・改めて「戦争は死だ」と声を上げたい―菊地大司教の年間第19主日メッセージ

2023年8月12日 (土) 菊地大司教の「週刊大司教」137回

2023_04_15_001 8月6日から15日まで、ともに平和旬間を過ごしている日本の教会です。12日は、午前中に平和を祈るミサをカテドラルで捧げ、その後、午後からいくつかの行事がありました。ミサの説教とともに、別途報告します。

 以下、12日午後6時配信の年間第19主日のメッセージ原稿です。

 【年間第19主日A 2023年8月13日】

 日本の教会は、過去の歴史を心に留め、その体験から謙遜に学び、同じ過ちを繰り返すことのないように行動するために、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。この時期、いつもよりさらに力を込めて、平和の実現のために祈り行動するように呼びかけています。

 マタイ福音はパンを増やす奇跡に伴う驚きと喧噪のやまない興奮状態の直後に、イエスが一人山に登って祈られたことを記しています。私たちは、特に感情が高ぶっているときには、どうしてもその感情にとらわれて、思いと行いが先走ってしまう誘惑の中で生きています。

 平和を求める願いも、なかなかそれが実現しないどころか、全く反対に平和をないがしろにするように現実を目の当たりにする時、どうしても心は高ぶり、感情と行動が先走ってしまうこともあります。思いが強ければ強いほど、この現実を目の当たりにすれば、当然の心の動きだと思います。

 しかしそんなときでも、イエスは、心の高ぶりから離れ、一人落ち着いて祈りのうちに振り返ることの大切さを教えています。

 平和旬間は、もちろん、現実の世界の中で次々と起こる命に対する暴力的な出来事を学び、それに対抗して行動するための重要な時期でもありますが、同時に、それが教会が定めた時期なのですから、祈りのうちに平和を願い、黙想し、振り返ることも忘れてはいけません。

 一つの体に様々な役割の部分があるように、キリストの体にも様々な部分があります。平和を求める願いも、具体的な行動でそれを示そうとする人もいれば、祈りを持ってそれを実現しようとする人もいる。それぞれにふさわしい方法で、この平和旬間を過ごしていただければと思います。

 戦争は自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではない」からこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることは可能です。暴力が世界を席巻し、命を守るためには暴力で対抗することも肯定するような風潮の中、私たちは神から与えられた賜物である命を守り抜くものとして、改めて「戦争は死だ」と声を上げたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月12日

・「私たちは主イエスとの出会いに心を揺さぶられたことがあるだろうか」菊地大司教「主の変容」主日に

2023年8月 5日 (土) 週刊大司教第136回:主の変容の主日

  

 8月6日は、「主の変容」の主日です。また広島の原爆の出来事を記憶するこの日から、9日の長崎の日を経て、15日までは、平和旬間です。

 毎年のように、私たちは平和を考え、平和を黙想し、平和を求めて祈り続けていますが、残念ながら、世界は命に対する暴力に満ちあふれています。くじけることなく、神の平和の実現を叫び続けていきたいと思います。

 8月5日の午後には、広島教区が主催する平和行事に参加し、共にミサの中で平和を祈りました。これについては別途記載します。以下、5日午後6時配信の、週刊大司教第136回目のメッセージ原稿です。

【主の変容の主日A 2023年8月6日】

 主の変容の主日にあたり、マタイ福音はイエスがペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネの眼前で栄光を示された出来事を記します。神の栄光に包み込まれたペトロは、あまりの驚きに何を言っているのか分からないまま、そこに仮小屋を三つ建てることを提案した、と福音は伝えます。ペトロはその栄光の中にとどまり続けたかったのでしょう。

 しかしイエスは、さらなる困難に向けて前進を続けます。モーセとエリヤは律法と預言書、すなわち旧約聖書を象徴する存在です。それは神とイスラエルの民との契約であり、神に選ばれた民の生きる規範でありました。響き渡る神の声は、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げます。つまり、イエスは旧約を凌駕する新しい契約であり、イエスに従う者にとっての生きる規範であることを、神ご自身が明確に宣言されたのです。

 ペトロはその手紙の中で、「私たちは、巧みな作り話を用いたわけではありません」と強調し、キリストの栄光に触れた時、どれほど心を動かされたのか、を強調します。ペトロが伝えたいことの原点は、変容を目の当たりにした時に、彼の心を揺さぶった驚きでありました。私たちは主イエスとの出会いに、心を揺さぶられたことがあるでしょうか。この人生の中で、どのような出会いに心を揺さぶられたことでしょうか。

 教会は今日から10日間を、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかける平和旬間と定めています。

 広島と長崎の日にはじまり終戦の日まで続く10日間は、抽象的な出来事ではなく、そこに1人ひとりの人間の心が揺さぶられた実体験の、積み重ねの10日間です。そしてその10日間にとどまるのではなく、原爆投下と終戦に至るまでの沖縄や南太平洋や中国や朝鮮半島を含めた人間の争いが生んだ悲劇の積み重ねと、いまに至るまで平和を確立することができずにいる中での多くの人の心の思いという、具体的な出来事の積み重ねでもあります。

 私たちは抽象的に平和を語るのではなく、神が愛してやまない賜物である一人ひとりの命が、今、危機に直面している事実を心に刻み、その一人ひとりの体験に心を揺さぶられながら、平和を語らずにはいられません。

 平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢を取り続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、命を暴力的に奪おうとする、すべての行動に抗うことでもあります。平和旬間にあたり、命の創造主が愛と慈しみそのものであることに思いをはせ、私たちもその愛と慈しみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月5日

・「すべてを投げ打ってでも、『宝』を手に入れる」菊地大司教の年間第17主日メッセージ

2023年7月29日 (土) 週刊大司教第135回、年間第17主日A

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 暑い毎日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 この時期、学校も夏休みに入り、教会のキャンプなど様々な行事があろうかと思います。どうか暑さに気を付けて、無理はなさいませんように。またWYDワールド・ユース・デーに参加する青年たちや同行司教、司祭、修道者も、すでにポルトガルに向けて出発しています。本番の大会が始まる前に、現地の教区との交流のプログラムが用意されています。こちらからフォローください。日本からは、勝谷司教、酒井司教、成井司教も同行しています。ヨーロッパも暑いみたいです。参加者たちの健康のために、またワールド・ユース・デーの成功のために、お祈りください。

 以下、7月29日午後6時配信の週刊大司教第135回、年間第17主日のメッセージ原稿です。

年間第17主日A 2023年7月30日

 マタイ福音は、「宝」について語るイエスのことばを記します。「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」です。ここでイエスが語る「宝」は、経済的な付加価値を与えてくれる財産としての「宝」ではなく、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、命を生かす「宝」であります。

 それをよく表しているのが、第一朗読の列王記の話です。神はダビデの王座を継いだソロモンに、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われます。それに対してソロモンは、経済的な付加価値を持った「宝」を求めることもできたでしょう。しかしソロモンは、自分の利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い、神から喜ばれることになります。その結果として、「知恵に満ちた賢明な心を」神から与えられたと、記されています。

