☩「ウクライナ戦争は”愛の社会”が緊急に求められていることを示している」

Pope Francis greets a member of the FIAT AssociationPope Francis greets a member of the FIAT Association  (Vatican Media)

(2022.4.23Vatican News Devin Watkins)

 教皇フランシスコは23日、FIAT協会が主催するシンポジウムの参加者と会見され、「私たちの世界を揺るがすさまざまな危機を克服するために、『思いやりと愛情のある社会』を構築することが、緊急に求められている」と強調された。

 参加者たちに、教皇は、「教会の使命の核心である福音宣教に欠かすことのできない務め」に注意を集中するよう求め、「これまで以上に、私たちは聖霊の励ましの下で、”外に出て行く教会”の主役となるように求められています」と励まされた。

*人間としての尊厳のために共に戦う

 教皇は、「世俗化が世界社会に深く浸透している今、教会は、信仰の宣言と”希望の炎”の説得力のある証しをすることを、キリスト教徒に求めています」とされ、世界が直面している沢山の危機、特に「”愛の社会”が緊急に求められていること」を呼び起こさせるウクライナでの戦争ーを指摘。

 「戦争の恐怖の犠牲になった私たちの兄弟姉妹の瞳の中に、『尊厳、平和、そして愛によって特徴づけられる命への深く、差し迫った要請』を見て取ることができます」と語られ、「乙女マリアは、私たちがその兄弟姉妹に心を開く時、苦しんでいる人々の近くで福音宣教の精神を持って生きる方法を、私たちに教えてくれるのです… 私たちは彼らと共に歩み、彼らの人間としての尊厳のために共に戦い、そして神の愛をあらゆる所に広めねばなりません」と説かれた。

 

*友愛を基盤とする社会の建設を助けよう

 さらに、教皇は、友愛的な関係と他者の人道的扱いを基盤とする社会の建設を助けるよう、世界の教会に呼びかけられ、ご自身が出された回勅「 Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」を引用する形で、「他者への愛は、私たちを他者の命を守るために最善を求めるように、私たちを動かします。互いの関係を築く方法を磨くことによってのみ、誰一人として排除しない、すべての人に心を開く友愛が可能となるのです」と説かれた。

 

*言葉と行動を通して、人間性にあふれたメッセージを

 教皇は最後に、FIAT協会のシンポジウムに参加した人たちに対して、自分たちの言葉と行動を通して、人間性にあふれたメッセージを世界に発信するように、強く求められ、次のような祈りで締めくくられた。

 「皆さんが、祈りと福音宣教の使命を通して、『前向きな見通しと愛、希望、思いやり、そして優しさのこもった眼差し』と『傷つきやすく、社会からのけ者にされている人々への特別な関心』をもって世界を見るために、善と真理の源から着想を得、復活したキリストとの交わりの中に力を見い出すことができますように」。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年4月24日

☩「バチカンと教会に本当に重要なのは人々の”ハート”と”マインド”の刷新」バチカン改革使徒憲章の本の中で

 

Pope Francis with Cardinal Oscar Rodriguez Maradiaga (archive photo)Pope Francis with Cardinal Oscar Rodriguez Maradiaga (archive photo) 

 教皇フランシスコが3月にバチカン抜本改革の使徒憲章「Praedicate Evangelium(Preach the Gospel・仮訳=福音を宣べ伝えよ)」を公布され、聖霊降臨の主日、6月5日に発効することになったが、この使徒憲章に関する、枢機卿評議会議長、ロドリゲス・マラディアガ枢機卿との会見の内容を一冊の本にされ、その中で、教皇は「この使徒憲章は、バチカン改革にとって非常に重要なものだが、改革の”大きな仕事の一部”に過ぎない」とし、「改革で本当に重要なのは、人々の”ハート”と”マインド”の刷新です」と強調された。

 この使徒憲章は、教皇がこれまで進めて来られたバチカンの改革をさらに徹底し、世界の現地教会と福音宣教の活動を支援、活性化する機能を果たせるようにするのが狙い。本のタイトルは、「Praedicate Evangelium:A new curia for a new time」。

 教皇は、本の中で、現在進めている改革は、第二バチカン公会議にルーツをもち、前教皇が聖パウロ六世に遡って追求してきたもの、とされ、ご自分が教皇に選ばれた教皇選挙の直前の枢機卿総会で、マラディアガ枢機卿が『新教皇は、新たなバチカン改革に着手せねばならない』と強く主張したことを思い起こされた。

 そして、この本で使徒憲章の狙いなどを的確に引き出した枢機卿の功績をたたえるともに、使徒憲章は、非常に重要な部分ではありますが、バチカン改革のより大きな仕事の一部にすぎない、と指摘。「構造的、組織的な改革は、確かに必要ですが、本当に重要なのは人々のハートとマインドの刷新なのです」とされた。

 また教皇は、改革作業は教会にとって絶えない心配の種であり、「諸法律と文書類には常に限界があり、ほとんどいつも短命」と指摘。「世界が絶え間なく変化していく中で、教会は、その世界と、起源と伝統への忠誠に基礎を置いた対話を続け、時とともに変化を続ける状況に、自身の活動と人間的組織構造を合わせていくのだ、ということを、私たちに思い起こさせられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年4月23日

☩「ウクライナ戦争を止めるため、あらゆる努力を諦めない」新聞との会見で

ウクライナ・マリウポリの破壊された住宅街で 2022年4月18日ウクライナ・マリウポリの破壊された住宅街で 2022年4月18日  (ALEXANDER ERMOCHENKO)

(2022.4.22 バチカン放送)

 バチカンの日刊紙L’Osservatore Romano紙が、アルゼンチンの新聞La Nacion21日付けの教皇フランシスコの会見内容の要旨を掲載した。

 教皇はこの会見で、現在、ロシアが進めているウクライナ戦争について「この戦争を止めるために、あらゆることをする用意がある」と、和平への努力と諦めないことを言明された。

 教皇は、「バチカンの外交上の具体的な活動を公けにできないが」と前置きしたうえで、ウクライナの平和回復に向けた「バチカンの働きかけは休みなく続いている。その試みは止むことがない」と語られた。

 また、教皇は、ロシア軍の軍事侵攻開始直後の2月25日にバチカンのロシア大使館を訪問され、侵攻中止を求められたが、「誰の同行も望まず、自分一人で行きました。自分個人の責任で行ったことです。ウクライナのことを思いながら、夜祈っている時に決断しました。ロシア政府に示そうとしたのは、率直に見て明らかなこと、すなわち、『戦争を直ちにやめるべきだ』ということでした。ウクライナでただ一人の死者をも増やさないために、何かをしなくては、という思いだったのです」と説明された。

 そして「犠牲者をこれ以上、一人も増やしてはなりません。そのために、私は、何でもするつもりです」と強調。「今日の世界、この文明が発達した現在において、あらゆる戦争は時代に逆行している。だから、私は、公の場でウクライナ国旗に接吻したのです。犠牲者とその遺族、また国を追われ避難している人々への連帯を示すものでした」と話された。

 また、キーウ訪問の可能性について尋ねられた教皇は、「人道回廊はもとより、終戦や、休戦といった、より高度な目的を、危険にさらすことはできません。私がキーウを訪問して、その次の日に戦闘が再開されるなら、訪問は何の役に立つでしょうか」と答えられた。

 「現在のウクライナめぐる事態の責任について、なぜプーチン氏やロシアを名指ししないのか」という質問には、「教皇は元首を名指しすることはしません。元首が属する国についてはなおさらのことです」と理由を説明された。

 プーチン大統領に影響力を持つとされるロシア正教のモスクワ総主教キリル1世との会見については、「エルサレムで6月にキリル1世との2度目の会見をする計画があったのですが、バチカン側は取り消ささざるをえなくなった。外交上の観点から、今この時期に会見することは『混乱をもたらすだけ』と判断したからです」と、可能性が消えたことを明らかにされた。

 諸宗教間対話については、教皇は「私は、常に宗教間の対話を推進してきました。ブエノスアイレスの大司教だった時、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の実り多い対話をした。これは私が進めたことの中で誇りに思うものの一つです。何度も申し上げてきましたが、私にとって、合意は対立に勝るものなのです」と話された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年4月23日

