・「福音宣教は、沈黙のうちの振り返りの祈りの時に支えられる必要」菊地大司教、年間第16主日メッセ―ジ

2024年7月20日 (土) 週刊大司教第176回:年間第16主日B

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  東京は梅雨が明け、本格的な夏となりました。

   臨時司教総会が7月16日午後から19日昼まで、潮見にある日本カトリック会館で開催され、全国15の教区から17名の現役司教と男女修道会の代表4名が集まりました。

   開会にあたって、着任されたばかりの新しい教皇大使モリーナ大司教様が潮見までおいでくださり、挨拶をしてくださいました。モリーナ大司教は、以前、参事官として日本で働いた経験もあるので、司教団の中にも、私を含めて大使を存じ上げているものもおりますし、また教会の中には、以前の参事官としての任期の時に交流があった共同体もある、と聞いています。大使ご本人も、改めて日本に着任されたことをお喜びで、「これから全国各地の教会をできる限り訪問したい」という意向を表明されています。

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 具体的な司教総会の決定などについては、別途、中央協議会のホームページなどをご覧ください。ただ一点付け加えるなら、今回の総会中に、会長選挙を行いました。現在の私の会長任期は来年6月に開催される定例司教総会までとなります。したがって次期会長の任期は2025年6月から3年間となります。

 選挙の結果、私が再選され、改めて来年の6月以降3年間、会長を続投することになりました。どうぞよろしくお願い致します。

 また同時に行われた選挙で、梅村司教様が副会長に、大塚司教様が事務局担当に再選され、常任司教委員会のメンバーも数名が入れ替わることになりました。これについても、別途お知らせ致します。

 また、8月の平和旬間に先立って、今年は会長談話を用意させていただきましたが、これについても司教団の承認をいただき、中央協議会のホームページなどに掲載されることになります。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第176回、年間第16主日メッセージ原稿です。

【年間第16主日B 2024年7月21日】

 マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

 シノドス(正解代表司教会議)通常総会・第一会期の最終文書は、信仰養成について触れた箇所で、次のように記しています。

  「イエスが弟子たちを養成した仕方は、私たちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。自らの祈りによって、『祈ることを教えてください』という問いを彼らから引き出し、群衆に食事を与えることによって、困っている人を見捨てないことを教え、エルサレムへ歩むことによって、十字架への道を示しました(14項b)」

 今日の福音では、実際に宣教に出かけて戻ってきた弟子たちに、「しばらく休むが良い」と休息をとることを勧めた話になっていますが、これは単に身体的な休息だけではなく、霊的な休息、すなわち観想と祈りにおける振り返りの必要性を、弟子たちに教えられた話です。

 イエスご自身も、人々の間での様々な教えや具体的な行動の前、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが、他の箇所に記されています。ご自分の使命を果たす力を、観想の祈りから得ておられた主イエスは、まさしくやってみせることで、弟子たちにその重要性を示しました。

 シノドス第一会期の最終文書は、シノドス的な教会共同体であるために必要な要素を記している箇所に、次のように記しています。

 「イエス・キリストを人生の中心に据えるには、ある程度、自己を空にすることが必要です… 各人が自分の限界と自分の視点の偏りを認識することを強いる、厳しい禁欲的な実践です。このため、教会共同体の境界を越えて語りかける神の霊の声に耳を傾ける可能性が開かれ、変化と回心の旅を始めることができるのです(16項c)」

 シノドス的な教会を求める旅路には、例えば霊における会話のように重要な道具が用意されています。霊における会話が強調されることで、それをその通りに行うこと自体が重要視されてしまうきらいがありますが、あくまでもそれは重要ではあるが、道具の一つに過ぎません。

 霊における会話のプロセスの中で大切なことは、やはり「沈黙」と「祈り」です。もちろん参加者がそれぞれの思いを語ることと耳を傾けることは重要ですが、沈黙のうちに共に祈ることを欠いていては、霊における会話は成り立ちません。沈黙の祈りは考え込む時ではなく、「自己を空にする時」であります。「自分の限界と自分の視点の偏りを認識する時」でもあります。

 私たち教会の福音宣教の活動は、必ずや沈黙のうちの振り返りの祈りの時に支えられていなくてはなりません。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月20日

・「私たちの教会がシノドス的な歩みをする共同体かどうか、真摯に振り返る必要」菊地大司教の年間第15主日メッセージ

2024年7月13日 (土) 週刊大司教第175回:年間第15主日B

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 七月も半ばに入り、暑い日が繰り返し不安定な天候が続いています。大雨の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。

 今年は、ちょうど20年前、新潟の司教に任命された直後のこの時期、新潟の三条市周辺で大雨による洪水被害がありました。被災地に、当時の主任であった佐藤神父様や、故川崎神父様と、自転車に乗って出かけて行ったことを思い起こしております。

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 一週間前の土曜日、晴天で暑い日でしたが、カトリック府中墓地において、三名の東京教区司祭の納骨式を執り行いました。府中墓地に入ると過ぎ左手に事務所や聖堂がありますが、その前にあるのが、東京教区司祭の共同納骨墓です。

 このたびの納骨式は、2024年2月13日に帰天されたパドアのアントニオ泉富士男神父、2024年4月11日に帰天された使徒ヨハネ澤田和夫神父、2024年5月20日に帰天された使徒ヨハネ小宇佐敬二神父の三名でした。この三人の司祭方は、小教区でも活躍されましたが、同時にそれぞれ独特な使徒活動において大きな功績を残されました。その中でも澤田神父様にあっては104才の長寿を全うされ、長年にわたり独自の霊性で多くの人に深い思い出を残されました。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第175回、年間第15主日のメッセージ原稿です。

【 年間第15主日B 2024年7月14日】

 マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。改めて強調するまでもなく、私たちの信仰は、共同体によって成り立っています。もちろん一人ひとりの個人的な回心と決断が不可欠であるとはいえ、私たちの信仰は常に共同体の中で育てられ、共同体を通じて具体的に実現していきます。

 教会とは礼拝の場所のことではなく、共同体です。

 今進められているシノドスの道のりは、まさしく、教会が共同体によって成り立っていることを私たちに思い起こさせ、その共同体における共同の識別が不可欠であることを自覚するように促しています。

 今日の福音に記されている、イエスが弟子たちを一人ずつではなく二人の組で派遣された事実は、宣教の業が個人プレーなのではなくて、共同体の業であることを明確にさせます。また、準備万端整えられたプログラムを実施するのではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。福音は共同体の交わりのうちに実現します。

 シノドスの(道の)歩みが求めている、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに祈り合うことこそは、私たちの信仰が共同体の中で育てられ、共同体の中で実現し、共同体を通じて告げ知らされていくことの具体化の道です。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません(113項)」と記し、教会は共同体として救いの業に与っていることを強調されます。

 世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第一会期の総括文書には、「共同体」という言葉が80回以上使われ、シノドスの(道の)歩みが、まさしく共同体としての教会のあり方を問いかけていることを明確にしています。その第三部、「絆を紡ぎ、共同体を築く」には次のように記されています。

 「イエスが弟子たちを養成した仕方は、私たちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました… 福音書から、私たちは、養成とは単に自分の能力を強化するだけ、またはそれを中心にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとする、御国の「論理」へ回心することだ、と学ぶのです」

 その上で総括文書は、「聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のある主体です… 一人ひとりが自分のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです」と記しています。

 私たちは、弟子たちのように、主御自身によってこの世界に派遣されています。その派遣は、私たちが「自分のカリスマと召命にしたがって、教会の宣教に能動的に参加」することで実現します。そのためにも私たちは、信仰を育む私たちの信仰共同体が、シノドス(共働性)的な歩みをする共同体であるのかどうか、真摯に振り返ってみる必要があります。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月13日

・「今、教会に必要なのは、聖霊の導きに勇気を持って身を任すこと」菊地大司教、年間第14主日メッセージ

2024年7月 6日 (土)週刊大司教第174回:年間第14主日B

 年間第14主日です。

 7月の16日から19日まで、司教総会が開催されます。毎年、2月と7月の二回、ほぼ一週間の日程で全国の司教が集まり、様々な課題について司教の意見を交換する機会となります。現在その議題を最終調整しているところですが、今回は、一年先の2025年6月以降に任期が始まる司教協議会の会長などの役職や常任委員会の委員の選挙も行われます。なぜこんなに早く選挙をするのかと言えば、それは次に定時の総会をする予定が来年の2月であって、そこで選任していたのでは、委員会の担当者などの諸般の調整が6月に間に合わなくなるからです。

