・「弱い立場にいる人たちへの慈しみに徹底的に生きる」菊地大司教の年間第26主日・世界難民の日説教

年間第26主日:世界難民移住移動者の日(配信ミサ)

Rwanda95c 週刊大司教でも触れていますが、9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。本来であれば、教会の大切な活動である難民や移住者への支えの活動のために、全世界の教会は献金をする日となっているのですが、残念ながら今年はミサの非公開の時期と重なってしまいました。様々な事由から困難な旅路につき、今、その途上にある人たちのために、お祈りくださいますようにお願いします。

 教会は従前から、旅路にある人への配慮の必要性を強調してきましたし、特にその命を危機にさらすようなことのないように、特段の配慮をするように教えてきました。また教会のそういった配慮を具体的に表現するため、国際カリタスを通じた全世界での難民支援活動を行い、また教皇庁の人間開発促進の部署に難民セクションを設けて、教皇様が直接関与する形で、支援活動を強めてきました。

 移動の途上にあって命を落とされる事案は、増えることはあっても減少してはいません。教皇様が就任直後にアピールをされた、アフリカから地中海へ乗り出して命を落とされる多くの人の存在を始め、アフリカや中東、そしてアジアでも、紛争地域にあっていのちの危機に直面する多くの人たちは後を絶ちません。さらには経済的困難から移住することを選択し、新たな居住地で命の危機に直面する方もおられます。

 日本でもそういった残念な例がありますが、公的な保護が十分ではなく逆にその尊厳を奪われて、中には命を落とす方もおられるような事案があることも事実です。人間のいのちの尊厳を奪い去る暴言や暴行は、誰であっても、とりわけ保護する立場にある公的機関である場合にはなおさら、それを正当化することは、命が神からの賜物であると主張する限り、できることではありません。互いに支え合い助け合うという、賜物である命に与えられた私たちの存在の意味を、今一度、心に刻みたいと思います。

以下、26日午前10時から、カトリック関口教会のYoutubeアカウントから配信された主日ミサの、説教原稿です。

【年間第26主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月26日】

9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。

旧約聖書のレビ記19章34節にはこう記されています。「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である」。

教会にとって、移住者への司牧的配慮は、その形態や理由の如何を問わず、長年にわたって優先課題とされています。それは旧約時代から続く、寄留者への配慮の定めに基づいています。

現在は人間開発促進の部署として統合されましたが、かつて浜尾枢機卿様が議長を務めておられた教皇庁の移住移動者評議会が2004年に発表した文書、「移住者へのキリストの愛」には、御父によるこの命令を前提としながら、次のように記されています。

「移住者を思うとき、教会は『私が旅をしていたときに宿を貸してくれた』と、語られたキリストをいつも観想します。したがって、移住の問題は、信じる者の愛と信仰へのチャレンジでもあります」(12)

その上で同文書は、「今日の移住現象は重要な『時のしるし』であり、また、人類を刷新し、平和の福音を宣言する私たちの働きのうちに見いだされ、役立てられる者とするためのチャレンジです」(14)と記し、難民、移住、移動者への関わりは、単に教会の慈善事業なのではなく、信仰を生きる上で欠かすことのできない回心への呼びかけであることを明確にします。

教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたってメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“私たち”へと向かって」とされました。

教皇様は、「私たち」という言葉を、「あの人たち」という言葉への対比として使っておられます。つまり、難民や移住者の抱える困難は、自分とは関係のない他人である「あの人たち」の問題なのではなく、「私たち」の問題であることに思いを馳せ、「私たち」と言う言葉の包摂する範囲を、自分の知り合いの者たちに限定するのではなく、さらに広げて、困難に直面するすべての人へと広げていくように、と呼びかけておられます。

同時に教皇様は、この手を差し伸べる業を、単なる慈善の業とは見なしておられません。教皇庁の人間開発促進の部署には難民セクションがあり、その難民セクションの関係者は直接、教皇様に報告をするように、と定められております。その関係者によると、難民や移住者の課題への取り組みについて報告をするとき、教皇様は会話の中でしばしば、「私の家は、あなたの家だ」というフレーズを口にされると言います。

「私の家は、あなたの家」という言葉は、「困難を抱える人を私のところへ迎え入れる優しさ」に満ちあふれた言葉として響きます。しかしそれは単に、自らの家に困窮する人を迎え入れなさい、という慈善行為の勧めに留まってはいません。

教皇様は、「私の家」という言葉で、「自分自身が、その家における責任をもった居住者であること」を表明するとともに、迎え入れた「あなた」も、「私」と同じように「この家」の責任ある居住者となることを意味しておられます。つまり、援助の手を差し伸べ、迎え入れた人は、単なる「私の家のゲストで」はない、ということであります。迎え入れた人は、その時から、私と同じ責任ある居住者、であることを意味します。もちろん教皇様は「私の家」という言葉で、「国家」を意味しておられます。

教皇様はメッセージで、「神が望まれたその“私たち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇様は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“私たち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そして最も大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、『外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たち』です」と記され、共に「共通の家」に住まう兄弟姉妹とともに、「家族」を修復するように、と呼びかけておられます。

民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがある場合に限って、預言を語る力が授けられたことを記します。「モーセにだけ与えられていた特権」を奪われた、という思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。「やめさせるべきです」と進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、「大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながら共に共同体を育てていくことだ」と指摘します。

使徒ヤコブは、「この世の富は、永遠の命を保証するものではないこと」を明確に指摘し、さらには「その富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくること」を指摘します。

さらに使徒ヤコブは、「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記し、弱い立場に置かれた人たちへの正義にそむく行いをとがめています。まさしく多くの移住者が、とりわけ法的に弱い立場にある人たちが、人間の尊厳をないがしろにされ、排除される事例は、現代社会でもしばしば聞かれます。

