(評論)世界的な出生率の低下は”新しいもの”を期待しなくなった社会を露呈している(Global Catholic)

(2026.9.3  Global Catholic 

   世界的な出生率の低下は、主に経済的な要因によるものではなく、人類学的な要因によるものであり、もはや真に新しいものを期待しなくなった社会を露呈している。そして、孤独感は、その統計的な双子のような存在である。

*イタリアでは2047年に子供のいない夫婦が子供のいる夫婦を上回る

   まずは私の国イタリアの数字から始めよう。今週、イタリア国立統計局が新たな人口予測を発表した。

   中間シナリオでは、同国の人口は2025年の5890万人から2050年には5500万人、2080年には4580万人に減少すると予測されている。また、65歳以上の人口比率は現在の24.7%から今世紀半ばまでに34.5%に上昇すると見込まれている。

   しかし、これらの総数よりも重要なのは、世帯構成に関する数字である。2047年には、子供のいない夫婦の数が、子供のいる夫婦の数を上回るだろう。

 

*東アジアでは2025年に女性一人当たりの出生率が1人を下回った

 

   これは地域的な出来事のように見える。イタリアの事例は、ヨーロッパをはるかに凌駕する現象の初期兆候として捉えるべきであり、その最も進んだ形態は東アジアで見られる。 2025年には、東アジアの出生率は女性一人当たり子供一人を下回った。

  日本は1.14、中国は約0.9で、一人っ子政策の目標値を下回っている。韓国は0.8、台湾は0.695だった。ソウルは0.63、マカオは0.47を記録した。シンガポールは0.87、タイは0.93となっている。

  同年、この地域では出生2件に対し死亡3件が記録され、日本全体の出生数は67万1000人で、統計を取り始めた1873年よりも少なかった。

*50以上の国・地域で死亡数が出生数より多くなっている

 

  世界の他の地域も、最前線からの距離は様々だが、同じ曲線上に位置している。

    2024年、欧州連合(EU)の合計特殊出生率は女性1人当たり1.34人に低下し、欧州統計局(ユーロスタット)が集計を開始して以来最低の数値となった。また、加盟27カ国のうち、人口置換水準に達した国は一つもなかった。欧州の人口は2029年にピークを迎え、2100年までに3億9880万人に減少すると予測されている。

    メキシコシティは0.96、ボゴタは0.8、チリは1.03。デリーは1.2、アンカラは1.15。アジアで最もカトリック教徒が多いフィリピンは1.7、マニラは1.4となっている。

    アメリカン・エンタープライズ研究所が8月20日に発表した報告書の中で、ニコラス・エバーシュタット氏とパトリック・ノリック氏は、2023年には人類の70%以上が既に人口置換水準を下回る社会に暮らしており、アフリカを除くすべての大陸が人口置換水準を下回る閾値を超えていると試算している。

    現在、50以上の国と地域で出生数よりも死亡数が多く、世界の人口の4分の1以上がすでにそのような状況下で生活している。

*出生率低下は貧困などと関係なく起きている

 

    ここで経済的な説明は通用しなくなる。低出生率体制には、イランのようなイスラム神権国家、ネパールやミャンマーのような貧しい農村国、そして国家的な家族計画プログラムを一度も実施したことのないブラジルも含まれるようになった。

    エーベルシュタット氏は、社会の出生率を統計的に最も正確に予測できる指標は、女性が望む子供の数であり、その精度は約90%だと指摘する。状況よりも、むしろ願望が優先されるようになったのだ。

*子供は「誰の訳にも立たない存在」にされている

 

     技術的な回答は存在し、それらは真剣に検討されるべきである。

     移民は自然バランスのマイナスを相殺するが、人々が去る国自体も基準値を下回っており、相殺効果には期限がある。

     福祉制度を再設計し、定年年齢を引き上げ、ほとんどあらゆる場所で不足しているサービスによって女性の労働参加を支援することは可能である。

     しかし、出産が年金制度の財政健全化につながるという理由で擁護される場合、すでに子供を持つことを困難にする前提、つまり、人はその人が果たす役割によって価値が決まるという前提を認めてしまっている。定義上、子供は誰の役にも立たない存在なのだ。

 

出生率の低下と一人暮らしの増加は、同じ現象の二つの側面

 

   人類学的な観点から言えば、問題の本質はここにある。「子供をこの世に生み出す」ということは、自分がコントロールできない、そしてほとんど目撃することのない時間の流れに身を縛り付けることであり、また、その子を待ち望んでいた人々の計画が誰かによって書き換えられることを受け入れることでもある。

   社会が子供を産まなくなるのは、明日を今日を管理された延長線上に位置づけ、そこに暮らす人々が少し年を取っただけだと考えるようになった時である。このように解釈すれば、出生率の低下は予測であり、真に新しいことは何も起こらないと予想される。

   その統計的な裏返しは孤独である。イタリアの事例に目を向けると、2050年までに世帯の約45%が家族の核を持たない世帯となり、一人暮らしの人の半数以上が65歳以上になると予測されている。

   出生率の低下と一人暮らしの増加は、同じ現象の二つの側面である。

*「出生率低下の構造的要因に”孤独のパンデミック”がある」と教皇

   教皇レオ14世は5月25日、欧州議会の人口統計議員連盟との会見での挨拶でこの問題を取り上げた。教皇は出生率低下の構造的要因として「孤独のパンデミック」に言及し、人口統計データは父親、母親、そして子供に関わるものであることを改めて強調した。

   同じ挨拶の中で、教皇は欧州大陸の「著しい不毛」の一因として、欧州の制度的創設者たちのキリスト教的理念の拒絶を挙げた。この発言は物議を醸したが、因果関係について、つまり豊かさは政策よりも先に、共通の意義の源泉に根ざしているという主張を改めて考察する価値がある。

   この仮説が正しいとすれば、東アジアは最も厳しい検証対象となるだろう。なぜなら、東アジアでは出生率の低下が、宗教的伝統が大きく異なるにもかかわらず、減速することなく続いているからである。

  キリスト教は、生殖能力を生物学的な生殖と同一視したことは一度もない。何世紀にもわたり、修道生活と聖別された処女は、それらを実践する人々のものではない未来に向けた生殖活動の一形態であった。子どもを持たない人々は、写本を書き写し、土地を開墾し、まだ生まれていない人々のために病院や学校を設立したのである。

  教会自身の貢献は、家族政策よりも先に、まさにその方向性において求められるべきである。

  その演説と同じ日の朝に発表され、その後の議論ではそれとは切り離された形で扱われた「Magnifica Humanitas」は、AI(人工知能)の導入を含め、人口問題を再考すべき枠組みを提示している。

   2025年にはイタリアで35万5000人の子供が生まれた。1862年にはその数は83万3000人だった。エーベルシュタットとノリックは、これほど低い数字を見つけるには、おそらく16世紀初頭まで遡らなければならない、と指摘している。

   日本は、自国の歴史の流れを逆行してきたと言えるだろう。人口が少なくても、国は十分にやっていける—こうした予測が提起する希少性は、別の種類の問題である。未来にはまだ具体的な姿があるのか​​、それとも管理すべきシナリオと化してしまったのか、という問題だ。

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*アントニオ・スパダロ神父はイエズス会士でバチカン文化教育省の次官。米ジョージタウン大学の理事で教皇庁立美術文学アカデミーの「ヴィルトゥオーシ・アル・パンテオン」の正会員でもある。