◎教皇連続講話「老年の意味と価値について」⑥「年配者たちは愛され、敬意を払われねばならない」

Pope Francis arrives in St. Peter's Square for the weekly General AudiencePope Francis arrives in St. Peter’s Square for the weekly General Audience  (Vatican Media)

(2022.4.20 Vatican News  Benedict Mayaki, SJ)

  教皇フランシスコは20日、新型コロナウイルスの大感染が始まって以来約2年ぶりに聖ペトロ広場に信徒たちを集めての水曜恒例の一般謁見を再開され、「老年の意味と価値について」をテーマとする連続講話の中で、「年配者に敬意を払うこと」が大事であることを強調、若者に人生とそれぞれの段階について効果的な教育をするよう勧められた。

 教皇はまず、「神の言葉を通して、私たちは、混乱と落胆、喪失と自暴自棄、幻滅と疑惑で特徴づけられる年配者の弱さの経験を見てみましょう」とされた。

 そして、「このような弱さの経験は、人生のいかなる段階でもなされるもの。老年においては、印象が薄められ、煩わしさを感じることもありますが、若者や子供の時に受けた深い傷は、不当と反逆の感覚、反発を引き起こします」とされ、「老年期の傷は、深い傷であっても、『人生は否定するようなものではない。既にここまで生きたのだから』と受け止めるのです」と語られた。

*無償の愛、啓示、敬意

 また教皇は「愛は伝えるもの。それは、私たちの前にある人生に注がれるのと同じ力で、過去の人生に戻ることはありません… したがって、愛を無償で与えることを、すべての親と年配者が承知しています」とされ、「神の啓示は、前を行く人々に敬意を示すことで彼らの愛に報いる道を開きます。年配者に対する敬意は『あなたの父と母を敬いなさい』という神の戒めによっても確認されています。さらに、尊厳ーすべての人の人生を尊重することーは、本質的に敬意と同等です」と説かれ、次のように述べられた。

 「それは自分の父母についてだけのものではなく、父母と祖父母の代についてのものでもあります。祖父母が世を去るのはまだ後になり、複数の他の世代と長く共生する時と空間を作る可能性があるからです」

*敬意を欠くことの問題は

 教皇はさらに、「敬意ある素晴らしい愛の表現」について、「繊細さと愛情、優しさと尊敬に代わる自信過剰が、粗野と悪態に変わる時」に敬意が欠けることになる、とさら、「病人を世話し、自分だけでは生きていけない人々を支援するような振る舞い、生計の保証が、敬意を欠く可能性があります。そのようなことは、どこでも、家庭やオフィスでさえも起こり得ます。弱さが非難され、それがその人の過ちであるかのように批判され、その人の当惑と混乱が、嘲笑と攻撃の的になるときに」と警告された。

*若者が年配者に敬意を払うこと

 そして「考えられないような自信過剰から、それが間接的なものであっても、年配者を見下したり、軽蔑したりする態度」を若者たちに勧めるようなことのないように注意され、「年配者に対する敬意を欠いた態度は、私たち皆に対して敬意を欠くことにつながります」と強調。「神の前で復習を叫ぶ」ような敬意を欠いた行為を非難するシラ書の一節を思い起こされた。

 さらに、酒を少しばかり飲み過ぎて意識を失う老いたノアのことを思い起こされ、息子たちが、父を起こして困惑させないように、敬意をもって顔を背け、覆い隠したが、この場面は「とても素晴らしく、年配者の名誉についての全てを語っています」と述べられた。

*年配者への敬意を育てる

 また教皇は、豊かな社会が年配者のために物質的なサービスを提供することができても、「それでもなお、壊れやすく、未熟なものであるように見える『敬意ある愛の特別な形』を回復するのは容易でありません」と指摘。

 そのような愛を増進させるために、「『愛の文明』の形に敏感な人々への、より充実した社会的、文化的な支援をー人生と様々なその段階について若者たちを教育するやり方を変革することも含めてー行うよう、全ての人に強く促された。

 そして最後に教皇は、「人生を歩んできた人に敬意を払うことも含めて、『人への愛』は、年配者に対するだけのものではなく、「その最上の資質を受け継ぐ若者たちに輝きをもたらす熱意」と言える、と、今回の講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年4月20日

☩「キリストは、私たちが『虚偽と偽善の墓』から出ることを望んでおられる」復活の月曜日に

教皇フランシスコ 2022年4月18日 復活の月曜日のレジーナ・チェリの祈り(2022.4.18 バチカン放送)

 教皇フランシスコは18日正午、バチカンでレジーナ・チェリの祈りを唱えられた。

  祈りの前に、この日の福音朗読箇所(マタイ福音書28章8-15節)を取り上げ、説教をされた。

  この箇所では、安息日が終わり、週の初めの日の明け方に墓を見に行った婦人たちが、天使からイエスの復活を聞き、それを弟子たちに知らせに行く途中イエスと出会う。

 教皇の説教の要約は以下のとおり。

**********

 「主の復活の8日間」と呼ばれる、復活後の8日間は、まるで復活祭の喜びを延長させたまとまった一日のように続きます。

 今日のミサの福音書も、墓にやって来た婦人たちへの、復活されたキリストの出現を語っています 。イエスは女性たちに挨拶し、そして2つのことを告げます。これは私たちへの復活の贈り物として役立つことです。

 まず、簡単な一言で彼女らを安心させます。「 恐れることはない」。主は、「恐れ」が私たちの日々の敵であることをよくご存じです。私たちの日常の恐れは、より大きな恐れに由来します。死への恐れ、未来への恐れ、親しい人々を失う恐れ、病気への恐れ、もう何もできなくなる恐れなどです。

 しかし、復活によって、イエスは死に打ち勝されました。ですから、イエスほどに確信を込めて「恐れることはない」と言える人は誰もいないのです。主はこの言葉を、まさしく自分が勝利者として出てきたばかりの墓のかたわらで言われました。こうしてイエスは、私たちにも「恐れの墓から出てくるように」と招いておられます。主は、何かの恐れがいつも、私たちの心に巣食っていることをよくご存じです。私たちは、復活の朝のように、毎朝「恐れることはない」という言葉を繰り返し聞く必要があるのです。

 キリストを信じる兄弟姉妹の皆さん、「恐れないでください」。イエスは言われます。「私はあなたのために死を体験した。あなたのために苦しんだ。そして、今、私は、『あなたといつも共にいる』と言うために復活したのだ」。

 では、恐れを克服するために、具体的にどうしたらよいのでしょうか。婦人たちにイエスが言った二番目のことが役立ちます。「行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる」「行って、言いなさい」。「恐れ」は常に私たちを自分の中に閉じ込めてしまいます。イエスは、外に出るように、他人に向かうようにと仕向けます。これが恐れに打ち勝つ秘訣です。

 しかし、「私にはできない」とあなたは言うかもしれません。福音のあの婦人たちも、主の復活を伝えるための準備が十分にできていたわけではありません。それは主にとって重要なことではありませんでした。 主にとって大切なことは、婦人たちが自分自身から出て、人々に復活を知らせることだったのです。

 なぜなら、復活の喜びは、自分自身のためだけに取り置きするものではないからです。キリストの喜びは、与えることによってますます大きくなり、分かち合うことで増加するものだからです。もし、私たちが自分自身を大きく開き、福音をもたらすなら、心は広がり、恐れを克服するでしょう。

 また、今日の福音は、復活の知らせを妨げるものがあることも記しています。 それは、虚偽です。福音は、イエスの墓の番人たちの嘘の証言を伝えています。彼らはお金に惑わされ、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言うようにとの指示を受けます。

 これは真理の告知を妨げる虚偽です。私たちに対する警告でもあります。言葉においても、生活においても、虚偽は真理の告知を毒し、腐敗させ、葬り去ります。復活されたキリストは、私たちが虚偽と偽善の墓から出ることを望んでいます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私たちも実際あやまった情報や偽りのニュースにつまずくことがあります。一方で、私たち自身の中にも、時には虚偽があることを認めましょう。私たちのこの影の部分も、復活されたイエスの光の前に置きましょう。私たちを「福音の喜びと自由をもたらす真理の透明な光輝く証人」とするために、イエスは隠れたこともすべて光の下に置かれます(参照 ヨハネ福音書 8章32節)。

