・「神の愛を受け、勇気をもって証し続ける」菊地大司教の復活節第二主日の説教

2021年4月10日 (土) 週刊大司教第二十一回:復活節第二主日

Img_20210407_191211-1 復活節第二主日は、ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。この主日について、2016年の「司教の日記」に記事がありますので、是非ご一読ください。こちらのリンクから2016年4月3日の「司教の日記」の記事に飛びます。(写真は、暗闇に輝く、カテドラル鐘楼の十字架)

 新型コロナウイルスによる感染は終息せず、あらためて検査で陽性になる方が増えているようです。東京教区の一部では、4月12日から一か月間、蔓延防止等重点措置の対象となることが発表されています。教区内の対象地域は23区、八王子市、立川市、武蔵野市、府中市、調布市及び町田市とされ、期間は4月12日(月曜日)午前零時から5月11日(火曜日)午前零時までとなっています。

 東京都によれば、都民に対しては以下の要請がなされています。(事業者には別途要請があります)

  • 都県境を越えた不要不急の外出・移動の自粛。特に、変異株により感染が拡大している大都市圏との往来の自粛(新型インフルエンザ等対策特別措置法第24条第9項)

  • 日中も含めた不要不急の外出・移動の自粛(法第24条第9項)医療機関への通院、食料・医薬品・生活必需品の買い出し、必要な職場への出勤、屋外での運動や散歩など、生活や健康の維持のために必要な場合を除き、原則として外出しないこと等を要請

  • 混雑している場所や時間を避けて行動すること(法第24条第9項)

  • 措置区域において、営業時間の変更を要請した時間以降、飲食店にみだりに出入りしないこと(法第31条の6第2項)

  • 会食において会話をする際のマスク着用の徹底(法第24条第9項)

 東京大司教区としては、また別途、公示しますが、これまでの対応を変更はしませんが、対策がすでに長期におよび、慣れや、疲れも見られることから、今一度、感染対策を徹底するように、それぞれの小教区にお願いします。

 また信徒の皆さん、司祭修道者の皆さんにあっては、今一度、気を引き締めて、共にこの困難な時期を乗り越えていくことができるように、互いに支え合い励まし合いながら、務めて参りましょう。

 以下、本日夕方6時公開の週刊大司教第21回のメッセージ原稿です。

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復活節第二主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第21回 2021年4月11日

 使徒言行録は、互いに助け合い支え合う初代教会共同体の姿を描き、心と思いを一つにした共同体の有り様そのものが、復活の主を証しする福音宣教となっていた、と指摘します。

 使徒ヨハネは「神を愛するとは、神の掟を守ること」と記し、「私たちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子どもたちを愛します」と加えることで、神の望まれる生き方をする者は互いに愛し合い、大切にしあうのだ、と指摘します。

 ヨハネ福音は、有名な弟子トマスの不信仰の話です。結局トマスは信じたのですから、この話を「トマスの不信仰」と言われてしまうのは、トマス自身には不本意でしょうが、実際にはこの話は、愛する弟子を何としてでも自らの愛のうちに包み込もうとして手を尽くされる、イエスご自身の慈しみと愛の深さを見事に表現しています。

 イエスは、恐れにとらわれ、扉を閉ざしている弟子たちのもとに現れ、自らがそうされたように、勇気を持って外に出て福音を証しせよ、と弟子を派遣します。そのために弟子たちを、自らの慈しみと愛で包み込もうとされます。勇気と希望を与えるこのイエスの言葉は、困難を抱え、不安の内にある私たちにも、今日、同じように告げられる言葉です。

 私たちは、扉を閉ざして逃げるのではなく、心と思いを一つにして、互いに支え合いながら、勇気を持って福音を証しするように、と派遣されています。それは罪の枷(かせ)に縛られ、暗闇の内にとらわれている世界に、解放と希望と光を伝えるためであります。イエスは私たちを慈しみと愛で包み、守ってくださいます。

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって「神の慈しみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、「神の慈しみと愛に身を委ね、受けた慈しみと愛を分かち合う必要」について黙想する日であります。

 1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。

 「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「憐れみ・慈しみ」と呼ばれています」(慈しみ深い神3)

 その上で、「この『愛を信じる』とは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば『愛の別名』です」(慈しみ深い神7)と言われます。

 すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けている人類」に、「赦し、和解させ、また希望する」ために、心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神の慈しみであると指摘されています。

 同時に教皇は、「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『慈しみをもつ』ように命じられている」と、神の慈しみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだ、とも語ります。(慈しみ深い神14)

 信仰における同じ確信をもって、教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記していました。

 「教会は無償の憐れみの場でなければなりません。」(114)

 誰ひとり排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。神の愛を身に受けて、それに包まれ、勇気を持って希望を証しし、告げ知らせてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年4月10日

・「社会のただ中で、希望の光となろう」菊地大司教の復活のメッセージと主日の説教

2021年4月 4日 (日)復活の主日@東京カテドラル2021

御復活 おめでとうございます。

 東京では既に桜も散り、季節は足早に進んでいますが、多少すっきりとしない天気の中、復活のお祝いを迎えることができました。例年であれば、ミサ後に復活の祝賀会などが催される教会も少なくないと思いますが、残念ながらそれもかないません。

 ご自宅でお祈りされた皆さんにも、命を守るための積極的な行動に、復活された命の主の豊かな祝福が注がれますように。

 まず、東京教区ホームページに掲載されている、復活のメッセージビデオの原稿です。

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 困難な状況が続いていますが、今年はなんとか聖週間の典礼と復活の典礼を行うことができました。まだまだお祝いなどのために集まることは出来ませんが、祈りの時を共にしながら、主の復活を祝うことができることに感謝したいと思います。

 この復活の季節に、洗礼を受け、教会共同体の一員となられる皆さんに、心からお喜び申し上げます。

 現代世界のすべての人々と、喜びと希望、苦悩と不安と共にしている教会は、困難の内にある世界の人々との連帯しながら、主キリストの復活が示している新しい命への希望を高く掲げ、不安と恐れの暗闇を振り払う存在として、現代世界に命を吹き込む存在でありたいと思います。闇に光を輝かせる存在でありたいと思います。

 私たちはキリストの体の一部です。洗礼を受け、新しい命へと招かれ、互いに信仰の絆に結ばれ、キリストの体を作りあげています。信仰に日々生きている私たちが、教会そのものです。

 困難な事態は一年以上続いています。今後、いつになったら安心して集まることができるのか、まだ分かりません。この状況の中で、忘れ去られて孤立する人、経済的に困窮する人、病床にある人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形で危険にさらされる命への配慮が、大切です。

 死に打ち勝って復活された主イエスは、新しい命の希望です。私たち自身も、社会のただ中で希望の光となりましょう。

あらためて、御復活おめでとうございます。

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 そして、以下は本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での10時のミサの、説教原稿です。

【復活の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年4月4日】

主の復活おめでとうございます。

 昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

 昨年初め頃から今に至るまで、私たちは一年以上にわたって、尋常ではない状況の中で生活をしています。今はワクチンの接種も始まっているなど、暗闇の中にも多少の光が見えてきました。それでも社会全体が受けている影響には大きいものがあり、世界の状況にも目を配れば、まだまだこの共通の家に住む私たちは、完全な光を見い出してはいません。命の危機は続いています。

 教会もこの一年間、厳しい状況の中に置かれています。感染症対策のために、また互いの命を守るための責任ある行動として、教会活動の自粛や、一時的な公開ミサの中止など、いわば試練の時が続いています。これを「試練」と感じる一番の理由は、喜びの欠如であります。