*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年9月3日

・「神の言葉が実現し神の平和が実現するよう、聖母マリアと共に歩もう」菊地・東京大司教の「聖母被昇天の祝日ミサ」説教

2026年8月15日 (土)2026年聖母被昇天祭ミサ@東京カテドラル

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 聖母被昇天祭は、同時に、毎年、平和について深く考えともに祈る機会となる終戦記念日でもあります。また平和旬間の最終日でもあります。

 聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義に基づく祭日で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世がその教義を荘厳に公布しました。

 この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。

 5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと、永遠の命のうちに誕生したこととして、記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ1世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。

 「マリアの被昇天」の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ12世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

 なお私の洗礼名である聖タルチシオは、8月15日が祝日であり、タルチシオを洗礼名に頂いている人は8月15日に今でもお祝いをするかと思いますが、その8月15日が聖母の祭日となったため、典礼の暦上は8月12日へ前倒しになっています。この霊名の祝日のために、私のためにお祝いとお祈りをくださっている多くの皆さまに感謝申し上げます。

 タルチシオという霊名は、私が生まれた当時、父も母も教会で働いていたこともあり、私たち家族が住んでいた岩手県の宮古教会で司牧にあたっていたスイス人宣教師が「聖タルチシオが欧州では侍者の保護の聖人だから」ということで選んでくださったと聞いています。

 以下、本日午後6時から配信している関口教会の聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

【聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2026年8月15日】

 聖母マリアは平和の元后です。

 なぜそうなのかと言えば、聖母マリアは、神の定めた秩序がこの世界に実現するために、人生のすべてを捧げられた方だからであります。

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しておられます。すなわち、神の望まれる世界の実現こそが、平和の達成なのですから、神の意志を実現するために生きるすべての人は、平和を実現するために生きている、と言っても過言ではありません。

 果たして、私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる口実を見つけ出しては、私たち人類は神からの賜物である命に暴力的に襲いかかり、その尊厳をないがしろにしています。

 そのような命の状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物である命はその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。なぜならそれは私たちが作ったものではなくて、神から無償で与えられた賜物であるからです。

 神がご自分の似姿として創造された命には、神の愛が注ぎ込まれています。私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。賜物である命を守るために人生を賭けるかけることこそが、平和を確立するための道です。ですから聖母マリアは、平和の元后です。神の意思の実現のためにすべてを投げ出して人生を捧げたからであります。

 平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受けたときに、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

 教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

 エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と記されています。神の意志が実現する、すなわち平和の実現とは、いかなる状態なのかが、そこに明示されています。

 そこでは、この世界の常識が全く覆され、多くの人から見捨てられ、忘れられ、いらないものとして排除され、社会の中心から追われて周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、慈しみが豊かに向けられていることが記されています。

 聖母マリアがその人生のすべてをかけてその身に引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割でありました。その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって忘れられた人たちへの慈しみに満ちた配慮と思いやりを、この讃歌は高らかに歌っています。

 また神がどこに人間の価値を見い出すのかについて、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りではなくて、人間が価値を見いださない存在のうちにこそ神は価値を見い出すのだと宣言します。

 すなわちすべての命はご自身がその似姿として創造されたものとしてすべからく大切なのだという、神の命に対する価値観が、そこには明示されています。私たち人間が「価値がない」と見なすところに、神はご自分が大切にされる価値を見い出されます。

 エリザベトは「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。神の意志が実現すること、神の秩序が実現すること、つまり神の言葉が実現することこそが、神がよしとされる状態であり、それが神の平和の実現であります。

 弱い存在や異質な存在を排除するところに、平和は実現しません。自分の利益のために他者を犠牲にしても構わない、と判断するところに、真の平和は存在しません。自分の存在を守るために、誰かが犠牲になるのはやむを得ない、と考えるところに、神の平和は実現しません。

 今もまた、私たち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くの命に暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くの命が暴力的に奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。

 それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。その喝采の陰に、どれだけの人が子供や親や親しい人を暴力的に奪われて嘆き悲しんでいることでしょう。戦地で親しい人を奪われて嘆き悲しむ姿を、ニュースなどで目にすることがあります。それをどこかの誰かの悲劇に留めず、その悲しみを私たち自身の心に刻み込みたいと思います。

 2026年5月30日の夕刻、バチカン庭園で行った平和のためのロザリオの集いの終わりのあいさつで、教皇レオ14世はこう述べられました。

 「マリアとともにロザリオの神秘を観想することは、御父が語られた唯一の決定的なことば、悔い改めの心をもって御父に立ち帰るすべての者にとっての平和のことばを、イエス・キリストのうちに見いだすようにわたしたちを導きます。」

 その上で教皇は、「平和は正義と愛からほとばしり出ます。人々と家庭と地域社会と民族を結びつける調和と同じように。この緊張と紛争の時代においても、平和は、平和を奪われた人々の叫び声にわたしたちが耳を傾けるならば可能です… 罪のない子供たち、苦悩のうちにある母親と父親、虐待された受刑者、避難民、あらゆる年齢の苦しむ人々の叫び声に。彼らのすべてが発する言葉はただ一つ、平和です」と述べて、聖母マリアと共に命を守り平和を実現するように祈り行動するように招いておられます。

 命に対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりにし、またその暴力を肯定し、暴力の源である兵器を増強しようとする社会の風潮の中にあって、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日も私たちが生きる道筋を示そうとされています。

 栄光のうちに天にあげられた聖母マリアの御心を想い、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の言葉が実現し、その秩序が確立され、神の平和が実現するように、聖母マリアと共に歩んで参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年8月15日

・「信仰に生きる姿勢を見直し、過去に謙遜に学ぶ者でありたい」—菊地大司教、「平和祈願ミサ」の説教で

2026年8月 8日 (土)2026年平和旬間@東京教区

 日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。

 もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。

 まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。

 以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、私は急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。

平和祈願ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2026年8月8日

 平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは、王にこう言った、と記されています。

 「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)

 こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことで命を危機にさらした事例は私たちの身近にもあります。

 太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。

 そして今、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。

 1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告し続ける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べておられます。

 さらに教皇は、「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。

 「人類は、『自己破壊』という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるものの食い違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません」

 私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。

 教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。

 教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影を潜めてしまいました。」と記しています。

 その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているなら、それは未来への希望のメッセージである、と私は信じています」と記され、「主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだ」と強調しておられます。

 私たち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもって、私たちに突きつけられています。

 人間の命を暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。私たちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそが私たちの本当の姿なのかもしれない、と思ってしまいます。

 今もまた、私たち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くの命に暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くの命が奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。

 東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるとも知れない内戦状態について実情を伺い、『リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしい』と依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。

 私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。

 神がご自分の似姿として創造された命には、神の愛が注ぎ込まれています。神は命を賜物として私たちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですから私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。賜物である命を守るのは、私たちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

 平和旬間にあたり、改めて、私たちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶ者でありましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=何度も繰り返しますが、「命」という漢字は「天を仰いでいただくもの」という深い意味が込められた象形文字です。ひらがなの「いのち」にはそのような意味はありません。もちろん「命」は立派な日本語です。教会の一部にはなぜか「いのち」という表記を好んでか、あるいは何も意図せずにか、使う習慣があるようですが、「カトリック・あい」は、「私」と同様、「命」に表記を統一しています、このことは以前に、菊地大司教に直接申し上げています。)

