・「自分自身の言葉に責任を持ち、命を生かす言葉を語るものでありたい」菊地大司教の年間第21日メッセージ

2023年8月26日 (土) 週刊大司教第139回:年間第21主日A

En_jpeg_2024_20230824152601 8月も終わりに近づき、そろそろ秋の気配を感じても良い頃なのですが、東京では暑い毎日が続いています。

 先日、「統合」が発表された大阪高松大司教区では、これまでの大阪教区と高松教区とは異なる、全く新しい教区が誕生することになるので、その初代の教区司教である前田枢機卿様も、同様に改めて新しい教区の大司教として、着座をしなくてはなりません。先日発表がありましたが、10月9日の月曜日午後1時から大阪カテドラル聖マリア大聖堂で、新しい大司教区の設立式と、前田枢機卿様の着座式が行われることになりました。また教区の本部は玉造に、大阪高松大司教区の司教座聖堂は大阪カテドラル聖マリア大聖堂(玉造)となることが発表されています。

 ちょうど私自身は、シノドスに参加するため10月はローマに滞在中のため参加することができませんが、どうか新しい大阪高松大司教区のために、皆様のお祈りをお願いいたします。

 8月18日の夕方6時から2時間ほど、オンラインでそのシノドスの打ち合わせのミーティングが行われました。ミーティングはバチカンのシノドス事務局が主催し、それぞれの大陸別で行われています。アフリカなどは、三日間の実際の集まりを行ったと聞きましたが、アジアは、特に南や東南アジア諸国では休みの季節ではなく、普通の日なので、オンラインで行うことを求めて、結局この日だけになりました。

 シノドスの作業文書の後半には、三つの優先事項と、それぞれの課題が記してありますが、10月のローマでの会議では、参加者全員をこのテーマと課題と言語別に15人ほどずつのグループに分け、基本的にグループでの分かち合いを中心に行うことが示されました。また今回の参加者が、そのまま、来年10月に行われる第二会期にも参加するように求められました。さらに、通常のこれまでのシノドスのように、各国からの報告などは特に行われない模様で、事前に司教協議会からの発表を用意していく必要もない模様です。

 アジアからは参加する枢機卿や司教を始め、司祭、修道者、信徒の参加者も含め、40名以上が参加。その中には、私を含め、日本から3名が参加しました。

 どのような実りが10月の会議から生まれてくるのか想像もつきませんが、聖霊の導きに任せながら、互いに耳を傾け、識別することができればと思います。

 なお先日20日の聖書と典礼の7ページ目に、シノドスについての私のコラムがありますが、そのタイトルがちょっと誤解を招くものになっていたので、訂正しておきます。タイトルは「シノドスの道を歩む教会のゴール」となっています。あながち間違いではないのですが、これだと教会そのものにゴールがあるように読めてしまいます。ゴールは「シノドスのゴール」です。そして本文を読んでいただければ分かるように、ローマで開催される会議が今回のシノドスのゴールなのではなくて、実はゴールは存在しておらず、教会が教会として存在するための姿勢を身につけることを目指してこれからも歩み続けなくてはならないことを記してあります。

 今回のシノドスはこれまでと違い、何かつかみ所がないプロセスのため、様々な憶測を呼んでいます。批判も多く聞こえてきます。しかし、これからの教会の歩みを定める重要な機会である、と感じています。どうか、改めて、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

 以下、26日午後6時配信、週刊大司教第139回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

【年間第21主日A 2023年8月27日)

「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と弟子たちに迫るイエスの言葉は、私たち1人ひとりへの問いかけでもあります。

「あなた自身は私のことをどう考え、どう判断しているのか。自分自身の決断をここで明確にしろ」と、イエスは迫ってこられます。そしてそれは、今の時代に生きている私たちだからこそ、真摯に応えなくてはならない問いかけです。

なぜでしょうか。それは私たちが、あふれんばかりの情報の渦に取り囲まれて生活を営んでいるからに他なりません。いまや分からないことがあれば、ネット上でいくらでも簡単に答えを見い出すことができます。信仰についででさえも、ネット上で問いかければ、誰かが即座に分かりやすい答えを提供してくれる時代です。

そんな時代にイエスは、「あなた方は私を何者だというのか」と問いかけます。つまり、「あふれかえっている情報のどこに、何が述べられていたのかを知りたい」と言っておられるのではないのです。「真偽すら分からない、どこかの誰かが教えてくれた、簡単に理解できる情報」ではなくて、「お前自身は、どう考えるのか」とイエスは迫ります。

「どこかの誰か」が解説してくれる分かりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その言葉に直接耳を傾け、具体的に、個人的に、イエスと出会う中で見い出した「私のイエス」について語るように求めておられるのです。「うわさ話のイエス」ではなくて、「今、そこに生きておられるイエス」について語ることを求めているのです。

私たちがこのあふれんばかりの情報の渦の中で見聞きしていることは何でしょう。無責任な情報の垂れ流しは、前向きな命を生きる力を生み出すよりも、命に対する攻撃や差別を生み出す負の力をより強く持っています。いや、実際に命を奪ってしまうほどの、暴力的な負の力をもって、私たちを、命の尊厳を、軽んじる暗闇に引きずり込もうとしています。

私たちは、自分自身の言葉に責任を持って、命を生かす言葉を語るものでありたいと思います。

命を育む真理の物語は、「どこかの誰かの人間的知恵」から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち「人となられた神の言葉である主イエス」から生み出されます。主の語る言葉を、私たち自身の言葉として語り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年8月26日