 もちろん個人的には、日曜のミサにあずかれないことや、予定されていたイベントが軒並みに中止になるなど、霊的に枯渇し、また「楽しみを奪われた」という意味で、喜びが欠如しています。しかし私たちから喜びを奪う一番の要因は、共同体が集うことができないことにあります。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」を、こう書き始めておられます。

  「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします」(1)

 自分の殻に閉じ籠って他者への配慮を忘れる生き方ではなく、出向いて行って交わりを深め、福音に生きる喜びを共にすることの重要性を説く教皇は、次のように指摘されます。

 「福音を宣教する共同体は喜びに満ちていて、いつも『祝う』ことを知っています。小さな勝利を、福音宣教における一歩一歩の前進を喜び祝います。」(24)

 その上で教皇は「隣人の聖なる偉大さを眺め、あらゆる人間の中に神を見つけ、神の愛により頼むことで、共に生きることの煩わしさに耐え、良い方である御父のように他者の幸福を望んで神の愛に心を開くことのできる兄弟愛」こそが真の癒しを提供する、とされ、「共同体を奪われないようにしましょう」と呼びかけられています。(92)

 感染症対策のため、教会が選択した道は、残念ながら実際に集まって共に祈り、共に学び、共に活動する機会を制限することになってしまいました。具体的に肌で感じることのできる共同体の存在が制限されたことが、信仰における喜びをも制限してしまうことを、今、肌で感じています。

 その事実が逆に、意識するしないにかかわらず、キリスト者が共同体として集うこと自体が、どれほどの福音の喜びを自然に生み出していたのか、私たちに気付かせます。

 私たちには、福音の喜びを生み出す共同体が必要です。共に祈る共同体が必要です。兄弟愛を見い出し、兄弟愛を実践する共同体が必要です。福音を共に証しし、共に出向いていく共同体が必要です。

 もちろん私たちは、「教会共同体とは、具体的な人の集まりであり、現実の組織体であると同時に、霊的な共同体であること」も知っています。

 「カトリック教会のカテキズム」には、「私たちは生者と死者を問わず、万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。「地上の旅路を歩む民」と「天上の栄光にあずかる人たち」には連帯関係があり、共に教会を作り上げています。

 それを第二バチカン公会議の教会憲章は「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ、複雑な一つの実在を形成している」と記しています。

 私たちは、信仰における兄弟姉妹と、そして信仰の先達と共に、キリストの唯一の体において一致し、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。ですから、どこにいても、独りで祈りをささげていても、独りで愛の業に励んでいたとしても、また司祭が独りでミサを捧げていても、私たちはそれを霊的な絆にあって、共同体の業として行うのです。一つの体であるキリストに結ばれている限り、私たちは霊的に孤立することはありません。

 とは言え、現実社会での生活は、そう簡単に割り切れるものでもありません。

 教皇フランシスコは、今年、「ヨセフの年」を祝うように招かれておられます。使徒的書簡「父の心で」に、次のように記されています。

 「人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。…ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしても、それを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。過去に対するわだかまりを解かなければ、私たちは次の一歩を踏み出すことすらできないでしょう。期待とその結果としての失望に、とらわれたままになるからです。ヨセフの霊的生活は、明らかにする道ではなく、受け入れる道を示しています」

 ヨハネ福音は、復活の出来事を目の当たりにしても、「いったい何が起こったのか」を理解できずにいたペトロの姿を記しています。ところが使徒言行録には、復活の主に出会ったペトロが、力強く語る姿が記されています。

 イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れ、三度、「イエスを知らない」と裏切ったあの夜の態度とは、また、復活の出来事を目の当たりにしても理解できなかった、ヨハネ福音に記された姿とは打って変わって、イエスについて、そしてイエスの死と復活を通じてもたらされる救いについて、力強く語る姿を、使徒言行録は記しています。

 それは「知識を教えているような姿」ではなく、「心からあふれてくるものを、どうしても語らずにはいられないペトロの姿」です。それほど多くの人に伝えたくて仕方のない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話があるーそういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。復活された主と出会ったペトロは、喜びに満ちあふれており、あふれる喜びを分かち合わずにはいられません。復活の主と出会った共同体は、あふれんばかりの福音の喜びに満たされています。

 ご存じのように、長年にわたって姉妹関係にあるミャンマーの教会を、東京教区はケルン教区と共に支援してきました。2月1日の軍事クーデター後、自由と民主主義の尊重を訴え抗議する人たちや、以前からあった少数民族との対立の中で難民となった人たちへの、暴力的な対応によって、多くの命が奪われています。命を奪う現実に喜びはありません。ミャンマーの教会の呼びかけに応え、連帯の内に平和を祈りたいと思います。暴力ではなくて対話の内に、人間の尊厳が守られる社会が確立されるように呼びかけたい、と思います。命の危機を避けるように呼びかけたいと思います。

 私たちは、共同体の霊的な繋がりの内に、福音の喜びを共に見い出したいと思います。不可解な現実の中で、愛を実践するように招いておられる主は、私たちとの出会いを待っておられます。困難な中だからこそ、ペトロのように主との出会いの喜びを、福音の喜びを、共に証しする共同体でありましょう。

(編集「カトリック・あい」=見出しも・表記は読みやすくするために当用漢字表記に原則統一させていただきました。)

 

2021年4月4日

・「信仰は『思い出』ではなく『現実』、常に挑戦し続ける旅を」菊地大司教の復活徹夜祭ミサ説教

2021年4月 3日 (土)復活徹夜祭@東京カテドラル2021

主の復活 おめでとうございます。

 困難な時期にあって、それぞれの地でどのような復活祭を迎えておられるでしょう。昨年は、典礼を公開で行うことができませんでしたが、今年は、さまざまな制約を設けてではあるものの、共に祝うことが出来ました。

 とはいえ、事態はまだ収束をしていませんし、今後も予測はつきませんが、多くの方が実際に教会へ足を運ぶことができずに、ご自宅などでお祈りをされたかと思います。復活の主において、私たちは霊的な共同体に繋がれていることを心に思い起こされますように。また、今の「教会へ行きたい」という強い思いを、大切に心に刻んでおいてください。状況が安心できるようになったら、一緒に祈りをささげましょう。

 「この夜、キリストは死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ち上がられた」

 祈り求めるお一人お一人のもとへ、復活された主の希望の光がしっかりと届きますように。

 暗闇にさまよう私たちに、命の希望の光が輝きますように。

 疑いと不安にさいなまれる私たちに、慈しみが豊かに注がれますように。

 荒れ野で渇く私たちに、慰めで包み込む愛が与えられますように。

 復活の主から与えられる愛と希望に包まれた私たちが、その愛と希望を、多くの人に分かち合うことが出来ますように。

 命を賭して、他者の命を守り抜こうと奮闘する方々の上に、護りと報いがありますように。

 病床にある人に、癒やしの手が差し伸べられますように。

 亡くなられた方々に、永遠の安息がありますように。

 「私の希望、キリストは復活し、ガリラヤに行き、待っておられる」

 関口教会の今夜の復活徹夜祭では、15名の方が洗礼と堅信を受けられ、お二人の方が転会されて共同体の一員となられました。皆さんおめでとうございます。

 以下、今夜の説教の原稿です。

【復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年4月3日】

「あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」

暴力的に奪われた主の死を嘆き悲しむマグダラのマリアたちに天使が告げたのは、驚きの言葉であったことだと思います。

絶望の淵にあったマグダラのマリアたちに、新たな希望の光として差し込んだ天使の言葉は、同時に新たな挑戦を突きつける言葉でもありました。

福音に記されている三人の女性の会話は、「あの石を誰が取りのけてくれるでしょうか」という、イエスの死とは全く関係のない心配事でした。すなわち、亡くなられたイエスとの出来事やその存在はすでに「過去の思い出」となり、彼女たちの関心は、今現在の心配事である石を取り除くことでありました。もちろん主を失った悲しみで、心はいっぱいだったことでしょうが、イエスご自身の存在は「思い出」となり、彼女たちはすでに新しい時を刻み始めていた様を、この会話が描写します。

