☩「病める人に慰めをもたらすことは、全てのキリスト者の義務」ー2月11日「第30回世界病者の日」に向けて

(2022.1.7 バチカン放送)

 2月11日のカトリック教会の第30回「世界病者の日」に向け、教皇フランシスコが7日、メッセージをおくられた。

 「世界病者の日」へのメッセージのテーマは「『あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい』(ルカ福音書6章36節)ー 愛の歩みにおいて苦しむ人に寄り添う(仮訳)」。

 冒頭で、教皇は、「世界病者の日」にあたって当初予定されていたペルーのアレキパでの記念ミサが、新型コロナ大感染の影響で中止となり、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサが捧げられることになったことを説明された。

 そのうえで、「世界病者の日」を機会に、「いかなる時も、父の愛をもって子らを見つめる『憐れみ豊かな神』(エフェソの信徒への手紙2章4節)に眼差しを向けるように」と促され、「神は父の強さと母の優しさをもって、私たちに配慮され、聖霊において新しい命を与えることを望まれます」と強調。

 また「憐れみ深い御父の愛の至上の証人は、その御一人子イエスです。福音書には、イエスと病者との出会いが、どれほどたくさん語られていることでしょうか」と問いかけられ、「苦しみは人を孤立させ、その孤立の中から他者への嘆願が生まれます。御父の憐れみそのものであるイエスに倣い、神の愛の証し人として病者に寄り添い、慰めの油と希望のぶどう酒をその傷に注ぐことが重要です」と説かれた。

 さらに、「御父のように憐れみ深い者となるように、とのイエスの招きは、とりわけ医療関係者にとって特別な意味を持つもの」と指摘。「医師や、看護師、医療技師、ボランティアなど、苦しむキリストの肉に触れるこれらの人々の手は、御父の憐れみ深い御手のしるしとなることができるのです」と語られた。

 教皇は、今日の医療技術の進歩を神に感謝する一方で、「一人ひとりの病者の尊厳や脆さを、忘れてはなりません… 病者は、常に、その人の病気そのものよりも大切。それゆえ、患者の声や事情や不安を考慮せずに、治療を行うことがあってはなりません」とされ、「たとえ回復の見込みがない場合でも、ケアや、慰め、寄り添いは常に可能です。病者に耳を傾け、良い関係を築くことができるような、医療関係者の育成プロセスが望まれます」と希望された。

 また、「『世界病者の日』は、ケアを行う場所に対する関心を高める機会でもあります。キリスト教共同体は何世紀にもわたって『善きサマリア人の宿』として、あらゆる病者を受け入れる施設を設けてきました。カトリックの医療機関の重要さを再確認するとともに、この大切な宝を守り、支えていかなくてはなりません」と訴えられた。

 そして、「苦しんでいる貧しい人々に対する最悪の差別は、霊的な助けの欠如です。祝福や、御言葉、秘跡を通して、これらの人々に神の寄り添いを伝える必要があります」とされ、「病者への寄り添いと司牧的ケアは、一部の人々の務めではなく、すべてのキリストの弟子の務め。どれだけの病者やお年寄りたちが、人々の訪問を待っていることでしょうか。『お前たちは、私が病気のときに見舞ってくれた』(マタイ福音書25章36節参照)というイエスの言葉を胸にしつつ、病者に慰めをもたらすことは、全てのキリスト者の義務です」と強調された。

 メッセージの最後に教皇は、「病者とその家族が世の苦しみを背負うキリストに一致し、意味と慰めと信頼を見出すことができるように」と聖母の取り次ぎを祈られ、「すべての医療関係者が豊かな憐れみをもって、病者らに適切な治療と兄弟的な寄り添いを与えることができるように」と祈願されている。

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 カトリック教会は、毎年2月11日の「ルルドの聖母」の日に「世界病者の日」を記念する。教皇聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡「サルヴィフチ・ドローリス – 苦しみのキリスト教意味」(1984年)の精神のもとに1993年に創設されたこの日は、病者がふさわしい援助を受けられるよう、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように祈ると共に、病者とそのケアにあたる人々への関心を教会内はもとより社会に広く呼びかけることを目的としている。

(編集「カトリック・あい」)

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(2022.1.30 カトリック・あい)

 以下、カトリック中央協議会訳によるメッセージ全文(編集「カトリック・あい」=原則として当用漢字表記に統一)

2022年第30回「世界病者の日」教皇メッセージ 「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)ー愛の道にあって、苦しむ人の傍らにいる