 ちなみに、「司教協議会」というのは教会の内部の組織としての名称で、各教区の教区長である司教は任命権者の教皇様に直結しており独立していますが、その地域や国に共通の課題に取り組んだり調整を図ったりするための、いわば一定の地域の「司教の協力互助組織」として司教協議会は存在しています。「普遍教会の内部の組織」であるので、名称は、「日本カトリック司教協議会」です。

 もう一つの「カトリック中央協議会」というのは、「日本における法律に基づいた法人組織」の名称です。日本の法律に基づいて日本にあるので、その名称には「日本」はついていません。なお日本の法律に基づく法人としては、日本にある15の教区はそれぞれが独立した宗教法人であり、また修道会もそのほとんどが、それぞれ独立した宗教法人となっています。また教会が関わる様々な事業体も、そのほとんどが日本の法律に基づいて学校法人や社会福祉法人などなどとして独立した法人組織になっています。

 ところでこの司教総会に合わせて、日本のシノドス特別チームは、シノドス(共働性)への取り組みの今後の道筋を明確にするためにハンドブックを作成しました。製本したハンドブックも各教区などにサンプルとして無料で配布しますが、主に中央協議会のホームページからダウンロードしてご利用いただけるように考えております。これは公表した段階で、またお知らせします。

 「『霊における会話』をしばしば耳にするが、実際にどこでそれをしているのか分からない」という質問も届いています。即座にどこでもそれを始めるとが可能ではないことも、心に留めてください。「霊における会話」ができれば、”シノドスの道”が完成する、ということではないのです。それは、共同で方向性を見極める(聖霊の導きの共同識別)ための強力なツールであることは間違いないのですが、それだけですべてが完成するわけでもありません。

 これまでもお話をする機会があれば繰り返していますが、今回のシノドスで教皇様が目指しているのは、まず何か新しいことを決めて始めることではありません。また教会の組織を改革することでもありません。教皇様が目指しているのは、「息の長いスパンで考えて、教会の体質を改善すること」です。教会がシノドス的な体質となるために、今後も時間をかけて、徐々に体質改善に取り組もうとされています。

 東京教区でも、様々なメディアで語りかけていますが、同時に宣教司牧評議会の皆さんや、司祭の集まりなどで、霊における会話の実践やシノドス的な歩みについて、これから何ヶ月もかけて、繰り返し繰り返し、取り組んでいきます。

 その息の長い、そして少しづつの取り組みを通じて、徐々にそれが教区全体に浸透していくようにしたい、と思います。そうでないと、一時的なイベントで終わってしまいます。最終的には、今年の10月の第二会期が終わり、その答申に基づいて、教皇様が来年に発表するであろうシノドス(世界代表司教会議)総会後の使徒的書簡が、これからの私たちの羅針盤になろうかと思います。ですので、焦ることなく、できることから徐々に、浸透させていく忍耐を持ってくださることを希望します。

 なお、今年10月のシノドス総会第二会期のための作業文書は、来週中にもバチカンの事務局から発表される見込みです。できる限り早急に、翻訳して公開できるように努めます。

 東京都では、7月7日が都知事選挙の投票日です。せっかく手にしている権利です。投票を通じて意思表示をする権利は無駄にしないようにいたしましょう。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第174回目、年間第14主日のメッセージ原稿です。

【年間第14主日B 2024年7月7日】

 「正常性バイアス」という言葉があります。災害などに直面しても、いつもの生活の延長上で物事を判断し、都合の悪い情報を無視することで、根拠のない「自分は大丈夫」「まだまだ大丈夫」などという思い込みが、災害時の被害を大きくすることだと、ネット上などにはその意味が書かれています。

 私たちは多くの場合、人生の中での大きな変化を嫌います。特に予測できない出来事に出会ったとき、判断能力をその出来事が超えてしまい、いつもの経験に基づいて判断しようとして、実像を把握することができません。

 「私は弱いときにこそ強いからです」と逆説的な言葉をコリントの教会への手紙に記すパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在していることを指摘しています。私たちの判断能力を遙かに超える神の働きを知ろうとするとき、人間の常識にとらわれていては、その実像を把握することはできない、とパウロは指摘します。

 いわば信仰における「正常性バイアス」を捨て去り、人間の力の限界を認めたときに初めて、「キリストの力が私のうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。

 マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働き直視することができません。判断する能力を遙かに超えることが起こっているために、都合の悪い情報から目を背け、自分の常識の枠内で判断しようとするのですから、神の子の言葉と行いを、故郷の人々は理解することができません。

 思い上がりのうちに生きている人間は、簡単に過去の常識の枠にがんじがらめにされ、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ、気づきません。

 昨年10月にバチカンで開かれたシノドス(世界代表司教会議)総会の第一会期で、教皇様は幾たびも会場に足を運び、集まった私たちに「聖霊が主役です。あなた方が主役ではありません。あなた方が何をしたいのかを、聞きたいのではありません。聖霊が私たちに何を語りかけているのかを、聞きたいのです」と繰り返されました。

 教皇様は、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てねばなりません(33項)」と呼びかけられました。

 今、教会に必要なことは、前例にとらわれて自らの常識の枠にがんじがらめになることではなく、自らの弱さを認め、神の働きを識ることができるように、聖霊の導きに勇気を持って身を任すことです。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月6日

・「少女の命をよみがえらせたイエスに倣う」菊地大司教の年間第13主日

2024年6月29日 (土)週刊大司教第173回:年間第13主日B

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年間第13主日となりました。

 この日曜日、東京教区の築地教会では、150周年を感謝するミサが捧げられます。築地教会は1876年から1920年まで、東京大司教区の司教座聖堂とされていました。その歴史は、東京教区のホームページに詳しく記載されています。

 それによれば、「横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋ごろ東京に入り、宣教を始め」、さらに「1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、70人余りの学生を収容」と初期の発展を続けました。そこで当時の宣教師たちは、「宣教の発展のために、借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会を建てる」ことを決意し、それが1874年11月22日、築地教会として聖堂が献堂されることになりました。東京大司教区は1891年に大司教区として独立しましたので、当初からこの築地教会が司教座指聖堂とされたのは自然の成り行きで会ったかと思います。

 現在の主任司祭は、コロンバン会のレオ神父様で、築地教会にコロンバン会の日本の本部が置かれています。

 日本カトリック小中高連盟が主催の、第33回全国カトリック学校校長・教頭合同研修会が、6月27日と28日に、名古屋で開催されました。日本にあるカトリック学校は、幼稚園から大学まで、それぞれ連盟組織を持っており、全体として日本カトリック学校連合会を構成しています。この連合会は一般財団法人で、司教団から顧問の司教が出ていますが、司教協議会からは独立した、学校主体の組織です。司教協議会には、カトリック学校教育委員会が設けられており、現在は前田枢機卿と酒井司教が担当しています。こちらは司教協議会の組織です。この二つが、両輪となって、カトリック学校教育を推進しています。司教協議会側はどちらかというと理念に関して、連合会側は具体的な学校運営を取り扱います。

 今回の研修会は、学校連合会の主催ですので、具体的な学校運営の問題などについて、意見交換する場で、今回の研修会のテーマは「現代のグローバルな課題にカトリック学校はどう答えることができるのか」とされていました。

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 初日には、私と、成井司教、長崎南山の西校長が講演しましたが、三名とも神言会会員です。というのも、今回の企画の中心には名古屋の南山中高の方々がおられ、南山は神言会が経営母体です。私は、シノドスのことから始まって、それが単に今年の10月で終わって何か結論が出るようなものではなくて、これからも先の息の長い教会の体質改善の取り組みであり、その「教会」には、教育機関も含まれていることなどをお話ししました。(なお右の写真は当日会場ですが、私と成井司教と、その後ろは名古屋の南山中高の赤尾校長です)

 成井司教は、カリタスジャパンの取り組みについて解説をされました。特に災害などが起こると、真っ先に募金協力してくださる一つが、学校です。西校長は、この界隈では有名な、笑って泣かせる話をする教育者です。

