・「聖霊は、騒々しい常に動きのある教会共同体を生み出し、すべての人を等しく一致へと導く」菊地大司教の聖霊降臨の主日

2024年5月18日 (土) 週刊大司教第167回:聖霊降臨の主日B

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  19日は聖霊降臨の主日です。この日は、聖母マリアと共にいた弟子たちに聖霊が降り、様々な国のことばで福音がのべ伝えられるようになった、と使徒言行録に記されていることから、「教会の誕生日」とも言われます。

 東京教区では、午後からカテドラルで、合同堅信式が行われます。堅信の準備をされてきた皆さん、おめでとうございます。聖霊の豊かな照らしを受けて、成熟した大人の信徒として、共同体においてそれぞれの務めを果たして行かれますように。また主から与えられた、福音宣教の務めを、忠実に果たすものでありますように。

以下、18日午後6時配信、週刊大司教第167回め、聖霊降臨の主日のメッセージ原稿です。

【聖霊降臨の主日B 2021年5月19日】

 使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事の特徴は、いったい何でしょうか。

 まず、聖霊は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ところで働いています。すなわち、聖霊は単独で一人ひとりに他者と無関係に働くのではなく、共同体が一致しているところに働いています。そして、その時には、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた」と記されています。激しい音は周囲にも響き渡り、「この物音に大勢の人が集まってきた」とも記されています。すなわち、聖霊が働いているところには静寂が支配しているのではなく、騒々しさが支配しています。

 第二バチカン公会議の教会憲章は、教会に聖霊が与えられたことによって、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み… 福音の力を持って教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く(4項)」と記します。

 重要なのは、聖霊によって生かされ、常に刷新されている教会は、聖霊が働いているのですから、決して落ち着いた静かな教会ではあり得ません。騒々しい、落ち着かない教会です。一人でそんな所に取り残されたのなら、耐えきれないかも知れません。だからこそ、聖霊は、皆が一致して集っている共同体に働くのです。互いに支え合い、助け合い、共に歩む兄弟姉妹がいるところに働くのです。聖霊は教会共同体に、多様性における一致をもたらします。

 現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11項)」と記します。

 すなわち、教会は「社会の現実から切り離された隠れ家」となるのではなく、積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極めるために出向いて行く存在です。出向いて行き、様々な困難な現実と対峙し、そこに神の秩序をもたらそうとするからこそ、常に落ち着かない騒々しさがあるのです。何もせず、平穏無事が支配する静的な共同体は、一見、何も問題がなく、好ましく思われますが、もしかしたら、そこには聖霊が働いていないので、静けさが支配しているのかも知れません。聖霊の働きと照らしを祈ることは大切です。

 昨年10月に開かれた世界代表司教会議(シノドス)総会の第一会期の最終文書は、次のような文章で始まっています。

「一つの霊によって、私たちは、……皆一つの体となるために洗礼を受け(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ました。これが… 私たちが味わった喜びと感謝に満ちた体験です。背景、言語、文化の多様性にもかかわらず、洗礼という共通の恵みによって、私たちは、心を一つにしてこの日々を共に過ごすことができました… 聖霊が私たちに与えてくれたのは、聖霊だけが生み出す方法を知る調和を体験することであり、それは引き裂かれ、分裂した世界における賜物であり、証しです」

 シノドスは、霊における会話を通じて互いに耳を傾けることで、妥協による一致ではなく、互いの違いを認識しての一致へと道を歩むように求めます。教会に働く聖霊は、一部のカリスマのある人にだけ働いているのではなく、皆に違う形で働き、騒々しい常に動きのある共同体を生み出し、同時に共同体のすべての人を等しく一致へと導きます。

 私たちの教会共同体は、どのような共同体でしょうか。

2024年5月18日

・東京と福岡の二つの神学院が統合、日本カトリック神学院として再出発ー菊地大司教の「週間大司教」

2024年5月11日 (土)週刊大司教第166回:主の昇天の主日B

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 復活祭も終わりに近づき、まもなく聖霊降臨を迎える季節となりました。5月12日は、主の昇天の主日です。本来は木曜日ですが、日本を始め多くの国では主日に移されて祝われています。

 イタリアでもいくつかの週日に設定されている教会の祭日や祝日が日曜日に移されることがありますが、バチカン市内では元通りに週日に行われます。そのため、すぐ隣接しているにもかかわらず、バチカン市国領域とローマ市内の教会で、祭日を祝う日が異なったりすることもあります。

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 さて今年の4月1日から、東京にある、東京教会管区と大阪高松教会管区が運営してきた神学院と、福岡でサン・スルピス会に委託して長崎教会管区が運営してきた神学院の二つが、福音宣教省の認可を受けて、「あらためて」統合され、日本カトリック神学院として再出発することになりました。

 以前も一度一緒になったことがありますが、そのときは、東京キャンパスと福岡キャンパスを設ける形で、神学生や養成者、そして教員も、東京と福岡を何度も移動することになり、関係者にとっての大きな負担となり、結局、元の二つに戻ってしまっていました。

 今回改めて、長崎教会管区(九州と沖縄)の司教様たちが話し合い、現実的な視点から神学院統合を決断されましたので、このたび一つになり、名称も、東京カトリック神学院から日本カトリック神学院へ変更しました。

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 運営の母体は、日本のすべての司教ですので、今回、初めて、神学院に日本のすべての司教17名が集まり、開講感謝ミサをともに捧げ、一晩泊まって神学生と交流し、そして今朝は午前中、神学院の運営について話し合う神学院司教会議を開催しました。

 昨日夕方に行われたミサは、前田枢機卿様が司式され、冒頭で私が司教協議会会長として、福音宣教省の統合の認可宣言を読み上げ、説教は神学院司教委員会の委員長である大塚司教様が担当されました。

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 新しく全国からの神学生を迎えて出発する神学院です。そこには明るい一致の雰囲気がみなぎっていました。この霊的な明るさを証しとして、一人でも多くの神学生の召命につながることを祈っています。

 以下、11日午後6時配信、週刊大司教第166回目、主の昇天のメッセージ原稿です。

【主の昇天の主日B 2024年5月12日】

 頼りにしていたリーダーを突然暴力的に奪われ、絶望に支配されていた弟子たちにとって、復活された主との再会は、新たな希望を生み出しました。使徒言行録は、使徒たちに芽生えたその希望を、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけで明らかにしています。

 復活されたイエスは、弟子たちの、いわば現世的な望みに答えるのではなく、復活の命に生かされ希望に生きるものへ、新たな道を指し示します。

 マルコ福音は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活された主による宣教命令を記しています。同様に主の昇天の模様を詳しく伝える使徒言行録も、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主の弟子たちに対する言葉を記し、昇天された主が、宣教命令を残されたことを明示しています。

 新たな命によって生かされる希望の道は、福音を世界の隅々にまで伝える道です。自らが想像された愛すべき命が、すべからく救いに与ることを望まれる御父は、主の復活に与るわたしたちがそのために働くことを望んでおられます。この世界にあって、キリスト者であるわたしたちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令は、すなわちわたしたちひとり一人に与えられた使命です。

 第二バチカン公会議の「教会の宣教活動に関する教令」は「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記し、さらに「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いをいやしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)と、福音をあかしすることの意味を教えています。