 復活されたキリストの母マリアよ、恐れに打ち勝つための助け、そして真理に対する大きな愛を与えてください。

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年4月19日

☩「和解が戦争を克服するように」教皇、復活の月曜日”Regina Coeli”の祈りで

Smoke rises over the western Ukrainian city of Lviv following a Russian airstrikeSmoke rises over the western Ukrainian city of Lviv following a Russian airstrike  (AFP or licensors)

(2022.4.18 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは18日、復活の主日の翌日月曜日正午にバチカン・聖ペトロ広場でなさった「レジナ・チェリ(天の元后)の祈り」に続く説教で、ロシアによる非人道的なウクライナ攻撃が”イースター休戦”の訴えも無視して激化している現状を念頭に、「いかなる戦いと分裂への指向も克服する『和解とキリストの平和』」の実現を訴えられた。

 説教で教皇は、キリストが十字架上の死と復活の中で示された「和解」を思い起こされ、世界の信徒たちに、そのキリストに倣って、世界のあらゆる戦争と分裂への指向を克服ために働くよう、促された。

 教皇は復活した主の恵みが、戦争や分裂の犠牲となり苦しんでいるすべての人々に慰めを与えてくれるよう、祈られた。

 「誰一人として見捨てられることのないように。争い、戦争、紛争が、互いの理解と和解に道を譲るように。『和解』と言う言葉に、いつも光が当てられねばなりません。それは、キリストがゴルゴダの丘の十字架上の死と復活でなさったのは、私たちを父なる神と、そして私たち同士を和解させるためだったからです。『和解』です!」

 さらに教皇は、「神は、悪の霊との決定的な戦いに勝たれました」と語られ、「私たちが、その神に倣い、人間が作った計画を捨て、心を改め、平和と正義を実現する神の計画に加わることができますように」と祈られた。

 この後、教皇は、ご自分にイースター・カードを送ってくれた全ての人に感謝され、特に「祈り」に感謝され、こう祈られた。「神が、聖母マリアの執り成しで、あなた方一人ひとりに賜物をくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年4月18日

☩「キリストの平和を味方にすることが出来ますように!」教皇フランシスコの使徒的祝福「Urbi et Orb」復活祭メッセージ

(2022.4.17 Vatican News  Thaddeus Jones)

 教皇フランシスコは復活の主日の17日、主のご復活恒例の使徒的祝福「Urbi et Orb(ローマへ、世界へ)」をされ、記念のメッセージを発表された。その中で、教皇は、ウクライナに代表される戦争の犠牲者、世界中で苦しんでいるすべての人々を思い起こし、平和の速やかな実現を強く訴えるとともに、「キリストの平和が私たちの暮らし、私たちの家、私たちの国に訪れますように!」と祈られた。

Easter Urbi et Orbi Blessing

 オランダの花き業者から贈られた4万本の花や植物で飾られた会場の聖ペトロ広場には、新型コロナの世界的大感染が深刻化して以来久しぶりに世界中から推定10万人に上る信徒が集まり、教皇がまず、復活の主日のミサを司式された。健康上の理由から、ミサ中の説教はなさらなかったが、ミサに続く、現地時間正午からの復活祭恒例の「Urbi et Orb」の祝福と、それに続いてこれも恒例の復活祭メッセージ「十字架につけられたイエスが復活されました!」を広場に集まった信徒たちだけでなく、ウェブ、テレビ、ラジオを通じて世界の全ての人々に向けて発表された。

 

*キリストは復活された!

 メッセージで教皇は、世界の全ての人々にとって喜びの復活祭であることを願い、「十字架につけられたイエスが復活されました!イエスは、幽霊ではなく、生きておられ、『あなた方に平和があるように!』と挨拶されたご自分を信じられない様子で見ている弟子たちの間に立っておられるのです」と語り始められた。

Easter flowers from Dutch florists adorning St. Peter's Square

*あなた方に平和があるように!

 そして、「この『あなた方に平和があるように!』という復活祭のメッセージを喜びをもって受け止めることができるよう、私たちの心が開かれますように」と願われた。そして、「平和とは正反対の、数多くの方が命を落とし、なおも暴力行為が続く『戦争』で特徴づけられる復活祭」を私たちが目撃している現在、特別にこのメッセージを強調したい」とされる一方、「爆弾から身を守るためシェルターに隠れねばならない兄弟姉妹のことを思う時、このような悲劇的な現実は、イエスが本当に復活され、死に打ち勝たれたことを信じるのを難しくします」と率直に認めつつ、次のように語られた。

 「今日、これまで以上に、東方教会の人々とってとても大切な復活の宣言が響き渡るのを耳にしています-『キリストは復活された。本当に復活されたのだ!』と。今日、これまで以上に、終わりがないように見える四旬節の終わりに、私たちはイエスを必要としているのです」

 さらに教皇は、「私たちは、これまで以上に主が私たちの前に立たれ、私たちに「あなた方に平和があるように!」と繰り返してくださるのを必要としています」と強調。新型コロナウイルスの世界的大感染を受ける形で、新たな(注:世界の国々、人々の間に)連帯の精神が根付きつつあるとの希望があったが、「弟のアベルを排除すべきライバルと見なした”カインの精神”が今でも、恐ろしい戦争と暴力の形で、私たちの間で働いているのを目の当たりにしています」とロシアによる理不尽かつ残虐なウクライナに対する軍事侵略の続行を間接的に強く非難された。

Easter Sunday Mass in St. Peter's Square

*主は平和をもたらされる

 そのうえで教皇は、「主だけが、私たちに真の平和をもたらすことができます」と改めて強調。「私たちの罪、頑なな心、そして兄弟同士の強い憎しみによって傷を負われたイエス」に注目され、「イエスは、その傷を私たちのために負われ、弟子たちの前に現れた時に、その傷を彼らにお見せになった。それは、私たちへの愛の消すことのできな印であり、天の父は、それをご覧になって、私たちに、そして全世界に、憐れみを示されるのです」と説かれた。

 「その輝かしい傷の数々をよく見つめる時、私たちの疑い深い瞳は大きく開きます。頑なな私たちの心は解き放たれ、復活祭のメッセージを心から受け入れます。キリストの平和が私たちの暮らし、私たちの家、私たちの国に入っていくようにしましょう!」

*ウクライナのための祈り

 教皇は、「戦争で荒廃したウクライナに平和がありますように」、そして「苦しみと死の恐ろしい夜あるところに、希望の新しい夜明けが、すぐ来ますように!」と祈られた。

 そして、犠牲になった人々、数百万人にのぼる避難民、孤児となった子供たち、危険地域に残された高齢者たちのことを、強く思い、その中でも特に、「私たちは、ウクライナの子供たちをはじめ、暴力の犠牲者となり、生まれる権利を奪われ、空腹、医療支援の欠如の犠牲となって苦しんでいる世界中の子供たちが泣き叫ぶのを聴いています」とされ、彼らの苦しみの叫びを聴き入れ、平和を実現する決定を下すように、世界の指導者たちに訴えられた。

 「各国の指導者たちが、人々の平和への嘆願を聴き入れますように。今から70年前に科学者たちが提起した「人類に終止符を打つべきか、それとも人類は戦争を放棄するべきか」という、重大な問いかけ*に耳を傾けますように」

 *ラッセル=アインシュタイン宣言=英国の哲学者、バートランド・ラッセルと米国の物理学者、アルバート・アインシュタインが中心となり、当時の第一級の世界の科学者たち11人が連名で出した宣言。米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた。日本の湯川秀樹も署名している。

*欧州諸国の移民・難民受け入れに感謝

 教皇はまた、欧州諸国など移民や難民を積極的に受けれるているすべての国の人々に敬意を示され、このような慈善的な行為を「希望のしるし、利己主義と個人主義の克服に貢献するもの」と讃えられ、「世界中で起きており、しばしば見過ごされている紛争に、私たちも彼らと同じ思いやりと連帯をもって、対応することができますように」と祈られた。