マルコ福音は、「神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる必要があること」を、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは「自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないこと」を明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「私に逆らわない者は、私の味方」と述べ、「弱い立場にいる人への慈しみに、徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であること」を示します。

賜物である命をいただいた私たちは、国籍や文化の違いを乗り越えて、神から愛される兄弟姉妹として生かされています。私たちがするべき事は、その命がすべて一つの体につながれ、永遠の命を受けるように、慈しみの手を差し伸べて助け合うことであります。異なる存在を排除して、命を危機に直面させることではありません。

福音に徹底的に従おうとする私たちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへの慈しみに徹底的に生きる者でありたいと思います。助けを求める人たちに対して、「あの人たち」と見なして背を向けるのではなく、同じ命を賜物として与えられている「私たち」として、創造主である神の懐にともに抱かれ、互いに支え合い助け合いながら、それぞれの役割を果たしていく者となりましょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は、原文に近く、現代日本語としても適切な「聖書協会・共同訳」にしてあります)

2021年9月26日

・「弱者への慈しみに徹底的に生きる者でありたい」菊地大司教の年間第26主日・世界難民・移民の日メッセージ


2021年9月25日 (土) 週刊大司教第四十五回:年間第26主日

Rwanda95b 年間第26主日となりました。教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。旧約の時代から、「寄留者」への配慮は、イスラエルの民自身がエジプトで「寄留者」であった記憶から、大切に教え伝えられ、実践されてきました。

 また主ご自身が、「私が旅をしていたとき宿を貸してくれた」と、すべての人の中に、特に助けを必要とする人のうちにおられるご自分の存在を明確にされたように、様々な事由でこの地上を旅する人への配慮は、主ご自身への配慮と考えられています。教皇様にとっても、特に難民への特別な配慮は、司牧の優先課題の一つです。(右の写真は、95年5月、ルワンダと旧ザイール国境のブカブで撮影した、ルワンダから逃れてきた人たち)

 今のところの予定では、9月末日をもって緊急事態宣言は解除となる模様です。10月1日からは、以前のように感染対策をとりながら、ミサの公開や教会活動を再開させたいと思います。これについては別途公示いたしましたので、教区ホームページをご参照ください。

 検査の新規陽性者数が減少している、という明るい数字もありますが、この後どのように推移するかは不確定ですから、しばらくは慎重な対応を続けたいと思います。

 以下、本日午後6時にカトリック東京大司教区のYoutubeアカウントから配信された、週刊大司教第45回目のメッセージ原稿です。

【年間第26主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第45回 2021年9月26日】

 民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがあるときに限り、預言を語る力を授けたことを記します。モーセにだけ与えられていた特権を奪われた、という思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。やめさせるべきだと進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たし、互いに支え合いながら共に共同体を育てていくことだ、と指摘します。

 使徒ヤコブは、この世の富は、永遠の命を保証するものではないことを明確に指摘し、さらには、その富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくることを、指摘します。

 マルコ福音は、神の国に入る者となるためには、「中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる者となる必要があること」を、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないことを明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「私に逆らわない者は、私の味方」と述べ、弱い立場にいる人への慈しみに徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であることを示します。

 9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日であります。

 レビ記19章34節には、こう記されています。「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である」。

 教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたってメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“私たち”へと向かって」とされました。これは、「私たち」という言葉を使うときにイメージする範囲を「自分の知り合いの者たち」だけに限るのではなく、さらに広げて「、困難に直面するすべての人を包括するように」という呼びかけです。

 同時に教皇は、それを単なる慈善のわざとは見なしていません。聖座の難民セクションの関係者によると、教皇はしばしば会話の中で、「私の家は、あなたの家だ」と言われるそうです。それは単に、「私の家に困窮する人を迎え入れよ」という「慈善の勧め」に留まるのではありません。「私の家」と言うことで、「自分がその家における責任ある居住者であること」を表明するように、迎え入れた人も同じように「責任ある居住者」となることを意味しているのだといいます。つまり、援助の手を差し伸べた相手は、単なるゲストではない、ということであります。

 教皇はメッセージで、「神が望まれたその“私たち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“私たち”をばらばらにしたり、分裂させたりします。そして、最も大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たちです」とされ、「人類家族」を修復するように、と呼びかけておられます。

 福音に徹底的に従おうとする私たちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへの慈しみに徹底的に生きる者でありたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は、原書により忠実で、現代日本語としても正しい用法になっている「聖書協会・共同訳」にしています)

2021年9月25日

・「福音に生き、証しする人生に定年はない」菊地大司教の年間第25主日ミサ

 2021年9月19日 (日)年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

210912cathedralmass 年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。

 新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。

 なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

 以下、19日午前10時から関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。

【年間第25主日B(東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月19日】

公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。

人類は常に何らかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、共通善により近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。

残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程で私たち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い『支配者』や『所有者』と見なすように」なり、「神から賜った善きものを私たち人間が無責任に使用したり乱用」してきました。その結果、「共通の家である地球を、深く傷つけてしまった」と指摘される教皇は、さらにこう述べておられます。

「神にかたどって創造された大地への支配権を、私たちに与えられたことが、『他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する』との見方は、断固、退けられねばなりません」(67)

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を」(137)必要とすると指摘され、「密接に結び合わされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠」であることを強調されます。

私たちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、私たちの願いが、神の御心に適う願いではなかったため、ではないでしょうか。

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、「神による永遠の救い」でなく「この世での救いこそが現実」であって、それは、「神の慈しみ」と対立する「利己的な欲望」の実現でしかありません。しかし、神に従い、真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

教皇は、私たちに命を与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記されます。

「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわち、私たちは、「被造物の上に君臨して、支配し、浪費する存在」ではなく、「被造物を管理し守り育てるように、と命じられた『奉仕する支配者』」でなければならないことが記されています。

