・「私たちを一致させるのは、聖体に凝縮されたイエスの御心」菊地・東京大司教の「キリストの聖体の主日」メッセージ

2025年6月21日 (土)週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C

   22日の主日はキリストの聖体の主日です。キリスト教が日本よりも社会認知されている国や伝統的なキリスト教国では、この日に合わせて、ご聖体を顕示しながら行列をして、聖体に現存する主を称え礼拝する聖体行列が行われます。私が昔、若い頃に主任司祭をしていたアフリカのガーナの村でも、大がかりな聖体行列をしていました。

Corpuschristios5_20250621134301

 日本でも聖体行列ができればそれに越したことはありませんが、同時にキリスト教が社会的に認知されず秘跡の意味合いが理解されていない地で、御聖体がご神体であったり、極論すれば見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。

 御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回ればそれで良いというものではありません。つまり私たちの満足のためにするものではありません。

 キリスト教が今以上に認知され、ご聖体の意味が広く知られるようになる、そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常日頃から感じています。

 同時にご聖体を通じて私たちと共におられる主キリストの聖体の主日にあたり、信仰やそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、また命を生きる危機を肌で感じながら信仰を守っている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださり、兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。

 月曜日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争末期の沖縄戦で、陸軍の現地司令官だった牛島満中将が、昭和20年6月23日未明に、糸満の摩文仁で自決したとされており、沖縄県では1974年に「慰霊の日を定める条例」を制定し、戦没者の追悼と平和を祈る日とされています。

 沖縄県の「慰霊の日を定める条例」の第一条には、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実に鑑み、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」とその目的が記されています。

 この日には沖縄全戦没者追悼式が行われますが、カトリック教会も那覇教区が、毎年この日に慰霊のミサと祈りを捧げる行事や、平和行進を行っており、80周年に当たる今年は、日本の多くの司教も参加する予定となっており、朝6時から小禄教会で私が司式して平和祈願ミサが行われます。当日の予定と、バーント司教様の平和メッセージは、こちらのリンクから那覇教区のホームページをご覧ください。

 以下、21日午後6時配信、キリストの聖体の主日メッセージです。

【キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月22日】

 映画「教皇選挙」の上映と時期が重なったこともあって、キリスト教国ではない例えば日本においても、本当の教皇選挙が大きな注目を浴びました。私も教会やキリスト教について、マスコミで語る機会を多く与えられたことに感謝しています。映画は選挙の情景描写について非常に良くリサーチされており、実際の教皇選挙とほとんど変わらない様子が映し出されていました。もっとも実際の選挙人の人間関係においては、そこまで激しい駆け引きの”権力闘争”というよりも、「祈りのうちに聖霊の導きを真摯に求める一時だった」と実際に現場にいて感じました。

 その教皇選挙の前に行われた枢機卿総会では、教会の現状と新しい教皇への期待が参加した枢機卿たちから表明されましたが、その中で「一致の重要性」が多くの枢機卿から語られました。裏を返せば、「教会全体の一致が揺らいでいる」ということへの不安の表明でもあったと思います。

 教会のシノダリティ(共働性)を問う世界代表司教会議(シノドス)の終わり、2024年10月末に発表された最終文書は、そのままの形で今を生きる神の民の声を反映した、教皇ご自身の文書ということになりました。後日、教皇フランシスコはその冒頭に序文を加えられました。

 そこには、「もちろん教会には、教義と実践の一致が必要です。けれどもそれは、教義のいくつかの側面や、そこから帰結される何らかの結論の、解釈の多様性を排除するものではありません」という一文があり、その解釈の多様性が一致を阻害すると感じる人たちがいることは事実でしょう。

 もっとも教皇フランシスコご自身が、「この共同体としての聖霊の導きがどこへ向かっているのか、を明確に知ることは難しいこと」を自覚しておられたのは間違いなく、そのために即座に結論を求めるのではなく、「時間をかけて共同の識別を続けることの重要性」を説いておられました。とはいえ、私たちは辛抱強く待ち続けることに、不安を覚えます。

 その不安を払拭するのは、ご聖体の秘跡です。なぜなら、聖体は「一致の秘跡」であるからに他なりません。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される」(3項)と記されています。

 聖体は、私たちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するように、と招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身の私たちへの心であり、あふれ出る神の慈しみそのものの具体化だからです。

 ルカ福音書は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。イエスは奇跡を行う前に弟子たちに対して、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じることで、「人々を、共同体において常に一致させることの大切さ」を指摘しています。

 神の民として共に旅する私たちを一致させるのは、主イエスの私たち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスの御心であり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じて私たちをその絆で結び、一致へと招いています。主と共に歩み続けましょう。私たちはご聖体の秘跡によって一致している神の民なのです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月21日

・「聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、世界に愛と一致をもたらすものとなろう」菊地・東京大司教の三位一体の主日

2025年6月14日 (土)週刊大司教第212回:三位一体の主日C

1749713740436

 聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日です。

 前の記事にも投稿しましたが、先日、国際カリタスが南山大学から人間の尊厳賞をいただきました。下の写真が、その際にいただいた記念の盾です。記念の盾に刻まれているのは、キャンパス内に実際にある上の写真の十字架です。ありがとうございます。

1749697265260

6 月8日の聖霊降臨の主日には、午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区合同堅信式が行われました。

 今年は52名の方が堅信の秘跡を、わたしとアンドレア補佐司教様から受けられました。復活徹夜祭や復活祭に行われる成人洗礼の場合は、特段の理由がない限り、洗礼と聖体と堅信の三つの秘跡を同じ日に受けていただくようにしています。

 幼児洗礼の場合は、年齢の歩みとともに、洗礼から始まり、初聖体、そしてある程度の年齢になってからの堅信と続きます。

 そのようなわけで、今年の堅信を受けた皆さんの多数は、小学校高学年から中学生や高校生が多く見られました。堅信を受けたみなさん、おめでとうございます。2025conf04

 以下、14日午後6時配信、週刊大司教第212回目、三位一体の主日のメッセージです。

【三位一体の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月15日】

 教皇レオ14世は、5月18日にサンピエトロ広場で行われた就任のミサの説教で、「愛と一致」こそが、ペトロの後継者として主ご自身から自分に託された使命の二つの次元である述べられました。

 その上で教皇は、「ローマ司教は、キリスト教信仰の豊かな遺産を守ると同時に、現代の問い、不安、課題に立ち向かうために、遠くを見ることができなければなりません。皆様の祈りに伴われて、私たちは聖霊の働きを感じました。聖霊はさまざまな楽器を調律し、私たちの心が一つの旋律を奏でることができるようにしてくださいました」と、教皇選挙に集まった133名の枢機卿たちに、確実に聖霊の導きがあり、その実りは、愛と一致に神の民を導くのだ、と指摘されています。

 教皇選挙に先立つ枢機卿会議で、多くの枢機卿が、教皇に求められる役割として、「信仰の遺産を確実に明確に伝える霊性の深さ」と「現代社会の要請に応えるために司牧の豊かな経験」、さらには「この世の組織を運営するに長けた能力を持つこと」を挙げました。教皇宣教が始まる時点で、そのすべてを兼ね備えた枢機卿は誰もいない、と思っていましたが、聖霊はしっかりと働き、四回目の投票で選ばれたレオ14世こそは、そのような資質をすべて兼ね備えた方でした。

