとも、「厳格な裁判官」「厳格な税務署員」と見なしますか? 私たちの信仰は希望と喜びを生み出していますか?それとも、恐れを抱き続け、恐ろしい信仰によって心を重くされているでしょうか?教会で私たちは神のどの顔を宣言しますか? 私たちを解放し、癒す救い主?それとも罪悪感で打ち砕く恐ろしい神?

 真の神へ心を向けるために、イエスは、私たちにどこから始めるべきかを示してくださいます。御言葉で、神の私たちへの愛の物語を語ることで。私たちを神に対する恐れや先入観から解放し、信仰の喜びをもたらします。御言葉は、偽りの偶像を打ち砕き、私たちの影を覆い隠し、人間的すぎる神の姿を破壊し、神の本当の顔、憐れみに、私たちを引き戻します。神の言葉は信仰を養い、新たにします。御言葉を祈りと霊的生活の中心に戻しましょう!中心に、神様がそのような存在か教えてくれる御言葉。私たちを神様に近づける御言葉を。

*御言葉は、私たちを人に導く

 そして、御言葉の第二の側面。御言葉は私たちを人に導きます。私たちを神に導き、人に導きます。神が思いやりのある愛であることを発見したとき、私たちは偶像崇拝の宗教に身を寄せる誘惑に打ち勝ちます。隠された偶像崇拝、洗練された偶像崇拝もありますが、偶像崇拝です。御言葉は、人々を解放する神の愛の穏やかな力で、兄弟姉妹に会うために私たちの背中を押します。

 ナザレの会堂で、イエスはこのことを私たちに明らかにされます。そして私たち、人々を解放します。イエスは、規範のリストを提供したり、宗教的な儀式を行ったりするためではなく、傷ついた人類に会い、苦しみで歪んだ顔を愛撫し、壊れた心を癒し、軛から私たちを解放するために、この世の街頭に立たれました。私たちの持ち物ー魂―を捕まえ、私たちに、どのように讃えることを神がいちばんお喜びになるのかーそれは、隣人をいたわることーを啓示されます。

 そして、私たちは、そこに戻らなねばなりません。教会には“(硬直的な)厳格”さへの誘惑があり、神の啓示を受けるということは、より厳格に、より多くの規範を忠実に守ることだ、と信じられています…いいえ、そうではありません。厳格さの主張に出会うとき、私は直感しますーこれは偶像であり、神ではない。私たちの神はそのような方ではない、と。

*私たちを変える御言葉、硬直的な厳格さの誘惑

 兄弟姉妹の皆さん。神の言葉は、私たちを変えますが、”厳格”さは私たちを変えません。私たちを隠蔽します。神の言葉は剣よりも鋭く、魂を刺し通すことで、私たちを変えます(ヘブライ人への手紙4:章12節参照)。神は、一方で、私たちを慰められ、御顔を私たちに明らかにされ、他方で、私たちを刺激し、揺さぶり、私たちを矛盾に引き戻されます。私たちを危機に陥れます。静けさの代償を払うのが、不公正と飢餓によって引き裂かれた人々であり、代償を払うのは常に最も弱い人々であるなら、私たちを落ち着かせません。最も弱い人が、常に代償を支払わされます。

 御言葉は、うまくいかないことを他人や自分が置かれた環境のせいにする私たちの”自己正当化”に、異議を唱えます。兄弟姉妹が、誰も上陸させてくれないために、海でに命を落とすのを見で、どれだけ痛みを感じるでしょう! そして、(注:彼らを自国の領土に入れないことを)神の名において行う人もいます。神の言葉は、明るみに出るように、問題の複雑さの裏に隠れないように、私たちを促します。「何もできることはない」「それは他の人の問題だ」「彼らのことは放っておけ」というような言い訳をしないように、と。

 神の言葉は、行動するように、神を信仰することと人へのいたわりを結びつけるように、と強く私たちに促します。聖書は、私たちが楽しむためや天使のような霊性で甘やかされるために与えられたのではありません。表に出て、他の人々と出会い、彼らの傷に接するために与えられているのです。

 硬直的な厳格さー教会が陥りやすい誘惑の一つである現代のペラギウス主義*について話したことがあります。

注*4世紀中ごろにブリタニアに生まれ、修道士となったペラギウスの説とされるもの。当時のキリスト教徒の退廃的風潮を批判し、厳格な道徳的宗教性を求めたペラギウスは、また、人間には現在無しで存在できる可能性が、神の恩恵として与えられている、と主張。418年のカルタゴ教会会議で異端として破門された(「カトリック・あい」)。

 そして、もう一つの他の誘惑は、天使のような霊性を求めることー人を”軌道”に乗せ、現実に触れさせないようにする”神の言葉”を提唱するグノーシス的な運動、グノーシス主義です。肉となった御言葉(ヨハネ福音書1章14節参照)は、私たちの中で肉になることをお望みです。私たちを人生から切り離すのではなく、人生に、日々の暮らしの真っただ中にいて、兄弟姉妹の苦しみ、貧しい人々の叫びに耳を傾け、社会と地球を傷つける暴力と不公正に直面することを望んでいます。御言葉は、私たちがキリスト教徒として、周囲の人や状況に無関心でいないように、行動的で、創造的で、預言的なキリスト教徒になることを希望しているのです。

*御言葉は、私たちが生きている今、「肉」となることを望まれる

 「今日」イエスは言われますー「この聖書の言葉は、実現した」(ルカ福音書4章21節参照)-御言葉は、理想的な未来ではなく、私たちが生きているこの時、今日、肉体となることを望んでいます。

 パリの郊外で福音を生きることを選んだ20世紀のフランスの神秘主義者はこのように書いています。「神の言葉は”死んだ手紙”ではなく、霊と命… 主の言葉が私たちに求めているのは、私たちの”今”ー私たちの日々の暮らしと私たちの隣人の渇望」(マドレーヌ・デルブレル**「 La joie de croire(信じる喜び)」)。

注**Madeleine Delbrêl、1904年10月24日1964年10月13日フランスの社会運動家

 では、私たち自身に問いかけましょう。私たちは、イエスに倣い、他の人のために解放と慰めの教役者になり、御言葉を実行したいと思っているか?私たちの教会は御言葉に従順な教会になっているか?教会は、他の人の言葉に積極的に耳を傾け、兄弟姉妹を抑圧から解放し、恐れの結び目を解き、最も傷つきやすい人々を貧困の牢獄、人生を苦しめる倦怠感、悲しみからに夕にするために手を差し伸べていたか?私たちが望んでいるのは、このことではないのか?