心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、私たちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、私たちに「奉仕する支配者」となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ福音書10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。

使徒ヤコブは、妬みや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、命を奪うような混乱が支配する、と使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち、時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。「その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだ」と教皇は指摘されます。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛と慈しみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛の証しであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛の証しです。神の常識は、救いへの希望は、人間が最も忌み嫌う「苦しみと死」の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、私たちは神の愛と慈しみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

主イエスは、その受難と死を通じて、私たちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、私たちがその生き方を証しするように、と求められます。

繰り返し私たちを襲う大規模な災害は、そのたびごとに私たちに価値観と発想の転換を求めます。私たちの徹底的な回心を求めます。そして今、新型コロナウイルス大感染のただ中で、私たちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。

9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘され、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こうした課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるように、と求めておられます。その上で、このコロナ大感染は、私たちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのか、の選択肢を与えているのだ、と呼びかけます。

今こそ、視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取る時であります。

日本では9月20日が「敬老の日」とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、命の時を刻んで来られた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音を証しする人生に定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音を証しするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆみなく回心の道を歩みましょう。

(編集「カトリック・あい)」

2021年9月19日

・菊地大司教の年間第25主日メッセージ「福音に生き、証しする生活に、定年はない」

2021年9月18日 (土)週刊大司教第四十四回:年間第25主日

Smmrome02 9月19日、年間第25主日です。

 この時期、9月の第3月曜日が敬老の日と定められているため、一番近い主日に、教会でも高齢の方への祝福などの行事を行ってきたところが多いかと思います。大変残念ですが、今年は公開ミサを自粛しているため、こういった行事も中止となっています。

 カテドラルから配信させていただく9月19日の主日のミサでは、いつも通り教区の皆さんのためにミサを捧げますが、特に敬老の日に因んで、人生の大先輩である兄弟姉妹の皆さんの上に神様の祝福と守りがあるようにお祈りいたします。(写真は、教皇様が海外などへ司牧訪問に出かける前後に必ず訪れて祈りをささげるサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の「ローマ人の救い」の聖母)

 国民の祝日に関する法律には、この日は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日であると記されています。今日のメッセージでも触れていますが、教皇様は7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。

 教皇様の意図は、もちろん日本の敬老の日と同様の思いも込められていますが、それと同時に、一人ひとりのいのちに与えられている使命には定年はないことも強調されています。すなわち、年齢や健康や体力の面から、社会の中心から徐々に退いたとしても、福音を告げしらせることや福音に生きることには定年はない。その年代に応じた役割があることを指摘されています。

 この祈願日の典礼の手引きには、「若者も高齢者も、祖父母も孫たちも、同じ家庭に属していてもいなくても、わたしたち全員は「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」ということを理解するため」に、この日は定められていると記されています。それぞれに与えられている使命を自覚し、今いのちを生きている状況に応じて、キリストの一つの体の部分としての役割を果たしていきたいと思います。

 政権を担っておられる自民党の総裁選が始まっており、その後には新しい首相の誕生とさらには衆議院議員の選挙も控えています。これまで積み重なってきた国内のさまざまな事情と、さらには国際的な関係など、リーダーが対処しなければならない課題は大きく、国家の舵取りは難しいことだと思います。共通善や人間の尊厳の実現に向かって少しでも近づく国家であるように、聖霊の照らしと導きを、そして政治のリーダーたちへの叡智と励ましを、この時期、特に祈りたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の、「週刊大司教」第四十四回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

【年間第25主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第44回 2021年9月19日】

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書に記されています。神に従い真実を追究する者の生き方は、「この世が良し」とする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、平和は実現せず、命を奪うような混乱が支配する、と使徒は指摘します。

マルコ福音は、「誰が一番偉いのか」と議論する弟子たちに対するイエスの言葉を記しています。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」というイエスの言葉は、弟子たちに対する回答と言うよりも、この世への警句であります。神が「良し」とされる価値観は、弟子たちがとらわれているような「この世の価値観」とは全く異なっているのだ、ということを悟らせようとされる言葉です。受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。

その人生にこそ、自らが創造された人類への愛と慈しみが具現化している、と頭では理解しても、心情的にそれを素直に、その通りだ、と認めることは難しい。もっとほかの方法があるだろうと思ってしまいます。しかし神の常識は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果にこそ、神の愛と慈しみがある、とするのです。この世が「常識的」とする価値観で信仰を理解しようとするとき、私たちは神の愛と慈しみを、そしてその心を、理解できない者に留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

日本では20日が「敬老の日」とされています。それを前にして、19日の主日を、特に「高齢の方々のために祝福を祈る日」としている教会も多いのではないでしょうか。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。この機会に、そう定められた教皇様の意向を振り返ってみたい、と思います。

教皇様はこの祈願日に向けたメッセージに、こう記しておられます。

「私たちの孤独は、主にとって、どうでもよいことではありません。イエスの祖父である聖ヨアキムも、子どもがいなかったために共同体から孤立していた、と伝えられています。彼の人生は、妻アンナ同様、無益なものとみなされていました。けれども主は天使を遣わされ、お慰めになりました」

そのうえで教皇様は、「この新型コロナウイルスの大感染が続く数か月のように、何もかも真っ暗に思える時でも、主は天使を遣わされ、私たちの孤独を慰め続け、『私はいつもあなたと共にいる』と繰り返しておられます」と述べておられます。

そして、主が共にいてくださる私たち一人ひとりには、「年齢に関係なく、使命があるのだ」として、こう記します。

「いくつであろうと、仕事を続けていようがいまいが、一人暮らしだろうが、家族と一緒だろうが、若くして孫を持とうが、老齢になってからであろうが、自立できていようが、支援が必要だろうが、関係ありません。福音を伝える務め、孫たちに伝統を伝える務めに定年などないのです」

