・「四十日間、互いに支え合う心で愛の業を証しつつ歩み続けよう」菊地大司教、四旬節第一主日

2024年2月17日 (土)週刊大司教第156回:四旬節第一主日B

  今年は復活祭が3月の末日と、例年より早い暦となっているため、既に四旬節が始まりました。先日の水曜、2月14日が灰の水曜日でした。2月18日の日曜日は、四旬節第一主日です。

   四旬節は、信仰の道を歩んでいるものにとって、ふさわしく神の方向を向いて歩んでいるのかどうかを見つめ直す回心の時であり、同時に、復活徹夜祭での洗礼式を目指して、洗礼の準備を続けてきた方々が、個人の信仰における決断の最後の仕上げとして、教会共同体と歩みを共にし始める時でもあります。

    多くの小教区で、四旬節第一主日に洗礼志願式が行われますが、これは洗礼への準備が、個人的で内面的な準備の段階から、共同体としての歩みに向けた公の準備の段階に移行したことを象徴しています。四旬節の間、教会共同体は、新しく共同体の一員となろうとしている人たちと、一緒に歩む道のりを開始します。信仰における仲間を迎え入れるプロセスが始まったと認識ください。

Img_20240214_105323707 この一週間、日本の司教団は定例司教総会を行いました。今回は、昨年12月に司教叙階されたアンドレア・レンボ司教様にとって、初めての司教総会でした。日本の司教全員が集まり、様々な課題について議論し、また共に学び合いました。

 議決などについては、今後、カトリック新聞などで広報されることになりますので、そちらをご覧ください。なおレンボ司教様は司教団の中で、司祭生涯養成委員会のメンバーとして関わってくださることになりました。私たち司教団のためにお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。

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 2月12日午前中に、東京教区内で活動するカトリックスカウトが東京カテドラルに集まり、BP祭ミサが捧げられました。ミサは私が司式いたしました。久しぶりに聖マリア大聖堂に一杯のスカウトが集まり、互いの絆を確認しました。

 BP祭は、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、その誕生日が1857年2月22日であることから、それに近い日を選んで行われています。今年は5月に代表団がケルンを訪問することにもなっており、その方々へのエールも送られました。

 既報ですが、この東京のカトリック・スカウトの代表団は、ケルンでの「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください

 以下、17日午後6時配信、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日B 2024年2月18日】

 マルコ福音は、イエスの物語を簡潔に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた話で始め、そして荒れ野における40日の試練の物語と続けています。この簡潔な荒れ野の試練の物語のなかで、福音は三つのことを伝えようとしています。

 まず第一に、イエスは聖霊によって荒れ野へと送り出されました。荒れ野とは、普通で安全な生活を営むことが難しい場であります。命を危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていることが容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身を委ねました。聖霊の働きと導きに恐れることなく完全な信頼を寄せるイエスの姿勢が記されています。

 そして第二に、40日にわたって荒れ野でサタンの誘惑を受けられた、と記されています。逃げ出すことができたのかも知れません。しかし聖霊の働きと導きに完全に身を委ねられたイエスは、困難に直面しながらも、御父の計画に信頼し、その計画の実現のために配慮される御父への信頼のうちに、希望を見い出しておられました。

 三つ目として、イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれながらも、天使たちに仕えられていた、と記されています。すなわち困難に直面する中で、聖霊の働きと導きに身を委ね、御父の計画に信頼を置くものは、神の愛に基づく配慮に完全に包み込まれ、それが為に命の危険から守られることが記されています。

 荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、信仰、希望、愛を改めて見い出し、それを確信し、そこから力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見い出した時、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出されました。

 四旬節は、私たちが信仰の原点を見つめ直し、慈しみに満ちあふれた御父の懐に改めて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。私たちも、信仰、希望、愛に生きている自分の信仰を見つめ直すことで、神のあふれんばかりの愛と慈しみのうちに生かされていることを改めて確信し、その確信に基づいて、この世界で福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出すよう招かれています。

 その為に教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行いで、自分の信仰の振り返りをするように呼びかけています。また四旬節に行われる献金は、特に教会共同体の愛の業を目に見えるものとする象徴です。日本の教会では、四旬節の献金はカリタスジャパンに送られ、国内外の愛と慈しみの為の業に使われていきます。

 皆さん、この四十日の期間、互いに支え合う心をもって、愛の業の証しの内に歩み続けましょう。私たちの信仰は知識だけで終わるものではありません。

(編集「カトリック・あい」=原則として、日本人一般に使われている当用漢字表記で統一し、読みやすく、意味を取りやすくしました)

2024年2月17日

・「イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするように」菊地大司教、年間第6主日

2024年2月10日 (土)週刊大司教第155回:年間第6主日B

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 メッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、世界病者の日でもあります。

 教皇様はこの日にあたり、世界病者の日のメッセージを発表されています。こちらをご覧ください

 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2月11日の午後2時から、カリタス東京が主催して、世界病者の日のミサが捧げられます。今年の司式は、アンドレア補佐司教様です。

 以下、10日午後6時配信の週刊大司教第155回目のメッセージ原稿です。

【年間第六主日B 2024年2月11日 世界病者の日】

 マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の「御心ならば、私を清くすることがお出来になります」という叫びに対して、イエスが「深く憐れんで」、奇跡的に病気を治癒した物語を記しています。

 よく知られているように、このイエスの心持ち、すなわち、ここで使われる「深く憐れんで」という言葉の原語は、「はらわたが激しく動かされる様をあらわす語」であります。つまり、病気であることだけではなくそれに伴って社会の中で周辺部に追いやられその存在すら否定されている人に対するイエスの深い憐みと慈しみの心がこの言葉で明らかにされています。

 主イエスによる病者の癒しは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまった命を、癒し、慰め、絆を取り戻し、生きる希望を生み出した業でもあります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののく命に、歩むべき道を見い出す光を照らし、その命の尊厳を回復する業であります。神が与えられた最高の賜物である命の尊厳を明らかにしている、まさしく神の栄光を現し、神の慈しみと愛を明確にする業であります。

 今年の年間第六主日は、世界病者の日であります。1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日です。聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出しています。湧き出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、命を生きる希望と勇気を生み出す源となっています。

 この日を世界病者の日と定められた教皇聖ヨハネパウロ2世は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。この二つの意向を忘れないようにいたしましょう。

 今年の世界病者の日のメッセージにおいて教皇フランシスコは創世記に記された「人が独りでいるのはよくない」という言葉を取り上げ、「関係性を癒すことで、病者を癒す」をテーマとされました。

 メッセージで教皇は、「孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになる」と指摘し、その上で、「病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神との関わり、他者―家族、友人、医療従事者―との関わり、被造物との関わり、自分自身との関わり、そうしたすべての関係をケアすること」なのだと強調されます。病気に苦しむ人の叫びを耳にして深く憐れまれたイエスに倣い、私たちも、イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするように務めたいと思います。

(編集「カトリックj・あい」)

2024年2月10日

・「悪の束縛を解き放ち、喜びと希望を生み出すために出向く教会でありたい」菊地大司教、年間第五主日

2024年2月 3日 (土) 週刊大司教第154回:年間第五主日B

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 年の初めは普段以上に時間が早く過ぎ去る気がいたします。年度末ということもあるのでしょうが、あっという間に三か月が終わって、呆然とすることがしばしばです。今年はご復活が三月の末日となっていますから、すでにあと数日で四旬節となります。いつにも増して、典礼の暦が早く進む年になりそうですが、ここは心を落ち着けて、霊的には、じっくりと歩む時としたいと思います。

 千葉県の白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道院で、シスター・マリア・ファウスティナ小林清美さんが、2月2日、主の奉献の祝日に終生誓願を宣立されました。訪日中のアンゴラのゼフェリーノ大司教様他、チャプレンの野口神父様、西千葉・千葉寺・茂原の福島神父様、小田神父様が参加しました。おめでとうございます。

 こちらのリンク記事は2年前に、茂原教会訪問後に修道院を初めて訪問させていただいたときの日記です。九十九里浜のすぐそばです。この修道会の特筆ずるべき特徴については、このリンク先の2022年の日記の後半をご一読ください。下の写真、私とゼッフェリーノ大司教のあいだがシスター・マリア・ファウスティナ小林、写真の右端が院長様。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第154回、年間第5主日のメッセージ原稿です。