 私たちは御父によって命を与えられ、救いの道をイエスによって与えられ、この世界で聖霊によって導かれて歩みを共にします。私たちの信仰は、三位一体の神に基づいた共同体の信仰です。ですから私たちは、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けます。

 私たちを「導いて真理をことごとく悟らせる」聖霊が、「私のものを受けて、あなた方に告げる」と、ヨハネ福音は主イエスの言葉を記します。その「私のもの」とは、「父が持っておられるものはすべて、私のものである」と主ご自身が言われるのですから、私たちは、三位一体の神の交わりの中で、聖霊に導かれて御子に倣い、御父へと結び合わされています。

 「カトリック教会のカテキズム」はそれを、「御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです」と記します(259項)。

 私たちは共同体で生きる教会であるからこそ、教会共同体は、三位一体の神をこの世に具体的に顕す共同体であるように努めなくてはなりません。それを実現しようとしたのが、教皇フランシスコが力強く導かれたシノドスの道です。私たちは共に支え合い、耳を傾けたい、共に祈り、聖霊の導きを識別することで、この世界の現実の中で、三位一体の神の存在を具体的に証しする共同体となります。

 そもそも私たちの信仰が三位一体に基づいているからこそ、私たちには教会共同体が必要であり、信仰を一人孤独のうちに生きることはできません。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた瞬間に、私たちは三位一体の神の交わりの中で、教会共同体の絆に結び合わされるのです。私たちの信仰は、共同体の交わりにおける絆によって生かされる信仰です。

 主イエスご自身に倣い、御父の願いを具体的に実現するために、聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、信仰を生きていきましょう。この世界に「愛と一致」をもたらすものとなりましょう。 

2025年6月14日

・「聖霊の導きに心から信頼する共同体でありたい」ー菊地・東京大司教の「聖霊降臨の主日」メッセージ

2025年6月 7日 (土)週刊大司教第211回:聖霊降臨の主日C

     聖霊降臨の主日となりました。

    8日の午後には、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式が行われます。堅信の秘跡を受けられる53名の皆さん、おめでとうございます。堅信式の様子などは、また別途記します。

   6月は「みこころの月」と言われます。「みこころ」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいました。イエスのみこころは、私たちへの溢れんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころから溢れ出て、人類の罪をあがなう血です。また水が、命の泉であり、新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられ、今年は月末の27日となっています。

 みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ち溢れる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主は、ご自分の心に倣うように、と呼びかけられました。そしてみこころの信心を行う者には恵みが与えられる、と告げ、その一つが、9か月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別な恵みがある、とされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

 1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみこころ」の祭日を定められました。

 以下、7日午後6時配信、週刊大司教第211回、聖霊降臨の主日のメッセージです。

聖霊降臨の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月8日

 先日行われた教皇選挙、コンクラーベに参加し、新しい教皇レオ14世を選出した133名の枢機卿たちは、システィナ聖堂で投票を続ける中で、聖霊の働きを実感していました。

 教皇選挙は、「選挙」とは言うものの、いわゆる政治的な駆け引きの場ではありません。教皇選挙を前にして連日行われた枢機卿の総会で、教皇選挙とは、たぐいまれな才能と霊性を持って力強く教会を導いた教皇フランシスコの後継者を選ぶ作業なのではなく、「イエスが最初の牧者として神の民を託した使徒ペトロの後継者を選ぶ祈りの時なのだ」と多くの枢機卿が感じていました。すなわち、枢機卿たちは良い選挙ができるように聖霊の導きを祈っていたのではなく、すでに主ご自身が選ばれているはずのペトロの後継者を、私たちの間から見い出すための識別の賜物を願って祈っていました。

 枢機卿の総会を終えて、133名の有権枢機卿がシスティナ礼拝堂に入った時、その中の誰が本当にペトロの後継者として選ばれているのかを分かっていた枢機卿は誰もいませんでした。しかし聖霊に導かれて投票を続ける中で、最後に3分の2を超えて選出されたプレボスト枢機卿のこれまでの人生を見た時、私を含めて多くの枢機卿が、「確かに聖霊に導かれた彼にたどり着いた」と感じたはずです。

 というのも、事前の枢機卿の総会では、「次の教皇には、司牧の現場に精通し、組織の運営に長けており、さらには深い霊性を持った人物がふさわしい」という意見で多くが一致する一方で、「そのような資質を持った人物などいない」という諦めも感じていました。しかし、教皇レオ14世こそは、ペルーでの長年の宣教師としての働き、修道会の総長や司教としての働き、さらにはバチカンでの働きと、「必要だ」とされた経験を十分に持ち、アウグスチノ会という修道会の霊性にも通じておられます。主は自ら選ばれ、聖霊を通じて、私たちがプレボスト枢機卿に到達するように導いてくださいました。

 「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしてください」—聖霊降臨の主日に、福音の前に歌われる聖霊の続唱は、この言葉で始まります。教会は聖霊によって誕生し、聖霊の働きによって育まれ、聖霊の導きによって歩み続けています。

 「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように」住んでいると指摘する第二バチカン公会議の教会憲章は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は、福音の力をもって、教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」(4項)と記し、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」、聖霊から迫られている(17項)と強調しています。

 聖霊の導きに信頼し、神の道を共に歩むことができるように、祈りのうちに身を任せましょう。常に私たちの間で働かれる聖霊の導きに、心から信頼する共同体でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月7日

・「共に生きる”家”を守るために、共に努力しよう」-菊地・東京大司教の「主の昇天の主日」のメッセージ

1748401605178

  この1か月ほど、教皇フランシスコの帰天に始まり、葬儀、教皇選挙、レオ14世の誕生、さらには以前から予定されていたメキシコでの国際カリタス理事会と、予定外のプログラムを含めて海外へ出ていることが続いたため、週刊大司教を一回お休みさせていただきました。申し訳ありません。今週からまた再開です。今週の週刊大司教が210回目となります。

 なお2020年11月7日に第一回目を配信してはじまった「週刊大司教」ですが、過去のすべてのビデオは、こちらのリンクの東京大司教区のYoutubeアカウントからご覧頂けます。

 主の昇天の主日となりました。

 教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年。単なる環境問題への取り組みにとどまらず、私たち被造物のふさわしいあり方を問いかけ回心を促すこの回勅は、いままだ解決の糸口さえ見い出されていない地球の様々な問題を目の当たりにするとき、決して時間とともに色あせていくような内容でないことを、改めて痛感します。

 この課題に真摯に取り組むために、司教協議会には啓発活動をするための、「ラウダート・シ」デスクが設けられています。こちらのホームページをご覧ください

 また私が事務局長を務めているアジア司教協議会連盟(FABC)では、3月にバンコクで行われた中央委員会の際に、FABC司牧書簡を発表しています。この書簡のタイトルは、「アジアの地方教会へ――被造界のケアについて。エコロジカルな回心への呼びかけ」です。邦訳が中央協議会のサイトに掲載されていますので、どうぞご一読ください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第210回、主の昇天の主日のメッセージです。