社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音を証しする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしする業を続けてまいりましょう。

2021年9月18日

・「私たちには、主が生き、語られたように生きていく務めがある」菊地大司教の年間第24主日説教

年間第24主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

0912cathmass1 教皇様は、本日9月12日朝にローマを発ち、まずハンガリーのブダペストへ向かわれます。ブダペストでは、折から開催されている第五十二回国際聖体大会の閉会ミサを司式されます。

 その後、スロバキアの首都ブラチスラヴァへ移動され、15日(水)まで滞在され、さまざまな行事をこなされることになっています。先般手術を受けられたこともあり健康不安説も出たりしましたが、教皇様はいつもと変わらず司牧訪問へ出かけられました。先ほどブダペストへの到着の動画を拝見しましたが、お元気な様子でした。教皇様の今回の司牧訪問の安全と成功のために、お祈りください。

 今回の司牧訪問の詳しい日程は、英語ですが、こちらのバチカンのサイトをご覧ください

 先日来お知らせしている2023年秋のシノドスへの道程ですが、一番最初の準備文書が、9月7日の教皇庁でのシノドス事務局による記者会見で発表されました。翌日には英語版が、メールで届けられましたので、現在、中央協議会で翻訳中です。

 これに関しては、想像より長い文書でしたが、10月以降の教区での意見の聴取開始が求められていますので、間もなく内容についてお知らせするように、東京教区の担当者である小西神父様と準備を進めてまいります。また必要な情報は、適宜、教区のホームページに掲載します。

 以下、本日9月12日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた配信ミサの、説教の原稿です。昨日の週刊大司教と重なるところが多々ありますが、ご容赦ください。

 

【年間第24主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月12日】

感染症の拡大を防ぎ、また自分のことだけではなく、隣人の命を守るために、愛の心を持って、教会の活動自粛に協力いただいている皆様に、心から感謝いたします。今日の主日も、教会共同体の霊的な絆に繋がれて、私たちは祈りのうちに一致しています。この配信ミサを一つの助けとして、互いの霊的な絆の存在に心を向けたいと思います。

またこうしてカテドラルで捧げられている大司教司式のミサは、ここにいるごく少数の方の個人的信心のためではなく、教区共同体の典礼行為として、教区のすべての皆様との霊的一致のうちにささげられていることを、改めて申し上げたいと思います。復活の主は、死に打ち勝ったその命の力をもって、いつも私たちと共にいてくださいます。

さて、この夏には、オリンピックとパラリンピックという世界的な行事が、東京を中心に開催されました。先週の日曜日9月5日は、パラリンピックの閉会式でありました。

感染症が終息しない中で一年延期されたこともあり、また緊急事態宣言のなかでもありましたので、先に開催されたオリンピックとともに、こうした状況下で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありました。参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思いますし、私自身も含め、開催を不安に感じた方も少なくないと思います。

教区としては、数年前から、選手村での宗教的サポートのために、他の宗派の方々と一緒になって協力する準備を進めていたところでしたが、このような状況下で、実際に選手村で活動することは出来なくなりました。また選手や関係者も外に自由に出てくることができないばかりか、宗教者が選手村に入ることも出来なくなり、結局いくつかの言語で霊的メッセージやロザリオの祈りのビデオを作成して、組織委員会に提供することしかできませんでした。

組織委員会では各宗派に公平を期すため、そのビデオがどのように公開されどのような反響があったのかは公表されていません。ですからわたしたちとしても、かなりの時間を掛けて準備したそういったビデオが、どのように役に立ったのかどうか、分からないのは残念です。少しでも、参加された方々の霊的な助けとなった事を願っています。

さて、障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、大会が象徴する価値観からも重要な意味をもつ出来事であると思います。しかし、オリンピックと比較すれば、報道などの面で特にそうですが注目度は高いとは言えず、加えて今回の感染症の事態で、さらにパラリンピックの存在がかすんでしまったのは、残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべての命が神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また教会は、私たちの命は、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならない、と主張します。

残念ながら、命の多様性を認めながら共に支え合って生きる社会を目指すのではなく、互いの違いを強調して分断し、異なる存在を排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって見受けられます。

世界を巻き込んでいま発生している命の危機は、その解決のためにも、世界全体の視点からの強固な連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態に直面しても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコは、新型コロナの世界的大感染の中で長らく中断していた一般謁見を2020年9月2日再開したとき、こう話されていました。

「このパンデミックは、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、共に協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。私たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

しかし今年の復活祭のメッセージで教皇は、国際的な連帯が実現していない事実を指摘し、「悲しいことに、このパンデミックにより、貧しい人の数と、数えきれないほど多くの人の絶望が激増しています」と述べられています。

この状況の中でも、一人ひとりの命の尊厳をないがしろにするような行動や事件は相次いでいます。命を賜物として与えられた存在として、私たちすべては、互いに助け合い、支え合い、お互いの持つ命の驚くべき物語に耳を傾け、尊敬の念を持って、命を生きていかなくてはなりません。

この社会の現実に対して「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちに共に支え合おうという、命を守る社会の実現を力強く呼びかけています。

使徒ヤコブは、信仰があるといっても行いが伴わないのであれば、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。そのうえで、「私は行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、各地で耳にしてきた主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と迫ります。私たちは、いま、主によって回答を迫られています。自ら決断して回答するように求められています。私たち一人ひとりは、一体何と答えるのでしょう。誰かから、どこかで聞いた話ではなくて、私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。「主こそ私たちの救い主」と、ペトロと一緒に答えるのであれば、私たちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