 全国から120名を超える校長・教頭が参加されました。28日は南山大学で研修会が継続され、11時から、松浦司教様司式で、閉会ミサが、南山大学キャンパスに隣接する神言神学院で捧げられます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第173回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

【年間第13主日B 2024年6月30日】

 マルコ福音は、会堂長ヤイロの幼い娘が病気で伏せっていたときに、その父親の願いに応えてイエスが出かけたときの出来事を記しています。

 すでになくなったと言われる少女が、イエスの一言によって命を取り戻したのですから、この奇跡物語は、病気などの予期せぬ状況によって希望を奪われ、人生の絶望の淵にある人たちが、イエスとの出会いによって生きる希望を取り戻した話であります。

 同時に、この物語でのイエスの言葉には、それ以上の意味が込められています。

 「タリタ、クム。少女よ、私はあなたに言う。起きなさい」

 病のために命を十全に生きるすべを奪われた少女に、イエスは命をよみがえらせることによって、自ら立ち上がり、自らの運命の手綱を握って、歩み始めるようにと力を与えます。

 この言葉は、単に命をよみがえらせた奇跡の言葉ではなく、人間の尊厳を奪われているすべての命に対して、その命を十全に生きる道を自ら切り開いていく力を与える言葉でもあります。

 そう考えるとき、今、世界の現実の中には、人間の尊厳を奪い去り、希望を奪い去り、絶望の淵へと追いやるようなありとあらゆる理由が存在しています。もちろん、戦争はその最たるものですが、同時に教会は、この「タリタクム」の言葉に促されて、様々な自由から強制的に尊厳を奪われる人身取引の課題にも心を砕いています。

 15年前に、女子修道会国際総長連盟が中心となり、世界の様々な人身取引の問題にカトリック教会として取り組むために設立されたネットワークは、その名をこの主イエスの言葉から取り、「タリタクム」と名乗っています。日本でもその活動は行われています。

 教皇様は今年の5月に行われた「タリタクム」の総会にメッセージを送り、その中で、「人身取引は組織的な悪であるからこそ、私たちも組織的に、また様々なレベルで取り組む必要がある」と述べ、その上で、「被害者の傍に立ち、彼らに耳を傾け、自分の足で立ち上がれるようにと手を貸し、一緒になって人身取引に対抗する行動をすることが大切だ」と強調されました。

 人身取引は、遠い世界の話ではなく、日本社会の現実の中でも発生しており、日本政府自身も「『人身取引』は日本でも発生しています。あなたの周りで被害を受けている人はいませんか?」と政府広報で啓発しているほど、世界の深刻な問題となっています。

 命を生きるようにと少女に手を差し伸べ、その尊厳を回復させた主イエスに倣い、私たちもこの世界の中で、人間の尊厳を奪われ絶望の淵に追いやられている多くの人が、自らの足で立ち上がることのできるように、心を配りたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年6月30日

・「主は絶望や苦しみの中にある私たちと、いつも共におられる」-菊地大司教の年間第12主日

2024年6月22日 (土)週刊大司教第172回:年間第12主日B

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 年間第12主日となりました。本日の日曜日は、聖ペトロ使徒座への献金の日でもあります。教皇様が様々に行う支援活動や福音宣教活動ですが、特に近年、支援援助省を独立させてからは、直接的な支援のために長官のクライェウスキ枢機卿を、例えばウクライナへ直接派遣したりして積極的に展開されています。かつてこのクライェウスキ枢機卿の部署の管轄は、教皇様の祝福の文書をリクエストがあった世界各地に送付する業務が主でした。いまでもその業務は続けられており、様々な機会に、教皇様からの祝福の文書を目にすることがあります。

 その部署に教皇様は、直接的な援助をさせることにして、枢機卿を責任者として、一つの役所として独立させました。そういった教皇様の活動を支えるのが、世界中で本日行われる、聖ペトロ使徒座への献金です。6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日の直前の日曜日に行われることになっていますので、今年は23日の日曜日です。教皇様の活動を支えるための献金をお願いいたします。

 なお東京教区では、同祭日の近くの月次司祭集会の日に、司祭が集いミサを捧げ、その年に叙階金祝銀祝を迎える司祭への祝福を友に祈ることになっています。今年は、24日の月曜日にこのミサが捧げられ、新しく着任されたエスカランテ教皇大使も参加される予定になっています。なお金銀祝を迎える司祭については、別途、教区のホームページなどでお知らせします。

 東京都では都知事選挙が始まりました。世界の各地に、この民主的で自由な選挙を手に入れるために闘わざるを得ない人たち、それがないために尊厳をないがしろにされている人たちが多くいることを考える時、日本では当たり前のように行われる選挙を、面白おかしく、あえて言えば愚弄するような行動があることは、残念と言うよりも、悲しいことです。とは言え、何らかの形で選挙の存在と意味を考える機会にもなっていると前向きに捉え、一人でも多くの人が忘れることなく権利を行使することを願っています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第172回、年間第12主日のメッセージ原稿です。

【年間第12主日B 2024年6月23日】

 人生を生きていく中で、私たちはしばしば困難に直面し、自分でなんとか解決できることもあれば、誰かの助けがなければ立ち上がることすらできないほどの危機に直面することもあります。

 中でも、命の危機をもたらす暴力的な状況に置かれたとき、例えば戦争が続いているウクライナや、多くの人が命の危機に直面しているガザの現実などの中で、どれほどの命が、今この瞬間に、誰かの助けが必要だ、と感じていることでしょう。助けを必要としている人がこれだけ世界には存在しているのに、世界のリーダーたちはその危機的状況を解決するよりも、深刻化させるために知識と資金を費やしているようにしか見えません。

 「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」

 マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、今の時代を生きている私たちの叫びでもあります。命の危機に直面し、解決の糸口が見えないまま取り残されている私たちにとって、現実はまさしく、「荒波に翻弄される舟の中に取り残された弟子たち」の姿であります。

 世の終わりまで共にいてくださる、と約束された主は、恐れにとりつかれ、孤独のうちに命の危機に直面している一人ひとりに対して、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。それは決して、「信仰が弱いからだめなのだ」などと批判する言葉ではありません。それはまさしく荒れ狂う湖に翻弄される舟の中に、弟子たちだけがいたのではなく、主御自身も共におられた事実を、改めて弟子たちに思い起こさせる言葉であります。「私はここに共にいる」と、慰めを与える慈しみの言葉であります。

 そして今日、命の危機に直面し、恐れに捕らわれる私たちに対して、主は改めて、「私はここに共ににいる」と、慰めの言葉を与えてくださいます。主は共におられます。

 2025年の聖年を告示する大勅書「希望は私たちを欺くことがありません(ローマの信徒への手紙5章5節)」を発表された教皇様は、私たちがこの世界にあって「希望の巡礼者」として生きることを呼びかけます。特に教皇様は、この聖年を主が与える「時のしるし」を読み取る機会としながら、私たちが「悪と暴力に打ち負かされてしまった」と思い込み、恐れに捕らわれる誘惑に勝つために、「今日の世界に存在する善」に目を向けることを忘れないように勧められます。この世界は、絶望だけが満ちあふれているのではなく、希望を生み出す善は存在していることを、教皇様は強調されます。

 その上で、「時のしるし」を良く読み取り、それを「希望のしるし」に変容するように、と私たちを招いておられます。

 私たちの一番の希望の源は、「命の与え主である主御自身が、いつまでも私たちと共にいてくださる」という確信です。「私たちは命の主から見捨てられることがない」という確信です。主は絶望や苦しみの中にある私たちと、いつも共におられます。

(編集「カトリック・あい」)

 

2024年6月22日

・「私たちは、福音を共に証ししつつ、確実に前進する希望の巡礼者…」菊地大司教の年間第11主日メッセージ

2024年6月15日 (土) 週刊大司教第171回:年間第11主日B

    年間第11主日です。この一週間は、久しぶりにアジアのカリタスのメンバーの総会に参加しました。2019年5月までの8年間、わたし自身がカリタスアジアの総裁でしたから、この総会には5年ぶりの参加です。これは別途、記事にして掲載します。