 パウロは教会がキリストの一つの体において一致していることの重要性をエフェソの教会への手紙に記し、「わたしたちひとり一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と、その霊的な一致は賜物の多様性のうちにあることを明示しています。

 教会憲章の第32項に、「聖なる教会は、神の制定によって、みごとな多様性をもって組織され統治されている。・・・教会の中では、すべての人が同じ道を進んでいるわけではないが、しかしすべての人が聖性に招かれ、神の義によって、信仰を同等に分け与えられているのである。・・・こうして、多様性の中にあって、すべての人がキリストのからだにおける優れた一致について証しを立てる」と記されています。

 私が20年ほど前に、初めて新潟の司教の任命を教皇様からいただいたとき選んだ司教職のモットーは、ここからとられています。私は「多様性における一致」を、この20年間、司教職のモットーとしてきました。

 今、教会はシノドスの道を歩んでいますが、まさしく今ほど「多様性における一致」が重要な時はありません。聖霊の導きに耳を塞いだままでいるのか、聖霊の導きに身を任せようとするのか、それぞれの決断が、福音の証し人となるために必要です。

(編集「カトリック・あい」)

2024年5月11日

・「人間らしいコミュニケーションを」-5月5日「世界広報の日」に菊地大司教

2024年5月 4日 (土) 週刊大司教第165回:復活節第六主日B

 連休中ですが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。私はいつものように執務室で、原稿を書いております。休みのうちに書いておかないと、締め切りや行事に間に合わないものですから、休日で誰もいない教区本部の執務室は、書き物をするのに最適な空間です。

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 先日、駐日ガーナ大使であるジェネヴィーブ・エドナ・アパロ大使(写真右)が、教区本部を訪れてくださいました。大使はカトリック信徒でもあり、様々な分野に話は及びましたが、本題は、私が今年の8月にガーナの神言会から司祭叙階式の司式を依頼されており、8月10日前後に一週間ほどガーナを訪問する予定となっていますので、その訪問についての話でした。8月10日に叙階する新司祭の中に、私がかつて主任司祭を務めていた教会の出身者がおり、叙階式を行い、その翌日には出身教会のオソンソン、つまり私が昔いた教会での初ミサに参加することになりました。

 なお、もしこの機会にガーナを訪れたい、という方がおられましたら、近日中に同行旅行団の募集が信徒の運営する旅行会社パラダイスさんから呼びかけられる予定です。日程は8月6日夜発、8月14日夕方帰着の予定で、現地での宿泊は主に教会関係の黙想の家などになり、普段の巡礼旅行のようなホテル利用ではありません。その旨ご承知おきください。

 以下、4日午後6時配信の週刊大司教第165回、復活節第六主日のメッセージ原稿です。なおメッセージも触れている世界広報の日の教皇様のメッセージは、こちらのリンクから、中央協議会のホームページでご覧ください。

【復活節第6主日B 2024年5月5日】

 「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」と述べる主イエスは、私たちが自分の知識や好みに従って信仰を築き上げるのではなく、イエス御自身が望まれることを具体的に成し遂げるように、と求めておられます。信仰は、私たちの都合で作り出す創作物ではなく、具体的に生きておられる主によって与えられるものです。

 イエスは福音で、「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように」、私たちが「互いに愛し」合うことを命じておられます。バーチャルな世界でならまだしも、現実の世界で一人で愛し合うことはできません。「愛し合いなさい」という命令は、具体的に人と関わることを私たちに求めています。ですから教会は、人と人との交わりによる共同体を基礎としているのです。

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったところに、神の愛が示されている、と強調します。すなわち、神の愛は、御子が十字架の上でその身を捧げられたほどの、命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、私たちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるように、とヨハネは語ります。

 「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのは簡単です。ひたすら優しくなれば良いというのは、残念ながら思い違いです。単に優しくなることを意味してはいません。イエスが語る「愛」の意味は、イエス御自身が目に見える形で実行された、その行動にあります。十字架です。すべての人の罪を背負い十字架上で命を捧げる。まさしく、命がけの愛であります。それが神の愛の本質です。それは単なる優しさではありません。

 さて教会は、復活節第六主日を「世界広報の日」と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金を捧げる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、「AIと心の知恵:真に人間らしいコミュニケーションのために」というメッセージを発表されています。今年の正月の世界平和の日のメッセージについで、教皇は一般的に広く受け入れられつつあるAIの課題について触れています。

 教皇は「技術は豊かでも人間らしさは希薄なこの時代にあっては、人間の心だけが私たちの考察の起点となります」と記し、機械とは無縁な人間の心の知恵の重要さを説きます。その上で教皇は、「取り上げるべきは、機械に人間らしさを要求することではありません。全能という妄想によって陥った催眠状態から人を目覚めさせることなのです。自分は完全に自律した自己言及的な主体で、社会的つながりとは無縁だとして、被造物としての己を顧みない思い込みから目を覚まさせることです」と記されます。

 「私たちは、人間性において、そして人間として、共に成長するよう求められて」いると指摘される教皇は、神の知恵を求めながら、人間らしいコミュニケーションを取ることの必要性を説いておられます。

 私たちにとっても、「自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、そしてまさしくその言葉を実行した主イエスと、具体的に現実の中で出会うことが、信仰を豊かにし、また人生を豊かなものとすることでしょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年5月4日

・「自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありたい」菊地大司教の復活節第五主日

2024年4月27日  週刊大司教第164回:復活節第五主日B

 桜の季節はあっという間に終わり、季節は夏に向けて歩みを進めています。教会の典礼も、5月19日の聖霊降臨祭に向けて、復活の神秘を思い起こしながら、初代教会の発展の歴史にも心を留め、主の復活によって力強い宣教者へと変えられた弟子たちに倣い、自らの毎日の信仰生活を深めるためにともに歩みを進めます。

 先日、4月21日の日曜日には、午前中に下井草教会の創立75周年ミサが行われました。サレジオ会に司牧が委託されている教会です。下井草教会の皆様、サレジオ会の皆様、おめでとうございます。下井草教会の歴史については、教区のホームページのこちらをご覧ください1714112792913青少年司牧に力を入れているサレジオ会だけあって、侍者をはじめたくさんの若者が集まっていました。ちょうど午前中は天気に恵まれ、聖堂と信徒会館の間の中庭で、祝賀会も行われました。現在の主任司祭はサレジオ会の並木神父様です。 教区ホームページには創立の経緯がこう記されています。 「1948年、時の東京教区長・土井大司教は下井草の地に教会建設を依頼され、サレジオ会に対し3000ドルを寄贈された。サレジオ会はマンテガッツア神父を主任司祭に任命し、新聖堂の建設に着手することとなる。戦後、育英学院付属の小さな聖堂を使用していた経緯もあって、1949年4月17日の復活祭には、東京教区第18番目の教会として認可された。下井草教会は、この日をもって教会創立の日としている。マンテガッツア師が夢に抱いていた願いどおり、新聖堂は「扶助者聖母マリア」に捧げられ(た)」