イエスの復活を告げる天使は「あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが」と述べています。天使は、彼女たちにとってのイエスがすでに「過去の存在」となっていることを、「十字架につけられたナザレのイエス」と形容することで示唆します。

しかし、「復活されたイエス」は、彼女たちが過去の思い出として懐かしんでいるナザレ出身の十字架につけられて殺されたあのイエスとは全く異なっているのだ、「新しい生命に生きている存在」なのだ、ということを、天使は「ここにはいない」の一言で示唆します。その上で、これまでの過去の生き方との連続を断ち切るように促し、全く新たにされた生き方へと一歩を踏み出せと言わんばかりに、「エルサレムを離れ、ガリラヤへ行くように」と旅立ちを促します。

イエスに従う者には、過去と訣別し、新たな挑戦へと勇気を持って一歩踏み出すことが求められています。

「過去の思い出」は、時の流れのある時点に、いつまでも変わることなく留まり続けます。変化することがないので、安心して留まり続けることができます。しかし復活の出来事は、その静止画となった「過去の思い出」を、動き続け、前進し続ける「現在進行形」へと変えていきます。信仰は「思い出」ではなく、「現実」です。

そのことを、出エジプト記の物語は見事に描写しています。救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野をさまよいます。安定した過去へ戻ろうと神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進し、新しい挑戦へと民を導きます。

私たちの信仰生活は、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。

洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

創世記には、「海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」と記されていました。教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」に、次のように記しておられます。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません」(67)。

教皇は、天地創造の物語が、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っていることを示唆して」いると指摘されます。その上で、「聖書によれば、命に関わるこれらの三つの関わりは、外面的にも、私たちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪」(66)なのだと指摘されます。

教皇はこの回勅の冒頭で、「私たち皆が共に暮らす家」を守ることの責務を指摘しつつ、ヨハネ二十三世教皇の回勅「地上の平和」に触れておられます。

「地上の平和」の冒頭には「すべての時代にわたり、人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(1)と記されています。

すなわち、平和とは、神が与えられたこの世界の秩序を回復することであり、それは「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を回復し、「皆が共に暮らす家」を神が望まれるふさわしい姿に回復させることに含まれています。

信仰を生きるためには、心の内側を見つめて、神との個人的な出会いの体験を深めていくことも大切ですが、同時に、社会の現実の中でイエスの思いを実現し、神が望まれる秩序を回復するために、具体的に行動することも不可欠です。神から賜物として与えられた命を生きることは、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を、ふさわしいあり方に回復させる努力を続けること、でもあります。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み始めたように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。つまり洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点に過ぎません。

「福音に生きる」ということは、簡単に手に入る生き方ではありません。私たちは、強い意志を持ち、たゆまぬ努力を続けることを通じて、信仰を守る挑戦の旅を続けるように呼ばれています。

もちろん現実の世界に生きている私たちにとって、信仰を強固に保って行くには、いささか困難を憶える様々な障害が立ちはだかっていることでしょう。福音を宣べ伝えることは言うに及ばず、キリスト者であることさえ、他の人に言うこともできない、隠しておきたい。そんな誘惑の中にあって、「洗礼を受けたことだけで充分だ、もうそれ以上は仕方がない」と諦めてしまうことが、あるやもしれません。まさしく、墓に向かう途中に、「誰があの石を取りのけてくれるか」と目前の困難について話し合っていた三人の女性と同じです。

でも彼女たちは、目を上げることによって、そこに、解決がすでに用意されていることを知りました。私たちも信仰に生きるにあたって、どんな困難にあっても、神に向かって目を上げることを忘れないようにいたしましょう。そして、よりふさわしく福音に生きるために、妥協に満ちた簡単な方法ではなくて、困難な道を選び取り、強い意志とたゆまぬ努力の内に、常に挑戦し続ける旅路を歩んでまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に統一させていただきました)

 

2021年4月4日

・聖金曜日・「主の受難」の枢機卿説教「教会内部で友愛が損なわれている、まず司牧者が良心の糾明を」

(2021.4.2 Vatican News  Robin Gomes)

   聖金曜日の「主の受難」の典礼が2日夜(日本時間3日未明)バチカンの聖ペトロ大聖堂で教皇フランシスコの主宰で行われ、儀式中の説教は教皇の説教師、ラネリオ・カンタラメッサ枢機卿が担当した。

 枢機卿はまず、「カトリックの信徒の間の友愛が損なわれている」とし、「司牧者たちは、教会における友愛と一致を作ることについて真剣に良心の糾明を、率先して行うべきです」。具体的には、「平和を築くのと、まったく同じ方法で友愛を築きますー私たちの周りから、私たち皆で始めます… それは、私たちにとって普遍的な友愛がカトリック教会とともに始まることを意味するのです」と強調した。

*イエスは「兄弟」という言葉に「助けを必要としているすべての人」の意味を込められた

 そして、枢機卿は、教皇が昨年秋に発出された回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」を引用する形で、友愛と一致について考察した。

 「この回勅は、カトリック教会の内外の非常に幅広い人々に向けられたものであり、人類全体に向けられたもの… 私たちの公私にわたり、宗教界から社会的および政治的分野に至るまで、人生のさまざまな分野で、現実を見据えたうえで、人類が公正な友愛に到達するための道を提示しています」と前置き。

 枢機卿は「私たちが祝っている十字架の神秘は、ゴルゴタの丘から始まったキリスト論的な友愛の基盤に正確に焦点を合わせるように強いています」と述べ、「『brother(兄弟)』という言葉の最も一般的な意味はsibling(兄弟姉妹)です。さらに一歩進んで、同じnation(国民)あるいはpeople(住民)を意味します」としたうえで、「『兄弟』が聖書にあるように『 neighbour (隣人)』と訳されることで、すべての人間を含む広い意味になります。イエスが『あなたが私のこれらの最も小さい兄弟の一人のためにしたことは何でも、あなたは私のためにしたのである』*と言われる時、イエスは『助けを必要としているすべての人』をさして言っておられるのです」と語った。

*注:イタリア語版、英語版など各国語版聖書で「one of these least brothers」とされている箇所は、日本語の「聖書協会共同訳」「新共同訳」では「この最も小さな者」とされている。

*主が復活された後、キリストが私たちの「兄弟」となる

 そのうえで、枢機卿は、「主の復活をもって、『兄弟』の重要性に決定的な進展があります… 過ぎ越しの神秘において、キリストは『多くの兄弟の中で長子』(ローマの信徒への手紙8章29節)となり、弟子たちは、新しい、非常に深い意味で『兄弟姉妹』になるからです」とし、「イエスが、弟子たちを初めて『兄弟』と呼ぶのは復活された後、墓の外に立って泣いているマグダラのマリアに復活された姿を見せ、『私の兄弟たちの所に行って、こう言いなさいー私に父であり、あなたがたの父である方、また私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』(ヨハネ福音書20章17節)と命じられた時です」と説いた。

 そして、「主が復活された後、『兄弟』という言葉は、信仰で結ばれた兄弟、キリスト教共同社会のメンバー、つまり『キリストの血を分けた兄弟』を表わすようになります。家族、国民、あるいは民族に代わるのではなく、キリストの友愛がそれらすべてに“戴冠”されるのです。キリスト教の信仰は二つ目の、決定的な側面を加えますー私たちが『兄弟』なのは、創造され、共通の父を持つからだけでなく、共通の兄弟、キリストー贖罪によって多くの兄弟の中で最初に生まれた者ーをもつ、という側面です」と指摘。