主の昇天の主日C(ビデオ配信メッセージ)

 使徒言行録は、弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけたと記します。死を打ち破って復活された栄光の主が、自分たちから去って行く。残された私たちはどうなるのだと、呆然として、弟子たちは立ち尽くしていたのでしょう。

 この天使の呼びかけは、諦めと失望のうちに呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、イエスから託された使命を果たして生きよという、弟子たちの行動を促す言葉です。

 イエスから託された使命とは何でしょうか。ルカ福音書も使徒言行録も、ともに、「地の果てに至るまで、私の証人となる」というイエスの言葉を記します。語るのは、自分の考えではありません。自分の才能を披露することでもありません。

 聖霊に導かれて、イエスが何を語ったのか、何を成し遂げたのか、その言葉と行いについて、世界中のすべての人に向かって語ります。それこそが証しの行動です。すなわち福音宣教であります。だから弟子たちは、イエスが天に上げられた後に、喜びに満たされて、「エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と記されています。隠れているのではなく、多くの人に向かって証しを続けたのです。

 そして、現代社会の中で生きている弟子は、福音を信じている私たちひとり一人です。現代社会に存在するありとあらゆるコミュニケーションの手段を駆使して、一人でも多くの人に、イエスの証しを届けていく者でありたいと思います。

 2015年5月24日に教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月末には「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇フランシスコが呼びかけた総合的エコロジーの視点から、私たちの共通の家である地球を守るための道を模索し、行動を決断するように招かれています。

 今年の「ラウダート・シ週間」は、ちょうど昨日まで、5月24日から31日までとされていました。今年は回勅が発表されてから10年という節目の年であり、同時に「希望の巡礼者」をテーマとした聖年の真っ最中です。

 そこで今年の「ラウダート・シ週間」もそのテーマを、「希望を掲げて」としていました。新しい教皇レオ14世も、教皇フランシスコの始められた”シノドスの道(共に歩む道)”を、同じように共に歩み始めておられます。そのペトロの使徒職の初めから、平和と対話の大切さを説き続けておられます。私たち神から命を賜物として受けた者が、共に生きる家を守り抜き、託された使命を果たし、共に歩んでいくことができるよう、共に努力していきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年5月31日

・「パン種のように内部から働きかける召命を生きる人が求められている」-菊地東京大司教の世界召命祈願日メッセージ

2025年5月10日 (土) 週刊大司教第208回:復活節第四主日C

1746508411590

  復活節第四主日です。

 教皇選挙については、できる範囲で別途記します。以下、本日午後6時配信、週刊大司教第208回、復活節第四主日メッセージです。

【復活節第四主日C   2025年5月11日

  ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえ話を記しています。「私の羊は、私の声を聞き分ける」と主は言われます。復活の命への希望へと招いてくださる羊飼いである主イエスは、私たち羊をよく知っておられます。先頭に立って常に旅路をともに歩んでくださいます。そして常に呼びかけておられます。

 問題は、先頭に立って私たちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を、果たして私たちがしっかりと聞き分けているのかどうかでしょう。

 現代社会はありとあらゆる情報に満ちあふれ、人生の成功の鍵という魅力的な誘惑で満ちあふれています。選択肢があればあれほど、決断が難しくなり、多くの人がその波間を漂いながら時を刻んでいます。その中で、希望の道へと招いてくださる牧者の声に耳を傾けることは、容易ではありません。

 それだからこそ、故教皇フランシスコは”シノドスの道”の歩みを最優先事項とされていました。教会は、2028年の予定されている教会総会に向けて、”シノドスの道”を共に歩みながら、互いに支え合い、耳を傾け合い、祈りのうちにその導きを識別しようと努めています。羊飼いの声を聴き分ける羊となろうとしています。

 復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。この祈願日は、教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。元来は司祭、修道者の召命のために祈る日ですが、同時に、シノダル(共働的)な歩みを続ける教会にあっては、すべてのキリスト者の固有の召命についても、黙想し、祈る日でもあります。牧者の声を識別する役割は、すべてのキリスト者の務めであるというのが、シノダルな教会の一つの特徴です。

 今年の祈願日のメッセージを事前に用意されていた故教皇フランシスコはその中で、「召命とは、神が心に授けてくださる尊い賜物であり、愛と奉仕の道に踏み出すべく自分自身の殻から出るように、という呼びかけです。そして、信徒であれ、叙階された奉仕者であれ、奉献生活者であれ、教会におけるすべての召命は、神が、世に、そしてご自分の子ら一人ひとりに、糧として与えてくださる希望のしるしなのです」と語っておられます。

 その上で、世界がめまぐるしく変わる中で翻弄されて道を見失っている若者たちに、特にこのように呼びかけておられました—「立ち止まる勇気を出して、自らの内面に聞き、神があなたに思い描くものを尋ねてください。祈りの沈黙は、自分自身の人生においての神からの呼びかけを読み取るために、そして自由意志と自覚をもってこたえるために、欠かすことができません」と。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、信徒の召命について、「信徒に固有の召命は… 自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、パン種のように内部から働きかけるためである」(31項)と記されています。

 牧者であるキリストの声は、私たちだけでなく、すべての人に向けられています。それを正しく識別するために、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が求められています。

(編集「カトリック・あい」=このメッセージは、教皇フランシスコが帰天される前に用意されたものと思われます。今の時点に合わせて手直しをしてあります)

2025年5月10日

・「教皇は東京でのミサで言われた『キリスト者の唯一有効な基準は、神がすべての子供たちに示しておられる慈しみだ』と」菊地・東京大司教の復活節第二主日メッセージ

2025年4月26日 (土)週刊大司教第206回:復活節第二主日C

  復活節第二主日です。

 本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。

復活節第二主日C 2025年4月27日

 「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神の慈しみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネパウロ二世であります。この主日に私たちは、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主の慈しみに信頼し、そのあふれんばかりの愛の想いに身をゆだねる用に招かれています。同時に、私たちを包み込まれる神の慈しみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。

 故教皇フランシスコの東京ドームでの言葉を思い起こします。

 「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子供たちに示しておられる慈しみ、という基準です」

 私たちが生きている今の世界は、果たして慈しみに満ちあふれている世界でしょうか。慈しみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物である命の、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。

 復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「平和」、すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。私たちは何のために遣わされているのでしょうか。

 イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪赦しのために派遣されました。罪の赦し、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神の慈しみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意の証しであります。

 交わりの絆は、私たちの心に希望を生み出します。私たちの信仰は、慈しみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物である命の尊厳に敬意を払って生きるように、と私たちを招く、神の愛と慈しみは、私たちの希望の源です。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一し、文章として読みやすく、意味が通りやすくしました)

2025年4月27日

・「キリストに倣い、希望を生み出し、証しする者となる決意を新たにしよう」菊地・東京大司教の復活祭メッセージ

2025年4月19日 (土) 2025年の復活祭にあたって

1745028443490

( 2025年復活祭メッセージ  2025年4月20日)

    皆様、御復活おめでとうございます。

   そしてこの復活祭、または復活節に洗礼を受けられる皆さん、おめでとうございます。教会共同体に心からの喜びを持ってお迎えいたします。

 十字架における受難と死を通じて新しい命へと復活された主は、私たちが同じ新しい命のうちに生きるようにと招きつつ、共に歩んでくださいます。復活された主イエスは、私たちの希望であるキリストです。