   本日の第11主日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂に所在する韓人教会の堅信式が、いつもの日曜12時からのミサで行われ、私が司式させていただきます。韓国語はできないので、韓国語に日本語を交えたミサと成る予定です。堅信を受けられる方々に聖霊の豊かな祝福を祈ります。

  本日, 土曜日の午後には、教区の宣教司牧評議会も開催されました。昨年までの評議会からの答申を受けて設置された作業部会が、宣教協力体の見直しの提言作成のための作業を進めていますが、現在の宣教司牧評議会は、シノドス的な教会を実現するために、東京教区でどのような取り組みを進めるかを考察するために、実際に霊における会話を体験したりする中で、教皇様が目指している教会の姿を体感として持ち、それをさらに教区に広げていくことを目指しています。このプロセスは、教皇様自身がおっしゃるとおり、一朝一夕で実現する者ではなく、いわば教会全体の体質の改革ですので、息の長い、しかも地道な取り組みが求められます。

   今日の宣教司牧評議会では、先般、小教区で働く司祭のためのシノドスの集いがローマで開催された際に、日本の代表として参加された、日本の教会のシノドス特別チームのメンバーでもある大阪高松教区の高山徹神父様にお話をいただいて、そのあとに分かち合いとなりました。

 以下、15 日午後6時配信、週刊大司教第171回目、年間第11主日メッセージ原稿です。

( 年間第11主日B  2024年6月16日)

   「炎上商法」などという言葉をネット上では耳にすることがありますが、今の時代、地味で緻密な論理の積み重ねよりも、大げさなパフォーマンスで注目を浴びることが成功につながる、と考えられているのかもしれません。

 福音宣教の使命を与えられている私たち教会も、パッと大きなイベントでも催して、多くの人たちの耳目を惹き、一気に社会をひっくり返せたらどんなに良いかと夢見ますが、しかし今日の福音は、神の国とは地道な積み重ねの上に成り立っていることを、明確に示しています。

 「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

 取るに足らない小さな種から始まって、しかし成長して行くにつれ「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までになる。その過程を述べて福音は、神の視点がいかに人間の常識的視点と異なるのかを教え、派手なパフォーマンスではなく、神の計画に従った地道な積み重ねが重要であることを教えています。

 今年4月の世界召命祈願日のメッセージで教皇様は、来年の聖年のテーマでもある「希望の巡礼者」に触れ、それぞれに固有の召命を見いだす道を巡礼の旅路になぞられて、次のように記しておられす。

 「自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様な賜物を結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって『希望の巡礼者』として歩みましょう」

 その上で教皇様は、「目的地ははっきりしているが、そこに到達するためには、人目を惹くパフォーマンスではなく、地道な一歩が必要だ」と指摘され、こう述べておられます。

 「その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけを持ち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません」

 心に主との出会いへの希望を抱くことで、私たちは、日々の小さな苦労が決して無駄にならないことを知っています。私たちは毎日、「平和と正義と愛を生きる新たな世界に」向かって、毎日巡礼者として一歩を刻んでいきます。

 シノドス(共働)的であろうとしている教会は、巡礼者として共に歩む教会であろうとしています。私たちは巡礼者です。共に支え合い、互いに耳を傾けあい、共に歩む教会は、毎日小さな一歩を社会の中に刻んでいきます。その小さな一歩の積み重ねこそが、暗闇の支配する社会に希望を生み出し、神の計画の実現へとつながっていきます。私たちは巡礼者です。福音をともに証ししながら、確実に一歩ずつ前進を続ける希望の巡礼者です。

2024年6月15日

・「教会は、積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極める存在になっているか」菊地大司教の年間第10主日

2024年6月 8日 (土) 週刊大司教第170回:年間第10主日B

1717747775262 年間第10主日です。立場上、いくつかの法人組織で理事や評議員をさせていただいていますが、6月は多くの法人で決算のための理事会や評議員会が開催されます。今週は、そういった理事会や評議員会が目白押しの週でした。そんな中で、5日の水曜日の夜、イグナチオ教会のヨセフホールを会場に、イエズス会社会司牧センターの主催で行われた連続セミナーで、お話をさせていただく機会がありました。テーマはもちろんシノドスです。

1717747779430 多くの方に参加いただき感謝します。わたしが40分ほど、シノドスの第一会期の体験についてお話しさせていただき、そのあと、6人くらい筒のグループに分かれて、実際に霊における会話を体験しました。今回のシノドスが目指すのは、一朝一夕の改革ではなくて、息が長い、教会の体質改善です。聖霊の導きを共同で識別する教会共同体となっていくことです。これからも地道に、焦ることなく、じっくりと取り組んでいきたいと思います。

 このセミナーはまだまだ続きます。上記のリンクからホームページをご覧になって、ご参加ください。

 以下、8日午後6時配信の週刊大司教第170回、年間第10主日のメッセージ原稿です。

【年間第10主日B 週刊大司教第170回 2024年6月8日】

 「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」

 マルコによる福音は、神の計画とこの世の常識や秩序がすれ違っている様を記しています。ナザレの田舎から出た大工の息子が、30才になった頃に多くの人を前にして神の真理を語り始め注目を浴びるようになったのですから、それまでの30年間を知っている「身内の人たち」は、それを理解することができません。イエスをよく知った彼らにとって、世の常識に従えば、話している内容ではなくて、その行動自体が奇異に映ったことでしょう。

 イエスを取り押さえに来た身内の人たちに対して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」というイエスの言葉は、神の計画がこの世の常識や秩序と全くかけ離れていることを明確に示し、福音の物語は、多くの人がそれを理解することができない様を記しています。

 神のみ旨を知り、そしてそれに従い、さらにそれを広めることに、常につきまとうのはこの世の常識との対立であります。もちろん信仰は、この世界に現実に生きている人間の具体的な心の問題であって、フィクションの世界の夢物語ではありませんから、この世の現実を全く無視して成り立つものではありません。同時に、世の常識や秩序を優先させてしまうと、神が望まれる世界とはかけ離れてしまいます。

 第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。

 すなわち、教会は社会の現実から切り離された存在ではなく、積極的に社会の現実を識別し、その中に具体的にある神の計画を見極める存在であります。信仰は社会の現実から遊離しているものではありません。

 しかし同時に神の計画は、この世の秩序を完全に否定することから始まるわけでもありません。第二バチカン公会議の信徒使徒職に関する教令は、社会の現実の中で生きる信徒の召命について語っていますが、そこにこう記されています。

 「世に対する神の計画とは、人々が互いに心を合わせて現世の事物の秩序を打ち立て、これをたえず完成させることである(7)」

 教会は、この世の現実を破壊したり、秩序を打ち壊したり否定することではなく、それを神が望む形で完成させる道を選ぶことで、神の御心を実現し、私たちが主の家族となる道を歩もうとしています。

 教会は今、”シノドスの道”を歩んでいますが、それは現実と妥協してしまう道ではなく、互いに耳を傾けあい、違いを認め合いながら、ともに現実を神の計画に近づけるように努める道でもあります。

2024年6月8日

・2025年聖年のテーマ「希望の巡礼」の意味はー菊地大司教の「聖体の主日」メッセージ

2024年6月 1日 (土) 週刊大司教第169回:キリストの聖体の主日B

 キリストの聖体の主日です。

 私たちの信仰生活の中心にあり、あらゆる意味で私たちを一致させる秘跡です。私たちはご聖体をいただくことで主イエスと一致し、また聖体における主御自身によって一つの共同体に招かれ、同じ主を信じることで一致しています。

 キリストの聖体の主日と言えば、キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存に感謝し、主と一致することを心に誓い、愛と慈しみに満ちあふれた唯一の神を礼拝するために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が表に出て、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の証しとなります。

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 キリストの聖体の主日でいつも懐かしく思い出し、また繰り返し掲載してきたのは、左の写真です。わたしが20代後半から30代前半にかけて主任司祭をしていたガーナの教会の、聖体行列です。ご聖体を納めた顕示台は、教会の長老が頭に載せた木の船の中にあります。

 この地域の部族のチーフが乗り運ばれる輿のミニチュアです(右下の写真がチーフを乗せた輿)。住民の半分以上がカトリック信徒であった村ですので、村の中に四カ所設けられた臨時の礼拝所には多くの人が集まり、行列中に一時的に安置されるご聖体を礼拝しました。写真の中で、ご聖体の前にいる侍者の一人はその後司祭となり、いま目黒教会の助任司祭をしています。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第169回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。