 

*中東に平和を

 「エルサレムに平和を、そしてエルサレムを愛するすべての人々、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒に平和を」と教皇は祈られ、聖なる都に住むすべての人々が平和、友愛、尊敬、そしてすべての聖なるものに接する素晴らしさを体験できるように願われた。

 同様に、「レバノン、シリア、イラク、リビア、イエメンのすべての人々とコミュニティが互いに和解し、平和が根付くように」と祈られ、「この地域では、紛争が続く中で、人々は暴力、緊張、深刻な苦しみが終わることを強く望んでいます」と強調された。

*ミャンマー、アフガニスタン、そしてアフリカの国々

 また、教皇はミャンマーに和解と平和回復の賜物がもたらされるよう祈り、人道的危機が大きな苦しみを引き起こしているアフガニスタンのためにも祈られた。

 さらに、アフリカのサハラ砂漠周辺の乾燥したサヘル地域の国々でテロの頻発が人々の流出を引き起こしている問題も思い起こされ、特に深刻な危機的状況にあるエチオピアとコンゴ民主共和国で対話と和解の道が開かれるよう願われた。

 また、ここ数週間に起きた自然災害の犠牲者、特に南アフリカの洪水の犠牲者のために祈られた。新型コロウイルスの大感染や麻薬密売など犯罪行為の増加で社会情勢が悪化しているラテンアメリカの国々で苦しんでいる人々で苦労している人々を思い起こされ、カナダで深刻な問題になっているカトリック教会による過去の先住民虐待が明るみに出た問題について、復活されたキリストが関係者の和解の旅に同行されるように祈られた。

 

*キリストの平和によって打ち勝つ

 メッセージの最後に教皇は、戦争と様々な災害によって引き起こされた悲しみと苦しみの中にあっても、「罪と恐怖、死に打ち勝たれたイエス・キリストは、悪と暴力に屈服しないように私たちに勧めておられる」ことを、全ての人が知るように励まされ、「キリストの平和に私たちが引き込まれますように!平和は可能です。平和は義務です。平和は全ての人の、最も重い責任です」と強調された。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 以下、バチカン公式英語訳全文

URBI ET ORBI MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS EASTER 2022 Central loggia of the Vatican Basilica Easter, 17 April 2022

Dear brothers and sisters, Happy Easter!

  Jesus, the Crucified One, is risen! He stands in the midst of those who mourned him, locked behind closed doors and full of fear and anguish. He comes to them and says: “Peace be with you!” (Jn 20:19). He shows the wounds in his hands and feet, and the wound in his side. He is no ghost; it is truly Jesus, the same Jesus who died on the cross and was laid in the tomb. Before the incredulous eyes of the disciples, he repeats: “Peace be with you!” (v. 21).

Our eyes, too, are incredulous on this Easter of war. We have seen all too much blood, all too much violence. Our hearts, too, have been filled with fear and anguish, as so many of our brothers and sisters have had to lock themselves away in order to be safe from bombing. We struggle to believe that Jesus is truly risen, that he has truly triumphed over death. Could it be an illusion? A figment of our imagination?

No, it is not an illusion! Today, more than ever, we hear echoing the Easter proclamation so dear to the Christian East: “Christ is risen! He is truly risen!” Today, more than ever, we need him, at the end of a Lent that has seemed endless. We emerged from two years of pandemic, which took a heavy toll. It was time to come out of the tunnel together, hand in hand, pooling our strengths and resources… Instead, we are showing that we do not yet have within us the spirit of Jesus but the spirit of Cain, who saw Abel not as a brother, but as a rival, and thought about how to eliminate him. We need the crucified and risen Lord so that we can believe in the victory of love, and hope for reconciliation. Today, more than ever, we need him to stand in our midst and repeat to us: “Peace be with you!”

Only he can do it. Today, he alone has the right to speak to us of peace. Jesus alone, for he bears wounds… our wounds. His wounds are indeed ours, for two reasons. They are ours because we inflicted them upon him by our sins, by our hardness of heart, by our fratricidal hatred. They are also ours because he bore them for our sake; he did not cancel them from his glorified body; he chose to keep them forever. They are the indelible seal of his love for us, a perennial act of intercession, so that the heavenly Father, in seeing them, will have mercy upon us and upon the whole world. The wounds on the body of the risen Jesus are the sign of the battle he fought and won for us, won with the weapons of love, so that we might have peace and remain in peace.

As we contemplate those glorious wounds, our incredulous eyes open wide; our hardened hearts break open and we welcome the Easter message: “Peace be with you!”

Brothers and sisters, let us allow the peace of Christ to enter our lives, our homes, our countries!

May there be peace for war-torn Ukraine, so sorely tried by the violence and destruction of the cruel and senseless war into which it was dragged. In this terrible night of suffering and death, may a new dawn of hope soon appear! Let there be a decision for peace. May there be an end to the flexing of muscles while people are suffering. Please, please, let us not get used to war! Let us all commit ourselves to imploring peace, from our balconies and in our streets! Peace! May the leaders of nations hear people’s plea for peace. May they listen to that troubling question posed by scientists almost seventy years ago: “Shall we put an end to the human race, or shall mankind renounce war?” (Russell-Einstein Manifesto, 9 July 1955).

I hold in my heart all the many Ukrainian victims, the millions of refugees and internally displaced persons, the divided families, the elderly left to themselves, the lives broken and the cities razed to the ground. I see the faces of the orphaned children fleeing from the war. As we look at them, we cannot help but hear their cry of pain, along with that of all those other children who suffer throughout our world: those dying of hunger or lack of medical care, those who are victims of abuse and violence, and those denied the right to be born.

Amid the pain of the war, there are also encouraging signs, such as the open doors of all those families and communities that are welcoming migrants and refugees throughout Europe. May these numerous acts of charity become a blessing for our societies, at times debased by selfishness and individualism, and help to make them welcoming to all.

May the conflict in Europe also make us more concerned about other situations of conflict, suffering and sorrow, situations that affect all too many areas of our world, situations that we cannot overlook and do not want to forget.

May there be peace for the Middle East, racked by years of conflict and division. On this glorious day, let us ask for peace upon Jerusalem and peace upon all those who love her (cf. Ps 121 [122]), Christians, Jews and Muslims alike. May Israelis, Palestinians and all who dwell in the Holy City, together with the pilgrims, experience the beauty of peace, dwell in fraternity and enjoy free access to the Holy Places in mutual respect for the rights of each.

May there be peace and reconciliation for the peoples of Lebanon, Syria and Iraq, and in particular for all the Christian communities of the Middle East.

May there be peace also for Libya, so that it may find stability after years of tensions, and for Yemen, which suffers from a conflict forgotten by all, with continuous victims: may the truce signed in recent days restore hope to its people.

We ask the risen Lord for the gift of reconciliation for Myanmar, where a dramatic scenario of hatred and violence persists, and for Afghanistan, where dangerous social tensions are not easing and a tragic humanitarian crisis is bringing great suffering to its people.

May there be peace for the entire African continent, so that the exploitation it suffers and the hemorrhaging caused by terrorist attacks – particularly in the Sahel region – may cease, and that it may find concrete support in the fraternity of the peoples. May the path of dialogue and reconciliation be undertaken anew in Ethiopia, affected by a serious humanitarian crisis, and may there be an end to violence in the Democratic Republic of Congo. May prayer and solidarity not be lacking for the people in the eastern part of South Africa, struck by devastating floods.

May the risen Christ accompany and assist the people of Latin America, who in some cases have seen their social conditions worsen in these difficult times of pandemic, exacerbated as well by instances of crime, violence, corruption and drug trafficking.

Let us ask the risen Lord to accompany the journey of reconciliation that the Catholic Church in Canada is making with the indigenous peoples. May the Spirit of the risen Christ heal the wounds of the past and dispose hearts to seek truth and fraternity.

