・「預言者としての豊かな召命が与えられるよう祈ろう」菊地大司教、待降節第2主日「宣教地召命促進の日」に

2022年12月 3日 (土) 週刊大司教第104 回:待降節第2主日(A年)

 2022_11_20_0039待降節第2主日です。12月の最初の主日は、「宣教地召命促進の日」と定められています。

 中央協議会のホームページには、こう記されています。

 この日、私たちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます。

 またこういった活動を管轄する司教協議会の部署「教皇庁宣教事業」が、ホームページを開設していますので、ご覧ください。日本の「教皇庁宣教事業」の担当責任者は東京教区の門間直輝神父様です。このホームページに、教皇庁宣教事業の活動の詳細な解説が掲載されていますので、ご一読ください。

 なお東京教区では宣教地召命促進の日に合わせて、聖体礼拝をライブ配信します。これはライブだけで、後刻ご覧いただくことはできません。12月4日(日)の午後7時から20分間です。こちらのリンクから、東京教区のホームページ (2022年 宣教地召命促進の日 聖体礼拝 | カトリック東京大司教区 ウェブサイト=(catholic.jp)をご覧ください。

 以下、3日午後6時配信の待降節第二主日のメッセージ原稿です。

【待降節第2主日(A年) 2022年12月4日】

 マタイによる福音は、主の来臨を告げる洗礼者ヨハネについて記しています。

 「荒れ野で叫ぶ声」は、ただむなしく響き渡る「夢物語」ではなく、人々の心に突き刺さる、力ある声でありました。その厳しさの故に、後に洗礼者ヨハネは捕らえられ、殉教の死を遂げることになります。洗礼者ヨハネが告げる言葉には神の力が宿っており、それを受け入れることのできない者は、「命に対する攻撃」という負の力を持って、神の言葉を否定しようとしました。

 教会は、その誕生の時から聖霊によって導かれ、聖霊によって力づけられながら、その時代における預言者としての務めを、果たそうとしてきました。

 教会憲章(12項)には、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、とくに信仰と愛の生活を通してキリストについて生きた証しを広め、賛美の供え物、すなわち神の名を讃える唇の果実を神に捧げることによって行われる」と記されています。

 私たちは現代社会を旅する神の民として、常に、恐れることなく神の言葉を証しする預言者でありたいと思います。

 待降節第二主日は「宣教地召命促進の日」とされています。

 宣教地において、すべての信徒が福音を証しする使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、私たちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲を捧げます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金として送られます。日本も宣教地の一つですから、この日には日本における召命促進のためにもお祈りください。

 教会が、神の民としてふさわしく預言者としての使命を果たしていくことができるように、豊かな召命が与えられるよう祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年12月3日

・「時のしるしを識別できるよう、常に目覚めていよう」菊地大司教の待降節第一主日メッセージ

2022年11月26日 (土)週間大司教第百三回:待降節第一主日A

 待降節となり、降誕祭に向けての霊的な準備の時期が始まりました。2022_11_06_img_0016

 また日本の教会では、待降節第一主日から、ミサにおける式文の翻訳が新しくなります。

 今日のメッセージでも触れましたが、聖書週間中です。今年は11月20日から27日まで。今年のテーマは、「教皇様の回勅『兄弟の皆さん』より「あなたの隣人とは誰か」(ルカ福音書10章25-37節)とし、聖書の言葉は「行って、あなたも同じようにしなさい」(同10章37節参照)」と中央協議会のホームページに掲載されています。

 聖書週間は聖書に親しみ、聖書をより良く理解するために日本のカトリック教会で設けられました。現在私が副理事長を務めさせていただいている日本聖書協会でも、この聖書週間に合わせて活動への協力を呼びかけています。

 以下、本日午後6時配信の、週間大司教第103回目のメッセージ原稿です。

【待降節第一主日A 2022年11月27日】

 待降節となりました。今日から、降誕祭に向けての霊的な準備期間が始まります。待降節の前半は主に世の終わりに焦点を当て、後半では救い主の誕生に焦点を当てながら、その全期間を通じて、本日の福音に記されている「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉を心に留め、それに生きるように、と促しています。

 「待降節」という言葉自体が象徴するように、私たちは救い主の再臨を待ち望んでいます。当然ですが、「待つこと」には様々な態度が思い起こされます。「いつだろう」とそわそわしていることも待つことですが、「何もせずに眠りこけていた」としても、それは待っていることに変わりはありません。

 しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、「目を覚まし」て「準備する」という、二つの行動を柱とする待つ姿勢です。私たちは時のしるしをよく識別できるように、常に目覚めたものでありたいと思います。

 より良い準備ができるように、主ご自身の模範に倣って、愛と慈しみに積極的に生き、行動する者、でありたいと思います。助けを必要とする人々の所へ出向いていこうとする、積極的な待つ姿勢の教会でありたいと思います。