 

*教会内部の不一致を癒す

 また枢機卿は、「カトリックの信徒の間の友愛は傷ついているが、教会の不一致は教義、秘跡、そして司牧が原因ではありません… カトリックを二極化する不一致は、宗教的、教会的配慮よりも優先された結果、観念体系にまで発展した政治的な意見が原因になっています。公けに話し合われない、あるいは軽蔑され、否定される問題です」と述べた。

 そこで求められるのは、「友愛を、平和を作るのと同じやり方で作ること。そして、自分たち自身から、教会の中で始めること。必要なのは、真剣な良心の糾明と回心」であり、「不一致の醸成は、悪魔ー”種を蒔く敵”ーの”卓越”した業です」と注意した。

 そして、「イエズスこそ私たちが従うべき模範。当時のユダヤにおける四つの主要勢力ーファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ大王を始祖とするユダヤ王朝支持のヘロデ党、熱心党ーのいずれに引き込まれることも拒否し、初期のキリスト教徒も同じ道を歩みました…。司牧者は良心を真剣に糾明する最初の人になる必要がある。自分の群れを『自分』に導いているのか、それともイエスに導いているのか、自問せねばなりません」と司祭たちに忠告した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年4月3日

・「困難な今だからこそ、キリストの愛を証ししよう」菊地大司教の「主の受難」典礼説教

2021年4月 2日 (金)聖金曜日主の受難@東京カテドラル2021

Gf2101 本日は聖金曜日。主イエスの受難と十字架上での死を思い、沈黙の内に、神の私たちへの愛と慈しみに身を任せ、祈る日です。本日、聖金曜日の典礼における、説教原稿です。

【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年4月2日】

 主イエスが耐え忍ばれたのは、愛する弟子たちによって裏切られ、独り見捨てられたことによる心の痛みと苦しみ、そして十字架上での死に至る受難という心と体の痛みと苦しみでありました。

 主イエスのその苦しみを、改めて私たち自身の心に刻む今日の典礼は、主の苦しみが私たち一人ひとりと無関係なのではなく、まさしく私たち一人ひとりの罪を背負ったがための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

 イザヤは「彼が担ったのは、私たちの病。彼が負ったのは、私たちの痛みであった… 彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記していました。

 人類の救い主である主イエスが、私たちの犯した罪と苦しみを背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命をささげた事実を指摘する、預言者の言葉です。

 私たちはミサにあずかるとき、最初に罪の赦しを願います。それぞれの個別の罪を告白するわけではありませんが、しかしこの時、私たちは、「兄弟の皆さんに告白します。私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と言葉にします。

 「思い、言葉、行い、怠り」

 私たちは心に抱えているさまざまな「思い」に基づいて生きています。自分の生きる姿勢を定めている心の思い。表に出さず心に秘めている思いで、私たちはしばしば神に背を向けてしまいます。

 私たちが日々発する「言葉」は、多くの場合、他者との関係の中で口に出る言葉です。私たちは、心の思いに促されて発した言葉で、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

 私たちの日々の「行い」も、また、他者との関係の中での行動であり、言葉と同じように、善に資することもありながら、やはり他者を傷つけ、神に背を向けることもしばしばです。

 そして、私たちはなすべきことを意図的にまたは無意識的に「怠り」に任せることで、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

 ミサを始めるときに、私たちは共同体に対して自らが抱えてきた罪の数々をこの言葉によって告げるのですが、そこで告げられたあまたの罪はどうなるのでしょう。

 それはまさしく、聖体を拝領する直前に「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ」と唱えることで、その私たちの犯したあまたの罪を、これから拝領しようとする聖体に現存される主ご自身が、いけにえの子羊として自ら背負い、取り除いてくださったことを、再確認します。私たちがいただく聖体は、私たちの罪を背負われた神の子羊その方であります。

 主イエスが耐え忍ばれた苦しみは、私たち一人ひとりと無関係ではなく、私たちの罪の結果であることを、改めて、心にとめましょう。私たちに対するあふれんばかりの愛の結果として、ご自分を献げてくださる主の愛に、あらためて感謝したいと思います。

 この一年、私たちは新型コロナ感染症の脅威の前で、立ちすくんでいます。命の危機から逃れる術をまだ知らず、神に助けを求めています。苦しみに直面している私たちは、主の十字架での苦しみから何を学ぶことができるのでしょうか。

 教皇フランシスコは、2016年年3月19日に発表された使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」発表から今年で5年となることを記念し、この使徒的勧告「愛の喜び」についての考察を、特に「家庭」に焦点を当てて考え深める特別年の開催を布告されています。

 教皇様は、感染症の拡大という現在の困難な時にこそ、キリスト教的家庭の姿を真の「善き知らせ」として示すべきだ、と強調されています。また教皇様は、現実社会にはさまざまな形態の家庭があり、困難を抱える家庭や分裂した家庭が多く存在することをよく知った上で、それでも、家庭は私たちの最も根源的な人間関係を守る存在であり続けるのだ、と強調されています。

 この勧告には、次のように記されています。

「キリストは、とくに、愛のおきてと他者のための自己犠牲をご自分の弟子たちの明白なしるしとし、父親や母親が自らの生活の中で常々示している原則を用いて、それを示しました。それは、『友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない』ということです。愛はまた、憐れみと赦しとなって実を結びます。(27)」

 家庭における互いの関係の中に、イエスの憐れみと赦し、そして自己犠牲の生き方が明確に示されており、その姿を通じて、福音を告げ知らせることができるのだという指摘です。

Gf2102 十字架上で苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていた、と受難の朗読に記されていました。

 苦しみの中で命の危機に直面していても、主イエスは、母への配慮を忘れません。神の愛そのものである主の心は、母に対する慈しみと思いやりにあふれています。

 「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母に委ねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。

 十字架上の苦しみの中でイエスが証しされたのは、まさしく「愛のおきてと他者のための自己犠牲」が「ご自分の弟子たちの明白なしるし」である事実でありました。

 十字架は、弟子である私たちにどのような生き方をするべきなのかを、明確に示しています。私たちのすべての罪を背負われてあがなってくださった主イエスの愛に応えるために、私たちは「愛の掟と他者のための自己犠牲」を証しする者とならなければなりません。その模範は、聖母マリアを母としていただく教会共同体という家庭の中で、私たちにすでに示されています。

 困難な状況の中にいるから今だからこそ、愛と慈しみを私たち自身が身に帯びて、他者のための自己犠牲の証し人となる道を模索しましょう。十字架上の苦しみにあってさえも、「愛のおきてと他者のための自己犠牲」を証しされた主イエスに倣い、愛と慈しみに生きるものとなりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年4月3日

・「聖体に生かされた私たちは、社会のただ中で愛を証しする」菊地大司教の主の晩餐のミサ

2021年4月 1日 (木) 聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル2021

 聖なる三日間が始まりました。昨年は、ミサは非公開でしたが、今年は数点の感染対策の制約の下、行うことになりました。聖座(バチカン)の典礼秘跡省からも、感染症下での聖週間の典礼について、特別な定めを設けるガイドラインが出ていますが、東京教区の典礼委員会でも、同様にガイドラインを作成して、主任司祭の皆さんに配布してあります。この聖なる三日間も、通常とは異なる点が諸々あると思いますが、どうか事情をご理解くださり御寛恕ください。特に今夜のミサでは、例年行われる洗足式や、ミサ後の聖体礼拝などが行われないことになっています。