【年間第五主日B 2024年2月04日】

 マルコ福音は、カファルナウムで福音を告げるイエスの姿を描いています。

「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」

 イエスは、権威のある言葉を語り、人々が驚くような業を行います。弟子となったシモンの姑の熱を去らせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取りつかれた人が、癒やしを求めてイエスのもとに集まってきた様子が描かれています。

 もちろん「病いの癒やし」という出来事自体は奇跡であり、驚くべき出来事ですが、それ以上に、人生の中で困難を抱え、絶望に打ちひしがれている人たちが、イエスのもとで安らぎを得、生きる希望を見い出したことにこそ、重要な意味があると思います。権威あるイエスの姿は、同時に愛と慈しみに満ちあふれた姿でもありました。

 押し寄せてくる人生の困難を抱えた人たちを目の当たりにした時、イエスはそれを放置することはできなかった。命をより良く生きることを阻んでいる悪によって囚われの身にある人たちを解放されました。

 パウロはコリントの教会への手紙に、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」と記し、「福音のためなら、私はどんなことでもします」と宣言しています。

 パウロの宣教への姿勢は、イエスと全く同じように、「教え導いてやろう」という上からの目線の態度ではなく、困難を抱え希望を失っている人たちと同じ地平に立ち、全力を尽くして神の救いの希望に与ることができるように、束縛から解放しようとする、手を差し伸べる姿勢です。

 だからこそ、イエスもパウロも、一つのところに留まって褒め称えられるのではなく、一人でも多くの人に「生きる希望」を生み出すために、全力を尽くして出向いて行かれます。教皇フランシスコが、教会は「出向いていく教会であれ」と呼びかけるゆえんです。そのイエスの姿に倣って、私たちも神の愛と慈しみを伝え、希望を生み出し続けるものでありたい、と思います。

 2月5日月曜日は、「日本26聖人殉教者の記念日」に当たります。「自分の十字架を背負って、私に付いて来なさい」と呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じて命の福音を身をもって証しされた聖人たちです。

 聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前で証しされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、命の福音にあることを証しされた方々です。

 私たちは、「そのすべてを賭してさえも守り抜かなくてはいけない福音に生きるように」と、聖なる殉教者たちに招かれています。全力を尽くして、絶望のうちにある人たちの元に駆け寄り、困難を生み出す悪の束縛から解き放ち、喜びと希望を生み出すために、出向いていく教会でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一、また脱字は修正してあります)

2024年2月3日

・「神の言葉を具体的に証しするキリスト者であり続けたい」菊地大司教の年間第四主日

2024年1月27日 (土)週刊大司教第153回:年間第四主日B

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  今年の年間第四主日は一月の最後の後曜日となりました。東京教区にとっては「ケルン・デー」であり、教会全体にとっては「世界子ども助け合いの日」であります。

     東京教区とケルン教区の友好関係は、今年で70年となります。それを記念した公式巡礼(4月にローマとケルンを巡る10日間)も企画され、さらにボーイスカウトの代表がケルンに招かれている企画もあります。東京教区とケルン教区の関係については、メッセージでも触れていますが、教区ホームページのこちらをご覧ください。(写真は、2018年12月にケルンを訪問した際、ケルン教区大司教のヴェルキ枢機卿様と)

 また今年も、関口教会の1月28日・第四主日午前10時の大司教司式ミサには、ドイツ語共同体や支援しているミャンマー共同体の方々も参加され、ケルン教区からも代表が参加します。

 また偶然ですが、私の長年の友人であるアフリカのアンゴラのフアンボ大司教区のゼッフェリーノ・マルティン大司教様が、ちょうど東京を訪問中で、この日のミサにご一緒いただけることになっています。その昔、私がまだガーナで働いていた当時、神学生だったゼッフェリーノ大司教様が、研修で、ガーナに来た頃からの知り合いです。一週間ほど滞在される予定です。アンゴラの教会のことも、どうぞ心に留めていただけると幸いです。

Img_20240127_144919598_hdr 今年10月に開催されるシノドスの第二会期に向けて、各国は5月15日までに報告書を提出するようにバチカンの事務局から要請されています。その第二会期に向けた日本における取り組みについて、司教協議会のシノドス特別チームが三つの提案をしていますので、それについては中央協議会のホームページのこちらをご覧ください

 また1月25日に教皇様は、日本に駐在する新しい教皇大使を任命されました。新しい教皇大使はフランシスコ・エスカレンテ・モリーナ(Francisco Escalante MOLINA)大司教で、以前、参事官として数年間、日本に駐在されていた方です。詳しくはこちらをご覧ください

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第153回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

【年間第四主日B 2024年1月28日】

 イエスの言葉には、権威を感じさせる力があったと、マルコ福音は伝えています。「律法学者のようにではなく」と福音は記していますが、この言葉は何を象徴しているのでしょう。学んだ知識を教える律法学者は、自らの権威ではなく神の権威によって解釈を教える立場です。教え指導するという人間関係にあって、人間の弱さから解放されない律法学者は、いわば私たち人間の弱さと限界を象徴しています。時に自らの限界を認めず、謙遜さを失い、独断と偏見で判断し、あたかもすべての権威を持っているかのように他者に語り、行動するのが私たち人間です。

 しかしイエスは真理そのものです。すべての権威は神にあります。完全完璧な立場からものを語り、行動されるのが、神の子であるイエスです。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。そういえば本日の第一朗読の申命記には、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセが語ります。真理を身に帯びていない者の言葉には、権威はありません。

 私たちは、どのような言葉を語っているでしょうか。自分勝手な思いや欲望を充足させる言葉ではなく、神によって生かされているという謙遜さのうちに自らの限界を認め、イエスが権威を持って示された真理を身に帯びた言葉を語るものでありたいと思います。

 命を奪う暴力的な言葉ではなく、命を生きる希望を生み出す言葉を語りたいと思います。暗闇を生み出す言葉ではなく、光を掲げる言葉を語りたいと思います。他者を裁き、排除する言葉ではなく、受け入れともに歩む言葉を語るものでありたいと思います。攻撃する言葉ではなく、思いやりのうちにケアする言葉を語るものでありたいと思います。

 1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」です。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」捧げる日です。子どもたちの信仰における成長のために祈りましょう。

 また東京教区にとっては、28日は「ケルン・デー」であります。

 東京教区とケルン教区との歴史的な繋がりは、物質的な援助にとどまらず、互いの霊的な成長のためのパートナー関係です。この関係は,互いの教会が具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促し、ミャンマーの教会への支援につながりました。

 1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に、自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動を提唱され、東京の支援に乗り出されました。私たちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいた慈しみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身を捧げることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

私たちと共におられる神の言葉を具体的に証しするキリスト者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年1月27日

・「神の言葉に耳を傾け、心に刻み込んで証しする者に」菊地大司教、年間第3主日

2024年1月20日 (土) 週刊大司教第152回:年間第三主日

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 今日のメッセージでも触れていますが、年間第三主日は「神のことば」の主日です。

 中央協議会のホームページには、次のように解説が掲載されています。なお、こちらのリンク先の解説のページの下部にあるリンクから、教皇様の文書「アペルイット・イリス」をダウンロードして読むこともできます。

「教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を『神のことばの主日』と名付け、『神のことばを祝い、学び、広めることにささげる』ことを宣言されました。また、『神のことばの主日』は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、『私たちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる』よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります」

 またこの解説にも触れられているとおり、1月18日から25日は、キリスト教一致祈祷週間です。今年のテーマは、ルカ福音10章27節から「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とされ、日本キリスト教協議会とカトリック中央協議会が共に準備した文書では、今年は特に、アフリカ西部のブルキナファソ(ガーナのすぐ北です)の教会に思いをはせて祈りを捧げることが勧められています。

 今年は久しぶりに、東京での合同の一致祈祷会がカテドラルで開催されます。参加は自由ですので、多くの皆さんの参加をお待ちしております。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で、21日の午後2時からです。

 以下、20日午後6時配信の週刊大司教第152回、年間第三主日のメッセージ原稿です。

【年間第三主日B 2024年1月21日】

 「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ福音書1章17節)

 マルコ福音の冒頭には、馬小屋でのイエスの誕生の物語は記されていません。マルコはイエスの物語を、洗礼者ヨハネの出現を預言したイザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶ者の声がする」をもって始めています。さらにその直後にイエスの洗礼について記し、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という神の言葉を記します。その直後にマルコ福音は、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています。