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 30年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が世界病者の日を制定したのは、神の民、カトリック医療施設、そして市民社会が、病者と彼らのケアにあたる人々の支援の必要性への認識を高めるためでした1

 この間、世界中の地方教会で実現してきたことを、主に感謝します。さまざまな進展がありましたが、すべての病者が、中でも貧困と排除のもっとも激しい地域や状況にある人々が、必要な医療ケアを受けられるようになるには道半ばです。また、十字架につけられ復活したキリストと結ばれて病の時を過ごせるような司牧的同伴も十分ではありません。第30回世界病者の日ーその締めくくりの祭儀は、パンデミックのために、ペルーのアレキパではなく、バチカンのサンピエトロ大聖堂で行われますーを通して、病者とその家族への奉仕と寄り添いを深めることができますように。

1.御父のように憐れみ深く

 今回の第30回のテーマとして選ばれた「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)は、まず私たちの視線を「憐れみ豊かな」(エフェソの教会への手紙2章4節)神に向けさせます。いつでも、子らを、たとえ子どもたちが背を向けようとも、父の愛で見守ってくださる神です。まさに、憐れみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべての業の中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります。だから私たちは、神の憐れみには父性と母性(イザヤ書49章15節参照)の二つの側面が内包されているのだ、と驚きと感謝をもって断言できるのです。神は、父の強さと母の優しさをもって私たちの面倒を見ておられ、聖霊によって新しい命を与えようと、絶えず強く願っておられるからです。

2.御父の憐れみであるイエス

 病者に注ぐ御父の憐れみ深い愛を証しする最高の方は、神の一人子です。福音書は実に多くの箇所で、さまざまな病気を患う人とのイエスの出会いを伝えています。イエスは「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされ」(マタイ福音書4章23節)のです。次のような疑問が湧きます。使徒は福音の告知と病者の癒しのために師から遣わされた者ですが(ルカ福音書9章2節参照)、なぜイエスは、使徒の宣教において第一の任務とするほどに病者に対するケアを特別視していたのでしょうか。

 20世紀の一人の思想家が、一つの理由を示唆しています。「痛みはまったき孤立をもたらし、まさにこの全き孤立から、他への訴え、他への嘆願が生まれる」2。病によって肉体のもろさや苦しみを味わうと、心も沈み、不安が募り、次々と疑問が湧いてきます。起きること一つ一つの意味を問い、すぐに答えを得ようとします。これについては、今回の新型コロナの世界的大感染において、集中治療室で孤独に末期を迎えた多くの患者を思い出さずにはいられません。もちろん、献身的な医療従事者たちのケアを受けてはいましたが、最愛の家族や、現世での生活でいちばん大切だった人たちとは離されたままでした。だからこそ、御父の憐れみであるイエスの模範に倣って、病者の傷に慰めの油と希望のぶどう酒を注ぐ、神の愛の証し人3の存在が重要なのです。

3.キリストの痛みを負う体に触れる

 「御父のように憐れみ深い者となりなさい」というイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。私が考えているのは、医師、看護師、検査技師、病者の介助や介護のスタッフ、そして苦しむ人のために貴重な時間を割いてくれる多くのボランティアのことです。親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負った体に触れる皆さんの手は、御父の憐れみ深いみ手のしるしとなるはずです。皆さんの職業の特別な尊さと、そしてそれに伴う責任とを、どうか心に留めておいてください。

 医学の、とくに近年の進歩の恵みを、主に感謝しましょう。新たな技術によって数々の治療法が開発され、患者に大きな利益をもたらしています。古いものから新しいものまで、さまざまな病気の撲滅に貴重な貢献をなすべく、研究が続けられています。リハビリ医療は、その知見と技能を著しく発展させてきました。

 だからと言って、忘れてはならないのは、患者それぞれが、その尊厳と弱さを含めて唯一無二の存在であることです4。患者はつねにその人の病気よりも大切で、だからこそ、どのような治療法も、患者の話に、これまでのこと、懸念、不安に、耳を傾けないままなされてはなりません。回復の見込みがない場合でも、ケアは常に可能であり、慰めを与えることはつねに可能であり、病状にではなくその人に関心を示しているという寄り添いを感じてもらうことは、常に可能なのです。ですから医療従事者には、専門課程の間に、患者への傾聴の仕方と、患者との関わり方を身に着けることを期待しています。