 なおすでに教区ホームページなどでもお知らせしていますが、ケルン教区の呼びかけで、ケルン教区、レーゲンスブルグ教区、ニューヨーク教区、そして東京教区は、連帯して、聖木曜日にミャンマーの平和と安定のため、自由が守られいのちの尊厳が守られるように、共に祈ることにしています。聖香油ミサでも触れましたが、どうかミャンマーのためにお祈りください。これはチャールズ・ボ枢機卿を始め、ミャンマーの司教団からの要請に応えるものです。今日に間に合わない場合は、明日以降でも構いません。ミャンマーのためにお祈りください

以下、本日のミサの説教原稿です。

【聖木曜日・主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年4月1日】

 教会共同体は、聖体の秘跡によって霊的に養われ、キリストの体にあって一致するように招かれています。わたしたちは聖体の秘跡によって、神のあふれんばかりの愛を、心と体で、具体的に感じさせられます。聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、残していく弟子たちに対する切々たる思いを実感として残し、聖体祭儀が繰り返される度ごとに同じように実感させようとなさいます。

 出エジプト記は、「過ぎ越し」を定められた神の言葉を記していますが、その終わりにはこう記されています。

 「この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしての掟として代々にわたって祝いなさい」(12章14節)

 パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定にあたり、「私の記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉を記し、さらににこう続けます。

「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリントの手紙1・11章26節)

 そしてヨハネ福音書は、最後の晩餐の出来事として、直接に聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりに、こうあります。

 「それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(13章14‐15節)

 聖書に記され、残されたこれらの言葉に込められた、神の思いは何でしょうか。それは神が私たちに対して行った業を、私たちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。その行いに込められた神の思いを、心に刻み込むように。刻み込むことによって、それを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けよーそのように願う神の切々たる思いが、感じられる言葉であります。

 神のその思いを表現するために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われます。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去のある出来事ではなく、具体的な生き方への指示、命令を現す言葉です。「忘れずに生きよ」という指示です。そしてその忘れてはならない記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、心に刻み込んでおく記憶です。私たちには、子々孫々まで、その記憶を具体的に生き、伝える務めがあります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」に、こう記しています。

 「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえ、それは教会が歴史の中を旅する上で携えることのできる、最も貴重な宝だ、ということができます。(教会に命を与える聖体9)」

 その上で教皇は、ヨハネ福音書が「弟子の足を洗う」という愛の奉仕の業を記していることに触れて、「『主が来られるときまで』主の死を告げ知らせながら、聖体にあずかる者は誰でも、自分の生活を変え、自分の生活をある意味で完全に『聖体に生かされた』ものにしていくよう導かれます。(20)」と指摘します。

 すなわち、「私の記念としてこれを行え」というイエスの言葉は、単に聖体の秘跡を繰り返すことだけを求めているのではなく、その結果として、日々の生活が「聖体に生かされた」ものとなること、すなわち、「徹底した愛の奉仕に具体的に生きる」ことが求められているのだ、と指摘されます。

 聖体を受ける私たちには、イエスご自身が生きたように、愛と慈しみをもって、隣人を愛しながら、互いに支え合って生きていくことが求められています。それは聖体をいただく者の、聖なる義務であります。

 主イエスの言葉を心に刻み、代々受け継ぎながら、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を証ししていく務めは、私たち教会共同体に与えられた使命であります。

 教会はこの一年間、新型コロナ感染症の危機のなかにあって、さまざまな困難に直面してきました。そもそも集まることが難しい今、さらには集まったとしても、距離を保ち、接触を避け、共に歌うこともない状況で、信仰共同体を存続させる危機に直面しています。

 自らの存在が危機に直面するとき、どうしても私たちの心は内向きになって、守りに入ってしまいます。自分たちのことばかりを心配するとき、主イエスがその言葉と行いで証しした神の慈しみを具体的に生きる行動は、背後に追いやられてしまう危険があります。

 同時に私たちは、今回の危機的状況が、健康だけではなく、例えば経済や雇用などの問題も惹起し、それが命の危機を招いている状況も、直接に、また間接に知らされています。助けを必要とする命は、この危機的状況の中で、残念ながら増加しています。

 幸いなことに、教会には、このような状況にあっても愛の奉仕に務めようとする活動が多く見られます。東京大司教区の災害対応チームでは、そういった活動を紹介しようと、三度にわたってオンラインセミナーを開催してきました。特に先週の日曜日には、小教区を中心に、食を確保するための活動を行っているグループの話を聞くことができました。

 賜物である命を守るためには、当然のことですが、「衣・食・住」が充分に保障されていることが不可欠です。かつては、いわゆる途上国の、とりわけ貧困地域で生きる人たちが直面する問題だ、と思い込み、日本のような先進国では食料は充分に行き渡り、「衣・食・住」の問題で命が危機に陥ることは、それほど多くはない、と思われるきらいがありました。

 しかし、この数年の経済格差の広がりや、この一年の感染症の状況下における経済危機、雇用危機が、「衣・食・住」を命を危機に陥れる連鎖の重要な要因としつつある現実に、今、私たちの社会は直面しています。その中で、「食」を保障する活動には、愛の奉仕として大きな意味があります。

 聖体の秘跡によって生かされている教会は、主イエスの言葉と行いを心に刻み、賜物である命を守るために、互いに支え合い助け合うことの大切さを、社会のただ中に出向いていって、証ししなければなりません。

 教皇ヨハネパウロ二世は「聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるに留まらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架上のいけにえを世々に永続させるのです。(11)」と述べています。

 御聖体に生かされている私たちは、神ご自身による目に見える行いによる究極的な愛のあかしである十字架上のいけにえを、代々に渡って告げしらせる務めがあります。この困難な時期だからこそ、常識の枷を打ち破って愛の業を弟子たちの心に焼き付けたイエスに倣い、愛の証しに生きていきましょう。

(編集「カトリック・あい」=引用された聖書の箇所は「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

2021年4月1日

・「コロナ禍で苦しむ方々、働く方々の為に、ミャンマーの人々の為に祈る」菊地大司教の聖香油ミサ

聖香油ミサ@東京カテドラル

Chrism2102 聖木曜日の1日、午前十時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区の聖香油ミサが行われました。新潟もそうですが、他の教区では遠隔地から司教座のある町まで出かけてくる司祭の交通の便を考えて、水曜日、または火曜日に行われることが多いのですが、東京の場合は晩に行われる主の晩餐のミサまでに小教区に戻ることが基本的に可能なことから、聖木曜日に行われています。

 (例えば新潟教区の場合、司教座のある新潟市から一番遠いのは秋田県の鹿角教会だと思いますが、車で移動するとなると、新潟から鹿角まで、秋田市を経由して、普通に走って7時間弱かかります。秋田市も、車では5時間弱です。)

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 なお聖座(バチカン)の典礼秘跡省からは、現在の感染症の状況のため、昨年に続いて今年も、他の時期に聖香油ミサを移動する許可が届いています。

 東京でも昨年は6月まで移しましたが、今年は聖週間に行うことが出来ました。しかし、残念ですが、感染対策として、ミサは公開せず、司祭と関係者と聖歌を歌ってくれたシスター方だけで執り行いました。また教皇庁大使館の臨時代理大使であるモンセニョール・トゥミル参事官も参加してくださいました。

Chrism2105 本日のミサの中で、秘跡に使われる病者の油、志願者の油、聖香油が祝福・聖別されると共に、司祭団は叙階の誓いを新たにしました。

 また東京教区の神学生である熊坂直樹神学生と冨田聡神学生の、助祭・司祭候補者認定式が行われました。お二人はこの認定を受けた後から、スータン(黒の長衣・カソック)を公式の場で身につけることが出来、今後神学院で勉学を続けて、数年後の叙階を目指します。お祈りください。