 また同日午後2時半からは、アンドレア司教様司式で、世界召命祈願の日のミサがカテドラルで捧げられ、コロナ以前のように多くの方が集まってくださり、当日参加した男女の修道者や教区の神学生とともに、召命のための祈りをささげてくださいました。また数年ぶりに、ミサ後の懇親会も復活し、養成を受けている方々など、修道会や神学院の紹介も行われました。司祭・修道者の召命のためにお祈りください。またキリスト者一人一人に与えられている召命を、自覚し、ふさわしく生きていくことが出来るように、互いに祈り合いましょう。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第164回、復活節第五主日のメッセージ原稿です。復活節第5主日B 2024年4月28

 日本の司教団は先日、アドリミナの訪問のために、全員でローマに出かけてきました。定期的にローマを訪れ、教皇様を始め聖座に、それぞれの教会についての定期的な報告をすることや、聖座の省庁から指導を受けることもありますが、もう一つ大事なことは、使徒の後継者として、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、司教としての務めを果たすことを改めて心に誓うことがあります。

 司教にとってそれは、自分たちがどこに繋がっているのかを確認することであり、また同時に司教たちを通じて、それぞれの地方教会が、どこにつながっているのかを再確認することでもあります。イスラエルなどの聖地巡礼は、私たちの信仰の原点を思い起こさせますが、アドリミナでのローマ訪問は、教会が普遍教会として世界に広がり、また同時に一つに繋がっていることを思い起こさせます。

 私たちは、ローマの司教であり聖ペトロの後継者である教皇様に繋がることで、主イエスによって呼び集められた弟子たちに繋がり、今もまた聖霊によって導かれている教会共同体の一員であることを、再確認します。

 使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」言った様を記しています。

 神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、改めて私たちに認識させます。教会は、その始まりから、聖霊に導かれ、人間の知恵を遙かに超える道を歩み続けてきました。教会は、聖霊によって導かれています。。

 ヨハネ福音は、主ご自身が、「ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私に繋がっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘された話を記しています。

 ぶどうの木である主イエスに繋がっている限り、枝である私たちは「豊かに実を結ぶ」ことが可能となります。私たちはぶどうの木の枝として、世界に広がり、繋がっている教会です。

 しかし同時に、その豊かな実の中身がどのような実りであるのかは、枝が自由に決めることはできません。すなわち、私たちが幹である主イエスに枝として繋がっているのであれば、それは私たちが好ましいと考える実りを生み出すためではなくて、主ご自身が望まれるみのりを、主の思いのままに実らせることであります。聖霊の導きのままに、実りを生み出すことです。

 豊かな実りは、主の実りであって、私たちの実りではありません。仮に、自分の理想の実現を実りだと考えるのであれば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することに繋がります。教会が今歩んでいるシノドスの道こそは、私たちが一つの幹に連なっている枝であり続けることを、明確に思い起こさせています。私たちは、自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月27日

・「主の前に身をかがめ、名声を求めず、淡々と語られる偉大な司祭だった」澤田神父帰天-菊地大司教の追悼

2024年4月20日 (土)週刊大司教第163回:復活節第四主日B

   アドリミナで、私もアンドレア司教様もローマに滞在中の4月11日、東京教区司祭団の最長老である澤田和夫神父様が帰天された、との連絡を受けました。104歳と高齢であり、この数年は介護施設で暮らしておられたものの、教区での様々な機会には車椅子で出席されたり、「もう危ない」と言われながら、何度も神父様特有の自然体で、それを乗り越えて来Sawada04られた澤田神父様でした。

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 私がわざわざ語ることもないほど、多くの方に霊的な影響を与え、人生の友となり、語り尽くせぬほどの様々なエピソードを残された偉大な司祭が、一世紀を超える人生の歩みを終え、御父の元へ戻られました。

 葬儀は、私が帰国した翌日、4月18日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂をいっぱいに埋めた多くの方の参列の中で、執り行いました。アドリミナ後にふるさとに戻られていたアンドレア司教様も、当日の朝に帰国され、葬儀ミサに出席されました。ミサの説教は、洗足教会の山根神父様が、様々な思い出を語りながら担当してくださいました。

 40年ほど前、まだ私が神学生であった頃、名古屋の神言会の神学院で、霊性神学の講義を担当していただいておりました。

 夜行の高速バスで東京からおいでになり、あのいつもの姿に長靴で、早朝に神学院の中をそろそろと歩かれているのを見て、澤田神父様を存じ上げない若い神学生が、「不審者が侵入した」と勘違いして大騒ぎになったことを懐かしく思い出しました。常に主の現存の前に身をかがめ、ご自分のスタイルを貫き、名声を求めず、淡々と語られる偉大な司祭でした。澤田神父様のこれまでのお働きに感謝しながら、御父が豊かに報いを与え、その御許で永遠の安息を与えてくださることを祈ります。

以下、20日午後6時配信、週間大司教第163回、復活節第四主日のメッセージ原稿です。

復活節第四主日B 2024年4月21日

 復活節第四主日は、善き牧者の主日です。ヨハネ福音には、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスの言葉が記されています。

 主が羊飼いなのですから、彼に従っている私たちはその羊飼いに導かれる羊の群れであります。羊飼いと羊の関係というと、羊飼いが先頭に立って羊の群れを導いている姿を想像しますが、実際の羊飼いは、群れの先頭に立つと言うよりも、少し離れた場所から、時には後ろから、常に見守り、時には正しい方向へ進むように、と追い立てる存在です。

 教会における牧者のイメージも、ともすると先頭に立って、「私についてこい」と群れを導く姿を想起しますが、主イエスの語る牧者は、ご自分が賜物としていのちを与えられた私たちを、ご自分の羊、ご自分の一部として心にかけ、傍らから見守る存在です。しかもご自分の羊たちを愛するがあまり、その羊のために命をかけるとまで宣言されます。その上で、イエスは、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であるとして、誰一人排除することなく、賜物として命を与えたすべての人を、自らの群れに取り込むことが神の望みであることを明示します。

 良い羊飼いである主イエスは、「私は自分の羊を知っている」といわれ、同時に「羊も私を知っている」と断言されています。果たして私たちは、主を知っているでしょうか。どこで主と出会ったでしょうか。日々の生活の中で出会う人、とりわけ命の危機に直面している人、人間の尊厳をないがしろにされている人、忘れ去られている人のうちにこそ、主はおられます。

 教会はこの復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日としています。東京教区では、この主日の午後、教区の一粒会が主催して、東京カテドラル聖マリア大聖堂で召命祈願ミサが捧げられます。

 召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまりません。キリスト者すべての召命についても考える必要があります。司祭・修道者の召命のために祈ることは重要ですが、同時に信徒の召命が生かされるように祈ることも重要です。

 私たちは就職活動や求職活動のように、召命を人間が生み出すことはできません。それは神からの賜物です。召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、「主からの呼びかけに応える勇気を持つ人」が増えるように祈りましょう。

 呼びかけておられる善き牧者、主イエスと出会いましょう。私たちは教会共同体の中で、ミサに共に集う中で、告げられる御言葉のうちで、生け贄として捧げられる御聖体のうちに、そこにおられる主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人一人のうちにおられる主と、出会います。主はいつも呼びかけておられます。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月20日