2021年9月12日

・「私たちの務めは、主が生き、語られたように生きること」菊地大司教の年間第24主日メッセージ

2021年9月11日 (土)週刊大司教第43回:年間第24主日

Tutumi2109 残念なことに、現在の緊急事態宣言は9月30日までの延長となりました。緊急事態宣言とともに自動的に公開ミサの自粛に入る教区もある中、東京教区では、小教区の現場の皆さんのご協力で感染対策に取り組み、できる限りミサを続けるようにしてきました。

 昨年の最初の公開ミサ自粛以降は、原則として小教区でのミサの公開を継続してきました。感染対策にご協力いただいた小教区の現場の方々に、心から感謝いたします。

 しかしこの8月に、検査の新規陽性者が大幅に増加し、自宅療養や入院される発症者も増加し、さらには重症者も200名をはるかに超える人数が続いたこと、さらにはいわゆる変異株による感染が課題として浮かび上がってきたことなど諸要素を勘案し、今回の感染症が昨年初めに始まってから二度目となる、東京教区における公開ミサの自粛に踏み切りました。

 もとより、ワクチン接種に関しては、教皇様を始め私自身も受けていることや、教皇様の接種を強く勧める言葉もありますので、私としては接種を前向きに受け止めていますが、体調やアレルギーなどで受けることが出来ない方、さまざまな考えから受けないことを選択される方もおられますので、教区として接種を義務化するような判断はしていませんし、今後もするつもりはありません。接種の義務化を求めないのですから、ワクチン接種の有無を教会活動参加の可否に援用することもいたしません。

 全体として状況は良い方向に向かっている、という判断の声を多く聞くようになりました。今般、9月30日までの緊急事態宣言の延長が決定されたことで、東京教区におけるミサの公開に関して改めて判断することにしました。一昨日の時点では、全体の状況が徐々に好転しているのは確かですが、入院や療養が必要な方はまだまだ多く、重症者の方も多くは回復されていません。やはり今しばらくは慎重な行動が必要と判断いたしました。

 これまで幾たびも繰り返してきたことですが、教会はミサを放棄したわけではありません。ミサは続けられています。一人ひとりのキリスト者の霊的成長のために聖体祭儀は不可欠であると同時に、それは独り個人の信心ではなく、教会共同体としての行為であります。

 昨年3月9日に私はこのようなメッセージを記しました。

「ミサの中止は、上記のように『公開のミサ』の中止であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り司祭によって毎日捧げ続けられています。教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げるからです。教皇ヨハネパウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

 私がミサ公開自粛期間に、自ら司式する主日ミサをカテドラルから配信する一番の理由は、そのミサが、「東京教区という共同体全体のミサ」であることを象徴するためでもあります。私は共に祈ってくださる教区の皆さんと霊的に繋がれながら、教区の皆さんとともに、教区共同体の行為として、ミサを捧げます。

 どうか困難な状況からの解放を求め、教会共同体の霊的な繋がりの中で、ともに祈り求めましょう。この困難が、私たちの教会共同体をこれまで以上に堅固な存在としてくださるように、私たちをその体における一致へと招かれる主に信頼して、祈り続けましょう。

 以下、11日午後6時配信の、週刊大司教第四十三回のメッセージ原稿です。

【年間第24主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第43回 2021年9月12日】

先週の日曜日、9月5日に、パラリンピックが閉会式を迎えました。先に開催されたオリンピックとともに、感染症が終息しない中で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありましたし、実際に参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思います。私自身もかなりの不安を抱いておりましたし、感染症に関して社会への影響があったのかどうかは、後にならなければ判明しないのかもしれません。

障害と共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、その大会が象徴する価値観からも世界にとって重要な出来事であると思うのですが、オリンピックと比較すれば注目度は高いとは言えず、加えて今回の事態でそれがさらにかすんでしまったのは残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、「スポーツイベントを超えて、社会全体へ重要なメッセージを発信している」と言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、勇気、強い意志、インスピレーション、公平であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべての命が神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また私たちの命は、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならない、と主張しています。残念ながら、多様性を認めながら共に支え合って生きるのではなく、分断し排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって垣間見られます。その社会に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、「連帯のうちに共に支え合おう」という、命を守る社会の実現を呼びかけています。

イザヤは、この世によって排除され迫害される命に対して、その命を愛し、守られる創造主が、常に共にいて守られることを記しています。

使徒ヤコブは、行いが伴わない信仰は、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「私は行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、方々で耳にする主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と迫ります。私たちは、いま、主によって回答を迫られています。私たち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。「主こそ私たちの救い主」と、ペトロと一緒に答えるのであれば、私たちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

2021年9月11日

・菊地大司教の年間第23主日・「被造物を大切にする世界祈願日」ミサ説教

 9月第一の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

 午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、主日ミサを捧げ配信いたしました。本日の閉祭に歌われたのは、2019年に教皇様が訪日されたとき、東京ドームでのミサなどで歌われたものです。「すべてのいのちを守るため」のテーマに合わせての選曲です。この歌の譜面は、このリンクの中央協議会ホームページからダウンロードすることが出来ます。楽譜は一番下の「楽譜(伴奏つき)」からPDFで、録音も聞くことが出来ます。

 以下、本日主日配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月5日

 回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではその直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月5日の年間第23主日、本日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。また「ラウダート・シ」の理念の啓発と、それを霊的に深めるため、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な期間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

 この祈願日にあたって、マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラーダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、私たちの心の耳が開かれる必要があるからです。時に現実だとか常識だとかしがらみだとか、さまざまに呼ばれている壁、すなわち「歴史における時間の積み重ねが生み出した結果」は、私たちの思考を縛り付けてしまっています。縛り付けるだけではなく、その壁は、思考の自由も行動の自由も奪ってしまいます。