 教会は11月の第三日曜から第四日曜までを「聖書週間」と定めています。今年は王であるキリストの主日から待降節第一主日までが、聖書週間です。聖書週間は、すべての人、とくに信徒が、聖書により強い関心をもち、親しみ、神の心に生きるように、様々な啓発活動を行う時、とされています。

 第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

 「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、絶えずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から、命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである… 神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身の言葉を変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちの言葉のうちに聖霊の声を響かせているからである。(21項)」

 改めて聖書を紐解き、響き渡る聖霊の声に耳を傾けましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

2022年11月26日

・「出会いの中で分かち合い、奉仕する者に」菊地大司教の「王であるキリストの主日」メッセージ

2022年11月19日 (土)週刊大司教第百二回:王であるキリストの主日


2022_11_13_
 典礼暦では年間の最後の主日である「王であるキリストの主日」となりました。次の日曜日からは待降節となります。(写真は田園調布教会)

 今年の待降節から、ミサの式文の翻訳が変更となります。これについて少しだけ記しますが、「これまで使われてきたカトリック聖歌集や典礼聖歌集が廃止になるのでは」と言う噂が流れているようです。

 廃止にはなりません。歌唱する際には、これまで通りカトリック聖歌集や典礼聖歌集を使い続けてください。ミサ曲(キリエなど)に関しても、従来の歌詞のままで使い続けることができます。

 これは現行の典礼聖歌集にあっても、451番に高田三郎先生の「やまとのささげ歌」が収録されている事と同様の考えで、「やまとのささげ歌」は、カトリック聖歌集の51番に第一ミサとして掲載されていたものです。

 カトリック聖歌集は、1966年に神言会のローテル神父様や当時は南山大学教授であられた山本直忠先生、そしてその後典礼聖歌をリードされた高田三郎先生たちが中心となって公教聖歌集を改訂し、発行したものですが、ちょうどその作業中に第二バチカン公会議の典礼改革があり、それにあわせた曲作りは、その後に典礼聖歌として始まりました。典礼聖歌自体も現在のような一冊になるまでには長い時間を要しましたし、それとても完結しているわけではありません。そもそもいくつかの聖歌の番号が典礼聖歌集で欠番となっているのは、将来への布石のはずでした。せっかく作曲された作品ですから、頻度の問題はさておいて、歌い続けることには問題はありません。

 翻訳にしても作曲にしても、時間のかかる作業ですから、その作業の最中に、典礼それ自体が変更になったりすると、対応は大変です。今回の翻訳がそうでした。現行のミサ典書が発行された直後から、それは暫定訳で翻訳されていない箇所が多々あったこともあり、翻訳の見直し作業が進められていました。

 しかしそれが完成する前に、ローマ典礼の規範版そのものが2000年に第3版として改訂され、翻訳作業はそこからすべて見直しとなりました。新たに始められた現在の翻訳作業は、20年でよくここまで到達した、と思います。作業にあたってくださっている典礼委員会の関係者の皆さんに、心から敬意を表して、来週から使わさせていただきます。

 なお、王であるキリストの主日は、世界青年の日でもあります。第37回目となる今年の世界青年の日の教皇メッセージ。今年のテーマはルカ福音書から取られ、マリアは出掛けて、急いで……行った」 となっています。

 さらに明日は、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーの方々のために祈り献金をささげる「ミャンマーデー」です。まだ不安定な状況が続いているミャンマーです。様々な理由、特に非常に政治的な理由から身柄を拘束されていた多くの人たちが、数日前に大量に釈放されましたが、全体としての状況は変わらず、軍事政権による圧政が続いています。ミャンマーの平和のためにお祈りください。東京教区のホームページもご覧ください。

 以下、19日午後6時配信の、週刊大司教第102回、王であるキリストの主日のメッセージ原稿です。

【王であるキリストの主日C 週刊大司教第102回 2022年11月20日】

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

 このイエスをあざける議員たちの言葉こそが、「王であるキリストとはいったい何者」であるのかを,明確に示しています。

 全世界の王である神は、自分自身の誉れのために、自分自身の欲望を満たすために、皆に仕えられる存在ではなく、自らがいのちをあたえた全ての人を救うために、自分を犠牲にする王であることを、議員たちは図らずも証してしまっています。

 加えて、議員たちは、自らの願望を神に投影して、その願いを満たさないものを神と認めない、という本末転倒の過ちを犯してしまいます。神はご自分からその姿を示すものであって、人間の願望を満たすための存在ではありません。