・4月8日から13日まで司教団がローマ訪問、教皇に謁見ー「私たちは慈しみにあふれた存在になろうと努めているか」菊地大司教の復活節第二主日

2024年4月 6日 (土)週刊大司教第162回:復活節第二主日B

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 復活節第二主日は神の慈しみの主日です。

 メッセージの中でも触れていますが、日本の司教団は4月8日から13日まで、定期的な聖座訪問「アドリミナ」のために、全員がローマに出かけます。もちろん様々な理由から、全員が一緒に飛ぶことはありませんが、この数日以内に、日本の現役のすべての司教はローマに集合し、バチカンの各省庁を訪問して意見交換をし、さらに教皇様と謁見して、日本の教会についての報告をしてきます。

 また滞在中には、省庁訪問や教皇様との謁見だけでなく巡礼の要素もあり、特にペトロとパウロの墓前で司教団はミサを捧げます。

Adlimmina1503018 私にとっては、2007年のベネディクト16世教皇、2015年の現フランシスコ教皇と、三回目のアドリミナになります。左の写真は、その2015年のアドリミナに参加した日本の司教団ですが、よく見るとその時から9年で、現在の司教団の顔ぶれは大きく変わっていることが分かります。

 この写真に写っている2015年当時の日本の司教団は16名ですが、そのうち、すでに10名が引退され、そこには新しい司教様が任命されています。一口に「日本の司教団」と言ったとしても、その顔ぶれは10年くらいでガラリと変わっているものです。

 アドリミナに出かけている日本の司教団のため、また教皇様のために、どうぞお祈りください。お願いいたします。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第162回、復活節第二主日のメッセージ原稿です。

復活節第二主日B  2024年4月7日

 ヨハネ福音は、主が復活された日の夕刻、まだ何が起こったかを理解していない弟子たちが、恐れのうちに隠れてしまっている様を伝えています。もちろん自分たちのリーダーを殺害した人々の興奮への恐れもあったでしょうし、同時に、見事にイエスを裏切り見捨ててしまったことへの自責の念もあったことでしょう。

 その弟子たちの真ん中に現れたイエスは、弟子たちの心の闇を打ち払うように、平和を告げます。平和は神が定められた秩序が完全に存在する状態です。神との完全な交わりのうちにある状態です。すなわちここで、イエスは神が慈しみそのものであり、常に神との完全な交わりへと招き続け、見捨てることはないことを明白に示します。神の慈しみに完全に包み込まれていることを知った時、弟子たちの心の暗闇は打ち払われました。

 復活節第二主日は、「神の慈しみの主日」です。1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」に、教皇ヨハネパウロ二世は、「(神の)愛を信じるとは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(7)と断言されています。

 教皇フランシスコは、2015年12月8日から一年間を「慈しみの特別聖年」と定められ、神の慈しみについて改めて黙想し、それを実行に移すように、と招かれました。

 その特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」には、「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命があります。慈しみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父の慈しみを現さなければなりません」(12)と記されていました。

 私たちは今、世界の各地で命の危機に直面し、暗闇の中で恐れに打ち震えています。どこへ向かって歩みを進めれば良いのか分からずに、混乱した世界で生きています。その私たちに、常に共にいてくださる主イエスは、私たちの直中に立ち、「あなた方に平和があるように」と告げながら、私たちをその慈しみで包み込もうとされています。復活された主は、私たちの具体的な愛の行動を通じて、世界に向かって平和と希望を告げ知らせようとしています。「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命」があります。

 不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っている私たち一人ひとりが慈しみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

 明日4月8日から13日まで、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためにローマを訪れています。アドリミナとは、世界中の司教団が、定期的に聖座を訪問し、ペトロの後継者である教皇様に謁見して教会の現勢について報告をし、聖座の各省庁を訪問して情報交換するために行われます。さらには教会の礎を築いた二人の偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、サンタマリアマジョーレとラテランの両大聖堂にも巡礼します。前回は2015年でした。ローマを訪問している日本の司教団のために、また教皇様のためにお祈りください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月6日

・「それぞれろうそくを掲げ共に歩み、世界を支配する暗闇を打ち払おう」菊地大司教、復活徹夜祭メッセージ

聖土曜日復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2024年3月30日

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

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 暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

 それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

 復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

 天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。

 私たちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわち私たちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

 暗闇の中で復活のろうそくの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しい命に招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることを私たちは改めて思い起こします。

 復活のろうそくに灯された小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎が共にされていきました。

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 「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何を私たちは感謝したのでしょう。それは、神から新しい命への希望を与えられたことを改めて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のろうそくにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

 私たちが成し遂げたいのは、それなのです。一人ひとりが出来ることには限界があり、一人で掲げることのできる命の希望の光は小さなものです。私たちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が共に歩むことを強調する理由はそこにあります。

 今、教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、命を生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

 主が復活されたその地、すなわち聖地で、今、多くの命が暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超える命が、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。命の希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたら、命の希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見い出せずにいます。今この瞬間も、命の危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くの命があることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

 ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、まだ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

 世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「私たちを忘れないで」と叫んでいます。教会は命を生きる希望を掲げる存在であることを、改めて私たちの心に刻みましょう。

 戦地や紛争の地だけでなく、私たちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、命を奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託された命です。社会に蔓延する命への価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども、希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。

 今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずです。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

 先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストと共に新しい命に生きるために、その死に与るのだ、と強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けた私たちには、キリストと共に、新しい命の道を歩む、という務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

 主の死と復活に与る私たちに求められているのは、行動することです。前進することです。何もせずに安住の地に留まるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、共に歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、共に歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

 「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」の実現のために、福音を告げ知らせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月31日

・カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・最終回

(2024.3.22バチカン放送)
教皇付き説教師カンタラメッサ枢機卿の、四旬節を機会とした小さな黙想の最終回をおおくりする。
教皇付き説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿の、四旬節を機会とする小さな黙想(全6回)を紹介しているが、今回はその最終回にあたる第6回目の黙想をお届けする。

この最終回、カンタラメッサ枢機卿は、「あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ 15,14)というイエスの言葉を観想。この言葉がそれを聞いた人々の中で長く響き続けることを願った。

イエスは最後の晩餐で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15,12-13)と言われた。

そして、これに続けて、こう言われた。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(同15,14-15)。

カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・第6回目(最終回)の内容は次のとおり。

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今日、皆さんに味わっていただきたい御言葉は、蜜のように甘い言葉です。この言葉をもって黙想を終えることをうれしく思います。なぜなら、この御言葉が皆さんの心の中に長く響くことを願うからです。

イエスは弟子たちに別れを告げる時にこの言葉を言われました。しかし、キリストのすべての言葉がそうであるように、この言葉はすべての時代のすべての弟子に向けられています。「…あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,14-15)。

「あなたがたはわたしの友である」。この御言葉について、皆さんに少し打ち明けたいことがあります。何年も前の祈りの集いでのことです。一人の女性が聖書を開き、ヨハネ福音書の一節を朗読しました。そこにこの言葉がありました。わたしはこの言葉をいったい何度聞いたことでしょうか。しかし、その時、「友」という言葉がわたしの中で「爆発」したのです。それ以外に表現のしようがありません。

これは聖書の御言葉だけで起きることです。導線に火をつけるのはいつも同じ、それは聖霊です。

わたしは心の中で繰り返し始めました。「友」だって!? ナザレのイエス、万能の神、わたしのために死なれた方、その方がわたしを「友」と呼ばれるなんて。しかも、イエスは決して虚しい言葉は言われない…。ならば、わたしは本当にイエスの友、大切な存在なのだ!