 教皇フランシスコは、そういった壁をすべて打ち壊し、常識や人間関係のしがらみにとらわれることなく、命が育まれるこの共通の家をどうしたら守ることができるのか、総合的な視点を持って取り組むようにと呼びかけます。その呼びかけは、教皇個人の呼びかけではなく、私たちの共通の家からの叫びであり、神からの呼びかけです。その叫びは、呼びかけは、聞こえているでしょうか。心の耳を開いていただく必要が、ここにあります。

 教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、私たちが生きているこの世界に対して犯された罪への赦しを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

 教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「共に暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

 そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日に触発され、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。これは1981年に教皇ヨハネパウロ二世が訪日され、その平和アピールに触発されて8月の平和旬間を定めたように、教皇の「すべての命を守るため」という呼びかけに応えるためであります。

教皇フランシスコは、神がよいものとして与えてくださったこの共通の家を、わたしたちが乱用し破壊しているとして、「ラウダート・シ」の冒頭にこう記しています。

 「この姉妹は、神から賜ったよきものを私たち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、私たちに叫び声を上げています。私たちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました」(2)

 さらに教皇は、人間の命が成り立っている三つの関係、すなわち、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」が引き裂かれている状況を指摘し、こう記します。

 「聖書によれば、いのちにかかわるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)

 すなわち、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、この三つの関係の破壊による罪の結果であると教皇は指摘されます。そうであればこそ、私たちはその関係の修復に努めなければなりません。その意味で、「ラウダート・シ」は環境問題解決への問いかけの文書ではなく、被造物全体を包括した問題への取り組みへの呼びかけであり、罪の状態を解消するための回心の呼びかけの書でもあります。

 したがって「すべてのいのちを守るための月間」は、具体的なエコロジーの活動への招きと言うよりも、わたしたちの生き方の根本姿勢の見直しの呼びかけであり、神との関係、被造物との関係を見つめ直す具体的な行動への呼びかけを伴って、霊的な深まりと回心へとわたしたちを招いています。

 イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

 感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、私たちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

 不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、命が生かされる喜びを記します。

 使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって命が豊かに生かされていることにあるのだ、と指摘します。

 私たちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。

 私たちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。私たち一人ひとりの心には今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が、福音朗読を通じて響き渡っています。神の呼びかけに、耳を傾けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月5日

・「主に”心の耳”を開いていただこう」菊地大司教年間第23主日メッセージ

2021年9月 4日 (土)週刊大司教第四十二回:年間第23主日

2021_08_14 東京は涼しい9月の始まりとなりました。年間第23主日、週刊大司教は第42回目となります。

 政治はめまぐるしく動こうとしていますが、その間の感染症対策は継続しています。東京教区では、主に東京都において毎日発表される検査の新規陽性者数、発症日別の感染者数、重症者数、死亡された方々などの数字を参考にしながら、対応を検討していますが、現時点では収まる方向へ向かいつつあると思われます。

 緊急事態宣言は、予定では9月12日までとなっていますが、その後に延長されるという話も伝わってまいります。教区としての公開ミサの自粛を12日以降、どのようにするのかについては、教区のホームページで公示しておりますので、参照ください。

 以下、本日9月4日(土)午後6時に配信した週刊大司教第42回目のメッセージ原稿です。

【年間第23主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第42回 2021年9月5日】

イザヤ書は、「心を騒がせている者に言いなさい。『強くあれ、恐れるな… 神は来られ、あなたがたを救う』」(35章4節)という神の励ましの言葉を記しています。

 感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、私たちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

 不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧き出でる」ように、不安におののく者に希望を生み出し、命が生かされる喜びを記します。

 マルコ福音は、このイザヤの予言の実現として、イエスがなさった奇跡の業を記しています。イエスは「エッファタ」の言葉を持って、耳を開き、口がきけるようにされた、と記されています。さまざまな困難を抱えて命を生きていた人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。

 使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かに私たちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、命が豊かに生かされていることにあるのだ、と指摘します。

 私たちは、命を生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも、私たちの命は希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。

 「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。私たちは、神の言葉を心に刻むために、「心の耳」を主イエスによって開いていただかなくてはなりません。

 「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神の慈しみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、私たち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

 ところで、教皇フランシスコは2015年に回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会が「共通の家」である地球環境のさまざまな課題に真摯に取り組むことの重要性を強調されました。その啓発と霊的な深まりのため、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定め、アシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」としています。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日に応える形で、この期間を「すべてのいのちを守るための月間」と定め、昨年からさまざまな呼びかけを行っています。

 教皇さまは「ラウダート・シ」において、「総合的エコロジー」という言葉をしばしば使われ、「環境への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか、温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みを意味するのではなく、全体としての「共に暮らす家」を大切にすることである」と強調されます。

 そのため、命に関わるさまざまな課題を総合的に考えなくてはならず、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160項)に真摯に向き合うことが求められています。

 すべての命を大切にせよ、と命じられる神の言葉を心に刻むために、主の「エッファタ」という力強い言葉によって、心の耳を開いていただきましょう。神の言葉に心を向けましょう。

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記で統一、聖書の引用な「聖書協会・共同訳」で統一しています)

 

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2021年9月4日

・「困難の中でも愛と慈しみを実践する者となろう」菊地大司教の年間第22日主日説教

年間第二十二主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

     8月29日、年間第二十二主日の午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信した大司教司式ミサの説教原稿です。前日土曜日午後6時配信の週刊大司教のメッセージは、この説教の短縮版ですので、多少重複するところがあるのはお許しください。

【年間第22主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年8月29日】

  緊急事態宣言は継続しており、社会生活にあって私たちには、感染対策として慎重な行動をとる必要がまだまだ求められています。すべての命を守る選択として、また隣人愛にもとづく行為として、教会は現在の選択を続けていきたいと思います。同時に病床にある方々の一日も早い回復と、命を助けるために日夜努力を続けておられる医療関係者の方々のために、改めて祈りたいと思います。