 ソロモンは自分の利益ではなく、自分に託された神の民のための「宝」を求めた。ここに福音に記された、すべてを投げ打ってでも手に入れたくなる「宝」の意味が示されています。

 私たちが求め続ける「宝」は、自分の利己的な欲望を満たす宝ではなく、他者の命を生かし、社会の共通善に資するような「宝」であって、私たちが人生を賭けてでも求め続けなくてはならない「宝」であります。そして私たちには、その「宝」が、イエス・キリストの福音として与えられています。「宝」そのものである主御自身が、常に私たちと歩みを共にしてくださっています。人生のすべてを賭けて、その主に従っていきたいと思います。

 まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、毎年恒例の平和旬間が始まります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。

 夏になって戦争の記憶をたどり、平和を祈るとき、この教皇の言葉を思い出したいと思います。私たちは過去を振り返り平和を祈るとき、将来に対する平和を生み出す責任を担います。

 暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(「カトリック教会のカテキズム」1753項)。「戦争は死です」。賜物である命を生かす神の「宝」から目をそらすことなく、共に歩まれる平和の主に従って行きたいと思います。

2023年8月5日

・「愛と慈しみを社会の中に実現できるように」平和旬間へ東京大司教が教区民に呼び掛け

週刊大司教 2023年8月 4日 (金)2023年平和旬間、東京教区呼びかけ

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東京大司教区の皆様へ  2023年平和旬間にあたって

 暴力が生み出す負の力が世界に蔓延し、命が危機に直面する中で、私たちは「平和が夢」であるかのような時代を生きています。日本の教会は、今年も8月6日から15日までを平和旬間と定め、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかけています。

 3年にも及ぶ感染症による命の危機に直面してきた世界は、命を守ることの大切さを経験から学んだでしょうか。残念ながら、平和の実現が夢物語であるように、命を守るための世界的な連帯も、未だ実現する見込みはありません。それどころか、ウクライナでの戦争状態は終わりを見通すこともできず、東京教区にとっての姉妹教会であるミャンマーの状況も変化することなく、平和とはほど遠い状況が続く中で、時間だけが過ぎていきます。

 今年の平和旬間でも、平和のための様々なテーマが取り上げられますが、東京教区では特に姉妹教会であるミャンマーの教会を忘れることなく、平和を祈り続けたいと思います。

 ご存じのように、2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけに応え、聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断が出来るように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多の少数民族の方々のいのちが守られるように、信仰の自由が守られるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

 具体的な行動として、今年は久しく中断していた「平和を願うミサ」が、8月12日(土)11:00からカテドラルで捧げられます。このミサの献金は、東京教区のミャンマー委員会(担当司祭、レオ・シューマカ師)を通じてミャンマーの避難民の子どもの教育プロジェクト「希望の種」に預けられます。また、8月13日の各小教区の主日ミサは「ミャンマーの子どもたちのため」の意向で献げてくださるようお願いいたします。

 共に一つの地球に生きている兄弟姉妹であるにもかかわらず、私たちは未だに支え合い助け合うことができていません。その相互不信が争いを引き起こし、その中で実際に戦争が起こり、また各国を取り巻く地域情勢も緊張が続いています。そのような不安定な状況が続くとき、どうしても私たちの心は、暴力を制して平和を確立するために暴力を用いることを良しとする思いに駆られてしまいます。

 しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、命を創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ守られるものです。

 加えて、「カトリック教会のカテキズム」にも記されている通り、目的が手段を正当化することはありません(1753項参照)。暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定することはできません。「戦争は死です」(ヨハネ・パウロ二世の「広島平和メッセージ」)。

 教皇フランシスコは、2019年に訪れた長崎で、国際的な平和と安定は、「現在と未来の人類家族全体が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能」であると述べられました。その上で、「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。

 本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」と指摘され、軍備拡張競争に反対の声を上げ続けるようにと励まされました。

 命の危機にさらされ、困難の中で希望を見失っている人たちへの無関心が広がる世界では、異なるものを排除することで安心を得ようとする傾向が強まり、暴力的な力を持って、異質な存在を排除し排斥する動きが顕在化しています。平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢を取り続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、命を暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

 平和旬間にあたり、命の創造主が愛と慈しみそのものであることに思いをはせ、私たちもその愛と慈しみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

 カトリック東京大司教区 大司教  菊地功

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月5日

・「祖父母と高齢者のための世界祈願日」にあたってー菊地大司教年間第16主日メッセージ

2023年7月22日 (土)週刊大司教第134回:年間第16主日A

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 年間第16主日です。暑い毎日が続いています。大雨の被害を受けられた多くの方々、特に新潟教区の秋田県の皆様には、心からお見舞い申し上げます。

 教会は7月の第四日曜日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めており、今年は23日になります。日本では9月に敬老の日があるので、その前日(敬老の日が必ず月曜日ですから、その前日の主日)にこの世界祈願日を移動することにし、すでに教皇庁の許可を得ています。カレンダーの印刷などの都合もあるため、実施は、来年から、となります。この今年の世界祈願日のために教皇様のメッセージが発表されています。

 司教総会は予定通り終了しました。議決された内容については、後日カトリック新聞などをご覧ください。司教たちのためにお祈りくださった皆様に、心から感謝申し上げます。

 まもなくワールド・ユース・デーがリスボンで開催されます。それに先だって、事前の様々な行事のため、すでに日本を出発したグループもあるようですし、日本の司教協議会が主催するグループも、7月26日あたりから現地に向けて出発することになります。日本からは100名を遙かに超える青年たちが参加されます。司教団主催のグループも、帰国は8月10日頃です。暑い中の長旅です。健康が守られ、現地で良い祝福された出会いがあるように、ポルトガルのリスボンで開催されるワールド・ユース・デーのためにお祈りください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第134回、年間第16主日メッセージ原稿です。

【年間第16主日A 2023年7月23日】

 マタイ福音は、創造主である神が、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に二つを峻別すると語るイエスの言葉が記されていました。このたとえでの刈り入れの時とは、一般的に世の終わりの最後の審判の時であります。

 私たちが生きている今の世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。暴力が支配し、賜物である命が危機にさらされるような現実を目の当たりにする時、神が悪の存在を容認しおられるのか、と考えてしまいます。しかし。福音は、それは「刈り入れの時まで待っておられるのだ」とし、良い麦と悪い麦を見分けられる、その時を待っておられるのだ、と記して良います。

 すなわち、創造主である御父は「悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではない」ということを心に留め、毒麦をしのぐほど、良い麦が世界を支配するように、私たちはただ、傍観するのではなく、良い麦をさらに広くまき続ける努力をしなければなりません。私たちに与えられている使命は、「畑に入って毒麦を抜き取る」ことではなく、「良い麦の種をさらに広くまき続ける」ことに、他なりません。