集いから修道院に帰る途中、その確信と共に、わたしは町並みの屋根の上にも舞い上がれる気持ちでした。まるでシャガールの絵で見るみたいに。

この「友」という言葉が、これをお聞きの皆さんの中でも弾けますように! そして、それが皆さんの人生をずっと照らしますように! よい四旬節を! そして、よい復活祭をお迎えください!

2024年3月23日

・「私たちの人生が『他者に希望をもたらすもの』でありたい」菊地大司教の四旬節第五主日メッセージ

2024年3月16日 (土)週刊大司教第160回:四旬節第五主日B

 Img_20240303_094406939_hdr四旬節も終わりに近づき、第五主日となりました。

 今週の初め、3月11日は、東日本大震災が発生して13年目でした。この節目の時に、改めて東北の地に思いを馳せ、亡くなられた多くの方の永遠の安息を祈り、復興の道を歩み続ける東北の地と人々に命の与え主である神の祝福と守りがあるように、祈ります。

 この数日、私はローマに出かけていました。月曜日に司祭評議会と責任役員会を終えた後、羽田からローマに出発し、予定では、この週刊大司教が配信される頃に、羽田に帰国しているはずです。国際カリタスの要務ですが、ローマでの出来事は、また後ほど報告します。

 不在の間、教区の修道会協議会や、司教団のERST(緊急対応支援チーム)による、東京教区での緊急対応のワークショップ、そして宣教司牧評議会があり、司教総代理であるアンドレア司教様が中心となって、これらを切り盛りしてくださいました。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂から、毎週日曜日、10時の関口教会主日ミサが配信されてきました。これは、コロナ感染症の制約の中で、一人でも多くの方の信仰の支えとなるために始めたものでした。教会で共にミサに与り、ご聖体を拝領することが一番大切なのですが、諸事情でそれが適わない方々も多くおられましたので、関口教会の信徒の方々の積極的な協力でネットでの配信が続けられてきました。

 このたび、そういった状況も改善してきたということで、ネットでの配信を、大司教や補佐司教が司式するミサや教区行事ミサに限定することになり、配信元も、関口教会のYoutubeアカウントから、週刊大司教を配信している東京教区のアカウントに変更することになりました。

 私は、ほぼ月に一度は主日ミサを関口で司式しますし、その他、聖週間を始め、教区行事も多々あります。これらの配信については、その都度、教区からお知らせいたしますので、その目的を教区共同体の一致のためとして、ご覧いただければと思います。

 以下、16日午後6時配信の四旬節第5主日のメッセージです。

【四旬節第五主日B 2024年3月17日】

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」-私たち人間はいったい何のために命を生きるのかを、改めて考えさせられる主イエスの言葉です。

 私たちは「命は神から与えられた尊い賜物である」と信じています。この賜物である命を、私たちは人生の中でどのように生きるのかが、問われています。「一粒のままで終わる人生の道」を歩むのか、「多くの実を結ぶ人生の道」を歩むのか。「地に落ちて死ぬ」とは、具体的にどういう人生を現しているのでしょうか。

 自分の周りに壁を立て、まるで自分だけを守るようにして隣人の必要を顧みずに生きる姿勢-それを、教皇フランシスコは、就任直後の2013年、地中海のランペドゥーザ島に押し寄せる難民たちを訪問された際、「虚しく輝く”シャボン玉”の中に閉じこもっている」と表現され、そのうえで、”シャボン玉”の外にある叫びに耳を塞いでいる姿勢が「世界中に蔓延」している現在の状況を、「無関心のグローバル化」と批判。「殻を打ち破って、弱い立場にある人の叫びに耳を傾けるように」と呼びかけられました。

 私たちが自分の命だけを守ろうとするとき、あるいは自分に近しい人たちの命だけを守ろうとするとき、その”麦”の種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。自分の欲望をうち捨て、虚しい虚飾の壁を打ち破り、”シャボン玉”の外へと目と耳を向けたときに、これまでの自分の生き方に終止符を打って、多くの人に生きる希望を生み出す実りとなることが可能となります。

 人生は、決して楽な歩みを保証するものではありません。主ご自身の人生の歩みを見れば、それは明らかです。困難の連続です。パウロは「ヘブライ人への手紙」で、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者」となられた(5章8‐9節)と語っています。神の目にあって完全な者となるためには、自らの立場から降り立ち、苦しみを耐え忍びながら、神の意志に従順であることが絶対条件だ、とパウロは強調します。

 私たちの信仰の先達には、この日本において、迫害の時代に命の尊厳を守り、互いに助け合うことに命がけで取り組み、その苦しみの人生を通じて、神が求められる生き方を証しした殉教者たちが多数おられます。

 殉教者たちの命を賭けた証しの勇気ある決断は、突然なされたわけでも、思い詰めての性急な判断でもありません。その決断は、キリスト者が、生涯をかけて信仰を真摯に生き抜いた結果としてある決断です。すべてを打ち捨てて、神から与えられた命をよりふさわしく従順に生きる者としての使命を生き抜いた結果としての決断です。命を生きる意味を突き詰め、困難に直面しながら証しを続けてきたからこそ、最後の最後で、殉教への決断につながったのです。私たちは、これまでの自分を中心にした生き方を打ち捨て、他者に希望をもたらすものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=カトリック教会では、なぜか「命」を、ひらがなで書く習慣がいつからか、ついてしまったようですが、漢字の「命」は、「冠」の象形と「口」の象形、そして「ひざまずく人」の象形から成り立つ会意文字で、「天(神)から与えられたもの」を意味しています。ひらがなの「いのち」は、そのような深い意味をもちません。特に、今回のメッセージではなおさら、漢字表記が適切と判断しました。なお、菊地大司教が副理事長を務める日本聖書協会の「聖書協会共同訳聖書」では、「命」「私」も漢字表記に改められています)

2024年3月16日

・「私たちを包み込む神の愛を伝えるのが私たちの務め」四旬節第4主日の菊地大司教

2024年3月 9日 (土) 週刊大司教第159回:四旬節第四主日B

 四旬節も後半です。第四主日となりました。

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 3月7日午後3時から3月8日午後3時まで、潮見のカトリック中央協議会で、日本におけるシノドスの集いを開催いたしました。これは昨年10月に開催されたシノドスの第一会期のまとめ文書を受けて、第二会期である今年の10月に向けて、シノドス事務局から各国の司教団に、それぞれの国でのシノドスの歩みについての報告が求められているために、日本におけるシノドスへの取り組みについて、バチカンのシノドス事務局へ5月頭までに提出する回答書作成の一環として開催されました。

 とはいえ、今回のシノドスは、これまでのシノドスのように、何か議題が定められていて、それについて各国の草の根の意見を聴取して、それをまとめて提出するということは、求められていません。いま求められているのは、実際にシノドスの歩みの中心にある霊における会話を実践し、それを少しでも多くの人に体験していただき、その上で、教会全体の識別の方法として定着させる試みをすることです。

 ですので、第一会期のまとめ文書に記されている課題について小教区や団体で話し合って、その結果を集約して、日本の報告書を作るということはしていません。まとめ文書に記されている様々な課題は、今後、教会の様々なレベルで霊における会話を継続して、聖霊の導きを識別するための課題であって、今年10月の第二会期で結論を出すための課題ではありません。