 時として私たち自身も同じような思い違いをしてしまいます。自分が願っていることが適わないときに、神の存在を疑ってみたり、さらには神をののしってみたり、自分自身の願望をかなえるために、神を利用しようとしたりするのが、私たちです。時に自らの願望を神に投影しようとしたりします。いったい、神と私たちのどちらが「世界を支配する者」なのでしょうか。

 思い違いをしている私たちを目の前にしても,神は常にご自分のありのままであり続けられます。口を閉ざして、嘲りに耐え、命を賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであろうとすることを求めておられます。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者の命を生かすために行動することを求めておられます。

 「王であるキリスト」の主日は,「世界青年の日」と定められています。教皇様は来年リスボンで開催される世界青年大会を視野に、青年たちに教会と共に歩み続けるよう、呼びかけられます。

 今年のメッセージのテーマは、ルカ福音書からとられた、「マリアは出かけて、急いで・・・行った」とされています。教皇様はメッセージで、「マリアが急いで出かけたように、神から特別の恵みを受けた人はそれを分かち合うために急いで出かけるのです。それは自分の必要よりも他者の必要を優先することができる人の急ぎです。…マリアは出会いと分かち合いと奉仕から生まれる純粋なつながりを見出すために出かけたのです」と述べておられます。

 私たちも、出会いの中で分かち合い助け合って共に歩み続ける者でありましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月19日

・「『時のしるし』を、福音の光のもとに読み解こうとしているか」菊地大司教の年間第33主日メッセージ

2022年11月12日 (土)週刊大司教第101 回:年間第33主日2022_11_06_001

 典礼の暦も終わりに近づきました。年間第三十三主日は「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。(写真は府中墓地で)

 本日から装いを新たにした「週刊大司教」の配信を始めました。今日が101回目となります。基本は主日の福音の朗読と、メッセージ、そして祝福です。メッセージを少し短くしました。

 時に大きく増減を繰り返していますが、徐々に感染症の状況も改善し、またこの状況とどのように適応していくのかが分かってきましたので、教会の活動も再開されつつあります。そこで新しい週刊大司教では、霊的聖体拝領の祈りを入れていません。

 しかし、様々な事情から出掛けることが困難な方は多く折られると思いますので、そのように事情があるときには、この「週刊大司教」とともに、それぞれご自分で霊的聖体拝領のお祈りを唱えるようにしていただければ、と思います。もちろんそれがミサの代わりというのではなく、それぞれの霊的成長に資するものですので、困難なご事情のある方にあっては、折を見て司祭に相談され、御司祭や聖体奉仕者が聖体を持って訪問されるようにされてください。

 以下、12日午後6時配信の、週刊大司教第101回目のメッセージ原稿です。

【年間第33主日C 2022年11月13日】

 典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期の福音は、世の終わりについて語り始めます。

 そうなると、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年ほども混乱が続き、命が危機に直面すると、「それこそが世の終わりのしるしだ」と考える人が出てきたり、世紀末のように区切れの良い時期が近づくと、「世の終わりが近い」と考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。

 しかしイエスは、そういった「諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないように」と忠告します。なぜなら、時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

 その代わりに、イエスは「しるし」を読み取ることを求めます。マタイ福音書16章には、もっとはっきりと、こう記されています。

 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見ることができないのか」(2‐3節)

 ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に「フマーネ・サルティス」をもって第二バチカン公会議の開催を告示された時、そこには「時のしるし」を読み解くことの重要性が記されていました。そこで第二バチカン公会議は「時のしるし」を読み解き、行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとに、それを解明する義務を課されている(4項)」と記しています。

 「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、私たちの務めです。

 教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとし、特に感染症や戦争によって貧困が深まっている世界にあって、教会は義務だからではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることの重要性を強調されています。

 私たちの心の目は、「時のしるし」を、福音の光のもとに読み解こうとしているでしょうか。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

 

(編集「カトリック・あい」)=漢字表記は当用漢字表による。聖書の引用は「聖書協会・共同訳」に改めました)

2022年11月12日

・「ザアカイに対するイエスの慈しみの眼差しを私たちも」菊地大司教年間第31主日メッセージ

2022年10月29日 (土)週刊大司教第100回

 現在、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟FABCの総会に参加中です。FABCについては、次週月曜以降、帰国してから報告します。

 「週刊大司教」は、今回の配信で100回目となりました。これまで毎回、千を越えるアクセスを頂いています。多くの皆様のご視聴に、そして祈りの時を共にしてくださっていることに、心から感謝申しあげます。

 新型コロナ感染症の暗闇の中で、ミサの非公開が続いていた期間は、関口教会から会衆を入れない形でのミサの配信を行いました。その後、制限を設けての公開ミサ再開後にあっては、教会まで出かけることが困難な方も大勢おられることから、「週刊大司教」という形で主日のメッセージの配信を行い、同時に霊的聖体拝領の機会としてきました。「週刊大司教」の第1回目は、2020年11月7日土曜日、翌日の年間第32主日のメッセージから始まりました。