 私たちは、実際に教会に集まってともに感謝の祭儀にあずかることのできない今だからこそ、主イエスの私たちの間での現存について考えてみたいと思います。

 主は救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記す第二バチカン公会議の典礼憲章は、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

 その上で、主ご自身はミサのいけにえをささげる奉仕者のうちに現存し、「何よりも聖体の両形態のもとに現存しておられる」と強調します。

 しかし同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。この指摘には重要な意味があります。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、書かれている言葉が朗読されることによって、生きた神の言葉として、私たちの心に届くからです。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることはできません

 同じ公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御身体そのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、絶えずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、命のパンとしての主イエスの現存である神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡にあずかることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 使徒ヤコブは、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなた方の魂を救うことが出来ます」と書簡に記しています。

 その上で使徒は、その心に植え付けられた御言葉、すなわち主ご自身を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。私たちは、典礼の中で語られる神の言葉に現存される主を心にいただき、常にその呼びかけに応える者でありたいと思います。

 朗読される御言葉を通じて、神が今日、私たちに何を呼びかけておられるのか、この喧噪に満ちあふれた社会のただ中で、心の耳を澄ます謙遜な者でありたいと思います。

 あふれんばかりに与えられ、私たちを取り囲む情報に翻弄され、時に私たちの心の耳は、神の御言葉を聞き逃してしまうことがあります。心の耳を研ぎ澄ます者でありたいと思います。

210829d さて、申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るように、と命じられた話を記しています。さらに、「掟と法を守る」というその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになる、とも記します。

 すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけなのではなく、神の栄光をすべての人に対して具体的に表すためであります。

 マルコ福音では、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事を批判します。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにある、と指摘されます。

 この一年以上、私たちは、感染対策の基本として、手を洗ったりうがいをしたり、人と交わるときにマスクをしたりすることが、ある意味で当然、と考えられるような現実の中にいます。

 もちろんそういった選択が法で定められているわけではありませんが、繰り返すうちに、「当たり前の行動」となり、そしてそれが長期に及ぶに至って、ルーティン化してしまうこともあり得ます。さすがに今の段階で、そういった行動の持つ意味が忘れられた、ということはないでしょうが、仮に何年も続けば、「なぜ手を洗うのか」「なぜうがいをするのか」の背後にある理由が顧みられなくなり、ただ手を洗うことやマスクをすることやうがいをする、という行為自体が大切だ、と思うようになる可能性もあります。

 マタイ福音の5章17節には、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。

 定められた掟の背後にある理由、すなわち「神の望まれる生き方に近づくための道しるべ」として与えられた法や掟の役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。

 使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた背景にある神の呼びかけを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、神の思いに忠実である者、すなわち「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

 あらためて言うまでもなく、私たちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

 「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

 その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます… 一体、私たちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、私たち一人ひとりが目覚めるように促します。

 福音を告げるためには、私たち自身がそれに生きていなくてはなりません。私たちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、私たちが人生で出会う人を、「キリストとの個人的出会い」へと招かなくてはなりません。

 そのためにこそ、私たちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

 私たちは、聖体の秘跡を通じて、現存される主と出会いますが、同時に典礼において語られる神の言葉を通じても出会っていることを思い起こしましょう。そして、語られる御言葉に心の耳を傾け、主の語りかけを具体的に生きる者となりましょう。

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  以下は8月28日午後6時配信の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

2021年8月28日 (土)週刊大司教第四十一回:年間第22主日

Mariapieta

   8月の最後の主日、年間第二十二主日です。土曜日夕方配信の週刊大司教も第41回目です。(上の写真は、師イエズス修道女会のシスター作品)

   ご存じのように、東京教区では9月12日(日)までの小教区でのミサを、非公開としています。大変申し訳ないと思いますが、どうかご理解ください。

   聖体拝領についてのご質問をいくつかいただいていますが、基本的に御聖体はミサの中でいただくのですが、病気の時など事情がある場合には、司祭に依頼して他の機会に拝領することが出来ます。

    現在は、ミサが非公開になっていますし、信徒の皆さんには主日のミサにあずかる義務を免除するという「通常ではない」状態であります。通常ではないのですから、信徒の皆様にあっては、ミサにあずかれない中で、聖体拝領を司祭に直接お願いすることができます。ミサ以外の時にも、司祭は個別に聖体を授けることが出来ますから、直接、小教区の司祭にご相談ください。

   それから聖歌に関するお問い合わせもいただいています。通常、youtubeの関口教会アカウントから配信される主日ミサは、原則として関口教会の信徒を対象としていますので、聖歌なども関口教会で通常歌われる聖歌が関口教会の聖歌隊によって歌われます。日本の教会では、典礼聖歌集とカトリック聖歌集が主に使われていますが、教会によっては他の歌集や独自の歌集を採用しているところも少なくありません。

    通常の日曜日の配信に関しては、関口教会の独自の配信ですので、配信ミサにあずかる方の手元に歌集がない可能性に関しては、御寛恕ください。譜面を画面上に出すことは、さまざまな制約があるため、出来ません。

  しかし、現在のようにミサの公開が中止となっている間は、関口教会のyoutubeアカウントから日曜10時のミサを配信しますが、これは大司教司式で、先唱、朗読、聖歌なども関口教会ではなくイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。こちらは、ミサの配信の対象をすべての方にしていますので、聖歌もできる限り、お手元に聖歌集がある歌にするよう努めます。

  ただ聖体拝領時には、一緒に歌うと言うよりも感謝の黙想の助けとして聞いていただきたいので、一般の歌集にない歌も使われます。できる限り譜面が手元にあるような聖歌を使うように努力いたします。なお譜面を画面上に映し出すことは、さまざまな制約があるため出来ません。