【キリストの聖体の主日B 2024年6月2日】

 主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。主御自身は、その直後にご自分が捕らえられ十字架への道歩むことで、最愛の弟子たちとの別れが迫っていること、そしてその弟子たちがこれから起こる出来事のあまりの衝撃に打ちのめされ、恐れに囚われてしまうことをご存じでした。

 まだまだ弟子たちに伝えたいことは多くあったことでしょう。その弟子たちへの思い、そして弟子たちを通じて私たちすべてへの思いを込めて、主はパンをとり、「私の体である」と述べ、また杯をとって「私の血である」と述べられました。

 主の心持ちは、その次の言葉、すなわち、「私の記念としてこれを行いなさい」に込められています。「私の言葉を、私の行いを、決して忘れるな」という切々たるものであります。すべての思いを込めて、すべての愛を込めて、主は聖体の秘跡を制定され、愛する弟子たちに残して行かれました。

 この主の思いは日々のミサにおいて繰り返され、私たちがミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心が、私たちの心を満たします。

 教皇ヨハネパウロ二世は、「教会に命を与える聖体」に、こう記しておられます。

 「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

 その上で教皇は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」(9)と記し、聖体が個人的な信心のためではなく、共同体の霊的な糧であることを明示します。

 ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、共同体の交わりのうちに私たちはご聖体をいただきます。それは司祭が一人でミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。ご聖体は、共同体の秘跡です。

 教皇様は2025年の聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされることを決定され、先日の「主の昇天の主日」に、聖年を布告する大勅書「Spes non confundit(希望は欺くことがありません)」を発表されました。

 その中で教皇様は、教会共同体が時のしるしを読み取り、総合的な人間開発の視点から、人間の尊厳を貶めるような状況にある人たちに、命を生きる希望をもたらす共同体であることを求められています。そのために、「巡礼」というのは、単に個人の信心の問題なのではなく、共同体としてともに歩む中で、教会こそが社会にあって希望を生み出し、歩みの中で出会う人々に希望をもたらす存在となることが重要である、と指摘されています。

 ともすれば聖年にしても、ご聖体にしても、個人の信心の視点から意味を探ろうとしてしまいますが、今、私たちに求められているのは、まさしくシノドス的な教会として、共に歩むことによって、主の現存を告げ知らせ、希望をもたらす教会となることです。

 あの晩ご聖体の秘跡を制定された主は、どのような状況にあっても、いつも私たちと共に歩んでくださいます。

(編集「カトリック・あい」)

2024年6月1日

・「父と子と聖霊の神の命の神秘に、一人でも多くの人が招き入れられるように」菊地大司教の「三位一体の主日」

2024年5月25日 (土) 週刊大司教第168回:三位一体の主日B

 聖霊降臨祭の次の主日は、三位一体の主日です。

 東京教区司祭使徒ヨハネ小宇佐敬二神父様が、長年の癌との闘いを経て、5月20日に桜町病院のホスピスで帰天されました。76歳でした。Messenger_creation_b8ea8d01c5044a80a11e0

 葬儀は5月23日午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、司祭叙階の同級である関町教会主任の稲川保明神父様が、追悼の説教をしてくださいました。

 小宇佐神父様は、岡田大司教様からの依頼で、長年にわたって心のケアを重要な使徒職とされ、心に重荷を抱え社会から疎外された人、様々な理由で社会から疎外されている人への寄り添いに取り組んでこられました。また、東京カリタスの家常務理事として理事長であった岡田大司教様を支え、その発展に大きく貢献されました。

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 私が東京に任命された6年前には、すでに食道癌との闘いのため、ペトロの家に居住されていましたが、手術や化学療法を経て、車いすから杖を使っての歩行へと回復されているようにお見受けしていました。体調の悪い時にも、車いすで、または杖を使って、ペトロの家からカテドラルの反対側にある東京カリタスの家まで毎日出かけておいででした。

 写真は一年前、2023年3月の誕生日のものです。今年は誕生日の夕食会をペトロの家で行い、みなに故郷宮崎から取り寄せたステーキをふるまい、その翌日に桜町病院のホスピスに入院されました。

 小宇佐神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 私たちは、「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けますから、私たちの信仰は三位一体の神秘の上に成り立ってます。その意味で重要な神秘であると同時に、様々な説明が試みられていますが、唯一の神の三つのペルソナは、それぞれの働きをするとともに等しく唯一の神であるということは、簡単には理解することのできない、それこそ神の命の神秘でもあります。

 「カトリック教会のカテキズム」には、「三位は一体です。三つの神々ではなく、三者として唯一の神、すなわち、実体として一つである三位の神を、私たちは信じています… 三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」と記されています(253項)。

 以下、25日午後6時配信、三位一体の主日のメッセージです。

【三位一体の主日B 2024年5月26日】

 三位一体の主日のミサのはじめに唱えられる集会祈願は、「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と始まります。

 すなわち、神のいのちの神秘は、父と子と聖霊の三位のいずれかのみ、にあるのではなく、父と子と聖霊に等しくあり、それぞれ等しく唯一の神であることが明らかに示されています。神のいのちの神秘は、三位一体の神秘のうちに現されます。だからこそ私たちは、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授けられます。私たちキリスト者の信仰が、三位一体の神秘に基づいているからに他なりません。

 「至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です… 信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです」と「カトリック教会のカテキズム」には記されています。(234項)

 御父は、人間からかけ離れた遠い存在ではなく、また厳しく裁きを与え罰する存在ではないことを、パウロはローマの教会への手紙に、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記して教えます。

 私たちは聖霊の導きによって、御子と同じように御父をこの上なく親しく感じる者とされ、その一部ではなくすべてを受け継ぐ者と見なされるのだと、「キリストと共同の相続人」という言葉を使ってパウロは強調しています。

 マタイ福音は、三位一体の交わりのうちに生かされている私たちに、主は、「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼をさずけ」るように、と命じたと記します。すなわち私たちは、全世界の人を三位一体の神秘における交わりに招くように、遣わされています。私たちは自分の心の思いや自分の信仰理解を告知する者ではなくて、三位一体の神を告げる使者であります。

 私たちは、日本だけ単独で生きているのではなく、世界の人々と共にあり、また特に近隣であるアジアの兄弟姉妹と共に生きています。

1998年に開催されたアジアシノドスを受けて発表された教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「アジアにおける教会」に、教会の派遣の使命について、次のような指摘があります。

 「教会は、聖霊の促しに従うときだけ自らの使命を果たすことができることをよく知っています。教会は、アジアの複雑な現実において、聖霊の働きの純粋なしるしと道具となって、アジアのあらゆる異なった環境の中で、新しく効果的な方法を用いて救い主イエスを証しするよう招く聖霊の促しを識別しなければなりません(18項)」

 その上で教皇ヨハネパウロ二世は、「アジアにおいては非常に異なった状況が複雑に絡み合っていることを深く意識し、『愛に根ざして真理を語り』つつ、教会は、聞き手への尊敬と敬愛を持って福音を告げしらせます。(20項)」と記しています。

 シノドスの道を歩んでいる教会において、一番大切なことは、互いの声に耳を傾けあい、互いの違いを認識しあい、互いに支え合って歩むことです。アジアの現実における福音宣教は、相手を屈服させ、従わせることではなく、「尊敬と敬愛を持って」互いに耳を傾けるところにあります。言葉と行いによる証しを通じて、父と子と聖霊の神の命の神秘に、一人でも多くの人が招き入れられるように、耳を傾けあい、支え合いながら、歩んで参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年5月25日

・「聖霊は、騒々しい常に動きのある教会共同体を生み出し、すべての人を等しく一致へと導く」菊地大司教の聖霊降臨の主日

2024年5月18日 (土) 週刊大司教第167回:聖霊降臨の主日B

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  19日は聖霊降臨の主日です。この日は、聖母マリアと共にいた弟子たちに聖霊が降り、様々な国のことばで福音がのべ伝えられるようになった、と使徒言行録に記されていることから、「教会の誕生日」とも言われます。