2026年8月8日

2026年平和旬間 日本カトリック司教協議会会長談話「連帯のうちに平和な世界を築く」

2026年平和旬間 日本カトリック司教協議会会長談話「連帯のうちに平和な世界を築く」

平和を願うすべての皆様へ

戦後81年目となる今年もまた、広島・長崎への原爆投下の日を中心に据える平和旬間を迎えます。わたしたちは毎年この時期に、過去の記憶を胸に刻み直し、現在の世界に目を向け、将来に対する責任を問い直すよう招かれています。あらためて、戦争で亡くなった、また傷つけられた多くのかたがた、壊された自然環境を心に留め、平和の実現を求めて祈りましょう。

日常を見つめ直す
日本の司教団は昨年、戦後80年を迎えるにあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表し、平和への思いをさらに次の世代へとつないでいく決意を表明しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。

わたしたちの生きる世界
1981年、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は広島で、「戦争は人間の仕業です」と訴えられました。わたしたちは今、その「人間の仕業」がいかに世界に襲いかかり猛威を振るっているのかを目撃しています。
ウクライナ、スーダン、ミャンマー、ガザをはじめとする中東地域など、戦争や紛争は世界中に広がっています。これらの戦場で日々傷つき、暴力的にいのちを奪われているのは、わたしたちと同じ、神の似姿として造られた一人ひとりの人間です。
さらに深刻なのは、こうした暴力が「やむをえないもの」として正当化され、国際人道法や人間の尊厳という普遍的な原則がないがしろにされていることです。多国間主義の枠組みも大きく揺らいでいます。かつての戦争の惨禍から、心の叫びとして生み出された「二度と繰り返さない」という人類の誓いは、どこにいってしまったのでしょうか。
日本もまた、大きく変化しています。近年、憲法第9条の解釈は変更され、集団的自衛権の行使が限定的とはいえ容認されています。安全保障環境の変化を理由に防衛費も急激に増大しています。「反撃能力」にも用いられる長射程ミサイルの配備が始まり、南西諸島における自衛隊配備は強化されています。殺傷能力のある武器についても、一定の条件のもとで海外への輸出が原則として可能とされました。「専守防衛」という枠組みは残りながらも、その実質は大きく変化し続けています。戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法の平和主義は、先人たちが戦争の惨禍の中から学び取った大切な知恵です。その精神を、なし崩し的に骨抜きにし、加えて十分な国民的議論も経ないままに軍備増強を進めることが、本当の平和の確立につながるのかどうか、立ち止まって考える必要があります。

平和のために連帯する
この4月16日、アフリカのカメルーンを訪問中に行われた平和の集いであいさつされた教皇レオ十四世は、「わたしたちは、反対の方向へと、すなわち、人間的な兄弟愛に満ちた持続可能な道へとわたしたちを導く、決定的な方向転換を――真の意味での回心を――行わなければなりません」と呼びかけられました。
そのうえで教皇は、「世界は一握りの暴君たちによって荒廃させられています。しかし、世界は連帯する多くの兄弟姉妹によって支えられています」と語りかけ、平和構築のために取り組む多くの人たちをたたえ、その信仰における勇気に見倣い、連帯するように呼びかけられました。
また教皇は、「イエスはいわれました。平和を実現する人々は、幸いであると。しかし、宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言し、宗教間対立を口実として他者のいのちを暴力的に奪う現実に対して、力強く警告されました。
教皇は、アフリカへ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は教会の福音宣教における優先事項であることを明確にされています。
さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。だれかが立ち上り、よりよい方法があるというべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)。

教皇とともに平和への道を歩む
教皇レオ十四世の平和に対するこの立場は、まさしく教会全体の立場です。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、「人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と冒頭で宣言しています。この精神に従って多くの兄弟姉妹と愛のうちに連帯し、いのちを守り、希望を生み出すように、皆様に呼びかけたいと思います。ともに平和を打ち立てましょう。
すべてのいのちは神からの尊いたまものです。国籍も民族も宗教も問わず、すべての人が神から尊厳を与えられています。その尊厳を守ることが、平和の出発点です。平和のために祈り、行動しましょう。いのちの尊さの記憶を語り継いでいきましょう。日々の生活の中で、力のことばではなく愛のことばを選び、愛の文明を育てていきましょう。「あなたがたに平和があるように」と語った主イエス・キリストのいのちの福音を、身近な人々の間で広めていきましょう。
皆様の上に、いのちの与え主である神の祝福と導きがありますように。

2026年7月10日  日本カトリック司教協議会会長   枢機卿 菊地 功
2026年8月3日

・「共に歩まれる『平和の主』に従って行きたい」・8月6日からの平和旬間を前に、菊地東京大司教の年間第17日メッセージ

2026年7月25日 (土)週刊大司教第266回、年間第17主日A

 7月最後の主日は年間第17主日です。

 今週はアジア司教協議会連盟(FABC)の総会のために、インドネシアのジャカルタに来ています。日本からは、司教協議会会長の私と、代表として成井司教様、ガクタン司教様が、また信徒家庭局の秘書として西村桃子さんが一緒に参加しておられます。

 今回の総会のテーマは「シノドス的な回心と宣教への招き。アジアにおける橋となり、また橋を架けるものとなるために」とされており、バチカンからもシノドス事務局のグレック枢機卿が参加するなど、シノドス的な教会共同体のあり方を実践する場となっています。

 また福音宣教省のタグレ枢機卿が、忙しい中ジャカルタまでおいでくださり、二日目に静修を指導してくださいました。総Fb_img_1784808699952会は話し合いというよりも、祈りと分かち合いの場となっています。

 アジア全体から司教協議会の代表や各部局の担当者など150名ほどが参加していますが、詳細は他の報道に譲ります。またアジアの枢機卿は全員参加する権利がありますが、今のところ12名のアジアの枢機卿が参加しています。

 なお、総会に先立ち、四日間ほどフローレス島のエンデ大司教区を、成井司教様と一緒に訪問してきました。フローレス島は、インドネシアの中でもカトリック信徒の多い地域で、エンデ教区のクレドン大司教様は、少し前まで神言会の総会長でした。これについては後日また。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第266回、年間第17主日のメッセージです。

 なお「週刊大司教」の配信は、8月中はお休みとさせていただきます。今の予定では再開を9月5日土曜日と考えております。また8月8日(土)午後の東京カテドラル聖マリア大聖堂における平和祈願ミサと、8月15日夕方の聖母被昇天ミサは、どちらも私の司式で、ネット配信を行う予定です。

【年間第17主日A 2026年7月26日】

 「宝」という言葉には、経済的な価値を持っているという意味だけではなく、他では代えることのできない大切な存在という意味もあります。私たちが生きている世界は、どちらの価値を大切にしようとしているのでしょう。

 マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を語ります。ここでイエスが語る「宝」は、もちろん数字で量ることのできる価値に富んでいる財産としての「宝」ではなく、自分の人生にとって決定的な意味を持つ「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、命を生かす価値のある「宝」であります。

 私たちキリストに従う者にとっての宝は、福音そのものではないでしょうか。なんと言っても私たちに、命という賜物を与えてくださった神ご自身が、神の言葉という宝物として、常に私たちと歩みを共にしてくださっているのです。私たちはこの宝を、人生のすべてを賭けてでも手に入れて従い、さらに多くの人にその宝を分け与える者でありたいと思います。