 いつまで続けるかは当初からの課題でしたが、視聴回数が1000回を切ったら中断することにしていましたが、ありがたいことに、これまで一度も1000回を切ったことがありません。

 完全ではありませんが、完全ではないですが、教会活動も以前のような形に徐々に戻りつつあります。そこで100回をもって全ての配信を終了することも考えましたが、高齢や病気などで教会においでになれない方々からの要望も多数いただき、今後は次のようにさせていただくことにしました。

 現在の形の「週刊大司教」は、今回をもって終了としますが、今後、形を変えて、もう少し短い形で、主日の福音とメッセージを続けていくことにいたします。名称は従来のまま「週刊大司教」としつつ、全体の構成を変えて配信いたします。

 私自身の準備の負担や都合もありますが、ビデオを作成してくださっている教区本部広報職員の負担も大きいため、全体として短い内容となりますが、ご理解いただきますようお願いします。101回目以降は、「福音朗読とメッセージ」「主の祈りと祝福」という構成になります。

 すでにお知らせしているように、現在、アジア司教協議会連盟の総会で、私も10月末までタイのバンコクに滞在いたしますので、次の撮影と編集が次週、11月5日の配信までに間に合いません。このため、11月5日はお休みさせていただき、11月12日土曜日午後6時から、少しばかり装いを変えた「週刊大司教」を配信を再開いたします。

 今後も、祈りの時をご一緒いただけたら、幸いです。

 以下、29日午後6時配信の年間第31主日メッセージです。

【年間第31主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月30日】

 ルカ福音はザアカイの話を記しています。先週に引き続き、徴税人が主役です。

 教皇様は2016年10月30日のお告げの祈りで、この話を取り上げ、次のように述べておられます。

 「人々はザアカイのことを、隣人のお金を使って金持ちになった悪党と見なしていました。もしイエスが『搾取者、裏切者、降りてきなさい。こちらに来て、話をつけよう』と言ったなら、人々は喝采したに違いありません」

 しかしイエスの言葉と行いは、罪人を糾弾するものではありませんでした。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉は、罪人との積極的な関りを求め、周りの人を驚かせるに充分でした。そもそもザアカイ自身がその言葉に驚き、信じられなかったことだと思います。

 教皇様はそのイエスの言葉と行いを「神は過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据えます。イエスはあきらめて心を閉ざすのではなく、つねに心を開き、新しい生活空間を絶えず切り開いてくださいます… イエスは(ザアカイの)その傷ついた心を見て、そこに行かれます」と指摘されました。

 私たちは、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび、人を裁いてきたことでしょう。とりわけこの二年以上、新型コロナ感染の暗闇の中で疑心暗鬼にとらわれた私たちは、不安のあまり、寛容さを失い、簡単に他者を裁いて自らの心の安定を取り戻そうとしています。

 他人を裁くときに、私たちの口からでる裁きの言葉は、私たちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。そのようなとき、私たちはイエスがザアカイにとった態度、すなわち断罪という「過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据え」た行動を自分のものとしたいと思います。「自分の計る量りで計り返される」のだということを、私たちは心に留めておかなくてはなりません。

 1987年に開催された第一回福音宣教推進全国会議(NICE1)の答申を受けた司教団の回答である「共に喜びをもって生きよう」には、「社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となる」ための一つの道として、「裁く共同体ではなく、特に弱い立場に置かれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい」と記されています。あれから35年が経過した今、教会共同体はどう変化してきたでしょうか。

 教皇様は同じことを呼びかけるために、しばしば「連帯」という言葉を使われます。私たちの共同体には、連帯のうちに支え合う心があるでしょうか。それとも自分の立場を主張して、他者を裁き、排除する共同体でしょうか。

 昨年2月10日の一般謁見で、祈りについて教えた教皇様は、こう述べています。

 「祈りは、相手が過ちや罪を犯しても、その人を愛する助けとなります。どんな場合にも、人の行いより、その人自身の方がはるかに大切です。そしてイエスはこの世を裁くのではなく、救ってくださいました。・・・イエスはわたしたちを救うために来られました。心を開きましょう。人をゆるし、弁護し、理解しましょう。そうすれば、あなたもイエスのように人に近づき、憐み深く、優しくなることができます」。

 今、この社会にあっては、イエスの慈しみの眼差しを具体化することが必要です。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月29日

・年間第30主日の菊地大司教メッセージ「世界宣教の日にー私たちには、すべての人に福音を伝える使命がある」

2022年10月22日 (土)週刊大司教第99回

 今、バンコクにてアジア司教協議会連盟FABCの総会に出席中です。23日の主日は「世界宣教の日」です。教皇様のメッセージについて,今週の週刊大司教でも触れましたが、メッセージ「あなたがたは私の証人となる」の邦訳はこちらのリンクの中央協議会のサイトにあります。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第99回、年間第30主日メッセージ原稿です。