 2020年に直面した世界的な命の危機以来、私たちは混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した各地の戦争や紛争は止むことなく、今日もまた、命の危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。

 そのような状況は多くの人の心に不安を生み出し、世界全体が自分の身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

 人はその命を、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、私たちの命の否定につながります。命の否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定につながります。

 互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、絶望を生み出す世界です。

 今、必要なのは、命を生きる希望を、すべての人の心に生み出すことであります。

 教会は今年、25年に一度の特別な聖なる年、聖年の道を歩んでいます。希望の巡礼者がそのテーマです。私たちは、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けます。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望の源は、復活され、私たちと共に歩み続ける主イエス・キリストです。

 先般、東京教区の姉妹教会であるミャンマーで大きな地震が発生し、私たちが特に力を入れて支援してきたマンダレー周辺で大きな被害が出ています。ただでさえクーデター以降不安定な状況が続き、平和を求める教会に対する攻撃も続いている中での災害です。

 被災者救援のための募金も始まっています。被災され絶望に打ちひしがれている方々に希望が生み出されるように、私たちは出来る限りのことをしたいと思います。まず、ミャンマーの方々のために、その平和のために、祈りを捧げましょう。祈りには力があります。命を生きる希望を生み出す信仰の絆です。

 復活祭にあたり、互いに支え合い、共に歩む中で絆を深め、希望を生み出し、証しする者となる決意を新たに致しましょう。

 終わりに、病気療養中の教皇フランシスコのために、どうぞともに祈りをお捧げください。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月19日

・「イエスご自身に倣い、互いに支え合い、希望を生み出し、告げる者でありたい」菊地東京大司教の受難の主日メッセージ

2025年4月12日 (土)週刊大司教第205回:受難の主日C

1744294654365

   受難の主日となり、今年の聖週間が始まりました。改めて私たち一人一人の信仰の原点である主の受難と死、そして復活を黙想して、そこにおける主との出会いという希望の体験に立ち返り、また御復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方々のために、さらに祈りましょう。

   なお受難の主日午前10時に始まり、聖木曜日午後7時、聖金曜日午後7時、復活徹夜祭午後7時、復活の主日午前10時は、すべて私の司式で、東京カテドラル聖マリア大聖堂からビデオ配信の予定です。こちらのリンク先のカトリック東京大司教区のYoutubeチャンネルからご覧頂けます。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第205回、受難の主日のメッセージ原稿とビデオリンクです。

(受難の主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年4月13日)

 3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

 ミャンマーの教会は、東京教区にとっての長年の大切なパートナーです。ケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。今年は、今度は二人のミャンマーの司祭が、東京教区で働くために来日してくれました。

 東京教区は数年前から、今回の震源に近いマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設を支援しています。今回の地震発生直後から、マンダレー教区関係者から連絡があり、教会の施設の多くがダメージを受け、避難者の救援作業にあたっていると支援の要請が来ました。もちろん、金銭での支援も重要ですからこれから具体的な方策を考えますが、それ以上に、信仰の絆における連帯を示すことも重要です。

 愛する家族の一人が、目の前で命の危機に直面しているなら、多くの人は平然としてはおられないはずです。なんとかして、どうにかして、助けたいと思うことでしょう。まさしく今起こっていることは、信仰における兄弟姉妹がいのちの危機に直面している状況です。いても立ってもいられなくなるはずですが、どうでしょうか。東北の大震災の直後、当時カリタスジャパンを担当していた私の元には、世界中各地から、祈っているとのメールが殺到しました。信仰における絆を実感した体験です。

 多くの人が犠牲になる大災害や戦争のような事態が起こっても、それが目の前ではなくて遙か彼方で発生すると、私たちはどういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。そのような態度とは、すなわち無関心です。無関心は命を奪います。神の一人子を十字架につけて殺したのは、あの大勢の群衆の「無関心」であります。

 歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。無責任に眺める群衆は、そのときの感情に流されながら、周囲の雰囲気に抗うことができません。

 パウロは、イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

 復活を通じた永遠の命を生きるという私たちたちの希望は、「受難と孤独のうちの十字架での死という絶望的な断絶の状況にあっても、イエスは、御父と一体であったからこそ、希望を失うことがなかった」という事実に基づいています。無関心は孤立をもたらし、絶望を生み出します。しかし「命の与え主である御父に繋がる中で、兄弟姉妹として互いに結ばれている」という確信は、命を生きる希望を生み出します。いま、世界に必要なのは、命を生きる希望であって、絶望ではありません。

 互いへの無関心が支配する現代社会にあって、私たちはイエスご自身に倣い、御父との絆に確信を抱きながら、互いに支え合い、希望を生み出し、それを告げる者でありたいと思います。無関心のうちに傍観して流される者ではなく、互いを思いやり、支え合い、ともに歩みを進める者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月12日

・「神から赦しをいただき、生かされていることを心に刻もう」菊地・東京大司教の四旬節第五主日メッセージ

2025年4月 5日 (土)週刊大司教第204回:四旬節第五主日C

1743769336583

 四旬節も終わりに近づき、もう第五主日です

 3月23日深夜に出発、29日お昼頃帰着で、ローマに出かけておりました。もともとは一年に一度、この時期に教皇様にお会いして、国際カリタスの活動報告をすることにしていました。当然ながら、現在の教皇様の健康状態もあり、謁見はキャンセルになりましたが、それ以外にも国務省を始め総合的人間開発省、東方教会省、諸宗教対話省、キリスト者一致推進省、広報省、教皇庁未成年者保護委員会、シノドス事務局を、国際カリタスの事務局長と二人で訪問して回りました。

Img_20250324_163549513_hdrb

 またその間に、枢機卿としての名義教会であるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会のアントニ・サミィ・エルソン主任司祭(向かって右端)はじめ助任司祭と小教区財務委員の信徒の方の訪問を受け、さらに主任司祭と一緒に教皇庁儀典室のモンセニョールを訪問し、10月9日夕方6時に予定されている着座式の打ち合わせも行いました。

 ローマのどちらかというと郊外の住宅地にある小教区であり、長年、枢機卿の名義教会になることを申請していてやっと夢がかないました、住宅街の共同体なので、日曜のミサの参加者は大勢であり、様々な活動のある教会です。当日は日本からの訪問者も大勢いるだろうし、当小教区出身の司祭や司教も来るので、聖堂に入りきらない場合は、隣の学校のグランドで野外ミサをするとのことです。いまから楽しみです。

 イタリア語ですが、小教区のホームページです。なお司牧を担当しているのは16世紀に聖ジョバンニ・レオナルディが創立したOMD(Ordo Clericorum Regularium Matris Dei)と言う修道会司祭ですが、この会の正式名称をどのように邦訳するのか思案中です。

 その間に、イタリア国政放送RAIのテレビのインタビューがあり、さらには国際カリタスの夏の聖年の青年行事の打ち合わせや、国際カリタス法務委員会との顔合わせなど、盛りだくさんでした。