 教会は7月の第四日曜日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めています。日本では来年以降は、聖座の許可を受けて、敬老の日のある9月にこの祈願日を移行することを決めていますが、今年はまだ7月に行われます。

 少子高齢化が多くの国で激しく進み、伝統的な家庭のあり方が崩壊する中で、かつては知恵に満ちた長老として社会の中に重要な立場を持っていた高齢者が、周辺部に追いやられ、忘れ去られていく状況が出現しました。高齢者にはそれまでに豊かに蓄えた知識を持って、次の世代につなぐ大切な努めがあることを教皇は強調し、若い世代と高齢の世代の交わりを勧めておられます。

 今年のメッセージで教皇は、今年の夏に開催されるワールド・ユースデーに近いことから、若い世代と高齢の世代の交わりに重要性を強調されて、こう述べておられます。

 「主は、若者たちに、年を重ねた人たちと関わることで彼らの記憶を大事に守りなさい、との呼びかけを受け入れるよう、そして高齢者のお陰で自分は大きな歴史の流れに属する恵みを与えられているのだ、ということに気づくよう期待しておられます」

 その上で、教皇は、「『即座に』ということばかりに、つまり『直ちに多くをもらおう、すべてを今すぐに』ということばかりに神経を使う人は、神の働きが見えなくなってしまいます。それに対して神の愛の計画は、過去、現在、未来を貫き、各世代へと及んで、それらを結び合わせます。それは私たちを超越した計画ですが、そこにおいては私たち一人ひとりが重要であり、何よりも自分を超えていくことが求められます」と語られ、「互いの存在に目を向け、すべての人を福音宣教に招かれる主の呼びかけに耳を傾け、支え合いながら共に歩みを続けるように」と招いておられるのです。

(編集「カトリック・あい」)

2023年7月22日

・「主の『あなたがたに平和があるように』の呼び掛けに応えよう」―8月6日からの平和旬間を前に司教教協議会会長が談話

(2023.7.20 カトリック中央協議会)

 カトリック中央協議会は20日、ホームページで、2023年平和旬間(広島に原爆が投下された8月6日から、長崎への原爆投下の日をはさんで、15日までの10日間)を前にした 日本カトリック司教協議会の菊地会長談話 「人間のいのちの尊厳を守るものは」を発表した。

 全文以下の通り。

1.命の尊厳に対する脅威と危機

 今から75年前、1948年12月10日、第3回国連総会は二度も繰り返された世界大戦がおびただしい尊い人命を奪い去ったことを深く反省し、世界人権宣言を採択しました。世界人権宣言は、その第1条で、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と述べています。
教会は、すべての人は神の似姿として造られその命の尊厳を与えられているとして、「人間の尊厳は人間社会が作り出したものではなく、神によって与えられたもので、その尊厳に基づく権利は誰も侵してはならない普遍的な権利である」(日本司教団の戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道~今こそ預言者としての役割を」-2005年カトリック平和旬間-参照)と繰り返し主張し続けてきました。しかしながら、今、私たちの眼前で展開しているのは、神からの賜物である命の尊厳をないがしろにし、暴力的に奪い去ろうとする世界の現実です。

 

2.ウクライナ戦争

 とりわけ、いまだに解決の糸口さえ見えないウクライナへのロシアの武力侵攻は、多くの命を危機に直面させ、その尊厳を奪い続けています。命を守り平和を希求する多くの人の願いを踏みにじりながら、命の危機が深刻化しています。理不尽な出来事を目の当たりにして、その解決の糸口さえ見えない中で、世界は思いやりや、支え合いといった連帯よりも、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に押し流されています。
暴力を肯定する感情は、国家間の相互不信と相まって、武力による抑止力の容認につながり、日本においても自衛の名の下に武力の増強が容認されていることは憂慮すべき状況です。
しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、命を創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ、守られるものです。

 

3.在留資格のない子どもたちへの人道的配慮

 日本も例外ではありません。様々な状況の中で人間の尊厳が奪われ、尊い賜物である命が危機に直面しています。諸々の問題点が指摘される中で、先般国会では、出入国管理及び難民認定法の改正案が可決成立しました。
私たち日本カトリック司教団は、在留資格のない両親の下に日本で生まれ育ち、強制送還の危機にさらされている300人とも言われる子どもたちとその家族に在留特別許可を与えるよう、2022年3月25日に当時の古川禎久法務大臣に要望書を送付し、その後、オンラインでの署名活動も実施いたしました。残念ながら、この子どもたちを含め、多くの人間の尊厳が危機に直面し続けています。
一人ひとりの命には価値の違いはなく、その尊厳において平等である、と主張する立場から、人間の尊厳を尊重し、必要な人道的配慮をしてくださることを、これまでもお願いし、またこれからも主張し続けて参ります。

 

4.排除をなくす連帯の必要性

 命の危機にさらされ、困難の中で希望を見失っている人たちへの無関心が広がる一方で、異なるものを排除することで安心を得ようとする社会の傾向も強まっており、排除や排斥によって人間の尊厳が危機にさらされる事態は深刻化しています。

 教皇フランシスコは、この3年間の感染症の状況の中で、よりよい未来を生み出すためには、連帯こそが不可欠だと主張し続けておられます。とりわけ弱い立場にある人への思いやりの重要性を説き、今年の復活祭には全世界へのメッセージで、次のように祈られました。
「難民、追放された人、政治犯、家を離れざるを得なくなった人、特にもっとも弱くされ、飢餓や貧困、麻薬取引、人身取引、あらゆる種類の奴隷制のひどい影響を被っている人々を慰めてください。主よ、いかなる男女も差別されず、尊厳が傷つけられることはない、と保証するよう、各国の指導者たちを奮い立たせてください。さらに人権と民主主義を完全に尊重することで、これらの社会的な傷が癒されますように。市民の共通善がいつも、それ単独で追求されますように。対話と平和的共存のために必要な安全と条件が保障されますように」。

 

5.キリストの平和を私たちに

 私たち教会は、人間の尊厳を守り、すべての命を大切にする社会の実現を希求し、思いやりと支え合いによる連帯が実現する社会へと変わっていくことを目指しています。
困難な状況にあっても、互いに支え合い、ともに歩む連帯を、具体的な愛の行動で示している多くの方がおられます。誰も取り残されない世界を実現するために行動している方々は、不安と不信の暗闇に輝く希望の光です。

 教皇フランシスコは、先のメッセージを、次のように締めくくっておられます。

 「命の主よ、私たちが自分の旅路を歩む中で、勇気づけてください。そして、あのご復活の晩に弟子たちになさったように、私たちにも繰り返しおっしゃってください。『あなたがたに平和があるように』(ヨハネ福音書20章19、21節)と」。

 私たちも、平和旬間に当たり、一人ひとりの人間の尊厳が守られ、その権利が尊重され、命が守られる平和な世界が実現するよう、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられる主の言葉に、力をいただき、平和の実現のために働き続けましょう。

