・「私たちの教会は『安らぎを与える場』になっているだろうか」菊地大司教の年間第14主日

2023年7月 8日 (土) 週刊大司教第132回:年間第14主日A

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   年間第14主日です。

   東京カトリック神学院の常任司教委員会は、通常は潮見で集まりますが、年に二回、7月と12月に、上石神井の神学院に一泊して会議をしています。木曜日の晩の祈りから参加し、食後には神学生との話し合い。翌朝はミサを一緒に捧げて、その後に常任司教委員会の会議です。

   現在は、東京カトリック神学院は東京教会管区と大阪教会管区が運営にあたっていますので、常任もそれぞれの管区から一人づつ。広島の白浜司教、京都の大塚司教、横浜の梅村司教、そしてわたしで、委員長は大塚司教です。これ以外に年に二回、司教総会の時に、関係するすべての司教が参加しての神学院司教会議が行われます。

  この7月6日と7日が、今年の最初の一泊会議でしたので、神学院に泊まってきました。6日の夜には神学生を四つのグループに分け、それぞれに一人ずつ司教が入って、いろいろと話をする機会がありました。私が参加したグループには、4名の神学生が参加し、札幌教区の千葉助祭が進行を務め、私も含めて自分の召命の話や、これからの日本の教会の歩みについて、分かち合いの時を持ちました。

 また今朝、7日は、朝ミサの司式をさせていただきました。神学院は6時半の朝の祈りがすべてが歌唱で行われます。普段は一人で唱えるだけの詩編ですが、共同体の皆さんと一緒に歌うことで、その詩編の豊かさが心に染み入ります。

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 ご存じのように、東京教区の神学生は現在2名です。神学課程に一人、哲学課程に一人。どうか召命のためにお祈りくださると同時に、司祭の道を考えている方がおられたら、勇気を持って一歩踏み出すように励ましてください。

 その道を考えている方は、まずご自分の教会の主任司祭に相談してみてください。それぞれの事情に応じて、教区の養成担当の司祭につないでくれるでしょう。

 毎年9月が入学願書の締め切りですが、そのギリギリで良いのかというと、そうでもないのです。まず志願者がどのような方かを、教区養成担当者が知る必要がありますから、神学院への入学願者を出す前に、時間が必要です。

 条件は23歳以上、高卒以上、独身、男性。普段からご自分の小教区の司祭と召命についてよく話し合ってください。司祭召命は個人の召命にとどまらず、共同体が生み出すものでもあります。ですから小教区とのつながりは大切です。司祭の道をお考えの方は、是非早めに、主任司祭にご相談ください。

 10月の世界代表司教会議(シノドス)総会の参加者が7日に教皇庁から発表されました。歴史的な出来事です。日本からは西村桃子さんが議長団の一人に選出されました。女性が選ばれたこと自体、初めてではないでしょうか。後ほど改めて書きます。

 以下、8日午後6時配信の週刊大司教第132回、年間第14主日のメッセージ原稿です。

【年間第14主日A 2023年7月9日】

 マタイ福音書には、「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と語られる主イエスの言葉が記されています。

 現代社会にあって、心の安らぎを見い出すことは容易ではありません。かつて安らぎの場の筆頭とも考えられた伝統的な家庭は広く崩壊し、地域共同体もその役割を果たしていません。その中にあって、私たち教会の役割は「人と人との出会いの中に安らぎを生み出すこと」ではないでしょうか。

 教会が、訪れる人に「重荷を負わせる場」ではなく、「安らぎを与える場」となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、「すべての人が仲良くともにいる」というのが理想ではあっても、現実的ではありません。異なる考え、性格、立場の人が、互いに理解することに苦労しながらも、安らぎを生み出す場となり得るのは、なぜでしょう。それはその安らぎが、ひとり一人の性格に頼るようなものではなく、「教会共同体の真ん中に現存される主イエスご自身からもたらされるから」に他なりません。ですから私たちは、互いに理解することの難しい異なる存在であるにもかかわらず、安らぎをもたらす主によって一致しているのです。

 残念ながら、そうであるべき教会でも、安らぎではなく、苦しみを生み出してしまっている現実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、天使のような人ではなく、私自身も含めて、罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。

 私たちの人間的知恵や経験による賢さは、しばしば自己中心的な世界を生み出し、まるで自分の周りに防護壁を築き上げるようにして、近づいてくる人を傷つけてしまいます。ですから、常に、自分の心に言い聞かせましょう-「教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。その私には、真ん中にいる主イエスが生み出される安らぎにまず満たされ、そしてそれを伝える務めがある」と。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致する時、私たちの心には神の霊が宿ります。主と共にある私たちは、主が与えてくださる安らぎを、自らも証しする道を選びましょう。

(菊地功=きくち・いさお=カトリック司教協議会会長、東京大司教)

  (編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2023年7月8日