☩「日々、あなたの近くにいる人々の中にイエスを見つけよう」-年間第4主日の正午の祈りで

Pope Francis during the Sunday AngelusPope Francis during the Sunday Angelus  (Vatican Media)

*なぜイエスは無理解の人たちの所に行かれたのか

 この箇所でルカは、イエスが故郷のナザレで最初の説教をした時、どのように人々の無理解と敵意に直面したかを語っている。

 教皇は「故郷の村の人たちは、真理の言葉よりも、奇跡と人を驚かせるようなしるしを求め、イエスの言葉を受け入れようしなかった。それで、イエスは、今では諺になっている言葉を語られたのですー『預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』と」語られた。

 さらに教皇は、「このような言葉は、イエスの失敗は、決して予想外のことではなかったことを示しています。イエスは、彼らのことを知っておられ、ご自分がされていることのリスクを分かっておられたーご自分が拒否されることを念頭に置いておられたのです」とされたうえで、「それなのに、失敗を予想していながら、どうして故郷に行かれたのか、私たちは不思議に思うかもしれません。なぜ、自分を進んで受け入れようとしない人たちに、そこまで親切にするのでしょう?」と会衆に問いかけられた。

  そして、「このような問いかけは、私たちが頻繁に自分に対してしているものですが、神をよりよく理解するために役立ちます。相手に拒絶された時、イエスは退きません。『愛することに、ブレーキをかけない』のです」と説かれた。

 

*イエスのなさり方は、親の子に対する無償の愛を体現している

 さらに、「イエスのなさり方は、子供たちが自分に感謝の気持ちを持たないことを知りながら、彼らを愛することを止めず、彼らのためになることをする、親たちの無償の愛に体現されています」とされ、「神も、そういう親たちと同じですが、もっとレベルが高い。イエスは今も、私たちに前を信じ、全を行なうためにあらゆる手段を使うように、と勧めておられるのです」と強調された。

 

*信仰は、進取の姿勢と謙虚さを通して得られる

 教皇はまた、「敵意と歓迎しない態度に関して私たちに自問させるナザレでの出来事によって、他のことが明らかにされます」と述べられた。

 「イエスが今日の福音で示されている“受け入れる”ことの模範的な人物に注目しましょう。それは、2人の異邦人、シドンのサレプタ地方にいる未亡人と、シリア人のナアマンです。そして、彼らのところに遣わされた預言者エリヤとエリシャ。だが、いずれの預言者も、容易には受け入れられず、多くの苦労を重ねました。そうした中で、未亡人とナアマンは、進取の姿勢と謙虚さをもって、それぞれの預言者の言葉を受け入れたのです」とされた。

 そして、「信仰は心の準備と謙虚さを通して得られるのです。未亡人とナアマンは、神とその預言者の働きかけを拒まなかった。従順であり、心を堅くして閉じるようなことはしませんでした」と語られた。

*日々の現実の中でご自身を受け入れるように、イエスは求める

 続けて教皇は、「イエスもまた、預言者と同じやり方をなさいます。私たちが期待するような振る舞いはなさいません。奇跡や、これまでなかった目新しいこと、権力と外見的なしるしから成る信仰、を求める人々には、イエスを見つけられない。不満もなく、疑いもなく、批判や浮かない顔をすることなく、イエスのなさり方、イエスがあえてなさろうとしていることを受け入れる人々が、イエスを見つけるのです」と強調。

 「別の言葉でいえば、あなたが生活している日々の現実の中に、教会の中で、あなたのそばに居るいる人たちの中に、助けを求めている人たちの現実の中に、ご自分を受け入れるように、イエスは求めておられるのです。イエスはそこにおられ、そばの”川”で、”健全な、謙虚さの浴槽”で、自身を清めるように、勧めておられます」。

*聖母は私たちに、イエスを喜んで受け入れる方法を教えてくれる

 最後に教皇は、「長い間、信者として過ごすと、自分の思考力や判断力で『自分は神のことを良く知っている』と考えてしまうことがあるでしょう。私たちが犯すリスクは、”イエスに慣れてしまうこと、イエスの新鮮さから心を閉じてしまうこと、自分の考えに凝り固まってしまうこと、です。そうならないように、主は私たちに開かれた心、誠実な心を求めておられるのです」と語られ、次のように祈られたー「謙虚さと進取の模範である聖母マリアが、イエスを進んで受け入れる方法を、私たちに示してくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年1月30日