☩教皇フランシスコの受難の主日ミサ説教「戦争の愚行、キリストは再び十字架につけられる」

2022.04.10 Pope Francis on Palm Sunday2022.04.10 Pope Francis on Palm Sunday 

(2022.4.10 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは10日、バチカンの聖ペトロ広場で「主の受難の主日・枝の主日」のミサを奉げられ、主の復活に向けたこの旅を、神の赦しと共に歩むよう、信徒たちに促された。そして、「キリストは、私たちの暴力と苦悶に満ちた世界を目にする時、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』と繰り返すのを、決してあきらめられません」と語られた。

 ミサ中の説教で教皇は、「イエスと共にあって、それは遅すぎるということは絶対にない。イエスと共にあって、物事は決して終わることがないのです」とされ、「私たちが、どのように悲惨な状況に置かれていても、再び始めることが遅すぎることは決してありません。なぜなら、主が慈しみをもって待っていてくださるからです」と強調された。

*「父よ、彼らをお赦しください」

 教皇は、イエスがゴルゴダで十字架に掛けれたルカ福音書の場面を思い起こされ、「イエスの『彼らをお赦しください』と父に願われる言葉は、『自分と我々を救ってみろ』と繰り返した議員たちや兵士たちの言葉と対照的です」とされたうえで、後者の自己救済的な呼びかけは、神のお考えに全く反したものであり、「ご自分自身を捧げるイエスの言葉とぶつかり合います」と指摘。

 「主はご自身を擁護されたり、正当化されたりなさいませんでした。それどころか、肉体的な激しい苦痛の中で、彼らを赦してくれるように父に祈り、共にはりつけにされた正直な犯罪人に慈しみを示されました… 私たちがそのような状況に置かれたら、大声で叫び、あらゆる怒りと苦しみを吐き出すでしょう。だが、イエスは言われたのです-『父よ、彼らをお赦しください』」と語られた。

 さらに、「イエスは、ご自分を張り付けにして処刑する人を叱責したり、神の名において罰を与えると脅したりせず、逆に、悪を行なう人たちのために祈られました。私たちにも、神は同じことをなさいます。私たちが自分の振る舞いで苦しみを引き起こすとき、神は苦しまれますが、それでも私たちを赦そうとなさるのです」と強調。

 そして教皇は、信徒たちに、「私たちは十字架上のイエスに目を向けましょう。私たちがこれほど穏やかで思いやりのある視線で見られたこと、これほど深い愛をもって抱きしめられたことがなかったことを、知るでしょう」とされ、十字架にはりつけにされた主をあおあぎ、「ありがとう、イエス様。あなたは私を愛してくださいます。私が自分自身を愛し、他の人を赦すことが難しい時でさえも、いつも私を赦してくださいます」と語り掛けるように勧められた。

*イエスは悪の連鎖を断ち切るよう願われる

 また教皇は、「私たち自身の生活の中で、自分を傷つけたり、怒らせたり、失望させたりする人、自分を理解していない人、悪い模範を示した人について考えてみましょう… 私たちを不当に扱った人々を振り返る時が来ました!」とされたうえで、「イエスは私たちに、その段階に留まるのではなく、悪と悲しみの連鎖を断ち切るように教えてくださいます」と説かれた。

 そして「主は、私たちを善と悪、友と敵に区別されません。主にとって、私たち皆が、ご自分の愛する子供たちであり、抱きしめ、赦すことを望んでおられる子供たちなのです」とされ、イエスは十字架に釘付けにされ時、ご自分を十字架につけた人々を赦すとは言われませんでしが、十字架上で亡くなるまで、その唇と心で、ずっと赦しを父に願われた、と語られた。

 「神は決して、私たちに寛容であることをおやめになりません。私たちのように、しばらく我慢してから、考えを変えるようなことはなさいません… ですから私たちも、神の赦しを宣べ伝えることを止めないように。「私たちは神の赦しを宣言することに飽きることはありません。私たちは司祭としてその赦しを執り行い、すべてのキリスト教徒はその赦しを受け、証しするのです」と説かれた。

*戦争という愚行でキリストは再び十字架につけられた

 キリストを十字架につけた人々は、彼を殺害を計画し、逮捕と裁判を準備した。そして、彼らは彼の死を見届けるためにゴルゴダの丘に集まった。にもかかわらず、イエスは、「自分が何をしているのか分からないのです」と父にとりなし、彼らを赦そうとされる。「このようなイエスのなさり方は、私たちに対してどのように振る舞われるかを示しています。イエスはご自分を私たちの弁護者にされます。私たちに、ではなく、私たちの罪に、ご自分を向けられます」と教皇は指摘。

 だが、私たちが暴力に訴えるとき、「私たちは、父である神について、あるいは私たちの兄弟姉妹である他の人々について、何も考えない。そして無意味な残虐行為を犯すことさえあります」とし、「これを、私たちは戦争という愚行の中に見ます。そして、キリストが再び十字架につけられるのです」と述べられた。

*「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」

 そして、現在続いているロシアによるウクライナ軍事侵略を思い起こされ、「キリストは、夫や息子の不当な死を悼む母親たちの中で、もう一度十字架に釘付けにされています。子供を腕に抱えて爆弾から逃げる避難民の姿で十字架につけられています。死ぬまで放っておかれた高齢者の姿で十字架につけられます。未来を奪われた若者たち。彼らの兄弟姉妹を殺すために送られた兵士の中で、十字架につけられるのです」と嘆かれた。

 その一方で教皇は、イエスと共にはりつけにされた犯罪人の1人が「イエスよ、あなたが御国へ行かれる時には、私を思い出してください」と願ったが、彼は犯罪者という「過去」と決別し、新しい歩みを始めるように、との招きに応えた唯一の人物だった、と指摘され、「善良な泥棒は、人生が終わりに近づいた時、神を受け入れました。そして、彼の人生は新たに始まったのです」と語られ、 「この世の地獄で、彼は天国が開かれるのを見ました。 『あなたは今日、私と一緒に楽園にいる』とイエスは約束されました。これは神の赦しの驚異。死刑を宣告された男の最後の願いが、歴史上の最初の列聖となったのです」と述べられた。

*神と共に、遅すぎることは決してない

 最後に教皇は、「聖週間の間に、神がすべての罪を赦し、すべての離れた場所に橋をかけ、すべての悲嘆を喜びの踊りに変えられる、という確信をしっかり持ちましょう。イエスには常にすべての人のための場所があるという確信をもちましょう。物事は決して終わりません。主にとって、遅すぎるということは、決して、ないのです」と語られ、「神と共に、私たちはいつでも生き返ることができます。勇気を出しましょう!」と呼びかけられた。

 そして、キリストが父の前で私たちのために絶えず取りなしてくださるを確信し、その赦しをもって復活の主日へ旅するように信徒たちに勧められ、改めてこう言われた。「イエスは、私たちの暴力と苦悩に満ちた世界を見つめておられます。しかし、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』という言葉を繰り返すのをあきらめられることはありません」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年4月10日