 東京教区では、午後からカテドラルで、合同堅信式が行われます。堅信の準備をされてきた皆さん、おめでとうございます。聖霊の豊かな照らしを受けて、成熟した大人の信徒として、共同体においてそれぞれの務めを果たして行かれますように。また主から与えられた、福音宣教の務めを、忠実に果たすものでありますように。

以下、18日午後6時配信、週刊大司教第167回め、聖霊降臨の主日のメッセージ原稿です。

【聖霊降臨の主日B 2021年5月19日】

 使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事の特徴は、いったい何でしょうか。

 まず、聖霊は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ところで働いています。すなわち、聖霊は単独で一人ひとりに他者と無関係に働くのではなく、共同体が一致しているところに働いています。そして、その時には、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた」と記されています。激しい音は周囲にも響き渡り、「この物音に大勢の人が集まってきた」とも記されています。すなわち、聖霊が働いているところには静寂が支配しているのではなく、騒々しさが支配しています。

 第二バチカン公会議の教会憲章は、教会に聖霊が与えられたことによって、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み… 福音の力を持って教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く(4項)」と記します。

 重要なのは、聖霊によって生かされ、常に刷新されている教会は、聖霊が働いているのですから、決して落ち着いた静かな教会ではあり得ません。騒々しい、落ち着かない教会です。一人でそんな所に取り残されたのなら、耐えきれないかも知れません。だからこそ、聖霊は、皆が一致して集っている共同体に働くのです。互いに支え合い、助け合い、共に歩む兄弟姉妹がいるところに働くのです。聖霊は教会共同体に、多様性における一致をもたらします。

 現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11項)」と記します。

 すなわち、教会は「社会の現実から切り離された隠れ家」となるのではなく、積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極めるために出向いて行く存在です。出向いて行き、様々な困難な現実と対峙し、そこに神の秩序をもたらそうとするからこそ、常に落ち着かない騒々しさがあるのです。何もせず、平穏無事が支配する静的な共同体は、一見、何も問題がなく、好ましく思われますが、もしかしたら、そこには聖霊が働いていないので、静けさが支配しているのかも知れません。聖霊の働きと照らしを祈ることは大切です。

 昨年10月に開かれた世界代表司教会議(シノドス)総会の第一会期の最終文書は、次のような文章で始まっています。

「一つの霊によって、私たちは、……皆一つの体となるために洗礼を受け(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ました。これが… 私たちが味わった喜びと感謝に満ちた体験です。背景、言語、文化の多様性にもかかわらず、洗礼という共通の恵みによって、私たちは、心を一つにしてこの日々を共に過ごすことができました… 聖霊が私たちに与えてくれたのは、聖霊だけが生み出す方法を知る調和を体験することであり、それは引き裂かれ、分裂した世界における賜物であり、証しです」

 シノドスは、霊における会話を通じて互いに耳を傾けることで、妥協による一致ではなく、互いの違いを認識しての一致へと道を歩むように求めます。教会に働く聖霊は、一部のカリスマのある人にだけ働いているのではなく、皆に違う形で働き、騒々しい常に動きのある共同体を生み出し、同時に共同体のすべての人を等しく一致へと導きます。

 私たちの教会共同体は、どのような共同体でしょうか。

2024年5月18日

・東京と福岡の二つの神学院が統合、日本カトリック神学院として再出発ー菊地大司教の「週間大司教」

2024年5月11日 (土)週刊大司教第166回:主の昇天の主日B

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 復活祭も終わりに近づき、まもなく聖霊降臨を迎える季節となりました。5月12日は、主の昇天の主日です。本来は木曜日ですが、日本を始め多くの国では主日に移されて祝われています。

 イタリアでもいくつかの週日に設定されている教会の祭日や祝日が日曜日に移されることがありますが、バチカン市内では元通りに週日に行われます。そのため、すぐ隣接しているにもかかわらず、バチカン市国領域とローマ市内の教会で、祭日を祝う日が異なったりすることもあります。

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 さて今年の4月1日から、東京にある、東京教会管区と大阪高松教会管区が運営してきた神学院と、福岡でサン・スルピス会に委託して長崎教会管区が運営してきた神学院の二つが、福音宣教省の認可を受けて、「あらためて」統合され、日本カトリック神学院として再出発することになりました。

 以前も一度一緒になったことがありますが、そのときは、東京キャンパスと福岡キャンパスを設ける形で、神学生や養成者、そして教員も、東京と福岡を何度も移動することになり、関係者にとっての大きな負担となり、結局、元の二つに戻ってしまっていました。

 今回改めて、長崎教会管区(九州と沖縄)の司教様たちが話し合い、現実的な視点から神学院統合を決断されましたので、このたび一つになり、名称も、東京カトリック神学院から日本カトリック神学院へ変更しました。

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 運営の母体は、日本のすべての司教ですので、今回、初めて、神学院に日本のすべての司教17名が集まり、開講感謝ミサをともに捧げ、一晩泊まって神学生と交流し、そして今朝は午前中、神学院の運営について話し合う神学院司教会議を開催しました。

 昨日夕方に行われたミサは、前田枢機卿様が司式され、冒頭で私が司教協議会会長として、福音宣教省の統合の認可宣言を読み上げ、説教は神学院司教委員会の委員長である大塚司教様が担当されました。

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 新しく全国からの神学生を迎えて出発する神学院です。そこには明るい一致の雰囲気がみなぎっていました。この霊的な明るさを証しとして、一人でも多くの神学生の召命につながることを祈っています。

 以下、11日午後6時配信、週刊大司教第166回目、主の昇天のメッセージ原稿です。

【主の昇天の主日B 2024年5月12日】

 頼りにしていたリーダーを突然暴力的に奪われ、絶望に支配されていた弟子たちにとって、復活された主との再会は、新たな希望を生み出しました。使徒言行録は、使徒たちに芽生えたその希望を、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけで明らかにしています。

 復活されたイエスは、弟子たちの、いわば現世的な望みに答えるのではなく、復活の命に生かされ希望に生きるものへ、新たな道を指し示します。

 マルコ福音は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活された主による宣教命令を記しています。同様に主の昇天の模様を詳しく伝える使徒言行録も、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主の弟子たちに対する言葉を記し、昇天された主が、宣教命令を残されたことを明示しています。

 新たな命によって生かされる希望の道は、福音を世界の隅々にまで伝える道です。自らが想像された愛すべき命が、すべからく救いに与ることを望まれる御父は、主の復活に与るわたしたちがそのために働くことを望んでおられます。この世界にあって、キリスト者であるわたしたちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令は、すなわちわたしたちひとり一人に与えられた使命です。

 第二バチカン公会議の「教会の宣教活動に関する教令」は「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記し、さらに「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いをいやしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)と、福音をあかしすることの意味を教えています。

 パウロは教会がキリストの一つの体において一致していることの重要性をエフェソの教会への手紙に記し、「わたしたちひとり一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と、その霊的な一致は賜物の多様性のうちにあることを明示しています。

 教会憲章の第32項に、「聖なる教会は、神の制定によって、みごとな多様性をもって組織され統治されている。・・・教会の中では、すべての人が同じ道を進んでいるわけではないが、しかしすべての人が聖性に招かれ、神の義によって、信仰を同等に分け与えられているのである。・・・こうして、多様性の中にあって、すべての人がキリストのからだにおける優れた一致について証しを立てる」と記されています。

 私が20年ほど前に、初めて新潟の司教の任命を教皇様からいただいたとき選んだ司教職のモットーは、ここからとられています。私は「多様性における一致」を、この20年間、司教職のモットーとしてきました。

 今、教会はシノドスの道を歩んでいますが、まさしく今ほど「多様性における一致」が重要な時はありません。聖霊の導きに耳を塞いだままでいるのか、聖霊の導きに身を任せようとするのか、それぞれの決断が、福音の証し人となるために必要です。

(編集「カトリック・あい」)

2024年5月11日

・「人間らしいコミュニケーションを」-5月5日「世界広報の日」に菊地大司教

2024年5月 4日 (土) 週刊大司教第165回:復活節第六主日B

 連休中ですが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。私はいつものように執務室で、原稿を書いております。休みのうちに書いておかないと、締め切りや行事に間に合わないものですから、休日で誰もいない教区本部の執務室は、書き物をするのに最適な空間です。