 ですから、教区や小教区や様々な団体のレベルで、第一会期のまとめ文書の提示する課題などを題材として霊における会話を実践していただき、その体験を分かち合っていただくのは歓迎です。

 そういった体験の報告がある場合、一ページ程度の文書にまとめて、司教協議会のシノドス担当までご送付ください。第二会期が始まる10月直前までにお寄せいただくと、第二会期で生かすことができるかと思います。このような内容は、今回参加していただいた各教区の方々に、最後にお伝えしました。

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 改めて申し上げますが、現在は、シノドス第一会期のまとめ文書に記された課題への「回答」を求めてはおりません。お願いしているのは、今回日本におけるシノドスの集い参加者を通じて、シノドスの歩み、霊における会話を、各地で実践していただくことです。

 今回の集いには、日本のすべての司教、そして15教区の司祭、奉献生活者、信徒から一名ずつに参加していただき、68名ほどの参加者を6のグループに分けて、実際に霊における会話を二回、体験していただきました。それぞれのプロセスの前には30分ほどのお話と、30分ほどの沈黙の祈りの時間が設けられ、その後、霊における会話に1時間半ほど、そしてそれぞれのグループの発表に30分ほどを要しました。

 今回の集いに限らず、現在、第二会期に向けてシノドスの歩みの実践を深めるために、シノドス特別チームが編成されています。チームメンバーのお働きに感謝します。また参加してくださった皆さまに感謝すると共に、各地でシノドスの歩みを深めていってくださることを期待しています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第159回、四旬節第四主日メッセージ原稿です。

【四旬節第四主日B 2024年3月10日】

 ヨハネ福音は、ファリサイ派の議員であり指導者でもあったニコデモと、イエスとの対話を記しています。神がイエスと共におられることを見抜いたニコデモに対して、イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語り、永遠の命についての対話を始めます。

 その対話の中で、ご自分の受難、死、復活が救いをもたらすことを告げたイエスのことばが、本日の福音に選ばれています。

 「ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

 永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

 教皇フランシスコは今年の四旬節メッセージに、「出エジプト物語の、とても重要な細部を取り上げたいと思います。神が、見ておられ、心動かされ、解放してくださるのであって、イスラエルの求めによるのではないということです」と記しています。すなわち救いは徹頭徹尾、神からの恵みとして与えられるのであって、何かの報酬でもなければ人類の求めに応じたものでもないこと、つまり主導権は徹底的に神にあることを明確にします。それに応えようとするのかどうか。私たちの決断が求められています。

 パウロもエフェソの教会への手紙で、「あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神のたまものです」と記して、わたしたちの救いは、神からの一方的な恵みによっていることを明確にします。

 ヨハネは「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記し、十字架におけるイエスの受難と死が、神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業であることを明確にします。十字架は神ご自身による、人類に対する愛の目に見える証しの具体的な業であります。私たちはその徹底的な神の愛に包まれて、生かされていることを心に留めたいと思います。

福 音はイエスが、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と語る言葉を記します。すなわち、神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれている私たちには、その愛を一人でも多くの人に明らかにする務めがあります。一人でも多くの人がその愛に包まれて、共に光を証しするものとなるように、私たちは愛の実践を通じた具体的な証しの業に務めなければなりません。

 そもそも私たちは、自分の性格が優しいからとか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。私たちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、一人でも多くの人に証しをしたいのです。

 3月11日は東日本大震災が発生して13年の追悼の日です。改めて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。これからも、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、一人でも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、証しの業を続けたいと思います。

 またこの節目の機会に、この一月の能登半島における災害で亡くなられた方々も心に留め、復興のための歩みを共にする決意を新たにしたいと思います。

 神の愛はすでに私たちを包み込んでいます。それを伝えるのは私たちの務めです。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月9日

・「人間の尊厳をないがしろにする行為は神の掟に反する」-菊地大司教「性虐待被害者のための祈りと償いの日」に

2024年3月 2日 (土)週刊大司教第158回:四旬節第三主日B

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 四旬節も第三主日となりました。

 教皇様の呼びかけに従って、各国の司教協議会は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を定めて、被害を受けられた方々に謝罪し、歩みを共にする祈りの日を設けています。日本では四旬節第二金曜日をその日に定めており、今年は3月1日の金曜日です。また金曜日だけでなく、その次の日曜日、すなわち四旬節第三主日には、教皇様の意向に合わせて祈ることを勧めています。

 四旬節第三主日は、教皇様のこの意向を持って、私も東京カテドラルでのミサを司式させていただいています。

 以下、2日午後6時配信の四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第三主日B 2024年3月3日】

 「苦痛と無力感を伴う根深い傷を、ほかでもなく被害者に、しかし、そればかりか、家族と共同体全体に負わせる犯罪です。起きてしまったことに鑑みれば、謝罪と、与えた被害を償う努力が十分になることなど決してありません… このような事態が二度と繰り返されないようにするだけでなく、その隠蔽や存続の余地を与えない文化を作り出す努力をするほかありません」

 教皇フランシスコの言葉です。2018年に発表された「神の民にあてた手紙」に、このように記されていました。この言葉を、日本の教会も共有し、心に刻みます。

 教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」(『教会憲章』1項)となるよう呼ばれた召命を受け、その実現のために挑戦し続ける道を共に歩んでいます。

 残念ながら、その教会がその旅を続ける現代社会は、命に対する暴力が荒れ狂う世界であって、その現実の中で、賜物である命を最優先に守り抜き、人間の尊厳を尊重し、さらに全体として一致することは容易なことではありません。しかしながら教会は、その厳しい道を挑戦しながら歩むことをやめることはできません。なぜならば、教会にとって、「イエスを宣べ伝える」とは、「命を宣べ伝えること」にほかならないからです(ヨハネパウロ2世「いのちの福音」80項)。

 その教会にあって、聖職者や霊的な指導者が命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、「性虐待」という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳を貶めるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

 教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも祈りを捧げています。

 出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「命の福音」にはこう記されています。

 「『殺してはならない』という掟は、断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、この掟ては暗黙のうちに、命に対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。命を守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです」(54項)

 人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。命を賜物として大切にしなければならないと説く私たちは、その尊厳を命の始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として、社会一般に使われている当用漢字に直しました。筆者の真意ができる限り伝わるように、との思いからです。中でも「命」という漢字は、「天に願い、いただくもの」という意味を込めた象形文字がもとになっており、その活字自体に深い意味が込められています。〝教会用語”になっているような「命」「私」などのひらがな表記は、新旧約聖書の「新共同訳」に倣ったのかもしれませんが、菊地大司教が副理事長を務めておられる「日本聖書協会」がカトリック、プロテスタントの専門家が協力して10年かけて原点から翻訳し、現代の日本語を基本にまとめあげた「聖書協会・共同訳」では、これらは漢字表記になっています。ご覧ください)

2024年3月2日

・「安住を求めず、常に挑戦し続ける」菊地大司教の四旬節第二主日メッセージ

2024年2月24日 (土)週刊大司教第157回:四旬節第二主日

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   四旬節第二主日となりました。

    昨日まで、バンコクでアジア司教協議会連盟(FABC)の年に一度の中央委員会が開催されていました。アジアの各国地域の司教協議会会長がメンバーで、今回は16名の会長司教が集まりました。私はFABCの事務局長を務めています。