Img_20250325_135842744_hdr

 バチカン周辺は思ったほどの人出ではなかったものの、聖年の巡礼団が多く集まり、サンタンジェロ城付近からコンチリアツィオーネ通りにサンピエトロ大聖堂までまっすぐに700メートル近い特別通路が設けられてあり、途中信号などがあるのでボランティアの時間調整や誘導にしたがって、祈りと共に歩んでいました。サンタンジェロ城の近くに登録ブースがあり、ここで先頭を行く十字架を貸してもらえるようです。

Img_20250327_104100452_hdr

 ローマ市内は、そこら中で道路工事をしていましたが、昨年末に枢機卿親任式で訪れた際には絶対終わるのは不可能と思ったバチカン周辺の工事は、なんと見事に終わり、閉鎖されていた地下トンネルなども再開して、渋滞も少なくなっていました。今回も国際カリタス事務局のすぐ近くの小さなホテルに泊まったのですが、お値段が昨年とは比べものにならないくらい高騰していました。

Img_20250327_103708611_hdr

 教皇様は宿舎であるサンタマルタの家に戻られていますが、パロリン国務長官によれば「二か月本当に休んでいただけば、なんとか復帰なされるだろう。教皇様がしっかりとお休みになるようにすることが、我々の務めです」と言われ、「回復の度合いにもよりますが、今までのようなペースでの仕事は難しくなるので、スタイルを変更しなくてはならない」とのことでした。どうか続けて、教皇様のためにお祈りください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第204回、四旬節第5主日のメッセージ原稿です。

(四旬節第五主日C 2025年4月6日)

 ヨハネ福音は、「姦通の現場で捉えられた女」の話を伝えています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うイエスの言葉がよく知られています。もちろんこの場において、本当に罪を犯したことのない者は、神の子であるイエスご自身しかおられません。さすがに神に挑戦するような思い上がった人は、当時の宗教的現実の中で、そこにはいなかったと福音は伝えています。

 しかし同じことが、今の時代に起こったとしたらどうでしょう。とりわけ、バーチャルな世界でのコミュニケーションが匿名性の影に隠れて普及している今、同じことが起きたのであれば、あたかも自分こそが正義の保持者である、というような論調で、この女性を糾弾する声が多く湧き上がるのではないでしょうか。何という不遜な時代に私たちは生きているのでしょう。時にその不遜さは、自分が虐げている弱い相手に対して、自分に対する感謝が足りないなどと、さらにとんでもない要求すらして相手を糾弾します。

 この福音の物語は、時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。同じ罪を形作っているにもかかわらず、女性だけが批判される構図は現代でも変わりません。それどころか、ハラスメントなどの暴行や虐待の事案にあって、あたかも被害者に非があるかのような批判の声が聞かれることすらあります。

 神の愛と慈しみそのものであるイエスは、犯された罪を水に流して忘れてしまうのではなく、一人で責めを受け、命の尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その人間の尊厳を取り戻すことを最優先にされました。もちろん共同体としての秩序と安全を守ることは大切ですし、社会においてもまた宗教共同体においても、掟が存在しています。

 イエスの言葉は、掟を守ることに価値がない、とはしていません。イエスの言葉は、掟が前提とする一人ひとりの人間の尊厳に言及しています。なぜなら、その尊厳ある一人一人が共同体を作り上げているのであって、共同体が人を作り上げているからではありません。イエスは、そのような場に引き出され、辱められ、人間の尊厳を蹂躙されている女性の、そこに至るまでの状況を把握することもなく、掟を盾にして尊い賜物である命の尊厳をないがしろにしている現実のただ中で、一人の命の尊厳を守ろうとしています。その存在を守ろうとしています。私たちの時代は、誰を、そして何を最優先にしているのでしょうか。

 今年の四旬節メッセージ「希望をもって共に歩んでいきましょう」で、教皇様は回心について三つの側面から語っておられます。その三つ目のポイントは、約束に対する「希望をもって」共に歩むことですが、教皇様はそこに、こう記しておられます。

 「回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠の命を信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主は私の罪を赦してくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、誰一人、取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか」

 私たちは、神からの赦しをいただいて生かされている、と心に刻むとき、神の前で謙遜に生きることを学びます。神の前に謙遜になるとき、初めて、同じ神の愛によって命を与えられ生かされている兄弟姉妹と共に歩むことの大切さを理解することが可能になります。一人ひとりの人間の尊厳を尊重し、虐げられている人の尊厳を回復しようとする主の慈しみに倣いましょう。

2025年4月5日

・「ミャンマーで大地震発生、被災した方々のために共に祈ろう」菊地東京大司教、四旬節第四主日に

2025年3月29日 (土)ミャンマーでの地震発生にあたって、ともに祈りましょう

             ミャンマー中部マンダレー近郊を震源地とする大地震が発生したことを受けて、私から東京教区の皆様に共に祈りを捧げるように呼びかけております。ミャンマーでの地震発生にあたって、共に祈りましょう

 2月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

 現地からの報道はまだ断片的ですが、NHKによれば29日午後3時頃の情報として、「ミャンマーの国営テレビは29日、SNSに投稿し、今回のミャンマー中部で発生した大地震で全国でこれまでに1002人が死亡し、2376人がけがをした」と報道されており、これからも被害は拡大するであろうことが推定されます。

 ミャンマーの教会は、東京教区にとって姉妹教会であり、長年にわたりケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。その中で、数年前からはマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設も支援してきました。わたし自身も、東京教区の司祭代表団と一緒に、コロナ禍直前の2020年2月にマンダレー教区ピンウーリンの同神学校を訪問し、さらなる協力関係の構築でマンダレー教区のマルコ大司教様と一致したところでした。

 ミャンマーは2021年2月1日に発生したクーデター後、軍事政権下で不安定な状況が続いており、平和構築と民族融和を訴えるカトリック教会への武力攻撃もやみません。いくつかの教区ではカテドラルを含む教会が襲撃され、教区司教が住居を失った事例も報告されています。

 今回の地震に際して、マンダレー教区からは、教会も含めて大きな被害を受けたとの情報が届いており、教会による救援活動の開始も伝わってきております。情報は随時、東京教区ホームページに掲載いたします。

 募金をとの申し出が相次いでおりますが、それに関しては、詳細が判明してからできるだけ早く、どのような形にするのかをカリタスジャパンの判断も待ちながら、週明けには、教区としての対応をお知らせすることに致します。

 どうか今回の地震の被害に遭われた皆さんのために、また特に姉妹教会であるミャンマーの皆さん、そしてタイの皆さんのために、ミサの中でお祈りをお願いいたします。また、東京教区のミャンマー共同体の皆さんと心を合わせて、日々の祈りの中で、地震の被災者のために、また平和の実現のために、さらなるお祈りをお願いいたします

 以下、週間大司教第203回目のメッセージ原稿です。

( 四旬節第四主日C  2025年3月30日)

 ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

 当時の社会状況とその背景にある宗教的な掟に基づいて、罪人とされている人々に寄り添おうとされたイエスに対して、その掟を厳しく追及する人々は不平を漏らします。

 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

 この不平の言葉は、今を生きる私たちの間でも聞かれる言葉であります。こう語る人の視点は、実は「罪人」にあるのではなく、自分自身に向けられています。すなわち、「本来大切にされ受け入れられるべきなのは、正しい私であるはずだ」という心持ちであります。正義は自分にあるはずなのですから、それを否定し、正義を持たない人たちを優遇するイエスを、理解することができません。