 すなわち、マルコ福音はその冒頭から、この世界に響き渡る声こそが神の意志を告げる声であり、イエスこそはその神の言葉の受肉であって、その本性からして福音そのものであり、福音を宣べ伝えることこそがイエスの人生そのものであることを明確にします。

 ですから、イエスと弟子たちとの歩みは、議論や対話のうちに始まったのではなく、神ご自身からの一方的な宣言によって始まります。信仰は私たちの選択なのではなく、神からの一方的な呼びかけによって成り立っています。人間の都合から言えば、その場ですべてを捨てて従うことなど、とんでもないことです。この世の常識に従うなら、よく話し合って納得してから従うのかどうかを決めたいところです。

 しかしイエスは、なんとも身勝手に、神の意志を言葉として発してこられます。一方的に呼びかけてこられます。同じ呼びかけは、日々、私たちに対しても聖書のみ言葉の朗読を通じて行われています。その呼びかけに、私たちは応えているでしょうか。

 教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス(Aperuit illis)」を発表され、年間第三主日を「神のことばの主日」と定められました。今年は1月21日が、「神のことばの主日」であります。教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちと共にとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しておられます(80項)。

 教皇は「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘されます。

 第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御体そのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21項)と記して、神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 それぞれの生きる場で、神の言葉を証しして生きるように、招かれている私たちは、日頃から、また典礼祭儀において、神の言葉に耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んで証しする者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用箇所は「聖書協会・共同訳」に、また本来の日本語の意味がよく伝わるように、ひらがな表記の乱用を避け、表記を原則として当用漢字表記に改めてあります。原文に一か所、誤字がありましたので修正しました)

2024年1月20日

・「謙遜な態度で他者の声に、神の声に耳を傾けよう」年間第二主日、菊地大司教メッセージ

2024年1月13日 (土) 週刊大司教第151回:年間第二主日

Shukandaishikhyo01 元旦に発生した能登半島を中心とする大地震は、時間が経過するにつれて、その被害の甚大さが明らかになりつつあります。

 被災された多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 カトリック教会は、被災地を管轄する名古屋教区と、カリタスジャパンの連携の中で、被災地の支援に当たって参ります。

 またその活動にあっては、東日本大震災の教訓を元に設置された司教協議会の緊急対応支援チーム(ERST)が名古屋教区が金沢に設置する拠点と協力して、支援活動の調整にあたります。今後の対応についての報告が、中央協議会のHPに掲載されていますので、ご覧ください

 司教協議会としては、1月11日に開催された常任司教委員会で、名古屋教区の松浦司教様とカリタスジャパンの責任者である成井司教様から直接説明を受け、今後もできる限りの支援をしていくことで合意しています。

 1月14日は、アンドレア司教様が、司教叙階後に初めて堅信式を行う日となります。市川教会で行われる京葉宣教協力体の堅信式です。堅信を受けられる皆さま、おめでとうございます。

 毎年1月18日から25日まではキリスト教一致祈祷週間とされています。今年の東京における集会は1月21日日曜日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で行われます。コロナ禍でオンラインが続いていましたが、久しぶりに実際に集まってお祈りができるようになりました。

 今ある教会を解体して組織として全く新たな一つの教会とすることは即座に可能ではありませんが、同じ主に従うものとして、互いの壁を乗り越え、耳を傾け合い、協力し合いながら、共に福音の実現のための道を歩むことは不可能ではありません。一致の理想の道を諦めることなく、ともに歩んでいきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第151回、年間第二主日のメッセージ原稿です。

【年間第二主日B 2024年1月14日】

 主の神殿で寝ていた少年サムエルに、主は直接声をかけ呼び出されます。

 サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と応えるようにと指示をした話を記します。謙遜に耳を傾けたときに初めて、神の声がサムエルの心の耳に到達しました。

 教会が今、共に歩んでいるシノドスの道も、同じことを求めています。「霊的な会話」という分かち合いの中で、互いに語る言葉に耳を傾け、議論することなく、その言葉を心に留め、さらに耳を傾けて祈るときに、初めて聖霊の導きを見い出す準備ができる。決して、おまえはどうしてそんなことを語るのだ、と議論することではなく、耳を傾けるところから、すべては始まります。

 インターネットが普及した現在、私たちはその中で、耳を傾けることよりも、議論し、論破することに快感を感じてしまっているのではないでしょうか。そこに神の声は響いているでしょうか。

 「来なさい。そうすれば分かる」とイエスに呼びかけられたヨハネの二人の弟子も、『納得できる証拠を求め、徹底的にイエスと議論したから』ではなく、『イエスの存在とその語る言葉を心に響かせた』からこそ、イエスがメシアであることを確信しました。

 だからこそ福音は、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記し、徹底的に議論したとは記しません。サムエルの「どうぞお話しください。僕は聞いております」という態度に通じる謙遜さです。

 今年の「世界平和の日」に当たり、教皇様は視点を大きく変え、「AIと平和」というメッセージを発表されました。それは尊厳ある人間と、その人間が生み出した技術を対比させる中で、「人間とは、いったい、何者なのか」を改めて見つめ直そう、という呼びかけです。

 教皇様は、「死ぬことを免れない人間が、あらゆる限界をテクノロジーによって突破しようと考えれば、『すべてを支配しよう』という考えに取りつかれ、自己を制御できなくなる危険があります… 被造物として、『人間には限界がある』と認識し、それを受け入れることは、充満に至るため、さらに言えば贈り物として充足を受け取るために、欠いてはならない条件です」と記し、「自らが生み出した技術に過信し、それに支配されることのないように」と警告しておられます。

 「どうぞお話しください。僕は聞いております」という、謙遜な態度で、他者の声に、そして神の声に耳を傾けて参りましょう。

2024年1月13日

・「神の言」の導きに身を委ね、変化を恐れず挑戦を続ける存在でありたい

 一年の始まりに能登半島を中心とした地震が起こり、また航空機の事故もありました。この事態に巻き込まれた多くの方々にお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

教皇様からは、国務長官名でお見舞いの電報が届きまた水曜日の謁見でも、教皇様ご自身からのお見舞いの言葉と祈りの呼びかけがありました。教皇様に感謝いたします。

能登半島は名古屋教区に属しています。時間とともに、全体の被害状況が明らかになりつつありますが、教会の施設も被害を受けていると報告されています。名古屋教区を中心に、司教団の緊急支援チーム、そしてカリタスジャパンが連携して、今後の救援事業にあたっていくことになります。具体的な対応については、今後、中央協議会のホームページやカリタスジャパンのホームページから報告があることと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第150回目のメッセージ原稿です。

【主の公現の主日 2024年1月7日】

新しい年が始まりました。この一年が「神の平和が支配する時」となりますように祈ります。

教皇フランシスコが「ラウダーテ・デウム」に記すように、一人でも多くの人が「私たちの住まいである世界との和解のこの旅路に加わり、それぞれ固有の貢献で世界をより美しく」する務めに目覚める年となりますように。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。救い主の誕生の告知とは、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかしこの世の王として人々を支配しているヘロデにとっては、「自らの立場を危うくする脅威」でしかありません。

神の支配が実現することで、自分は権力を失うことになるのです。この世界で権勢を誇り権力の行使を謳歌する者は、真の世界の王である神の支配の実現の可能性を耳にして、喜びではなく、不安しか感じることができません。真理の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうからに他なりません。

「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ、自らの命を危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは、共通の家を守るための環境問題への取り組みを先送りしようとする人類の怠慢を、指摘してやみません。

教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、私たちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、私たちは知っている」と記します(61 項)。

占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物を捧げました。闇の中にあって、「輝く光こそが、希望を示している」と確信した学者たちは、すべてを神に捧げて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

神の光に、すなわち本物の信仰に導かれたとき、占星術の学者たちは生き方を変え、導きに従うことで、真理の光へと到達しました。

教会は、暗闇に光として輝く人となられた「神の言」の導きに身を委ね、常に変化を恐れることなく挑戦を続ける、光を証しする存在であり続けたいと思います。

2024年1月6日

・「『つながり』の視点から生き方を見直そう」着座から7年目に入った菊地・東京大司教が新年あいさつとメッセージ

(2024.1.1 週刊大司教)

2023_11_12_027 皆さま、新年明けましておめでとうございます。

 新しい年の始まりにあたり、皆さまの上に神様の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。神の民の一員として、歩みを共にしてくださる皆さま、お一人お一人の上に、聖霊の導きと護り、祝福が豊かにありますように。