【年間第30主日C年(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第99回 2022年10月23日】

 本日読まれたルカ福音は、「神様、罪人の私を憐れんでください」と、「目を上げることもなく、胸を打った徴税人の方が、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人だ」とされた話を記しています。

 当時の徴税人は「様々な不正に手を染めていた」とも言われ、多くの人の目には「正しい人」とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人から「正しい人」と見なされていたことでしょう。謙遜と傲慢。この二人の根本的な違いは何でしょうか。

 ファリサイ派の人の目は、自分に向けられています。「私が何をしたのか。私はどういう人間なのか…」。彼が語るのは、自分のことばかりで、自分の世界に閉じこもっている人です。それに対して徴税人は、その目を神に向けています。「自分がどういう人間なのか」というような判断をせず、すべて神に委ねています。つまり二人の違いは、「自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのか」にあります。

 パウロはテモテへの手紙に「私自身は、すでにいけにえとして献げられており」と記します。回心後のパウロは、人生の中でどれほど偉大なことを成し遂げたか分からないほどです。しかし彼にとっては、「自分のためではなく、すべてを神に委ねた結果」に過ぎません。

 すべてを神に委ねた者の祈りを神は聞き入れる、と、シラ書も記しています。神にすべてを委ねた人のことを「御旨に従って主に仕える人」とシラ書は記します。

 私たちには、単に「謙遜になること」だけを求められているのではありません。謙遜さは、神にすべてを委ねた結果です。求められているのは、神にすべてを委ねることであり、だからこそ御旨に従って主に従うことであり、自分自身をいけにえとして献げることであります。

 自分のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべての命に福音が届けられるように、神に身を委ね、すべてを尽くして福音を証しする者、となりたいと思います。

 教会は本日を「世界宣教の日」と定めています。

 教皇様は、世界宣教の日のメッセージのテーマを「あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1章8節)とされ、改めて、「キリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストを証しし、世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは『福音を説く』ということなのです」と強調。そのうえで、「宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく、共同で行うものです」とも記し、教会全体が福音宣教の使命を担っていることを思い起こさせておられます。

 さらに教皇様は「キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。この人たちは、最初の使徒たちのように、言葉と行いによってキリストを示し、喜びと率直さをもって、その福音をすべての人に告げるという、崇高な栄誉にあずかっているのです」とも記しておられます。

 教会には教皇庁宣教事業(Pontifical Mission Societies)があり、「ミッシオ」(Missio)とも呼ばれています。教皇様の管轄と調整の下で、全世界の宣教の促進に向けられたカトリック教会の世界的ネットワークであり、宣教地における活動を支援し続けています。世界宣教の日に当たり、自らの宣教者としての使命を思い起こし、教会共同体の宣教の業のためにも祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」=文字として読みやすくするため、表記を一般に使われている当用漢字表記とし、句読点も付け直しました)

2022年10月22日

・「ロザリオの月ー暗闇から抜け出す光を求め、執拗に祈り続けよう」-菊地大司教の年間第29主日

2022年10月15日 (土)週刊大司教98回

2022_10_01_0021 現在、バンコクで開催されているアジア司教協議会連盟の総会に出席中です。総会に関しては、別途記事を掲載します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第98回、年間第29主日メッセージ原稿です。

【年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月16日】

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。

 そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が「ロザリオの祈りによってもたらされた」とされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

 この勧告の中で教皇パウロ六世は、「神は私たちの心に、平和への熱い望みを与えてくださいました。神は私たちを、平和に向けて働くよう駆り立てます… 私たちが平和の賜物を求めてささげる祈りは、平和の構築に何物にも代えがたく貢献します… キリストの母であるマリア、福音書が「神から恵みをいただいた方」であると教えているマリアの比類ない執りなしに愛を込めて頼る以外に、私たちに何ができるでしょう」と記し、「執りなしの祈り」としてのロザリオの重要性を強調しています

 ロザリオの祈りは、聖母マリアと共にキリストを観想する祈りです。ルカ福音には、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。教皇ヨハネパウロ二世は「おとめマリアのロザリオ」に、「キリスト者の共同体は、ロザリオを唱えることによって、マリアの思い出と感想のまなざしに心をあわせる」と記します(11)。

わたしたちはロザリオの祈りを通じて、聖母マリアとともにキリストを思い起こし、聖母マリアからキリストを学び、聖母マリアとともにキリストの姿に似たものとなります。加えてわたしたちは、聖母マリアとともにキリストに願い求め、聖母マリアとともに、福音を告げしらせるものとなります。