 

 2023年7月7日 日本カトリック司教協議会会長 カトリック東京大司教 菊地 功

 

(編集「カトリック・あい」=注:談話の原文にある「いのち」「わたし」などの表記は、現代日本社会で一般に使われている当用漢字表記に統一しました。この談話のキーワードである当用漢字表記の「命」は、もともと「令」に「口」を付けた表形文字で、「祈りを捧げる人に神から与えられるもの」を表わすとされています。ひらがな表記では表現されない深い意味がこの一つの言葉にあるのです。また、日本のカトリック、プロテスタントの指導者の下で、専門家の共同作業で作られた最新の聖書訳「聖書協会・共同訳」では、「命」も「私」も当用漢字表記とされています。日本の司教団もこれに倣うことを期待します)

2023年7月20日

・「命を守らない社会では、神の言葉の種も豊かな実りを生み出せない」菊地大司教の年間第15主日の言葉

2023年7月15日 (土)週刊大司教第133回:年間第15主日A

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 年間第15主日です。

 日ごとに暑さが増し、不安定な天候も続き、各地で大雨の被害も出ています。災害で困難な状況の中におられる方々にお見舞い申し上げるとともに、命が守られるようにお祈りいたします。

 大分教区の名誉司教であるペトロ平山高明司教様が15日未明に帰天されました。99歳でした。明日日曜の午後6時半から仮通夜、月曜17日午後6時半から通夜、18日火曜日の午前11時から葬儀、とのお知らせが届きました。いずれも大分のカテドラル、大分教会です。

 平山司教様は1970年から2000年まで大分教区司教を務められ、引退後の2008年から9年間、「新求道共同体の道」のローマにある日本のための神学院の院長もお務めでした。平山司教様の永遠の安息をお祈りいたします。

 司教総会が18日午後から21日まで、開催されます。全国の司教が全員集まります。司教たちのために、お祈りください。

 以下、15日午後6時配信、週刊大司教第133回、年間第15主日メッセージ原稿です。

【年間第15主日A 2023年7月16日】

 神の言葉は、常に私たち共にいてくださる神の現存です。なぜなら、世の終わりまで私たちとともにいてくださる、と約束された主イエスこそ、「人となられた神の言」であるからに他なりません。この世界の現実の中にあって、神の言葉は、様々な方法を通して、幾たびも幾たびも繰り返され、響き続けているにもかかわらず、いまだに世界全体に浸透していません。

 ヨハネ福音書の冒頭に「言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった(1章10・11節)」と記されている通りであります。神はご自分の言葉を、種のようにまき続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

 ですから、私たちは、神がまき続けておられる種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように、努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶように、と事前にしておかなくてはならない準備があります。

 その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、私たち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛と慈しみの証しであります。人との関わりの中で、私たちの言葉と行いは、神の言葉の種がまかれる土壌を良いものとしていくための、最も力のある道具であります。神の言葉が豊かに実るときに、そこには、賜物である命を最優先にして守り抜く世界が実現しているはずです。命を守らず、生かさない社会という土壌で、神の言葉の種が豊かな実りを生み出すことはできません。

 インターネットが普及している現代社会では、ネット上に残されていく言葉も、神の愛と慈しみを証しするものでなければなりません。時にクリスチャンを標榜しながら、他者の命に対して攻撃的になるような、極めて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にする時、いったいどのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのか、と思い、悲しくなることがあります。私たちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても、「自分の語る言葉と具体的な行いは、神の言葉の種をまく土壌を準備するためなのだ」と常に心しておきたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=日本カトリック司教協議会会長、東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2023年7月15日

・「私たちの教会は『安らぎを与える場』になっているだろうか」菊地大司教の年間第14主日

2023年7月 8日 (土) 週刊大司教第132回:年間第14主日A

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   年間第14主日です。

   東京カトリック神学院の常任司教委員会は、通常は潮見で集まりますが、年に二回、7月と12月に、上石神井の神学院に一泊して会議をしています。木曜日の晩の祈りから参加し、食後には神学生との話し合い。翌朝はミサを一緒に捧げて、その後に常任司教委員会の会議です。

   現在は、東京カトリック神学院は東京教会管区と大阪教会管区が運営にあたっていますので、常任もそれぞれの管区から一人づつ。広島の白浜司教、京都の大塚司教、横浜の梅村司教、そしてわたしで、委員長は大塚司教です。これ以外に年に二回、司教総会の時に、関係するすべての司教が参加しての神学院司教会議が行われます。

  この7月6日と7日が、今年の最初の一泊会議でしたので、神学院に泊まってきました。6日の夜には神学生を四つのグループに分け、それぞれに一人ずつ司教が入って、いろいろと話をする機会がありました。私が参加したグループには、4名の神学生が参加し、札幌教区の千葉助祭が進行を務め、私も含めて自分の召命の話や、これからの日本の教会の歩みについて、分かち合いの時を持ちました。

 また今朝、7日は、朝ミサの司式をさせていただきました。神学院は6時半の朝の祈りがすべてが歌唱で行われます。普段は一人で唱えるだけの詩編ですが、共同体の皆さんと一緒に歌うことで、その詩編の豊かさが心に染み入ります。

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 ご存じのように、東京教区の神学生は現在2名です。神学課程に一人、哲学課程に一人。どうか召命のためにお祈りくださると同時に、司祭の道を考えている方がおられたら、勇気を持って一歩踏み出すように励ましてください。

 その道を考えている方は、まずご自分の教会の主任司祭に相談してみてください。それぞれの事情に応じて、教区の養成担当の司祭につないでくれるでしょう。

 毎年9月が入学願書の締め切りですが、そのギリギリで良いのかというと、そうでもないのです。まず志願者がどのような方かを、教区養成担当者が知る必要がありますから、神学院への入学願者を出す前に、時間が必要です。

 条件は23歳以上、高卒以上、独身、男性。普段からご自分の小教区の司祭と召命についてよく話し合ってください。司祭召命は個人の召命にとどまらず、共同体が生み出すものでもあります。ですから小教区とのつながりは大切です。司祭の道をお考えの方は、是非早めに、主任司祭にご相談ください。

 10月の世界代表司教会議(シノドス)総会の参加者が7日に教皇庁から発表されました。歴史的な出来事です。日本からは西村桃子さんが議長団の一人に選出されました。女性が選ばれたこと自体、初めてではないでしょうか。後ほど改めて書きます。

 以下、8日午後6時配信の週刊大司教第132回、年間第14主日のメッセージ原稿です。

【年間第14主日A 2023年7月9日】

 マタイ福音書には、「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と語られる主イエスの言葉が記されています。

 現代社会にあって、心の安らぎを見い出すことは容易ではありません。かつて安らぎの場の筆頭とも考えられた伝統的な家庭は広く崩壊し、地域共同体もその役割を果たしていません。その中にあって、私たち教会の役割は「人と人との出会いの中に安らぎを生み出すこと」ではないでしょうか。