 東京ドームのミサの説教で、教皇フランシスコは、「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求められました。神の慈しみの深さに包まれ、その行動の原理に倣うことを私たちに説いておられます。

 弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。父親の価値基準は正しさにあるのではなく、家族という共同体に繋がって生かされているのかどうかにあります。ですから弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げるのです。

 共同体の絆から離れていることは、命を生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人は命を十全に生きることができるのです。父親の優しさとは、罪に対して目をつむることではなく、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心であって、神の正義はそこにあります。

 今年の四旬節の教皇メッセージ、「希望をもって共に歩んでいきましょう」において、回心について三つの側面から語る教皇は、二つ目の側面である「共に歩む」ことについてこう記しておられます。

 「共に歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、共に旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます」

 そのうえで教皇は、共に歩むことで共同体の絆を回復させることの大切さを説かれ、こう記されます。

 「共に歩むということは、神の子として共に有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、誰も置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩む、ということです」

 自らの正義を振りかざし、他者を糾弾し排除しようとする誘惑は、現代社会に満ちあふれています。私たちは、放蕩息子を迎え入れた父親のように、共同体の絆に命を回復させ、共に歩もうとする姿勢が求められています。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月30日

・「私たちの信仰の原点『イエスの言葉と行い』との出会いにこそ、希望がある」菊地・東京大司教の四旬節第二主日

2025年3月15日 (土)週刊大司教第201回:四旬節第二主日C

Fabc250301    この一週間、月曜日の夜に始まって金曜日の夕方まで、タイのバンコクを会場に、アジア司教協議会連盟(FABC)の中央委員会が開催されましたので,バンコクまで旅をしてきました。

   中央委員会は、FABCに加盟しているアジアの19司教協議会の会長と、司教協議会を構成していない香港、マカオ、ネパールの司教で構成されています。19の司教協議会の中には、マレーシア、シンガポール、ブルネイや中央アジアのように、いくつかの国で構成されているところと、インドのように三つの典礼(ラテン典礼と二つの東方典礼)とその全体で4司教協議会が存在するところなどがあり、19は国の数ではありません。日本の司教協議会は私が会長を務めていますので職責で参加しましたが、同時に現在二期目のFABC事務局長も務めており、その立場でも参加しました。

Fabc250304

 中央委員会は年に一度開かれ、中央委員会がその時代の必要に応じて設置している諸部局からの報告を受けた後、中央委員会だけの会議を開き、その後、今回は木曜日と金曜日に、OHD(人間開発局)の主催で、環境回勅「ラウダート・シ」の10周年を記念したワークショップを行いました。日本から女子メリノール会のシスター・ジョイが参加し、日本の司教団のラウダート・シデスクの活動について報告してくださいました。

Fabc250302

 今年の11月にブラジルで開かれるCOP30(国連気候変動枠組み条約第30回締約国会議)に向けて、アフリカや南米の司教協議会連盟と協力して、政策提言活動や啓発活動を行うことで一致しました。また、「ラウダート・シ」の10周年を記念して、今回の中央委員会は、司牧書簡を採択し、公表しています。

Fabc250303

 また中央委員会では、(昨年10月に閉幕した)世界代表司教会議(シノドス)第16回総会を受けて,シノダル(共働的)的な教会を育むための委員会を設けることで合意され、副会長のフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿が責任者として,各国の司教協議会に働きかけていくことになりました。さらに、各国、各教区にシノダリティ(共働性)を育むための部署を設けるよう求める決議がされました。(左の写真、向かって左から、ビル・ラルース事務局次長、わたし、会長のフィッポ・ネリ枢機卿、副会長のパブロ・ダビド枢機卿)

 なお、以上のFABC事務局の公式発表は、英語ですが、こちらから読むことができます。

 環境問題に関して素晴らしく先進的な取り組みをしている国もあれば、シノダリティを育むことに力を入れ始めた国もあり、日本の教会も、アジアの教会と歩みを共にして行くために、シノダリティを育むための部門を設け、すでに活動している「ラウダート・シ」デスクを充実させるなど、必要な対応をして行かねばなりません。

 なお11月にはマレーシアのペナンでアジア宣教大会が開かれます。11月27日から30日までの予定です。(前回は2006年にタイのチェンマイで行われ、私も参加しました。そのときの模様はこちらの司教の日記に記してあります。)

 今回の中央委員会で、いくつかの候補の中から、今回の宣教大会のロゴマークが決まり、プログラムの骨子も明らかになってきました。千人以上の参加が期待されており、日本からもFABC枠で参加する私以外に三名の司教様と、そのほか20名以上の参加が期待されています。前回も、私を含め司教三名と、総勢21名が参加しています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第201回め、四旬節第二主日のメッセージです。

【四旬節第二主日C  2025年3月16日】

 四旬節は、私たちが信仰の原点に立ち返る時です。「希望の巡礼者」として歩んでいる私たちに、福音は、共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることの重要性を教えています。栄光に光り輝くイエスにこそ、私たちの信仰の原点である希望があることを、ルカ福音は伝えています。

 ペトロ、ヨハネ、ヤコブにとって、信仰の原点は、御変容の出来事の経験でした。私たちの原点としての体験は何でしょうか。この四旬節に、改めて、私たちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。その原点は、一体どこにあるのでしょうか。

 創世記は、まだ「アブラム」と呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向かって人間の想像を遙かに超えた約束を与えられた、その夜の驚きであったと思います。

 ルカ福音は、御変容の出来事とそれを体験した弟子たちの驚きを記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。きっとペトロはその輝く栄光の中にとどまりたかったのでしょう。

 福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。この二人は律法と預言書の象徴、すなわち旧約における神とイスラエルの民との契約を象徴します。その中で神はイエスを名指しして、旧約ではなくイエスこそがそれを凌駕する存在であるとして、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げた、と記されています。この日の神の栄光を目の当たりにした驚きと、その中でイエスこそが旧約を凌駕する新しい契約の主であると告げられた弟子たちの驚きは、教会の信仰の原点でもあります。私たちの希望の源はイエスにあることが明示されました。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、このように記しておられます。

「希望と忍耐が影響し合うことから、次のことが明らかになります。つまり、キリスト者の人生は目的地である主キリストとの出会いへと導いてくださるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会を必要とする旅路だということです(5項)」

 巡礼の旅路は、忍耐を必要とする旅路です。私たちは「主との出会い」にこそ、救いの希望があることを心に刻み、忍耐のうちに、しかし希望を持って歩みを続けます。この世の栄光にとどまることはしません。そこに希望はありません。イエスとの出会いは、この世の栄光をうち捨て、苦難の道を忍耐を持って歩み続けた先に存在します。私たちの信仰の原点は、「イエスの言葉と行い」との出会いです。そこにこそ希望があります。その希望に導かれた、私たちはイエスとの出会いへと歩みを進める者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月15日