Dear brothers and sisters, every war brings in its wake consequences that affect the entire human family: from grief and mourning to the drama of refugees, and to the economic and food crisis, the signs of which we are already seeing. Faced with the continuing signs of war, as well as the many painful setbacks to life, Jesus Christ, the victor over sin, fear and death, exhorts us not to surrender to evil and violence. Brothers and sisters, may we be won over by the peace of Christ! Peace is possible; peace is a duty; peace is everyone’s primary responsibility!

 

2022年4月17日

☩復活徹夜祭ミサ説教「私たちが、イエスが蘇られたことを見、聴き、宣言できるように」

(2022.4.17 Vatican News  Thaddeus Jones)

   教皇フランシスコは16日夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂での復活徹夜ミサに参加され、説教の中で、ルカ福音書に登場する女性たちが「この世の暗闇の中に立ち昇る神の命を示す夜明けの最初の光」を垣間見るのをどのようにして手助けしているか、主が死から生に”過ぎ越される”のを見、聴き、そして宣言するように私たちに教えているか、について語られた。

 5500人の司祭、信徒が参加した復活徹夜ミサは、枢機卿団のジョバンニ・バティスタ・レ主席枢機卿が司式し、教皇は、イタリア、米国、アルバニア、キューバの各国出身の成人7人に洗礼を授けられた。教皇はここ数か月、膝の痛みに苦しんでおられ、今回は、負担となるミサの司式は控えられた。

Easter Vigil in St. Peter's Basilica

*私たちはウクライナの皆さんと共にある

 ミサには、ウクライナの国会や地方自治体の代表からなる代表団も出席、その中には現在亡命中のメリトーポリ市長、イヴァン・フェドロフ氏もおり、教皇は次のような言葉をかけられた。

 「市長さん、そして議員の方々、あなた方が生きておられる暗闇、戦争と残虐の深い暗闇の中で、今夜、私たちは皆、あなたがたと共に、あなた方のために祈っています。私たちはすべての苦しみのために祈っています。私たちはあなた方と共におり、祈り、あなた方にこう申し上げますー勇気を出して!私たちはあなた方と共に歩みます!そしてまた、今日、私たちが祝っている素晴らしいことをあなた方に告げますーChristòs voskrés!キリストは蘇られました!」

 着席して説教をされた教皇は、満天に星が輝く夜空の素晴らしさを讃えた多くの作家たちがいる一方で、戦争の夜は、死の前兆となる光の流れによって特徴づけられていることを、思い起こされた。

*女性たちは聴いた

 教皇は説教で、ミサで読まれたルカ福音書の主の復活の箇所(24章1節以降)を取り上げ、まずその中の、「輝く衣を着た二人の人」が、墓にイエスの遺体を見つけられずに当惑している女性たちの場面に注目された。二人は、なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、このにはおられない。復活なさったのだ」と2人は女性たちに告げる。

 教皇は「『あの方は、ここにはおられない』ー私たちがこの言葉を耳にし、繰り返すのはよいことです」と語られ、「私たちが神について全て理解したと思い、自分の考えや見方に収めてしまう、あるいは、自分が必要な時だけ神を求め、それ以外の日々の生活では神を忘れてしまう、あるいは、私たちの助けが必要な兄弟姉妹の中におられる主をおろそかにしてしまうとき」に私たちも思い起こすべき言葉だ、と指摘。

 そして、教皇は、「私たちは、過去の囚人となり、神から赦しを得、イエスとその愛を得ようとする勇気を欠いた、力のない考え方や振る舞い方から解放されねばならない。私たちを変え、私たちの世界を変えたいと強く願われている、生ける神に出会い、受けれる必要があります」と説かれた。

 「それでも主は蘇られます!墓の間を歩き回らず、生きている方である主を見つけるために走りましょう!私たちの兄弟姉妹の顔の中に、主を求めるのを恐れることがないように。希望と夢を抱く人々の物語の中に、私たちが苦ませている人々の痛みの中に、主を求めることを恐れてはなりません。神はそこにおられるのです!」Easter Vigil in St. Peter's Basilica

 

*女性たちが宣言した

 さらに、教皇は、輝く衣を着た二人に主の復活を告げられた女性たちが、悪と死に対する神の勝利というメッセージに心を開き、復活の喜びを宣言したことに注目。「この喜びは、ただの喜ばしい慰めであっただけでなく、『蘇られたキリストの福音の全てをもたらす』宣教の使徒たちを誕生させる励ましとなりました」とされ、「主の復活を見、聴いた後、女性たちは、たとえ人々が自分たちを気が狂ったと思ったり、自分たちの言うことを信じようとしなかったりしても、この良き知らせを伝えようとする意欲と興奮が勝ったのです」と語られた。

 

*当惑から喜びへ

 そして教皇は、墓にイエスがおられないことを知った「福音の女性たち」が経験した「希望に満ちた夜明けの光」を見るようにミサ参加者たちに勧められ、「その光は、今の私たちの世界の暗闇の中に昇る神の命の『夜明けの最初の光』を示しています」と説かれた。

 また、週の初めの朝早く、イエスの遺体に香油を塗ろうと墓に出かけた女性たちが、墓が空になっていることに当惑していると、輝く衣を着た二人がそばに立ち、「イエスが復活された」と告げたことを取り上げ、「彼女たちの『見て、聴いて、宣言した』という三つの経験は、死から生への主の過ぎ越しを思い起こす時に私たちもできるものです」と指摘された。

 

*女性たちは見た

 「復活の最初の知らせは、熟考すべきものです。予想を完全に覆し、素晴らしい、希望として伝えられたからです」とされた教皇は、「ただ『意表を突くような良き知らせ』に対して、多くの人は、心の中にそれを受け入れる場がない。そして、この福音書に書かれた、女性たちから良き知らせを聞いた弟子たちのように、私たちはまず、この知らせを疑い、恐れます」と注意された。

 また教皇は、「私たちは時として、意気消沈した目で自分の人生と現実を見続け、自分の未来を帳消しにし、物事は決して変えられず、良くもできない、と信じ込み、人生の喜びを埋め込んでしまうことさえあります」とされたうえで、それに対して、「今日、私たちが宣言する主の復活がもたらす希望は、人生を別の目で見、『恐れ、痛み、そして死が、私たちにとって決定的な言葉にはならない』ことを信じるように、との主の呼びかけなのです」と説かれた。

 そして、死は、私たちを恐れと悲しみで一杯にすることが出来るが、そうした時も、「主はよみがえられた!」ことを忘れてはならない、とされ、「視線を上げ、悲しみのベールと嘆きを瞳から取り除き、神がくださる希望に心を開きましょう!」と励まされた。

 

*福音の喜び

 教皇は続けて、福音の喜び、そして、すべてのキリスト教徒が復活したキリストを経験し、そのことがもたらす喜びを他の人たちを分かち合うように召されていることを、同じやり方、おなじ熱意をもって、教会が宣言できるように、と願われた。

 「イエスを、生ける方を、私たちが封印した墓から蘇らせましょう… 私たちの日々の暮らしに持ち込みましょうー戦争の恐怖が刻印された今現在の平和の表現を通して、関係が崩壊する中で和解をめざす行動、助けを求める人々に対する思いやりの行動、不平等の状況の中での正義の行動、そして嘘に満ちた中での真実の行動を通して。そして何よりも、愛と兄弟姉妹同志の思いやりの業を通して」。

*希望には「イエス」という名がある

 説教の最後に教皇は、イエスがどのようにして「私たちの罪の墓」に入られ、「私たちの重荷」を負われ、私たちを生き返らせてくださったか、を思い起こされ、次のように語られた。

 「キリストと共に、復活祭を祝いましょう!キリストは生きておられます!今日も、キリストは、私たちの中を歩き、私たちを変え、私たちを解放されます… 復活された主イエスと共にある私たちに、夜が永遠に続くことはありません。そして、最も暗い夜でも、明けの明星は輝き続けるのです」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年4月17日

☩「希望を失うな、真の希望は期待を裏切らない」教皇、伊国営テレビで訴え

Pope Francis speaks with Lorena BianchettiPope Francis speaks with Lorena Bianchetti 