 教会が、訪れる人に「重荷を負わせる場」ではなく、「安らぎを与える場」となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、「すべての人が仲良くともにいる」というのが理想ではあっても、現実的ではありません。異なる考え、性格、立場の人が、互いに理解することに苦労しながらも、安らぎを生み出す場となり得るのは、なぜでしょう。それはその安らぎが、ひとり一人の性格に頼るようなものではなく、「教会共同体の真ん中に現存される主イエスご自身からもたらされるから」に他なりません。ですから私たちは、互いに理解することの難しい異なる存在であるにもかかわらず、安らぎをもたらす主によって一致しているのです。

 残念ながら、そうであるべき教会でも、安らぎではなく、苦しみを生み出してしまっている現実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、天使のような人ではなく、私自身も含めて、罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。

 私たちの人間的知恵や経験による賢さは、しばしば自己中心的な世界を生み出し、まるで自分の周りに防護壁を築き上げるようにして、近づいてくる人を傷つけてしまいます。ですから、常に、自分の心に言い聞かせましょう-「教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。その私には、真ん中にいる主イエスが生み出される安らぎにまず満たされ、そしてそれを伝える務めがある」と。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致する時、私たちの心には神の霊が宿ります。主と共にある私たちは、主が与えてくださる安らぎを、自らも証しする道を選びましょう。

(菊地功=きくち・いさお=カトリック司教協議会会長、東京大司教)

  (編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年7月8日

・日本に最初にやってきた女子修道会、「幼きイエス会」の来日150周年感謝ミサ行われる

(菊地大司教 2023年7月 7日 (金) 幼きイエス会来日150周年感謝ミサ

 「ニコラバレ」で知られる「幼きイエス会」。東京の四谷にある雙葉学園を始め、各地で学校教育にも取り組んで来られました。日本に宣教のために最初のシスターが来日して、すでに151年です。

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 日本に最初にやってきた宣教師はフランシスコ・ザビエルで、よく知られていますが、最初に日本にやってきたシスターは幼きイエス会のメール・マチルドと4名の会員です。その意味で、幼きイエス会のシスター方は、日本の福音宣教のパイオニアです。

 来日150年を記念する行事が関係する各所で一年間行われ、その締めくくりの感謝ミサが、総長様(上の写真)も迎えて、6月24日午後、麹町聖イグナチオ教会で捧げられました。教皇大使とともに司式させていただきましたが、以下、当日の説教の原稿です。日本語の後に、サマリーが英語でついています。

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 幼きイエス会のみなさん、おめでとうございます。

【幼きイエス会来日150周年感謝ミサ 麹町教会 2023年6月24日】

 幼きイエス会のシスター方が、再宣教が始まったばかりの日本で、福音を証しする活動を始められて、既に150年以上が経過しました。長い迫害の時代を経て、大浦天主堂において聖母の導きのもと、信徒が再発見されたのが1865年。今から158年も前のことであって、その時はまだ明治にもなっていません。その後、改めて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのが1873年。ちょうど150年前の出来事です。

 150年が経った今、現代社会の視点からその当時の状況を推し量ることは簡単ではありません。私たちからは考えられないような困難に直面されたことでしょう。とりわけ、外国からやってきた宣教師として、ただ単純に日本で生きるのではなくて、福音を具体的に伝え、証しする業に取り組むことには、今では考えられない困難があったことだと思います。

 その困難な状況の中にあっても、シスター方には、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」にこそ御一人子が受肉されたこと、そしてそれは、「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」であったことを心に刻み、人生を賭けて、天の御父の御心をあかしされて行かれました。

 志を同じくする仲間達は、修道会のカリスマを具体的に生きながら、キリストの一つの体のそれぞれの部分として、社会において言葉と行いを通じて希望の光を証しすることに真摯に取り組み、いま150年という時を刻みました。これまでの歴史を刻んできた修道会の先達の奉献の志しとその働きに心から感謝いたしましょう。またその宣教活動の始まりからいまに至るまで、幼きイエス会のみなさんを導いてくださる主のはからいを心にとめ、その招きにこれからも信頼のうちに応え続ける決意を新たにしたい、と思います

 幼きイエス会のホームページの冒頭に、ニコラ・バレ神父様のことが記されていました。

 17世紀、貧富の差の激しかった当時のフランスで、貧しい家庭の子どもたちの教育が顧みられていない現実の中で、彼らが神の子の尊厳にふさわしく育つのを助けるため、無料の小さな学校を始め、その学校の女教師たちのグループが、幼きイエス会の起源だと記されていました。

 また、「貧しく、打ち捨てられた子供を受ける者は、まさに、イエス・キリストご自身を受けることになる。これこそ、本会の第一の、そして主要な目的である」という言葉も記されていました。その思いを具体的に生きるために、女子の教育や孤児の世話など、社会に大きく貢献される事業を日本においても続けて来られたのは、まさしく福音を目に見える形で生き、証しする福音宣教の業であったと思います。

 それから150年という年月を経て、今、問われているのは、大きく変革した社会の状況の中で、その同じ思いを生きるとは具体的にどういうことなのか、改めて問いかけることであり、それこそは日本の再宣教におけるパイオニアである幼きイエス会の重要な務めであるとも思います。

 私たちはこの3年間、歴史に残る困難に直面してきました。

 新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、私たちを不安の暗闇の中へと引きずり込みました。なかなか出口が見えない中を、私たちはまるで闇の中を光を求めて彷徨い続けるような体験をいたしました。

 命が危機に直面するというような体験は、なかなかあるものではありません。その意味で、先行きの見えない不安がいかに人を疑心暗鬼の闇に引きずり込み、それが社会全体において、いかに自己保身と利己主義を強め、排他的にしてしまうのかを、目の当たりにしたことは、貴重な体験であったと思います。

 今、世界はまるで暴力に支配されているかのようです。ウクライナで続く戦争は言うに及ばず、神から与えられた尊い賜物であるいのちを危機に直面させるような状況は、偶然の産物ではなく、社会全体が排他的になり暴力的になった結果であり、私たちが生み出したものです。

 この現実の中にあるからこそ、私たちは、教会が存在する理由を改めて見直し、それに忠実に生きていきたいと思います。第二バチカン公会議の教会憲章は、教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」(教会憲章一)であると記します。

 今、私たちはこの日本の地において、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」になっているでしょうか。

 教皇フランシスコは、コロナ禍の初め頃から、ポストコロナを見据えて、全世界的な連帯の重要性を説き続けてきました。教会こそは、その連帯を具体的に生きることで、「神との親密な交わりと一致」を証しする存在となることができます。

 今の世界を支配する疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まるなかにあって、教皇様は、神の慈しみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるように、と呼びかけておられます。

 とりわけ教会が、神の慈しみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「命の福音を告げる、ということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷の癒しと、和解と赦しの道を、常に差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

 疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としている命を、特に法的に弱い立場にある人たちを、命の危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。異質な存在を排除する力が強まっています。この現実の中で、私たちは神からの賜物である命を守る、野戦病院でありつづけたいと思います。

 来日150年を記念され、新たな次の一歩を模索される中で、皆さんが「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」であり続け、野戦病院であり続けることができますように、聖霊の導きを祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年7月8日

・「愛と慈しみを具体的な行動で証しし、すべての人に神の栄光と希望を伝えていこう」菊地大司教の年間第13主日

2023年7月 1日 (土) 週刊大司教第131回:年間第13主日A

    年間第13主日です。

   6月29日は聖ペトロ聖パウロの祝日でしたが、毎年、この日に一番近い6月最後の月曜日には、東京カテドラルにおいて司祭の月例集会の代わりに両聖人の記念日のミサが捧げられてきました。これは、1938年に司教叙階された土井枢機卿様から、白柳枢機卿様、そして2017年に引退された岡田大司教様に至るまで、実に80年近くも、東京の三代の教区司教の霊名が「ペトロ」であったことから、自然と「大司教の霊名のお祝い」になっていたようです。ところが私の霊名が「タルチシオ」で、「ペトロ」ではなかったものですから、この方程式が崩壊しました。

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 そこにコロナもありましたので、いろいろと考え直し、この日は「聖職者の集い」として、「主に叙階の節目の年を記念している司祭のお祝いのミサ」とすることにしました。今年も、司祭叙階ダイアモンド(60年)、金祝(50年)、銀祝(25年)をお祝いする東京で働いておられる司祭をお招きし、教皇大使も参加する中、感謝ミサを捧げました。今年お祝いを迎えられた方々については、次の教区ニュースをご覧ください。

 その次の火曜日に私はマニラへ飛び、金曜日まで、マニラに本拠地を置く「ラジオ・ベリタス・アジア」の会議に参加してきました。現在私が事務局長を務めるFABC(アジア司教協議会連盟)が設置し、フィリピンの司教団に運営を委託している大切な事業です。かつては特に中国に向けて短波の放送をすることに一番の力点がありましたが、時代が変わり、インターネットです。数年前に短波の事業は終了し、インターネットを通じた放送へと大きく舵を切りました。

 二日間の会議の終わり、29日の夕方6時から、マニラのカテドラルで、教皇様のための日のミサに参加させていただきました。

 毎年、聖ペトロ聖パウロの祝日に、教皇様のためにミサを捧げられており、この日は教皇大使のチャールズ・ブラウン大司教が司式、マニラ大司教のアドヴィンクラ枢機卿様が臨席の形で、ミサが捧げられました。こちらのリンクに、当日のビデオがあります。ミサは英語です。音楽がすごかった。

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 以下、1日午後6時配信の年間第13主日のメッセージ原稿です。

【年間第13主日A 2023年7月2日】

  マタイ福音は、「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」という主イエスの言葉を記しています。「自分の十字架」とは、いったい、何でしょうか。苦行を耐え忍ぶことでしょうか。それとも、人生の諸々の苦難を背負ってしまうことでしょうか。

 私たちにとって、十字架とはいったい何でしょう。マタイ福音に記されたこの言葉は、「主にふさわしいものとなるため」の条件である十字架です。それは前向きな行動を促す言葉です。

 パウロはローマの教会への手紙に、「私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられように、私たちも。新しい命に生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には「十字架」が存在します。すなわち、私たちは「十字架」を通して主の死にあずかり、主と共に、新しい命を慈しみに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。

コリントの信徒への第一の手紙、一章十七節に、パウロはこう記します。

「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

 もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、「その前提としてまず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだ」と、パウロは宣言しています。

 加えてパウロは、「しかも」と続け「福音を言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなる」と言うのです。ここで初めて、パウロが語る「十字架」の意が明らかになります。神ご自身による、具体的で目に見える愛の証しが「十字架」です。十字架は、人間の救いのために、神ご自身がその愛と慈しみをもって具体的に行動した「愛の証し」そのものです。

 十字架は、重荷や苦しみではなく、積極的な愛の行動の象徴です。私たちが神からよし、とされるのは、神の愛と慈しみをいただいて、自らそれを積極的に証しする行動を選択したときです。十字架を証しするものとなりましょう。愛と慈しみを具体的な行動で証しし、すべての人に神の栄光と希望を伝えていきましょう。

2023年7月1日

・「私たちには賜物である命を例外なく守り抜く務めがある」-菊地大司教、年間第12主日に

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 週刊大司教も130回目となりました。毎回ご視聴いただいている皆様には、心から感謝申し上げます。以前から申し上げているとおり、視聴回数が1000回を下回る事が続いた場合は、プログラムの継続に関して判断させていただきたいのですが、今のところ、毎回、おかげさまで1000回を上回るご視聴をいただいています。福音に基づく黙想と祈りの機会をともにしてくださる皆様に、感謝します。少しでも皆様の霊的な糧の一つになっているのであれば、それは幸いです。

 6月24日午後に、イグナチオ教会で、幼きイエス会(ニコラ・バレ)の来日150周年感謝ミサが捧げられました。来日はキリシタン禁制の高札が撤去される一年前の1872年です。その後、女子教育に力を注ぎ、雙葉学園を中心に活動されておられます。幼きイエス会では150年にあたる昨年から各地で記念の行事を行い、今回のミサが、記念行事の締めくくりと伺っています。会員の皆様の150年の献身的な活動に心から感謝申し上げるとともに、修道会の志を受け継いで、現在も学校教育に携わってくださる多くの方々に、心から感謝申し上げます。

 以下、6月25日午後6時配信の週刊大司教第130回、年間第12主日のメッセージ原稿です。

【年間第12主日A 2023年6月25日】

 人間の知恵とか、力とかを、はるかに超えたところに、父なる神はおられます。私たちは人間の身勝手な思いではなく、この世界を創造し、この命を賜物として与えてくださった神の思いを実現するために、恐れることなく努めていきたいと思います。私たちには、神がその愛と慈しみの結実として創造され、神の似姿としての尊厳を持って与えられた賜物である命を、その始まりから終わりまで、例外なく守り抜く務めがあります。

 しかしながら、コロナ禍にさいなまれた世界は、無関心のグローバル化によって利己的になり、自己保身は暴力的な行動を生み出し、今や世界は暴力と排除によって支配されているかの様相を呈しています。とりわけ社会にあって弱い立場に追いやられている人たちを守ることは、教会の尊い務めであるにもかかわらず、神の思いに心を向けることなく、その命の尊厳を守ることよりも危機に追いやるような傾きを、肯定する声が大きくなることは残念なことです。

 教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮は命の尊厳に基づいて強調されなければならない、と繰り返して来られました。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されたりす人たちが、世界には多く存在します。教皇は、危機に直面する命の現実を目前にして、キリストに従うものがそれを無視することは出来ない、と強調されます。法律的議論も大事ではあるけれど、まず優先するべきは、命をいかにして護るのか、であることを指摘してやみません。

