☩「イエスに瞳を凝らし、隠れた偶像を捨てねばならない」聖木曜日・聖香油ミサで、司祭たちに

(2022.4.14 Vatican News Christopher Wells

 教皇フランシスコは14日、聖木曜日の朝、聖香油のミサを奉げられ、説教で、司祭たちに「神と民とによりよく奉仕ができるように、イエスに瞳を凝らす恵みを育むようにの朝の聖油ミサでの彼の敬意を表して、教皇フランシスコは司祭たちに、「彼らが神と彼らの民により良い奉仕をすることができるために、イエスを見つめる恵みを育む」ように勧められた。

 教皇は「司祭であることは非常に大きな恵みです」とされ、その恵みは司祭自身にとってというよりも、キリスト教の信徒にとっての恵みであることを、司祭たちに思い起こさせられた。

 そして、「私たちの民は、確固たる良心を持った司祭によって奉仕されるに値し、奉仕される必要がある」とされ、ミサに参加した聖職者たちに、神に愛され、赦されるようにすることで、主に忠実であるよう促された。

 教皇は、ミサ中に読まれたルカ福音書の箇所を取り上げ、イエスがご自分の育ったナザレに行き、会堂で預言者イザヤの朗読を終えると、「皆の目がイエスに注がれた」(4章20節)ことに注目され、「時の終わりにイエスが再び来られるとき、すべての目が十字架上で亡くなり、復活した主に注がれ、私たちが主を認識し、崇敬するように導くでしょう。私たちは主を認め、自分自身の真の姿を認めるでしょう」と語られた。

 そして「今日においても、司祭たちは、キリストに目を凝らす恵みに感謝し、育むだけでなく、自分たちが出会う誘惑を神にお見せし、それを克服できるようにせねばなりません」と説かれた。

 また教皇は、司祭の召命をくじき、”邪悪な存在”に心を開かせる3つの「隠れた偶像」について警告された。

 その第一は、「霊的世俗性、一過性の文化、十字架を負わない勝利主義です。世俗的な司祭は、”聖職者の異教徒”に過ぎません」。第二は「統計に夢中になっている司祭に見られる”数の偶像”。人を単なる”数”として扱うことはできず、神の賜物はこの基準では測れません」。そして最後の偶像は「第二の偶像と関係があり、効果だけに関心を持ち、不可解なものに余地を残さない、一種の機能主義。機能主義の司祭は、自分が作ったプログラムの効率にだけ関心をもちます」と説明された。

 そして、教皇は、「キリストだけが、これらの偶像を司祭たちに明らかにすることができます。その代わりに、司祭たちは、自分の生活から偶像を追い出し、破壊していただくために、主にその偶像を見せねばならないのです」と説かれた。

 説教の最後に教皇は、聖ヨセフー慎み深い父親、隠れた偶像に囚われることのない方ーに、所有や支配に対する過度の願望から司祭たちを解放し、偶像を識別する仕事をやり抜く恵みを得られるよう、助けを願われた。「このようにして、高潔な心をもち、私たちが法律で学んだことを慈善に従わせることができますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年4月14日