・日本に最初にやってきた女子修道会、「幼きイエス会」の来日150周年感謝ミサ行われる

(菊地大司教 2023年7月 7日 (金) 幼きイエス会来日150周年感謝ミサ

 「ニコラバレ」で知られる「幼きイエス会」。東京の四谷にある雙葉学園を始め、各地で学校教育にも取り組んで来られました。日本に宣教のために最初のシスターが来日して、すでに151年です。

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 日本に最初にやってきた宣教師はフランシスコ・ザビエルで、よく知られていますが、最初に日本にやってきたシスターは幼きイエス会のメール・マチルドと4名の会員です。その意味で、幼きイエス会のシスター方は、日本の福音宣教のパイオニアです。

 来日150年を記念する行事が関係する各所で一年間行われ、その締めくくりの感謝ミサが、総長様(上の写真)も迎えて、6月24日午後、麹町聖イグナチオ教会で捧げられました。教皇大使とともに司式させていただきましたが、以下、当日の説教の原稿です。日本語の後に、サマリーが英語でついています。

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 幼きイエス会のみなさん、おめでとうございます。

【幼きイエス会来日150周年感謝ミサ 麹町教会 2023年6月24日】

 幼きイエス会のシスター方が、再宣教が始まったばかりの日本で、福音を証しする活動を始められて、既に150年以上が経過しました。長い迫害の時代を経て、大浦天主堂において聖母の導きのもと、信徒が再発見されたのが1865年。今から158年も前のことであって、その時はまだ明治にもなっていません。その後、改めて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのが1873年。ちょうど150年前の出来事です。

 150年が経った今、現代社会の視点からその当時の状況を推し量ることは簡単ではありません。私たちからは考えられないような困難に直面されたことでしょう。とりわけ、外国からやってきた宣教師として、ただ単純に日本で生きるのではなくて、福音を具体的に伝え、証しする業に取り組むことには、今では考えられない困難があったことだと思います。

 その困難な状況の中にあっても、シスター方には、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」にこそ御一人子が受肉されたこと、そしてそれは、「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」であったことを心に刻み、人生を賭けて、天の御父の御心をあかしされて行かれました。

 志を同じくする仲間達は、修道会のカリスマを具体的に生きながら、キリストの一つの体のそれぞれの部分として、社会において言葉と行いを通じて希望の光を証しすることに真摯に取り組み、いま150年という時を刻みました。これまでの歴史を刻んできた修道会の先達の奉献の志しとその働きに心から感謝いたしましょう。またその宣教活動の始まりからいまに至るまで、幼きイエス会のみなさんを導いてくださる主のはからいを心にとめ、その招きにこれからも信頼のうちに応え続ける決意を新たにしたい、と思います

 幼きイエス会のホームページの冒頭に、ニコラ・バレ神父様のことが記されていました。

 17世紀、貧富の差の激しかった当時のフランスで、貧しい家庭の子どもたちの教育が顧みられていない現実の中で、彼らが神の子の尊厳にふさわしく育つのを助けるため、無料の小さな学校を始め、その学校の女教師たちのグループが、幼きイエス会の起源だと記されていました。

 また、「貧しく、打ち捨てられた子供を受ける者は、まさに、イエス・キリストご自身を受けることになる。これこそ、本会の第一の、そして主要な目的である」という言葉も記されていました。その思いを具体的に生きるために、女子の教育や孤児の世話など、社会に大きく貢献される事業を日本においても続けて来られたのは、まさしく福音を目に見える形で生き、証しする福音宣教の業であったと思います。

 それから150年という年月を経て、今、問われているのは、大きく変革した社会の状況の中で、その同じ思いを生きるとは具体的にどういうことなのか、改めて問いかけることであり、それこそは日本の再宣教におけるパイオニアである幼きイエス会の重要な務めであるとも思います。

 私たちはこの3年間、歴史に残る困難に直面してきました。

 新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、私たちを不安の暗闇の中へと引きずり込みました。なかなか出口が見えない中を、私たちはまるで闇の中を光を求めて彷徨い続けるような体験をいたしました。

 命が危機に直面するというような体験は、なかなかあるものではありません。その意味で、先行きの見えない不安がいかに人を疑心暗鬼の闇に引きずり込み、それが社会全体において、いかに自己保身と利己主義を強め、排他的にしてしまうのかを、目の当たりにしたことは、貴重な体験であったと思います。

 今、世界はまるで暴力に支配されているかのようです。ウクライナで続く戦争は言うに及ばず、神から与えられた尊い賜物であるいのちを危機に直面させるような状況は、偶然の産物ではなく、社会全体が排他的になり暴力的になった結果であり、私たちが生み出したものです。

 この現実の中にあるからこそ、私たちは、教会が存在する理由を改めて見直し、それに忠実に生きていきたいと思います。第二バチカン公会議の教会憲章は、教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」(教会憲章一)であると記します。

 今、私たちはこの日本の地において、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」になっているでしょうか。

 教皇フランシスコは、コロナ禍の初め頃から、ポストコロナを見据えて、全世界的な連帯の重要性を説き続けてきました。教会こそは、その連帯を具体的に生きることで、「神との親密な交わりと一致」を証しする存在となることができます。

 今の世界を支配する疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まるなかにあって、教皇様は、神の慈しみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるように、と呼びかけておられます。

 とりわけ教会が、神の慈しみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「命の福音を告げる、ということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷の癒しと、和解と赦しの道を、常に差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

 疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としている命を、特に法的に弱い立場にある人たちを、命の危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。異質な存在を排除する力が強まっています。この現実の中で、私たちは神からの賜物である命を守る、野戦病院でありつづけたいと思います。

 来日150年を記念され、新たな次の一歩を模索される中で、皆さんが「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」であり続け、野戦病院であり続けることができますように、聖霊の導きを祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年7月8日