 教皇就任直後に、アフリカからの難民が押し寄せる地中海に浮かぶランペドゥーザ島を司牧訪問されたことが、教皇の姿勢を象徴しています。母国を離れようとする人には、他人が推し量ることなどできない、様々な事情と決断があったことでしょう。それがいかなる理由であったにしろ、危機に直面する命に、いったい誰が手を差し伸べたのか。その境遇に、その死に、誰が涙を流したのか。誰が一緒になって彼らと苦しんだのか。教皇は、力強くそう問いかけられました。

 教会は、移住者の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳を優先しなければならない、と長年にわたって主張してきました。教皇ヨハネパウロ二世の1996年の言葉です。

 「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません」(1996年の世界移住の日メッセージ)」

 神が与えてくださった賜物である命を最優先とする道に、神の愛と慈しみは私たちを導いています。

(菊地功=きくち・いさお=東京教区大司教、カトリック司教協議会会長)

2023年6月24日

・「すべてのキリスト者に、各々の場、才能で、神の国の完成に働くことが求められている」ー菊地大司教、年間第11主日に

2023年6月17日 (土) 週刊大司教第129回:年間第11主日A

 6月16日はイエスの聖心(みこころ)の祭日でした。6月は聖心の月とされています。2023_06_14_0004

 イエスの聖心は、私たちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスの聖心からあふれ出て、人類の罪をあがなう血です。また水が、命の泉であり、新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスの聖心」の祭日が設けられています。

 聖心の信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。

 そして聖心の信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9か月の間、初金曜日のミサにあずかり、聖体拝領を受ける人には特別な恵みがある、とされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。(イエスの聖心への信心に関連して、次のリンクに、教皇ベネディクト16世が2006年にイエズス会総長にあてた書簡の訳が掲載されています。)

 今年は、祭日の前の日の木曜日、その名も「聖心女子大学」で、イエスの聖心のミサを捧げる機会に恵まれました。毎週木曜日の昼休みに、学生のためのミサを続けておられますが、その一つを毎年、担当させていただいてきました。今年は大学の聖堂に150名ほどの学生さんとスタッフが集まり、ミサに参加してくださいました。イエスの聖心がそうであるように、大学も社会にあって、安らぎをもたらし、希望を生み出す存在でありますように。

 以下、17日午後6時配信、週刊大司教第129回、年間第11主日のメッセージ原稿です。

年間第11主日A 2023年6月18日 「収穫は多いが、働き手が少ない」

 豊かに実っているにもかかわらず、それを収穫する人が足りない。だから働き手をさらに必要なのだ。そのように理解すると、例えば、日本での福音宣教の厳しい現実を目の当たりにして、一体どこにその豊かな実りがあるのだろうか、と問いかけてしまいます。

 この言葉は、それよりももっと根本のところを問いかけています。つまり神の国の完成のためには、「神が求められるこの地上でするべきこと、しなければならないことは山積しており、それに取り組むための働き手がもっと必要なのだ」という意味でしょう。加えて、この言葉は単に、司祭の召命の必要性だけを説いているものでもありません。もちろん司祭は必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

 主御自身が「働き手」として最初に選ばれた12人の弟子たちも、決して皆が同じような人だったのではなく、様々な性格、様々な才能、様々な思いを持った異なった人たちでありました。まさしく多様性のうちにある人々です。その多様性ある共同体は、「天の国は近づいた」と告知する使命によって一致していました。それぞれが、それぞれに与えられた才能を生かし、異なる方法で、しかし同じ務めを果たすことで、多様性における一致が、弟子たちの共同体に実現し、証しされていきました。同じように、現代社会に生きる教会共同体は、一つの体を形作る一人一人が、それぞれに与えられた才能を生かし、それぞれに異なる方法で、しかしキリストの福音を告げ知らせるのだという同じ思いによって結ばれるとき、多様性における一致が実現します。

 教皇フランシスコは回勅「兄弟のみなさん」に、こう記しておられます。

 「命があるのは、絆、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・それとは逆に、『自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだ』とうぬぼれるなら、そこに命はありません(87項)」

 私たちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手は私たちです。私たちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜなら、キリストの体である共同体にこそ、命があるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、私たちを生かす源である命があります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。共に助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の中で「働き手」として、収穫の業、すなわち福音の証しに努めて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年6月17日

・「聖体のいけにえは、キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」ー菊地大司教の「キリストの聖体の主日」

2023年6月10日 (土)週刊大司教第128回:キリストの聖体

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 キリストの聖体の主日です。

 昔ガーナにいた頃は、キリストの聖体の主日には、聖体行列をして村の中を回りました。村の方の半分ほどが信徒だからこそ意味がありました。村の四カ所にステーションを設け、祈りを捧げ、その地域にご聖体を持って祝福をして回りました。もちろん聖歌隊と多くの方が、一緒に行列を作って回りました。

 ご聖体における主の現存を確信し、その愛と慈しみに感謝するとともに、一つの体へと集められた一致の秘跡の絆のうちに、互いに信仰者が結ばれていることを確認し、確信するためにも、そういった村での聖体行列には大きな意味がありました。

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 私たちも、ご聖体のうちに現存される主が、教会共同体とともに歩んでくださることを、この日、再確認したいと思います。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第128回、キリストの聖体のメッセージ原稿です。

【キリストの聖体の主日A 2023年6月11日】

 ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえと共に自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11項)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、私たちと共に常におられます。

 ご聖体の秘跡は、「私と主との交わり」という意味で極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。私たちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。

 ですからたとえ司祭がひとりでミサを捧げたとしても、それは司祭の個人的信心のためではなく、共同体の交わりのうちにあって、司祭はミサを捧げます。

 教皇ヨハネパウロ二世の「教会に命を与える聖体」には、次のように記されています。

 「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31項)

 パウロはコリントの教会への手紙で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

 私たちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。

 私たちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、命を分かち合い、愛を共有するという「交わり」の中で、生きている信仰です。

 ご聖体をいただく私たちは、一つのキリストの体に与り、キリストの体をともに形作るものとして、キリストにおける一致を証しするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、共にいてくださることをたたえるのみならず、ご聖体をいただく私たちが交わりのうちに一致していることを積極的に証しする決意を新たにする時でもあります。

(菊地功=きくち・いさお=日本カトリック司教協議会会長、東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2023年6月10日

・「キリストの恵み、御父の愛、聖霊の導きで、一致のうちにある教会に」菊地大司教の三位一体の主日

2023年6月 3日 (土) 週刊大司教第127回:三位一体の主日A

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   三位一体の主日となりました。また6月はイエスの御心の月でもあります。

