・「皆に仕える者として、歩みを共にする牧者であるように」ー東京教区でレンボ補佐司教叙階式

2023年12月16日 (土)菊地東京大司教の「週刊大司教」第147回:待降節第三主日B

 12月16日はアンドレア司教様の司教叙階記念日となりましたが、同時に私自身にとっても、2017年に東京大司教として着座した記念日です。どうか、わたしたち東京教区の司教がふさわしく務めを果たすことができるよう、お祈りくださいますようにお願いいたします。

(菊地功・東京大司教)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第147回、待降節第三主日メッセージ原稿です。

待降節第三主日B 2023年12月17日

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む準備の時期に当てられます。主の降誕の出来事を黙想するとき、どうしても私たちは、10月頃からはじまった聖地での暴力的な混乱を思わずにはいられません。

今年の10月頃から始まったイスラエルによるガザ攻撃は、「聖地」の現実を象徴しており、それは偶発的出来事ではなく、長い歴史を背負った人類の悲劇の一つであり、いくたびも繰り返されてきた悲劇でもあります。

神の言葉が人となられ、人間の命の尊厳を神があらためて示されたその地において、命を暴力的に奪い合う紛争は、どのような理由があっても正当化することはできません。改めて命を守ることを優先するように呼びかけたいと思います。

聖地の混乱の原因に関して、忘れられない体験があります。カリタスジャパンの視察でエルサレムを初めて訪れた2000年7月末のことでした。イスラエルが管理する西エルサレムで、パレスチナ人の知人が、「是非とも見せたいものがある」と、ある一軒の家に連れて行ってくれました。その家の住人に声をかけるでもなく庭まで入り込み、一本の木を指さし、「この木は、わたしの父親が生まれた記念に、祖父母が植えた木だ。ここは私たちの家だったんだ。1947年以前に戻らない限り、何も解決しない」とつぶやかれました。

1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割を決議し、そして1948年のイスラエル建国、さらにはそれに引き続いた第一次中東戦争。その混乱の中で、当時70万人に及ぶパレスチナ人が住む家を失い難民となったと記録されています。現在のパレスチナ難民の始まりでした。知人の父親もその一人でありました。

イエス・キリストの誕生という命の尊さに思いをはせるこの時期、「聖地」を支配するのが命を奪う暴力であることほど、悲劇的なことはありません。

神の1人子であるイエスは、常に私たちと共におられる神、インマヌエルであります。その共におられるイエスは、神の「ことば」そのものであります。人となられた神のことばは、闇の中を歩む民を照らす希望の光です。生きる希望を生み出す存在です。その光は、神の慈しみそのものでもあります。

福音は、洗礼者ヨハネが、その光の先駆者として、光をあかしするために使わされたと記します。「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫ぶ声であると記します。今こそ、洗礼者ヨハネの存在が必要です。暗闇にあって輝く命の光を証しし、進むべき道を指し示す声となる先駆者ヨハネが必要です。ヨハネは、私たちではないでしょうか。

アンドレア・レンボ司教様叙階式

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 東京教区の補佐司教として教皇様から任命されていたアンドレア・レンボ司教様の司教叙階式は、本日12月16日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。

 叙階式には、日本の司教団全員に加え、姉妹教会であるミャンマーのバモー(Banmaw)教区からレイモンド司教様もおいでくださいました。またイタリアからは、アンドレア司教様のご家族と出身小教区の主任司祭もおいでになりました。

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 アンドレア司教様、おめでとうございます。そしてこれから一緒に働いていきましょう。

 以下、叙階式ミサの説教原稿です。

 アンドレア・レンボ補佐司教様司教叙階式ミサ  東京カテドラル聖マリア大聖堂   2023年12月16日

 「 私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」

 ヨハネ福音に記されたこの主イエスの言葉は、このたび東京教区の補佐司教として任命され、本日司教としての叙階を受けられるアンドレア・レンボ司教様のモットーが取られた言葉です。それは、今の時代を生きるわたしたちすべてが耳を傾けなくてはならない、神ご自身の叫びともいえる願いが込められている言葉です。

 私自身が大司教として東京教区に着座したのは、ちょうど6年前の今日でした。東京都と千葉県を管轄するこの教区には、全体で二千万人を超える方々が居住され、世界各地から来られた外国籍の方も大勢おられます。その中で信徒の数は9万人ほどですから、すなわちまだまだするべきことは数え切れないほどあります。教会として向き合わなくてはならない社会的課題も多々あります。これまでも教区の信徒の皆さん、修道者の皆さん、そして司祭団が、それぞれの場でできる限りのことに挑戦し、福音を証しするための努力を積み重ねてきました。しかし、するべきことはまだ残されています。