 間もなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、日本のカトリック教会にとって大きな意味を持つ平和旬間です。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。私たちは将来の世代に対する責任を担うためにも、過去を忘れ去ることのないようにしたいと思います。

 教皇レオ14世は、先般アフリカ司牧訪問へ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「私たちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、私たちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は福音という宝物を大切にしている教会にとっての優先事項であることを明確にされています。

 さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。誰かが立ち上り、より良い方法があると言うべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)

 間もなく平和旬間を迎えるにあたり、この教皇の言葉を想い起したいと思います。私たちが平和を求めて声を上げるのは、それこそが福音という宝物が私たちに求めていることだからに他なりません。

 暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(「カトリック教会のカテキズム」1753項)。「戦争は死です」。賜物である命を生かす神の「宝」から目をそらすことなく、共に歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

2026年7月25日

・「暴力が支配し、賜物の命が危機に瀕する悲劇的現実と向き合おう」-菊地東京大司教の年間第16主日メッセージ

2026年7月18日 (土)週刊大司教第265回:年間第16主日

 今週は成井司教様と一緒に、インドネシアのフローレス島にあるエンデ大司教区を訪問しています。この教区の司教様は、神言会の前総会長であるブディ・クレドン大司教様です。またフローレス島のエンデ教区も、神言会の古くからの宣教地の一つです。

 来週月曜から一週間は、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会がインドネシアのジャカルタで開催されます。こちらの模様はまた、お知らせします。

 本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第16主日のメッセージです。

【年間第16主日A 2026年7月19日】

 現代社会の現実は、まさしく福音が記しているように、「神が望まれている良い麦と、人間の欲望に支配された悪い麦が、混じり合って共に育っている」ような状況です。

 神からの賜物である命に対する暴力が横行する現実の中にあっても、同時にその命を守るために、困窮する他者に手を差し伸べ、共に歩もうとする人も多く存在します。神の愛をその言葉と行いで証しする人も多くおられます。

 暴力が支配し、賜物である命が危機に直面する悲劇的現実があまりに目立っているがために、思わず、「神が悪の存在を容認しているのだろうか」と考えてしまいます。全能の神がそのように容認するのであれば、社会の現実の中で悪と対峙することには、全く意味がないことになってしまいます。

 福音は、「神は良い麦と悪い麦の存在を知っておられるが、それを刈り入れの時まで、あるがままにされているのだ」と記しています。善と悪を明白に峻別できる、その時を待っておられるのだ、というのです。すなわち、命の与え主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではありません。悪がその力を振るうことを容認しているわけではないのです。

 そのことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、私たちは良い麦を一層力強く増やしていく努力をせねなりません。私たちは「ただ荒れ狂う暴力の嵐の前に、力なく傍観する」のではなく、「良い麦を、さらに広く蒔き続ける努力をせねばなりません。私たちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜き取るのに専念することではなく、跋扈する毒麦を凌ぐように、良い麦をさらに広く蒔き続けることです。そのためにも、どこに毒麦があるのかを知り、指摘することには大きな意味があります。毒麦がはびこっているところにこそ、私たちは良い麦を蒔かなくてはならないからです。

 第二バチカン公会議の「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まっています。教会は、現代社会の現実の中で、命の危機に直面し、人間の尊厳を奪われ、生きるための困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたい、と願っています。

 「現代世界憲章」はさらに、「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない」(29項)と記します。

 私たちが生きている世界は、その命をないがしろにし、あまつさえ人間自身が命をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、命を守るどころか、命を奪う暴力が支配しています。

 このような現実の中で、「現代世界憲章」は、全人類との対話のうちに神の福音を証しするために、「教会は、常に『時のしるし』について吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務がある」と指摘しています。社会の現実の中で、神の望まれる世界の実現を妨げている出来事に目を向け、起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点から、そこに示されるしるしを読み取り、共通善を念頭に置いて発言することは、教会の務めです。それこそが毒麦を凌駕するために必要な私たちの務めです。

(編集「カトリック・あい」)

2026年7月18日

・「私たちの語る言葉は、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためにある」菊地・東京大司教の年間第15主日メッセージ

2026年7月11日 (土)週刊大司教第264回:年間第15主日A

 年間第15主日です。この主日、私は、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で主日ミサを捧げることになっています。

 私が生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

 その時の主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

 その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

【年間第15主日A 2026年7月12日】

 今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが普及し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉が弄ばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っている時、私たちは、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

 神の言葉は、常に私たちと共にいてくださる神の現存です。なぜなら、世の終わりまで私たちと共にいてくださる、と約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった」で始まります。私たちの信仰は、「言葉による信仰」です。

 ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(1章10・11節)」と記されている通り、神はご自分の言葉を種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

 私たちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

 今、必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、「言葉には顔があり、心の重みを担っているのだ」ということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人との関わりにおいて、私たち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、最も力のある道具であります。

 神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物である命を徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。命に対して暴力を振るう世界が、神の言葉の種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

 インターネットが普及している現代社会にあって、私たちは、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

 時にキリスト者と言いながら、他者の命や尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、極めて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのか、と悲しく思います。

 私たちの語る言葉こそが、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためにあるのだ、と心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、努めていきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=日本語の正しい使い方も、言葉を大切にし、相手にメッセージが伝わりやすくために必要なことです)

2026年7月11日

・「教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているのか」—菊地・東京大司教の年間第14主日

2026年7月 4日 (土)週刊大司教第263回:年間第14主日A

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 7月になりました。年間第14主日です。

 前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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 28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、私もアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

 その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。

 私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサは聖ペトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサは聖ペトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

 聖ペトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、広場から眺めました。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

【年間第14主日A 2026年7月5日】

 心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見い出されます。私たちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

 現代社会にあって、希望を見い出し、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見れば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながら、そうではありません。

 この現実の中にあって、人と人との出会いの中にあって希望を見い出し、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしも命を生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

 その上で教皇は、「私たちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、何がしかの希望を必要としています。しかし、私たちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、「真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成される」ことを明示されています。

 マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

 教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、「すべての人が同じように考え、仲良く過ごす」というのは、現実的ではありません。

 異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、それでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体が「シノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、共に祈り、聖霊の導きを識別しようとして共に歩もうとするからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。「一人ひとりの優しい性格に頼った仲良し共同体」を目指しているのではなく、「互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、共にイエスに身を寄せ合う」からこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

 残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなく、苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、私も含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、私たちの心に主ご自身が来てくださいます。主と共にある私たちは、主が与えてくださる安らぎを、自らも証しし、行動する道を見い出していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年7月4日

・「神の愛と慈しみをいただいて、行動で十字架を証しするものとなろう」菊地・東京大司教の年間第13主日メッセージ

2026年6月27日 (土) 週刊大司教第262回:年間第13主日A

 年間第13主日となりました。間もなく6月も終わりです。Img_20260626_182056548

 教皇様は臨時の枢機卿会議を招集されましたので、私は昨日の金曜日と本日の土曜日、その会議に出席のため、ローマにおります。また明日の日曜日には、アフリカ、南米、アジアの司教協議会連盟の会議が一日中予定されており、さらに月曜日には、教皇様が司式される聖ペトロ・パウロのミサに枢機卿団は参加することになっています。そのためまだ数日ローマに滞在しております。