・「私たちの共通の信仰の原点は『希望』にある」菊地・東京大司教の四旬節第一主日

2025年3月 8日 (土) 週刊大司教第200回:四旬節第一主日

1741397728379 毎週土曜夕方にお送りしているビデオプログラム「週刊大司教」は、今回で節目の200回目となりました。ご視聴いただき、一緒に祈ってくださる多くのみなさまにに感謝いたします。

 ビデオでの配信は、教区本部の広報担当者が制作にあたっていますが、毎回の視聴数が千を下回ることが続いた場合、役目を終えたと判断して終わりにするようにと申し合わせてありました。ただ有難いことに、毎回千を越える方が視聴してくださっていますので、ここまで続いてきました。これからも可能な限り続けていきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

 また、こちらのブログ「司教の日記」には、毎回のテキストに加え、その時々の情報も色々と記しておりますので、できれば教区の皆様全員に目を通していただければと願っています。お近くのお知り合いにも、このブログの存在をお知らせいただければ幸いです。もちろんパソコンでもスマホでもご覧いただけます。

 なお四旬節第一主日にあたる3月9日午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区の召命のために祈り献金する一粒会の総会に合わせてミサが行われ、その中で、アンセルムス今井克明神学生の朗読奉仕者選任式を執り行います。このミサには、一粒会の総会関係者以外のどなたでも参加いただけます。お時間の許す方はどうぞご一緒にミサにご参加くださり、司祭召命のために、また今井神学生のために、ミサの中でお祈りください。

 以下、四旬節第一主日、週刊大司教第200回目のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日C 2025年3月9日】

 3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。

 教会の伝統は、四旬節において「祈り」「節制」「愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すように私たちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけ、日本の教会ではこれをカリタスジャパンに委託しています。四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲として捧げる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持って私たちは、命の危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味で共に歩む者となります。互いに支え合う連帯の絆は、命を生きる希望のしるしです。

 四旬節において、私たちは信仰を見つめ直し、自らの信仰の原点に立ち返ります。また御父の慈しみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示し、希望を証しする者となります。

 ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、命を生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいた様々な誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神の慈しみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。「神に救われた民」の原点に立ち返ろうとする記憶の言葉です。

 共通の救いの記憶、すなわち「共同体の信仰」の原点に立ち返ることにこそ、この世の様々な欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民である私たちにとって、旧約の民のような「立ち返るべき共通の信仰」の原点は何でしょうか。

 教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、聖年のロゴのイメージについて次のように記しておられます。

 「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐にのまれることはありません。私たちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」。

 私たちの共通の信仰の原点は、そこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、私たちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、改めて私たちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。

 四旬節第一主日には今年の復活祭に洗礼を受けるために準備をされている方々の洗礼志願式が多くの教会で行われます。復活に向けて心を整えるこの時期こそ、キリストの死と復活に与る洗礼への準備に最も適しています。洗礼志願者の皆さんのためにも祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月8日

・「偽情報に惑わされず、教皇の速やかな回復を祈ろう」菊地・東京大司教、年間第8主日メッセージ

2025年3月 1日 (土)週刊大司教第199回:年間第8主日

   2023_10_25_rca_0375 今年は復活祭が遅く、4月20日ですので、3月に入ってもまだ、典礼では年間の主日が続きます。今年の四旬節は、3月5日の灰の水曜日から始まります。

  教皇様の容態は、徐々にではありますが回復に向かっていると伝えられていますが、まだ危険な状況であることに変わりはない模様です。入院が続いています。どうぞ教皇様のために、全世界の兄弟姉妹とともに続けてお祈りください。

   なお先日、皆様に教皇様へのお祈りを呼びかけました司教の日記の記事が、一時、消失しておりました。大変申し訳ありません。このブログを置いているNiftyのココログさんでサーバーを更新した際に、最新のデータが移動しなかった模様で、その後に回復いたしました。ご迷惑をおかけしました。

  また教皇様が入院したことを受けて、インターネット上では様々な偽物の情報が飛び交っています。すでに帰天されたと主張する偽情報もありました。私たちの生命は神様の御手の中にあります。それを忘れた不遜な言動は慎みたいと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第199回、年間第8主日メッセージです。

【年間第8主日C 2025年3月2日】

 希望の巡礼者として聖年を歩んでいる私たちに、ルカ福音は、「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と語りかけます。

 私たちは、現代社会にあってどのような実を結んでいるのでしょうか。希望の巡礼者である私たちは、まさしく希望そのものを具体的に表すしるしとなることが求められています。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」において、「聖年の間に私たちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と呼びかけておられます。良い木として私たちが結ぶ実は、希望のしるしです。

 先般、教皇様は合衆国の司教たちに書簡を送られ、その中で、「出エジプト記に記されているイスラエルの民の奴隷から自由への旅路は、現代社会において移住という現象によってはっきりと示される現実を、常にわたしたちの身近におられ、受肉され、移住者であり、難民である神への信仰においてだけではなく、すべての人間の犯すことのできない神秘的な尊厳を再確認するための歴史的決定的な瞬間として見つめるよう招いている」と指摘して、その立場にかかわらず人間の尊厳を守ることの重要性を強調されています。

その上で教皇様は、それぞれの国家が自らの治安を守る責務の重要性を認めながらも、「促進されなければならない真の愛の秩序は、「善きサマリア人」のたとえ話を絶えず黙想することによって、例外なくすべての人に開かれた兄弟愛を築く愛について黙想することによって発見されるものだ」と呼びかけます。

 不寛容さが支配し、利己主義の蔓延する社会にあって、教会は排除することのない愛の証しとして、また徹底的に人間の尊厳を守る存在として、希望のしるしとなることが求められてます。

 私たちが語る言葉は、私たちの心の反映です。私たちの行動は、私たちの心の鏡です。福音は、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記します。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。私たちはどのような実を結ぶ木なのでしょうか。

 同時にルカ福音は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほど私たちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、私たちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。
社会の現実の中にあって、希望のしるしとして歩みを続けていきましょう。

2025年3月2日

・「自分の量る秤で量り返される」ことを肝に銘じる―菊地・東京大司教の年間第7日

2025年2月22日 (土)週刊大司教198回:年間第7主日

1740057081513

 年間第7主日です。

 ご存じのように、教皇フランシスコは肺炎のため、ローマのジェメリ病院に2月14日に入院され、治療を受けておられます。12月の枢機卿親任式でお会いしたときにも多少風邪気味で、無原罪の聖母の主日ミサの時には、消え入るような声でミサをされていましたが、それでも外面的にはお元気そうでした。しかしその後、いろいろと行事があり、特に聖年が始まって通常以上の行事が予定されていたことから、完全に回復することのないままにお仕事を続けておられたのだ、と推測します。

 広報省からの発表によれば、複雑な状況である者の治療が効いているとのことです。ともに教皇様の回復のために祈りましょう。

 2月17日午後から20日夕方まで、司教総会が行われました。今年から会計年度が12月締めから3月締めに変わりましたので、この司教総会は2024年度の臨時司教総会となります。決定事項の詳細については中央協議会から公表されるますので、そちらをご覧ください。