*イエスが話しかけてくださるように

 教皇はこの番組で、記者の質問に答える形で、まず、聖金曜日、受難の主日の当たって信徒たちに、「十字架につけられたイエスが、あなたの心に触れてくださるように、沈黙と痛みの中で、あなたに話しかけてくださるようにしましょう」と勧められた。そのうえで、ウクライナでの戦争、新型コロナウイルスの世界的感染、さまざまな悲劇の中での信仰を保つこと、そして女性の不屈の精神持つ女性の活躍など、幅広く語られた。

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*戦争のただ中で、希望の涙を流そう

 まず、記者から、今回の復活祭に対する願いは何であるかを尋ねられた教皇は、「内面の喜びを見つけることの重要性」を指摘されたうえで、「あらゆる荒廃の中にあっても、私たちは希望を持ち、喜びの涙を経験せねばなりません… 私の願いは、希望、期待が裏切られることのない真の希望を、失わないことです」と答えられた。

 ウクライナ戦争のただ中で迎える今年の復活祭で、「涙-喜び、慰め、そして希望の涙ーを流すように」と信徒たちに求められ、「私は確信し、繰り返して言います。私たちは、もっと泣く必要がある、と。人類は泣く方法を忘れている。ペトロに泣き方を教えてもらいましょう」と勧められた。そして、「私が学んだことの1つは、人が苦しんでいるときに、話しかけないこと」とも語られた。

 教皇は世界中で起きている戦争の悲劇に言及され、「特に、ウクライナではこれまでに、470万人以上の人たち、特に母親と子供たちが国外脱出を余儀なくされているとされています」と指摘。避難民と移民が人種や外見などで分けられて扱われていること、人種差別がされていることを非難され、「主イエスがエジプトの移民であり、避難民であったこと」を思い起こされ、“嫌忌病”にかからないように注意された。

*悪魔と対話をしないように

 これと関連して、教皇は「悪魔は神話ではなく、現実。悪魔は私たちをあざむき、罪に陥れようとしている」と強調。「悪魔とは、対話しないように。悪魔には全く善がありません。でも、私たちは、害をなす人たちとは対話する必要があります。彼らには、全の種があるからです」とされた。

 戦争という”醜い怪物”についても触れられ、戦車を使わなくても、破壊力のある別の形の争いをもたらす「搾取」についても警告された。

*女性は強い

 女性問題に触れた教皇は、「女性たちは強い存在です」とされ、「母親は、子供たち二一生、連れ添うことが出来る… 女性たちは、命を準備することの意味、死の意味を知っています。 その言葉を語る… そして、警鐘を鳴らします」と指摘。マタイ福音書に登場する総督ピラトの妻を例に挙げ、「彼女は夫のピラトに、『あの正しい人に関わらないでください』とイエスに死刑判決を下さないように忠告しました。師か日、ピラトは彼女の言うことを聞かなかった」とされた。

*「孤独」について

 また、多くの種類の孤独についても話され、2020年3月27日にサンピエトロ広場で開いた新型コロナ終息を願う祈りの会を思い起こされて「(いつもは信徒で一杯になる)聖ペトロ広場が空になるとは、思いもよりませんでしたが、これは「『孤独』について深く理解するように」との主からのメッセージでした」と回想された。

 そして、ご自分が教皇職を務めていて孤独を感じたことがあるか、との問いには、「いいえ。神は私に良くしてくださいます。ご自身の存在を感じます。私のしていることに、とても寛大です。おそらく、私が一人ではできないことをご存じだからでしょう」と答えられた。

 

*教会に影響を与える傷

 教皇はまた、教会に影響を与えているいくつかの傷に言及し、特に「世俗化の時勢」を非難され、「これが、教会を大いに傷つけています。教会が世俗化の時勢に取り込まれる時、打ち負かされてしまいます」と警告された。

聖金曜日午後3時、教皇は黙祷された

 番組の終わりに、質問者が、時間がイエスが十字架上で息を引き取られた午後3時であることに気づき、「この時間を私たちはどのように過ごすべきでしょうか」と尋ねると、教皇は答えず、数秒の間、沈黙の中で祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年4月16日

☩「主は裁かれ、赦してくださる、私たちも倣おう」ローマ郊外の刑務所で聖木曜日・主の晩餐ミサ

(2022.4.14  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは聖木曜日の14日夕、ローマ北部の港湾都市チビタベッキアの新しい刑務所の聖堂で、「主の晩餐」のミサを奉げられ、受刑者をはじめ、看守、職員、それにイタリア政府から法相が参加した。

 教皇は説教で、ミサの中で行われる洗足式について、この式のもとになっている「イエスが自分を裏切る卑怯者の足を洗った」と記した福音書の箇所は、「世間一般の人々にとって、おかしなことだ、と思われたかも知れません。奴隷の仕事だからです」とされたうえで、イエスは、このような、なさり方を通して、「互いの足を洗い合わねばならない…見返りを期待せず、互いに仕え合うように、と私たちに教えてくださるのです。日々、全ての人に対して、このようなことが出来たなら、何と素晴らしいことでしょう」と語られた。

Pope Francis in the chapel of the Civitavecchia prison

 さらに、「イエスは、ご自分を裏切った者に対しても『友よ』と呼びかけ、最後まで戻ってくるのを待ち、すべてを赦されます… 神は全てを赦されます、いつも赦されます。それなのに、赦しを求めるのに疲れてしまうのは私たちの方です」、そして「私たちは皆、長い間、心の中に何かを持ち、イエスに赦しを願います」と語られた。

 また、教皇は「主は裁きを下されますが、それはおかしな裁きのように見えるかもしれませんー主は裁かれ、赦してくださるのです… ですから、互いに仕え合い、赦し合おうとする熱意をもって、主に倣うように」と参加者たちに説かれた。

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 説教の後で洗足式に臨まれた教皇は、奉仕と謙遜を込めた愛のしるしとして、弟子たちの足を洗われたイエスに倣って、さまざまな年齢、国籍の男女受刑者12人の足を洗われた。

 ミサ後に、刑務所長は教皇に感謝を述べ、チビタベッキアの古代の港の版画、受刑者が畑で収穫した野菜、職員と受刑者が製作した作品を贈った。この後、教皇は別室に案内され、受刑者、職員などの代表者50人と挨拶を交わされ、バチカンの宿舎にお戻りになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年4月15日

☩「イエスに瞳を凝らし、隠れた偶像を捨てねばならない」聖木曜日・聖香油ミサで、司祭たちに

(2022.4.14 Vatican News Christopher Wells

 教皇フランシスコは14日、聖木曜日の朝、聖香油のミサを奉げられ、説教で、司祭たちに「神と民とによりよく奉仕ができるように、イエスに瞳を凝らす恵みを育むようにの朝の聖油ミサでの彼の敬意を表して、教皇フランシスコは司祭たちに、「彼らが神と彼らの民により良い奉仕をすることができるために、イエスを見つめる恵みを育む」ように勧められた。

 教皇は「司祭であることは非常に大きな恵みです」とされ、その恵みは司祭自身にとってというよりも、キリスト教の信徒にとっての恵みであることを、司祭たちに思い起こさせられた。

 そして、「私たちの民は、確固たる良心を持った司祭によって奉仕されるに値し、奉仕される必要がある」とされ、ミサに参加した聖職者たちに、神に愛され、赦されるようにすることで、主に忠実であるよう促された。

 教皇は、ミサ中に読まれたルカ福音書の箇所を取り上げ、イエスがご自分の育ったナザレに行き、会堂で預言者イザヤの朗読を終えると、「皆の目がイエスに注がれた」(4章20節)ことに注目され、「時の終わりにイエスが再び来られるとき、すべての目が十字架上で亡くなり、復活した主に注がれ、私たちが主を認識し、崇敬するように導くでしょう。私たちは主を認め、自分自身の真の姿を認めるでしょう」と語られた。

 そして「今日においても、司祭たちは、キリストに目を凝らす恵みに感謝し、育むだけでなく、自分たちが出会う誘惑を神にお見せし、それを克服できるようにせねばなりません」と説かれた。