    聖霊降臨からのこの一週間、月曜日には東京教区で働く司祭の毎月の集まりが行われました。教区司祭も修道会や宣教会の司祭も、小教区司牧で働くすべての司祭が、毎月一度カテドラルに集まり、まず大聖堂で昼の祈りをともにしてから、ケルンホールで研修などを行っています。なかなか全員がそろうことはないのですが、それでも多くの司祭が参加してくださっています。

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    今月の集まりでは、先般叙階された新司祭の中から、東京で働いている5名が来てくださり、それぞれの抱負などについて分かち合った後、小グループに分かれて、先輩の司祭たちと、司牧の課題やこれからの展望について分かち合いのひとときを持ちました。

   教区、修道会と、それぞれ働く場所や役割は異なりますが、日本における、また特に東京における福音宣教のために働くというところでは一致しています。これからの活躍に期待したいと思います。

 今は小教区の兼任も増えており、心身ともに多くのストレスに直面する司祭も少なくありません。どうか、どうか、司祭のためにお祈りくださいますように、お願いいたします。

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   火曜日と水曜日は、大阪まで出かけ、梅田にある大阪梅田教会(東京の梅田教会と区別するためこう呼ばれますが、一般には大阪の梅田教会)を会場に開催されていた、日本の男子修道会管区長会と女子修道会総長・管区長会の合同の総会で、お話をさせていただきました。

    初日の火曜日には午後から教皇大使の講話と、開会ミサがあり、私は二日目の聖母の訪問の祝日のミサを司式し、そのあとに一時間程度のお話を午前と午後の二回させていただきました。テーマは、もちろん、シノドスです。私は講話が終わってすぐ、木曜日に東京で会議があるため大阪を離れましたが、総会は、火曜日から金曜日までの日程で行われ、修道者・奉献生活者の担当である山野内司教様が、すべての日程に参加されました。

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   木曜日はいつものように常任司教委員会と、東京カトリック神学院の常任会議。金曜日は午前中に司祭生涯養成委員会の会議と、その後に銀座で聖書協会の財務委員会…   会議が続いた一週間でした。

 なおこの間に、6月1日付で東京教区ニュースが発行されています。その一面には、今回私が国際カリタスの総裁に選出されたことに関するインタビュー記事が掲載されています。ご一読いただければ幸いです。

   また様々な教区の働きや、ケルンとミャンマーとの関係、さらにはシノドスについての記事、坂倉神父様の訃報なども掲載されていますが、もうひとつ、カトリック美術展の記事が掲載されています。毎年この時期に、カトリック美術協会が主催して、有楽町のマリオンにあるギャラリーで開催しています。今回で67回目です。こちらの記事もご一読いただけると幸いです。来年の開催も決まっています。2024年は5月17日から22日です。

   以下、本日午後6時配信、週刊大司教第127回、三位一体の主日のメッセージ原稿です。

(  三位一体の主日A   2023年6月4日)

    ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさんとともに」と呼びかけます。

    この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。コリントの共同体への様々な忠告や教えに満ちあふれた書簡を、パウロのこの祝福の言葉で締めくくります。

    そして今を生きる私たち教会は、その締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、常に新たなスタートを切っています。

 教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされていきます。自ら創造された賜物である命を生きる人間を、一人たりとも滅びの道に捨て置くことはありません。神の愛における決意は、この三位一体の神を表す言葉に満ちあふれています。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛を降り注ぐ、神の愛の迫力を感じさせる神秘であります。

 私たちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。私たちは、過去に戻りません。

 教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう書いておられました。

 「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。」(33)

 私たちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」によって、繋がれています。ですから、私たちはどこにいても、常に、「教会」です。

 「兄弟たち、喜びなさい」とコリントの教会に呼びかけたパウロは、「思いを一つにしなさい」と諭しています。私たちが語るキリストの体における一致は、同じことを同じように考えて、同じように行動する、一緒とは違います。聖霊は私たち一人ひとりに異なる賜物を与えられた。その聖霊の賜物を忠実に生かし、聖霊の交わりの中に生きるとき、私たちは異なる場で異なることをしていても、同じ聖霊に満たされ導かれることで一致しています。

 主キリストの恵みに満たされ、御父の愛に包まれ、聖霊の導きにともに身を委ねることで、一致のうちにある教会でありましょう。

2023年6月3日

・「聖霊の働きに身を委ねる勇気を持とう」ー菊地大司教の聖霊降臨の主日の言葉

2023年5月27日 (土) 週刊大司教第126回:聖霊降臨

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   28日は聖霊聖霊降臨の主日です。

   教会の誕生日とも言うべきこの日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後から教区合同堅信式を執り行います。昨年までは、様々な制限を設けたり、開催できなかったりのことが続きましたが、今年は新型コロナ大感染前と同様に、教区内のいくつかの小教区からの受堅者を迎えて行いたいと思います。合計で何名になるのかは、また後ほど報告します。

 堅信を受けるために準備されてきた皆さん、おめでとうございます。また堅信のための学びを導かれた皆さんにも、感謝いたします。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第126回、聖霊降臨の主日のメッセージ原稿です。

【聖霊降臨の主日A 2023年5月28日】

 「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしてください」

 聖霊降臨の主日に、私たちはこの言葉で聖霊の続唱を歌い始めます。続唱には、この聖霊の光が、「恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光」であると記され、その光は「苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め」である、と記しています。

 この三年間の暗闇の体験を振り返る時、まさしく私たちは、苦しみと憂いの中にたたずんでいました。世界を席巻した新型コロナの大感染にも、やっと終わりが見えてきました。新たに道を歩み始めようとする私たちの周りは、グローバル化した利己主義と暴力によって大きく変化してしまいました。新たな歩みを始める今だからこそ、私たちは光である聖霊の照らしを願いたいと思います。

 それは、続唱にあるとおり、「あなたの助けがなければ、全てははかなく消えてゆき、誰も清く生きてはゆけない」からに他なりません。今、聖霊の導きが必要です。

 教会は、”シノドスの道”の歩みを通じて、聖霊の導きを識別しようと努めています。

 第二バチカン公会議の「教会憲章」は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は福音の力をもって教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」(4項)とも記し、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」聖霊から迫られている(17項)と記します。

 2021年9月に発表された今回の”シノドスの道”の準備文書も、共に旅を続けることを通じて福音を告げるためには、「聖霊に耳を傾ける必要がある」として、次のように記しています。

 「この問題に共に取り組むためには、聖霊に耳を傾けることが必要であり、その聖霊は、風のように『思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない』(ヨハネ福音書3章8節)のです。聖霊が途上で必ず用意してくださる驚きに心を開いていなければなりません。このようにして、ダイナミズムが活性化され、シノドスによる回心の実りの一部を収穫し始めることができ、それが徐々に成熟していくのです」(2)

 教会には聖霊がいつも働いています。あの五旬祭の日の出来事以来、今に至るまで、聖霊は教会に働き続けています。聖霊は常に既成概念を打ち破り、固定観念を打ち砕き、父である神の御旨のままに、様々な方向へと吹き続けています。その息吹に、身を委ねる勇気を持ち続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月27日