 どうかこの一年も、シノドスの道を歩み続ける教会にあってそれぞれの場で福音を証しされ、また教会のため、教皇様のため、教区のため、そして司教や司祭のために、お祈り続けてくださいますようにお願い申し上げます。同時に、一人でも多くの司祭や修道者が生み出されるように、召命のための祈りもどうかお願いいたします。

 東京教区では、昨年12月16日にアンドレア補佐司教が誕生しました。アンドレア司教様には12月18日付けで、司教総代理に就任していただきました。今後、アンドレア司教様には総代理として、司祭団との窓口や小教区との窓口として、様々な役割を果たしていただきます。

 これまで司教総代理を務められ、教区のために司教を支え補佐してくださった稲川保明神父様に心から感謝いたします。稲川神父様には今後も、教区の法務代理として、また司教顧問のひとりとして、務めをお願いしています。

 それでは2024年が、神の平和の実現する祝福に満ちた一年となりますように、祈り続けましょう。

 以下、東京教区ニュースの新年号の冒頭に掲載してあります、年頭の司牧書簡の原稿を掲載いたします。

 

 大司教司牧書簡 「つながり」の教会のために  2024年1月1日  東京大司教  タルチシオ 菊地 功

はじめに

 2017年12月に東京教区の司教として着座して以来、今年で7年目を迎えました。この間、様々な出来事がありましたが、私が牧者としての務めを果たすことができたのは、皆さんのお祈り、ご協力、そしてご支援のおかげです。東京教区の信徒の皆さん、修道者の皆さん、そして司祭団が、共に歩んでくださったことを、心から感謝しています。

 この7年間、私は「つながり」、あるいは「交わり」を大切にしようとしてきました。それは11年前の2015年に発表された教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』に触発されてのことです。

 教皇様はこの文書で、いわゆる環境問題についての具体的な行動を求め、とりわけ「エコロジカルな回心」を求めておられます。しかし、よく読んでみると「つながっている」という表現が何度も登場します。「すべての被造物はつながっている」(42項)、「あらゆるものはつながっている」(117項)などです。

 「関連」、「結びつき」、「つながり」、「統合的」といった、あるものとあるものを結びつけ、その関わりあいを示す言葉が回勅のキーワードとなっています。ですから回勅『ラウダート・シ』は環境問題に関する教会のメッセージにとどまるのではなく、現代社会が忘れている「つながり」をもう一度回復しようではないかという、信仰におけるメッセージともなっています。

 私たちが洗礼の時にいただいた恵みをさらに豊かにするためには、「つながり」という視点から、私たちの生き方と生活を見直す必要があります。

宣教司牧方針

 2020年に『東京教区宣教司牧方針』を策定しました。これを策定するためには時間をかけ、広く皆さんから意見や活動の様子を教えていただきました。どの小教区共同体でも、それぞれの状況に応じて活動を工夫し、抱えている課題や困難に挑んでいる様子がよく分かりました。

 私は、こういった教会の生きている姿を、教区全体で分かち合いたいと考えました。また、同じような方向性を持っている活動や取り組みの「つながり」を作りたいとも考えました。一つひとつの行動は小さなものであっても、「つながり」を作ることで大きく、堅固なものになると信じているからです。また、教区全体の「つながり」の中で、皆でこころを一つにして祈ることは大切だと思ったからです。

 そこで「つながり」を念頭に置いて、この『東京教区宣教司牧方針』を書きあげました。例えば、教区内のさまざまなグループがおこなっている「愛のわざ」が教区全体として統合できるようにと「教区カリタス」としてカリタス東京の設立を優先課題に盛り込みました。また、教区内の多くの外国籍の信徒の皆さんの「つながり」を強固なものとすることも記しました。孤立しがちな人たち、とりわけ社会的弱者、社会的マイノリティーとの連携ができる小教区共同体となることを呼びかけました。さらには、長年の姉妹教会であり、現在も紛争の中で苦しんでいるミヤンマーの兄弟姉妹への援助もお願いしました。

 すべては「つながり」という視点からです。教会においては、誰も一人で孤立して活動することはあり得ません。時間と空間を超えてつながっているのが、教会共同体です。2020年は新型コロナウイルス感染症の蔓延による、いわゆる「コロナ禍」が始まった年でした。パンデミックに影響され「つながり」が薄らぎつつある社会にあって、私たちの教区は神と人と、人と人の「つながり」を大切にするようにと努めてきました。

 『東京教区宣教司牧方針』をもう一度見直してみると、三分の二以上の項目において、この四年間で何らかの進展が見られます。特に、カリタス東京と教区カテキスタ制度の活動は目覚ましいものがあります。ここに関わってくださった方々に改めてお礼を申し上げます。

現代社会と教会

 現代社会は「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」が顕著に見られます。個人を重視するあまり、逆に隣人への「無関心」が生まれます。自分の生活に精一杯で、他人に対してこころを砕くことが忘れられています。大量消費が経済の基調となっていますから「使い捨て」は当然なことです。使い捨てて、新しいものを購入するからです。物事の評価は役に立つか否かが基準となりますから、人間ですらも使い捨てられるようになります。人の集まりは分断されて「対立の文化」が生じます。生活の格差、経済の格差が生じて、格差の上にいる人々と下にいる人々は決して交わることはありません。

 このような現代社会にあっては、「私たち」という共同体の意識は生まれてきません。なぜなら「わたし」が世界の中心だからです。当然、「共に」という思いも生まれません。「つながり」がないからです。

 いつの間にか、こういった社会の風潮に教会も流されているように感じます。人と人との「つながり」が希薄になるということは、私たちキリスト信者の神との「つながり」にも影響をおよぼします。もし、私たちが神との親密さを生きれば、当然、隣人との親密さも生きるようになるはずです。なぜならば、聖霊は「つながり」において働かれるからです。すなわち「つながり」は愛の働きなのです。神との交わりを生きようとするとき、当然、人との交わりはないがしろにはできません。どちらも愛の介在があるからです。

 しかし、毎週のように主日のミサに通いながらも、普段の生活では「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」を生きているのであれば、それは主イエスのみ心を生きたことにはならないでしょう。

 ですから、私たちには『ラウダート・シ』が示すように統合的な回心が必要になります。生活のあり方、生き方のすべてを見直す回心が必要です。

 

ケアする教会

 ここで「ケア」という言葉に思いをはせてください。もともとは「お世話する」という意味ですが、現在、いろいろな分野で使われるようになりました。そして、教皇の文書でもよく使われています。「お世話」、「気づかい」、「配慮」、「他者への寄り添い」、「関わり」などと言い換えることができます。社会科学の分野では、この言葉の翻訳の難しさが指摘されています。そのため日本語に直さずに「ケア」とそのまま使うようになりました。

 「ケア」は人と人との「つながり」を表す言葉です。そして、「ケア」する者とされる者という上下関係の意味はありません。むしろ兄弟姉妹として、お世話し、気づかい、配慮し、寄り添うのが「ケア」です。

 「ケア」はお互いを大切にし、お互いに耳を傾け、向き合い、対話することを目指します。言い換えれば「ともに歩む」ことです。

 教会はケアの場所です。人と人との「つながり」を大切にするからです。誰も排除されず、相手の言葉を聞きとり、違う立場の人と向き合い、対話を重ねていきます。そして、神から造られたものであることを、ともに喜び、感謝します。

 ケアする教会の中心には、いつも聖体祭儀、すなわちミサがあります。ご聖体のイエスは、私たちのお世話のため、私たちに気づかうため、わたしたちに寄り添うために、小さなホスチアの形になって、私たちのこころに来てくださるからです。ご聖体のあるところには、「ケア」する主ご自身が、いつも共におられます。

いくつかの勧め

 『東京教区宣教司牧方針』を実行するために、そして、「つながり」を大切にするために、私は東京教区の牧者として、次の四つの点を呼びかけます。

1. ミサを大切にしましょう。

 ミサは「ともに祝うキリストの過越の記念」です。近年の個人主義的な生き方が尊ばれる風潮にあっても、教会はともに集うことを大切にします。ミサを通じて神さまと出会い、人と出会うのです。ミサなしの教会は考えられません。

 キリスト信者としての生活にミサ、とりわけ主日のミサを中心に据えることを重要視しないことは考えられません。主日にはできるだけミサに参加してください。できるだけ定期的にミサに参加してください。

