2025年6月21日 (土)週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C
22日の主日はキリストの聖体の主日です。キリスト教が日本よりも社会認知されている国や伝統的なキリスト教国では、この日に合わせて、ご聖体を顕示しながら行列をして、聖体に現存する主を称え礼拝する聖体行列が行われます。私が昔、若い頃に主任司祭をしていたアフリカのガーナの村でも、大がかりな聖体行列をしていました。
日本でも聖体行列ができればそれに越したことはありませんが、同時にキリスト教が社会的に認知されず秘跡の意味合いが理解されていない地で、御聖体がご神体であったり、極論すれば見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。
御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回ればそれで良いというものではありません。つまり私たちの満足のためにするものではありません。
キリスト教が今以上に認知され、ご聖体の意味が広く知られるようになる、そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常日頃から感じています。
同時にご聖体を通じて私たちと共におられる主キリストの聖体の主日にあたり、信仰やそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、また命を生きる危機を肌で感じながら信仰を守っている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださり、兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。
月曜日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争末期の沖縄戦で、陸軍の現地司令官だった牛島満中将が、昭和20年6月23日未明に、糸満の摩文仁で自決したとされており、沖縄県では1974年に「慰霊の日を定める条例」を制定し、戦没者の追悼と平和を祈る日とされています。
沖縄県の「慰霊の日を定める条例」の第一条には、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実に鑑み、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」とその目的が記されています。
この日には沖縄全戦没者追悼式が行われますが、カトリック教会も那覇教区が、毎年この日に慰霊のミサと祈りを捧げる行事や、平和行進を行っており、80周年に当たる今年は、日本の多くの司教も参加する予定となっており、朝6時から小禄教会で私が司式して平和祈願ミサが行われます。当日の予定と、バーント司教様の平和メッセージは、こちらのリンクから那覇教区のホームページをご覧ください。
以下、21日午後6時配信、キリストの聖体の主日メッセージです。
【キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月22日】
映画「教皇選挙」の上映と時期が重なったこともあって、キリスト教国ではない例えば日本においても、本当の教皇選挙が大きな注目を浴びました。私も教会やキリスト教について、マスコミで語る機会を多く与えられたことに感謝しています。映画は選挙の情景描写について非常に良くリサーチされており、実際の教皇選挙とほとんど変わらない様子が映し出されていました。もっとも実際の選挙人の人間関係においては、そこまで激しい駆け引きの”権力闘争”というよりも、「祈りのうちに聖霊の導きを真摯に求める一時だった」と実際に現場にいて感じました。
その教皇選挙の前に行われた枢機卿総会では、教会の現状と新しい教皇への期待が参加した枢機卿たちから表明されましたが、その中で「一致の重要性」が多くの枢機卿から語られました。裏を返せば、「教会全体の一致が揺らいでいる」ということへの不安の表明でもあったと思います。
教会のシノダリティ(共働性)を問う世界代表司教会議(シノドス)の終わり、2024年10月末に発表された最終文書は、そのままの形で今を生きる神の民の声を反映した、教皇ご自身の文書ということになりました。後日、教皇フランシスコはその冒頭に序文を加えられました。
そこには、「もちろん教会には、教義と実践の一致が必要です。けれどもそれは、教義のいくつかの側面や、そこから帰結される何らかの結論の、解釈の多様性を排除するものではありません」という一文があり、その解釈の多様性が一致を阻害すると感じる人たちがいることは事実でしょう。
もっとも教皇フランシスコご自身が、「この共同体としての聖霊の導きがどこへ向かっているのか、を明確に知ることは難しいこと」を自覚しておられたのは間違いなく、そのために即座に結論を求めるのではなく、「時間をかけて共同の識別を続けることの重要性」を説いておられました。とはいえ、私たちは辛抱強く待ち続けることに、不安を覚えます。
その不安を払拭するのは、ご聖体の秘跡です。なぜなら、聖体は「一致の秘跡」であるからに他なりません。
第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される」(3項)と記されています。
聖体は、私たちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するように、と招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身の私たちへの心であり、あふれ出る神の慈しみそのものの具体化だからです。
ルカ福音書は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。イエスは奇跡を行う前に弟子たちに対して、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じることで、「人々を、共同体において常に一致させることの大切さ」を指摘しています。
神の民として共に旅する私たちを一致させるのは、主イエスの私たち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスの御心であり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じて私たちをその絆で結び、一致へと招いています。主と共に歩み続けましょう。私たちはご聖体の秘跡によって一致している神の民なのです。
(編集「カトリック・あい」)