 ローマは熱波に襲われており、日中の気温は40度近くまで上がる日が続いています。枢機卿会議はグループセッションのため、参加している180名ほどの枢機卿は11人くらいずつで丸テーブルに分かれていますが、その場所を確保するために、あの広いパウロ六世謁見ホールの前四分の一位を使っています。

 一応冷房はあるものの、非常にマイルドな冷房で(確かソーラー発電を使っているはず)、さすがにこれは、ということで、最初のセッション以外は、黒スータンに赤い帯ではなくて、普通の半袖ローマンカラーシャツでも良いことになりました。高齢の枢機卿も多いので(枢機卿会議には80歳以上もすべて参加する権利があるので)、熱中症で倒れる枢機卿が出ないように祈るばかりです。

 枢機卿会議の詳細は後日に。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第262回、年間第13主日のメッセージです。

【年間第13主日A 2026年6月28日】

 マタイ福音は、イエスに従うと宣言する私たちが、人生の歩みにおいて何を大切にしているのかを問いかけます。

 もちろん私たちは、目の前に苦しみと安楽が選択肢としてあるのであれば、安楽な道を選択してしまう誘惑の中で生きています。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」の中で、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39項)」と語られ、人生の歩みにおける苦しみの意味を記しておられます。

 苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神ご自身が十字架の上で、私たちを愛されるがゆえに苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむ私たちと歩みを共にされていることを思い起こさせます。

 教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていく、という意味においてであります。私たちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。すなわち安楽な道ではなく、苦しみの道を歩み続ける責務があります。

 同時に、福音に記された、「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」という主イエスの言葉の意味は、単に「苦しみを求めている」というよりも、さらに深いところへと私たちを導きます。そもそも「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。あえて苦行を耐え忍ぶことでしょうか。

 マタイ福音に記されたこの言葉は、私たちが主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは受け身的に苦しみを耐え忍ぶことにとどまらず、積極的に前向きな行動を促す言葉でもあります。

 パウロはローマの教会への手紙に、「私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」と記しています。

 主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、私たちは、十字架を通じて主の死に与り、主と共に新しい命に生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛と慈しみを具体的に証しする、栄光と希望を指し示す存在です。

 その栄光と希望は、神がご自分が創造された人間の命を愛するがあまり、自ら十字架の苦しみに歩みを進め、その苦しみを通じて私たちすべてに救い野道を開かれた、目に見える具体的な愛の証しであります。つまり、十字架は、自分のために苦しみことではなく、愛の証しを具体的な行動を持って行うための苦しみであります。

 私たちが神からよし、とされるのは、神の愛と慈しみをいただいて、自らそれを積極的に証しする行動を選択したときです。十字架を証しするものとなりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年6月27日

・「信仰を勇気を持って表明する者でありたい」-年間第12主日の菊地東京大司教のメッセージ

2026年6月20日 (土)週刊大司教第261回:年間第12主日A

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 年間第12主日です。

 この一週間、6月15日から19日まで、定例の司教総会が、潮見のカトリック会館で開催されました。カトリック司教協議会の所在地であり、その事務局であるカトリック中央協議会の置かれている日本カトリック会館は、竣工から30年以上が経過し、全面的なリニューアル工事を一年かけて行っています。全体を半分ずつに分け、現在は上半分の工事中ですので、上半分にある事務担当がすべてした半分に移動しています。そのためいつもの総会会場であるマレラホールも仮設の事務所になっているため、今回の司教総会は、一回にある職員の方々の食堂を利用して会議テーブルを配置し、行いました。

 一日目はフランシスコ会の小高神父様による霊的講話を頂き、その後にグループに分かれて分かち合い、そしてミサを捧げ、さらに夕方には、東京教区で働く宣教師のグループが、潮見教会でバーベキューに招待してくださったので、そこで司教たちと宣教師たちの出会いの場となりました。

Pxl_20260616_085729401-002 また二日目の夕方には司教団と男女の修道会の代表とで、教皇庁大使館を訪れ、司教叙階10周年を迎えたモリナ教皇大使と、誕生日であったジョゼッペ参事官のお二人にお祝いを申し上げる機会がありました。

 さらに三日目には、成井司教様を講師に、インターカルチュアリティについての勉強会も行いました。

 司教総会で決定したことは、この後、カトリック中央協議会の広報や、カトリックジャパンニュースで公開されると思いますので、そちらに譲ります。司教たちのためにいつもお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。お祈りの支えがなければ、聖霊の導きに与ってふさわしい判断をすることも難しくなります。皆さまのお祈りをお願い申し上げます。

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 6月23日は沖縄の慰霊の日です。昨年は80周年ということもあり司教団全員で参加しました(写真右は昨年の魂魄の塔)。81周年の今年も、朝6時から小禄教会でミサがあり、魂魄の塔までの平和行進が行われます。ローマにいるため参加できませんが、当日は沖縄の皆さんに思いを馳せ、心を合わせて平和のために祈りたいと思います。皆さまにも、この日に沖縄の歴史と現実に思いを馳せ、神の平和の確立のために、祈りを捧げられますようにお願い致します。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第261回、年間第12主日のメッセージです。

【年間第12主日A 2026年6月21日】

 先日、6月12日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。それにちなんで、6月は「聖心の月」とされています。

 イエスのみこころは、私たちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出た、と記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水は命の泉であり、新しい命を与える生かす聖霊でもあります。

 イエスのみこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、そこから満ちあふれるご自分の愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、回心を呼びかけた、という出来事があったと伝えられています。

 そして主イエスは「みこころの信心を行うものには恵みが与えられる」と告げ、そのため、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別な恵みがあると教会の伝統は教えています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げた、と伝えられています。

 今日の福音には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉があります。どのような形され力を持って信仰に介入しようとする迫害に立ち向かい、福音に基づく真理を語り続けるように、との励ましです。

 教皇レオ14世ご自身が、その模範を示しておられます。信仰に基づいて発言された神の平和への望みに対して、大国の政治家が現実離れしている、と批判され、一般社会でも論争を呼んでいます。しかしながら教皇は、平和への思いを語ることを止めようとはされませんでした。

 教皇は先般アフリカを訪問された際、「宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言されました。その上で、「平和は、隣人を自分の兄弟姉妹として受け入れることによって抱きしめなければならないものです。私たちは自分の兄弟姉妹を選びません。ただ、互いに受け入れ合わなければならないのです。私たちは同じ家に住む、一つの家族です」と呼びかけられました。

 私たちは同じように、この世の力の前で恐れることなく、信仰を表明できているでしょうか。それは単に、「神を信じているのです」と表明することにとどまるのではなく、信じていることに基づいて「どう生きようとしているのか」を具体的に表明することです。

 イエスのみこころが、今、この社会の現実の中で、私たちにどのように生き、どのように行動し、どのように語ることを求めているのか、見つめ直しましょう。信仰を勇気を持って表明する者でありたい

と思います。

(編集「カトリック・あい」)
 