 御聖体の神秘は、私たちの想像をはるかに超えるものです。できるだけ頻繁にミサに参加して、神との「つながり」、隣人との「つながり」を深く味わっていただきたいものです。

 残念なことに司祭の高齢化と召命の減少のため、小教区の中には司祭が兼任となるところも増えつつあります。教区としてはできる限りミサが行えるように、小教区司牧以外の使徒職に携わる司祭の応援も得て、ミサが継続できるように努力をして参ります。

2. お互いに受け入れましょう。

 ケアする教会では誰も排斥されてはなりません。幼児、子ども、青年、大人、高齢者、障碍者、外国籍の人、社会の中で異質と見なされる存在などなど。共同体から退けられる可能性はだれにでもあります。大多数にとって異質だと見なされたとき、排除や排斥が正当化されてしまいがちです。異なる存在に目をふさぎ、自分たちだけの都合のよい集いになってはなりません。

 教会は、貧しい者のための教会です。低迷するいまの日本の社会にとって、貧しい者とはわたしたち一人ひとりのことをも指しているのかもしれません。教会にある豊かな「つながり」のおかげでわたしたちは貧しくとも、ともに歩んでいけるのです。この豊かな「つながり」に、一人でも多くの人を招き入れましょう。

3. 「分かちあい」を目指しましょう。

 ケアする教会は、ともに歩む教会です。それは、聞く教会であり、分かち合う教会でもあります。一人ひとりが考えたこと、感じたことを分かち合う時、大きな実りを共同体にもたらすはずです。

 少数の人の声に従っていくのではなく、互いに耳を傾け合い、互いの声を聞きながら、多数決での結論を急がずに、ともに祈って聖霊の導きを見いだしながら、共同体のために何かを決定していく姿は教会ならではのものです。それこそが「シノドス的な教会」と言えるでしょう。

4. 宣教する教会となりましょう。

 「ケア」は人との「つながり」を表します。家庭で、地域で、職場で、私たちは隣人との関わりを生きます。十字架上で「自分のいのちをささげるまでにケア」なさったイエスのように生きたとき、人々はそこに神の姿を見いだすのです。私たちは「ケア」を通じて、福音宣教をしているのです。自分のために生きるのではなく、惜しみなく隣人に自分自身を与え尽くすような生き方を、目指していきましょう。

おわりに

 昨年の終わりに、私たちの教区に新しい補佐司教が誕生しました。みなさんのお祈りのおかげで、主は、新しい牧者を私たちのもとに送ってくださいました。アンドレア・レンボ補佐司教が主から委ねられた牧者の務めを力強く果たすことができるようにと、これからもお祈りください。

 東京教区の牧者として着座して6年、多くの方々に支えられて過ごせたことに感謝しています。教区の長い歴史の中に、私もつながっていることに感謝しています。またその責務の重大さに、いつも心を震わせています。しかし、帰天された先輩の司教さま方と司祭の方々が天国から見守ってくださっているおかげで、主から課せられた牧者の務めを果たすことができています。

 社会の厳しい現実にみなさんと一緒に向き合い、担い合えるのは大きな喜びです。このように共同で責任を担うことで、将来に向けた歩みを少しずつ進めることが可能になります。これこそが、カトリック教会が求めている「共に歩む」教会の姿です。みなさんと一緒に、聖霊が私たちの教区に求めている道を、祈りの中で識別していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年1月2日

・「神にできないことは何一つない、平和を諦めるな」菊地大司教の待降節第4主日メッセージ

2023年12月23日 (土) 週刊大司教第148回:待降節第四主日B

 まもなく降誕祭です。

 今年は待降節第四主日が12月24日のため、待降節第四週は一日しかありません。典礼の暦上、日没後は翌日ですから、24日の夜に主の降誕をお祝いします。

 寒い毎日が続いており、私も、司教叙階式あたりから喉の調子を崩し、今週は体調不良が続いていました。明日、24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂は、午後5時がアンドレア・レンボ司教様司式、午後7時が天本神父様司式、午後9時が大司教司式ミサとなります。なおこの日、カテドラル構内は駐車ができませんので、公共交通機関でおいでください。有楽町線江戸川橋、または護国寺、山手線目白駅からバスで椿山荘前まで15分ほどです。

 毎年、この時期になると、フィリピンではSimbang Gabiと呼ばれる、クリスマスに向けたノベナ(9日間の祈り)のミサが捧げられる、といいます。フィリピンでは早朝に行われているのだそうです。東京でもこのミサが、フィリピン出身の方が多い地域で捧げられています。日本の社会事情を考慮して、このミサは夕方に行われるところが多いと聞いています。私も毎年、そのうちの一つである目黒教会捧げられるミサの一回を担当させていただいています。

 例年は最初の日のミサを司式することが多かったのですが、今年は補佐司教の叙階式日程などもあり、12月20日の夜7時からのミサを司式いたしました。ミサは英語です。音楽担当の奉仕者の方も素晴らしい歌を聴かせてくださり、そのほか司会、朗読や侍者など、多くの奉仕者の方の協力でミサは成り立っています。これからも続けられることを願うと共に、日本の教会でも同じように、降誕祭前の9日間の祈りのミサを、日本なりに捧げることができれば良いと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第148回、待降節第四主日のメッセージ原稿です。

待降節第四主日B 2023年12月24日

 まもなく主の降誕のお祝いです。今年は24日が日曜となったため、待降節第四週は一日で終わってしまいます。今日の福音は、天使によるお告げの部分ですが、神の一人子が人となり、私たちと共にいてくださるためには、聖母の強い信仰と謙遜さが不可欠であったことを教え、また私たちが、それに倣うようにと勧めています。

 マリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉を持って、神の母となりました。天使ガブリエルからのお告げに対して、マリアは「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉を口にします。そこにはこの理不尽な出来事に対するマリアの困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、「神に出来ないことは何一つない」と言う天使の言葉に信頼を置き、神の計画にその人生をゆだねることを決意します。

 聖母マリアの決断は、この世界を支配しているのは人間ではなくて、世界を創造された神であるという、明確な謙遜の態度と信仰における確信に基づいています。

 この世界を支配しているのは一体誰なのか。現代社会は大きな思い違いをしています。世界を支配するのは人間の知恵と知識ではなく、創造主である神であり、私たちは「常にその計画の中で生かされているのだ」という事実を忘れ、あたかもこの世界のオーナーであるかのように振る舞っています。

 その結末が環境の破壊であり、命への暴力的な攻撃です。聖母マリアがお告げを受けたその地、聖地は、いま暴力によって支配され、神の賜物である命が暴力的に奪われる不正義が横行しています。その世界に対して、聖母マリアはご自分の人生を通じて、この世界を支配するのは創造主である神であることを明確に宣言しています。

 聖母マリアに倣い、神の計画の実現のために身を委ね、その実現のために行動することが、私たちには求められています。それは私たちも聖母マリアのように、「神にできないことは何一つない」という信仰に生きているからに他なりません。平和を諦めてはなりません。

 聖母マリアがその胎にイエスを宿したように、教会も、主ご自身が「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われた約束を信じ、教会にキリストが共におられ、歩みを共にしておられることを信じています。

(編集「カトリック・あい」)

2023年12月23日

・「皆に仕える者として、歩みを共にする牧者であるように」ー東京教区でレンボ補佐司教叙階式

2023年12月16日 (土)菊地東京大司教の「週刊大司教」第147回:待降節第三主日B

 12月16日はアンドレア司教様の司教叙階記念日となりましたが、同時に私自身にとっても、2017年に東京大司教として着座した記念日です。どうか、わたしたち東京教区の司教がふさわしく務めを果たすことができるよう、お祈りくださいますようにお願いいたします。

(菊地功・東京大司教)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第147回、待降節第三主日メッセージ原稿です。

待降節第三主日B 2023年12月17日

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む準備の時期に当てられます。主の降誕の出来事を黙想するとき、どうしても私たちは、10月頃からはじまった聖地での暴力的な混乱を思わずにはいられません。

今年の10月頃から始まったイスラエルによるガザ攻撃は、「聖地」の現実を象徴しており、それは偶発的出来事ではなく、長い歴史を背負った人類の悲劇の一つであり、いくたびも繰り返されてきた悲劇でもあります。