  なお、週刊大司教に関しては、始めの歌、途中の演奏、終わりの歌のすべてが、私の作曲ですので著作権の問題はありません。演奏者名は最後に短いですがクレジットされています。許可いただいた演奏者の皆さん、ありがとうございます。

( 年間第22主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第41回 2021年8月29日) 

   申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るように、と命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけではなく、神の栄光を具体的に表すためであり、新約の言葉で言えば、福音宣教の業であります。

   使徒ヤコブは、私たちの心に植え付けられた神の言葉こそが神からの賜物であり、その言葉は救いを与える真理の言葉であると記します。その上で使徒は、心に植え付けられた御言葉を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。

   マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

    マタイ福音の5章17節には、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。さまざまな掟や法が定められた背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

   改めて言うまでもなく、私たちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは「福音の喜び」にこう記しておられます。

 「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています」(119)

 その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、私たちは何を待っているのでしょうか」(120)と記し、福音宣教者としての召命に、私たち一人ひとりが目覚めるように促します。

 福音を告げるためには、私たち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、私たちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

 そのためにこそ、私たちは、神の言葉を、ただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

 困難な状況が続く中で、不安の暗闇は、私たちを分断と対立へと誘います。私たちは神の言葉を行うものとして一致を実現するために、愛と慈しみを実践する者となりましょう。

(編集「かとりっく・あい」=漢字の表記は当用漢字表記に統一、聖書の引用は『聖書協会・共同訳』に)

2021年8月28日

・「主は常に、私たちを出会いへと招いておられる」菊地大司教の年間第21主日メッセ―ジ

2021年8月21日 (土)週刊大司教第四十回:年間第21主日

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 週刊大司教も、今回で通算40回目の配信となりました。ご視聴いただいている皆様の、何らかの霊的な手助けとなっているのであれば幸いです。現在のような社会の状況ですので、この週刊大司教の配信は、このままの形で、今年の待降節前あたりまでは継続する予定です。その後、同じ形で続けるかどうかは、状況を見ながら考えてまいります。

 なお8月16日から9月12日まで、東京教区では、小教区におけるミサの公開を中止にしています。東京教区でミサの公開中止は、昨年来のコロナ禍にあって、今回が2回目です。公開を中止している間は、関口教会の日曜日午前10時のミサを大司教司式ミサとして配信いたします。

 週刊大司教は、Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントから配信されます。このページに入って「動画」というところをクリックしていただくと、過去のすべての週刊大司教やロザリオの祈りをご覧いただくことができます。

 関口教会のミサの配信は、Youtubeのカトリック関口教会のアカウントです。こちらもそのページに到達して「動画」というところをクリックいただくと、過去の大司教司式ミサをご覧いただくことが出来ます。小教区のミサ配信動画は保存いたしませんが、大司教司式ミサに関しては動画を保存してあります。

 なお霊的聖体拝領ではなく、実際に拝領を希望される方は、それぞれの主任司祭にご相談ください。なおカテドラルの関口教会では、以前より、毎週木曜日の午後1時から聖体礼拝を行っていますが、その際にも、司祭にご相談くだされば、聖体拝領が可能です。

 以下、21日午後6時配信の、週刊大司教第40回目のメッセージ原稿です。

 【年間第21主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第40回 2021年8月22日】

 ヨシュア記は、イスラエルの全部族に対して、ヨシュアが決断を求める様子を記しています。主に仕えるのか、他の神々に仕えるのか、それは自由なのだから自分で決断せよ、とヨシュアは民に迫ります。もちろんイスラエルの民は、「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、するはずがありません」と応えて、唯一の神への忠誠を誓います。神の偉大な力によって解放された救いの記憶が、心に刻み込まれていたからに他なりません。

 ヨハネ福音は、同じように自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。自らを「命のパン」として示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、人々は理解することができません。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

 ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。日本の教会が、長年にわたって聖体拝領の前に唱えてきた言葉の一部です。その前には、マタイ福音の言葉から、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧」が唱えられます。

 私たちは、「主こそが永遠の命の糧であり、主こそいのちの言葉であり、主こそが真理へと至る道である」と信じるように、決断を促されています。「救いへと至る命の希望は、主イエスにしかあり得ない」と信じるように、決断を促されています。「いつまでも共にいる」と約束されたのは主ご自身であって、ヨシュアがそう迫ったように、私たちはそれを信じると決断することも、離れていくことも、自由です。

 私たちが、主の現存を信じ、選び取る決断するためには、イスラエルの民の決断の根底に、エジプトからの解放の記憶があったように、私たち自身と主との出会いの体験の記憶が不可欠です。

 それでは私たちは、一体どこで主と出会うのでしょうか。

 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」と述べられる主は、生活の現実の中でのさまざまな出会いを通じて、とりわけ神の愛と慈しみを具体的に表す出会いを通じて、個人的に出会う機会を与えられます。

 同時に、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」と約束された主は、共同体の交わりの中で出会いの機会を与えられます。しかしそれ以上に、主は御聖体における現存のうちに、私たちを個人的な出会いへと招いておられます。

 私たちの信仰にとって、キリストとの生きた関係が重要だ、と回勅「神は愛」に記された教皇ベネディクト16世は、2011年の主の晩餐のミサの説教で、こう述べておられます。

 「聖体は、一人ひとりの人が深く主に近づき、主と交わる神秘です… 聖体は一致の秘跡です… 聖体は主との極めて個人的な出会いです。にもかかわらず、聖体は単なる個人的な信心業ではありません。私たちは感謝の祭儀を共に祝わなければなりません。主はあらゆる共同体の中に完全なしかたで現存されます」

 主は常に、私たちと共に道を歩んでおられます。主は常に、私たちを出会いへと招いておられます。その主に留まるという私たちの決断を、共同体の決断を、待っておられます。

(編集「カトリック・あい」)

2021年8月21日