Img_20250218_141937722_hdr

 日本の司教協議会の事務局であるカトリック中央協議会が、現在の江東区潮見に移転したのは1992年でした。そのときに新築された建物、日本カトリック会館も今年で建築から33年が経過しました。建物自体は堅牢で、海に面していることから海風や塩の影響はあるものの、まだまだ活用していくことができます。しかし、躯体の中身である配管や内装など諸々の設備については更新が不可欠です。そのため、今年の4月から始めて、通常の業務を行いながら順番にリニューアルをしていくことになりました。

 そのタイミングに合わせて、これまで長年にわたって検討を重ねてきた事務局体制の更新も行うことに致しました。以前からの様々な議論に基づいて、検討チームが具体案をまとめ、今回の総会で、事務局の組織機構を変更することを決定しました。同時に司教協議会の委員会体制についても、これを機会に変更することにし、これについては6月の司教総会で新しい司教様方の委員会体制の任命を行う予定です。

 新しい体制の詳細については、中央協議会から公表されますので、お待ちください。また実際に運営してみて不都合があるときには、フレキシブルに改善することにもしています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第198回、年間第7主日のメッセージ原稿です。

【年間第7主日C 2025年2月23日】

 希望の巡礼者として聖年を歩んでいる私たちに、ルカ福音は、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と呼びかけています。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、「希望をもって将来を見ること、それは、伝える熱意にあふれた人生観をもつことでもあります(9)」と記し、その上で、「聖年の間に私たちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます(10)」と呼びかけておられます。私たちは、豊かに愛してくださる神の愛とあわれみを具体的に生きる者となるように招かれています。

 いくつかの具体的な困難の事例を挙げられる教皇様は、その中に、「難民や移住者」の現状を挙げ、そういった方々にとっての「希望のしるし」となるようにと、教会に呼びかけます。

 「偏見や排斥によって、彼らの期待がくじかれることがありませんように。一人ひとりをその尊厳ゆえに喜んで迎えることには、誰もが望ましい未来を築く権利を奪われないようにする、責任が伴います。国際的な緊張状態によって、戦争、暴力、差別を避けるには逃げるしかない多くの亡命者、強制移住者、難民には、安全、就労、教育の機会を保障すべきです。それらは、新しい社会環境に溶け込むために必要な手立てなのです(13)」

 その上で教皇様は、「キリスト者の共同体には常に、最も弱い立場の人々の権利を守る用意がなければなりません。よりよい生活への希望をだれ一人奪われることのないよう、広い心で歓待の扉を開け放ってください」と、私たちに呼びかけておられます。

 ルカ福音は、人の生きる姿勢について、この世の常識とは真っ向から異なる選択肢を掲げた後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と記します。

 私たち自身は、自分が何をして欲しいのかを、どうして知っているのでしょう。私たちは自分自身を大切に思い、自らの身体と心の声に真摯に耳を傾けるからこそ、自分自身にとって何が必要なのかを識別することができています。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、私たちに隣人への思いやりの心を求めます。隣人の声に耳を傾ける姿勢を求めます。隣人の命の尊厳を尊重し、その命を守り、共に生きていくことを求めています。

 さらに福音は「人を裁くな」と言われたイエスの言葉を記します。私たちはそもそも、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義がある、と思い込み、様々な手段を通じて幾たび人を裁いてきたことでしょう。正義はどこにあるのでしょうか。命に対する暴力がはびこるこの現実の中で、私たちは不安のあまり寛容さを失い、安易に他者を裁いては安心を得ようとしています。そのような私たちに対して、ルカ福音は主イエスの言葉として、「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」と伝えます。この言葉こそは、私たちひとり一人の心に深く記しておきたい言葉です。

(編集「カトリック・あい」=聖書の訳は日本語の翻訳として優れている「聖書協会・共同訳」を使用して改めました)

2025年2月22日

・「『お言葉ですから』と聖霊の導きに従う覚悟を持つ大切さ」菊地東京大司教の年間第5主日

2025年2月 8日 (土)週刊大司教第196回:年間第五主日

1738981648886

 年間第五主日です。

 今週の火曜日、2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、「世界病者の日」とされています。教皇様の今年のメッセージのタイトルは、聖年にちなんで「希望は欺かない」ですが、本文は中央協議会のこちらのリンクからご一読いただけます。

 また当日は、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で病者の日のミサがカリタス東京の主催で行われますが、こちらはどなたでもご参加いただけます。このミサは私が司式いたします。またYoutubeでの配信も行われます。どうぞご参加ください。

1738498761859_20250208155301

 また本日のメッセージでも触れていますが、この一週間は日本の殉教者の記念日が続きました。毎年恒例になっていますが、墨田区の本所教会では、2月の最初の日曜日に日本二十六聖人殉教者の殉教祭ミサが捧げられており、今年も2月2日に私が司式して捧げられました。聖年の巡礼ということもあり、今年のミサには様々な小教区の方々が参加してくださいました。(左の写真)

 さらに2月8日は聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。メッセージの中で詳しく触れていますが、奴隷としてアフリカから人身売買の被害者としてイタリアにたどり着いた彼女は、その後、カノッサ会の修道女となりました。彼女の人生にちなんで、この日は女子修道会国際総長会議によって「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」とされています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第196回、年間第五主日のメッセージです。

【年間第5主日C 2025年2月9日】

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスに応えたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたってまさしく主の「お言葉ですから」と、教会の頭としての務めを果たし続けました。

 召命は、神からの呼びかけであって、自分の選択ではなく、果たすべき役割も、自分の選択ではなく、神の計画です。その神の計画は、人の知恵を遙かに超えていることが、この福音の物語から理解されます。人間の常識的にはあり得ないけれど、「お言葉ですから」と網を下ろした結果は、神の計画の実りでありました。

 教皇フランシスコが、教会のシノドス性について取り上げた先のシノドスの最中、総会の参加者に繰り返されたのは、「主役はあなた方ではなくて、聖霊です」という言葉でした。シモン・ペトロの後継者としての教皇様は、まさしく私たちが従うべきなのは人間の知恵ではなく聖霊の導きであって、常に「お言葉ですから」とその導きに従う覚悟を持つことの大切さを説いておられました。いま教会に必要なのは、この世の知恵に基づく識別ではなく、神の知恵に基づく識別です。聖霊が主役です。

 この一週間は、2月3日に福者高山右近、2月5日に日本26聖人殉教者と、日本の殉教者の記念日が続きました。

 「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。殉教者たちこそは、「お言葉ですから、網を下してみましょう」と答え続けて信仰の道を歩んだ方々です。

 信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、その勇敢な死に賞賛の声を上げるだけでなく、殉教者たちの生きた姿勢と信仰におけるその選択の勇気に、私たち自身が命を生きる希望の道を見い出さなくてはなりません。

 ところで2月8日は、聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれ、7歳にして奴隷として売り飛ばされ、その後イタリアで1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。

 人身売買の被害者であった聖人の祝日に当たり、女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。

 聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間の尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために祈りたいと思います。人身売買は過去のことや我々とは関係のないところで起きているわけではありません。人間の尊厳を奪われ、自由意志を尊重されることなく、隣人としてではなくモノのように扱われる人は、私たちが生きている世界と無関係ではありません。

 神からの賜物である「命」は、その始まりから終わりまで、例外なく守られ、神の似姿としての人間の尊厳は、徹底的に尊重されなくてはなりません。

2025年2月8日