☩”戦争”は非道極まりない行為、神への冒涜」水曜恒例の一般謁見で糾弾

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience 

(2022.4.13 Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコは13日の水曜恒例の一般謁見で、ロシアによって今も繰り返されているウクライナの人々に対する武力攻撃について、「神を激怒させる行為であり、『権力と暴力』にものを言わせる世俗的な論理だ」と強く非難するとともに、真の平和は、イエスは(父なる主への)従順と十字架を通してもたらされる、と強調された。

*暴力と干渉がもたらすのは”偽りの平和”

 教皇は、一般謁見での説教を、聖週間の始まりーイエスのエルサレム入城を記念する枝の主日の群衆の期待を喜びを思い起こすところから始められた。

 イエスを喜び称える群衆は、彼を強力な”解放者”と受け止め、社会正義が通用する時代を開始することで、自分たちに平和をもたらしてくれる、と期待した。

 教皇は、「しかし、イエスは彼らの期待に応えず、子ろばに乗ってエルサレムに入られます。誰も乗ったことのない、縄でつながれた子ろばに象徴される、従順さ、穏やかさをもって、平和をもたらされるのです」とされ、「神のなさり方は、世界の対応の仕方とは異なります。イエスは、平和をもたらすための暴力と干渉という世俗的な手段に訴えることはなさらない。それは戦争と戦争の間の、偽りの平和になってしまうでしょう」と言明。

*キリストに倣う私たちは従順と十字架の道をとる

 イエスは、私たちの悪、罪、そして死をご自分で負われたので、「主の平和を願う私たちは、従順と十字架の道に従います。それは他の人に責任を負います」。

 この点を説明するために、教皇は、 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でイワン・カラマーゾフが語る物語詩『大審問官』にある「地上に戻られたイエスを投獄した大審問官」の話を取り上げ、「この大審問官は『世俗的な論理』を象徴し、その論理を受け入れないキリストを非難しています… これが、世界の歴史の中で繰り返されている欺瞞です」と批判。そして、「”力による偽りの平和”の誘惑は、神を嫌悪し、裏切ることにつながります」と警告された。

 

*過越の祭りの冒涜的な裏切り

 「イエスがもたらす平和は、他者を打ち負かそうとしない。”武装による平和”ではありません。”福音の武器”は、祈り、優しさ、赦し、そして隣人への惜しみない愛。神の平和が世界にもたらされるやり方です」と言明。

 これに対して、「戦争はー今、世界中で起きている争いだけでなく、すべての戦争ーは、神に対する非道極まりない行為、過越の主を冒涜する裏切り。イエスの(主なる父に)従順な顔の代わりに、この世の偽りの神の顔を選ぶ行為です… 戦争は常に、力への狂信的崇拝をもたらす人間の行為です」と強く批判された。

 

*キリストに平和を願う

 また、教皇は、「イエスは、ご自分にとって最後の過越祭の前に、弟子たちに『心を騒がせるな。おびえるな』(ヨハネ福音書14章27節)と言われました。世俗的な力は死と破壊を、結果として残しますが、キリストの平和は、私たちを受け入れるすべての人の心から始まり、歴史を築き上げるのです」と信徒たちを励まされ、間もなく迎える復活祭を「キリストが十字架上でご自身を捧げることで得られた平和を、私たちに分けてくださる、神と人類の真の宴」として待ち望むよう促された。

 説教の最後に、教皇は、イタリア語の復活祭「Pasqua」は「移行」を意味することを指摘され、「今年の復活祭は、『世俗的な神』から『キリスト教の神』に、『私たちが内に抱く貪欲』から『私たちを解放する慈愛』に、『力でもたらされる平和への期待』から、『イエスの平和の真の証人となる約束』に移行する、喜ばしい祭典になります」と語られ、「私たちの平和の源である十字架につけられた方の前に身を置き、心の平和と世界の平和を願い求めましょう」と信徒たちに呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年4月13日