*私たち1人ひとりが、神の言葉の伝道者、預言者

 この神の言葉の主日のミサに参加されている私たちの兄弟姉妹の中に、このミサの中で任命されるカテキスタと朗読奉仕者がおられます。イエスの福音に奉仕し、イエスを宣べ伝え、イエスの慰め、喜び、解放がすべての人に届くようにするという重要な任務に召されています。これは、(彼らだけでなく)私たち一人一人の使命でもありますーそれは、この世において、神の言葉の伝道者、預言者となることです。

 聖なる書に情熱を傾けましょう。神の新しさを明らかにし、私たちが他者を倦むことなく愛するよう導く御言葉に、進んで深く浸りましょう。神の言葉を、教会の生活と司牧活動の中心に置きましょう!そうすることで、私たちはあらゆる硬直的なペラギウス主義から、あらゆる硬直的な厳格さから、解放され、人を”軌道”に乗せる霊性の幻想、私たちの兄弟姉妹への無関心から自由にされます。神の言葉を教会生活と司牧活動の中心に置きましょう。御言葉に耳を傾け、御言葉と共に祈り、御言葉を実践しましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月23日

☩「性的虐待問題への対応は司法的措置の厳格化だけでは不十分、だが正義の再建に必要」ー教理省の総会参加者たちに

Pope Francis with member of the Congregation for the Doctrine of the Faith during their Plenary Assembly in the VaticanPope Francis with member of the Congregation for the Doctrine of the Faith during their Plenary Assembly in the Vatican  (Vatican Media)

(2022.1.21  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは21日、バチカン宮殿で教理省の定例総会参加者たちとお会いになり、教理省の命を果たすうえで「尊厳」「識別」「信仰」の3つの言葉が重要である、と強調された。

 教皇は「識別」について、「今日、信仰をもつますます多くの人々に識別の技が求められています」とされてうえで、(現在も欧州を中心に相次いで明らかにされている聖職者による未成年者などへの性的虐待の問題を念頭において=「カトリック・あい」)「識別力の行使は、あらゆる種類の虐待との戦いに求められるもの。神の助けを借りて、教会は、そのメンバーに虐待された犠牲者に正義をもたらすという自身の責務を断固として追求しつつあります」と述べ、さらに次のように語られた。

 「このような観点から、私は最近、この問題に対する司法的措置を厳格化することを希望し、教理省が担当する(聖職者による)犯罪に関する規範を更新しました。 司法的措置だけではこの現象を食い止めるのに十分ではありませんが、正義を再建し、恥ずべきことを正し、犯罪者を改めさせるために必要な手段です」

 

(2022.1.21 バチカン放送)

 教皇は参加者への挨拶で、信仰と倫理をめぐる教会の教えの全体性を守り、推進する教理省の役割について、「尊厳」「識別」「信仰」の3つをキーワードに考察。

 回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」で述べた「すべての人の尊厳を認めながら、兄弟愛の世界を築きたい」との思いを語りつつ、「兄弟愛が、創造主の計画された人類の歩みの目的地であるなら、そこに向かうための道は。すべての人の尊厳を重んじることにあります」と話された。

 そして、「社会的、政治的な緊張に満ちた今日、他者を自分とは関係のない存在、あるいは敵とみなし、その尊厳を否定する傾向が広がりつつある。こうした時代にこそ、誕生から自然死に至るまでの、人生のすべての過程にある人間の尊厳を重んじるように、あらゆる機会を通し呼びかけて行かなくてはなりません」と訴えられた。

 また、時代の変容の中を生きる今日、キリスト者たちに「識別の技術」が求められている、と指摘。「あらゆる種類の虐待との戦いのためにも、識別の訓練が必要です」とされたうえで、現在の教会が、聖職者による性的虐待の問題に対し、特別な関心と厳格さをもって教会の規則を適用していることを強調された。

 同様に、「識別の努力は、婚姻の無効を扱う場合においても必要」とされ、「教会が婚姻の無効を宣言する時は、すでに事実上破綻した結婚に教会法上の決着をつけるだけでなく、この司牧的行為を介して、新しい結婚、家族において常に信仰を励まさなくてはなりません」と語られた。

 さらに、教皇は、教理省の使命について、「信仰を守るだけでなく、信仰を励ますことにもある。信仰が無いなら、世界の信者たちは、単なる人道組織のメンバーになってしまいます」と警告。

 そして、「信仰は、すべてのキリスト者の生活と行動の中心をなすべきもの。平凡で曖昧な、”水で薄めたような信仰”ではなく、本物の混じりけのない信仰であるべきです… 危機感を抱かせない信仰は”危機的な信仰”であり、成長させない信仰は”成長すべき信仰”であることを忘れてはなりません」と説かれた。

 さらに、「”マニュアル通りのなまぬるい信仰”に安住せず、聖霊と、人々と、協力し合いながら、イエスが世にもたらした火が、すべての人の心に燃え続けるように努力しましょう」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月21日