 私たちの願い求める平和は、神の支配が確立され、その秩序が取り戻された状態です。長引くコロナ禍の中で「命の危機」という暗闇に取り残されている私たちは、さらに加えて、ウクライナやミャンマーをはじめ世界各地で続いている「命を危機にさらす暴力の支配」に立ち向かわなくてはなりません。そのためにも主イエスに最も近い存在である聖母の執りなしを強く求め続けたい、と思います。

 ルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるために、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

 そうであるなら、私たちは暗闇から抜け出すための光を求めて、執拗に祈り続けましょう。

 この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そして私たちの心と体に、神の秩序が確立し、平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、命の与え主である御父に、徹底的に祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月15日

・「アジアの民として共に歩み続けよう」ー菊地大司教、12日からのアジア司教協議会連盟創立50年記念総会を前に

2022年10月 8日 (土) 菊地大司教の週刊大司教第97回

2022_09_29_0003

 10月12日から30日まで、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会が開催されます。2年前に創立50年を迎えている連盟ですが、記念の総会がコロナ禍で延期されており、やっと開催になりました。

 通常の総会では、それぞれの司教協議会から会長ともう一人程度の参加ですが、今回は50年の節目と言うこともあり、過去を振り返って将来への歩みを定めるために、多くの司教が参加します。日本からも6名の参加が予定されています。

 なお、FABCについて、カトリック新聞に書いた記事が、中央協のホームページにも転載されていますので、こちらのリンクからどうぞ。また英語ですが、FABCのホームページはこちらのリンクです。さらに今回の50周年総会のためのホームページはこちらです。

 総会の成功のために、参加する司教たちのために、お祈りいただけましたら幸いです。

2022cologne11_20221006163701

 ケルン教区からの訪問団は、すべての日程をこなして、10月5日に帰国されました。2024年にケルン教区と東京教区のパートナーシップ関係が70年となることから、これからの2年間ほどで、将来に向けたパートナーシップのあり方についての方向性を定め、それについてのメッセージを作成しようという話になりました。

 単に、援助金がドイツから日本に来たと言うだけではない、もう少し幅の広い交流、特に青年たちの交流などと、これまで以上に一緒になってのミャンマー支援などの強化を、ケルンの方々は考えておられるようです。今後、互いにチームを定めて、検討を深めたい、と考えています。(写真は、調布カルメル会修道院を訪れたケルンの訪問団)

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第97回、年間第28主日のメッセージ原稿です。

【年間第28主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第97回 2022年10月9日】

 ルカ福音は、重い皮膚病を患っていた十人の人が、イエスによって癒やされた話を記しています。十人はイエスの勧めに従って祭司のところへ行く途中で癒やされますが、その中の一人だけがイエスのもとに戻ってきます。イエスに感謝するために戻ってきたのは、ユダヤ人から見れば神への信仰に忠実ではないと見なされていたサマリア人だけでありました。

 それに対してルカ福音が記すイエスの言葉は、「神を賛美するために戻ってきた者は、他にいないのか」であって、受けた恵みに対して、神のもとに立ち返り、神を賛美するというその行為にこそ救いがあることを、「あなたの信仰が、あなたを救った」という言葉が示唆します。

 すなわち、「人間が抱える様々な困難が解決され、幸せが確立すること」に救いがあるのではなく、「受けた恵みを自覚しながら、感謝のうちに神と共にあること」にこそ救いがあるのだ、とイエスの言葉は教えています。

 神に感謝をささげ、神と共にいることによって良しと見なされたのは、「正統な信仰を守っている」と自負するユダヤ人ではなかった、という話は、「信仰を守る」とはどういうことなのかを、考えさせます。それは、信仰者の立ち位置が、「自分自身のところにある」のか、「神のところにある」のかの違いです。自分の幸せを優先する利己的な心を強く持つとき、私たちは神のもとには立っていません。そこに救いはあるでしょうか。

 パウロはテモテへの手紙に、「キリストと共に死んだのなら、キリスト共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」と記しています。ここでも「救い」とは、「自分自身の人間的な困難の解決にある」のではなく、「キリストと共にいることにある」と、パウロは指摘します。その上でパウロは、自分自身の苦しみは、他の人々が、「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」に耐え忍んでいるのだ、と強調します。パウロの立ち位置は自分ではなく神のもとにあり、だからこそパウロはイエスに倣って、他者の救いのために命を燃やし続けるのです。

 アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)の創立50年を記念して開催される総会が、10月12日から30日まで、バンコクで開催されます。日本を含めアジア各国から司教の代表が集まります。どうか会議の成功のために、お祈りください。

 FABCは、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まったアジアの司教たちの合意に基づいて誕生しました。第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアにおける教会の存在を更に福音に沿って具体化するための組織として誕生しました。