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 先日、駐日ガーナ大使であるジェネヴィーブ・エドナ・アパロ大使(写真右)が、教区本部を訪れてくださいました。大使はカトリック信徒でもあり、様々な分野に話は及びましたが、本題は、私が今年の8月にガーナの神言会から司祭叙階式の司式を依頼されており、8月10日前後に一週間ほどガーナを訪問する予定となっていますので、その訪問についての話でした。8月10日に叙階する新司祭の中に、私がかつて主任司祭を務めていた教会の出身者がおり、叙階式を行い、その翌日には出身教会のオソンソン、つまり私が昔いた教会での初ミサに参加することになりました。

 なお、もしこの機会にガーナを訪れたい、という方がおられましたら、近日中に同行旅行団の募集が信徒の運営する旅行会社パラダイスさんから呼びかけられる予定です。日程は8月6日夜発、8月14日夕方帰着の予定で、現地での宿泊は主に教会関係の黙想の家などになり、普段の巡礼旅行のようなホテル利用ではありません。その旨ご承知おきください。

 以下、4日午後6時配信の週刊大司教第165回、復活節第六主日のメッセージ原稿です。なおメッセージも触れている世界広報の日の教皇様のメッセージは、こちらのリンクから、中央協議会のホームページでご覧ください。

【復活節第6主日B 2024年5月5日】

 「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」と述べる主イエスは、私たちが自分の知識や好みに従って信仰を築き上げるのではなく、イエス御自身が望まれることを具体的に成し遂げるように、と求めておられます。信仰は、私たちの都合で作り出す創作物ではなく、具体的に生きておられる主によって与えられるものです。

 イエスは福音で、「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように」、私たちが「互いに愛し」合うことを命じておられます。バーチャルな世界でならまだしも、現実の世界で一人で愛し合うことはできません。「愛し合いなさい」という命令は、具体的に人と関わることを私たちに求めています。ですから教会は、人と人との交わりによる共同体を基礎としているのです。

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったところに、神の愛が示されている、と強調します。すなわち、神の愛は、御子が十字架の上でその身を捧げられたほどの、命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、私たちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるように、とヨハネは語ります。

 「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのは簡単です。ひたすら優しくなれば良いというのは、残念ながら思い違いです。単に優しくなることを意味してはいません。イエスが語る「愛」の意味は、イエス御自身が目に見える形で実行された、その行動にあります。十字架です。すべての人の罪を背負い十字架上で命を捧げる。まさしく、命がけの愛であります。それが神の愛の本質です。それは単なる優しさではありません。

 さて教会は、復活節第六主日を「世界広報の日」と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金を捧げる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、「AIと心の知恵:真に人間らしいコミュニケーションのために」というメッセージを発表されています。今年の正月の世界平和の日のメッセージについで、教皇は一般的に広く受け入れられつつあるAIの課題について触れています。

 教皇は「技術は豊かでも人間らしさは希薄なこの時代にあっては、人間の心だけが私たちの考察の起点となります」と記し、機械とは無縁な人間の心の知恵の重要さを説きます。その上で教皇は、「取り上げるべきは、機械に人間らしさを要求することではありません。全能という妄想によって陥った催眠状態から人を目覚めさせることなのです。自分は完全に自律した自己言及的な主体で、社会的つながりとは無縁だとして、被造物としての己を顧みない思い込みから目を覚まさせることです」と記されます。

 「私たちは、人間性において、そして人間として、共に成長するよう求められて」いると指摘される教皇は、神の知恵を求めながら、人間らしいコミュニケーションを取ることの必要性を説いておられます。

 私たちにとっても、「自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、そしてまさしくその言葉を実行した主イエスと、具体的に現実の中で出会うことが、信仰を豊かにし、また人生を豊かなものとすることでしょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年5月4日

・「自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありたい」菊地大司教の復活節第五主日

2024年4月27日  週刊大司教第164回:復活節第五主日B

 桜の季節はあっという間に終わり、季節は夏に向けて歩みを進めています。教会の典礼も、5月19日の聖霊降臨祭に向けて、復活の神秘を思い起こしながら、初代教会の発展の歴史にも心を留め、主の復活によって力強い宣教者へと変えられた弟子たちに倣い、自らの毎日の信仰生活を深めるためにともに歩みを進めます。

 先日、4月21日の日曜日には、午前中に下井草教会の創立75周年ミサが行われました。サレジオ会に司牧が委託されている教会です。下井草教会の皆様、サレジオ会の皆様、おめでとうございます。下井草教会の歴史については、教区のホームページのこちらをご覧ください1714112792913青少年司牧に力を入れているサレジオ会だけあって、侍者をはじめたくさんの若者が集まっていました。ちょうど午前中は天気に恵まれ、聖堂と信徒会館の間の中庭で、祝賀会も行われました。現在の主任司祭はサレジオ会の並木神父様です。 教区ホームページには創立の経緯がこう記されています。 「1948年、時の東京教区長・土井大司教は下井草の地に教会建設を依頼され、サレジオ会に対し3000ドルを寄贈された。サレジオ会はマンテガッツア神父を主任司祭に任命し、新聖堂の建設に着手することとなる。戦後、育英学院付属の小さな聖堂を使用していた経緯もあって、1949年4月17日の復活祭には、東京教区第18番目の教会として認可された。下井草教会は、この日をもって教会創立の日としている。マンテガッツア師が夢に抱いていた願いどおり、新聖堂は「扶助者聖母マリア」に捧げられ(た)」

 また同日午後2時半からは、アンドレア司教様司式で、世界召命祈願の日のミサがカテドラルで捧げられ、コロナ以前のように多くの方が集まってくださり、当日参加した男女の修道者や教区の神学生とともに、召命のための祈りをささげてくださいました。また数年ぶりに、ミサ後の懇親会も復活し、養成を受けている方々など、修道会や神学院の紹介も行われました。司祭・修道者の召命のためにお祈りください。またキリスト者一人一人に与えられている召命を、自覚し、ふさわしく生きていくことが出来るように、互いに祈り合いましょう。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第164回、復活節第五主日のメッセージ原稿です。復活節第5主日B 2024年4月28

 日本の司教団は先日、アドリミナの訪問のために、全員でローマに出かけてきました。定期的にローマを訪れ、教皇様を始め聖座に、それぞれの教会についての定期的な報告をすることや、聖座の省庁から指導を受けることもありますが、もう一つ大事なことは、使徒の後継者として、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、司教としての務めを果たすことを改めて心に誓うことがあります。

 司教にとってそれは、自分たちがどこに繋がっているのかを確認することであり、また同時に司教たちを通じて、それぞれの地方教会が、どこにつながっているのかを再確認することでもあります。イスラエルなどの聖地巡礼は、私たちの信仰の原点を思い起こさせますが、アドリミナでのローマ訪問は、教会が普遍教会として世界に広がり、また同時に一つに繋がっていることを思い起こさせます。

 私たちは、ローマの司教であり聖ペトロの後継者である教皇様に繋がることで、主イエスによって呼び集められた弟子たちに繋がり、今もまた聖霊によって導かれている教会共同体の一員であることを、再確認します。

 使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」言った様を記しています。

 神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、改めて私たちに認識させます。教会は、その始まりから、聖霊に導かれ、人間の知恵を遙かに超える道を歩み続けてきました。教会は、聖霊によって導かれています。。

 ヨハネ福音は、主ご自身が、「ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私に繋がっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘された話を記しています。

 ぶどうの木である主イエスに繋がっている限り、枝である私たちは「豊かに実を結ぶ」ことが可能となります。私たちはぶどうの木の枝として、世界に広がり、繋がっている教会です。

 しかし同時に、その豊かな実の中身がどのような実りであるのかは、枝が自由に決めることはできません。すなわち、私たちが幹である主イエスに枝として繋がっているのであれば、それは私たちが好ましいと考える実りを生み出すためではなくて、主ご自身が望まれるみのりを、主の思いのままに実らせることであります。聖霊の導きのままに、実りを生み出すことです。

 豊かな実りは、主の実りであって、私たちの実りではありません。仮に、自分の理想の実現を実りだと考えるのであれば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することに繋がります。教会が今歩んでいるシノドスの道こそは、私たちが一つの幹に連なっている枝であり続けることを、明確に思い起こさせています。私たちは、自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月27日