 なお本日のミサの模様は、youtubeの関口教会のチャンネルからご覧いただくことが出来ます。

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以下、聖香油ミサの説教原稿です。

【聖香油ミサ 2021年4月1日 東京カテドラル聖マリア大聖堂】

 改めて繰り返すまでもなく、昨年2月頃から、新型コロナ感染症に起因する状況の中で、わたしたちは、これまで経験したことのないような人生を送っております。教会においても、通常の活動を制限せざるを得なくなり、毎年恒例の行事はすべてキャンセルとなり、会議はオンライン化され、小教区の典礼も感染状況に応じて中止としました。

 入院する人や重篤化する人、さらに亡くなられた方は、他の国々と比較すれば少ないとは言え、それでもいくつもの悲劇的で突然の別れを引き起こしているのは事実であり、その社会への影響には侮れないものがあります。

 改めて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈ると共に、今も病床にある方々の回復を祈り、さらには命を守るために最前線で働いておられる多くの医療関係者の方々の健康が守られるように祈り続けたいと思います。

 教皇フランシスコは、回勅「Fretelli Tutti(兄弟の皆さん)」において、現在の社会が直面しているさまざまな困難を指摘し、さらには今回の新型コロナ大感染の状況にも触れられた後、それでも希望について語り合おう、と呼びかけ、こう記しています。

 「無視することのできない暗雲が立ちこめているというものの、私はこの回勅で、希望に至るさまざまな道について取り上げ議論したいと思います。なぜなら神は、私たち人類家族に、善の種を豊かに蒔き続けておられるからです。今回の新型コロナ大感染は、恐怖にもかかわらず、命をかけて対応した私たちの周囲にいる多くの人を認識し、評価することを可能にしました」

 その上で教皇は、私たちの命は、共に生きている歴史の中でさまざまな役割を担うごく普通のありとあらゆる人との関わりのうちに成り立っていると指摘し、「独りで救われる人はいない」と述べて、この人と人との関わりの中に、今を生きる希望があるのだ」と諭されています。(54)

 教会は、この困難の最中にあっても、賜物である命を守ることを強調しながら、希望の光を掲げる存在でありたいと思います。

 命を守ることは、私たちの信仰にとって重要な視点です。命は、すべからく、その始まりから終わりまで、尊厳が守られなくてはならない、と教会は主張してきました。

 今、例えば東京教区が神学生養成などを支援しているミャンマーでは、軍事クーデターを経て、自由と民主主義を求める人たちが弾圧され、少なくない命が暴力的に奪われる事態となっています。ミャンマーの司教団の要請に応え、ミャンマーの教会と心を合わせて、命の尊厳を守る平和が確立されるように祈りたいと思います。

 さらに、すべての命を守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰一人として排除されない世界を実現しようとすることでもあります。裁き排除する教会ではなく、社会の現実のただ中にあって、慈しみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。

 教皇フランシスコは、すべての命を守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくこと、また共通の家である地球を守ることにも繋がると指摘します。2020年5月24日からの一年間は、教皇によって、回勅「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年、とされています。

 命の危機が叫ばれる今だからこそ、私たちはさまざまな視点から現実をとらえ、被造物を大切に護るために優先すべき事項を見つめ直し、命を守ることを前面に出す教会共同体でありたいと思います。

 先般、宣教司牧方針を発表させていただきました。方針なるものは具体的な行動につなげなければ、絵に描いた餅で終わります。そのためにも、司祭、修道者の皆さんのご理解と協力をお願いしたいと思います。

 ただ、即座に何か大きな変化があるわけではありません。時間をかけて、方針に記しましたが、それを大枠として、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」を育て上げていきたいと思います。

 それはベネディクト十六世が指摘された教会の本質である三つの務め、すなわち、「神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』 25 参照)を充分に実現するためです。それぞれの現場で、さまざまな具体的取り組みがこれから考えられることを期待していますが、一番の目的は、福音を証しし、社会の中で希望の光を輝かせる教会となることであります。

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 さて今日は、この聖香油ミサの中で熊坂直樹神学生と冨田聡神学生の助祭・司祭候補者認定式が行われます。

 キリストは「収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい」とお命じになりました。この方々は、ご自分の群れに対するわたしたちの主の心遣いを思い、教会の必要を考えて、主の招きに対して、かつての預言者と同じように、「私がここにおります。私を遣わしてください」と進んで答える用意が出来ています。この方々は、主に信頼し、その招きに忠実であるように主に希望を置いているのです。

 主の招きの声は、さまざまなしるしによって理解され、識別されなければなりません。このようなしるしによって、主のみ旨は、日々、賢明な人々に明らかにされるのです。

 キリストの役務としての祭司職にあずかるよう神から選ばれる方々を、主はご自分の恵みで導き、助けてくださいます。同時に、主は、候補者たちがふさわしいかどうか確かめることを私たちにお委ねになります。そして、ふさわしいと認めた後、この方々を招き、聖霊の特別の証印を押して、神と教会の奉仕のために叙階されることになります。

 この聖なる叙階によって、この方々はキリストが世にあって果たされた救いの業にあずかり、それを果たしてゆくのです。ですから、やがてこの方々は私たちの奉仕職に結ばれて教会に仕え、自分が遣わされたキリスト教共同体を言葉と秘跡によって育むのです。

 ところで、愛する兄弟の皆さん、あなた方はすでに養成の道を歩み始めています。この養成によって、日々、福音の模範に従って生き、信仰と希望と愛のうちに確信を深めることを学んでください。そして、これらを身につけ、祈りの精神を育て、すべての人をキリストのものとする熱意を育んでください。

 キリストの愛に駆り立てられ、聖霊の働きに強められて、あなたがたは、聖なる叙階を受けて神と人々への奉仕に身をささげたい、という願いを今、公に示そうとしておられます。私たちは、この願いを喜んで受け入れます。

 あなた方は今日から、自分の召命をさらに成長させなければなりません。とくに、あなた方の召命を育てるように定められた東京教区の共同体と日本の教会が提示する手段を助けとして、また、支えとして用いてください。

 私たちは皆、主に信頼し、愛と祈りによって、皆さんの助けとなりたいと思っています。

 それでは、ひとりずつ、東京教区の共同体を代表するこの集いの前で、自分の決意を表明してください。

(これ以降、助祭・司祭候補者認定式が続く)

2021年4月1日

・「困難な時だからこそ、弱さを自覚しよう」菊地大司教の受難の主日ミサ説教

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 聖週間が始まりました。本日は受難の主日または枝の主日と呼ばれます。これまでは、教皇ヨハネパウロ二世の定めにより、この日は「世界青年の日」とされていましたが、今年から、「王であるキリストの主日」が世界青年の日となります。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の午前10時のミサを司式いたしました。今年は、感染予防策として、聖座の典礼秘跡省からも指針が出ていますが、東京教区でも典礼委員会が指針を策定しました。

 最終的な指針の適用は、それぞれの地域・小教区で事情が異なりますので、主任司祭の判断です。皆様には、制約がさまざまあろうかと思いますが、主任司祭の指示に従ってくださるようお願いします。

 関口教会も、そんなわけで、今朝は外からの行列は中止。本当はルルドから行列するのですが、仕方がありません。皆さんには会衆席に着いていただいたままで、司祭と侍者が聖堂入り口で枝の祝福をし、会衆席を聖水を撒いて祝福して回り、福音を朗読してから、入祭となりました。