 FABCはこの50年間、アジア全域において、三位一体の神をあかしし、イエスの福音を告げしらせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話」「諸宗教との対話」「多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題である、と指摘を続けてきました。今回の総会のテーマも、「アジアの民として、共に歩み続けよう」とされ、対話と連帯のうちに福音を具体的に生きる道を模索しようとしています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「アジアの教会」に、「(アジアの様々な)宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しています。私たちは、神のもとにしっかりと立ち位置を定め、すべての人の救いのために努力を続けたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月10日

・「共通善を目指し、生き方を見つめ直す回心が必要」ー菊地大司教、「すべての命を守る月間」の終わりに

2022年10月 1日 (土)週刊大司教第96回:年間第27主日

2022_09_21_00rca_0073 早いもので、今年もすでに終盤です。10月となりました。

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。

 歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。現代社会にあっては、特に神の秩序の実現である平和の確立を願う私たちの思いを、ロザリオの祈りを通じて御父に届けたいと思います。一人でも、いつでも、またグループでも、10月にはロザリオの祈りを通じて聖母に取り次ぎを願うことを、心に留めましょう。

 ケルン教区の代表団が東京教区に滞在中です。長年にわたる両教区の「パートナーシップ」ですが、今回の訪問で、「パートナーシップ」という名称のふさわしいだけの関係が構築されているか、見直しをしたい、との提案が、代表団の担当者から表明されています。

 もちろんケルン教区という巨大な教区と、東京教区とでは、資金力は言うにおよばず、人的可能性でも大きな差がありますので、同じようなことはできませんが、単に「資金提供を受けてきた」という関係以上の絆を、どのように築き上げることができるのか、考えてみたいと思います。もちろん、両者で協力してきたミャンマーへの支援は、特に今のような状況下にあって、しっかりと継続していきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第96回、年間第27主日メッセージ原稿です。

【年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第96回 2022年10月2日】

 9月の初めからこの一か月、私たちは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って、「すべての命を守る月間」を過ごしています。10月4日をもって今年の月間は終了します。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、それ以上に、教皇フランシスコが呼びかけるように、これは回心への招きであり、「自然界を通して神の存在を感受するエコロジカルな霊性」の実践への招きです(今年の被造物を大切にする世界祈願日メッセージ)。

 教皇様は今年のメッセージにこう記しておられます。

 「私たちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つよう、私たちに懇願しています。ですから、叫びを上げているのはすべての被造物です。創造のわざにおいて、キリスト中心の対局にある『専制君主的な人間中心主義』に翻弄されることで、無数の種は死に絶え、それらによる神を讃える賛歌は永遠に失われてしまうのです」

 ルカ福音は、「務めに対して忠実で謙遜な僕」について語るイエスの言葉を記しています。なすべき務めを、すべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことこそが、忠実な僕のあるべき姿だ、と語るイエスは、これを通じて、「私たちがそれぞれの与えられた召し出しに忠実に生きることが、信仰生活において重要」であることを示唆します。

 「ラウダート・シ」において教皇フランシスコは、「神との関り、隣人との関り、大地との関りによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66項)。その上で、「私たちは、ずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和を乱しました」と指摘されました。私たちは与えられたそれぞれの召し出しに忠実に生きる謙遜な僕になっているでしょうか。

 教皇様はさらに、「私たちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが『他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する』との見方は、断固、退けなければなりません」と記されます。私たちには、「被造界を破壊する横暴な支配者」ではなく、「被造界を世話し、保護し、見守り、保存する善き管理者」として、与えられた務めを忠実に、謙遜に果たすことが求められています。

 私たちは、「話せず、語れず、声を届けられない」被造物、特に貧しい人々の叫びに、耳を傾けるよう招かれています。教皇は今年のメッセージに「気候危機にさらされることで貧しい人々は、ますます激化し頻発する干ばつ、洪水、ハリケーン、熱波の、最も深刻な影響を受けています。さらに、先住民族の兄弟姉妹が叫びを上げています。収奪的な経済的利益追求の結果、彼らの祖先の土地は四方八方から侵略され荒廃し、『天へと向かう嘆きの叫び』を上げています」と記し、社会の中心部から忘れ去られた人たちの声に耳を傾けることの重要性を強調されています。

 私たちの周囲には、どのような声が響いているでしょうか。社会や多数の人々の圧力によって、押し潰されてしまっている声はないでしょうか。「より豊かに、より容易に自己完成ができる」ように、共通善の実現を目指して、生き方を見つめ直す回心が必要です(「現代世界憲章」26項)

2022年10月1日

・「移民・難民の人々に心の扉を開こう」菊地大司教、「世界難民移住移動者の日」に

2022年9月24日 (土) 週刊大司教第95回:年間第26主日

 9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。中央協議会のホームページには、次のように記されています。