神の言葉が人となられ、人間の命の尊厳を神があらためて示されたその地において、命を暴力的に奪い合う紛争は、どのような理由があっても正当化することはできません。改めて命を守ることを優先するように呼びかけたいと思います。

聖地の混乱の原因に関して、忘れられない体験があります。カリタスジャパンの視察でエルサレムを初めて訪れた2000年7月末のことでした。イスラエルが管理する西エルサレムで、パレスチナ人の知人が、「是非とも見せたいものがある」と、ある一軒の家に連れて行ってくれました。その家の住人に声をかけるでもなく庭まで入り込み、一本の木を指さし、「この木は、わたしの父親が生まれた記念に、祖父母が植えた木だ。ここは私たちの家だったんだ。1947年以前に戻らない限り、何も解決しない」とつぶやかれました。

1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割を決議し、そして1948年のイスラエル建国、さらにはそれに引き続いた第一次中東戦争。その混乱の中で、当時70万人に及ぶパレスチナ人が住む家を失い難民となったと記録されています。現在のパレスチナ難民の始まりでした。知人の父親もその一人でありました。

イエス・キリストの誕生という命の尊さに思いをはせるこの時期、「聖地」を支配するのが命を奪う暴力であることほど、悲劇的なことはありません。

神の1人子であるイエスは、常に私たちと共におられる神、インマヌエルであります。その共におられるイエスは、神の「ことば」そのものであります。人となられた神のことばは、闇の中を歩む民を照らす希望の光です。生きる希望を生み出す存在です。その光は、神の慈しみそのものでもあります。

福音は、洗礼者ヨハネが、その光の先駆者として、光をあかしするために使わされたと記します。「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫ぶ声であると記します。今こそ、洗礼者ヨハネの存在が必要です。暗闇にあって輝く命の光を証しし、進むべき道を指し示す声となる先駆者ヨハネが必要です。ヨハネは、私たちではないでしょうか。

アンドレア・レンボ司教様叙階式

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 東京教区の補佐司教として教皇様から任命されていたアンドレア・レンボ司教様の司教叙階式は、本日12月16日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。

 叙階式には、日本の司教団全員に加え、姉妹教会であるミャンマーのバモー(Banmaw)教区からレイモンド司教様もおいでくださいました。またイタリアからは、アンドレア司教様のご家族と出身小教区の主任司祭もおいでになりました。

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 アンドレア司教様、おめでとうございます。そしてこれから一緒に働いていきましょう。

 以下、叙階式ミサの説教原稿です。

 アンドレア・レンボ補佐司教様司教叙階式ミサ  東京カテドラル聖マリア大聖堂   2023年12月16日

 「 私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」

 ヨハネ福音に記されたこの主イエスの言葉は、このたび東京教区の補佐司教として任命され、本日司教としての叙階を受けられるアンドレア・レンボ司教様のモットーが取られた言葉です。それは、今の時代を生きるわたしたちすべてが耳を傾けなくてはならない、神ご自身の叫びともいえる願いが込められている言葉です。

 私自身が大司教として東京教区に着座したのは、ちょうど6年前の今日でした。東京都と千葉県を管轄するこの教区には、全体で二千万人を超える方々が居住され、世界各地から来られた外国籍の方も大勢おられます。その中で信徒の数は9万人ほどですから、すなわちまだまだするべきことは数え切れないほどあります。教会として向き合わなくてはならない社会的課題も多々あります。これまでも教区の信徒の皆さん、修道者の皆さん、そして司祭団が、それぞれの場でできる限りのことに挑戦し、福音を証しするための努力を積み重ねてきました。しかし、するべきことはまだ残されています。

 6年の大司教としての務めの中で実感しているのは、信徒のみなさんとともに、修道者のみなさんとともに、そして司祭団と共に、先頭に立って歩みを共にする立場を、一人で背負うには、わたしの力では十分ではないということでありました。東京の大司教として着座してしばらくしてから、その時々の教皇大使を通じて、聖座に補佐司教の任命をお願いして参りましたが、正直に言ってやっとの事で、教皇様からアンドレア・レンボ司教様が任命されました。多くの皆さまに、補佐司教誕生のためにお祈りをお願いしてきたところですが、ふさわしい人物が任命されることになったのも、皆さまのお祈りのおかげです。心から感謝いたします。

 教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「神の民の牧者」の冒頭部分に、「世に向けて希望を告げ知らせることは、すべての司教の務めです」と記しておられます(3)。その上で教皇は、「司教は特別な意味で、希望を預言する者、希望をあかしする者、そして希望に使えるものであることをその務めとしています」と記しています。

 まもなく主の降誕を迎えようと準備を進めるこの待降節に、神の御言葉が人となられ、平和の君が誕生して私たちと共にいてくださり、わたしたちに直接語りかけてくださったその地、すなわち聖地で、いま一体何が起きているでしょう。すでにガザでは二万人に迫るいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。一体どうしたら長年にわたるこの対立が終結し、聖なるこの地に神の平和が訪れるのか、私たちにはその道すら見えません。あたかも聖なる地は、暗闇に包まれているかのようです。

 私たちは、2020年から3年以上にわたって、新型コロナの世界的な大感染の中にあって、いのちの危機を肌で感じました。教皇フランシスコはパンデミックの当初から、互いに連帯し支え合うことがこの危機から抜け出す唯一の道であることを繰り返し述べてこられました。しかしわたしたちの眼前で展開してきたのは、連帯や支え合いではありません。ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争は、未だに終わりが見えません。クーデターが発生したミャンマーは、東京教区の姉妹教会ですが、そのミャンマーでは平和の糸口が見いだせず、この数か月は、平和を求めて声を上げる教会に対して武力を持っての攻撃が起こり、命が危機にさらされています。

 具体的な闘いがなかったとしても、新型コロナの大感染によってもたらされた暗闇の不安や、実際の戦争状態がもたらす大きな不安、さらにはそれに伴う経済の混乱が、多くの人がまず自分の身を守ることを最優先に選択するようにさせています。もちろん自分を守ることは必要ですが、それが、大感染の発生以前から教皇フランシスコが指摘されていた「無関心のグローバル化」と結びついたとき、社会全体を異質な存在を排除する排他的な世界へと変貌させていきました。

 希望はいったいどこにあるのでしょう。神の平和は実現しないのでしょうか。

 教会は今、シノドスの道を歩み続けています。その歩みとは、去る10月の第一会期中にシノドス参加者から教会全体に向けて出された書簡「神の民への手紙」に記されているとおり、「すべての神の民に開かれ、誰一人排除されることなく、聖霊の導きのもと、イエス・キリストに従う宣教する弟子として「ともに旅する」ことへと向かう歩み」であります。そのためにも、共同体の交わりの中で、互いに耳を傾け合うこと、とりわけ、社会全体を支配する大きな声にかき消されそうになる小さな声に耳を傾け、支え、ともに歩もうとすることこそが、命を守る最も大切な道であると、教皇様もしばしば繰り返してこられました。

 教会は、賜物である命を守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす社会の中で、互いの違いを尊重し、弱い存在を支え、支え合いながら、全体として前に向かって歩む教会でありたいと思います。

 第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、世の光、地の塩として、いのちと希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。わたしたちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主とともに歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。

 教皇フランシスコは2019年11月23日夜、東京の教皇庁大使館で私たち日本の司教団と一時を共にされ、このように呼びかけられました

 「司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべての命を守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、私たちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。すべての命を守るとは、まず、じっと見つめる眼差しをもつことです。それによって、神から委ねられたすべての民の命を愛することができ、まさにその民に神から受けた賜物を見いだすのです」

 アンドレア司教様、ともに歩むために、そして神の平和を確立するために、率先して愛を告げる牧者となられますように。支配する者ではなく、皆に仕える者として、歩みを共にする牧者でありますように。声なき声に率先して耳を傾け、社会のただ中で、「希望を預言する者、希望を証しする者、そして希望に仕えるもの」でありますように。

 新しく誕生する司教様の上に、慈しみ深い神様の豊かな祝福と聖霊による導きが常にあるように、皆で共に祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年12月16日

・「現代社会で”荒れ野の声”となる務めを自らに再確認する」-菊地大司教、待降節第二主日

2023年12月 9日 (土) 週刊大司教第146回:待降節第二主日B

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待降節の第二主日となりました。

 来週の土曜日には、東京教区に補佐司教が誕生します。ちょうど12月14日と15日には全国の司教が集まっての司教総会と研修会が東京で開催されますので、その翌日となる司教叙階式には、全国の司教様方が参加してくださる予定です。アンドレア・レンボ司教様のこれ方の働きのために、お祈りをお願いいたします。