2026年6月20日

・「共に助け合いながら、互いの絆を深め、『働き手』としての役割を果たそう」菊地・東京大司教の年間11主日メッセージ

2026年6月13日 (土)週刊大司教第260回:年間第11主日A

2026_06_07_m_066 年間第11主日です。

 6月15日から17日までフランスのエビアンで開催される主要7か国首脳会議(G7サミット)に先立ち、G7各国のカトリック司教協議会会長が、連名で「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」と題した声明を発表しました。声明の日本語訳(サマリー)はすでに中央協議会のホームページに掲載され、声明全文は翻訳中です。

 声明の策定はフランス司教協議会会長、アブリーヌ枢機卿の呼びかけで始まり、1か月以上かけてオンラインで何度か会議を重ね、作成されました。最終文書はフランス語で書かれ、フランス語と英語が正本です。

 なおこの声明は、以下の署名した司教協議会会長の声明であり、各司教協議会の総意ではありません。

 署名者は、ジャン=マルク・アブリーヌ枢機卿(フランス・カトリック司教協議会会長)、私(日本カトリック司教協議会会長)、マッテオ・マリア・ズッピ枢機卿(イタリア・カトリック司教協議会会長)、ポール・コークリー大司教(米国カトリック司教協議会会長)、リチャード・モス大司教(イングランド・ウェールズ・カトリック司教協議会会長)、ピエール・グードロー司教(カナダ・カトリック司教協議会会長)、ジョン・キーナン司教(スコットランド・カトリック司教協議会会長)、ハイナー・ウィルマー司教(ドイツカトリック司教協議会会長)、賛同者:マリアーノ・クロチアータ司教(欧州連合=EU)司教協議会連盟会長)です。

 以下13日午後6時配信、年間第11主日のメッセージです。

【年間第11主日A 2026年6月14日】

 「収穫は多いが、働き手が少ない」。神の国の完成のために、私たちが地上ですべきこと、しなければならないことは、神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしている私たちへの警告の言葉です。

 このイエスの言葉について、特に「働き手が少ない」という部分に注目して、司祭や修道者という、いわば専門職にある存在への召命が増大するように、と祈ることが求められていると解釈することもできますが、私はそれよりも、「収穫は多い」という言葉に注目しています。

 私たちが福音の実現のためにしなければならないことは多い。それに取り組むための働き手がもっと必要なのです。そしてそれは司祭や修道者という専門職だけではなくて、「キリストに従う」という意思を表明している私たちキリスト者すべての務めであります。私たち一人ひとりが、どのように、この言葉に応えるかが問われています。

 もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

 教皇レオ14世は先日新しい回勅「マニフィカ・フマニタス」を公布され、人工知能(AI)の倫理性について信仰の立場から踏み込まれました。それに先立って発表された今年の世界広報の日のメッセージに、次のような一節があります。

 「新たなAIシステムがもたらすもう一つの大きな問題は、バイアス(注:誰もが陥りがちな思考のクセや思い込み)です。バイアスは、現実に関するゆがんだ認識の獲得と伝達をもたらします。AIモデルは、それを構築する人々の世界観によって形成されます。そして、それが用いるデータにおける固定観念や偏見を複製することによって、思考様式を押しつける可能性があります… AIは、私たちの顔と声を自分のものとすることにより、並行的な「現実」を作り出すことで私たちを欺くことさえありえます。私たちは多次元世界の中に沈められ、現実と虚構を区別することがますます難しくなっています」。

 私たちは「人工的に生み出された虚構」の中に生きる危険性に直面しています。その中で、人間の存在は具体的な声と顔を失い、痛みや悲しみを訴える心は失われ、本当の希望や喜びに到達することができなくなる可能性があります。私たちは、現実の中にある、人々の心の叫びに耳を傾け、それを心に刻む者でありたいと思います。神が働き手を求めている収穫は、虚構の世界ではなく、現実世界の中に存在しています。

 私たちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手は私たちです。私たちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜなら、キリストの体である共同体にこそ、命があるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、私たちを生かす源である命があります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。共に助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの課題に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年6月13日

・「ご聖体をいただく私たちはキリストにおける一致を証しするものとなろう」—菊地・東京大司教の「キリストの聖体の主日」

2026年6月 6日 (土)週刊大司教第259回:キリストの聖体の主日A

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 キリストの聖体の主日です。三位一体の主日の週の木曜日が、キリストの聖体の祝日とされ、ラテン語の呼び名で、「Corpus Christi」と言われます。もっとも、キリスト教国を含め現代の多くの国では週日に集まることが難しいので(国家の休日であれば別ですが)、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもキリストの聖体の「主日」となります。

 キリストの聖体の主日と言えば、多くの国、特に伝統的キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存にともに感謝をささげ、主イエスとの一致の誓いを新たにするために、大規模な聖体行列が行われます。

 主御自身の現存であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の力強い証しとなります。キリスト者が少数派の日本で、同じような意味での聖体行列が町中を練り歩くのは難しいのですが、機会が整い、ご聖体への冒涜の恐れを避けることができるのであれば、東京でも聖体行列をすることができれば良いと思っています。

 また日本ではちょうど梅雨の始まりの時期でもあり、天候という別なチャレンジもありますが、機会をみて実現できればと思います。皆が主イエスの現存に敬意を表し、礼拝することが重要な目的であることを忘れてはなりません。

 またキリストの聖体の主日にあたり、信仰を守ることやそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が尊重されていない国で、また神からの賜物である命に対する暴力が横行し、人間の尊厳がないがしろにされている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に信じる者と共にいてくださり、私たちの信仰における兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。

教皇レオ14世の新しい回勅「マニフィカ・ウマニタス」発表の記者発表(2026年5月25日)における、教皇様のメッセージが邦訳されています。またカトリックジャパンニュースにも詳報されています。回勅本体の邦訳は、夏前にはできあがるものと思いますが、ひとまずこれらをご一読ください。

 以下、6日午後6時配信、週刊大司教第259回、キリストの聖体の主日のメッセージです。

【キリストの聖体の主日A 2026年6月7日】

 レオ13世の回勅「レールム・ノヴァールム」公布から135年目となる5月15日、教皇レオ14世はご自分の回勅「Magnifica humanitas」を発表されました。教皇は回勅の冒頭で、「神が創造された素晴らしき人類は、今日、決定的な岐路に立たされている。それは新たなバベルの塔を積み上げるか、あるいは、神と人類が共に暮らす国を築くかという選択である」と記し、人工知能(AI)の課題に教会が取り組む必要性を強調されています。

 レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を、「教皇レオ十三世が… 歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです」と述べておられました。

 レオ14世は、教皇に選出された当初から「平和」の構築とともに、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。

 今年の世界広報の日のメッセージにおいても、教皇は神ご自身が私たちに語りかけられるその言葉は、「神の子イエスの声とみ顔のうちに私たちに知らされた」と述べておられます。

 私たちの信仰は、デジタルの世界によって生み出される仮想現実の中にあるのではなく、生きている人間の具体的な交わりの中に存在しています。その意味で、ご聖体の秘跡は、何か想像の産物ではなく、まさしくそこに、主イエスが具体的な「声とみ顔」を持って実際に存在し、私たちを主との交わりに日々招いてくださる、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であります。(教会憲章11項)

 キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、私たちとともに常におられます。それは想像の産物ではなく、具体的な声と顔を持つ具体的な存在です。

 パウロは「コリントの教会への手紙」で、「私たちが裂くパンは、キリストの体に与ることではないか。パンは一つだから私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

 私たちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血に与ることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体に与ることではないか」と記しています。