 6年の大司教としての務めの中で実感しているのは、信徒のみなさんとともに、修道者のみなさんとともに、そして司祭団と共に、先頭に立って歩みを共にする立場を、一人で背負うには、わたしの力では十分ではないということでありました。東京の大司教として着座してしばらくしてから、その時々の教皇大使を通じて、聖座に補佐司教の任命をお願いして参りましたが、正直に言ってやっとの事で、教皇様からアンドレア・レンボ司教様が任命されました。多くの皆さまに、補佐司教誕生のためにお祈りをお願いしてきたところですが、ふさわしい人物が任命されることになったのも、皆さまのお祈りのおかげです。心から感謝いたします。

 教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「神の民の牧者」の冒頭部分に、「世に向けて希望を告げ知らせることは、すべての司教の務めです」と記しておられます(3)。その上で教皇は、「司教は特別な意味で、希望を預言する者、希望をあかしする者、そして希望に使えるものであることをその務めとしています」と記しています。

 まもなく主の降誕を迎えようと準備を進めるこの待降節に、神の御言葉が人となられ、平和の君が誕生して私たちと共にいてくださり、わたしたちに直接語りかけてくださったその地、すなわち聖地で、いま一体何が起きているでしょう。すでにガザでは二万人に迫るいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。一体どうしたら長年にわたるこの対立が終結し、聖なるこの地に神の平和が訪れるのか、私たちにはその道すら見えません。あたかも聖なる地は、暗闇に包まれているかのようです。

 私たちは、2020年から3年以上にわたって、新型コロナの世界的な大感染の中にあって、いのちの危機を肌で感じました。教皇フランシスコはパンデミックの当初から、互いに連帯し支え合うことがこの危機から抜け出す唯一の道であることを繰り返し述べてこられました。しかしわたしたちの眼前で展開してきたのは、連帯や支え合いではありません。ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争は、未だに終わりが見えません。クーデターが発生したミャンマーは、東京教区の姉妹教会ですが、そのミャンマーでは平和の糸口が見いだせず、この数か月は、平和を求めて声を上げる教会に対して武力を持っての攻撃が起こり、命が危機にさらされています。

 具体的な闘いがなかったとしても、新型コロナの大感染によってもたらされた暗闇の不安や、実際の戦争状態がもたらす大きな不安、さらにはそれに伴う経済の混乱が、多くの人がまず自分の身を守ることを最優先に選択するようにさせています。もちろん自分を守ることは必要ですが、それが、大感染の発生以前から教皇フランシスコが指摘されていた「無関心のグローバル化」と結びついたとき、社会全体を異質な存在を排除する排他的な世界へと変貌させていきました。

 希望はいったいどこにあるのでしょう。神の平和は実現しないのでしょうか。

 教会は今、シノドスの道を歩み続けています。その歩みとは、去る10月の第一会期中にシノドス参加者から教会全体に向けて出された書簡「神の民への手紙」に記されているとおり、「すべての神の民に開かれ、誰一人排除されることなく、聖霊の導きのもと、イエス・キリストに従う宣教する弟子として「ともに旅する」ことへと向かう歩み」であります。そのためにも、共同体の交わりの中で、互いに耳を傾け合うこと、とりわけ、社会全体を支配する大きな声にかき消されそうになる小さな声に耳を傾け、支え、ともに歩もうとすることこそが、命を守る最も大切な道であると、教皇様もしばしば繰り返してこられました。

 教会は、賜物である命を守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす社会の中で、互いの違いを尊重し、弱い存在を支え、支え合いながら、全体として前に向かって歩む教会でありたいと思います。

 第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、世の光、地の塩として、いのちと希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。わたしたちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主とともに歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。

 教皇フランシスコは2019年11月23日夜、東京の教皇庁大使館で私たち日本の司教団と一時を共にされ、このように呼びかけられました

 「司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべての命を守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、私たちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。すべての命を守るとは、まず、じっと見つめる眼差しをもつことです。それによって、神から委ねられたすべての民の命を愛することができ、まさにその民に神から受けた賜物を見いだすのです」

 アンドレア司教様、ともに歩むために、そして神の平和を確立するために、率先して愛を告げる牧者となられますように。支配する者ではなく、皆に仕える者として、歩みを共にする牧者でありますように。声なき声に率先して耳を傾け、社会のただ中で、「希望を預言する者、希望を証しする者、そして希望に仕えるもの」でありますように。

 新しく誕生する司教様の上に、慈しみ深い神様の豊かな祝福と聖霊による導きが常にあるように、皆で共に祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年12月16日