 今後、私とアンドレア司教様とで行事などは分担していくことになります。その意味で、私にとっては、これまでしばしばあった、午前と午後の堅信式のダブルヘッダーはなくせるかと期待しています。

 なお東京教区の小教区にあっては、基本的に小教区からのリクエストに応じて訪問のスケジュールを組んでいきますので、主任司祭と小教区の役員の方などと相談の上、主任司祭から教区本部の司教秘書にご相談いただきますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第146回、待降節第二主日のメッセージ原稿です。

待降節第二主日B 2023年12月10日

 いまこの世界に、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と声をあげる預言者は存在しているでしょうか。世界を支配する神の招きに応え、神が与える使命に徹底的に生きる存在はどこにあるのでしょうか。

 教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」の終わりに、「教会が目指しているのは、地上の権力者に対抗することではなく、むしろ『現代世界へ、信仰、希望、愛をあかしするために・・・開かれた、これこそが教会である家庭の中の家庭』として自らを示すことです」と記しています。(276項)

 その上で教皇は、「私たちは、仕える教会、家から出て行く、聖堂から出て行く、香部屋から出て行く教会になりたいのです。いのちに寄り添い、希望を支え、一致のしるしとなるために、橋を架け、壁を壊し、和解の種をまくためにです」と、教会が現代社会にあって、福音を目に見える形であかしすることの重要性を強調されています。

 教会は神の民であるとする第二バチカン公会議の教会憲章は、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、特に信仰と愛の生活を通してキリストについて生きた証しを広め、賛美の供え物、すなわち神の名を称える唇の果実を神に捧げることによって行われる(12)」としるし、現代社会にあって、教会が預言者的役割を果たしていくことの必然性を記しています。そして私たちは、その神の民を形作る一員です。私たち一人ひとりには、洗礼者ヨハネに倣って、荒れ野で声を上げる務めがあります。

 教皇フランシスコは、聖性の道への招きは、特別な人だけへの呼びかけではなくすべてのキリスト者に向けられた呼びかけであることを強調されますが、同時に「教会が必要とするのは・・・まことの命を伝えることに燃えて献身する、熱い宣教者だ(138項)」と記して、司祭や修道者の聖性の模範が信徒に先立つものとして、重要であることも指摘されています。

 教会は、聖性の道を歩む模範となる司祭や修道者を必要としています。洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げて証しするリーダーとしての司祭や修道者が必要です。

 私たちは現代社会にあって、荒れ野の声となる務めを自らに再確認すると共に、率先して神の民を率いる司祭・修道者が誕生するように、祈り続けていきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年12月9日

・「麻薬特例法違反で教区司祭再逮捕にお詫び、COP28と宣教地召命促進へお願い」菊地大司教メッセージ

2023年12月 2日 (土) 週刊大司教第145回:待降節第一主日B

2023dec2 しばらくお休みさせていただいておりました週刊大司教を、待降節第一主日から再開いたします。

 この間、東京教区ホームページに公示させていただいたとおり、11月8日、東京教区司祭が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕され、さらに11 月29 日に、同東京教区司祭は覚醒剤取締法違反について処分保留のまま、別件の麻薬特例法違反の容疑で再逮捕されました。

  まだ捜査段階であり、逮捕容疑の詳細も詳らかではないため、詳細については現段階では逮捕の事実以上にお知らせできることがありません。教区司祭が法令違反を持って逮捕されるという事態をおもく受け止め、適正な捜査によって真相が明らかにされることを信じながら、捜査に全面的に協力して参ります。皆さまにご心配とご迷惑をおかけする事態となり、大変申し訳なく思っております。心よりお詫び申し上げます。今後、詳細が明らかにされた段階で、随時改めて皆さまにもお知らせして参ります。

  以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第145回のメッセージ原稿です。

待降節第一主日B  2023年12月03日

   私たちのうちで誰1人として、人生の終わりを免れるものはいません。それぞれの人生を、それぞれに与えられた時間の中で生きるとしても、必ず終わりがやってきます。

 限りがある時間を生きていることをよく知っているにもかかわらず、私たちには対処するには困難がつきまといそうな問題への対処を先延ばしにしようとする傾向があります。しばしば、時間が解決してくれるなどと言って、将来の世代へと負の遺産を残してしまってはいないでしょうか。

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」において、「もはや、世代間の連帯から離れて持続可能な発展を語ることは出来ません」と指摘(159項)されました。

 教皇はより良い世界を実現するためには、いま良ければそれでかまわないという刹那的な自己中心の考え方だけではなく、共通善に基づいて、将来世代への何を残していくのかという責任も視野に入れなくてはならないと、次のように指摘されます。「私たちがいただいたこの世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです」(159項)

 私たちは、どのような世界を後世に残していこうとしているのでしょう。将来の世代との連帯という視点で考えたことがあるでしょうか。この課題に取り組むことは、今の世界で生きる意味を改めて問い直すことを意味しています。楽なことではありません。

 2015年に「ラウダート・シ」を発表されて以来、教皇様は、地球温暖化の問題や気候変動の問題に発言を繰り返されきました。しかし取り組みを先送りしようとする世界の動きに業を煮やし、10月4日に「Laudate Deum(主を称えよ)」を発表され、具体的な取り組みの必要性と、政治に対する積極的な提言の必要性を強調されました。その上で、教皇様は、ドバイで開催される国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)に自ら出席されることを表明されました(注*その後、軽度の疾患にかかられ、医師の判断を受けて出席を断念、パロリン国務長官が会議で教皇のメッセージをだいどくすることになった)。

 「目を覚ましていなさい」という主の呼びかけは、未来を見据えて、今を生きる私たちが、将来世代との連帯の中で、被造物の管理を任された僕としての責任ある行動をとることも求める呼びかけです。教皇様と共に地道に、連帯の必要性を呼びかけ、また自らも行動し続けたいと思います。

 教会は12月の最初の主日を「宣教地召命促進の日」と定めています。この日、私たちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

 もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派ですが、アジアのほぼ全体がいまでも宣教地です。その意味でも、日本を始めアジアにおける福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。皆さまのお祈りをお願いいたします。

2023年12月2日

・「シノドス総会は、教会が『教会』であるための、本当のあり方を再確立しようとする試み」菊地大司教の年間第26主日メッセージ

2023年9月30日 (土) 週刊大司教第144回:年間第26主日A

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 シノドス(世界代表司教会議)通常総会に参加するために、ローマに出かけています。10月末日までの一か月間、ローマから、またシノドスの様子などを報告させていただきます。出発前に準備していた、週刊大司教第144回、年間第26主日のメッセージ原稿です。

【年間第26主日A 2023年10月1日

 この週刊大司教をご覧いただいている9月30日、私はシノドスに参加するためにローマにおります。事前の予定では、9月30日の晩に、エキュメニカルな祈りの集いがあり、その後、10月3日まで、ローマ郊外で参加者全員が集まり黙想会が行われます。10月4日からバチカンで、今回のシノドス総会の第1会期がはじまります。来年の10月には、同じ参加者で、第二会期が行われる予定になっています。

 シノドス総会参加者に聖霊が豊かに注がれ、識別が深められ、教会のためによりよい道を見いだすことができるように、シノドス総会のために皆様のお祈りをお願いいたします。

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 マタイ福音には、父親の命令に対する兄と弟の答えと、実際の行動についてのイエスの話が記されています。兄は命令を拒んだものの、結局、考えを改め、父親の望み通りにしました。しかし弟は、命令に従うそぶりを見せたものの、結局それに従いませんでした。

 イエスは「どちらが父親の望み通りにしたか」と尋ねていますが、神にとって大切なのは、「結果として、神の望みを実現しようと行動すること」であって、表向きに積極的と思われるようなジェスチャーをすることではない、ということを、明確にされています。

 残念ながら私たちは、見た目にとらわれて人を裁きます。表向きのジェスチャーに、簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時として、「表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだ」と勘違いすらします。でも、それは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、神の目をごまかすことはできません。