 私たちがキリストの体と血に「与る」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体に与り、命を分かち合い、愛を共有する、という「交わり」の中で生きている信仰です。

 ご聖体をいただく私たちは、そこに実際に存在しておられるイエスと出会い、共ににその秘跡に与った兄弟姉妹として、キリストにおける一致を証しするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、私たちの信仰が具体的に生きている主との交わりのうちにある生きた信仰であることを再確認するように、私たちに求めています。

(編集「カトリック・あい」)

2026年6月6日

・「三位一体の神秘とは、ありとあらゆる手を尽くして愛と慈しみを私たちに降り注ぐ、神の愛の力」菊地・東京大司教の三位一体の主日説教

2026年5月30日 (土)週刊大司教第258回:三位一体の主日A

 三位一体の主日となりました。駐日教皇大使を務められるエスカランテ・モリナ大司教様は、司教に叙階された10年を迎えられました。司教で10年ということは、教皇大使になって10年ということですが、もちろんその前に日本やガーナを含むいくつかの大使館で、参事官としての経験を積んでこられました。

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 モリナ大司教様の10周年感謝ミサが、先日5月28日夜、六本木のフランシスカン・チャペルセンターで捧げられ、司教団からは前田枢機卿様、ガクタン司教様、勝谷司教様、そして私が参加しました。また東京教区で働く大勢の宣教師や、駐日の各国大使も参加され、ともに喜びを分かち合いました。モリナ大司教様、おめでとうございます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第258回、三位一体の主日のメッセージです。

【三位一体の主日A 2026年5月31日】

 三位一体の主日、第一朗読は出エジプト記からとられています。神がモーゼに与えられた掟が記された最初の石の板は、民の裏切りの前で砕かれてしまいました。それに対して神は、神に選ばれた民を代表してゆるしを願うモーセに対して、今一度、掟の石の板を与えるにあたり、ご自分が誰であるのかを明示され、こう宣言されています。

 「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと誠に満ちた者」

 ヨハネ福音は、神が、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、「神が御子をこの世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記しています。

 確かにキリスト教にはいくつもの掟があり、罪を重ねることで裁きを受けると教えています。そのためにキリスト教とは、罪人を厳しく裁く共同体だと理解している人すらいます。しかし今日のこの出エジプト記やヨハネ福音に記された言葉から明白なのは、私たちの神は、徹底的に憐みに富み、忍耐強いという、その慈しみの側面こそが、神の姿であることを教えています。

 もちろん福音は、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と記して、何でもかんでも無条件に良し、とする訳ではないことも明確にし、独り子であるイエスの言葉と行いに従う者にこそ救いが与えられていることも、はっきりとさせています。私たちへの神の徹底的な愛と慈しみのうちに、私たちは生かされ、イエスに従うことで救いへの道を歩んでいくことができます。

 これほどの愛と慈しみに包まれているにもかかわらず、この社会の中に、さらには教会共同体の中にでさえ、神を信じていると言いながら、互いを裁き、対立し、分裂が生じるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、神の正義は貫徹されなければなりません。不正に目を塞ぐことはふさわしい態度ではありません。しかし同時に私たちの神は、憐みと慈しみに満ちあふれた共同体であることを求めます。

 ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、皆さんと共に」と呼びかけます。

 この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。今を生きる私たち教会は、パウロのその締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、すなわち、「兄弟たち、喜びなさい。完全なものになりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と呼びかけた地点から、常に新たなスタートを切っています。

 教会は、主イエスの恵みに与り、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされ続けていきます。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛と慈しみを私たちに降り注ぐ、神の愛の力そのものです。

 私たちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。私たちは、過去に戻りません。私たちは神の愛と慈しみによって与えられる命を生きる希望を掲げ、互いに支え合いながら、歩み続ける現代の神の民であります。

(編集「カトリック・あい」)

2026年6月1日

・「聖霊は、教会共同体に多様性における一致をもたらす」-菊地・東京大司教の聖霊降臨の主日メッセージ

2026年5月23日 (土)週刊大司教第257回:聖霊降臨の主日

  聖霊降臨の主日です。東京教区では、聖霊降臨の主日の24日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式を行います。今年は70名を超える方が一緒に堅信を受けられる予定です。

 この一週間は、国際カリタスの年に5月と11月の二回行われる理事会(代表委員会)の1回目が、インドネシアのラブアンバジョで開催されたため、出かけておりました。コモドドラゴンで有名でもあるラブアンバジョは、カトリック人口の多いことで知られるフローレス島にあり、以前はルテン教区の一部でしたが、2024年6月にルテン教区から分離独立して、ラブアンバジョ教区となりました。教区司教はマクシムス・レーグス司教様です。まだ誕生して二年の教区です。

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 今回は会議に先立って、ラブアンバジョ教区のカテドラルで国際カリタスの75周年と、カリタス・インドネシアの20周年、そしてカリタス・ラブアンバジョの2周年を祝い、感謝のミサを捧げました。司式と説教は私が担当させていただきました(ミサは英語)。

 ちょうどカリタス・インドネシアの運営委員会も同じ時に予定され、インドネシアの司教協議会会長のアントニ

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ウス・スビアント司教様はじめルテン教区のシプリヌアス司教他数名の司教様方もこのミサにご一緒くださいました。インドネシアは聖歌隊が上手なことで知られていますが、ラブアンバジョのカテドラル聖歌隊も、素晴らしい歌声と美しいハーモニーでした。

 またそれに先立ち、カナダのカリタスの支援で行っているコミュニティ農業プロジェクトを国際カリタスの参加者皆で訪問しました。

 ラブアンバジョから数台のハイエース・バンに分乗して二時間。到着したダタック村の聖テレサ教会で大歓迎を受け、実際に農場でレーグス司教様と一緒にほうれん草を収穫させていただきました。

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 カリタスは世界的なNGOであることは間違いありませんが、決して上から何かを持ってくるだけの組織ではありません。カリタスは教会なしではあり得ませんし、逆に教会もカリタスなしは考えられません。

 教皇ベネディクト16世が「神は愛」で記されたように、カリタスの業は教会の本質的部分であり、オプションではありません。そしてカリタスは、こういった地域の教会共同体に根ざした小さなプロジェクトの積み重ねで出来ている組織です。地域の共同体に根ざしたプログラムなしに、カリタスの存在は考えられません。だからその地域で関わっている人たちと一緒に、皆で胸を張って「We Are Caritas(私たちはカリタスだ)」と宣言するのです。

 以下、23日午後6時配信、週刊大司教第257回、聖霊降臨の主日メッセージです。

 【聖霊降臨の主日A 2026年5月24日】

 シノドス(共働)的な教会のあり方をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)第16回総会において、教皇フランシスコは、しばしば、「皆さんの意見が聞きたいのではありません。聖霊が何を語っているかが知りたいのです。聖霊が主役です」と発言し、参加者を驚かせました。

 ともすれば現代社会の中で生きる教会は、現代社会の価値観の中にある組織体として、今の時代の常識が求める道を歩まざるを得ません。どうしても明確な行動計画や目標がないと、私たちは安心できません。それに対して教皇フランシスコは、状況分析や統計など人間の知恵では知り得ない神の導き、聖霊の声に耳を傾けるという、私たちの信仰の本質を忘れてはならないと強調されていました。