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 聖週間の主な典礼は、関口教会のyoutubeチャンネルから、配信されています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

 【受難の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年3月28日】

一年前の聖週間、教会の扉は閉じられたままでありました。一年前、新型コロナウイルスによる感染症が拡大する中で、私たちは先行きの見えない不安に苛まれながら、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という受難朗読にあるイエスの言葉を、自分の言葉としていました。

残念ながら状況は劇的に改善してはいないものの、今年はそれでも、さまざまな制約を設けながらではありますが、聖週間の典礼を行うことが可能となりました。今しばらくは、状況を見極めながら、慎重な行動を選択し続けたいと思います。

この一年、世界各地で、また日本において、今回の感染症のために亡くなられた方々の永遠の安息を、そして、今、病床にある方々の回復と、医療関係者の健康のために、祈ります。

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歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。

しかしパウロは、イエスが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

イザヤは、そういったイエスの生きる姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「私は逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの従順と不退転の決意を、イザヤは、そう記します。

神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、命を生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身のことばであります。

人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった群衆の熱狂の内にある言葉のように、命を危機に追いやり、命を奪う言葉となります。

神の言葉に耳を傾け、それを心に刻み、不退転の思いをもってそれに従い、それを語る主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、命を生かす言葉であります。

今のこの時代、私たちは、熱狂の言葉ではなく、希望に満ちた命の言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。

この一年を「聖ヨセフの年」と定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「父の心で」において、イエスの物語の背景であまり目立つことのない聖ヨセフの生き方について、さまざまな視点を提供しています。

その書簡の中で、自らの弱さのうちに神の力が働くことを知った聖ヨセフの「慈しむ心の父」としての側面に触れ、こう記しています。

「救いの歴史は、私たちの弱さを通して、『希望するすべもなかったときに、……信じ』ることで成就します。あまりにしばしば私したちは、神は私たちの長所、優れているところだけを当てにしている、と考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、私たちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ、実現されるのです」

その上で教皇は、次のように指摘します。

「ヨセフは、神への信仰をもつということは、私たちの恐れ、もろさ、弱さを通しても神は働かれると信じることをも含むのだ、と教えてくれます。また、人生の嵐の中にあっても、私たちの舟の舵を神に委ねることを恐れてはならない、と教えます。時に私たちは、すべてをコントロールしようとします。ですが、主はつねに、より広い視野をもっておられるのです」

この一年、感染症によってもたらされた混乱と不安の中で、私たちはさまざまな視点から語りかける言葉を耳にしてきました。特に近年は、インターネットの普及で、さまざまな情報が、私たちを取り囲むようにして飛び交っています。かつては人の口伝えによって広まった噂も、今やインターネットを通じて瞬時に、考えられないような数の人に伝わっていきます。

飛び交う言葉には、命を生かす言葉もあるでしょう。希望の光をともす言葉もあるでしょう。支え合ういたわりの言葉もあるでしょう。

しかし、しばしば私たちが耳にしたのは、根拠の薄いうわさ話であったり、見知らぬ他者をののしる言葉であったり、弱い立場にある人や保護を必要とする人をさげすむ言葉であったり、排除する言葉であったり、そういった負の力を持つ言葉が心を傷つけ、希望を奪い、時には命をも奪い去るような出来事でありました。

あの日イエスを王のように歓呼をもって迎え入れた群衆のように、あの晩、イエスを十字架につけよ、と叫び続けた群衆のように、高揚した自分の心の動きに支配されて叫ぶ言葉は、真理からはほど遠いところにあり、だからこそ負の力に満ちあふれており、究極的には命を奪います。

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私たちは、今のような困難な時に生きているからこそ、自分たちの弱さをしっかりと自覚しなければなりません。私たちは自分の力だけで生きているのではなく、互いに支えられて生きていることを自覚し、神から生かされていることを心に刻んで、弱さの内にあることを認めなくてはなりません。

神は弱さにうちひしがれる私たちを通じて、その力を発揮され、救いの計画を成就させようとされるでしょう。今のこの状況を通じて、神がいったい何を成し遂げようとしているのかを知ることはできませんが、その計らいに信頼こそすれ、私たちの思い上がりで、神の計画を妨げてはなりません。

私たちは弱さの内にあると自覚するからこそ、命の与え主である神の言葉に耳を傾け、朝毎にその言葉によって生かされて、弟子の舌をもって語り続けることができます。

私たちは、疲れた人を励ます命の希望の言葉を語る者でありたいと思います。自分の激した心の赴くままに放言するものではなく、自分たちの力に過信して語るのではなく、まず弟子として神に聞き従う耳を持ちながら、主イエスご自身の生きる姿に倣い、不退転の決意をもって、命の言葉を語ってまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年3月28日

・カンタラメッサ枢機卿の四旬節説教④「私たちのキリストとの個人的関係は『愛されること』と『愛すること』で成り立つ」

Cardinal Raniero Cantalamessa delivering his Lenten sermon to Pope Francis and his collaboratorsCardinal Raniero Cantalamessa delivering his Lenten sermon to Pope Francis and his collaborators  (AFP or licensors)

(2021.3.26 Vatican News Robin Gomes )

   教皇フランシスコの説教師であるラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が26日、教皇はじめバチカン幹部に対する四回目の四旬節説教を行ない、「イエスと現実の愛の関係にあるということは、あらゆる神学的、教理的な議論を超えている。なぜなら、神は愛だからです」と語った。

 人間の心にとって最も大きく、最も近づきがたい謎は、「神が一つで三位一体である、ということ」ではなく、「神が愛であり、悲惨で恩知らずな生き物である私を愛し、私のためにご自身を捧げられること」、と枢機卿は指摘し、「『私』から『あなた』へ、イエスと個人的な関係を結ばない限り、イエスは人として認知されることはできないーこれが今回の四旬節説教の中心となることです」と強調。

 そして、「こでまでの2000年を通して、神学者たち、教会会議、そして教父たちは、『”真の人””真の神”であるイエスは、一人の人間だ』ということを確証してきました。これには、イエス・キリストがアイデアでも、歴史的な問題でも、単なる”性格”でもなく、一人の人間であり、生きておられる方、であることを発見し、宣言することを必要とします」と述べ、「これは、キリスト教がイデオロギーや単なる神学に矮小化されるのを避けるために、いちばん必要なことなのです」と語った。

 また、このことは自分にも当てはまること、としたうえで、イエスに関する本、イエスに関する教義と異端の考え方、イエスについての概念を知ってはいたが、「今ここにいる生きておらてる人間としてのイエスを知らなかった。歴史と神学の勉強を通して彼に近づいたとき、私はそのような彼を知らなかった。私が持っていたのは、キリストについての非人格的な知識だった。ダマスカスへの道でのイエスの人との聖パウロの出会いの経験、が私には欠けていたのです」と述懐した。

  三位一体の中での「人」の概念について、枢機卿は、「神において、それは”関係”を意味します。人間であることは”関係にある”ことです。これは、”純粋な関係”である三位一体の3人の神である人々に大いに当てはまります。 イエスと、”私”から”あなた”への個人的な関係を結ばない限り、イエスを人として知ることはできません」と語り、 「残念ながら、キリスト教徒の大多数にとって、イエスは人ではなく”性格”です。イエスは、一連の独善的な言明、教義、異端の”主題”です。私たちが典礼でその記憶を祝い、信じるイエスは、聖体の中に現存されている。だが、イエスと実存的な関係を強めることなしには、イエスは私たちの”外”におられたまま、私たちの心を温めることなく、私たちの観念に触れるだけです」と指摘した。

