・「現代社会で”荒れ野の声”となる務めを自らに再確認する」-菊地大司教、待降節第二主日

2023年12月 9日 (土) 週刊大司教第146回:待降節第二主日B

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待降節の第二主日となりました。

 来週の土曜日には、東京教区に補佐司教が誕生します。ちょうど12月14日と15日には全国の司教が集まっての司教総会と研修会が東京で開催されますので、その翌日となる司教叙階式には、全国の司教様方が参加してくださる予定です。アンドレア・レンボ司教様のこれ方の働きのために、お祈りをお願いいたします。

 今後、私とアンドレア司教様とで行事などは分担していくことになります。その意味で、私にとっては、これまでしばしばあった、午前と午後の堅信式のダブルヘッダーはなくせるかと期待しています。

 なお東京教区の小教区にあっては、基本的に小教区からのリクエストに応じて訪問のスケジュールを組んでいきますので、主任司祭と小教区の役員の方などと相談の上、主任司祭から教区本部の司教秘書にご相談いただきますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第146回、待降節第二主日のメッセージ原稿です。

待降節第二主日B 2023年12月10日

 いまこの世界に、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と声をあげる預言者は存在しているでしょうか。世界を支配する神の招きに応え、神が与える使命に徹底的に生きる存在はどこにあるのでしょうか。

 教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」の終わりに、「教会が目指しているのは、地上の権力者に対抗することではなく、むしろ『現代世界へ、信仰、希望、愛をあかしするために・・・開かれた、これこそが教会である家庭の中の家庭』として自らを示すことです」と記しています。(276項)

 その上で教皇は、「私たちは、仕える教会、家から出て行く、聖堂から出て行く、香部屋から出て行く教会になりたいのです。いのちに寄り添い、希望を支え、一致のしるしとなるために、橋を架け、壁を壊し、和解の種をまくためにです」と、教会が現代社会にあって、福音を目に見える形であかしすることの重要性を強調されています。

 教会は神の民であるとする第二バチカン公会議の教会憲章は、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、特に信仰と愛の生活を通してキリストについて生きた証しを広め、賛美の供え物、すなわち神の名を称える唇の果実を神に捧げることによって行われる(12)」としるし、現代社会にあって、教会が預言者的役割を果たしていくことの必然性を記しています。そして私たちは、その神の民を形作る一員です。私たち一人ひとりには、洗礼者ヨハネに倣って、荒れ野で声を上げる務めがあります。

 教皇フランシスコは、聖性の道への招きは、特別な人だけへの呼びかけではなくすべてのキリスト者に向けられた呼びかけであることを強調されますが、同時に「教会が必要とするのは・・・まことの命を伝えることに燃えて献身する、熱い宣教者だ(138項)」と記して、司祭や修道者の聖性の模範が信徒に先立つものとして、重要であることも指摘されています。

 教会は、聖性の道を歩む模範となる司祭や修道者を必要としています。洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げて証しするリーダーとしての司祭や修道者が必要です。

 私たちは現代社会にあって、荒れ野の声となる務めを自らに再確認すると共に、率先して神の民を率いる司祭・修道者が誕生するように、祈り続けていきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年12月9日