   今回は役職者の選挙があり、来年2025年1月からの3年間の新しい指導体制が決まりました。新しい会長は、現在のミャンマーのボ枢機卿様から、インド・ゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿様に、副会長は、現在のスリランカのランジット枢機卿様から、フィリピンのカローカンのパブロ・ダビド司教様に交代。事務局長は私が二期目に再選されました。FABCに関しては、別途記します。(下の写Img_20240222_111005954真、一列目中央の白いシャツがボ枢機卿、その向かって右がダビド司教、左がフェラオ枢機卿、さらにその左がボンベイのグラシアス枢機卿、その左隣が私)

 四旬節には、特に金曜日に十字架の道行きをすることが勧められており、小教区でそのための時間が設けられているところも多くあろうかと思います。

 昨年の四旬節に、お一人でも、また自宅でも、十字架の道行きをするための手助けになればと、十字架の道行きのビデオを作成しました。最初に私の解説が少し入っています。本などなくても、画面に言葉で出てきますので、一緒に唱えていただけます。ご活用ください。こちらのリンク先の東京教区Youtubeチャンネルにあります

 以下、24日午後6時配信の四旬節第二主日メッセージ原稿です。

【四旬節第二主日B 2024年2月25日】

 イエスの福音宣教は、旅路です。イエスは、一定の成果を手にし、安心と安全を得た地にとどまり続けることをよしとせず、福音を告げるために旅を続けます。その旅は、常に挑戦に満ちあふれていますが、臆することなく、イエスは福音を証しし続けます。

 マルコ福音は、その旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにし、「これは私の愛する子、これに聞け」という神の声を耳にしたペトロは、その栄光の輝きの中に留まり続けることを望み、仮小屋を三つ建てることを提案します。しかしイエスは歩み続けます。

 第一朗読の創世記は、神からの試練を受けたアブラハムが、神への信頼のうちに理解不可能な未知の領域に歩みを進める姿を記しています。イサクを献げるように、という、神からの言わば、無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

 信仰は、私たちに常なる挑戦へ旅立つことを求めます。

 四旬節にあたって、教皇フランシスコは「荒れ野を通り、神は私たちを解放へと導かれる」というタイトルのメッセージを発表されています。

 メッセージの中で教皇は、私たちが回心の道を歩み続けることを、荒れ野を旅したイスラエルの民になぞらえ、「希望を失い、荒れ果てた地に居るように人生をさまよい、共に向かっているはずの約束の地が見えないとき」、民は元の奴隷状態を懐かしみ、前進するよりも、過去に縛られ続けようとしたことを指摘されます。

 同じように、現代社会に生きている私たちも、「世界規模での兄弟愛の実現を目前にしながら、科学、技術、文化、法制度が万人の尊厳を保証しうる水準にまで発展しながら、格差と紛争の闇を進んでいること」の理由は、罪の状態から解放されようとするよりも、「自由を犠牲にしてまでも、なじんでいるものの安心感に惹かれる」私たちの弱さであり、他者の叫びへの無関心である、と語られています。

 その上で教皇は、教会のシノドス的な姿を追求することは、「四旬節が共同体での決断の時でもあると示唆してくれます。個々人の日常を改め、地域の生活を変えうる、今の流れとは違う選択を大小さまざまに行う時です。購買の意識化、被造物のケア、社会から無視され見下げられている人たちの受け入れ、そうしたことを選択していくのです」と述べておられます。

 私たちは安住を求めるのではなく、常に挑戦し続けながら前進を続ける神の民です。希望が見い出せないときにも、「奴隷状態から抜け出る勇気」をもって歩み続けたいと思います。

 教皇様は「信仰と愛が希望に歩みを教え、希望が信仰と愛を引っぱっていくのです」と記されます。勇気を持って共に歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月24日

・「四十日間、互いに支え合う心で愛の業を証しつつ歩み続けよう」菊地大司教、四旬節第一主日

2024年2月17日 (土)週刊大司教第156回:四旬節第一主日B

  今年は復活祭が3月の末日と、例年より早い暦となっているため、既に四旬節が始まりました。先日の水曜、2月14日が灰の水曜日でした。2月18日の日曜日は、四旬節第一主日です。

   四旬節は、信仰の道を歩んでいるものにとって、ふさわしく神の方向を向いて歩んでいるのかどうかを見つめ直す回心の時であり、同時に、復活徹夜祭での洗礼式を目指して、洗礼の準備を続けてきた方々が、個人の信仰における決断の最後の仕上げとして、教会共同体と歩みを共にし始める時でもあります。

    多くの小教区で、四旬節第一主日に洗礼志願式が行われますが、これは洗礼への準備が、個人的で内面的な準備の段階から、共同体としての歩みに向けた公の準備の段階に移行したことを象徴しています。四旬節の間、教会共同体は、新しく共同体の一員となろうとしている人たちと、一緒に歩む道のりを開始します。信仰における仲間を迎え入れるプロセスが始まったと認識ください。

Img_20240214_105323707 この一週間、日本の司教団は定例司教総会を行いました。今回は、昨年12月に司教叙階されたアンドレア・レンボ司教様にとって、初めての司教総会でした。日本の司教全員が集まり、様々な課題について議論し、また共に学び合いました。

 議決などについては、今後、カトリック新聞などで広報されることになりますので、そちらをご覧ください。なおレンボ司教様は司教団の中で、司祭生涯養成委員会のメンバーとして関わってくださることになりました。私たち司教団のためにお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。

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 2月12日午前中に、東京教区内で活動するカトリックスカウトが東京カテドラルに集まり、BP祭ミサが捧げられました。ミサは私が司式いたしました。久しぶりに聖マリア大聖堂に一杯のスカウトが集まり、互いの絆を確認しました。

 BP祭は、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、その誕生日が1857年2月22日であることから、それに近い日を選んで行われています。今年は5月に代表団がケルンを訪問することにもなっており、その方々へのエールも送られました。

 既報ですが、この東京のカトリック・スカウトの代表団は、ケルンでの「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください

 以下、17日午後6時配信、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日B 2024年2月18日】

 マルコ福音は、イエスの物語を簡潔に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた話で始め、そして荒れ野における40日の試練の物語と続けています。この簡潔な荒れ野の試練の物語のなかで、福音は三つのことを伝えようとしています。

 まず第一に、イエスは聖霊によって荒れ野へと送り出されました。荒れ野とは、普通で安全な生活を営むことが難しい場であります。命を危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていることが容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身を委ねました。聖霊の働きと導きに恐れることなく完全な信頼を寄せるイエスの姿勢が記されています。

 そして第二に、40日にわたって荒れ野でサタンの誘惑を受けられた、と記されています。逃げ出すことができたのかも知れません。しかし聖霊の働きと導きに完全に身を委ねられたイエスは、困難に直面しながらも、御父の計画に信頼し、その計画の実現のために配慮される御父への信頼のうちに、希望を見い出しておられました。

 三つ目として、イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれながらも、天使たちに仕えられていた、と記されています。すなわち困難に直面する中で、聖霊の働きと導きに身を委ね、御父の計画に信頼を置くものは、神の愛に基づく配慮に完全に包み込まれ、それが為に命の危険から守られることが記されています。

 荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、信仰、希望、愛を改めて見い出し、それを確信し、そこから力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見い出した時、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出されました。

 四旬節は、私たちが信仰の原点を見つめ直し、慈しみに満ちあふれた御父の懐に改めて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。私たちも、信仰、希望、愛に生きている自分の信仰を見つめ直すことで、神のあふれんばかりの愛と慈しみのうちに生かされていることを改めて確信し、その確信に基づいて、この世界で福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出すよう招かれています。

 その為に教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行いで、自分の信仰の振り返りをするように呼びかけています。また四旬節に行われる献金は、特に教会共同体の愛の業を目に見えるものとする象徴です。日本の教会では、四旬節の献金はカリタスジャパンに送られ、国内外の愛と慈しみの為の業に使われていきます。

 皆さん、この四十日の期間、互いに支え合う心をもって、愛の業の証しの内に歩み続けましょう。私たちの信仰は知識だけで終わるものではありません。

(編集「カトリック・あい」=原則として、日本人一般に使われている当用漢字表記で統一し、読みやすく、意味を取りやすくしました)

2024年2月17日

・「イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするように」菊地大司教、年間第6主日

2024年2月10日 (土)週刊大司教第155回:年間第6主日B

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 メッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、世界病者の日でもあります。

 教皇様はこの日にあたり、世界病者の日のメッセージを発表されています。こちらをご覧ください

 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2月11日の午後2時から、カリタス東京が主催して、世界病者の日のミサが捧げられます。今年の司式は、アンドレア補佐司教様です。

 以下、10日午後6時配信の週刊大司教第155回目のメッセージ原稿です。

【年間第六主日B 2024年2月11日 世界病者の日】

 マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の「御心ならば、私を清くすることがお出来になります」という叫びに対して、イエスが「深く憐れんで」、奇跡的に病気を治癒した物語を記しています。

 よく知られているように、このイエスの心持ち、すなわち、ここで使われる「深く憐れんで」という言葉の原語は、「はらわたが激しく動かされる様をあらわす語」であります。つまり、病気であることだけではなくそれに伴って社会の中で周辺部に追いやられその存在すら否定されている人に対するイエスの深い憐みと慈しみの心がこの言葉で明らかにされています。

 主イエスによる病者の癒しは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまった命を、癒し、慰め、絆を取り戻し、生きる希望を生み出した業でもあります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののく命に、歩むべき道を見い出す光を照らし、その命の尊厳を回復する業であります。神が与えられた最高の賜物である命の尊厳を明らかにしている、まさしく神の栄光を現し、神の慈しみと愛を明確にする業であります。

 今年の年間第六主日は、世界病者の日であります。1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日です。聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出しています。湧き出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、命を生きる希望と勇気を生み出す源となっています。

 この日を世界病者の日と定められた教皇聖ヨハネパウロ2世は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。この二つの意向を忘れないようにいたしましょう。

 今年の世界病者の日のメッセージにおいて教皇フランシスコは創世記に記された「人が独りでいるのはよくない」という言葉を取り上げ、「関係性を癒すことで、病者を癒す」をテーマとされました。

 メッセージで教皇は、「孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになる」と指摘し、その上で、「病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神との関わり、他者―家族、友人、医療従事者―との関わり、被造物との関わり、自分自身との関わり、そうしたすべての関係をケアすること」なのだと強調されます。病気に苦しむ人の叫びを耳にして深く憐れまれたイエスに倣い、私たちも、イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするように務めたいと思います。

(編集「カトリックj・あい」)

2024年2月10日

・「悪の束縛を解き放ち、喜びと希望を生み出すために出向く教会でありたい」菊地大司教、年間第五主日

2024年2月 3日 (土) 週刊大司教第154回:年間第五主日B

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 年の初めは普段以上に時間が早く過ぎ去る気がいたします。年度末ということもあるのでしょうが、あっという間に三か月が終わって、呆然とすることがしばしばです。今年はご復活が三月の末日となっていますから、すでにあと数日で四旬節となります。いつにも増して、典礼の暦が早く進む年になりそうですが、ここは心を落ち着けて、霊的には、じっくりと歩む時としたいと思います。

 千葉県の白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道院で、シスター・マリア・ファウスティナ小林清美さんが、2月2日、主の奉献の祝日に終生誓願を宣立されました。訪日中のアンゴラのゼフェリーノ大司教様他、チャプレンの野口神父様、西千葉・千葉寺・茂原の福島神父様、小田神父様が参加しました。おめでとうございます。

 こちらのリンク記事は2年前に、茂原教会訪問後に修道院を初めて訪問させていただいたときの日記です。九十九里浜のすぐそばです。この修道会の特筆ずるべき特徴については、このリンク先の2022年の日記の後半をご一読ください。下の写真、私とゼッフェリーノ大司教のあいだがシスター・マリア・ファウスティナ小林、写真の右端が院長様。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第154回、年間第5主日のメッセージ原稿です。

【年間第五主日B 2024年2月04日】

 マルコ福音は、カファルナウムで福音を告げるイエスの姿を描いています。

「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」

 イエスは、権威のある言葉を語り、人々が驚くような業を行います。弟子となったシモンの姑の熱を去らせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取りつかれた人が、癒やしを求めてイエスのもとに集まってきた様子が描かれています。

 もちろん「病いの癒やし」という出来事自体は奇跡であり、驚くべき出来事ですが、それ以上に、人生の中で困難を抱え、絶望に打ちひしがれている人たちが、イエスのもとで安らぎを得、生きる希望を見い出したことにこそ、重要な意味があると思います。権威あるイエスの姿は、同時に愛と慈しみに満ちあふれた姿でもありました。

 押し寄せてくる人生の困難を抱えた人たちを目の当たりにした時、イエスはそれを放置することはできなかった。命をより良く生きることを阻んでいる悪によって囚われの身にある人たちを解放されました。

 パウロはコリントの教会への手紙に、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」と記し、「福音のためなら、私はどんなことでもします」と宣言しています。

 パウロの宣教への姿勢は、イエスと全く同じように、「教え導いてやろう」という上からの目線の態度ではなく、困難を抱え希望を失っている人たちと同じ地平に立ち、全力を尽くして神の救いの希望に与ることができるように、束縛から解放しようとする、手を差し伸べる姿勢です。

 だからこそ、イエスもパウロも、一つのところに留まって褒め称えられるのではなく、一人でも多くの人に「生きる希望」を生み出すために、全力を尽くして出向いて行かれます。教皇フランシスコが、教会は「出向いていく教会であれ」と呼びかけるゆえんです。そのイエスの姿に倣って、私たちも神の愛と慈しみを伝え、希望を生み出し続けるものでありたい、と思います。

 2月5日月曜日は、「日本26聖人殉教者の記念日」に当たります。「自分の十字架を背負って、私に付いて来なさい」と呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じて命の福音を身をもって証しされた聖人たちです。

 聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前で証しされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、命の福音にあることを証しされた方々です。

 私たちは、「そのすべてを賭してさえも守り抜かなくてはいけない福音に生きるように」と、聖なる殉教者たちに招かれています。全力を尽くして、絶望のうちにある人たちの元に駆け寄り、困難を生み出す悪の束縛から解き放ち、喜びと希望を生み出すために、出向いていく教会でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一、また脱字は修正してあります)

2024年2月3日