 また教皇は、司祭の召命をくじき、”邪悪な存在”に心を開かせる3つの「隠れた偶像」について警告された。

 その第一は、「霊的世俗性、一過性の文化、十字架を負わない勝利主義です。世俗的な司祭は、”聖職者の異教徒”に過ぎません」。第二は「統計に夢中になっている司祭に見られる”数の偶像”。人を単なる”数”として扱うことはできず、神の賜物はこの基準では測れません」。そして最後の偶像は「第二の偶像と関係があり、効果だけに関心を持ち、不可解なものに余地を残さない、一種の機能主義。機能主義の司祭は、自分が作ったプログラムの効率にだけ関心をもちます」と説明された。

 そして、教皇は、「キリストだけが、これらの偶像を司祭たちに明らかにすることができます。その代わりに、司祭たちは、自分の生活から偶像を追い出し、破壊していただくために、主にその偶像を見せねばならないのです」と説かれた。

 説教の最後に教皇は、聖ヨセフー慎み深い父親、隠れた偶像に囚われることのない方ーに、所有や支配に対する過度の願望から司祭たちを解放し、偶像を識別する仕事をやり抜く恵みを得られるよう、助けを願われた。「このようにして、高潔な心をもち、私たちが法律で学んだことを慈善に従わせることができますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年4月14日

☩”戦争”は非道極まりない行為、神への冒涜」水曜恒例の一般謁見で糾弾

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience 

(2022.4.13 Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコは13日の水曜恒例の一般謁見で、ロシアによって今も繰り返されているウクライナの人々に対する武力攻撃について、「神を激怒させる行為であり、『権力と暴力』にものを言わせる世俗的な論理だ」と強く非難するとともに、真の平和は、イエスは(父なる主への)従順と十字架を通してもたらされる、と強調された。

*暴力と干渉がもたらすのは”偽りの平和”

 教皇は、一般謁見での説教を、聖週間の始まりーイエスのエルサレム入城を記念する枝の主日の群衆の期待を喜びを思い起こすところから始められた。

 イエスを喜び称える群衆は、彼を強力な”解放者”と受け止め、社会正義が通用する時代を開始することで、自分たちに平和をもたらしてくれる、と期待した。

 教皇は、「しかし、イエスは彼らの期待に応えず、子ろばに乗ってエルサレムに入られます。誰も乗ったことのない、縄でつながれた子ろばに象徴される、従順さ、穏やかさをもって、平和をもたらされるのです」とされ、「神のなさり方は、世界の対応の仕方とは異なります。イエスは、平和をもたらすための暴力と干渉という世俗的な手段に訴えることはなさらない。それは戦争と戦争の間の、偽りの平和になってしまうでしょう」と言明。

*キリストに倣う私たちは従順と十字架の道をとる

 イエスは、私たちの悪、罪、そして死をご自分で負われたので、「主の平和を願う私たちは、従順と十字架の道に従います。それは他の人に責任を負います」。

 この点を説明するために、教皇は、 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でイワン・カラマーゾフが語る物語詩『大審問官』にある「地上に戻られたイエスを投獄した大審問官」の話を取り上げ、「この大審問官は『世俗的な論理』を象徴し、その論理を受け入れないキリストを非難しています… これが、世界の歴史の中で繰り返されている欺瞞です」と批判。そして、「”力による偽りの平和”の誘惑は、神を嫌悪し、裏切ることにつながります」と警告された。

 

*過越の祭りの冒涜的な裏切り

 「イエスがもたらす平和は、他者を打ち負かそうとしない。”武装による平和”ではありません。”福音の武器”は、祈り、優しさ、赦し、そして隣人への惜しみない愛。神の平和が世界にもたらされるやり方です」と言明。

 これに対して、「戦争はー今、世界中で起きている争いだけでなく、すべての戦争ーは、神に対する非道極まりない行為、過越の主を冒涜する裏切り。イエスの(主なる父に)従順な顔の代わりに、この世の偽りの神の顔を選ぶ行為です… 戦争は常に、力への狂信的崇拝をもたらす人間の行為です」と強く批判された。

 

*キリストに平和を願う

 また、教皇は、「イエスは、ご自分にとって最後の過越祭の前に、弟子たちに『心を騒がせるな。おびえるな』(ヨハネ福音書14章27節)と言われました。世俗的な力は死と破壊を、結果として残しますが、キリストの平和は、私たちを受け入れるすべての人の心から始まり、歴史を築き上げるのです」と信徒たちを励まされ、間もなく迎える復活祭を「キリストが十字架上でご自身を捧げることで得られた平和を、私たちに分けてくださる、神と人類の真の宴」として待ち望むよう促された。

 説教の最後に、教皇は、イタリア語の復活祭「Pasqua」は「移行」を意味することを指摘され、「今年の復活祭は、『世俗的な神』から『キリスト教の神』に、『私たちが内に抱く貪欲』から『私たちを解放する慈愛』に、『力でもたらされる平和への期待』から、『イエスの平和の真の証人となる約束』に移行する、喜ばしい祭典になります」と語られ、「私たちの平和の源である十字架につけられた方の前に身を置き、心の平和と世界の平和を願い求めましょう」と信徒たちに呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年4月13日

☩「ウクライナに”イースター休戦”を」教皇が提唱ー受難の主日正午の祈りで

Destruction caused by war in UkraineDestruction caused by war in Ukraine  (AFP or licensors)

(2022.4.10 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

    教皇フランシスコは10日、受難の主日の正午の祈りに先立って、ロシアの軍事侵略で多数の人が虐殺され、荒廃したウクライナでの戦闘の即時停止と和平に向けた交渉を強く訴えられ、「武器を置こう!イースターの休戦を始めよう」と関係国の指導者たちに呼びかけられた。

 教皇は、「私たちが正午の祈りで祝福された聖母に目を向けるとき、主の天使が受胎告知の際に、マリアにどのように言ったかを思い起こす必要があります」とされ、その言葉のように、「神にとって、不可能なことは何もありません」と強調。

 さらに、「主は、終わりが見えない戦争、無防備な民間人に対して犯された凶悪な虐殺と残虐な行為を、私たちに日々苦しみを与える戦争に終止符を打つことさえできるです」とされ、この日に始まった聖週間に、それが実現するように祈るよう、信徒たちに求められた。

 そして、聖週間は、罪と死に対する主イエス・キリストの勝利を祝う準備の期間であること、「その勝利は、誰かに対するもの、自分以外の誰かに対するものではない」ことも指摘された。そして、「今起こされている戦争で、なぜ、世俗的なやり方で、勝とうとするでしょうか。それは、敗北のための唯一の方法なのです。どうして、主に勝たせようとしないのでしょうか?キリストは、私たちを悪の支配から解放するために、十字架を負われました。キリストが十字架上で亡くなられたのは、それは命、愛、そして平和がこの世に君臨するためなのです」とされ、「武器を置きましょう!イースター休戦を始めましょう」と訴えられた。

 また、戦闘の停止は、「より多くの武器を準備し、戦闘を再開するためのものではない」と念を押され、必要なのは「真の交渉を通じて平和につながる停戦であり、国民の利益のためにいくらかの犠牲を払うことさえ厭わないもの」と強調。

 「実際、瓦礫の山に旗を立てることで、どのような勝利がえられるのか?」と問いかけられ、「神にとって不可能なことは何もありません。私たちは聖母マリアの執り成しを通して、そのことを神に委ねます」と述べた。

 また、教皇は、「社会的緊張の困難な状況」にあるペルーの人々についても言及され、「私はあなたがたのために祈ります。すべての当事者が国々の利益、特に最貧国の利益のために、すべての人と機関の権利を尊重し、可能な限り速やかに平和的な解決策を見つけることを求めます」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年4月10日

☩教皇フランシスコの受難の主日ミサ説教「戦争の愚行、キリストは再び十字架につけられる」

2022.04.10 Pope Francis on Palm Sunday2022.04.10 Pope Francis on Palm Sunday 

(2022.4.10 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは10日、バチカンの聖ペトロ広場で「主の受難の主日・枝の主日」のミサを奉げられ、主の復活に向けたこの旅を、神の赦しと共に歩むよう、信徒たちに促された。そして、「キリストは、私たちの暴力と苦悶に満ちた世界を目にする時、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』と繰り返すのを、決してあきらめられません」と語られた。