 「世界難民移住移動者の日は、各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と「共に生きる」決意を新たにする日です。日本の教会でこの分野の活動を受け持つ日本カトリック難民移住移動者委員会は、日本と全世界にある協力グループとともに、活動の推進、連絡、協力、支援、情報の交流等を行っています。そのために祈りと献金がささげられます」

 教皇様はこの日にあたりメッセージを発表されています。今年のテーマは、「移民や難民と共に未来を作る」とされています。

 メッセージの中で、教皇様は次のように呼びかけておられます。

「誰一人、排除されるべきではありません。神の計画は本質的にすべてを包み込むもので、実存的周縁部の住人を中心に据えるのです。その中には、多くの移民や難民、避難民、人身取引の犠牲者が含まれます。神の国の建設はこの人たちと共に行うものです。この人たちなしでは、神が望むみ国には、ならないからです。最も立場の弱い人たちを含めることは、完全に神の国の市民権を得るための必要条件です」

 その上で、教皇様は次のように呼びかけて、祈りと共にメッセージを締めくくっておられます。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、とくに若者の皆さん。もし天の父と協力して未来を築きたいのであれば、それを、難民や移民の兄弟姉妹とともに行いましょう。今日築きましょう。未来は今日から、そして私たち一人ひとりから始まるからです」

 現在のウクライナの情勢を見るにつけ、難民は遠い世界の出来事ではなくて、世界に生きるすべての人の現実です。そして様々な理由から移動し移住する多くの方も、一人ひとりが神から愛される命をいただいた大切な存在です。すべての命が守られるように祈るためにも、現実に起こっていることを、まず知ることから始めましょう。

 日本の司教団も、個別の委員会の課題としてではなく、司教全員の総意として、今ひとつの問題について政府にお願いをしています。多くの課題が存在する中で、小さな一つの課題ですが、いのちを守るための大切な課題の一つだと考えています。こちらのリンクです。司教全員のメッセージビデオもありますので、一度ご覧いただければ幸いです。(写真はウガンダ北部にあった国内避難民キャンプで=2005年)

Pr009

 以下、24日午後6時配信の、週刊大司教第95回、年間第26主日メッセージ原稿です。

【年間第26主日C 2022年9月25日】

 「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります」

 2015年に発表された教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の205項に、こう記されています。そしてまさしくのこ数年間、感染症による先の見えない不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。

 教皇は続けて、こう記します。「人は、自己中心的に、また自己完結的になる時、貪欲さを募らせます。心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とします… こうした地平においては、共通善に対する真正な感覚もなくなります」

 ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人の存在する場所すらありません。死後の苦しみの中で神の裁きに直面する時でさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

 2016年5月18日の一般謁見で、教皇様はこの話を取り上げ、こう述べておられます。

 「ラザロは、あらゆる時代の貧しい人々の叫びを表わすと同時に、莫大な富と資源がごく少数の人の手に握られている世界の矛盾をも示す良い例です」。

 その上で教皇様は、「神の私たちに対する憐みは、私たちの隣人に対する憐みと結びついています。それが欠けていたり、私たちの心の中に無ければ、神は私たちの心に入ることはできません。もし、自分の心の扉を貧しい人々に向けて押し開かなければ、扉は閉ざされたままです。神への扉も閉ざされたままです。それは恐ろしいことです」と指摘されます。心の扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることが示唆されています。

 教皇様が指摘されるように、世界における貧富の格差の問題は「先進諸国や社会の富裕層では、浪費と廃棄の習慣がこれまでにないレベルに達しており、そうした消費レベルの維持は不可能であることを私たちは皆知って」いるにもかかわらず、全く解決されていません。扉は閉ざされたままです。

 9月の最後の主日は「世界難民移住移動者の日」です。教皇様は今年のテーマを「移民や難民と共に未来を作る」とされました。教皇様は今年のメッセージの終わりにイザヤ書を引いて、「新しいエルサレムの住人は、都の門をつねに大きく開いておき、異邦人が贈り物を携えて入ってこられるようにする」と記しています。私たちは、扉を開くことを心に留めましょう。

 この一か月、10月4日まで、私たちは回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って「すべての命を守る月間」を過ごしています。「ラウダート・シ」に倣う、ということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、教皇フランシスコの呼びかけは個別の課題をはるかに超え、私たちの存在の有り様全体にに対して、回心を呼びかけています。

 私たちは扉を閉ざして籠もってしまうのではなく、「扉を開いて外へ出向いて行き、共通善の実現のために汗を流す教会」でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=文章として読みやすく、意味が分かりやすくするために、原則として「当用漢字表記」にしました)

2022年9月24日