・「主の前に身をかがめ、名声を求めず、淡々と語られる偉大な司祭だった」澤田神父帰天-菊地大司教の追悼

2024年4月20日 (土)週刊大司教第163回:復活節第四主日B

   アドリミナで、私もアンドレア司教様もローマに滞在中の4月11日、東京教区司祭団の最長老である澤田和夫神父様が帰天された、との連絡を受けました。104歳と高齢であり、この数年は介護施設で暮らしておられたものの、教区での様々な機会には車椅子で出席されたり、「もう危ない」と言われながら、何度も神父様特有の自然体で、それを乗り越えて来Sawada04られた澤田神父様でした。

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 私がわざわざ語ることもないほど、多くの方に霊的な影響を与え、人生の友となり、語り尽くせぬほどの様々なエピソードを残された偉大な司祭が、一世紀を超える人生の歩みを終え、御父の元へ戻られました。

 葬儀は、私が帰国した翌日、4月18日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂をいっぱいに埋めた多くの方の参列の中で、執り行いました。アドリミナ後にふるさとに戻られていたアンドレア司教様も、当日の朝に帰国され、葬儀ミサに出席されました。ミサの説教は、洗足教会の山根神父様が、様々な思い出を語りながら担当してくださいました。

 40年ほど前、まだ私が神学生であった頃、名古屋の神言会の神学院で、霊性神学の講義を担当していただいておりました。

 夜行の高速バスで東京からおいでになり、あのいつもの姿に長靴で、早朝に神学院の中をそろそろと歩かれているのを見て、澤田神父様を存じ上げない若い神学生が、「不審者が侵入した」と勘違いして大騒ぎになったことを懐かしく思い出しました。常に主の現存の前に身をかがめ、ご自分のスタイルを貫き、名声を求めず、淡々と語られる偉大な司祭でした。澤田神父様のこれまでのお働きに感謝しながら、御父が豊かに報いを与え、その御許で永遠の安息を与えてくださることを祈ります。

以下、20日午後6時配信、週間大司教第163回、復活節第四主日のメッセージ原稿です。

復活節第四主日B 2024年4月21日

 復活節第四主日は、善き牧者の主日です。ヨハネ福音には、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスの言葉が記されています。

 主が羊飼いなのですから、彼に従っている私たちはその羊飼いに導かれる羊の群れであります。羊飼いと羊の関係というと、羊飼いが先頭に立って羊の群れを導いている姿を想像しますが、実際の羊飼いは、群れの先頭に立つと言うよりも、少し離れた場所から、時には後ろから、常に見守り、時には正しい方向へ進むように、と追い立てる存在です。

 教会における牧者のイメージも、ともすると先頭に立って、「私についてこい」と群れを導く姿を想起しますが、主イエスの語る牧者は、ご自分が賜物としていのちを与えられた私たちを、ご自分の羊、ご自分の一部として心にかけ、傍らから見守る存在です。しかもご自分の羊たちを愛するがあまり、その羊のために命をかけるとまで宣言されます。その上で、イエスは、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であるとして、誰一人排除することなく、賜物として命を与えたすべての人を、自らの群れに取り込むことが神の望みであることを明示します。

 良い羊飼いである主イエスは、「私は自分の羊を知っている」といわれ、同時に「羊も私を知っている」と断言されています。果たして私たちは、主を知っているでしょうか。どこで主と出会ったでしょうか。日々の生活の中で出会う人、とりわけ命の危機に直面している人、人間の尊厳をないがしろにされている人、忘れ去られている人のうちにこそ、主はおられます。

 教会はこの復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日としています。東京教区では、この主日の午後、教区の一粒会が主催して、東京カテドラル聖マリア大聖堂で召命祈願ミサが捧げられます。

 召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまりません。キリスト者すべての召命についても考える必要があります。司祭・修道者の召命のために祈ることは重要ですが、同時に信徒の召命が生かされるように祈ることも重要です。

 私たちは就職活動や求職活動のように、召命を人間が生み出すことはできません。それは神からの賜物です。召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、「主からの呼びかけに応える勇気を持つ人」が増えるように祈りましょう。

 呼びかけておられる善き牧者、主イエスと出会いましょう。私たちは教会共同体の中で、ミサに共に集う中で、告げられる御言葉のうちで、生け贄として捧げられる御聖体のうちに、そこにおられる主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人一人のうちにおられる主と、出会います。主はいつも呼びかけておられます。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月20日

・4月8日から13日まで司教団がローマ訪問、教皇に謁見ー「私たちは慈しみにあふれた存在になろうと努めているか」菊地大司教の復活節第二主日

2024年4月 6日 (土)週刊大司教第162回:復活節第二主日B

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 復活節第二主日は神の慈しみの主日です。

 メッセージの中でも触れていますが、日本の司教団は4月8日から13日まで、定期的な聖座訪問「アドリミナ」のために、全員がローマに出かけます。もちろん様々な理由から、全員が一緒に飛ぶことはありませんが、この数日以内に、日本の現役のすべての司教はローマに集合し、バチカンの各省庁を訪問して意見交換をし、さらに教皇様と謁見して、日本の教会についての報告をしてきます。

 また滞在中には、省庁訪問や教皇様との謁見だけでなく巡礼の要素もあり、特にペトロとパウロの墓前で司教団はミサを捧げます。

Adlimmina1503018 私にとっては、2007年のベネディクト16世教皇、2015年の現フランシスコ教皇と、三回目のアドリミナになります。左の写真は、その2015年のアドリミナに参加した日本の司教団ですが、よく見るとその時から9年で、現在の司教団の顔ぶれは大きく変わっていることが分かります。

 この写真に写っている2015年当時の日本の司教団は16名ですが、そのうち、すでに10名が引退され、そこには新しい司教様が任命されています。一口に「日本の司教団」と言ったとしても、その顔ぶれは10年くらいでガラリと変わっているものです。

 アドリミナに出かけている日本の司教団のため、また教皇様のために、どうぞお祈りください。お願いいたします。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第162回、復活節第二主日のメッセージ原稿です。

復活節第二主日B  2024年4月7日

 ヨハネ福音は、主が復活された日の夕刻、まだ何が起こったかを理解していない弟子たちが、恐れのうちに隠れてしまっている様を伝えています。もちろん自分たちのリーダーを殺害した人々の興奮への恐れもあったでしょうし、同時に、見事にイエスを裏切り見捨ててしまったことへの自責の念もあったことでしょう。

 その弟子たちの真ん中に現れたイエスは、弟子たちの心の闇を打ち払うように、平和を告げます。平和は神が定められた秩序が完全に存在する状態です。神との完全な交わりのうちにある状態です。すなわちここで、イエスは神が慈しみそのものであり、常に神との完全な交わりへと招き続け、見捨てることはないことを明白に示します。神の慈しみに完全に包み込まれていることを知った時、弟子たちの心の暗闇は打ち払われました。

 復活節第二主日は、「神の慈しみの主日」です。1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」に、教皇ヨハネパウロ二世は、「(神の)愛を信じるとは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(7)と断言されています。

 教皇フランシスコは、2015年12月8日から一年間を「慈しみの特別聖年」と定められ、神の慈しみについて改めて黙想し、それを実行に移すように、と招かれました。

 その特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」には、「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命があります。慈しみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父の慈しみを現さなければなりません」(12)と記されていました。

 私たちは今、世界の各地で命の危機に直面し、暗闇の中で恐れに打ち震えています。どこへ向かって歩みを進めれば良いのか分からずに、混乱した世界で生きています。その私たちに、常に共にいてくださる主イエスは、私たちの直中に立ち、「あなた方に平和があるように」と告げながら、私たちをその慈しみで包み込もうとされています。復活された主は、私たちの具体的な愛の行動を通じて、世界に向かって平和と希望を告げ知らせようとしています。「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命」があります。

 不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っている私たち一人ひとりが慈しみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

 明日4月8日から13日まで、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためにローマを訪れています。アドリミナとは、世界中の司教団が、定期的に聖座を訪問し、ペトロの後継者である教皇様に謁見して教会の現勢について報告をし、聖座の各省庁を訪問して情報交換するために行われます。さらには教会の礎を築いた二人の偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、サンタマリアマジョーレとラテランの両大聖堂にも巡礼します。前回は2015年でした。ローマを訪問している日本の司教団のために、また教皇様のためにお祈りください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月6日