4.ケアにかかわる施設――あわれみを表す家

 世界病者の日はまた、ケアにかかわる施設に着目するにも良い機会です。何世紀にもわたり、病者への憐れみに動かされて、キリスト教共同体は無数の「よいサマリア人の宿屋」を開設してきました。そこに迎えられケアを受けることができるのは、あらゆる病気の患者たち、とりわけ貧困や社会的排除から、あるいは特定の病状から治療が困難で回復が見込めない人たちです。そうした状況では、子どもや高齢者、そして最も弱い立場の人たちの負担が、最も重くなります。

 多くの宣教師、御父のように憐れみ深い者たちは、福音を宣べ伝えつつ、病院や診療所やケアする施設を建設していきました。どちらもが尊い事業であり、二つを通してキリスト者の慈善の愛は具体化し、弟子たちによってキリストの愛が証しされ、信用を得ていったのです。とくに私が思い起こしているのは、地球上で最も貧しい地域の住民のことです。そうした地域では、人的・物的資源が限られてはいても可能なことを全てしてくれる医療施設にたどり着くのに、長距離を移動しなければならないことも、多々あります。この先もやるべきことはあり、十分な治療を受けることが贅沢でしかない国もまだあります。貧困国では新型コロナウイルスのワクチンが入手できないことや、さらにいえば、もっとずっと一般的な薬で対応できる病気も治療できないことがある、というのがその顕著な例です。

 この文脈において、カトリックの医療施設の意義を今一度訴えたいと思います。それらは保護され維持されるべき貴重な宝です。もっとも貧しい病者と、完全に見捨てられた境遇に寄り添うことで、その存在は教会の歴史を浮き彫りにしてきました5。医療を受けられない兄弟姉妹、あるいは十分なケアを得られない兄弟姉妹の叫びに耳を傾け、彼らに奉仕するために身をささげてきた修道会創設者が、どれほど多くいたことでしょう。

 現在もなお、先進国においてさえ、その存在は恵みです。必要なあらゆる専門性を踏まえた身体のケアに加え、患者とその家族を第一の関心事とする愛も、つねに差し出しているはずだからです。使い捨ての文化が広がり、必ずしも命が、歓迎され、生かされるに値するものだ、と認められていない今日、憐れみを表す家であるこれらの施設は、全ての人間の生命―最も弱い存在であろうとも―をその発生の瞬間から自然な死に至るまで、保護し世話をする模範となりうるのです。

5.司牧における憐れみ―寄り添い、慰めること

 ここ30年で医療司牧(パストラルケア)は、必須の奉仕としての認知度が高まったと思います。貧しい人―病者は健康状態において貧しい人です―が苦しむ、最もひどい差別が「霊的配慮の欠如」なら、私たちは彼らに対し、神の寄り添い、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道への促しを差し出さずにいてはなりません6。これについて、皆さんに覚えていてほしいことがあります。病者に寄り添うことや、彼らに対するパストラルケアは、専門的にそれに従事する一部の牧者だけの務めではないのです。病者を訪問することは、キリストからの全ての弟子に対する要請です。自宅で訪問を待つ病者や高齢者は、どれほど多いことか。慰めという奉仕の務めは、「私が……病気の時に見舞(ってくれた)」(マタイ福音書25章36節)というイエスの言葉を心に留めながら行う、洗礼を受けた全て人の責務です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。私は全ての病者とその家族を、病者の癒し手、マリアの執り成しに委ねます。この世の痛みを身に受けておられるキリストと結ばれて、意義と慰めを見い出し、自信をもつことができますように。すべての医療従事者のために祈ります。彼らが憐れみ深い者となり、患者に対する適切なケアだけでなく、兄弟愛からの寄り添いに努めることができますように。

 全ての人に、私は愛を込めて使徒的祝福を送ります。

ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年12月10日 ロレトの聖母マリアの記念日に フランシスコ

*注*

1.  教皇聖ヨハネ・パウロ二世「世界病者の日制定のための、保健従事者評議会議長フィオレンツォ・アンジェリーニ枢機卿あて書簡(1992年5月13日)」参照。

2.エマニュエル・レヴィナスはこれを「苦しみの倫理(Une éthique de la souffrance)」(Souffrances. Corps et âme, épreuves partagées, J.-M. von Kaenel edit., Autrement, París 1994, pp. 133-135)という。

3.『ローマ・ミサ典礼書(イタリア語版)』叙唱―共通8「よいサマリア人であるイエス」参照。

4. 教皇フランシスコ「イタリア医科大・歯科大連盟でのあいさつ(2019年9月20日)」参照。

5.教皇フランシスコ「ジェメッリ総合病院(ローマ市)訪問時のお告げの祈り前のあいさつ(2021年7月11日)」参照。

6.教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び(2013年11月24日)』200参照。

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2022年1月30日