 第二バチカン公会議の「教会憲章」に、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、 あたかも神殿の中にいるかのように住み… 福音の力をもって教会を若返らせ、絶えず新たにし、 その花婿との完全な一致へと導く」という言葉があります。教会とは「建物や人の集まり」のことではなく、時の流れの中を旅する神の民のことであり、その神の民の中に聖霊が働き、導いているのだ、と教えています。

 だからこそ、聖霊が今、私たちをどこに向かって導いているのかを模索し、知ろうとしなければならない。それが霊的な識別です。その識別によって、たとえわずかのことしか分からないとしても、また教会運営の現実的な様々なしがらみに囚われているにしても、常に神の民の中で働く聖霊が、どこに向かって教会を導いているのか。それを知ることが教会が教会であるために必要なのだと、教皇フランシスコは繰り返されていました。

 今、2028年10月に開催される評価のための総会に向けて、それぞれの共同体で具体的な実施段階にあるのですが、残念ながら「具体的には何をすれば良いのかが明確ではない」という理由で困惑する声も聞かれ、中には「教皇フランシスコの帰天とともにこのシノドスは終わりだ」という雰囲気すらありました。しかし今年1月初めの臨時枢機卿会を、まさしくこのシノドス的な霊における会話の手法で実施することで、教皇レオ14世は、教皇フランシスコが備えたシノドスの歩みの道を、粛々と継続することを明示されています。

 使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事の特徴はいったいなんでしょうか。

 まず、聖霊は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ところで働いています。すなわち、聖霊は単独で一人ひとりに他者と無関係に働くのではなく、共同体が一致しているところに働いています。そして、その時には、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた」と記されています。激しい音は周囲にも響き渡り、「この物音に大勢の人が集まってきた」とも記されています。すなわち、聖霊が働いているところは静寂が支配しているのではなく、騒々しさが支配しています。

 重要なのは、聖霊によって生かされ常に刷新されている教会は、聖霊が働いているのですから、決して落ち着いた静かな教会ではあり得ません。騒々しい、落ち着かない教会です。一人でそんなところに取り残されたのなら、耐えきれない騒々しさかもしれません。だからこそ、聖霊は一致して集っている共同体に働くのです。互いに支え合い、助け合い、共に歩む兄弟姉妹がいるところに働くのです。聖霊は教会共同体に、多様性における一致をもたらします。

(編集「カトリック・あい」)

2026年5月23日

・「共に歩む神の民のシノダル(共働的)なあり方を深めること抜きでは”数字”に意味はない」菊地・東京大司教の主の昇天の主日メッセージ

2026年5月16日 (土)週刊大司教第256回:主の昇天の主日A

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 主の昇天の主日です。この一週間は、バンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の信徒家庭部局(OLF)が主催して、アジアの現実の中で家庭に対する使徒職を考察するシノドス(共働)の集いが行われました。

 教皇様は使徒的勧告「愛のよろこび(Amoris Laetitia)」の10周年を記念する会議を10月に開催することを発表されていますが、今回の集いもこの文書の精神が宣教の現場でどう生かされているかについて、講演と参加者による霊における会話が行われました。

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 アジア各地から大勢が参加されましたが、日本からは青年司牧を担当しているアンドレア・レンボ司教様が代表として参加。日本の現状について発表されました。

 またこの信徒家庭部局の秘書は西村桃子さんが務めており、当然西村さんも参加して初日の司会を務め、さらに私もFABC事務局長として開会のミサを捧げるために、三日間だけ出かけてきました。

 また私が会長を務めるカトリック美術協会の恒例の「カトリック美術展」は、今年第70回を迎え、15日(金)から20日(水)まで、有楽町マリオン11階、朝日ギャラリーで開かれています。

 初日のオープン時に会場を訪ね、出品作品を鑑賞させていただきました。また当日来られていた出品メンバーの方々からは、作品の解説をいただきました。美術に何らかの形で携わっておられる皆さんには、是非、カトリック美術協会のことも心にかけていただけると幸いです。

 以下、16日午後6時配信、週刊大司教第256回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

【主の昇天A 2026年5月17日】

 「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい」と、福音宣教へ旅立つように弟子たちに命じる復活されたイエスの言葉を、マタイ福音は記しています。その言葉とともに、復活された主は昇天されたと、使徒言行録は記しています。

 イエスは、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教え」ることが、「すべての民を私の弟子に」することなのだと明示されています。

 主の受難と死と復活に与り、新しい命へと招かれたわたしたちには、福音を告げ知らせる使命が与えられています。イエスをキリストと信じ、その弟子として従う一人ひとりには、福音宣教の使命が与えられています。私たちの責任です。

 しかし同時に、その責任は私一人に課せられる重荷ではなく、キリストの体である教会に与えられている使命です。なぜなら、福音とは喜びの便りであって、苦しみの重荷ではないから、に他なりません。

 そして私たちは、1人で喜ぶことはできません。喜びは関わりの中から生まれます。だからこそ、復活されたイエスが弟子に約束された「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という約束の言葉が思い意味を持つのです。私たちは共に歩んでくださる主との関わりがあるからこそ、喜びを心に抱きます。

 そして主御自身が弟子たちと共に歩まれたように、現代の私たちは主がともに歩まれる教会共同体の中の関わりによって、心に喜びを抱きます。命を生きる希望を抱きます。そしてその喜びと希望を、教会は共同体の存在を通じて、この世界のただ中で、証ししていきたいのです。その歩みには、主イエスがいつも共におられます。まさしく教会がシノドス(共働)的であろうとすることの意味はそこにあります。

 2024年10月まで二回にわたって会議が開かれた世界代表司教会議(シノドス)第16回定例総会の最終文書には、神の民が福音を告げ知らせる喜びの共同体となるために、「教会のシノダル(共働的)なスタイルを身につける養成が、洗礼によって授かった賜物は、すべての人のために実らせるべき才能であるという自覚を促す信仰の継続的な養成が不可欠だ」と指摘しています。

 そのうえで同文書は、「それぞれの人の人生には、主との関わりや教会の交わりへと導かれるきっかけとなった、さまざまな・・・出会いがあります。・・・宣教する主の弟子となることは、一度で達成される目標ではありません。それは、絶えざる回心と、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで愛を成長させること、そして、信仰の喜びの証しのために聖霊の賜物へと開かれていること」が必要だと指摘しています。

 宣教へと派遣された私たちは、話のテクニックを深めたり、神学的知識を豊かに蓄えたりしなければ、その使命を果たすことができない、と考えてはなりません。神の民としての私たちの教会共同体を、シノドス(共働)的な共同体として常に育てること自体が、福音を豊かに証しする旅路の第一歩です。

 もちろん洗礼の数は重要です。ミサに与る信徒数は重要です。しかしそれ以上に、「いつもあなた方と共にいる」という主の言葉に信頼し、共同体として共に支え合い、祈り合い、識別のうちに共に歩む神の民のシノドス的あり方を深めること抜きでは、数字に意味はありません。

 

(編集「カトリック・あい」=多用されているひらがな表記は、意味を捉えやすく、また読みやすくするために当用漢字表記に改めました。また、「シノドス流」などという表現は、シノドス第16回定例総会の最終文書の正式文書の表題にはありません。それよりも、この文書の出所を明確にすることが重要なので、「・・・第16回定例総会の」を入れました)

2026年5月16日