 そして、「これが、教皇フランシスコが使徒的勧告『(家庭における)福音の喜び』で、すべてのキリスト教徒を『刷新されたイエス・キリストとの個人的な出会い』に招かれた理由です。そして、このキリストとの個人的な出会いの後に人生を一変させる体験は、聖霊の働きによるもの」と強調。

 また、三位一体に関する教会の教義は、「聖ヨハネの『神は愛である』という言葉に基づいています。神は、数百億年前においてさえも、宇宙と人間の創造の前も、永遠を愛されてきました… 神の外で愛されるものが存在する前に、神はご自身の内に御言葉ー無限の愛をもって愛された御子ーをお持ちでした。つまり、『聖霊の内に』です」と語り、 「神において、 『神は愛』なので、多様であることは一致と矛盾しません」と付け加えた。

 さらに「人間への尊敬と人間の尊厳の現代的な概念は、その人が神について持っているイメージに由来します。しかし、このような概念の源は、愛である三位一体の本質において理解することができます。私たちは、他者のために自分自身を犠牲にすることを厭わない愛を通し、他者と交わりを持つことによって、人間としての存在証明を獲得します。それはまさに、十字架に見られるキリストの存在のあり方であり、そこにおいて、神の愛が、私たち自身の人間の存在の中で、完全に明らかになります」と言明。

 枢機卿はまた、「キリスト、神は、悲惨な恩知らずの生き物である私を愛しておられ、私のために彼自身を特別に犠牲にされました。私たちのキリストとの『個人的な関係』は、基本的に愛情の関係です。それは、『キリストに愛されること』と『キリストを愛すること』の両方から成り立っています」。そして、「この関係がしかるべき位置にあるとき、聖パウロが語っているように、苦悩、極度の不安、迫害、飢饉、衣類の欠乏、危険、あるいは戦争などの苦難が、私たちをキリストの愛から切り離すことはありません」と語り、次のように締めくくった。

「愛に基づく内なる癒しの方法として、この異邦人の使徒は、私たちを招いていますー現在の新型コロナウイルス大感染を含めたあらゆる危険と苦難を、『神が私を愛しておられる』という確信をもって、見つめるようにと。神が味方してくださるなら、誰が私たちに歯向かうことができるでしょう?」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年3月27日

・「聖ヨセフの模範に学びながら…」菊地大司教の四旬節第五主日説教

週刊大司教第二十回:四旬節第五主日

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 四旬節も終わりに近づきました。第五主日です。

 私の前職であった新潟教区では、マキシミリアノ・マリア・コルベ 岡秀太神学生の助祭叙階式が行われました。召命の状況が非常に厳しい新潟教区にとって、久しぶりの叙階式です。岡助祭、おめでとうございます。

 東日本大震災が発生してから10年が経過し、この三月末をもって、日本の教会全体での復興支援活動は終わりを迎えます。もちろん10年だからすべてが完了したわけではなく、全国組織体としての活動は終わりますが、教会は東北各地にある教会を通じて、ともに歩む道程を続けていきます。

 そういった全国からの支援の窓口として、また活動のとりまとめ役として、仙台教区本部には仙台教区サポートセンターが設置されていました。このサポートセンターも、この三月末でその活動を終了することになります。

 全国の教区からの支援をとりまとめるために、司教団は復興支援室を設け、私がカリタスジャパンと兼任で責任者を務めてきましたが、その活動も終了です。もちろん実際に復興支援室の活動を支えてくださったのは、大阪教区の神田神父と同じ大阪教区職員の濱口さんでした。お二人の活躍には心から感謝します。

 カリタスジャパンは活動の資金を確保する役目を担い、復興支援室は全国の教区からの支援(実際には三管区)のとりまとめと調整を行い、どちらも中心となって動いている仙台教区の活動を側面から支えることを心掛けました。できる限りのことは側面からしたつもりですが、もしかしたら邪魔をしたところもあったかも知れません。この10年の活動を支えてくださった皆様と、実際に現場を支えてくださった多くの方に感謝します。

 その仙台教区サポートセンターの10年を振り返って、オンラインイベントが、本日午後2時から4時まで行われました。五名の方々が、体験を分かち合ってくださいました。貴重なお話を伺ったと思いますし、語り尽くせぬお話もあったことでしょう。またそれぞれの物語をお持ちの方が、たくさんおいでだと思います。

 その物語は、大切な宝です。教会のこれからの歩みの力となる、大切な宝です。このイベントは、三月末までは、仙台教区サポートセンターのfacebookページで動画を見ることが可能だということです。

 また、現在のコロナ禍にあって、食に関わる活動をしている東京教区のさまざまな活動の一端を紹介するオンラインセミナーが、東京教区災害対応チームの主催で、明日午後2時に開催されます。こちらはカトリック東京大司教区facebookページから、明日日曜日の午後二時に是非ご覧ください。

 以下、本日夕方6時に公開した、四旬節第五主日の週刊大司教メッセージ原稿です。

【四旬節第五主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第20回 2021年3月21日】

https://youtu.be/b1PS5VwSmfw

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くのみを結ぶ」

 四旬節も終わりに近づき、聖週間から御復活のお祝いが視野に入る時期となりました。感染症の状況は継続していますが、充分な感染対策をした上で、復活祭を迎える最終準備を進めたいと思います。

 イエスは、間もなく訪れるご自分の受難と死を念頭に置きながら、ご自分の死が多くの人の救いのために必要なのだ、ということを、弟子たちに語ります。

 この言葉は、私たちに、キリストの弟子としてどのような生き方を選択するべきなのかを、明確に示しています。自分の周りに壁を打ち立て、隣人の必要を顧みずに自分を守ろうとするとき、その種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。

 エレミヤは、「私の律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」と述べて、新しい契約について預言します。イエスの受難と死を通じて結ばれる新しい契約は、まさしく、自らを捨て、他者のために生きようとする心の姿勢を求めるものであり、それは知識によるのではなく、掟の強制によるのではなく、心に刻まれた神の思いに基づくことなのだと教えます。わたしたちは、イエスが弟子たちに語ったその思いを、心に刻みたいと思います。

 パウロはヘブライ人への手紙で、キリストの従順について語ります。苦しみを避けるのではなく、その中に身を置きながら、神の導きに完全な信頼を寄せることによって、キリストは完全な者となり、従う者に対して永遠の救いの源となったと記します。

 他者のために徹底的に自分の人生を献げ、困難に取り囲まれる中でも、神の意志に従順であった人物として、聖家族の長である聖ヨセフがあげられます。ちょうどこの3月19日は聖ヨセフの祝日でしたし、また教皇フランシスコは、福者ピオ九世が1870年12月8日に、聖ヨセフを「普遍教会の保護者」として宣言されてから150年となることを記念して、今年の12月8日までを「ヨセフ年」と定められています。

 使徒的書簡「父の心で」において、教皇は、「目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人」である聖ヨセフの内に、「困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです」と指摘されます。

 その上で教皇は「ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です… (主は)、自分の空白を埋めるために他者の所有物を利用しようとする者を拒み、権威と横暴を、奉仕と隷属を、対峙と抑圧を、慈善と過保護主義を、力と破壊を混同する者を拒みます。真の召命はどれも、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます」と述べています。

 許嫁(いいなづけ)であったマリアに起こった出来事とそれに続く神からの呼びかけに対する、聖ヨセフの姿勢は、信仰とは教条的でもなければ、かといって自分勝手なものでもないことを教えています。信仰の本質は自分ではコントロールできないところにあること、そしてそれを受け入れるところにあることを、聖ヨセフの生き方が教えています。

 聖ヨセフの模範に学びながら、御復活に向けて、四旬節を締めくくってまいりましょう。

 

 

2021年3月20日