 ミサ中の説教で教皇は、「イエスと共にあって、それは遅すぎるということは絶対にない。イエスと共にあって、物事は決して終わることがないのです」とされ、「私たちが、どのように悲惨な状況に置かれていても、再び始めることが遅すぎることは決してありません。なぜなら、主が慈しみをもって待っていてくださるからです」と強調された。

*「父よ、彼らをお赦しください」

 教皇は、イエスがゴルゴダで十字架に掛けれたルカ福音書の場面を思い起こされ、「イエスの『彼らをお赦しください』と父に願われる言葉は、『自分と我々を救ってみろ』と繰り返した議員たちや兵士たちの言葉と対照的です」とされたうえで、後者の自己救済的な呼びかけは、神のお考えに全く反したものであり、「ご自分自身を捧げるイエスの言葉とぶつかり合います」と指摘。

 「主はご自身を擁護されたり、正当化されたりなさいませんでした。それどころか、肉体的な激しい苦痛の中で、彼らを赦してくれるように父に祈り、共にはりつけにされた正直な犯罪人に慈しみを示されました… 私たちがそのような状況に置かれたら、大声で叫び、あらゆる怒りと苦しみを吐き出すでしょう。だが、イエスは言われたのです-『父よ、彼らをお赦しください』」と語られた。

 さらに、「イエスは、ご自分を張り付けにして処刑する人を叱責したり、神の名において罰を与えると脅したりせず、逆に、悪を行なう人たちのために祈られました。私たちにも、神は同じことをなさいます。私たちが自分の振る舞いで苦しみを引き起こすとき、神は苦しまれますが、それでも私たちを赦そうとなさるのです」と強調。

 そして教皇は、信徒たちに、「私たちは十字架上のイエスに目を向けましょう。私たちがこれほど穏やかで思いやりのある視線で見られたこと、これほど深い愛をもって抱きしめられたことがなかったことを、知るでしょう」とされ、十字架にはりつけにされた主をあおあぎ、「ありがとう、イエス様。あなたは私を愛してくださいます。私が自分自身を愛し、他の人を赦すことが難しい時でさえも、いつも私を赦してくださいます」と語り掛けるように勧められた。

*イエスは悪の連鎖を断ち切るよう願われる

 また教皇は、「私たち自身の生活の中で、自分を傷つけたり、怒らせたり、失望させたりする人、自分を理解していない人、悪い模範を示した人について考えてみましょう… 私たちを不当に扱った人々を振り返る時が来ました!」とされたうえで、「イエスは私たちに、その段階に留まるのではなく、悪と悲しみの連鎖を断ち切るように教えてくださいます」と説かれた。

 そして「主は、私たちを善と悪、友と敵に区別されません。主にとって、私たち皆が、ご自分の愛する子供たちであり、抱きしめ、赦すことを望んでおられる子供たちなのです」とされ、イエスは十字架に釘付けにされ時、ご自分を十字架につけた人々を赦すとは言われませんでしが、十字架上で亡くなるまで、その唇と心で、ずっと赦しを父に願われた、と語られた。

 「神は決して、私たちに寛容であることをおやめになりません。私たちのように、しばらく我慢してから、考えを変えるようなことはなさいません… ですから私たちも、神の赦しを宣べ伝えることを止めないように。「私たちは神の赦しを宣言することに飽きることはありません。私たちは司祭としてその赦しを執り行い、すべてのキリスト教徒はその赦しを受け、証しするのです」と説かれた。

*戦争という愚行でキリストは再び十字架につけられた

 キリストを十字架につけた人々は、彼を殺害を計画し、逮捕と裁判を準備した。そして、彼らは彼の死を見届けるためにゴルゴダの丘に集まった。にもかかわらず、イエスは、「自分が何をしているのか分からないのです」と父にとりなし、彼らを赦そうとされる。「このようなイエスのなさり方は、私たちに対してどのように振る舞われるかを示しています。イエスはご自分を私たちの弁護者にされます。私たちに、ではなく、私たちの罪に、ご自分を向けられます」と教皇は指摘。

 だが、私たちが暴力に訴えるとき、「私たちは、父である神について、あるいは私たちの兄弟姉妹である他の人々について、何も考えない。そして無意味な残虐行為を犯すことさえあります」とし、「これを、私たちは戦争という愚行の中に見ます。そして、キリストが再び十字架につけられるのです」と述べられた。

*「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」

 そして、現在続いているロシアによるウクライナ軍事侵略を思い起こされ、「キリストは、夫や息子の不当な死を悼む母親たちの中で、もう一度十字架に釘付けにされています。子供を腕に抱えて爆弾から逃げる避難民の姿で十字架につけられています。死ぬまで放っておかれた高齢者の姿で十字架につけられます。未来を奪われた若者たち。彼らの兄弟姉妹を殺すために送られた兵士の中で、十字架につけられるのです」と嘆かれた。

 その一方で教皇は、イエスと共にはりつけにされた犯罪人の1人が「イエスよ、あなたが御国へ行かれる時には、私を思い出してください」と願ったが、彼は犯罪者という「過去」と決別し、新しい歩みを始めるように、との招きに応えた唯一の人物だった、と指摘され、「善良な泥棒は、人生が終わりに近づいた時、神を受け入れました。そして、彼の人生は新たに始まったのです」と語られ、 「この世の地獄で、彼は天国が開かれるのを見ました。 『あなたは今日、私と一緒に楽園にいる』とイエスは約束されました。これは神の赦しの驚異。死刑を宣告された男の最後の願いが、歴史上の最初の列聖となったのです」と述べられた。

*神と共に、遅すぎることは決してない

 最後に教皇は、「聖週間の間に、神がすべての罪を赦し、すべての離れた場所に橋をかけ、すべての悲嘆を喜びの踊りに変えられる、という確信をしっかり持ちましょう。イエスには常にすべての人のための場所があるという確信をもちましょう。物事は決して終わりません。主にとって、遅すぎるということは、決して、ないのです」と語られ、「神と共に、私たちはいつでも生き返ることができます。勇気を出しましょう!」と呼びかけられた。

 そして、キリストが父の前で私たちのために絶えず取りなしてくださるを確信し、その赦しをもって復活の主日へ旅するように信徒たちに勧められ、改めてこう言われた。「イエスは、私たちの暴力と苦悩に満ちた世界を見つめておられます。しかし、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』という言葉を繰り返すのをあきらめられることはありません」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年4月10日

☩「ウクライナ戦争で国連は無力、大国は”力の論理”に支配されている」

(2022.4.6 Vatican News staff reporter)

 教皇フランシスコは、週末の訪問先のマルタでの般謁見で「『支配の論理』は、自国の利益を通すための最も強力な国家戦略」と述べておられたが、6日、水曜恒例の一般謁見で、ロシアのによるウクライナ軍事侵略が続く中での「国連の無力」を非難。「第二次世界大戦後の永続的な平和確立の努力にもかかわらず、大国間の力の争いという”過去の話”がいまだに続いている」と批判された。

 教皇は、「現在続いているウクライナでの戦争で、私たちは、国連という国際機関の無力さを目の当たりにしています」と、先のマルタ共和国訪問で確認された「マルタが欧州とアフリカに挟まれた戦略的な場所にあり、世界中の人々が出会う場所になっている」ことを説明する中で語られた。

 そして、豊かな歴史と文明をもつマルタは、尊敬、自由、平和共存に関して私たちの世界を特徴づけるあり方を示しているが、「世界では、強力な植民地化の考え方が、今でも支配的になっている」と指摘。

 使徒言行録に記された、乗っていた船が難破し、マルタに上陸した使徒パウロが住民に「尋常でない優しさ」で歓迎された場面を思い起こされ、進むべき道を示す方法として「尋常でない優しさで」という言葉を選んだ、とされ、「このような振る舞いは、避難民に対してだけでなく、友好的で住みやすい世界を作り出す優しさにもつながっている。それが、”同じ船”に乗っている私たち全員が直面する”難破”の危険から私たちを救うのです」と強調された。

 

2022年4月6日