 私たちは、神の望みをこの世界の中で実現するように、本当に努め、行動しているでしょうか。その私たちの姿勢を問いかけているのが、今回のシノドス総会です。

 今回のシノドス総会は、「教会が『教会』であるための、本当のあり方を再確立しよう」とする試みです。教会共同体が愛に満ちあふれ、敬虔で、喜びにあふれているのは、福音を告げ知らせるため、それも言葉の知恵によらずに、主の十字架をむなしいものとしないためであります。

 つまり、交わりの共同体は、それ自体が福音を証しする存在、宣教する共同体、でなくてはなりません。共同体が宣教する共同体であるからこそ、誰ひとり排除されることなく、その交わりにすべての人が招かれるのです。そのためにも、教会共同体は、常に、聖霊の導く方向性を識別することが必要であり、その導きに身を任せることで、ジェスチャーではない信仰のあり方を具体的に生きることが可能になります。

 何か雲をつかむような話をしてしまいましたが、公開されているシノドス総会の討議要綱などに目を通していただき、シノドス総会参加者と共に、みなさんそれぞれの場で、祈りと分かち合いのうちに、聖霊の導きを識別する道を歩んでいただければと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年9月30日

・「神の愛と慈しみのまなざしを、利己心、差別意識、排除の心が遮ることのないように」年間第25主日・菊地大司教メッセージ

2023年9月23日 (土)週刊大司教143回:年間第25主日

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 東京教区では悲しいことに、9月に入って帰天する司祭が相次いでいます。森司教様、西川神父様、古賀神父様に続いて、9月20日には星野正道神父様が73歳で帰天されました。葬儀ミサは9月26日の予定です。どうぞパウロ星野正道神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 星野神父様は、長年にわたり教育界で働かれ、特に白百合女子大学で長く教授を務められました。

 9月はこれで、すべての火曜日が、教区司祭の葬儀ミサとなりました。帰天された司祭の永遠の安息をお祈りいただくとともに、彼らの後を継ぐ後継者が与えられるように、司祭の召命のためにも、どうかお祈りくださいますよう、心からお願い申し上げます。

 それでも新しい司祭は、少しづつではありますが、確実に誕生し続けています。9月23日土曜日の午後には、イグナチオ教会でイエズス会に二人の新しい司祭が誕生しました。叙階されたのはアシジのフランシスコ森晃太郎さん、洗者ヨハネ渡辺徹郎さんのお二人です。おめでとうございます。これからのお二人の司祭としての人生に神様の祝福を祈るとともに、その活躍に期待しています。

 以下、23日午後6時配信の週刊大司教第143回、年間第25主日メッセージ原稿です。

【年間第25主日A 2023年9月24日】

 マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。確かに記されている話では、主人は最初の労働者に一日につき一デナリオンの支払いを約束して雇用したのですから、何も約束違反はしていません。

 しかし実際には、明らかに自分より短い時間しか働いていない労働者が、「自分より先に一デナリオンもらっているのだから、もっと働いた自分にはより多くの報いがあるはずだ」と考えるのは、「支払いが、労働の対価である」という考え方からは当然です。実際、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたら、あっという間に労働争議が発生しそうです。

 しかしイエスの本意は、労働の対価としての支払いのことに無いことは、その終わりの方の言葉によって、少し理解できるような気がします。

 「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」

 すなわち、イエスはここで、ご自分の慈しみについて語っておられます。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられた命を、神がどれほど大切にしておられるか。その命に対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、慈しみのうちに包み込む対象であることを、この言葉は明確にしています。

 この世界では、往々にして、数字で見える成果によって人間が評価され、格付されます。それが極端になると、人間の命の価値を、能力の優劣によって決定し、「この世界に役に立たない命には存在する意味がない」という暴力的な排除の論理にまで、到達してしまいます。

 数年前に発生した、障害者の方々の施設を元職員が襲撃し、19人の入所者を殺害する、という事件を思い起こします。犯人の「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ」などという主張が、極端に走った命への価値判断を象徴しています。神にとっては、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造された命は、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

 本日は、世界難民移住移動者の日であります。教皇様は「移住か、とどまるか、を選択する自由」をテーマとして掲げられました。メッセージの中で教皇様は、ヨハネパウロ二世のこの言葉を引用しています。

 「移民と難民のために平和的状況を築くには、まず、移民しない権利、すなわち母国に平和と威厳をもって住む権利の保護に真剣に取り組まなくてはなりません」

 その上で教皇様は「移民難民は、貧困、恐怖、絶望から逃れるのです。こうした原因を根絶し、やむにやまれぬ移住に終止符を打つには、私たち全員が、おのおのの責任に応じて、それぞれが協力して行う取り組みが求められます」と呼びかけておられます。

 すべての命は、優劣の差なく、すべてが神の目にとって大切な存在です。その愛と慈しみは、すべての命に向けられています。神の愛と慈しみのまなざしを、私たちの利己心が、差別意識が、排除の心が、遮ることのないようにいたしましょう。

(編集「かとりっく・あい」)

2023年9月23日

・「『赦し』と『慈しみ」は私たちの生涯の課題」年間第24主日・菊地大司教メッセージ

2023年9月16日 (土) 週刊大司教第142回:年間第24主日A

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 東京教区では、森司教様、西川哲彌神父様に続いて、9月10日にパウロ・テレジオ古賀正典神父様が帰天されました。葬儀は19日の火曜日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。お祈りください。

 古賀神父様は、一時、神学生時代にレデンプトール会の志願者として名古屋で養成を受けられたこともあり、私にとってはその当時からの知り合いでありました。年齢は私より一つ下であります。東京教区司祭として1990年に叙階後、小教区司牧や教区本部事務局で働かれ、私が司教になった2004年頃は、中央協議会の法人事務部長も務めておられました。その後体調を崩し、2017年からはペトロの家で療養生活を続けておられましたが、この9月10日の早朝、帰天されました。古賀神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 秋田の涙の聖母で世界に知られている聖体奉仕会修道院で、4年ぶりに「秋田聖母の日」が開催され、地元の成井司教様に、大阪の酒井司教様と私も加わり、9月15日のミサは秋田県内外の司祭も含めて、司教三名、司祭6名で、集まった150名を超える方々とともに、ミサを捧げ祈ることができました。私がミサを司式させていただきましたので、説教原稿は別掲します。

 以下、16午後6時配信、年間第24主日メッセージ原稿です。

【年間第24主日A 2023年9月17日】

 多分に身勝手な私たちは、自分の過ちは「無条件で赦してほしい」と願うのに、自分に対する他者の過ちには、そう簡単に「赦してしまおう」という気持ちにはなりません。慈しみと赦しは、私たちにとって「生涯の課題」であるとも言えるでしょう。

 本日の第一朗読であるシラ書も、そしてマタイ福音も、赦しと和解について記しています。

 私たちが他者との関係の中で生きている限り、どうしてもそこには理解の相違が生じ、互いを理解することができないがために裁いてしまい、その裁きは時として怒りを生み、結局のところ、相互の対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、「自分と神との関係にも深く影響するのだ」と指摘します。他者に対して裁きと怒りの感情を抱いたままでは、自分と神との関係の中で、赦しをいただくことはできない。

 私たちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神に赦しを願うことでしょう。しかし神は、神に赦しを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、赦しと和解が実現しなければ、どうして神に赦しを求めることができるだろうかと、シラ書は指摘します。

 マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」というイエスの言葉を記しています。もちろん、「490回赦せばいい」という話ではなく、「七の七十倍」という言葉で、限りない深さを持った神の赦しを示しているのです。またその赦しをいただいたものが、その憐みを他者との関係における自らの行動につなげるのではなく、反対に隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、「他者を裁くものには、神の赦しがないこと」も明示されています。

 私たちは、なぜ、赦し続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、私たちの人生そのものが、「主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としているのだ」と指摘します。

 その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、自らの命を奪おうとしているものを赦す慈しみであり、愛するすべての命の救いのために、自らを犠牲にする「愛と慈しみそのもの」の人生です。ですから私たちは、憐み・慈しみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的に赦し、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。それは、私たちが、愛と慈しみそのものである主イエスに従うのだと、この人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

 「生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです」というパウロの言葉に、今一度、心を向けましょう。

(編集「かとりっく・あい」=「許す」と「赦す」は、どちらも「ゆるす」と読む同訓異字です。「許す」の意味は、相手の願いや申し出を受け入れたり認めることです。「赦す」の意味は、罪や過失を咎めないことです。聖書でよく使われるのは後者です。ひらがなではこの言葉のニュアンスが伝わりません)

2023年9月16日